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藤原新也さん「身を削って行為すること」~私たちが歩んできた道

2011-11-30
 藤原新也さんの「書行無常展」が27日で閉幕した。最終日にはトークイベントではなく、藤原さんご自身による「書行」が行われたという。その様子は展覧会HPで一部を見ることができるが、そこに示された言葉があった。


「表現者は
身を削って行為することで
起死回生を得、
はじめてあらたな視座に立てる…」


 今月13日にこの展覧会を目の当たりにしてトークショーにも参加して以来、藤原さんという人間存在の大きさと豊かさと芯の通った発言に心を揺さぶられている。閉幕に当たりまた「身を削って行為することで 起死回生を得」という一節を、どう自分なりに解釈しようかという衝動がやまない。そして、その解釈に一定の道筋を付けるには、藤原さんのこれまでの歩んだ道を再訪してみる必要性を感じ、『東京漂流』(朝日文庫)の頁を繰ったのである。

 そこには80年代日本社会という土壌の内部を抉る、東洋放浪から帰朝した藤原新也の感性がしたためられている。その視点は、未だに過去のものではなく、むしろ先鋭的に現在の日本社会を照らしているような言葉に多く出逢う。80年代に漠然と感じていた社会不安に根ざした風潮は、更に頽廃的・構造的に土壌に浸み込み、この2010年代の社会背景として巣食っている。「身を削る」に至った藤原新也の想いは、私たちが歩んできた道そのものを斬新に炙り出すのである。


 ここで、『東京漂流』の一節を引用しておこう。


「 「六〇年代以降の社会がなぜ、人間を管理し、汚物異物や前近代的な人間の生活を排除していったのか」
 という設問だった。その設問に対して私は次のような考えを持った。
 能率と生産と拡大を至上価値とする現代型コマーシャリズムは、人間と人間生活を生産のための一つの機能としてとらえた。
生産効率を上げるためには人間を一つの部品、あるいは記号として管理操作するほうが都合がよい。
 また能率を妨げる「人間的なる感情や行為」は生産性の邪魔になる。
 さらに日本文化の持つ、前近代的な人間関係や社会構造も能率の妨げとなる。
  つまり生産性と拡大と能率のために無駄であったり邪魔であると考えられる、世界存在の構成要素のネガティブな部分を汚物異物としてとらえ、排除する性向をコマーシャリズムは宿命として持っているのである。」
(332頁~333頁)


今や「人間管理」と「汚物異物排除」は、一体となって一般社会はおろか子供たちの棲む教育の世界をも席巻し、様々な事象となって表面化してきた。2000年代に入ってからの年間自殺者3万人超というデータは、明らかにこの風潮の構造的な浸透を物語る。

 藤原さんはまた、こうした80年代の「精神と肉体の浄化装置」として、三つの密室「カラオケ」「プロレス」「マンザイ」と三つの善行「憲法愛読」「反核運動」「ボランティア」を挙げる。「管理社会において部品化された」身体における主役願望を叶える装置としての「カラオケ」。「悪」に立ち向かう「善」に自己投影する「プロレス」。「世間のまやかしの構造を解体してみせる」が如く「本音」を提供する快感を達成する「マンザイ」。同時に、自己の抑圧を解放する手段として善行を行わなければならないという欺瞞に満ちた行為。
 だがしかし、そこから20年ほどの時間進行の中で、いずれもその質が極度に低下し自己浄化にもなり得ない様相を呈し始めたのが2000年代ということになろう。三つの密室は、いずれも矮小化し分散し自己の殻の中で完結する更なる密閉性を持ってしまった。三つの善行は形式化し通例となり真意ではなく流れに依存した他人任せの慈善として、世間のどこにもでも意志なく存在するようになってしまった。


