金縛りと健康的睡眠
2011-05-31
知人の若い女性が、最近金縛りにあうということをTweetしていた。すかさず小生の過去の経験をRTした。「昔、一本背負いで投げたことがある。気付いたら回転してベッドから落ちている自分がいた。(笑)」
ある種、笑い話のようなので、彼女も「道端でニヤついてしまったじゃないですか 笑。」と返信してくれた。だが、このこと自体は、紛れもない事実の経験なのである。
就職して間もない頃であったか。毎日仕事に没入し自分自身を顧みる余裕もなかった。自宅のベッドで寝ていると、意識はしっかりあるが身体がまったく動かない状態になった。とうとう金縛りに憑りつかれたかと頭では考えていた。一般的にこうした状況で目を開けると、何物かの姿が見えたりするというので、恐怖にも怯えてしばらくはそのままの状態で目も開けずに耐えていた。次第に苦しくなったので、力を振り絞って身体を動かそうとすると、何かを跳ね除ける様にして、身体が解放されベッドの左下の床に一回転して転げ落ちていた。そこで我に返った。
果たしてこの経験は、金縛りで憑りついたものを、一本背負いで投げたことになるのだろうか?
冷静になって考えてみると、仕事・仕事で追い込まれていた身体は、脳に先行して疲れて寝てしまい、そこで脳だけが覚醒していた状況だったと自分自身で理解した。神経による身体への活動命令が遮断された状況で、まさに脳だけが数分間活動していたのであろう。脳だけが自分の身体のあり方を捉え、悩んだ結果、一気に身体への行動神経回路が繋がったのだと思う。もちろん、これは脳科学や生理学的に確かめたわけではない。ただ、自分でそんな感覚だと思えるだけである。
古来より、夢などを始めとして、睡眠中の怪奇現象というのは様々な話として伝承されてきた。それは、やはり身体そのものがどのようなものであるかという、人間自身への問い掛けが潜在するからであろう。先述した体験があるから、脳と身体の関係を感覚的に把握したような気になったのも、人間としての性(サガ)であろうか。
最近は、実に安眠できる日々が続く。短い睡眠でも疲労が回復し、朝起きるのが辛いという事は殆どない。むしろ一定な時間に必ず目が覚める状態が続いている。それは休日でも同じだ。
一生の三分の一が睡眠だという。寝ることは幸せであると思いたい。それはそれで人間として健康的なのだと自覚する。
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東アジアの中の日本語
2011-05-30
手紙で「・・・・・・候」といった文体を、時代劇以外で目にしたことがあるだろうか?自分の祖父母からの手紙の文体に、こうした語彙が表れていたかどうかということである。明治時代生まれの人であれば、けっこうこうした語彙を使用し、仮名遣いも旧仮名が混在する。「てふてふ」などと書いて「蝶々」と読むのだという、古典の時間に学習するような内容が、実用の中に顔を覗かせるような場合だ。これが世代間の言語文化の継承の一例でもある。
岩波新書『漢文と東アジアー訓読の文化圏』の著作がある、京都大学・金文京氏の講演を拝聴した。題は「日韓漢字・漢文教育の比較と問題点」である。東アジアの漢字文化圏にある日韓2国において、「漢字・漢文教育」のあり方においては、歴史的に様々な変遷があり、その差はとても大きくなってきているという。
「自国の国語教育の中で、外国の古典を原文で教えている。」
これはどこの国か?日韓どちらかおわかりだろうか?
