お盆休みの東京
2011-08-15
「盆と正月」とよくいわれるが、お盆休みの東京は閑かでよい。自動車の交通量は減少し空気も澄んでくる。どこか落ち着きがあるような雰囲気に浸りながらのんびりできる感覚である。どうやら電力使用量も少ないらしい。東京という都市が通常は肥大化していることの裏返しでもある。東京では7月にお盆というのが慣例だ。我が実家も例外ではないが、やはりこの旧盆に先祖の霊を祀るというのが気分的には適している。そんなことから谷中にあるお寺へ墓参りに出掛けた。休日の佇まいである谷中の街は更に趣がある。まさに盆と正月(大晦日)には、墓参りが慣例であるから、この街を訪れては街を徘徊する。
更に上野まで出向いて、両親共々に夕食。不忍池の眺めもよく気分のよい時間になった。
お盆休みに乗じて、やや静かな本日の記事としておく。
このお盆休みが明ける頃に世間の流れに反して日本出国。今年の渡航計画である。
例年通り、海外からも極力小欄の更新を続ける。
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韓国スタミナ料理
2011-08-14
久しぶりに韓国料理店に行ってみた。新橋界隈には様々な店が軒を並べるが、中でも韓国の屋台街を模した“韓豚屋”の店内は、本格的に“スタミナ”ムードであった。暑さに負けぬ体力が欲しくなった時の韓国料理は、栄養補給として格好である。特に大ぶりの豚肉を鉄板で焼く“サムギョブサル”は気に入った。鉄板の端には白菜キムチが添えられて、それも含めてサンチュウで巻いて食すと、その肉の焼け具合と辛みと野菜との取り合わせが口の中で融け合う。ビールにマッコリとお酒も進み、さらに屋台料理として話題の“トックカルビ”なども注文。仕上げには冷麺などをいただき満足の時間が過ぎる。
今回は久しぶりに義妹との食事。震災以後は会っていなかったので、半年ぶりゆえに話も弾む。諸々の四方山話の後に、やはり人生の楽しみや苦しみを語ることも忘れない。こうした類の店としては、結構な長時間に及び一席を占拠していた気がする。
何らかの縁によりこんな食事と歓談の時間が得られる不思議。人生におけるいくつかの岐路を辿りながら、その偶然に依存した邂逅を振り返る。そんな過去を辿ることは、同時に未来の道を模索することでもある。人生を楽しむためには、時にこうした現在地測定が必要でもある。
ほろ酔い加減で駅前のSLを見上げ、地下浅い場所を走る銀座線の乗りやすさなど語りながら銀座まで。またそれぞれ、お互いの人生路へ戻るかのように帰宅。
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カフェ語りこそ心の栄養
2011-08-13
しばらく単身で生活していると、話し相手が欲しくなるものだ。よっぽど好きな犬でもいれば、毎日他愛もないことを話しかけているに違いない。1日の中で自分が話した人をカウントすると、滅法少ない日もある。自宅の食卓では、自ずと食事も速くなる。ただひたすら食べ物を喉に通すしかないからである。お盆休み前にあたり、自分が話のできる店を2日間で回った感じだ。英会話教室前に立ち寄る洋食屋さん、そしてその店に来る90歳の老人。英会話がないので酒を飲みながら様々に語った。老人には「8月15日をどういう思いで迎えますか?」という質問をしてみた。老人は「15日の数日前に、朝日新聞がポツダム宣言受諾へと動くというような、ほんの小さな記事が出ていたのをよく憶えている」と語った。当時にしてその記事を発見した老人の批評的な精神に、感激さえ覚えた。洋食屋さんの店主夫妻も、いつも明るく元気に対応してくれる。数週間アメリカに行っているという小生を、息子を送り出すように言葉をかけてくれた。実に温かい店の心温まる交流だ。
この日は、地元のカフェを訪れた。5月に“1周年記念行事”を開催して以来、常連さん同士の交流も盛んになった。常連さんたち相互にカフェを介して友人のような感覚が出てきている。お店のお盆休み前は、やはりこのカフェで語るしかないと思った。仲間である常連さん夫妻も共に、店主夫妻とお疲れ様の乾杯。地元で話のできる「居場所」があることは、小生をいつも勇気づけてくれる。店主夫妻の柔らかな雰囲気に癒されながら、3月震災以来の時の経過を回顧しつつ、しばし歓談の時となった。
