井上ひさし『創作の原点 ふかいことをおもしろく』
2011-04-30
井上ひさしさんが亡くなって、今月9日で1年。小欄でも井上さんを偲ぶ講演会の模様などをレポートした。そんな折、NHK BSハイビジョンで2007年に放送された「100年インタビュー」をもとに原稿化された『PHP研究所刊 井上ひさし ふかいことをおもしろく』が刊行された。井上さんの幼少時の体験、作家として生きる道を模索した青年時代、遅筆の理由、笑いが大切だとする意味、若い世代に伝えたいことなどが軽妙に描かれていて面白い。
人間としてリアルなことは、「誕生し、成長し、年を取って、病気になるか老いて死んでいくこと・・・」しかないとし、文学にはそうしたことが全て書いてあるから「文学作品とは、生きる上での相当な導きのお師匠さん」だと語る。そるゆえ、「その時々によって読むべき小説、見るべき芝居というのがある」と。
「人はいつ死ぬかわからない、しかし、明日命が終わるにしても 今日やることはある」というように、井上さんらしく「文学が持つ力」をリアルに表現するのである。
また、「笑いは人間が作るしかない」ともいう。それは「人間の存在自体の中に、悲しみや苦しみはもうすでに備わっている」からだ。しかも、「(笑いは)人間の関係性の中で作っていくもの」だという。「悲しい運命を忘れさせるため」の笑い作りこそ、井上さんの「一番人間らしい仕事」だということだ。
文学のみならず、ことばへの敏感さも語られる。
「いろいろな不祥事があって、政治家が「甚だ遺憾ではございますが」とか「前向きに善処します」というのは、日常生活ではあり得ない言語を使って国民を納得させようとしているだけなのです。」
何とも・・・東日本大震災以後の政治家等の発言を、井上さんが聞いたらどれほど嘆いたことだろうか。
デジタルの時代にあって、井上さんは「手が記憶する」ということばを信じているのだという。
「やがて頭と手がただの道具になってしまうのは、ちょっと嫌だなと思っています。」
手書き時代も知るが、デジタルに概ね依存している後進の世代に向けた、井上さんのメッセージとして記憶にとどめたい。(小欄に書く以前に、自らの手帳に「手で記憶」した)
残したい言葉、伝えたい生き方。
創作者として井上さんの言葉は、深く心に響いてくる。
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紙資料のデジタル化
2011-04-28
3.11地震で、書斎についての考え方が大きく変わったことは以前にも書いた。蔵書に関しては、ほぼ本棚に収蔵できる状態に復旧した。しかし、本棚の上部スペースに保管されていた多くの紙資料の行き場が、未だ定まらずリビングに放置されている。元のように上に置いておくという行為が、身の危険を伴う感覚が生じたのだ。だいたいにして、これらの資料は、学部時代に卒論を書いた時点からの古い資料も含まれており、果たして今後必要になってくるかどうかも定かでない。大学生の頃、指導教授のお宅に伺ったりすると、その書庫の巨大さ蔵書の多さに目を見張ったものだ。学者になるには、これほどの蔵書を所有しなければならないのかという憧れにも似た幻想を抱き、将来は書庫のある家に住みたいと思ったりもした。指導教授は1950年後半~60年代前半が学生時代。その頃は卒論なども「巨大戦艦型」などと比喩され、かなりの枚数を書くこと、書けることが優秀な研究者への道であったなどという話を聞いた。手書き原稿用紙はただでさえかさ張るが、「膨大な枚数の卒論をリヤカーで運んだなどという伝説の国文学者などもいた」という笑い話を聞いたことがある。
時代は大きく変遷した。デジタル化により、情報自体は更に肥大したのだろうが、物理的にはコンパクトになってきた。米国の大学などでは、既にデジタル化した論文資料をデータで入手できる。日本の大学図書館は、まだその段階まで整備されている所は少ないが、今後は期待できるであろう。長い列をなした挙句に、資料を1頁ごとにコピーするというような作業が、全く必要ではなくなる。(ただ、資料のデジタル化で、レポートなどにペーストを施して済ませるという行為が、多くの大学で問題視されている。これは改めて論じる。)
大学図書館に先行して、自らの書斎資料をデジタル化しようと考えた。そこで、家電量販店にスキャナーの性能を見定めに出向いた。店員さんが、親切に10枚表裏のカラー雑誌のページを、デジタル化する過程を実演してみせてくれた。対象製品はFujitsu.scansnapパーソナルドキュメントスキャナである。その性能を見たとき、従来のスキャナーへの感覚が一変した。高速でスピィディーに、資料をデジタル化できる。保存もクラウドを含めた様々な場所に格納可能。まさに一目惚れしてしまった。