まさしく日本である。こんな状況に無自覚である多くの人々が、嫌々ながら中学・高校では「漢文」を学んでいるのが日本の現状だ。しかし、嫌々はさておき、たいていの場合が深い意識も持たずに「漢文」を学んでいる。この状況は外側から見つめると不思議なことなのである。
韓国の場合は、「国語」とは別に「第二外国語・漢文領域」として高等学校の選択科目として学ぶのだと講演で教えられた。その学び方は、「日本=訓読・韓国=懸吐(朝鮮漢字音で読み助辞を挿入)」という伝統的な読み方で行うという共通点もあるということだ。
韓国では1945年に「漢字廃止案」が施行、1948年には「ハングル専用法」公布。その後、ハングル専用を主張する民族派と漢字併用を主張する対立し、50年文字戦争の様相を呈したという。周知のとおり、現在では「漢字」を理解できる人が減少してきているようである。日本では、韓国の人名や地名などの固有名詞を表記する際に、漢字が使用される場合もあるが、それでも「ペ・ヨンジュ(裴勇俊)」と漢字で書ける人は稀だろう。
歴史的漢文教養主義に立脚した上で、自国のいわゆる変体漢文を排除してきたという漢文教育上の共通点を持つ日韓両国。こうした相違点・共通点を総合的に勘案し、東アジアの漢字文化圏のあり方を考えていくべきであると、講演を通じて再認識した。
金文京氏は、日本における最近の命名についても疑問が多いと語った。命名の場合、読み方に制限がない日本の法律であるゆえに、通常の音訓から逸脱した読み方が増えているからだ。そうなると本人に尋ねない限り、名前の読み方が不明な場合が出てくる。事実、最近はそれが多い。文字が公用語として読み方という基本的な範囲で共通認識を失うことは、文化的現象として懸念される材料になるはずである。
世代と共に言語も変遷する。だが深い文化的背景を持った根幹となる部分が必ず存在する。言語は文化であるという自明のことをふまえ、日本語は、東アジアにおける漢字文化圏の一員であるという認識を、常に見つめ直していかねばならない。
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孟母断機
2011-05-29
いま日本語入力してそのまま変換された。要するに故事成語として認定されている四字熟語。日常的な会話の中からは、次第に姿を消していくものも多く、日本語としての含蓄ある一表現として惜しまれる思いである。「孟母断機」を辞書で引けば次のようにある。
「孟子の母が、学業途中で家に帰ってきてしまった孟子に、学業を中断するのはこれと同じだと、機で織りかけていた布を断ち切って戒めた故事。」(『漢字源』学研)
「孟母三遷」の故事もある孟子の母は、教育熱心で知られる。こちらは環境が子供に与える影響を考えて、3度も住居を移動したという故事だ。
母が子供にたいして妥協なく学問を勧める姿勢。どこか現代日本の「お受験」に重なる感覚があるが、実はだいぶ趣旨は違うような気がする。よいと思われる学校に入れることが目的化している「お受験」。それに対して、孟母は学問そのものを修めることを、自らの行動を以て子供に示している。
手間暇かけて織りあげた布を断ち切るという行動は、なかなか現実には難しいはずだ。それを見た、孟子はもちろん学問を継続することを悟った。
このような故事成語の世界から一歩外に出てみると、我々の日常への戒めであるとも受け止められる。継続してこそ意味があるものを、生活の流れの中で放置していないだろうか?毎日毎日を機で織りあげるように、人生で成すことを積み上げる。諦めて放置するのは簡単だが、それでは何らかを織り上げてきた自分に対しての裏切りでもある。
ある研究会に参加して、四字熟語の深い含蓄を噛み締め、改めてそのことばを自分の問題として見つめ直した1日であった。
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古典文学への扉
2011-05-28
週末に中古文学会を控え、宮内庁書陵部で資料展観があった。竹橋駅から御堀端を歩いていると、何人も知り合いの先生方と挨拶を交わす。中古文学研究という研究者の集団が、実に大きな世帯であるのを改めて感じながら。北詰橋門には書陵部職員の知り合いの方が案内役をしており、立ち止まって挨拶。普段は活字本を中心に接している古典文学に対して、いにしえの筆跡がそのまま見られる門がそこにあった。
書陵部内に入り展観室に行くと、この道の大家である先生方を含め、多くの研究者が資料を閲覧している。何人かの方々に挨拶をしつつ、小生も資料に見入る。
古今和歌集(清輔本系片仮名本)建久2年(1206)写 伏見宮家本
古今和歌六帖(御元祖御筆=桂宮初代智仁親王)