店主とは特に「落語」「野球」という二つの話題を深い次元で共有できる。今回の落語への取り組みがどのようであったかという話題に触れて、その奥行の深さを噛み締め合う。自らが演じる立場を体験した者でないとわからない境地を、共有できる仲間がいるのは心強い。話していると更に新しい演目に挑戦してみたくなって来る。共通した趣味の領域で、お互いが切磋琢磨できる会話が貴重だ。
また「野球」について語ると底がない程の深淵に潜るような感覚である。少年野球時代の思い出。甲子園への思い入れ。現状の野球のあり方等々。話は尽きない。お互い人生の節々において野球を携えていることが、炙り出されるような会話になる。こうした会話に夢中になっていると、やはり「野球」は「哲学」であり「人生」であるといっても過言ではないという思いになる。
帰り際に際し、来週から渡米する小生に「いってらっしゃい!」という家族のようなことば。店主夫妻の心にはいつも優しさが溢れている。
家で語らなくとも、新たなコミュニティーを自ら創り出せばよい。
そんな気持ちに呼応してくれる温かい家庭の様な地元カフェ。
自分自身の何にも代えがたい心の栄養源なのである。
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自らがいつも実験台
2011-08-12
先週の落語発表会にご来場いただいた方の1人である馴染みのワインバー店主。ご来場への感謝の気持ちを伝えたいのと、落語に対する感想も伺いたく店に足を運んだ。うちわの学生や関係者ではない視点から、自分が演じた落語がどのように受け止められていたか。それを聴くのは楽しみでもあり、また甚だ勉強になると予想していた。会場にいる人々との対話的なやりとり、職業柄その点に関してはやはり讃辞を寄せていただいた。その上、なかなか板についた喋りっぷりであるというようなお言葉をいただくと、改めて自分が落語に挑戦した喜びを感じる。
暫くして、この店の常連さんでやはり当日ご来場いただいた方が来店。ジャーナリズム関係のお仕事ゆえ、なかなか鋭い批評眼の持ち主である。落語演目の一部を再現するようにして語りながら、その効果や演出について分析的な批評を話してくれる。そのお話に耳を傾けていると、自分では効果的だと思っていた演出が“くど”かったり、自分ではあまり必要ではなかったと思うような所作が、実は演技として深く共感していただいたということを発見。演じる側の感覚では判断しきれないことが多いことに気付かされる。
また落語会全体を見通して他の大学院生の演目についても、内部事情という偏見を排除した新鮮なご意見を提供していただけた。そんな中で、やはり演目前後の関係も重要であることも発見。前の出演者が作り上げた雰囲気を、自分のものに変えていくという会場の切り替えをどうするか等は、当日あまり意識できなかったことである。確かに自分の演技が始まって一礼をしたときに、独特の空気があるのは感じた。ただ妙な意識をせずに自分の演技に徹したのも、今にして思えば「無心」を生み出した要因かもしれない。プロの寄席に行った際に学ぶことはまだまだ多岐にわたると改めて感じ入った。
このような自分に対する批評を熱心に語ってくれる方に、何とも言えないありがたみを感じた。これも自分が行っていることを広く多方面に広報し、身内だけにならないように意図した結果である。当日の会場に様々な分野の方々が混在しており、ある意味で多様な感覚で享受していただけたことが、落語会として有意義であったのは言うまでもない。
ワインでほろ酔い加減になり、このバーでも寄席をやろうかという話で盛り上がる。単に落語だけでなく、大喜利のような“お題”に対して、常連さんたちが答えるという企画も面白いと話が弾む。
自らがいつも実験台。実体験なくして進歩なし。
どんな立場になろうとも、自らが進んで新境地に挑む開拓者でありたいと改めて悟った。
批評される側に立つことを恐れることなかれ。人生は常に挑戦である。
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「少し上」の積み重ね
2011-08-11
自分ができるレベルの「少し上」で鍛錬するというのが、語学上達の秘訣であるといわれる。甚だ手の届かない高いレベルであっても、難なくこなせてしまう容易なレベルでも、上達の努力が削がれてしまうということらしい。そのレベル設定という時点で、自らの能力をどの程度に見積もるかという問題を含めて、自分を知るということが不可欠なのは言うまでもない。語学ばかりでなく、身体的なトレーニングも同様である。自分がどの程度動けるのかを見定めた上で、トレーニングレベルを設定するかが大切だ。そんなことを、この日に参加した有酸素トレーニングを行っていてふと思った。