 そんな2010年代初頭の日本に対して、“東日本大震災”が激しく「無常」を叩きつけてきたのである。


 だが、考えてみれば3月~5月頃の世情を経て夏を過ぎれば、その地震・大津波が殴打した大きな傷跡の腫れが引いてしまったかのように、再び“進化”した密室性と“根拠”のない善行のみが漂っている社会が厳然として立っているではないか。これはもう、藤原新也さんが「身を削る」と言うしかない社会が、優等生面(づら)をして足腰を弱体化させながら背骨のない母体に向かって侍立している様相としか思えなくなるのである。
 被災した方々からすれば、小欄の言葉自体が欺瞞に満ち溢れているかもしれない。だが、少なくとも3月に多くの人々が心の中で「世界観が変わった」に類似した叫びを体感したはずなのである。その「変わった」は既に終わるはずもなく今後に連なり、日々の行動を変え、生き方を変えることを私たちに求めているのではないかと痛感するのである。



 地下鉄のエスカレーターを、あたかも平穏に自らは静止しつつ上り下りする社会人・学生の姿を見て、敢えて誰も使用していない階段を駆け上がる衝動が抑えられなくなった。他愛もない「身を削る」所業。

 生き方を見つめ直す歳が、最後の1カ月を迎えようとしている。
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店先での笑顔と会話

2011-11-29
 日常的にスーパー以外の店で買い物をすることがあるだろうか?大抵の商品はスーパーかコンビニというご時世。陳列された商品を自分勝手に選別し、籠に放り込みレジ精算の列に並び金を払って、自らポリ袋か持参したバックに入れて帰宅する。レジの店員に「袋は要りません」などと言うと「ご協力ありがとうございます」という無機質なマニュアル通りの返答の言葉を受け、「何円お預かりします」「何円のお返しです。ありがとうございました」と型にはまった言葉のやりとりのみに終始する。場合によると“買い物袋不要カード”がレジ前に置いてあって、それを提示すれば「袋は要りません」という言葉も不要になる。実に機械的で型どおりの人間同士のコミュニケーションが剥奪された買い物を繰り返すのが常だ。
 それでも時折、顔を覚えてくれている主任クラスのレジ係の女性などは、(「袋は要りません」という言葉に対して)「いつもありがとうございます」などと発しながら、この「この種類の豆乳は美味しいと評判です。」などとコメントしてくれて、小さなコミュニケーションが成立する。スーパーにも常連客となれる人間的な要素が潜んでいたかと安堵感をもつ瞬間でもある。

それほど買い物は、個人的に閉塞した空間で実行するものになってしまった。


 そんな状態を少しでも回避しようと思い、いくつか地域の商店を積極的に利用している。1軒は酒屋さんでもう1軒は豆腐屋さんである。この日も、夕方になってやや気分が滅入っていたのだが、豆腐屋さんに行っておばちゃんと会話をしているうちに、自然と心が解放されて気分が復活してきた。

 「寒くなってきましたね。」
 「あらっ、そう?お店の中にいるからあまりわからなかったわ。」
 「いや~陽が沈むと一気に寒いですよ」
 「そう、風邪ひかないようにね」
 「僕は、風邪を滅多にひきませんから」
 「あっそう、健康なのね」
 「定期的に運動しているので」
 「それは大事よね。」
 「でも、それ以上に豆腐を定期的に食べているからですよ。この(豆腐を入れてくれた)袋に豆腐は栄養食と書いてあるでしょ」
 「(優しい笑顔で)ああ、そうだわよね~」
 「先日、日常の食事について取材を受けたんです。記事が出たらまたお知らせしますよ」
 「えっ!何に出るの?」
 「NG紙です」
 「あっ、うち読んでるから」
 「まだ先だと思いますが、出たらまた声掛けますね」
 「ありがとう!」


 などと数分の会話が進行し、帰路には笑顔に変わっていることが自覚できた。

 買い物は、人間的なコミュニケーションの場であったが、それは過去のもの。下町育ちの小生には、それが幼少時には当然であった。むしろ母親の店頭でのお喋りが長過ぎて気を揉んだものだ。だがしかし、冒頭に書いたような“個人”消費の時代。アメリカでは、確かレジに店員さえおらず、個人で精算しカードで支払うシステムも導入されつつあったように記憶する。
 “地域社会の活性化”などというお題目がよく聞こえてくるが、この30年間ぐらいで商店と地域住民の関係を尽く社会が制度的に破壊して来たのである。希少な個人商店は経営的に厳しい状況に陥りながらも、なお主義主張を通して生き長らえている状況だ。こうしたコミュニケーションの存在する商店を守るには、自らが足繁く通い、そしてコミュニケーションを厭わないことである。
 ただ小欄でも「豆腐屋のおばちゃん」と表現したように、こうした個人商店は高齢化が進んでいる。今後、その店を存続する後継ぎが難しい状況であることも事実である。地域をどう守るかというより、地域をどのように新しくするかが課題であるようにも思う。

