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敗北を受け入れて

2011-09-30
 MLBの贔屓チームであるBoston RedSoxの今季が終わった。4月から半年のシーズンを振り返れば、スタートで躓いたがその後は一気に攻勢をかけて、8月までは地区優勝に余裕の数字を積み上げていた。そして9月に急転直下、ワイルドカード(地区優勝以外の最高勝率チーム)でのポストシーズン進出権利まで失ってしまった。しかも、最終戦で逆転サヨナラによる敗北を記し、その数分後に他球場で争っていたチームが逆転サヨナラHRという、まったく筋書きがあるのかないのかわからないような衝撃的な敗戦であった。

 なぜ野球チームに対して、これほど肩入れしてしまうのだろうか?とふと考えた。もちろん勝利した時の喜びを味わう為というのが最大の理由であろう。多くの野球ファンが、贔屓チームの優勝を願っていないわけはない。しかし、最終的に優勝できるのは1チームである。MLBで言えばその他29チームを応援しているファンは、どこかで敗北を受け入れなければならない。それがシーズンの早い段階であるか最終戦であるかという、時季の違いがあるにしても。そう考えると野球応援の存在理由というのは、実は“敗北”をどのように受け入れるかという精神上の作用を求めているともいえるのではないかと思うのである。

 人生においては思い通りにならないことに幾度となく出くわす。些細なことから重要なことまで、予想・期待・希望に反して自分が思った通りになるとは限らない。むしろ思い通りにならないことの方が多いかもしれない。そこで大切なのが、“敗北”の受け入れ方である。予想に反した事態になった時に、どのように受け止めるか、そしてその後どのように行動を変えるか。そんな耐性と変革を持つことが常に必要であると感じるのである。

 野球という“小ドラマ”に対して1試合単位や1シーズン単位で肩入れし、そしていつか来る“敗北”をしなやかに受け止める。それはこだわりを欠いた安易な容認ではなく、優勝にこだわり続けた末の受け入れ難い葛藤を乗り越えた末での思いである。その精神作用が、自己の耐性と次なる変革を求める動きを鍛えるのである。


 世の中にたえて野球のなかりせば秋の心はのどけからまし

 
 小生にとっては十分に落ち着いた気持ちになれる10月が訪れそうである。
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「162分の1」の重み

2011-09-29
 少年の頃から野球の魅力に憑りつかれ、いざその話題になれば異常なほどのこだわりがある。“野球狂”という語彙があるが、まさにその通りであると自称できる。アメリカの映画に「フィーバーピッチ」というものがある。主人公の女性(女優・ドリュー・バリモア演ずる)が冬の間に付き合い始めた彼氏は、2月のスプリングトレーニング時季になると落ち着かなくなり、4月のシーズン開幕になると異常な野球への執着を見せて人格が変容するという話。次第に彼女自身も野球の虜になるという恋人としての成就を描くコミカルかつ心温まる映画である。この映画の主人公たちが熱狂するチームも、Boston RedSoxである。


 8月の渡米中、応援に熱狂していたRedSoxがレギュラーシーズン最終戦を迎える。しかも、ポストシーズン(日本でいうクライマックスシリーズのことで、MLBでは両リーグの4チームが各リーグ内で短期決戦を2度繰り返し、代表チームを決めワールドシリーズへ進出する。)進出の4枚目の切符であるワイルドカード(リーグ各地区の優勝チーム以外の最高勝率チームに与えられるポストシーズン進出権)争いでTampabay Raysと同率に並んでいるのだ。この最終戦でRedSoxが勝ち、Raysが負ければ進出決定(もちろん逆ならシーズン終了)。両チームとも勝てば翌日に1ゲームプレイオフで決着をつけるという状況だ。

 8月までは地区優勝もするかのごとく好調であったRedSoxだが9月は最悪の戦績(7勝19敗)で、急転直下このような状況に追い込まれた。まさにシーズン全体を見据えても、「野球は最後までわからない」である。ここで思うのは、1試合の重さである。スプリングトレーニングから鍛錬を重ね、4月から161試合を闘ってきたチームの命運は、この1試合で全てが決する。ファンとして振り返れば、現地で応援した試合をもう一つでも勝っていれば、既に雌雄が決していたかもしれない。こういう状況であるからこそ、1試合の重さが増して、野球狂の魂を更に激しく刺激するのである。