旧来に比べれば、一生で膨大な資料を眼にすることができる現代。それゆえに資料の精選や整理も、研究能力のうちということになるだろう。裏を返せば、的確な資料を整理し批評して発信する能力が問われていることにもなる。
スリム化したデジタル書斎。それこそ今後の研究者としてのクールな生活である。
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田原総一朗著「緊急提言!デジタル教育は日本を滅ぼす」所感
2011-04-27
昨日の小欄に書いた「デジタル教科書」に関連して、昨夏に上梓された田原氏の著書(「田原総一朗 公式サイト」著書)を読んだ。一昨日のパネルディスカッションにおいても、藤原和博氏とともに人の発言を遮るほど精力的に発言していた田原氏。その肉声を聞いたがゆえ、どうしてもこの著書は読んでおきたくなった。氏は自身でもipadを使用し、Twitterなどソーシャルメディアを利用するという。ゆえに、その考え方の論点を見極めておく必要を感じたのだ。著書の論点は明快だ。日本の教育が「正解のある問題の解き方=誤りの排除」ばかりを行ってきたことを指摘し、「教育の基本はコミュニケーション」であると主張する。それゆえに、「問題を解く、正解を出すという作業が自己完結するデジタル教科書」の「利便性優先」なあり方に対して、徹底した議論を尽くすべきだというものである。既にネットによってしかコミュニケーションができない日本人が増えている現状を憂い、対面コミュニケーションの有効性を尊重する立場をとる。そして、関連した議論を行う上では、戦後教育改革を視野に入れ、大きな構図の中で教育を考え直し、「デジタル教科書」導入を位置づける必要があると訴える。
パネルディスカッションでもそうであったが、決して田原氏は「デジタル教科書」に全面的に反対という論調ではない。「デジタルに滅ぼされない教育を一人ひとりが考える」ことが重要だというのだ。田原氏の危機感から発したメッセージの意味は大きい。それは、これまでも「教育改革」などと声高に叫ばれながら、少なくともこの20年間に、教育の現場が後退はすれど前進していない事実を目の当たりにするからだ。
昨日の小欄にも、「教育現場は予想以上に保守的である」という趣旨のことを、国語教科書教材を例に書いた。それは、現場教員が自らの既得権にしがみ付こうとしているからに他ならない。定番教材で授業するという、一度確立させた自己の聖域を犯されまいとする心の動きである。もちろん、現場教員を擁護する立場で述べれば、他の教育活動や校務・雑務に追われ、教材研究に利用できる時間が極端に少ないとも言えるであろう。だが、やはり教員として重要な活動の柱は、教科教育と学級活動であるはずだ。校務・課外活動・保護者対応・諸雑務など、あらゆる活動に万能でなければ、教員として問題があるとする管理的な学校運営の考え方自体が、肝心な二大活動の領域を阻害する。逆に肝心な活動が十分に行えない教員などは、他の活動へ没入し万能さを主張し、教科教育が行き届かないことへの言い訳のように利用する。教員が既得権を主張する背景には、様々な悪弊が横たわっているのだ。
このような側面を考えると、教育を根本から問い直したうえで、「デジタル教科書」を導入することを、現場が受け入れるには、大きな障害があると言わざるを得ない。
授業そのものを(田原氏が指摘する)「問題を解く、正解を出す作業」だとしか位置づけていない教員は、完全に「デジタル教科書」という「黒船」に、自己の仕事を奪われる。検索機能や資料性・ビジュアル性の高い教材が、より正確に知識を提供し「自己完結」するからだ。だが、本来授業というものは「正解の確認」ではなく、様々な意見を知り議論を深めることで、多くの視点を獲得する場であるはずだ。こうした授業を成立させるためには、教員自身が多様な意見を認める柔軟な思考と、豊富な知識により練磨された思考力を持たねばならない。
「デジタル教科書」導入を見据えた教育の根本的な見直しには、現場教員の意識革命こそが鍵であるという自明のことを、改めて認識しなければならない。
その為にも教育に携わるすべての人間が、「正解のない議論」を様々な論点で行わない限り、同質の授業を現場で実践できる土壌は出来上がらない。政治・行政・有識者・教育現場・保護者等全ての大人が、未来ある子供たちのために自分自身の問題意識で考える習慣を付けなければ、「教育改革」など絵に描いた餅なのだ。要は、社会構造を攪拌し、思考回路を更新していくような国民的議論が必要であろう。
東日本大震災を経験した今だからこそ、危機感をもって教育にも目を向けることが求められているはずだ。