和泉式部日記(三条西家本)
雲図抄(内裏恒例行事指図集)藤原重隆(1076~1118)撰
もちろん、他にも閲覧者を満足させる資料が豊富に展示してあり、さすがは宮内庁書陵部であると実感する。
普段、何げなく読んでしまっている古典作品であるが、こうした「実物」を閲覧すると、更に深く読み解きたいという本能的な願望が触発される。
長い時を経て先人の知性を今に伝える古典籍。
ことばの普遍性に身を委ねながら、再び文明の利器である地下鉄に乗り、大学へと向かう。
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広瀬隆氏『福島原発メルトダウン』(朝日新書)
2011-05-27
一貫して原発の危険性を大きく主張してきた著者の最新刊。東電が「メルトダウン」という言葉を使用して発表を行ったのはつい最近のことだが、広瀬氏は3月中から一貫して福島の「人災」は、このレベルに達していることを主張してきた。Web上の映像、あるいは4月下旬には直接会場に足を運び、広瀬氏の主張に耳を傾けてきたが、その流れが余すところなく、この新刊に書き込まれている印象だ。序章で「私の悪い予感が現実になった」と、著者らしい口調で語り始める。第一部では、福島第一原発事故が「人災」であることを3点から主張する。第1章「津波に暴かれた人災」第2章「東電・メディアに隠された真実」第3章「放射能との長期戦」である。いずれも著者の持つ豊富な知識をもとに、原子炉の構造・放射能の性質など、今我々が必要とする知識を、わかりやすく解説している。同時に、東電・メディアやそこに登場する学者が、いかに事実を隠蔽しているかが如実に伝わってくる。
第二部では、日本列島に地震が頻発する構造を紹介。その上で、阪神淡路大震災を契機に、日本列島が巨大地震の激動期に入ったことを解説する。この16年間で起こった地震や火山活動がそれを裏付けている。この激動期において、一番危険な立地にある原発が浜岡であると痛烈に主張し、即時停止を求めている。(著作時点では停止の発表はなかった)さらに全国に点在する原発の危険性を場所ごとに指摘。中でも中越沖地震で「致命的ダメージ」を受けた新潟県柏崎刈羽原発においても、寸でのところで大惨事になるところだったことがよくわかる。
かなり以前から、広瀬氏はこうした主張をTVなどで繰り返してきた。例えばTV朝日の「朝まで生TV」の激論などに参加していたわけだ。その発言・主張のあり方から、議論の中で常に「異端」扱いをされ、他の参加者などによる攻撃的な反論を受けていたのが思い出される。
確かに、今回の新刊でも「・・・・は嘘だ」などという表現を眼にするとき、広瀬氏がこうした扱いに及んでしまう原因の一端を垣間見る気がする。だがしかし、それが公共の電波を使った上での公正な「議論」であるならば、少数ながら根拠をもって主張する意見を、嘲笑うかのように攻撃する風潮は、大きな問題であると当時から思っていた。結局、広瀬氏を攻撃することで、原発推進派の詐欺的な発言がまかり通り、今回の「人災」を引き起こしたといっても過言ではない。少数意見に耳を傾けるどころか、「異端」を叩くことで自分側の利益を正当化していこうとする悪質な腹黒さを、我々市民たる視聴者は見抜かなければならなかったのだ。
広瀬氏に対する今までの社会的評価を考えるにつけ、悪者を作り上げて叩くという日本社会の歪んだ構造や、メディアリテラシーの成熟度の低さを思わざるを得ない。これだけの惨禍に直面してもなお、未だに一部の情報しか眼にしていない人々が、原発や放射能の危険性に対して鈍感であるのは、何とも「穏やかな日本社会」であるかと驚嘆を以て皮肉るしかなくなる感がある。
昭和の歴史から尾を引いて社会に残された負の習慣。異端を叩く。臭い物には蓋。このような社会の認識を、根底から変えていく機会がまさに今なのだ。
直接本人の肉声で主張を聴き、緊急に刊行された著書から直近の主張を読む。広瀬氏の実に分かりやすいプレゼン力や、丁寧に説明しようとする文章を見つめるにつけ、内容以上に、日本社会が産み出した「人災」であることを、深く考えさせられるのである。
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無常の自覚
2011-05-26
「世は定めなきこそいみじけれ。」日本古典の中でも著名な兼好法師『徒然草』の名言である。世の中は一定しない(変転し無常である)からこそ素晴らしいものだ、といったほどの意味だ。すべてのものには終わりがあり、始まりがある。人間もまた同じ。しかし、それだからこそ、物事には素晴らしさが生じるのだという至言である。命の無常さを自覚することは、中世の時代相であるとともに、人間が差別なく公平に持つ普遍的な真理でもある。