 高校野球がなぜ感動的かと言えば、トーナメント形式の試合ゆえに、その1試合に全てが委ねられるからである。選手にとっては、まさに高校3年間の志に対して数時間の中で白黒が付けられる。その9イニングの中にもまた、様々な分岐点があり興奮の一瞬が繰り返される。MLBなどのシーズンそのものが人生のように見立てられるのと同じように、1試合の中にも人生の歩みに似た予測不可能な展開が具体的に可視化されるのである。


 長い人生で見れば、貴重な今この時を無駄にしてはいないか。

 特別な日だけが大切なのではなく、今日一日が何にも代え難く大切なのだ。

 ”今日は再び来たらず”野球が毎年のように教えてくれる真実。

 果たしてRedSoxの運命やいかに?
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老いてなお魅せる技"TOTO"

2011-09-28
“TOTO”というとたいていの人が、毎日何回か密室の中でお目にかかるブランド名を思い浮かべるであろう。しかし80年代の全米ロックに興味をお持ちの方なら、ミュージシャンとしてのグループを思い浮かべるはずである。07年に事実上の解散宣言をしていたTOTOが久し振りにジャパンツアーを行っている。主力メンバーであったベイシストのマイク・ポーカロが闘病中であり、その支援の為にメンバーが再結集したという経緯である。この日は、待ちに待った武道館公演であった。

 当初は5月末に予定されていたジャパンツアーが、東日本大震災の影響で延期となっていた。ライブの聖地でもある武道館に開場前から足を運ぶと、予想以上の混雑。平均年齢はやや高いものの、ロックの真髄を求めたファンたちが集まり始めていた。お堀を越えて坂を上り正面入口の公演看板を見上げると、自ずと興奮度が増してくる。TOTO人気の根強さを感じるに十分な雰囲気が醸し出されていた。

 ステージが開演すると、TOTOらしい音が鳴り響いた。スタジオミュージシャンとして数多くのアーティストの音を根底から支えて来たという経歴を持つ。その演奏における基本技の精度の高さは折り紙つきだ。歌曲部分はもちろんであるが、それだけでなく曲の間奏や前後で弾き回す部分に一層魅せられてしまう。スティーブ=ルカサーの堂々たる刺激的なギター音。デビッド=ペイチの神業的な鍵盤展開。サイモン=フィリップスの奔放なスティックさばき。スティーブ=ポーカロの老練たるキーボード音。ジョセフ=ウイリアムスはやや太めになったが、ボーカルとしての活発さと高音の張りは健在。ヘルプ的なベイシスト・ネーザン=イーストが控えめながら、堅実にリズムを支え続ける。ほぼ演奏として完璧とも言えるステージが2時間ほど展開された。

 メンバーの外見に年老いた影があるのは否めないが、その基本技に支えられた演奏は、今なお多くのファンを魅了したといってよい。やはり音楽に限らないが、その基本的技術を基盤に持っているということはなによりも強い。過去の遺産でライブをするという姿勢ではなく、そのライブ演奏の魅力はいまなお健在という印象を持った。

 特にデビッド=ペイチのキーボードを見ていて、自らも鍵盤を基本から学んでみようかなどという悪足掻きを妄想するような思いに至った。幼稚園の時のエレクトーン教室で挫折した時のリベンジ。音楽に親しむのは時を選ばないことをTOTOは教えてくれた。


 基本の大切さというのは、偉大な人物の共通条件である。

 それは言葉でわかっていても、なかなか実践できないものである。

 熟練したTOTOの演奏は、そんな基本技の重要さを再認識させてくれた。
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「急いては事を」無駄にする

2011-09-27
 週に3回は通うスポーツジム。そのスタジオプログラムに出ていると、色々な方々が参加している。最近、ある一人の男性のトレーニング姿勢が異様に気になっている。スタジオプログラムというと音楽に合わせて行う運動動作が主であるが、それが全て2呼間か3呼間早いのである。小生が同じ動作を終える頃には、既に間の空いた時間を持て余している。果たしてこの男性のトレーニング効果は上がっているのだろうかと無用な心配をしてしまう。

