古典と近代そして未来
2011-10-31
和歌文学会大会2日目の研究発表会に参加。計6本の発表が行われた。古典が主たる対象とはいえ、様々な時代の「和歌」を様々な研究方法で分析した結果が伝えられていく。聴きながら改めて自己の研究方法や対象について、検討しなければならない点を発見したりもする。学会という場の意義を噛み締めながら。今回は自分が研究対象にしていない発表について、敢えて触れておきたい。
中央大学准教授の名木橋忠大氏が「近代新古今和歌受容の一側面ー立原道造に即してー」と題した発表をされた。近代文学と古典文学をいかに繋ぐかという意味で、聴いていて興味が湧いた。立原道造の「新古今受容」については、次の2つの論点を考えるべきだという。
1、和歌引用によるイメージ増幅の技法
2、一つの語句が橋渡しとなって前後を経絡する手つき
立原道造の和歌引用に関しては、風巻景次郎氏をはじめ先学も指摘するところであるが、それらを踏まえながら近代詩における一つの方法として、更なる深い解析を加えたという点で大変参考になった。しかし、会場での質問にもあったように、「近代が何を古典から獲得したか」「近代とは何か」というような枠組みを示すことを並行して示さないとなかなか研究の立ち位置が見えないのも確かであろう。比較研究を行う際の必然的な両立性を考慮することは、大変難しい課題でもあることを痛感する。
そんなことも考えながら、立原の詩を音読したらどうなるかなどという音声表現の可能性などを頭の中で思いめぐらしていた。音声表現された詩の随所に、新古今的な和歌のエッセンスが顔を覗かせるのであろうかなどと...。
そんな意味で、立原道造の詩を朗読対象としてのリストに入れておくという意味で、小欄にも刻んでおくことにする。
「ひとつのソネット」
ー式子内親王《ほととぎすそのかみやまの》によるNachdichtung
ある日 小鳥をきいたとき
私の胸は ときめいた
耳をひたした沈黙のなかに
なんと優しい笑いの声だ!
にほひのままに 花のいろ
飛び行く雲の ながれかた
指さし 目で追ひー心なく
草のあひだに 憩んで(い)た
思ひきりうつりとして 羽虫の
うなりに耳傾けた 小さい弓を描いて
その歌もやつぱりあの空に消えて行く
消えて行く 雲 おそれ
若さの扉はひらいて(い)た 青い青い
空のいろ 日にかがやいた!
(「ほとゝぎすそのかみ山の旅枕ほのかたらひし空ぞ忘れぬ」
新古今集・雑歌上・1486・式子内親王)
ソネットという形式。
詩の余白。
我々が古典を研究する意義を深める為にも、近代が受容したものを味わう意義は大きい。
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音と文脈
2011-10-30
第57回和歌文学会大会が京都の龍谷大学で開催された。西本願寺に隣接する大変由緒正しき学舎で、この日は講演会が開催された。講演者は、お茶の水女子大学名誉教授の平野由紀子氏と大阪府立大学名誉教授の三輪正胤氏のお二人の先生。中でも平野氏の「古今和歌集 かけことばと文脈」の内容に関して興味深い点があったのでここに書き記すこととする。かけことばという修辞技巧は平安朝の古今和歌集時代になって発達したものである。日本語に同音語が沢山存在するという特性を活かして、一語に複数の意味を持たせるのもの。これは、和歌に詠み込まれれば「掛詞」と称されるが、落語の世界や日常語で使用されれば「駄洒落」と言われることになるだろう。その掛詞の構造を十分に活かした和歌は、万葉集時代にはなく古今集時代頃から(平野氏曰く、「六歌仙時代頃から」)登場して来るというのだ。
平野氏が扱った例歌をいくつか。
あさぢうの小野の篠原忍ぶとも人知るらめや言う人なしに(古今集・恋一・505)
浅茅生の小野の篠原しのぶれどあまりてなどか人の恋しき(後撰集・恋一・577)
あしひきの山下水のこがくれてたぎつ心をせきぞかねつる(古今集・恋一・491)
葦鴨の騒ぐ入り江の白波のしらずや人をかく恋ひんとは(古今集・恋一・533)
文字として一読し、どこが掛詞となっているかおわかりだろうか?