 大切なものを失って来たということに自覚がない社会は、更に恐ろしい。

 わずか2軒であるが、自宅近くの酒屋さんと豆腐屋さんの存在を大切にしたいと改めて思った夕暮れ時であった。
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yesterday~それがあっての今日~作・演出TARAKO

2011-11-28
 yesterday昨日に戻れたなら、どのように行動を変えるだろう?やるせない後悔を胸に、こうしておけばよかったという思いを晴らすかのようにやり直すのだろうか。たとえ行動を変えたとしても、運命は変わらない・・・・・後悔はただある時間の一点に楔を打たれてもがく心の姿・・・・・。



 「『今日』は、
『明日』にとっての『昨日』。
物語の中で、昨日に戻った登場人物たちは、その一日を・・・・・。

 もし今の、この瞬間が、
 未来から戻って来ることの出来た、
 特別な一日だとしたら・・・。」
 (パンフ掲載:柳沢三千代さんの“ごあいさつ”より)



懇意にしている小料理屋店主の誘いで、常連客のTARAKOさん「作・演出」の芝居を“赤坂RED/THEATER”へ観に行った。彼女自身も“バカボン”に扮しコミカルに登場する場面もあったが、全体としてTARAKOさんの「今日」への想いが「yesterday」との対比で鮮明に描かれている芝居であった。
 付き合っている彼女が妊娠を報告した際に発した取り返しのつかない言葉を巡る、どうしようもないチャラ男の再生物語。強盗にあって刺殺される運命から「昨日」に戻った男(役:木原実さん)が、強盗犯が刺殺を止めようとした自分の彼女までも殺してしまう状況を回避しようと事を運ぼうとする人情物語。事故で妻と娘を失った中年男が、代替としてロボット妻・娘を購入するが、その態度に幻滅し返品しようとする際に、「昨日」に戻った妻と娘が自分の為だけに行動していたことを知って代替の効かない愛情を悟る物語。そんな三篇の物語が交錯しつつ、「今日」は「明日」にとっての「昨日」というテーマに収束すべく、命とは何か、生きるとは何かという主題を投げ掛けてくる。そんな中で、過ぎた日は戻らず来たるべき日は予測がつかないという人間の“現実”が炙り出される。

TARAKOさんが、パンフに書いていた“あいさつ”文には次のようにあった。

「うちには5にゃんのねこがいるのですが、「そこにいるだけでいいからね」と、毎日彼らに言っています。」
「生きていることに理由を求めないこの子たちが、私がこれからも生きていく理由です。」

 昨日・今日・明日

 過去・現在・未来


そんな切れ目のない繰り返しの中で、人は常に「今日」たる「現在」に身を置きながら、「昨日」を悔やみ楽しみ惜しみ興じる。そしてまた「明日」を憂い望み痛み想う。



誰もが命の大切さと、取り返しのつかない時間を経験した今年にあってTARAKOさんのメッセージは心に響いてくる。“ちびまる子ちゃん”の声があまりにも世間的に有名になってはいるが、声優のみならず自らの哲学を芝居として世間に呈する彼女の活動。終演後に直接ご挨拶をして見上げた彼女の瞳にそんな情熱を見る思いがした。


どんなに後悔しようとも、
どんなに期待しようとも、
人はただ“今”を繰り返していくしかないのである。
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佐宮圭氏の歩んだ10年

2011-11-27
みなさんは、この10年をどのように生きてきましたか?