 音楽に合わせてバーベルを挙げて、全身の筋肉を引き締めるプログラム。4呼間(感覚的には速い8呼間が適切で、説明上手なインストラクターは“8”をカウントしてくれる)でゆっくり挙げる動作がある。バーベルによる筋肉への刺激は挙げる時が重要と思うのは素人考えであり、下ろす時の負荷というのが筋繊維へ有効な働きをすると聞いたことがある。ゆえに4呼間の後半部分で最大限ゆっくりとバーベルを下すことで、トレーニング効果が有効に発揮されるのだ。ところが前述した男性は、ほぼ8呼間でカウントすると、後半の3呼間ぐらいを残して、既にバーベルは下げている状態になっている。

 この日は、ヨガや太極拳の動きを応用した体幹と柔軟トレーニングプログランにも参加した。するとやはりその男性も参加していた。ゆったりした動きを繰り返して体幹部分を刺激していく運動内容であるから、先のバーベル運動での動きが余計に目立っていた。ゆっくりと刺激していくことで筋繊維は柔軟度を増していく。足を広げ左右に身体を折り曲げたりする姿勢を保ち続けることで、筋肉の耐久性と持久性が増す。それなのに運動内容のほぼ半分近くを、その男性は放棄しているかのように見える。このように他人の運動動作が気になる自体が、トレーニングに集中していない証拠であるから、特に“ヨガ的作法”からしたら小生も運動効果が上がっていないのかもしれない。などと考えて、後半は自分の身体の声を聞くことに集中してみたのだが。

 むしろその男性を“反面教師”に見立てながら、意識して4呼間のゆったりした動きの後半部分を重視するようになった。実は、その後半部分が一番きついことに気が付いた。スクワットであれば、下に降ろす時ではなく上に挙がる時である。そこをじっくり耐えてこそ、足の筋肉がその刺激に悲鳴を上げ始める。それでこそ運動効果が大きく、翌日の筋肉痛の具合により成果が実証されてくる。

 マシンジムでも時折、この種の間違いをしている方を見掛ける。挙げる時は思いっきり挙げて、降ろす時には力を抜くほどに緩めてトレーニングをしている方だ。そうした人の多くが重りの落ちる大きな音を立ててトレーニングセットを終えている。本人はたいそう満足げな顔をして、さも大きな重りを挙げ切ったかのように鼻息が荒い。しかし、トレーニング効果は、さもありなんである。


 日常や仕事上においても、このような間違いをしていることはないかと検討してみる必要がありそうだ。全行程の半分にしか力を入れておらず、効果が半減しているような事例があるはずではないかと。折り返し地点から後半にこそ、実は厳しくも重要な内容が潜んでいると自覚すべきである。

 仕事柄、他者への観察眼を働かせることで得た教訓。「もしかしたら自分?」と思う節がある方はぜひとも確認していただきたい。あの男性が緩やかに小欄を読んでくれることを願う。


 「急いては事を」無駄にする。

 厳しい時こそゆっくり腰を据えてが鉄則なのだと知る。
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漢字文化の力

2011-09-26
 たとえばTwitterが全てローマ字表記に統一されたらどうなるだろうか?140文字という限定された字数の中で、日本語の一音一音を母音と子音の組み合わせで表記していく文字を使用すれば、現在のように多数の情報を一投稿で表現できないことになる。第一書く側はキーボードに打ち込んだままであるとしても、読む側は甚だ苦心するに違いない。音律的に表現された“ローマ字”に対して、一度音声的に再現してから意味を取らなければならないからだ。

 無意識のうちに我々は「漢字文化の力」の恩恵を受けている。英語を始めとする欧米言語では、Twitterへの一投稿情報量が圧倒的に少ない。裏を返せば漢字による一文字における意味の含有量が圧倒的に多いということだ。小学生の時から、漢字を学ぶことに苦心する過程があるのと引き換えに、大変有効な文字文化を我々は身に付けているということになる。

 そんな漢字文化圏での文学を考える研究学会に2日間参加した。30周年を迎えるこの学会の方向性は、自己の研究課題と一致している。“漢字文化圏”の中にある日本という意識で、文学・言語・文化を捉えていかなければならない。その比較・相対化のなかにこそ日本文学の実相が見えてくるのである。