昨年までは筋トレ中心のプログラムに参加していた。しかし、やはりバランスよく筋肉を鍛えたら、脂肪燃焼にも取り組むべきであるとインストラクターのアドバイスをいただいた。そこで始めたのが30分のショートクラス。レッスン中の基本的な動きを丁寧に指導してくれるクラスである。ここでの鍛錬を重ねるうちに、次第に心肺機能も高まってきた気がする。30分で苦しかったトレーニングが、今や60分のクラスで自信を持ってこなせるレベルになってきた。
そこで、「少し上」を見据えるにはどうしたらいいか考えた。
それは一つ一つの動作に手を抜かない事である。そう心得ると動きにキレが出てくる。ただ動くのではなく、動作を“キメる”。換言すれば見た目に美しく動こうとするのである。すると、やはり運動強度が上がったようだ。またランニング動作になった時には、足をお尻に着くまで上げ切る。更には、他の方が給水しているタイミングでも心拍数を落とさないよう動き続ける、といった取り組み方を心得るだけで、かなり有効な「少し上」のトレーニングができるようになった。
そのように自分を追い込んでいることが、次第に心地よくなってきた。この日は、60分を爽快に駆け抜けたような印象である。昨年9月に始めた時点からすれば「かなり上」まで昇って来た感がある。
いつも「少し上」を見定めて自分を追い込む。すると時間の経過とともに、かなりの高みまで昇って来ていることが自覚される。最初から高みは目指せない。日々の「少し上」こそ大切なのである。
怠ければ衰えてしまうのも身体。脳の働きも同様のはずだ。
「少し上」を積み重ね続ける。それこそ偉大な業績を残してきた人々の生き様そのものであるはずだ。
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引用に伴う思考
2011-08-10
小欄も例外ではないが、他者の文章の引用をする場合がある。本来は自分の意見を述べる筈の場において、なぜ他者の考え方を引用することになるのだろうか。その考え方に共感したか、あるいは批判的に思えたかという賛否に依存するのが、大方の動機と言えるであろう。ならば引用した考え方に対して、自らがどのように考えたかを明らかにしておく必要があるはずだ。毎度、学生のレポートを読むと考えさせられるのが、この「引用」における姿勢である。レポートの大半を「引用」に費やし、どこが自分の考えであるかがなかなか読み取りにくいものもある。また自分のことばで自分が考察した内容を、端的に説明しているものもある。どちらがレポートとして好ましいかは言うまでもあるまい。
確かに自分自身が学生時代にも共感した論説を引用し、なぜ共感したのか、どこが優れた批評なのかを説明するのに躍起になっていた気がする。時に共感は妄信となる危険性を孕み、自らの解釈が歪むこともあった。そんな経験を振り返れば、やはり「引用」に対しては批評的な視点を保ってこそ、その意義があるのも自明のことであろう。
他者の意見に同調するのは、ある意味で簡単である。日本人の多くは「同調」をよしとするが、果たしてどこまで奥深く理解し、批評的視点をもって同調しているのかが疑わしい。
TwitterのRTなども「引用」の典型と言えるのだが、そのネットワーク自体の雑種性から、様々な誤差が生じる場合も多い。まったく違う角度で捉えられたことばが、次々とWeb上を徘徊し、書いた者の意図とは異次元な領域へと侵入することさえある。
意見表明をするからには、何らかの議論を経ている必要がある。その出発点に、ある考え方を据えるのも必然であろう。ならば、その考え方と自らの考え方との距離感を示しておくことが、引用における基本的な姿勢である。Web上の様々なことばは、この過程が抜けてしまっているところに多くの問題が生じているのが現状であろう。
自らのことばで咀嚼する。
そんな思考を忘れずに、先達の卓見に耳を傾けていきたいものである。
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自然の制御を「ことば」で~立秋の思い