この10年は自分にとって何をしてきたか?最終的にはそんな感情が胸に突き付けられた思いになった。深夜に及ぶ人々との交流。他者の人生を鏡としていると、自分の人生も映し出されてくる。そして話題の中にもまた、ある人物の人生が鮮烈に浮かび上がる。

 昨年、第17回小学館ノンフィクション大賞優秀賞に輝いた作家・佐宮圭氏の著書『さわり』(小学館刊)の出版を祝うパーティーに出席した。懇意にするワインバーで、かねてから何度も会話してきた佐宮氏。初対面の時から、その鮮烈に人の内部を洞察するような活力ある会話に人間的な魅力を感じていた。フリーランスライターとして、様々な取材を繰り返して来た年輪が、彼の全身から放たれている印象である。

 今回、出版された『さわり』が完成するまでには、概ね10年ほどの時間を要しているという。「鶴田錦史」という天才琵琶師の生涯について、その様々な謎に迫る力作である。琵琶師という存在自体が、大きく退潮する社会的流れの中で、世界的な場で演奏を行い高い評価を受けた「鶴田錦史」の生涯を書き留めることには、大きな歴史的意義もある。それだけに、取材・執筆・編集の各段階において、様々な苦労があったことを佐宮氏は語った。たぶん、彼自身が伝えてくれた言葉だけでは、語り尽くせない紆余曲折があったのだろうと、更に小生の中での想像が羽を伸ばす。苦節10年という時間の中で生成された作品には、単に書店で手に取っただけではわからない思いと重みがあることを知る。


 自分自身の研究テーマにおいても、古典芸能や音声表現の問題と様々な観点からリンクするこの著作。パーティーの途中で寒空を見上げつつ店の軒先で佐宮氏と2人、著書の核心部分と小生の研究との関連を語った時間は貴重であった。

 そんな思いを胸に、佐宮氏の著作については改めて小欄において「音声表現」などの観点も踏まえて十分に紹介したい。

 まずはこの作品を一人でも多くの方に知ってもらいたい。

佐宮圭『さわり』(小学館)




ノンフィクションによって炙り出される天才琵琶師の生涯。

それを執筆した、佐宮氏の生き様。

帰宅して独りになれば、自分自身のこの10年の歩みを振り返りながら、深夜の床に就いた。
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30%に何を見るかー無常なる国土

2011-11-26
 “M9級「30年以内に30%」”の新聞見出し。三陸沖北部から房総沖の日本海溝寄りで起こる地震の政府予測(地震調査研究推進本部)だという。明日の天気ならばまだしも、30年以内という期間の地震確率を提示されても、どうもピンとこない。ただ何も予知しないのであれば、それはそれで批判の対象となってしまうのであろう。今回の東日本大震災の発生を想定できなかったことをうけて、「将来起きる地震の規模や発生確率の評価手法、発表の方法について見直しを進めている。」のだという。
 「30%」の確率を提示されて、我々は何をしたらいいのだろうか?明日の降水確率が50%などと言われれば、折り畳み傘を携行しようという対策を採れる。降雨確率の場合に30%というのは、「たぶん降らないだろう」と楽観視してしまいそうな数値だ。だがしかし単なる降雨と違い、“M9級”という巨大な力が人間を嘲笑うかのように発生することに対して、「30%」の確率は重いと感じざるを得ない。ましてや、東海から四国沖の“東海トラフ”での地震は、「30年以内に87%」というのだから尋常ではない。

 馴染みの洋食屋さんに来る常連客である90歳の老人は、「今回の東日本大震災で、大きな地震を3回経験した。」と語った。紛れもなく、“関東大震災”“阪神淡路大震災”“東日本大震災”である。もちろん、その他にも“中越地震”や“新潟地震”、“奥尻沖”に“十勝”と小生が知るか名を聞いたことがあるだけでも、地震は数えきれないほどである。老人のように90年間という生涯の中で、地震に遭遇する確率は極めて高い。あとはどこに居住しているかという運命だけが、被災の如何を左右することになる。とりわけ、“関東大震災”を体験し逃れた90歳老人の言葉は重い。