 研究大会シンポジウムの内容を聴きながら、自己の過去30年を振り返り時間を重ね合せてみた。恩師が創設に関わっていたということもあり、この学会の歴史を回顧することは感慨深いものがあった。改めて今年を機に、31年目からの自分の研究が進むべき方向性を見定めた思いがした。


 我々が日常的に使用する“漢字”の力。

 今以上にその恩恵を意識して使用してもいいはずだ。
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大学キャンパスが意味するもの

2011-09-25
 研究学会で筑波大学まで赴いた。初めて“つくばエクスプレス”に乗車し、新御徒町から快速で42分。そのスピード感はかなりのもので、都心からの距離を忘れさせた。だが、以前までは筑波大学というと遠い印象があり、既卒の方々に言わせると“陸の孤島”という表現さえ出てくるような環境。小生も大学受験の時に志望校にしていた時期もあったが、やはり下宿前提という条件だったと記憶している。

 つくば駅からは“大学循環バス”に乗車。その広大なキャンパス内の道路には樹木も豊富で、木立の合間から各学群の施設が見え隠れする。また学生が宿舎にしているような建物も目に入り、街全体が学園都市構想により造成されたことを窺わせる。そんな車窓風景を楽しみながらバスは進み、中心に位置する大学会館の国際会議場に到着した。

 大学関係の方の話によると、3.11の地震で揺れは震度6弱。建物の損傷や図書館の本が落下するなど、かなりの被害が出たという。中には未だに使用できない教室もあり、不便さも伴っているという。それは、30年前は最新式であった大学建築物が微妙に老朽化し始めている兆候でもあるだろう。

 “筑波学園都市構想”に対して、中学高校時代の小生は憧れていた部分がある。寄宿して学問や運動に打ち込める大学生活。そんな妄想を高校時代に繰り返していたことが思い出される。自然が豊かな環境の中で存分に学びたいことを学ぶ。そんな大学生活を思い描いていた時期もあった。結果、都心の憧れの大学に入学することになり現在のような状況に至るが、そんな過去の思い入れがあるだけに、こんなキャンパスを見ると職業柄、問題意識が高まる。

 先月にはアメリカの広大な大学キャンパスで過ごしていたので、筑波大学のキャンパスはそれに近いものを感じた。もちろんアメリカでもニューヨークなどの都市部の大学は、繁華街のビルの中という場合もある。しかし、概して郊外型の広大なキャンパスを基本としているのは、日本人が描く“大学キャンパス”の理想像でもあるだろう。そんな発想で30年前頃より、日本の首都圏でも郊外型の広大なキャンパスに移転する大学が増えた。周囲に遊べる場所は少なく、学問に運動や文化活動に没頭できる環境である。

 しかし、ここ10年ぐらいの間に大学キャンパスは“都心回帰”が流行となった。都心部の狭い土地に高層化した校舎を建築し、交通の利便性などを売り物にして学生を集めるという施策が基本となった。都心のマンション同様に、高層校舎の建築合戦になっているような様相である。その構想は果たして日本の大学教育にとって健全なことなのかどうかと疑問に思う。筑波大学のキャンパスを見て、改めてそんな問題意識が高まった。

 偏差値により輪切りにされた大学評価の横行。「“・・・レベル”以上には行きたい」などという受験生の志望理由。はてまた「タワー校舎が綺麗そうだから」などという戯言・・・・・。ただでさえ、世界レベルで日本の大学評価は低いとされているのに、ましてやハード面しか重視しない学生の増大。まるで“テーマパーク”を口コミにより選ぶかのように受験生は大学を選択する。そんな見せ掛けの大学受験“制度”において、大学キャンパスのあり方は迎合するかのように見映えと利便性を競う。高層化された人口密度の高い校舎に押し込められた学生は、“帰宅難民”ならぬ“就職難民”予備軍であることの自覚もなく、笑顔で親のすねかじりをして学生生活を謳歌する。このように考えると、大学教育改革は日本の将来を見据える意味でも危機的に急務な課題であると痛感するのである。


 そんな情勢の中で我が道を行くように見える筑波大学の姿。やはり自分が受験の時に憧れていた感性は間違いではなかったと確信した。

 大学時代とは学びたいことを発見し、自分自身に目覚める時間。学問や諸活動に没頭し厳しい時間を過ごすことで、真に将来の日本を支える学生が育つことを構想しなければならないはずだ。