ここに挙げたすべての歌は、最初に情景が詠まれ、その後穏やかに恋の心情表現に連接してゆく。その転換点にかけことばが機能しているということになる。
平野氏曰く、「3番目の歌に関しては、『あしひきの山下水のこがくれて』という情景が『たぎつ』というかけことばを契機に『たぎつ心をせきぞかねつる』という心情に連接し、『〜ような』という比喩的な解釈を要求する。」ということになる。
しかし、他の3例は、「小野の篠原」が「しのぶ」、「入り江の白波」が「しらず」というかけことばを契機にして下の心情に連接していくが、解釈上、比喩にはなってはおらず文脈を関係づける必要はないというのである。いわば、「音の共有」のみが機能しており、読む場合にも「一本で通して読めばいい」ということだそうだ。
よく高等学校の古典の授業では、「〜のように」とか「〜ではないが」という訳を付けて、ある種、強引に一首を訳している場合が多く、以前からそのあり方には違和感を覚えていた。その上で、なぜそのように訳す必然性があるのかという問題にはあまり触れられずに、ただ「このように訳されているからこう訳すんだ」という解釈の押しつけのみが横行して来たのが実情だろう。
和歌は、極めて音声的な文学であることを、改めて自覚させられる平野氏のご講演であった。
仮に落語や駄洒落を、文字化されたもので味わうことを考えればいい。文字として書かれている場合に、先を読めば掛けられた内容が明白となり、予想ができない意外性を失い、その話芸自体が機能しなくなるだろう。音声としてこの先に何が登場して来るかわからないところに落語や駄洒落の妙はあるのだ。ネタバレになってしまっては、面白さが半減してしまうのである。
これは和歌も同じ。先に述べた高等学校の古典授業をはじめ、文字としてしか考えないゆえに、無理な解釈を当てはめて理解した気にさせているのである。
和歌は音声で味わう。
自明のことであるかもしれないが、現代が忘れ去っていたこと。
韻文の響きを楽しみながら、音声で聴くことで古典は本来の姿を表出させる。
平野氏のご講演に教えられながら、古都で和歌の伝統を考える意義に浸った1日であった。
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新幹線で時間旅行
2011-10-29
全幅の信頼とはこういうことだろう。東海道新幹線に乗車していてふと思った。ダイヤの正確さはもちろのこと、事故の可能性など微塵も心配する必要などない。開業から長い月日が経過するが、1度たりとも大きな事故がないというのは当然のことかもしれないが、よく考えれば驚異的なことだ。車窓から外を見れば、かなりの高速で走行している。まさに英訳されたときの”弾丸列車”(Bullet train)のごとく疾走し、東京から古都・京都までを約2時間半で結ぶ。毎回思うが、東京から京都へ向かうのは時間旅行のようなものだ。明治維新あたりを境にしてそれ以前の歴史が様々な形で保存されている古都へ向かうのは、ワクワク感が抑えきれない。先日、Twitterをみていると、茂木健一郎氏が「東海道新幹線では関ヶ原の風景が一番好きだ」と発言し、それに内田樹氏が呼応していたのを思い出した。確かに車窓から”天下分け目の戦い”を想像させるあの光景は、何か特別な感情を呼び覚ます気がする。
京都駅へ到着し、バスで宿に向かう。チェックインして荷物を置いて、まずは腹ごしらえ。以前に立ち寄った串揚げ専門店へ行くと、女将さんが笑顔で迎えてくれた。しばし、”2度浸けOK”の串揚げ”おまかせ”に舌鼓をうつ。
さらには”Fenway Park” というBoston RedSoxの本拠地球場の名を冠したBarへ立ち寄る。京都とBostonは姉妹都市であり、そんな関係とともにオーナーが野球愛好家であるところから、球団から承認も得ているという。今季のRedSoxの不甲斐ない闘いぶりに関して、日本でこれほど深く語れる人もそうはいない。暫くはコアな野球談義に花が咲いた。
そうこうしているうちに夜も更けた。
週末の研究学会を含めて、しばし京都の秋を堪能する。
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「仕方ない」ならどうするか?