 平穏で発展のみが繰り返されると信じて願う日々を送る我々。しかし、日本の長い歴史を振り返ってみれば、それは混乱と天災の渦中から平和を取り戻す歴史であるといってもよい。中世における不安の乱世で語られた「無常観」こそ、この国土で生きるための基本的な自覚ではなかったのか。兼行法師が『徒然草』に「世は定めなきこそ、いみじけれ。」といって自然は常に変転する美を呈しているとする。『平家物語』の語り手は、冒頭で「驕れるものも久しからず。ただ春の夜の夢の如し。」と説く。鴨長明は『方丈記』で、「よどみにうかぶうたかた(水の泡)は、かつ消えかつ結びて、久しくとどまりたるためしなし。世の中の人とすみかとまたかくのごとし。」として、飢饉・遷都・災害(辻風・大地震など)の記事を載せる。中世の人々には、このような「無常の自覚」があったのである。


 30%の確率なら残り70%に望みを託すといった無根拠で無益な思索を巡らすよりも、今の日本人が見直すべきは「無常観」ではないだろうか。様々な復興を繰り返して来た記憶のある国土において、なぜか変転することを忌避する脆弱な観念がまかり通るようになってしまった。高度経済成長がもたらした遺産である、新卒一括採用とその延長線上の終身雇用。一定の線路の上を当たり障りなく歩く人生観が繁殖したことで、現実逃避の“安泰神話”が信仰されてきた。そこに“無常なる国土”に住んでいるという自覚は薄れ、金銭で“安全”は買えるという幻想にのみ依存した人々が足掻くのである。


 もちろん小生もその一人と自覚せねばなるまい。

 当てにもならない予測確率を不安視しているよりも、この“無常なる国土”で日本人としてどう生きるかを求める動きを活性化させるべきではないか。

 東日本大震災から時間が経つにつれて、全てが過去の事のように扱われる風潮を懸念する。

 これは、この国土に住む以上、常に“今”の問題なのだ。
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「荒川放水路」という違和感

2011-11-25
 小学校の時に学習していて、理由などわからないが違和感を覚えることが多々あったと記憶している。学年を追うごとに街から区へ、そして東京から日本全国と広がる社会科の時間は特に興味が深く、何かが紹介されると疑問ばかりが浮かんでいた思い出がある。校外授業として社会科見学も毎年1回は実施されていたが、その際に社会観が拡がる感覚を得るとともに、「なぜ?どうして?」という疑問が常に湧き出していた。

 東京都の東部を流れる「荒川」、実は「荒川放水路」が正式な名称だ。この日に視たNHK「ブラタモリ」でその歴史が解説されていたが、番組を追うごとに小学生の時の記憶が蘇った。現在の隅田川・中川・江戸川が旧来からの江戸・東京に流れる自然の河川。下町が常に洪水に悩まされていたことへの対策として、上流から隅田川へと流入する大量の水を「放水路」として東京湾まで運ぶのが、現「荒川」の役目である。よって、過去には隅田川のことを「荒川」と呼んでいた時期もあるという。
 その「放水路」という名称が、小学生の時には妙な違和感があった。「川は川であるはずなのに、なぜ放水“路”なのか?」などと先生に尋ねたりした。「ブラタモリ」での解説でも示されていたが、自然の川は蛇行するのに対して、現「荒川」は直線的で川幅も広い。人工的に掘削された河川ゆえに、もともとは住宅や寺社があり、その土地は今や川底になっているという。ということはまさに過剰な水量の放“水路”であるというわけである。今にして考えれば、「川は自然物」だと思い込んでいた感覚が、「放水路」という言葉で砕かれた経験であった。