 遊ぶことだけに利便性の高いキャンパス環境の増大から、末恐ろしい未来が透けて見えるのである。
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音楽が奏でる物語

2011-09-24
 誰しも耳にするだけで激しく心が揺さぶられる曲というものがある。幼少の頃に聴いたものから、青春時代を謳歌したときのものまで様々である。そのメロディや歌詞には不思議な力が込められていて、アルバムを紐解くようにありし日のことが鮮明に脳裏に浮かんでくる。そうだ!音楽を奏でるとある種の物語が、各人の中で起動し始めるのである。

 馴染みのワインバーで、貸切パーティーが催された。この場を介して結成された常連さんたちのバンドが、様々な音楽を演奏した。演奏する皆さんには、各自の楽器に対する愛着があり、その練習という積み重ねへの思い入れもある。絃を弾き息を吹き込みリズムを打ち込む姿は、見ているだけでも楽しくなる。

 自らのバンド経験からしても、音楽で繋がった仲間は無条件に楽しい。様々な楽器の要素を結集して、一つの世界を築き上げる。その“摺り合わせ”の中でお互いの心が極度に接近していく。果てはライブで他者に披露すると、またその場の人々と繋がることができる。各人各様な「物語」を含む音楽に、多種多様な接し方をすると、いつしか“一つの物語”が産み出される。そこに人の輪ができる。

 美味しいワインにほろ酔い加減になりながら、参加者全員で唄うお店のテーマ曲パロディや参加者をモチーフにしたパロディでパーティーは最高潮に。リズム感溢れる音楽性とことばの接点が、世界で一つの物語を創り上げる。リズムとことばの関係は、如何にしても偉大である。


 また新たな力が湧いてくる豊かな時間。

 こんな人々との出会いが人生を最高に楽しくしてくれる。
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跳梁跋扈する言葉の罠

2011-09-23
我々は人の言葉を信じることから、様々な人間関係を築いている。親族などの身近で愛する人も初対面の人も長年馴染みの友人であっても。その言葉というものに思考・感性・人柄・真実・愉快などを聴取して信頼関係を築き上げるものだ。ゆえに、言葉の力というものは貴重であると同時に、危険である側面を持っていると感じることも多い。


 国連の「原子力安全ハイレベル会合」で野田首相が演説した。相変わらずその柔らかな口調の演説は、穏健な印象を与える。だがしかし、その内容を精査すると聞き捨てならないものが含まれていることに気付いた。改めて新聞朝刊で「演説要旨」を確認したので、その部分を引用しよう。


 「日本は事故のすべてを国際社会に開示する。」
 「日本は原子力発電の安全性を世界最高水準に高める。」


 「原子炉の年内冷温停止」を打ち出した事とともに、上記の言葉には正直、驚きを隠せなかった。この野田首相の演説内容は、もちろん日本の大きな希望である。だが、現在の福島第一原発の状況をどれほどの国民が正確に理解しているであろうか。「事故のすべて」を「国際社会」に「開示」すると宣言する以前に、その国土に住んでいる我々国民に、本当に「すべて」が「開示」されているのかは疑問で、この演説内容によってむしろ甚だしい疑念だけが先行してしまう。あと3か月という「年内」で本当に「冷温停止」が可能だと思う国民がどれほどいるのであろうか。野田首相の演説は、国際舞台という建前の中で跳梁跋扈し、その放射能汚染されている国土に住んでいる我々には、“よそ行き”の言葉にしか聞こえない。親バカで他人に対してありもしない子供の実績目標を、さも真実かのように語る“痛い親”の発言に似ている。当事者である我々日本国民だけが置き去りである印象を受けざるを得ないのだ。穏やかな言葉であるだけに余計恐ろしいのである。

 「安全性を世界最高水準に高める」には開いた口が塞がらないほどのものを感じる。この究極ともいえる「世界最高レベルである原子力災禍」に見舞われながら、そんな虚飾を掲げて「原子力発電」を更に推進して行こうというのか。穏やかであるからそう聞こえないだけで、明らかに盲目的な「原発推進宣言」であると受け止めてしまうのは、小生だけであろうか。もっとも米国オバマ大統領には、そのアピールは通じず「普天間問題の結果」を求められたというから、穏やかな言葉の跳梁跋扈は一蹴されたといってもよいのであるが・・・。