長きに渡る平和で安泰な世を経て、実力重視の武家社会に移行した鎌倉時代。栄華の絶頂に君臨した平家が、瞬く間に滅んでしまったという無常を、琵琶法師の語りで描いた『平家物語』もまた、人間が永遠には生き続けられないということを歴史的物語の中に浮かび上がらせる。まさに「盛者必衰の理(ことわり)」こそ、人間世界なのである。
『徒然草』41段には、次のような話も書き付けられている。
京都賀茂の競べ馬(5月5日)の際に、見物人が大勢押し寄せて、観るのも困難な時のこと。向かいにある楝の樹上で、法師が一人見物しながら居眠りをしている。群衆はその法師を「世の痴れ物(天下の馬鹿者)」と嘲り呆れる。しかし、そこで兼好がすかさず「我らが生死の到来ただ今にもやあらん。それを忘れて、物見て日を暮らす、愚かなることは、なおまさりたるものを」と発言する。「自分たちの生死の到来も、今すぐであるかもしれない。それなのにこんな見物をして一日を過ごしている。愚かさは樹上の法師より、なおひどいのではないか。」といった解釈だ。居眠り法師が、誤って樹上から落下するのと同じく、我々もいつ死に直面するかわからないという「無常観」を兼好が明快に述べたという話だ。群衆たちは、この兼好の言葉に感じ入り、場所を空けて呼び入れてくれたという下りが続く。
この段に対して、角川『鑑賞日本の古典 徒然草』(冨倉徳次郎・貴志正造)では、19世紀フランスの作家、ユゴーの有名な言葉が想起されると鑑賞する。
「われわれはことごとく死刑の宣告を受けている。ただ不定の猶予を与えられているに過ぎない。」
厳しい言葉だ。死刑という人為的に死ももたらす装置で、人間存在の道理を言い切ったあたりが、何ともフランス的でもある。罪状もないのに、なぜ人間最後には死ななければならないかという、宿命的な矛盾をも感じさせるほど辛辣な言葉にも聞こえる。平穏な世の中に慣れきった我々には、抵抗のある言葉でもあろう。
それに引き替え樹上の法師は、やや滑稽さも伴いながら「無常の理」を我々に伝えてくれる象徴的な存在として機能する。しかし、角川『鑑賞』が指摘するように、その法師の姿こそ、生命のはかなさを語り出す実に辛辣で厳しいものだと言う事もできる。一瞬の「居眠り」によって一生が左右されるかもしれないというのは、生きることの緊張感と厳しさが込められた「無常の自覚」ということができようか。
東日本大震災により、一瞬にして奪われた多くの命。それを目の当りにして、我々はこの中世的な「無常観」にも似たような感覚を再び胸に刻み、人間存在を考えて行かねばならないだろう。
同時に、東日本が未だに逃れられない原発への不安。長期的な時間の中で、人間存在が脅かされ続ける懸念。
平穏で成長著しい昭和の時代から、失われた20年を経て、いままさに新たな「無常観」を含有する時代に突入したとも言えよう。
雅やかな平安時代から、頽廃混乱の平安後期を経て、戦乱の鎌倉期に移行した歴史を持つ国として、今をどのように未来に繋げるか。中世的「無常観」を言い当てた先人の言葉に目を向ける必要があるかもしれない。
個々の日本人の挫けない心と、原発問題終息への強い意志を、世界中を証人として歴史に刻もうとしている「今」が横たわっている。
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今を生きる、それ以外ない
2011-05-25
「邂逅」それは思いがけないが、人生の中でも重要な機縁となる出逢い。意図せず予想もせず求めず。そんな自然な心のあり様の中に、ふと訪れる限りなく尊い時間。遠い存在を遠くからのみ眺めていては見逃してしまうこともあるが、勇気をもって真摯に語り掛けると、揺るぎない力が返ってきたりする。邂逅の夜、まさに人生の縮図でもある。夕刻に散髪を済ませてから、ふと足が向いた馴染みのBar。カウンターには、俳優の入川保則さんがいらしていた。この3月「がん告白余命5か月」を公表した名脇役である。
しばらくは、店主と入川さんの会話を聞きながら、他の常連さんたちと談笑。次第にカウンターの雰囲気も和やかになり、入川さんのお話に我々も合流する次第になってきた。雑誌に掲載された写真記事や来月出版されるエッセイ表紙のゲラなどを、我々に披露してくれた。またWeb音楽配信を使って歌手デビューも果たすという。こんな大車輪の活躍ぶりを伺うにつけ、病と闘っているような気配さえ感じさせないほど、お元気であった。
先日、東日本大震災支援の為、入川さんが「チャリティー朗読会」を開いたことを存じ上げていた。朗読を一つの研究対象としている小生としては、ぜひ聞いてみたいことがあった。カウンター全体の話が落ち着いた瞬間、入川さんに質問を投げ掛けた。