 北区赤羽にある「岩渕水門」には社会科見学で行って、確か絵も写生した。そこがまさに「荒川放水路」と隅田川の分水地点である。水門周辺で絵を描き、お弁当を食べるという光景は、今考えればのどかなものだ。東京都北区は、その台地沿いに京浜東北線が走っているが、そこが古代には海と陸地の境目でもある。現に尾久にある旧国鉄操車場の一部から貝塚が出土した際は、現地まで見に行った。左手に断崖、右手に開けた土地を見ながら京浜東北線は田端・上中里・王子・赤羽と北上し、最後には一本の旧「荒川」を越える。その地形のあり方に、「荒川放水路」が関係していた訳である。
 「荒川放水路」の近くには、祖父母の家があって幼少の頃からよく遊びに行った。その際に必ず「隅田川」と「荒川」を越える。当時は、公害で汚染されて嫌な臭気を放っていたが、次第に美しさを取り戻してきた。中学時代に野球をやっていた際には、河川のグランドで試合をしたこともあり、練習のない日には、自ら「荒川」土手をランニングした経験もある。そんな「荒川」の歴史をこうして番組で新たに見るのは、個人的にたいそう感慨深い。

 「ブラタモリ」という番組の企画自体や、タモリさんのちょっとした物事の捉え方における感性には、大変惹き付けられるものがある。更には、たいていこの番組で紹介する東京下町の風景は、自分の幼少期の記憶を発掘する材料が満載なのである。たぶん、他の視聴者の方以上の、個人的な楽しみ方ができていると思う。
 タモリさんのいう「土地の記憶」。それは土地を人間が記憶しているというよりは、土地自体が、その歴史を背負いつつ変遷をする中で、何らかの普遍的な背景を含みこんでいるという感覚。せめて自分の居住する場所の「土地の記憶」ぐらいは、自覚しておきたいと思う。


 違和感から何かが芽生える。
自らの経験に刻み込まれた、東京下町「土地の記憶」。
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心根を見て付き合える人

2011-11-24
 人間関係はいつの世も複雑である。意気投合したかと思うと、実は利害関係に満ちた間柄であることが、些細なことで浮上してくることもある。どんなに親友だと思っていても、旅などで全ての行動を共にすると必ず感覚の違いに戸惑い、お互い反発する結果になることもしばしば。なかなか人は心根を全開で付き合うことは、難しいのかもしれない。

 そうした中であるからこそ、心根を見て付き合える人というのは貴重である。社会的立場や生活環境が変化しても、その人の持つ正直な心根を露呈して、またこちら側の心根を見つめてくれる人というのは、真の親友であり師であると言える。純粋な気持ちで仕事に取り組みだした20代の頃に、そんな心根での付き合いをしてくれた師と親友がいるのを再確認することがある。

 その師とは、同じ職場ではなく共通した活動を通じて出会った。当初からベテランの域に達した芯のある人物であった。新米であった小生に、活き活きとした行動力と反骨精神を自らの行動で示してくれた。その行動力に引き寄せられるように、小生も行動を共にした。時に型破りな言動も目立ち、無理を承知で押し通す大胆さがあった。組織の中で管理職となることを拒み、キャリアを通じて現場で活動し続けた。その表裏のない生き方そのもので、小生の心根を買ってくれた。ゆえに、今でも“可愛い弟子”と呼んでくれて親しくお付き合いをしてくれている。

 その師と1年に1度会う機会が、この日。80歳代半ばに達しようとする年齢を感じさせないような行動力で、元気に“現場”に足を運んでくれた。お会いすれば、新米で駆け出しだった頃の自分自身の幻影にも出会える。そのただ一直線に走っていた頃の、無邪気とも言える自分自身の心根を反芻でき、年を経て変化した自分の心の眼がそれを観察する。今や様々な道程を経て変化してきた現状に通じる水脈を、辿るような時間が過ごせるのである。

 それにしても師は、小生の心根を見つめてくれている。同じ師を慕う親友共々、師にとって“弟子”と呼べる我々と話せる機会というのは、人生の最上の楽しみだと語る。

 社会・組織・集団の中では、なかなか心根を見つめ合う人と出会うのは難しい。自己利欲だけが先行する社会風潮の中で、その傾向は加速している。

 ゆえに師と呼べる人物がいるのは貴重だ。
 会えば純粋に心が安らぐ、そんな人物はそれほど多くは存在しない。
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浪費文明の自覚

2011-11-23
 我々は知らず知らずのうちに、物品を浪費している。浪費そのものが生活だと言っても、過言ではないかもしれない。あらゆる消費行動を見廻してみると、たいていいずれかのパターンで浪費に当てはまる場合が多い。