 更にプロ野球界のニュース、中日ドラゴンズの落合監督が今季限りの退任を球団が発表。このようなシーズン終盤で優勝争いをしている段階での発表自体に、意図的な“悪意”を感じてしまうのは“へそ曲がり”な小生だけであろうか。球団が発表した理由は、「新しい風を入れる」であったのだが、後任は落合監督より一回りも年上で70歳の高木守道氏である。何も年齢によって「新しい古い」が即座に判断されるわけではない。だが、監督在任中にリーグでは常にAクラス、日本一にも導いた監督を解任する理由として、お粗末な言葉を跳梁跋扈させようとした球団姿勢には疑念しか残らない。当の落合監督は「契約書通り、この世界はそういう世界だ。」とだけ短く述べたという。彼らしい対応であるが、それで精一杯という感じもする。ここでお断りしておくが、何も後任に発表された高木氏を批判する気持ちは毛頭も持ち合わせていない。あくまで球団と契約している個人の問題として、組織と関係する我々すべてに置き換えて考えられる問題だと言いたいのである。


 いつでも個人は組織に対して弱い立場にある。契約は契約であっても個人の立場を尊重する配慮が組織には必要であるはずだ。組織は個人に対して無批判に権力を浴びせていることを忘れてはならない。

 国家・政権もまた同じ。国民たる個人は弱い存在である。それゆえに跳梁跋扈する形式的な言葉ではなく、せめて信頼関係が感じられる言葉を発するのが、政治の長たる使命ではないかと思うのである。



 最後に念のために述べておくが、「跳梁跋扈」という言葉の語感は、「好ましくない者が、勝手にふるまうこと」(『新明解国語辞典』三省堂)と辞書にある。敢えて『新明解』の解釈を提示しておくことにする。
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最大級の警戒とは?

2011-09-22
 台風15号が日本列島を縦断していった。四国の南岸から列島に迫り、静岡県浜松あたりで上陸。その後、山梨や北関東を抜けて速度を上げて東北沿岸に抜けた。これほどの勢力を保ったまま上陸するのは1993年以来というから18年ぶり。東京においては、一生で何回かしか経験しないような大きな上陸台風であったようだ。

 幸い自宅での仕事に従事していたので帰宅にも不自由はなかったが、東京では交通網が乱れ、3.11ほどではないにしても、多数の帰宅困難な方々が駅などに溢れかえった。それでも早目の帰宅を促した会社も見られたようで、教訓がまったく生きていないわけではない。だが、その受け止め方に個別差があり会社によっては“決断”が遅れるような状況もあったように聞いている。

 災害意識の問題は8月の米国滞在中に小欄にも書いたが、日本人の意識は決して高いとは言えない。米国はハリケーンの到来により、避難勧告を含めて大仰に警戒していたように見えた。やはり日本人は、自然との共存意識があるせいか上陸し直撃する台風に対してどこか穏やかに対処する感覚がある。それでも、NHKニュースなどでは「最大級の警戒」という言葉が舞い上がるように提起されているように聞こえた。

 あのNHKアナウンサーが、独自の調子で伝える「最大級の警戒」という語句。果たしてどのようなレベルの警戒を想定しているのだろうか?少なくとも東京に在住していて、停電や浸水に対してどの程度の意識があるかどうか?政府や地方自治体が行う警戒活動とは、どんなものであったのか?一都民として、その「最大級」はまったくと言っていいほど見えてこない。もちろん避難勧告が多数の住人の方に対して行われた地域もあるので、小生自身が安易であるのかもしれない。だが、やはり“報道”の表現と“実態”の乖離という感覚は否めないと思ってしまった。

 少なくとも、東京において交通による混乱が続いたということは、決して「最大級」の警戒をしていない。そのレベルは、会社・学校などの組織に依存され、意識が高い組織とそうでない組織の差が顕著に出たように感じる。銀座や渋谷で街路樹が折れるレベルの強風が吹き荒れる中、比較的に“日常”レベルを維持しようとする意識が堅持された印象を受ける。NYではまさに「最大級」の警戒を実践していたように感じたのに。