2011-10-28
社会には一定の流れがある。社会に出て会社組織等に属したことのある方なら、誰しも「流れ」というものを心得ているだろう。組織に属していれば尚更、その「流れ」に乗っていれば楽ができる。自己に対して何ら抵抗もなく、自分の利益を堅持することができるからだ。ただ、そんな社会風潮は過去のものではないかと思うことも多い今日この頃である。「長いものには巻かれろ」と諺にあり。力のある者には従っておくべきだと説いた生活の知恵ということか。しかしながら、力のあるものに対してこそ、監視しなければならないというのが、近代国家の原則ではないだろうか。
朝日新聞夕刊(10月27日付)で、「石原都知事 停滞の季節」の記事を読んだ。4期目スタートから半年が経過したが、登庁または公務に出席したのは、日程表によれば54日しかなく、週あたり2日であるという。記事によれば、「(4期目を)やらされた感」が強く、「被害者意識」でスタートしたことが今も響いていると伝える。これが半年前に、261万人の有権者が信任した都知事の現状である。過去を振り返っても、2期目の「新銀行」、3期目の「五輪招致」と続けて失政としか思えない内容の旗振り役を強行してきた。その上で今はやる気がないと来たら、都民は何を信頼すればいいのだろう。震災時にここぞとばかりみせた「復興の先頭に立つ」という喧伝や、公約だった「高度防災都市の実現」は放置されているとしか思えない状況。記事によれば「総合防災訓練」にも「毎年同じだから行く必要がない」と発言しているという。
そんな東京都においても、身近に放射線の不安が山積している。線量が極めて高い地域の存在や、食品の安全についての問題。ましてや、放射能汚染された瓦礫の焼却受け入れ等々・・・。人口密度がこれだけ高い場所で、瓦礫の焼却をすることが、果たして住んでいる我々にとって「安全」と言えるのだろうか。「高度防災都市」に向かうはずが、目に見えない不安が蔓延している。半年の間に都民の防災意識はむしろ薄れ、3月には「JRを恫喝する」という英雄的な対応を都知事が見せてはいたが、何ら帰宅困難者への対策等で、東京都によって周囲の環境が是正してきているとは思えない。
たぶんこうした一都民の意見などは、一蹴にも値しないとされる都政が12年間も続いてきたのだ。教育現場は体面を保ちながらも、内部で瓦解的な疲弊が進行している。無益な過労が目に見えている管理職に就こうと志す教育者は減少し、生徒個々や教材へと向き合う時間が極端に減少するという教員の実情。果たしてこうした状況を、「仕方ない」のままでいいのかと思うことがしばしばである。
震災後に改めて感じる、「仕方ない」ならどうするか?
「空気を読め」という風潮は、「間違った権力にもついて行け」ということか。
日本が頑張らねばならない今だからこそ、
「仕方ない」ゆえに
「精緻に考えて意見を述べて行動せよ」が求められているのではないだろうか。
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違いがわかる男・北杜夫氏追悼
2011-10-27
♪♪♪ダバダーダ、ダ、ダバダーダバダ、ダダダダダダーダバダー、ダバダーダバダーダー♪♪♪というだけで曲を連想できる方は、このCMをご存じだろう。作家や芸術家の映像がこの曲とともに流れ、最後に「違いがわかる男のゴールドブレンド」と一言ナレーションが加えられるネスカフェのCMである。いまだ珈琲など苦くて美味しいとも思わなかった幼少時に、盛んにTVで放映されていて妙に憧れたものだ。そこに登場してくる作家というような存在というものは、珈琲を飲みながら高尚な小説を書き、たぶんとても偉いのだろうなどと思い込んでいたからだ。
確かそのCMに北杜夫氏も出演していたと記憶する。彼と交友の深かった遠藤周作氏が一番印象深いが、なぜか北杜夫氏もなかなかの渋い雰囲気とともに笑顔を見せていたような印象がある。
小学校も後半になって『どくとるマンボウ航海記』を読んだが、これが実に面白かった。少年の頃に読む航海記や漂流記というのは、自らの小さな世界観を冒険的な意識に誘い、世の中が広いことを教えてくれた。更にそこに笑いが詰め込まれていることから、読書の興奮さえも伝えてくれたように思う。
その北杜夫氏が84歳でこの世を去った。多くの報道記事には、『楡家の人びと』(毎日出版文化賞)や『夜と霧の隅で』(芥川賞)などの純文学の文体と、「マンボウもの」に見る軽妙洒脱な文体が、同じ人物の筆とは思えなかったという評を添えている。執筆動機からして、病気療養の為だったというが、「大切なこと、カンジンなことはすべて省略し、くだらぬこと、取るに足らぬことだけを書くことにした。」と『航海記』のあとがきには記されている。