 藤原新也氏『東京漂流』(朝日文庫)に示された「浪費文明」の「十戒」を引く。

 1 捨てさせる
 2 無駄使いさせる
 3 贈り物にさせる
 4 蓄えさせる
 5 抱き合わせ商品にする
 6 きっかけを与える
 7 単能化させる
 8 セカンドとしてもたせる
 9 予備をもたせる
 10 旧式にさせる

(*V・バッカード著『浪費をつくり出す人々』を出典に、石川弘義著『欲望の戦後史』に引用されたもの。)

 「1960年代前夜に布告された十戒は、二十年を経た現在色あせていないばかりか、」と藤原氏はしているが、もちろん80年代から30年を経た今もなお、更なる猛威をふるいながら我々の生活に現存している。それはまた、現存しているというよりはむしろ、生まれてこの方、こうした「浪費文明」の中だけを生きて来たと言った方が正しいかもしれない。上記の「十戒」をご覧になり、具体的にどんな物のことを言っているか思い浮かぶであろうか?思い浮かぶ方なら、まだ自覚的に「浪費」していることになるが、そうでなければ無意識下で、「浪費」を促進していることになる。

 PCや携帯が生活“必需品”となってもはや20年近い歳月が経過しただろうか。その機械自体が、「浪費文明」の先鋭的な機能を満載して我々の生活を侵食してきた。日々、「更新」をしなければならない“不安”を煽り、「今なら安い」と喧伝し、多彩なオプションがあたかも自然に追加されるように仕組まれ、数年という期間で旧式になり機能低下が顕著になるような“時限機能”が構造的に埋め込まれている。
 かくいう小生も、引き出しを開ければ、過去の携帯が数台は確実に顔を覗かせる。PCにおいては、丁度3年目に“時限爆弾”が炸裂するかのように突如として使用不能になった経験もある。データを含有しているということもあり、捨てるに捨てられないPCが埃をかぶりつつ、使用していた頃の幻影を引き摺りながらクローゼット内に丁寧に保管されている。あたかもそれは廃棄処理ができない燃料のように、それなりのデータや機械的金属を多々含んだまま、何ら機能しないまま都会の闇の中で眠り続ける。PCと携帯の普及は、我々を第3次的な「浪費文明」を推進せざるを得ない状況に追い込んできたのである。

 だが、しかしその生活道具を使用しながら、小欄も構成されている。携帯を機種変更することにも前向きであり、PCは約3年使用すれば“退役”といった感覚で使用しているのが常だ。ただ、少なくともこうしたことに自覚的でありたいなどと、不可避な社会の潮流に身を任せながらも、潮目を読む視点を失いたくはないと悪足掻きをするのだ。時代的な立ち位置と、人間として何が幸福かという視点は、決して失うべきではないと改めて心に刻むのである。

 こうしたことを気付かせてくれる藤原氏の文章は、「浪費」されることなく、年月を経ても色褪せることはない。

 生きるということを改めて問い直せと、その言葉が読む者の心を揺さぶり続けるのである。
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原初的成功体験を遡る

2011-11-22
 今の自分は、何を契機に自分たり得ているのだろうか?何もかもが偶然や成り行きで進んできた訳ではあるまい。きっと何らかの“きっかけ”があって、その道を進んで来たはずである。ただ、それを自覚するか無自覚であるかは別問題として・・・。そんな小さな契機へと遡る会話が花開いた夜。なかなか気分のよい時間が過ぎて行った。

 友人の編集者と何カ月ぶりかで会った。5月頃に会って以来であり、その前は大震災直前。その数か月ごとの節目を振り返るだけでも、今年は特に変化の激しい潮流のごとく時間が推移していることが確認できる。更には、友人の知人である編集者を交えて3名で語る夜。舞台は馴染みのワインバーである。