(小生)「朗読をなさるときに、一番大切にされていることは何ですか?」
入川さんは、「うん・・」と一つ頷き、俳優らしい力強い声で淡々と語り始めた。
(入川さん)「作品の情景を、映画のように頭の中に浮かべ、それを人に説明するように語り掛けるんだよ」
(入川さん)「それと、決して大勢に聞かせると思ってはいけない。会場にどれほど多くの人がいたとしても、常に一人に語り掛けるように読むんだ。」
(小生)「私は、朗読を教育の中にもっと取り込む為の研究そしているので・・・」
(入川さん)「それはいい!子どもたちが、ただ読んだだけでは作品の良さはわからないからね。(自分の感じたことを)人に伝えることが必要だと思うよ。」
こんな貴重なお話を伺うことができた。
その後、小生の支持するある有名人の方も偶然の来店。入川さんと様々なことについて語り合い、新たな化学反応が起きたかのようだった。
カウンターに、それぞれの人生が並ぶ。ふとした会話から、その生き様が覗き見えてくる。そんなことばに真摯に向き合うと、ふと自分の生き様と照らし合わせていたりする。
余命5ヶ月と宣告を受けた入川さんの精力的な生き様を垣間見て、自身の甘さを省みた。どんなことに直面しても、覚悟と勇気をもって前に進むべきだと。そしてかけがえのない今日という1日を、精一杯生き抜くべきだと。
人として生きることの尊さを、入川さんから教わった宵のうち・・・。
これ以上ないと思うほどの濃密な時間。
これぞ邂逅。
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6つの帽子発想法の実践
2011-05-23
毎週日曜日夕刻6時放送NHKEテレ「スタンフォード白熱教室」の4回目。今回は「6つの帽子(エドワード・デ・ボノ博士)」を実際に体験する授業であった。この発想法は、人間の発想傾向を6つに類別し、各々の長所を把握した上で、組織の会議などに活かそうとするもの。自身が好感を持てる発想もあれば、嫌悪する発想もある。それを敢えて簡潔に漢語二字で表現すると次のようになる。緑=創造
白=事実
青=過程
黄=調和
赤=直感
黒=批判
(*それぞれの語が表現する発想を好むということである。)
この発想法に基づき、「個人商店が大型店に統合するには?」という課題について考える。4人1組のグループ全員が、同じ発想法の立場になって思案する。各色について体験したところで、自分が一番嫌いな発想法と一番好きな発想法での発案を体験する。
授業に参加した学生たちは、もともと自分がどの類別であるかを確認している。だが敢えて様々な発想法を体験し、嫌いなものまで体験することによって、課題を解決するには、様々な発想をする人々が必要であることに気付く。すると組織内で会議をする際などに、自分と違った発想類別の人の考え方が尊重できるようになるというものだ。
見方によれば、1人の人間の発想法を固定観念として捉えかねず、自分が類別された発想法に縛られる危惧もある。世間に頻繁に流布する、星座や血液型による人間類別にも似ている。
しかし、自分以外の発想法を模擬的にビジネスモデルで体験してみることで、他者の立場を理解する許容範囲が持てるようになる。この授業で体験したスタンフォード大学の学生たちも、発案の際に一つの発想類別しかないと行き詰るということを体感していたようだ。
人間社会は各々が千差万別であるが、そこに何らかの類型を見出す営みを文明は形成してきた。その営みは時として「差別」という偏見に悪用されてきた暗い歴史も多々ある。しかし、類別し違いを認識し相互に体験することで理解し合えるということもあるはずだ。それでこそ、文明の平和利用ということになる。
スタンフォード大学のディナ・シーリング教授の授業は、決して理論を提示するのみならず、教室内で実践して体験する所に特長がある。ゆえに、学生たちがまさに「腑に落ちる」のである。
番組の後半のインタビューの中で、シーリング教授は次のように述べていた。
「今までの学校教育は、科学的な思考が中心で物事を「発見」することに傾いていた。しかしブレインストーミングという方法を使って、「発明」できる発想を身に付けていくべきだ。私は、自分が学生時代にあったらよかったと思えるような授業をいつも目指している。」
毎回この番組を見ていて思うのだが、日本の大学教育は、根本的な発想転換を行わないと、世界標準から遅れていくばかりだと、深い危機意識を抱くのである。
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古典文学の社会的意義とは?