そんな意味で、北・マンボウ氏は、真の“違いがわかる男”だったということになる。真面目に直立不動の作風こそ文学として価値が高いように思われがちであるが、笑いを心地よく描けるという姿勢こそ、深みのある味わいがあるというものだ。硬直する社会風潮や人間観に大きな風穴を開けた存在ということが言えるのだろう。
北杜夫氏の父は著名な歌人である斎藤茂吉。そのことを北氏は隠そうとする意識が強かったというが、短歌という伝統的文学で名を成した父と自己との差に、想像もできないほどの畏敬と反発を抱いていたということだろう。茂吉といえばこの短歌が思い出される。
あかあかと一本の道とほりたりたまきはる我が命なりけり
父と同様でない「二本の道」を巧みに使い分けたからこそ、北杜夫氏の作家としての魅力が倍増したということであろうか。
更なる多様性の時代を迎えて、“違いがわかる男”北杜夫こそ、先達として多くの功績を遺してくれた。
ご冥福を心よりお祈り申し上げる。
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原稿の推進力
2011-10-26
月末の〆切を間近にして、複数の種類に及ぶ原稿が大詰めを迎えている。それぞれの性質によって、自ずと書く姿勢にも変化が生じて来るものである。ひたすら資料を参照し、その正確さと記述の妥当性や教育的な効果が求められるもの。また、自ら思い入れの深い分野となれば、様々な思いが脳裏に去来しながら、その独自性と斬新さに加えて、公への訴求力を兼備していることも求められるだろう。自らの書く姿勢というものを、ある時には外側から眺めるような視線も必要ではないかなどと思いながら、止まることなく筆を進める時間が続く。時に事前に思い浮かべた構想になかった発案が、原稿を書き進める余白に急遽現れてくるような感覚になることがある。文字が刻みこまれるPC画面上に、俄かに湧き出たその内容は、自分の中のどこかに眠っていた財宝のような存在に思えてくる。ほとんど夢中になった精神状態の中で、その想いに端を発し原稿を書く推進力が更に増してくる。
物理的には休憩が必要かと思えるような時間が経過しても、止まれない時がある。原稿の文章自体が一定の推進力を獲得して、脳と指が自然な連動をしながら、文字をPC上に刻みつける。“やめられないとまらない”境地に至った時は、いつしか文章が完成しているような感覚で、しかも自らの構想とのズレを楽しむことができる。
もちろんこうして刻んだ文章に対しては、入念な校正が必要な訳だが、そんな湧き上がるように原稿を書く時間は、堪らない充実感を自らに与えてくれる。
この日も、そんな境地で原稿に向かっていた。改めて、自分が伝えたいと思うこと、自分が面白いと感じることを、最大限に表現すべきだと痛切に感じた。その情熱による愉悦の開拓にこそ、読み手も興味がそそられるはずであるから。
小欄にも毎日のようにことばを刻み付けているが、これもまた生活習慣的な推進力が成せる業。ほとんど朝食や身だしなみ同様の感覚が、この勝手な表現を形成している。
そしてまた前日の自分を刻むことで、新たな1日の推進力が確実に増すのである。
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Macbook Air 購入
2011-10-25
出張や旅行でどこへ行った際もPCは手離せない。夏の米国旅行の際は、3年ほど前に買ったモバイルノートを持参した。ところが、様々なソフトを詰め込み過ぎたせいもあり容量が限界となって動作が緩慢となり、ほとんど使い物にならなかった。それでも、小欄の更新やTwitterへの投稿を続けていたのは、iphoneを使用してのこと。小さな携帯PCとして、確実にiphoneのスペックに軍配が上がったというわけである。秋季に行われる研究学会で地方に赴くことも多くなるので、とうとう携帯用PCとしてMacbook Airを購入した。画面は11インチで4Gメモリ128GB。iphone以外では初のMac導入である。
ビッグカメラのポイントにも惹かれつつも(結果的に学生・教職員割引を適応してもらったので、5%ポイントよりは割引額が多かった。)、銀座のアップルストアまで行った。ともかく執拗に疑問点を質問してから購入したいと思っていたからだ。期待通り、若手の男性スタッフが、どんな質問にも嫌な顔一つせずに対応してくれた。自分の使用目的や環境を伝えて、そのマシンでできることや欠点はないか等、普通ならばイライラ来るような質問まで執拗に繰り返した。そのおかげで納得した購入に至った。