一昨日のDiTT成果発表会の感想を、副会長である中村伊知哉氏(慶應義塾大学メディアデザイン研究科教授)にコメントしたところ、次のような返信をいただいた。
「時間をかけてじっくり理解を深めていくことと、猛烈に突破していくことの二つの動きが必要だと感じました。」
DiTTには「猛烈に突破」していただいて、現場に密着した視点が持てる我々こそ、草の根でじっくりとした議論を行い、理解を深めて行く推進役であると自覚するのである。
田原氏の、人を遮るような発言による問題換気の方法も、この危機感を煽る為の機能を果たしていると、今は見ておきたいと思う。
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眼の前にあるデジタル教科書
2011-04-26
ここ数年来、電子書籍の発売が一般化してきた。また雑誌類においては電子版との共存が模索されながら、結果的に「電子」のみで活用できるような情報誌の場合は、次第に淘汰され始めているのが現状だろう。つい最近でも長年親しまれてきた「ぴあ」の休刊が発表された。これはまさに、グーテンベルグの活版印刷発明以来の書籍革命であると歴史的一幕として捉える向きもある。そんな流れの中で、誰もが学校教育で使用した経験のある教科書については、どうなのだろうか。教科書は一般書籍とは違い、特別な書籍だと考えるのは、学校現場での考え方なのか。確かに義務教育段階での無償提供、文部科学省検定を経ているという特別な側面があるのは確かだ。だからといって、電子書籍の流れから乖離して生き続けるということにもならない。デジタル化の流れは確実に進行しているのだ。
25日(月)DiTTデジタル教科書教材協議会成果発表会に参加した。昨年7月に結成され、約9ヵ月間で基礎的な協議を続けてきた内容の報告がなされた。その提言やビジョンについてはHP上にあるのでご参照願いたい。国の方針では2020年までにデジタル教科書を導入するという目標を策定しているが、協議会では2015年に前倒しで導入すべきと提言している。教育改革の流れに伴走する形で、より早い導入をしないと、世界の中でも取り残されていくという懸念があるようだ。ただし、予算を始め、使用環境の整備・コンテンツの問題・教科教育との関係・学校家庭との連携等々、多くの問題があるのも確かだ。
発表会後半ではパネルディスカッションが行われ、有名どころでは田原総一朗氏・藤原和博氏などが本音トークを展開した。「学力は向上するのか?」「紙の教科書はなくなるのか?」などの問い掛けを起点に約1時間、様々な持論が披露された。協議会としても未だ初期段階の議論であるからやむを得ないが、現状ではインフラ整備・コンテンツの問題などのハード面の意見交換が中心であった。ただ、最終的にデジタル教科書を使用するのは現場教員であるから、特定な試験校(官僚言葉なら「フューチャースクール」)のみならず、全国津々浦々の教員たちの意識改革が必要なはずだ。教育現場というのは、外から見る以上に保守的・閉鎖的であり、新しいコンテンツを利用することに大きな抵抗感があることも予想される。
例えば、高等学校の国語教科書で教材選定の際に、新規で興味深い(本音は大学入試対策に有効でありそうな著者)評論文などを現場教員は求める一方で、定番教材を削除することを極端に嫌う。高校1年ならば最初の小説教材が『羅生門』なのだ。たいていの教科書が、これを4月~5月GW前後から学習し中間試験の範囲になるように仕組まれている。その理由は、担当する教員が何年にも渡り授業を繰り返しているので、慣れているという消極的なものだ。4月に新学期を迎え学校行事などで忙殺される時期を、教材研究の必要が少ない、「既に知っている」教材で乗り切るというわけである。もちろん試験問題も、例年似たような内容で済ませる。場合によっては、『羅生門』の読解自体が、担当教員が長年に渡り繰り返し、手垢にまみれた、「一つの正解」に収斂していくようなものになる。担当教員の授業が一定の線路の上から逸脱しようとしない典型的な例である。
果たして2015年までのあと4年間で、デジタル教科書はどこまで普及するのだろうか?
藤原和博氏が手掛けた杉並区立和田中学校のように、どの学校も革新的な発想を現実に展開することができるわけではない。
しかし、進めなければならない道であるのも確かであろう。ならば、現場教員や教員養成をする大学教員の意識改革が不可欠であるはずだ。協議会に参加して、自らも新しい意識を学ぶとともに、その橋渡し役になるべきであるという思いを強くした。
今後、試験校の実践見学や世界各国の現状など、自ら学ぶ課題も多く発見できた機会であった。
4年後は「未来」なのか?「現実」なのか?