2011-08-09
8日は立秋。1年間で一番、その内実と暦の上での規定が食い違う日かもしれない。この暑さの中で「立秋」と言われても、まったくピンとこないからである。暦というもの自体が人間の後付した理屈であるとともに、地域差があるのと同時に現代の日本に適しているとも言えない。夏と秋と行きかふ空のかよひぢはかたへすずしき風や吹くらむ(古今和歌集・夏歌・巻末歌)
秋来ぬと目にはさやかに見えねども風の音にぞおどろかれぬる (同・秋歌・巻頭歌)
この2首の和歌。後者はあまりにも有名であるが、前者は広くは知られていない。だがこの2首こそ、「ことば」によって夏から「立秋」への思いを切り取った表現なのである。
日本で初の勅撰和歌集『古今和歌集』では、最初の6巻に「四季」の部立が配されている。うち春秋は2巻ずつであるが、夏冬は1巻ずつであり歌数もかなり少ない。暑さ寒さという厳しい条件下では、和歌もあまり詠まれなかったとここでは単純に説明しておく。しかし、中世へと時代が変遷するにつれて、夏冬の美観も多々発見されていくのである。
勅撰集である『古今和歌集』が、なぜ「四季」の歌を巻頭に据えて重視しているかといえば、天皇が「天地(自然)」を制御する為の指標という政治的意図が強いからだ。通常ではどうにもならない暑さ寒さを、「ことば」で説明することで為政者が制御しようとする発想があるのである。もちろんこれは、日本独特なものではなく中国の詩論を先達とする。
それゆえに、「立秋」も「秋になった」と解するよりは、「秋を待望し始める」と解してはどうだろうか。いにしへの人々も暦の「立秋」で、決して「秋」を大仰に感じていた訳ではない。「かたへすずしき風や吹くらむ」と「(空の)片側には涼しい風が吹いているのだろうよ」とする。裏を返せば「かたへ」は「暑い風」なのである。また「目にはさやかに見えねども」とはっきり見えないものを、「風の音」によって「おどろかれぬる(はっと気づかさせられることよ)」という。これも無理矢理に「秋」を見つけようとしているとも言える。
節電によって、「暑さ」が一層感じられる夏であるからこそ、いにしへの季節の感じ方を見直してみるのもいい。
制御しえない自然を強引な科学技術ではなく、「繊細なことば」で制御しようとした平安時代人の知恵に、我々は今こそ学ぶべきなのかもしれない。
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心の栄養補給
2011-08-08
落語イベントを終えてみて、一夜明けるとやはり精神的な疲労が大きかった。もちろん打ち上げでの酒の影響。夜中に暑くて窓を開放した影響なども作用しているとは思うのだが。筋肉痛ではない精神的な集中後の疲労感を癒す1日となった。昨日のことを振り返れば、やはり「虚無」な状態がわずかな時間でも訪れたような感覚である。そこに至る集中力を作り出すのには、様々な精神的作用が必要であったのだろう。一時的なる「虚」なる心身から「実」へと戻るには、やはり休養が必要であったようだ。
大好きな野球中継を観て過ごした1日。やはり好きなものが一番自分自身の元気を回復させてくれる。
そして夜はNHKBSプレミアムで「空海・至宝と人生」を観た。不動明王はなぜ怒りの表情をしているのか?それは「人の心」には必ず耐え難い怒りがあるからだという。そして、その「怒り」の中に優しさが潜む。「慈悲の菩薩・怒りの不動」があってこそ無限な曼荼羅としての「宇宙」が形成されるという。
「人を救うのは人の心、仏は人の心の中にあるのだ」
そんな空海のことばにまた癒された。
時に心の栄養補給が必要ゆえ、完全休養日は貴重であった。
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落語による没我
2011-08-07
大学のプロジェクト「教員養成に落語の力を」の発表会が催された。約1年半の月日を費やし、大学院生3名と小生が落語に挑戦した。当初は3月に発表会を予定していたが、震災の直後で行えず、この日の開催となった。今までのお稽古とは違い、30名以上の聴衆を前に語ることで新たな境地を発見した。それは「没我」といえば大袈裟でもあるが、語っている最中の記憶が曖昧なのである。自分とは違ったもう一人の自分が起動し、落語を演じているような不思議な感覚である。終えてみれば、師匠たる噺家さんや周囲の方々になかなかのできであると讃辞をいただいたが、自分で自分の語りを評価するのが難しいほどの状態であった。