購入後、「はじめてのMac」というワークショップに1時間参加。建物の3Fにある立派な“シアター”で、Macならこんなに簡単に様々なことができるという内容のプレゼンが展開された。もちろんジョブズ氏と比較してはならないが、ユーザーが抱く不安を材料にしつつ、「自分の老齢の母親でもメールで写真を添付して送ってよこすようになった。」という具体例を添えた話は、会場に居る老齢の方々を首肯させていた。写真の整理・編集などにおいてMacを活用しようと思っていた小生も、更なる納得が得られる内容であった。
その後、再び先程の男性スタッフが、購入したAirのセットアップを共に行ってくれた。初期設定はもちろん、その後のアップデートをすればicloudに接続できiphoneと一部のデータ共有できること。メールの設定。キーボードの基本的な操作方法等々、持ち帰ればすぐに使える状態にまで設定完了をしてくれた。当初、「ワークショップ参加の間に、設定をしておきましょうか?」とも進言されたが、やはり自分で購入した代物は、初期設定を見届けたいという思いが募る。それを伝えると、その意思通りに、箱を開ける動作やAirを開く動作なども、小生の手に委ねるという気の遣いようがありがたかった。
銀座アップルストア前には、iphone4S契約の為に朝から列ができていた。量販店に行けば済むものを、ここに並ぶ意味が理解できた。
単なる携帯用PCとしてだけでなく、画像編集やプレゼン作成などにおいて大きく期待できそうなマシン。ipod からiphoneへ、そしてAirとなり今後のMacへの見方がどうなるか楽しみである。
Macに対しては様々な意見があるが、まずは使ってみなければ語れないという思いを胸に、夜の自宅でアップデートを終えると、iphoneデータとの同期が完了していた。
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二日酔いの日曜日
2011-10-24
前日の同期会で、流れに任せてやや飲み過ぎた。目覚めても頭の痛い日曜日の朝。しばし、二度寝を決め込んで布団の中で過ごす。前の晩に何を飲んだかなどが脳裏で反芻されて、「あの種類がよくなかったのか」などと不毛な“犯人捜し”をしたりもする。珈琲のちトイレにシャワーを済ませれば、ほぼ回復してくるのではあるが、未だ何となく重い身体。柑橘系飲料などが浸み込むように吸収されていく。
TVをつければスポーツの秋が花盛り。全日本大学女子駅伝の走りが目に飛び込んでくる。先週、自らが走った経験と重ねて、以前よりは当事者の気持ちになって映像を観るという気持ちの変化を自覚する。
何となく夕方までの時間を過ごし、休養十分な日曜日。
笑点・サザエさんから大河ドラマまでと定番の日曜の夜が過ぎていく。
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大学生時代の残像
2011-10-23
大学時代の同期会があった。しかもサークル連盟の面々が連絡を取り合い、6つの大学の同期の仲間が集った。小生は過去のこうした機会に参加できずにいたので、大学卒業以来会っていない連中が殆どであった。果たしてどんな顔をして会ったらいいのか、いささか戸惑い気味に会場に足を運んだ。会場である店に入ろうとすると、ある女子大の同期の一団。やはりいくつなっても女子大は集団行動が原則なのだろう。軽く声を掛けて先に店内へ。すると幹事役の連中を始め、数人が既に個室に控えていた。そうなればもはや、即座に大学時代の自分に戻った。次第に同期生の容姿の変化なども気にならなくなり、ほとんど大学生時代のまま、能天気な飲み会になった。
時折、我に帰ると、大学生の時は未熟だったとつくづく感じてしまう。彼らと共に様々な活動を通じてそれなりに勉強になったことも多いが、後先考えずに無鉄砲な行いも多々あったと振り返る。大学生時代の残像が脳裏をかすめながら、これまでをどう生きて来たかを感じ、更にこれからどう生きて行こうかなどと考えてみる。
驚いたのは、今の自分ではしないはずの不躾な発言などを、同期の連中の前だとしてしまうということ。人間というのは、周囲の人々と築き上げた関係性の中で、生かされているのだと改めて感じる時間でもあった。
こうした“定点観測”のような時間が時折必要だと思う。
大学生時代に抱いていた夢を、更に追いかけるためにも。
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どこか痒いところはありますか?
