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「質問」を質(ただ)す

2011-11-21
 研究学会とは、発表者が提示した内容に関して、直接的にライブで議論ができる場である。書物を読んでいて疑問が浮上することもあるが、それは時間や場をおかなければ質問をすることはできない。Web上であれば、即座にコメントを発信することは可能だが、やはり情報の発表者からの反応をしばらく待たねばなるまい。
 2日間の研究発表を終えて、最後に学会事務局や会場校担当の先生から提供された「質問に対する要望」は、実に的を得た内容であった。「限られた質問時間(15分)の中で、多くの方が質問できるよう、適切で焦点を絞った内容を発言すること。」「発表者の(提供した内容について)土俵の中で質問すること。」「節度のある質問をすること。」などである。確かに、これまでの年月で学会の場を経験した中では、「節度」を失った質問場面に遭遇したことも多々あった。問い掛けの発言自体がかなり冗長であったり、発表外における自分の研究の範囲を、強引に投げつけるような「質問」である。ライブでやりとりできる場というものが、空洞化したことばで埋め尽くされ貴重な時間は浪費される結果となるのだ。研究者として議論のあり方について、更に自覚的になるべきだという提言には大きく肯くものがあった。

 2日間で14本の発表を聴いていて、気になったこともある。発表者側が「質問」を受けた際の答弁で、「お答えになってますでしょうか?」と添える場合である。全国レベルの学会で発表したことのある小生の経験からしても、その気持ちは分からないでもないが、「質問」に対する姿勢としては、聊か失礼なのではないかと感じた。「質問」に対しては、全力で答えをすべきで(もちろん、このような発言をする方も、全力で答えているのは理解する)、「答えになるように」努めるべきである。それが議論の基本的な姿勢ではないだろうか。


 世界的な舞台において、“議論下手”だと評される日本人。幼少の頃からの教育で、真っ当な議論の方法や実践を学ばずに大人になる。政治家や官僚の答弁を聞いていても、「質問」に対して、むしろ“ズラす”“はぐらかす”態度に長けてしまい、意識無意識はともかく「質問」の答えになっていない議論が多発する。国会の場などでは、“噛み合わない”議論に持ち込むことこそ官僚たる存在価値であるかのようである。国政の場が、この醜態である。
 だがしかし、学問を正面から取り組む研究学会の場では、適切な「質問」姿勢を確立すべきだと思う。“ことば”のスペシャリストである「文学・語学」系の学会であれば尚更、そのライブ的議論の場において、自ら“プロ”たる矜持をもって適切な「質問」しなければならないと改めて自覚した。

 そんなことを考えながら、この日の午後の発表に対して1つの質問を実践した。

 発表会の後、質問を投げ掛けた先生と、また別な角度から質問した先生と、学問的“談笑”をしながら地下鉄で名古屋駅へ向かった。「質問」は、自分の問題意識をも確実に耕してくれる。そしてまた、こうした先生方とのコミュニケーションを活性化させるのである。


 「文学」にどう向き合うか?そんな素朴な疑問を、自らに対して適切に「質問」するという自問自答が繰り返された、有意義な2日間であった。
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