 海外から「冷静に行動する日本人」として賞讃される我々。だが、“フクシマ”の問題を発端に考えると、政府や地方自治体は「大丈夫・大丈夫」を連呼して、結局は国民を危険な目に遭わせているのではないだろうか。もちろん“パニック”を避けなければならないのは常道である。だが、その情報の捉え方に対して、各人が意識を高く持つ必要性を改めて感じるのである。

 少なくとも停電への備えや食料の確保。避難する場合の持ち出し荷物。こんなあたりまでは、小生も準備をしていたのだが。



 当たらず触らず“穏やかな”「最大級の警戒」の1日が駆け足で過ぎて行った。
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日本人の奇跡

2011-09-21
 日本人が世界に誇れる偉業を成し遂げたことは多岐にわたるだろうが、中でも傑出していると思われる二つの達成を改めて味わった。一つは平安時代の文化的偉人「空海」、もう一つは惑星探査衛星「はやぶさ」である。どちらも難行を乗り越えて日本に大きな遺産をもたらしたという点で、“奇跡の偉業”を達成したといえる。

 今月25日までが会期である「空海と密教美術展」見学の為に、朝一番で東京国立博物館に向かった。7月20日から始まり夏季の間も大変な人気で混雑必至と聞いていた。幸い連休明けの朝一番は、待ち時間なしで入場でき比較的展示スペースも空いていた。空海の手になる筆跡である「聾瞽指帰」や「風信帖」を見るにつけ、その書道的価値に改めて驚嘆するととともに、滑らかな筆法に空海の息遣いが感じられてくる。また、唐の国で修めた密教の伝習物、高野山や東寺が収蔵する芸術品の数々、東寺講堂の仏像群により構成された「仏道曼荼羅」などセクションを進むごとに、その魅力に圧倒される内容であった。密教を短期間で当時の世界的都市・長安で学び、日本で一気に展開した空海。その文化的偉業たる人生そのものが、日本人の奇跡といっても過言ではないだろう。

 やや雨模様の上野公園を散策して帰宅。


 夜になってNHKBSプレミアム「Cosmic frontはやぶさ」を見た。2003年に打ち上げられ幾多の困難を乗り越えて2010年6月13日に地球へと帰還した「惑星探査衛星」である。幅6m×高さ3m×奥行4.2mという決して大きくない機体が、7年間の宇宙旅行任務を果たした。惑星への着陸失敗・通信の途絶・エンジンの完全停止などの困難が次々と襲ったが、JAXAの研究チームによる執念の修復の繰り返しが、地球まで「惑星標本」を送り届ける使命を全うするに至った。その決して諦めない姿勢には敬服するしかないものが感じられた。

 そして無事に地球軌道に戻ってきた「はやぶさ」に下された最後の使命は、そのカメラで“故郷・地球”の写真を撮影することであったという。「“はやぶさ”に地球の姿を見せてやりたかった」というチーム主任教授の言葉には心を打たれた。その後、自らの機体は大気圏突入で燃え尽きながら、惑星の砂の微粒子を保存したカプセルをオーストラリアに降下させたのは、多くの方の記憶にあることであろう。その微粒子により、太陽系誕生の謎がいくつも解明されつつあるのだという。まさに人類にもたらされた“日本人の奇跡”と呼ぶに値する偉業といってよい。


 「はやぶさ」研究チームの方々を見ていて、「日本人も人類に貢献する偉業が成し遂げられるではないか」という希望を見た気がした。

 当代にあって世界都市・長安から文化的要素を短期間で一気に習得して、その体系を日本にもたらした空海。これもまた「曼荼羅」に表現されたように“宇宙観”に満ちた哲学世界を存分に修得した結果である。唐の僧侶たちをも驚かせた吸収力を見せた空海もまた、宇宙を旅したことに値するような偉業をなしたといってよい。


 果てしない夢に向けて、ひたむきに進む人生。

 そのロマンにこそ、人間としての生きる価値があるように感じさせる2つの奇跡。

 際限のない自分自身の宇宙へ向けて、飽くなき挑戦を続けたいと決意も新たにするのである。
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