 その中で話題の中心になったのが、今歩んでいる道に至った原初的成功体験である。その体験があったから今があるのか、それとも自分史を恣意的に構築しようとするが為に、やや大仰に歴史的事項として位置づけようとしているのかは定かではない。しかし、学校時代に感想文で表彰されたとか、大勢の前で讃辞を浴びるような成功体験は、確実に自分たちを成長させ、何らかの“契機”になっているのは3人とも共通していた。編集者として意欲的に書籍制作に関わるとか、文学や国語教育を研究するとか、そんな人生の潮流が小さな原初的成功体験から発していることを自覚するのは重要である。

 そしてまた、こうして人と語ることが、自分の記憶の中で眠っていた体験を改めて呼び起こすのである。



 小生の原初的成功体験の数々は、年度内刊行予定である初の単著に書き記したので、小欄で事前に語ることは控えるが、その体験の数々は確実に今に至る道に連なる。


 みなさんも今の自分に至る長い道程の中で、どんな原初的体験があったかを紐解いてみるといい。成功も失敗も含めてそれを発掘することが、より今の自分を深く理解することに繋がるはずである。
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「質問」を質(ただ)す

2011-11-21
 研究学会とは、発表者が提示した内容に関して、直接的にライブで議論ができる場である。書物を読んでいて疑問が浮上することもあるが、それは時間や場をおかなければ質問をすることはできない。Web上であれば、即座にコメントを発信することは可能だが、やはり情報の発表者からの反応をしばらく待たねばなるまい。
 2日間の研究発表を終えて、最後に学会事務局や会場校担当の先生から提供された「質問に対する要望」は、実に的を得た内容であった。「限られた質問時間(15分)の中で、多くの方が質問できるよう、適切で焦点を絞った内容を発言すること。」「発表者の(提供した内容について)土俵の中で質問すること。」「節度のある質問をすること。」などである。確かに、これまでの年月で学会の場を経験した中では、「節度」を失った質問場面に遭遇したことも多々あった。問い掛けの発言自体がかなり冗長であったり、発表外における自分の研究の範囲を、強引に投げつけるような「質問」である。ライブでやりとりできる場というものが、空洞化したことばで埋め尽くされ貴重な時間は浪費される結果となるのだ。研究者として議論のあり方について、更に自覚的になるべきだという提言には大きく肯くものがあった。

 2日間で14本の発表を聴いていて、気になったこともある。発表者側が「質問」を受けた際の答弁で、「お答えになってますでしょうか?」と添える場合である。全国レベルの学会で発表したことのある小生の経験からしても、その気持ちは分からないでもないが、「質問」に対する姿勢としては、聊か失礼なのではないかと感じた。「質問」に対しては、全力で答えをすべきで(もちろん、このような発言をする方も、全力で答えているのは理解する)、「答えになるように」努めるべきである。それが議論の基本的な姿勢ではないだろうか。


 世界的な舞台において、“議論下手”だと評される日本人。幼少の頃からの教育で、真っ当な議論の方法や実践を学ばずに大人になる。政治家や官僚の答弁を聞いていても、「質問」に対して、むしろ“ズラす”“はぐらかす”態度に長けてしまい、意識無意識はともかく「質問」の答えになっていない議論が多発する。国会の場などでは、“噛み合わない”議論に持ち込むことこそ官僚たる存在価値であるかのようである。国政の場が、この醜態である。
 だがしかし、学問を正面から取り組む研究学会の場では、適切な「質問」姿勢を確立すべきだと思う。“ことば”のスペシャリストである「文学・語学」系の学会であれば尚更、そのライブ的議論の場において、自ら“プロ”たる矜持をもって適切な「質問」しなければならないと改めて自覚した。

 そんなことを考えながら、この日の午後の発表に対して1つの質問を実践した。

 発表会の後、質問を投げ掛けた先生と、また別な角度から質問した先生と、学問的“談笑”をしながら地下鉄で名古屋駅へ向かった。「質問」は、自分の問題意識をも確実に耕してくれる。そしてまた、こうした先生方とのコミュニケーションを活性化させるのである。


 「文学」にどう向き合うか?そんな素朴な疑問を、自らに対して適切に「質問」するという自問自答が繰り返された、有意義な2日間であった。
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