なぜこのような状態になったのだろうか。今思えば、大きな原因が聴衆の力だ。小生の授業を受講していた学生・院生。その学生の親御さん。Twitterを介して知人となった方々。以前の職場の同僚。そして小生の母親。そんな多彩な聴衆の混在性が、それまでになかった語りの境地に誘(いざな)った。
これまでの経験では、例えば中高大学の授業という場合、語りの対象となる人々は学生として、ある意味での一律性を持っている。少なくとも授業の場合、その学ぶ目的は同一な筈である。ところが、このような多彩な聴衆であれば様々な意識が渦巻いている筈である。そうした対象を前に語ることの壮大さが、いつしか自分を「没我」的な境地へ追い込んだような気がする。
落語は、表面的には一方的な語りである。聴衆は笑うか・黙るか・拍手をするか・寝るか等の限定した手段で、語り手に対しての態度を表明する。授業であれば、聴く側がいかに参加して発言するかという内容に拠って、様々な化学反応が生じる。一見、大きな違いがあるようだが、聴衆の表情や態度からその場の状況を掴んでいくという意味においては、落語も授業も共通した感覚がある。聴衆の状況や要求がどこにあるのかを捉え、その一人一人に語り掛けていくという行為によって、世界でそこにしか存在しないライブ感を産み出していくのだ。
たぶん、上演中に会場に居る全ての方々と対話した結果、自らが「没我」にならざるを得ない不思議な領域に足を踏み入れたと言えば、この日の体験の説明になるのではないかと思う。
語りは対話を醸成する。
日本の古典芸能としての落語は、そんな人と人とのコミュニケーションを形成してきた偉大なる話芸なのであると改めて実感した。
落語を含めて、「語り」とコミュニケーションとの関係が眠る森の入口までと到達した思いである。
今後の森林冒険が、たまらなく楽しみになって来た。
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文字数と情報量
2011-08-06
小欄には字数制限があるわけではないので、毎回特に意識せず文章を書いている。だが、様々な原稿、例えば論文・レポート・雑記などにしても字数制限を伴うのが常である。大学の学部時代などは、嫌いな分野のレポートで何とか指定の文字数を埋めるのに躍起になるほど未熟であったのを懐かしく思い出す。本来、文字数は埋めるものではなく、表現したいものを形作る創作行為である。小欄のようなブログには字数制限がなかったが、それをWeb上で強力に意識させたのがTwitterである。140文字という制限内でどのような表現ができるか。使い方は千差万別であるが、140字の制限は誰しも公平に与えられた条件である。そこで問題になるのが、言語の表現機能である。
英語話者による140字と、日本語話者によるそれは明らかに情報量が違う。一単語に多くの文字量を要する英語では140字の制限では、僅かなことしか表現しえない。しかし、漢字文化に依拠した日本語では、漢語の使用次第で多くの情報量を詰め込める。同じ条件にも関わらず日本語話者のTweetは、一つあたり表現力が豊かなはずである。
そのTweetを連続して7~8回繰り返せば、立派なエッセイとして1000字前後の内容表現も可能だ。場合によると十分にブログ的な機能を果たしているTweetもよく見かける。要は、日本語としての有利さをどれだけ活かしているかということだ。漢字仮名混じり文であるという表現形態を、存分に活かせば無限の可能性が広まるようにも思う。
それだけに140字の表現世界にどれだけ遊べるかという興味もわく。共通に与えられた条件の中で、飾りを削ぎ落としてどれだけ有効な表現をするか。はてまた無駄があってこそ豊かな表現になる場合もある。そのバランス感覚を意識すれば、要点が纏まった段落を構成していく文章作成能力も養えるであろう。
などと書いていると、いつしかとりとめもなくなる。字数制限があれば更に簡素化できそうな内容である。それゆえに小欄とTwitterとで、どのような役割分担をするかが、文章創作者としての責任のようにも思う。
いつしか小欄の1段落が140字前後になっている自然に気付く。
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