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地域社会と統一地方選挙
2011-04-25
東日本大震災以後、地域社会のあり方について考えることが多い。東京を今回の地震以上の巨大地震が襲った場合にどうなるか?ライフラインの状況、飲料水を始めとする食料の供給?仮に避難所生活というような事態になった場合に、どのように自治体は対応するのか?様々な不安と疑問が渦巻いてくる。しかし、東北地方の被災地をTV映像などで見ている傍観者でしかない東京都民は、果たして自分の立場で防災を考えているのだろうか。自省の念を込めて、深く疑問であると言わざるを得ないのが現状ではないだろうか。24日に統一地方選挙後半戦の投票が行われた。都内でも区長や区議会議員の2種類の投票が行われた区は多い。私自身も有権者としての権利と義務を行使すべく、投票所に足を運んだ。昨年の夏には参議院議員、2週間前の都知事、そして今回の区長・区議会議員と次第に自らの生活に近いはずの選挙になってきたが、親近感という意味では、正反対な方向に遠退いてきた印象がある。尤も、参議院議員の場合は、特定な候補者を3年越しで支援してきた経緯があるからなのだが。
区長と区議会議員ならば、議員の方に親近感が増すはずだが、それも真逆であった。現職区長とは、以前にメールなどを通じて質問や疑問に答えていただいた経験があったので、そのやりとりを通じて一定の考え方を支持できる材料があった。しかし、定数34という区議会のあり方については、時折、新聞に挟み込まれている広報紙に掲載されている内容を読む程度で、時には雑多な広告とともに廃棄してしまうというあり様だ。
居住地域のコミュニティーの代表として区議会に意見を運ぶはずの議員が、東京都内では地域に密着していない場合が多い。もちろん、町内会が活発な地域では、根強く地域と連携している議員がいないわけではないだろう。しかし、それが全世代に行き渡り、意見を吸い上げる構造があるかといえば、年代層の偏向を認めざるを得ない状況も多いのではないだろうか。身近な政治から見直すのであれば、更に地域コミュニティーと区議会議員との関係を考え直してみる必要があるのではないだろうか。
大学院時代同期の友人が、教員を辞めて区議会議員になった。彼は前回の選挙で無所属として当選し、1期4年の任期を終えた。教育を様々な角度から共に学んだ仲間が、政党などの組織に関わらず、自らの問題意識で地域の政治に関わっているのは興味深い。この4年間の任期中に、1度だけ酒を酌み交わして話したことがあるが、駅頭での問題意識をもった訴えが、有権者に響いたと熱く冷静に語っていた姿が印象的であった。
このようなことを考えながら、地域社会のあり方について自らが行動し、活性化への道を模索しなければならないと思う。旧来から維持されてきた町内会単位の地域コミュニティーの構造を、ある意味で見直さなければならないはずだ。私が居住するマンションでも、管理費から町内会費は支払っているのだが、たぶんマンション住人で町内会に関わっている人は皆無ではないだろうか。このように、金さえ払っていれば、いや、金だけしか払わない地域との繋がりは、甚だ虚しさが伴う。昭和の時代に全盛であった、町内会コミュニティー構造を、現代風に改革する必要性を強く感じるのである。
このように唱えるのであれば、まずは身近から。マンションのコミュニティー活性化に何らかの手段を講じる。そして地域の店舗での購買を積極的にして、人間的な交流を促進する。マンション管理組合と馴染みのカフェを通じて、自らができることを実行していくことにしようと、改めて思うのだ。
まずは再選を果たした、大学院同期の友人と区長にお祝いのメールを送ろう。
地域社会と言っても、やはりソーシャルネットワークが不可欠であるのも、今の時代を反映する。未来を見据えた政治は、この点を促進していかなければ、若年層の政治参加が遠のくだけである。
根本的な社会構造の改革は、居住地域から自らが行動するしかない。
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車中授業を支援しよう
2011-04-24
東日本大震災に対して、義捐金など何らかの支援をしたか、自らの行動を振り返る。義捐金は、現地に入って被災者の方々の生の声を聞いたという、信頼できる方の活動や募金に対して。身近な政治家の方が、何らかの支援策を提唱すればそれに応じる。要は、行先が見える場合に限って、自分の身の丈に応じた支援をしてきたつもりだ。4月にボランティアなどに行こうということも考えたが、なかなか実際には踏み切れなかった。だが被災者の方々の支援は、継続的に長期にわたり必要なはずだ。自分にできること、自分にしかできないことを考え、行動に移そうと思っていた。そんな折しも、4月22付朝日新聞(朝刊)に、「往復140キロ 3時間 通学バス 苦肉の「車中授業」」の見出しがあった。宮城県名取市の県農業高校が、仮校舎完成の9月まで、他の3高校に間借りして、学科や学年ごとに生徒を分けて授業を進めるという。最も遠い加美農業高校に通う生徒は、片道1時間半はバスに揺られる。そのため、1時間目と6時間目は、「車中授業」という計画だ。車酔いを避けるために教材ビデオや国語の輪読など、負担の少ない内容にすると記事にあった。さて、この「車中」が有効に活用されるには、どうしたらいいだろうかと、いろいろと考えてみた。