2011-05-22
毎度、日本文学の古典に関する研究会に参加すると考えることがある。果たして社会の中での意義や効用をどこに見出すべきかと。研究会例会では、様々な文献を対象に、考察の視点も多岐にわたる発表が為される。現存の歴史的資料を丹念に羅列し、人物の事績を明らかにしようとするもの。作品のあり方に言及し、表現を頼りにそこから特徴を見出して行くもの。現存する文献の価値を見定めて、過去を掘り起こしていくもの等々。各研究者の詳細な考察ぶりには、いつも頭が下がる思いだ。
元来、古典文学などを研究対象にしている以上、現代社会との連接など頭に置くべきではないのかもしれない。近代化した現代社会のあり方よりも、いにしえの人々の足跡に興味の対象があるのだから。遥かなる時間が経過した中で、現在で知り得る資料を詳細に奥まで紐解く。単純にそんな時間旅行に感嘆していれば、ある意味で古典研究は成立するのだろう。
東日本大震災を機に、高度に進化した文明に依存した生活観を見直す動きがある。電気供給不足から、節電が呼び掛けられることで、暗闇の美しさや季節ごとの気温変化を敢えて享受する生活姿勢である。どうもこんな動きに対して、大きく構え「日本文化の再考」などという看板を掲げたくなる。「陰翳礼讃」「家の造り様は夏をむねとすべし」など、日本文化に対する評論や古典作品から学ぶことは多い。これを機に季節観を見直してみるのもいい。旧暦の中で示される、様々な季節の座標を改めて意識し、その美しさに目を向けるのも「をかし(趣がある)」ということになろう。
文明の進化とともに、学問も多様化してくるのは必定だ。古典を対象にしているゆえに、伝統的な手法が尊重されるのもまた然り。だが研究方法に何らかの制約や規制があるわけではない。自分が持てる問題意識を、どのように形にするかが研究である。そんな独自な思考が繰り返されて、現在の研究体系も成立しているはずだ。
現代人として古典をどう考えるか。現代社会とどのような文脈で連接を見出すか。
文学研究そのものが過渡期であるゆえ、そんな自問自答をもとに自身の研究のあり方を見つめ直す機会こそ、毎回の研究会の場であると認識する。
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1から10までどう数えますか?
2011-05-21
1から10まで声に出して数えてみる。1(いち)2(に)3(さん)4(し)5(ご)
6(ろく)7(しち)8(はち)9(きゅう)10(じゅう)
つぎに10から逆に数えてみる。
10(じゅう)9(きゅう)8(はち)7(なな)6(ろく)
5(ご)4(よん)3(さん)2(に)1(いち)
とやったところで気付くことはありますか?
大学の講義の冒頭でこんなことを問い掛けてみた。それも実際に、4人1組で机を移動してカフェテリア形式で座っている学生たちに、グループごとに声に出して昇順・降順それぞれに4組ずつ「発声」してもらった。
4人の数え方が、グループ内でぶれることは殆どなく、全国様々な出身地である学生たちが、ほぼ同一の数え方ができるという事実も発見した。(もしかしたらグループ内で、違和感をもった学生が、声を小さくしていた可能性はあるが)
これに対して、気付いたことは?という問い掛けにはなかなか発言がない。ある男子学生が手を挙げて、
「昇る時は声が次第に大きくなっていったが、降りる時は小さくなっていきました」
と答えた。確かにそうだ。無意識のうちに数が大きくなるという感覚が声に現れる。これも貴重な気付きである。と同時に、未だ授業が数回目という学生同士が、4人1組となったとき、最初に声を合わせる時には、顔を見合わせてやや躊躇して声を出したという背景もあるだろう。
さて、この昇順・降順2つの数え方で気付くべきことはこうだ。
4を「し」と読むか「よん」と読むか
7を「しち」と読むか「なな」と読むか
である。
これは井上ひさし氏が上智大学で行った講演録『日本語教室』(新潮新書2011年3月刊)の「芝居はやまとことばで」(P95)に記されている。なぜか、降順で読むと「4」と「7」に「やまとことば」が顔を出す。井上氏の言葉を借りれば「本性が現れる」のだという。
数え方などは、我々日本人全体がほぼ共有する身体化した技術であろう。しかし、実は、その深層には、日本語の歴史の一端が顔を覗かせる。身体化して無自覚になった「発声」は、意思なき統一によって支配されることになる。
声に出して読むことで発見できることはたくさんある。自分の声を意識して捉えることで見えてくる深みがある。
数え方ひとつにも、漢語とやまとことばが混在しているという、日本語の特質を考える契機が潜んでいる。
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