2011-10-22
理容室に行くのは月1度の楽しみである。待合席で普段買うことのない写真週刊誌を読み、荷物と上着を預かってもらい、いざその日の席へ着く。修業中の若手理容師が、まずはシャンプーを施してくれてからカット。耳の周辺と襟足をシェービングするとシャンプータイムになる。この時間が何とも至福のひと時だと感じる方は、どれくらいいるだろうか?自分で風呂に入ってシャンプーをする場合、面倒くさくてあまり入念さは伴わない。しかし、理容室で人に洗髪してもらうのは、たいそう贅沢な感じがする。しかし、中にはこのシャンプーを嫌う方々もいるやに聞いたことがある。他人の手指と頭皮の接触があまり好ましくない感覚だと捉えるからのようだ。まあ人それぞれで、様々な感覚が許容される時代。単に自分の好みを述べたまでで、違った感覚の方を否定する気は毛頭ない。
そのシャンプーが進むと、理容師が「どこか痒いところはありますか?」と尋ねてくる。これはTwitter投稿に掲載された意見であるが、関東の人は「大丈夫」と言って、更なる頭皮マッサージを要求せず、関西の人は「この辺りが痒いねん」と言って再度のマッサージを要求するという。果たして関東・関西の二分法で判別できる問題かどうかは疑わしいが、通常、小生の行く東京の理容室でも、多くのお客さんが更なるマッサージを要求していないようだ。
ところが、小生は理容室スタッフと意気投合しているせいもあるが、毎回「両サイドをお願い」とか「トップのあたりが痒いので」とかお願いするのが常だ。この日は、実際にあまり痒くなかったので、「既に入念だから大丈夫」と答えたのだが、頭を洗髪槽の中に下げているから、声がくぐもってあまりよく聞こえなかったのであろう。「全部入念にすれば大丈夫」とでも聞こえたみたいで、その後も、頭皮全体を入念にマッサージしてくれ大満足であった。
小生が贔屓にする理容室店主とは同世代で、彼がシャンプーしかできなかった修業中から長年の付き合い。今や店主として「先生」と呼ばれている。しかし稀にスタッフローテーションの関係で、店主自身がシャンプーをしてくれると、遥か昔に体感したシャンプーの手触りが蘇る。彼のお店に賭ける情熱は素晴らしいと、毎回感心するのだが、修業時代のシャンプーの手触り一つで長年の顧客を虜にしたプロということになる。小生のシャンプー好きもこんなところに由来するのであろう。何せ大学生時代から、この店主以外の人間に髪を切ってもらったことはないのだから。
それゆえに、お店のスタッフも皆、気さくで爽やかな人たちばかり。シャンプーマッサージを執拗に要求しても、笑顔で応えてくれている。
今やシャンプー自体を省略する簡易な理容室が増加した時代。
月1度の楽しみぐらいは、贅沢かつ存分に味わいたい。
「どこか痒いところはありますか?」
それは人間的なコミュニケーションとして重要だなどと、自分の専門研究と結び付けて、難しく考えたりもする今日この頃である。
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