遠足でのバス移動経験はどなたでもあるだろうが、あの揺れの中は、決して読み書きをする環境ではない。個人差はあれど、下を向いていれば車酔いになる人が増える。座学をするにも難しいが、かといって芸術・体育・家庭・農業などの実技系ができるわけでもない。しかし、遠足バスで楽しめたことは、多分全国津々浦々、みんなで歌を唄うことだったはずだ。課程(カリキュラム)上の問題はあるだろうが、まずは音楽の授業は可能だと思いつく。
記事には、教材ビデオという案があるが、どうもこれには賛成しかねる。もちろん苦肉の策であるのはわかる。しかし、ビデオはただ流れているだけで終わってしまう可能性が高く、それに対して感想を書けなどというのも、生徒は即拒絶反応を示し、意味をなさないことが予想できる。移動のために早朝から家を出ている生徒にとって、ビデオは子守唄以外の何物でもない。
かといって歌ばかり唄うのも飽きてしまう。そこで提案したいのが、「音読・朗読」だ。だが、ただ目的もなく順番に読んでいくのでは無味乾燥である。そこで、先導する人のあとを追いかけるように読んだり、役割を分担して読んだりする。最初から意味を十分に理解しようとしない。音読しながら声が交響することによって意味が理解できてくる。古典でも近代文学でもいい。国語で扱う教材は、実は声にすることに適した作品が非常に多いことにも気づくだろう。有名古典作品冒頭文・百人一首・漢詩・近代詩などは、読み方次第では、大変楽しめる学習活動になる。
記事によると、「車中授業に差し障る」という理由で、途中乗車は認めないという。そのため、仙台市内の新入生などは、10kmの道程を学校まで南下し、その後バスに乗る。往復で20kmプラスになり、見出しにある140kmになるというのだ。それならば、途中参加が可能な授業内容を考えてもいい。どうも日本の閉鎖的な授業環境というのは、途中で横槍が入り込むことを嫌う。もともとバス車内では、静粛に授業ができるなどと考えるべきではなく、様々に入り乱れる声を交わす授業こそ有効なはずだ。途中乗車は認めるべきであると、無責任ではあるが発言しておく。
とりあえず、記事を読んで自分なりに考えたことを記した。これだけでは机上の空論、無責任の極みだ。ならば、実際にその方法論を、県農業高校に提案してみようかと思っている。
始業式は4月22日に行われたという。
再び休みに入り、5月9日に授業が再開。
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心の栄養素・提供はサントリー
2011-04-22
東日本大震災以降、TVのCMが話題となった。企業CM自粛の折から「公益社団法人ACジャパン」のCMが、ほぼ絶え間なく繰り返され、通常なら批判されるまでもない内容であるにも関わらず、苦情が相次いだと聞く。確かに、同じ映像があれだけ連続して流れると、考えなくてもよいことまで考えてしまうのも人情であろう。その結果、私の周囲では「金子みすず」の詩を暗唱できるようになったとか、幼い子供でも「こんにちは!魔法の言葉」のアニメには反応するとかいう、比較的良心的に受け止めた声を聞いた。今回のACによるCMの適否はさておき、TV・CMが我々に与える影響は、Web社会となったとはいえ、未だに大きいことを感じさせた。そんな折しも、3月末か4月に入った頃であろうか、サントリーのCMが颯爽と登場した。周知のように、坂本九の名曲である「上を向いて歩こう」「見上げてごらん夜の星を」を、多くの歌手・俳優・著名人たちが、短い文節ごとに歌唱した映像が繋ぎ合わされているだけのシンプルなものだ。しかし、最初に何気なく見ただけで、涙もろい私は目を潤ませてしまった。何だろう?この歌詞・曲調と歌い手の力は。そんな素朴な疑問を持ちながら、時折、サントリーWebサイト(以下にリンク)にある、様々なバージョンを楽しむようになった。
サントリーチャンネル
ただCMに感動したと言うのは簡単だが、その深層として自分自身なりの理由を考えておこうと思う。
まず2曲の歌詞を、改めて咀嚼してみる。
「上を向いて歩こう」(作詞:永六輔・作曲:中村八大)
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
思い出す春の日一人ぼっちの夜
上を向いて歩こう
にじんだ星をかぞえて
思い出す夏の日一人ぼっちの夜
幸せは雲の上に
幸せは空の上に
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く一人ぼっちの夜
思い出す秋の日一人ぼっちの夜
悲しみは星のかげに
悲しみは月のかげに
上を向いて歩こう
涙がこぼれないように
泣きながら歩く一人ぼっちの夜
一人ぼっちの夜
一人ぼっちの夜
(以上 歌詞)
悲しみにくれた主体が、涙をこらえながら(春から秋の)過去を回想したり、今現在を噛み締めている姿が想像できる。そして、幸せは「雲」や「空」の上だからと念じて自分を慰める。更に、悲しみは「星」や「月」の光のように無数にあるのだから、耐えて前に歩もうという意志が感じられる。「一人ぼっちの夜」という呟きは、実は「上を向いて」見上げた大空の下を歩めば、改めて多くの仲間に出会えるという希望を予感させる。耐え忍ぶ内容の歌詞は、実に軽快な曲調によりオブラートされることで、苦しい一個人への応援歌となって仕上がっている。「歩こう」という誘いかける言葉の力強さは絶大である。
