fc2ブログ

落語による没我

2011-08-07
 大学のプロジェクト「教員養成に落語の力を」の発表会が催された。約1年半の月日を費やし、大学院生3名と小生が落語に挑戦した。当初は3月に発表会を予定していたが、震災の直後で行えず、この日の開催となった。

 今までのお稽古とは違い、30名以上の聴衆を前に語ることで新たな境地を発見した。それは「没我」といえば大袈裟でもあるが、語っている最中の記憶が曖昧なのである。自分とは違ったもう一人の自分が起動し、落語を演じているような不思議な感覚である。終えてみれば、師匠たる噺家さんや周囲の方々になかなかのできであると讃辞をいただいたが、自分で自分の語りを評価するのが難しいほどの状態であった。

 なぜこのような状態になったのだろうか。今思えば、大きな原因が聴衆の力だ。小生の授業を受講していた学生・院生。その学生の親御さん。Twitterを介して知人となった方々。以前の職場の同僚。そして小生の母親。そんな多彩な聴衆の混在性が、それまでになかった語りの境地に誘(いざな)った。

 これまでの経験では、例えば中高大学の授業という場合、語りの対象となる人々は学生として、ある意味での一律性を持っている。少なくとも授業の場合、その学ぶ目的は同一な筈である。ところが、このような多彩な聴衆であれば様々な意識が渦巻いている筈である。そうした対象を前に語ることの壮大さが、いつしか自分を「没我」的な境地へ追い込んだような気がする。

 落語は、表面的には一方的な語りである。聴衆は笑うか・黙るか・拍手をするか・寝るか等の限定した手段で、語り手に対しての態度を表明する。授業であれば、聴く側がいかに参加して発言するかという内容に拠って、様々な化学反応が生じる。一見、大きな違いがあるようだが、聴衆の表情や態度からその場の状況を掴んでいくという意味においては、落語も授業も共通した感覚がある。聴衆の状況や要求がどこにあるのかを捉え、その一人一人に語り掛けていくという行為によって、世界でそこにしか存在しないライブ感を産み出していくのだ。

 たぶん、上演中に会場に居る全ての方々と対話した結果、自らが「没我」にならざるを得ない不思議な領域に足を踏み入れたと言えば、この日の体験の説明になるのではないかと思う。


 語りは対話を醸成する。
 
 日本の古典芸能としての落語は、そんな人と人とのコミュニケーションを形成してきた偉大なる話芸なのであると改めて実感した。


 落語を含めて、「語り」とコミュニケーションとの関係が眠る森の入口までと到達した思いである。

 今後の森林冒険が、たまらなく楽しみになって来た。
関連記事
スポンサーサイト



tag :
<< topページへこのページの先頭へ >>