次の歌詞。
「見上げてごらん夜の星を」(作詞:永六輔・作曲:いずみたく)
見上げてごらん夜の星を
小さな星の 小さな光が
ささやかな幸せをうたってる
見上げてごらん夜の星を
ボクらのような名もない星が
ささやかな幸せを祈ってる
手をつなごうボクと
おいかけよう夢を
二人なら苦しくなんかないさ
(以上・歌詞)
「手をつなごうボクと」とあるから、男性が女性に語り掛けていると解するのが一般的か。うつむき悲しむ女性に対して、夜空を見上げることを優しく勧める男性。「小さな星の 小さな光」や「名もない星」とあるように、自分たちのような、どんな無力な存在でも「ささやかな幸せ」を歌い、祈ることはできるという希望を囁く。そして夢を追うには苦難が伴うけれど、手をつなぎ二人なら苦しみを分かち合えると誓い、希望の星への道を共有していく二人の物語である。こちらの曲調は、実に優しく穏やかな旋律で、希望を発見する心に灯りを点す。
これらは、歌詞と曲との脱着を繰り返し、音読してみることで浮かびあがってきた、私なりの解釈である。
朝日新聞4月20日付「CM天気図」で天野祐吉氏は、「どちらも1960年代のヒットソング」だとして、「あの頃は、みんな貧乏だったが、お金で買えない何かがあった。日本が生まれ変わるとしたら、あの頃が起点になるのかもしれない。」と纏めている。確かに、経済最優先の時代として頽廃してしまった日本社会には、こんな応援歌が相応しいのかもしれない。
同時に天野氏は、「お見舞いCMと企業CMのしぶとい二枚腰」であることを指摘することも忘れない。出てくる顔ぶれが「豪華すぎて反感を持たれる危険もある」けれど「一貫した好み」がって、それが「サントリー調というトーンを作り出している。」とする。よくよく考えてみれば、サントリーの様々な製品CMに出演している面々でもあり、歌唱力などはまったく抜きにして、三浦雄一郎や大滝秀治までを起用しているあたりが、大きな魅力でありしたたかさ(製品を想起する可能性が十分にある)でもある。個人的には加藤茶・仲本工事の起用などが、意表を突いた隠し玉的存在であり、更に心に染み入るのだが。このような各個人的な好みが、ある程度網羅されているのも心憎い。(女優はもちろん。壇れい・竹内結子・小雪・・・等々)
こうした批評をした上で、やはり歌の力・曲の力が、こうした企業CMの側面を、ほぼ120%包み込むことに成功していることに讃辞を贈りたい。字幕も、最後のみで曲のタイトルと社名が小さく踊る。もしかしたら、企業CMになり得ないかもしれないと思う向きもあるだろう。しかし、今企業としてできることを、最大限に発揮したCMと讃えてみるのも悪くはないと思う。もちろん、CMで「ハイボール」ブームを巻き起こした企業であると認めたうえで、敢えてその流れに呑まれることで、ある種の快感が伴うのと、似た次元であるかもしれない。
調べてみると、先述したACジャパンの現・理事長はサントリーホールディングスの佐治信忠氏。創設者は、父の佐治敬三である。1970年大阪万博前に、日本人のマナー改善を目指し、アメリカのACのような活動ができないかというのが創設契機になっているという。そうした意味では、CMの見本たるものをサントリーが制作している必然性は十分にあるということだろうが。
それにしても、嫌みのない絶妙な見応え。この2曲を、改めて世に押し出した意義を、個人的には大きく受け止めてみたいと思う。
私自身としては早速、「ことばの力」と「音読・朗読方法」を理解する教材として、大学の講義で使用してみようかと妙案が浮かんだ!
わくわくする教材作りが始まる。
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疎かにしていた英語「発音」習得
2011-04-20
英会話学習への意気込みを新たにして約2週間。英会話教室の新しい講師の授業方法にも刺激を受け、順調に進んでいるように思える。朝のNHK語学番組(再放送)の視聴は、ほぼ習慣化してきた。この両者において、自分自身の士気を高めているのは、やはり文脈の中で文法・構文・語彙が与えられていくことである。単語集などによる単発的な暗記は、実に場当たり的であり、定着率が低いことは身に染みて感じて来た。文脈化・個人化した中でこそ、語学学習は実践的なものとなることを改めて痛感する。このような実践を行いながら、買うまいと思いつつ、英語学習本を衝動的に買ってしまった。『残念な人の英語勉強法』(山崎将志・Dean R.Rogers 幻冬舎刊)である。買うまいと思いつつ手にしたのは、「はじめに」で「もう英語の勉強は終わりにしよう」とあったからだ。そこには、「日本人は英語ができない」→「英語を勉強しなきゃ」という「強迫観念」から逃れ、英語学習を「期限付きプロジェクト」にしようという内容が書かれていた。自分もその「強迫観念」の渦中にいた1人である。やはり不安から救われるという趣旨のことばに、人は弱いのであろう。
『残念な人の・・・』の第5章には、「説得力の要は発音」として、発音の重要性が説かれている。この章を読んで、これまでの自分自身の英語学習を振り返ると、「発音」をいかに疎かにしてきたかが自覚できた。「疎かに」どころか、たぶん通常の英語学習者より「発音」が劣るという思いを、過去の体験からも想起することが多かったのだ。
「発音」に対する劣等感は、やはり中学校時代の英語学習に遡る。中学に入学して、新たな英語という科目に大きな期待を寄せていたが、担当教員が高齢の「お爺さん先生」だった。キャリアはあるのだろうが、どうも発音からしてしっくり来ない。中1の最初の頃に、教科書に出てきた「vase」という単語を、「バ~~ズ」と発音した時には、教室中が笑いの渦に包まれた。しかし、表情一つ変えず「バ~~ズ」と繰り返す「お爺さん先生」を、その日からクラスでは、「バーズ」と呼ぶようになった。私は、聊か疑問に思って、クラスでも優秀な友人と、発音について語ったことがある。2人で話し合った結果、「お爺さん先生」は、「極端なイギリス英語」なんだという見解になったのを記憶する。そうした意味では、中1にして「アメリカ英語」との差異を意識したことになるから、ある意味で高度であったのかもしれないが。その後、中学校3年間における頻出語彙においても、「発音が変」ではないのかという観念が、染み着いてしまったような気がする。
以後、高校・大学受験・大学において「発音」が矯正される機会もなく過ごしてきてしまった。難関であった大学受験においても長文読解・文法・語彙力さえあれば、十分に通過できた。大学での英語授業も、リーディングが中心であった為、「vase」などという単語を発音し、強烈な恥をかく機会もなく、単位取得には問題がなかった。第二外国語では中国語を学んだが、大学1年で「発音」の基礎から厳しく徹底的に鍛えられたので、中国に行くと、「発音」が褒められる機会さえあった。まさに初期学習の差異から、私の語学習得体験は一個人の中で適否が対峙しているともいえる。
このような体験があるからこそ、今回の「英語発音の習得」には、強固な意志を持った。過去の「お爺さん先生」を恨んでも、何も始まらない。それならば、今から「発音」を徹底的に矯正していくべきではないかと決意したのだ。
現実に、ここ5年間の渡米でも、伝えようとした語彙が、発音のせいで聴き取ってもらえなかった体験が何度かある。自分では意識して発音を直して繰り返しても、通じないという状態は非常に辛い。逆に、中学レベルの超基本単語を聴き取れなかった体験もある。サングラスを購入しようとして店員と話していた時、「red」が聴き取れず、何回も問い返したら、店員が呆れ顔で、近くに展示してあったバックの「赤い」部分を指さして、ニヤッと微笑んだ顔が、今も忘れられない。こちらこそ赤面しそうな体験である。笑顔であったから救いだったのかもしれないが。当然ながら、発音の未成熟は聴取にも大きな影響を及ぼす。
そこで、今考えられる発音習得手段を2点あげておこう。
○英会話教室で講師による直接の矯正。(頻繁にチェックしてくれるように依頼)
○サイト(以下にリンク)による基本的な発音習得。
甲南大学「英語発音入門」
以上をベースにしながら、TV番組視聴時は、ネイティブを真似るシャドーングなどを励行する。(野球中継アナウンサーを真似るのは、結構な快感である!)
次回の渡米が、今まで以上に楽しみになるには、この発音習得が大きな鍵であるように思う。
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「身体の声を聞く」静寂の鍛錬で感じたこと
2011-04-16
これまでジムのトレーニンングといえば、音楽に合わせてバーベルを上げ身体各所の筋肉を鍛えるプログラムと、心拍数の上下を繰り返して脂肪を燃焼させる有酸素運動プログラムの2種類に取り組んできた。この日は新たに、ヨガや太極拳の動きを導入し、身体の根幹を強くしつつ柔軟性を獲得するプログラムに参加した。チーフインストラクターの勧めでは、やはりバランスよく、様々な動きでトレーニングをしたほうがよいというのだ。15分間で、このトレーニングの基本的な動きを説明するクラスから参加。静かに呼吸を意識しながら動くことに、やや戸惑いながらも、次第に癒されるような気分になってきた。上体は肩から指の先まで脱力するが、下半身はしっかりと力を入れて踏ん張る。相反する動きをすることで、自己の身体への意識も自ずと高まってくる。また足腰の柔軟性を高める動きや、片足立ちの状態でバランス感覚を養う動きなどがある。
至って静かな動きであるが、次第に汗が身体から湧き出してくる。運動効果とは、何も激しく活動をすればいいのではないことが実感される。静かではあるが、根幹を揺るがさないことが、どれほど大切かということを悟る。最後には、消灯したスタジオの中で横になり、自分の身体の鼓動を聞く。全身に力みがある点を探し、その部分を意識して脱力を試みる。爽やかな45分間のトレーニングが終了した。
激しくバーベルを挙げるとか、有酸素運動でカロリーを燃やすことも大切である。しかし、どこか日常でも忘れてしまっている「身体の声を聞く」という時間が、この日のトレーニングで実感できた。この感覚、実はとても大切なのではないのかと、ジムからの帰路で様々に考えた。
考えたのはやはり日本社会のこと。経済活動最優先で、その成長という重いウエイトを挙げることに躍起になり、夥しい消費活動を繰り返し、最大限にカロリーを使い切る。そんな社会構造を何十年も継続してきた。今、改めて、静かに自分の身体感覚を取り戻してみることが、必要なのではないだろうかと。元来から身体構造の違うアメリカ人並に、重いウエイトを挙げようとして、国土の広さに比例せず、アメリカの半分程度の原発を持つ国である必要があるのだろうか。
この日のトレーニング基本動作は、ヨガや太極拳。実はこの東洋的な、静かに身体を覚醒させるような動きにこそ、日本に適合した社会造りのヒントがあるのではなかと感じるのだ。
静寂かつ根幹の粘り強さ
脱力感と強靭な足腰との共存
柔軟性の果てに限りない力の潜在
たぶんイチローを代表とする、世界で活躍する日本人アスリートの持ち味もこんな点にあるはず。
個人の身体感覚から、日本社会を見つめ直してもよさそうだ。
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濁音の音相「牛丼・餃子・ジェノベーゼ」から「原発」まで
2011-04-15
4月14日付朝日新聞「天声人語」に、「音相」(言葉の響きが与える印象)の話題が取り上げられていた。その記事内容に拠れば、「濁音はうっとうしく暗い反面、豪華で重厚な趣を醸す。」として、「GとDの濁音が混じる牛丼(ぎゅうどん)」に「不動の安定感」があり、同じ音を含む「ゴールド」も「信頼では劣らない」として、以下「有事の金」という意味での、実質的な価値や相場の近況について記している。「天声人語」が記した「金」の問題はともかく、身近な「食べ物」の名前については、かねてから気になっていた。「牛丼(ぎゅうどん)」に関しては、中学校に入学後、時折、級友と外食をする機会を得て、手軽に楽しんだのが「牛丼屋」。当時はまだ、「吉野家」くらいしか見当たらなかったが、その独特な匂いと味に、妙に惹かれたものである。ある級友が、その牛肉を「あぶぎゅう」と「脂身が多い」ことを揶揄して呼びながらも、「あぶぎゅう旨いぜ!」と絶賛したことから、クラスの大勢がどうしても「吉野家」に行きたくなったという思い出がある。
また、私の好物の一つに「餃子(ぎょうざ)」があるが、これまた「音相」の効果も大であるように思う。やはり、中学時代の級友に中華料理店の息子がおり、弁当に餃子を持参していた。そのため、クラス内では彼の家の餃子を「・・・・餃子」と呼んでいた。「・・・・」の部分には、彼のクラス内でのあだ名が挿入されたのであるが、それがまた、長音(-と伸ばす音)を使用したもので、次第にその長音に濁音が付加されて、「カ行濁音の長音+サ行濁音の長音」という、耳触りから言って滑稽な呼び名が汎用されることになり、クラス内で一世を風靡したことがある。(彼の名誉の為、あだ名の公開は控えるので、ご想像願いたい。)
漢語のみならず、外来語でも同じように濁音効果が大きい食べ物もある。近所の馴染みのカフェで、人気メニューに「ジェノベーゼ」というパスタがある。自然の葉を素材にした手作りソースをパスタに和えた力作であるが、「語頭+中間+語尾」という濁音三役揃い踏みだ。勿論、料理自体の美味しさが抜群であるからなのであろうが、このカフェの看板メニューとなっていて、「ジェノ3つ」(濁音2つは省略されるが)などと通称的に注文する、勢いある常連さんも粋な感じがする。
私自身の失敗例もある。嘗て、中国人が経営する中華料理店で、壁に貼られている「牛ガツ」というメニューが気になった。この店ではメニューの作製を、自分たちで行っているらしく、日本語メニューながら、時折、仮名表記に中国語訛り的な表現が散見されて、中国語を学んだことのある私としては、言語的な興味を抱いていた。暫くは気になる「牛ガツ」の注文を控えていたが、「たぶん日本語能力が熟練し、語が重なる際に発生する連濁を学んだのだ」と言語的な理解をした。そこでの私の解釈は、「牛肉」の「カツ(レツ)」だから「牛ガツ」であろうというものだった。ところが、実際に料理が出てくると、「牛の胃袋」を素材にした料理であり、その襞(ひだ)のある外見からして、殆ど口にすることができなかった。店員さんとは親しかったので、むしろ向こうから「食ぺられなかった、こめんなさいね」と謝ってもらう始末。こちらから料理の内容を問うべきだった。帰宅して調べると「ガツ」とは、ホルモン系料理の用語で、英語の「guts」を語源とする説があり、「豚の胃袋」の事だと知った。それを「牛」の「ガツ」だという高級な料理という感覚で、壁に貼った特別メニューにしたのであろう。
このような私自身の経験からしても、食べ物の名前が、人の食欲をそそる現象は、言葉の問題として興味深い。こうした「音相」についての研究を極めたのが「天声人語」でも紹介された、木通(きどおし)隆行氏だ。手頃な著書に「ネーミングの極意―音相理論の入門書―」(ちくま新書)がある。以下、木通氏の著書紹介なども含めたサイト「音相システム研究所」のリンクを貼っておいたので、詳細はこちらを参照願いたい。
日本語の音相(音相システム研究所)
食べ物の話題は、人間の根源的な楽しみを喚起してくれる。だがしかし、今や「げんぱつ(原発)」という「濁音+半濁音」を持った言葉が、人間が創造してきた文明として、自らの根源的生活を脅かす存在となっている。「うっとうしく暗い」響きは、何も2011.3.11に始まったわけでもなかったはずだ。「げんばく(原爆)」を体験した国民として、我々は名前から受ける印象を過少評価し過ぎていた。「げんぱつ(原発)」がその本性を露わにした今、その「音相」は、世界史上トップレベルの脅威に成長してしまった。
既に世界で市民権を得ている「Tsunami(津波)」とともに、世界共通語として認定される語に「Genpatsu(原発)」が漂着する以前に、現実世界での終息を心から願うばかりである。
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