金八幻想の功罪と終焉
2011-03-28
27日(日)「3年B組金八先生」が32年間のシリーズファイナルを迎え、SP版の放映があった。金八演じる武田鉄矢自身がはまり役として、ほぼ半生を捧げてきた学校ドラマである。初期の映像も随所に挿入されたSP版を見ていて、本当に32年間も経ってしまったのかと、その時間の早さが身に染みた。「金八」はこの3月で定年退職となったのである。これまで、シリーズの全てを観てきたわけではない。真剣に観たのは最初の2回だけ。あとはドラマの変化か、自身の変化か決め難いところだが、観る意思を失った。たぶん後者の理由が大きいのだろう。金八の姿が幻想に見えてきたからである。事実、ドラマも初期2作と3作目の間に約8年間の断章がある。その間に、高校・大学生活を経て、私自身が現実の教育現場に立ったという経緯は、このドラマに対する態度を一変させた。ゆえに、この時点でドラマの功罪を語っておくことに、一定の意味を感じるので、長文になるがしばらくお付き合いを願いたい。
このドラマが提示してきた同時代の集約的な教育問題。性教育・校内暴力・家庭内暴力・性同一性障害・ドラッグ等。その顕わな社会への提示があったからこそ、シリーズがここまで継続してきたとも言える。それまでに存在した学園ドラマのように、生徒と青春を謳歌し、めでたしめでたしと終わる類とは一線を画していたといえる。原作者・小山内美江子氏の現場取材に基づいた問題提起には、一定の説得力があったといってよい。(それもシリーズ3以降の進行に伴い、制作側との確執があったようだが)
例えば、学校現場での性教育が、欧米に比較して形骸化しており、肝心な要点を隠蔽し表面的な建前知識しか提供していない現実と比べ、32年前にTV映像を通して考えた性への意識は衝撃的であった。この月日が経過したのちに、性教育の現状が改善されたかと言えば、現場全体として「?」と言わざるを得ない。「できちゃった婚」などが、堂々と市民権を得てしまった日本の現状は、若者の性意識が極端に低いことを象徴している。現実的な方法を提供せず、「性行為=悪」という図式から抜け出せない学校現場のあり方は、たぶん世界基準において、かなりな性教育後進国ではないかと思ってしまう。なおかつ、教師が性的に不適切な行為により処分対象となる報道などを見るに、現場で性教育への意識を共有できていない事実が露骨に理解できてしまう。
「腐ったミカンの方程式」(シリーズ2作目)という比喩も、鮮烈に心に残る。ミカン箱の中に、腐ったミカンがあれば、それを真っ先に排除すれば、他のミカンの健全が保たれるという方程式を、生徒にも当てはめて、問題児を学校から排除しようとするあり方への警鐘である。金八は、「我々はミカンを育てているのではない、人間を育てているのです。」と涙ながらに語る。学校や教師が、その体面を穢さない為に保身に走る。定年後に要職を得るために、管理職は問題が起こらないことだけを願い、「腐った」と認識した生徒を他校へと排除する。必然的に生徒はたらい回しにされる。そこで、なぜ「腐ったのか?」ということを考え、少しでも生徒の心の闇に向き合う教師がいれば、生徒は「ミカン」でなくなるかもしれない。そんな人間的な向き合い方を、このシリーズでは語っていた。
今や「モンスターペアレンツ」などと言って、外部からの批判に対し極端に弱い教育現場。批判を小手先でかわすことしか考えない管理職。向き合おうとする教員は、個人的負担を強いられ、精神的に追い込まれてしまい、休職を余儀なくされる教師も多いと報告されている。その結果、発言権のある親、経済力のある親の子供たちが優位な教育を受け続け、結局は二極化を促進する。表現方法を知らない思春期の心は、優位な親の元で理不尽にも擁護され続けるか、あるいは無関心な親の元で、心を打ち明けられる相手も得られず頽廃するかという構図が、より顕著になってきてしまった。首都圏などにおける私立中学受験の過熱ぶりは、その後の進路を優位にという意識と同時に、「腐ったミカン」がある箱には、入れたくないという親の意思が強いようにも思われる。
こんな点を概観するだけでも、日本の教育現場は、この30年間で多大な問題を放置し、改善される方向性を持たずに歩んできてしまったのであろう。それが若者の向上心の欠如や閉鎖的な状況、いくつもの犯罪行為などに象徴的に露出してきていると言えないであろうか。自責の念を込めて、今、改めて日本の教育に真摯に向き合わねばならないことを痛感するのだ。
一方で、ドラマ・映画にはヒーローがつきものである。金八もある意味で、非現実的なヒーローであることを忘れてはならない。自らの全身全霊で生徒に向き合うという姿勢は、どれだけ現場主義の教師であれ、不可能な所業である。今回のファイナルSPでも、3年B組に来た問題児を、自らの家で生活させ更生させるという話となっていた。実際問題として、教師がそこまでプライベートな生活を、教育に懸けられるかと言ったら、それは不可であろう。そんな「おせっかい」極まりない行為こそが「教育」なのだという、ある意味、教師という職業に対する暴力的とも言える理想像の提示が、社会を席捲したとき、生徒や親の期待度が、極端に変質するという罪をもたらしたのではないかと思うのだ。
メディアリテラシーの問題が、随所で頭を擡げてくる昨今、日本の教育レベルが、ドラマの虚構的問題提示に追いついて来なかった現実を垣間見る気がする。私自身の経験からしても、金八シリーズ1・2に対する思いが強いのは、自らが思春期であったという点が、最大の要因である。幸い、その後の大学での学問や、教育問題を議論する同朋と思える人々の存在により、自らの教育理念は、理想を掲げつつも現場主義的な点で折衷し、前に進んで来られた。
今回のSPで、金八は狭心症を患っているという設定になっていたが、それを押して生徒に向き合う姿を、果たして礼賛していいのかと、甚だ疑問を持たざるを得ない。いや、このような教師生活をしていたら、せいぜいシリーズ2ぐらいで、とっくに精神的ストレスから病に倒れていてもおかしくない。それをいつも笑顔で、卒業式まで乗り切る金八は、やはりウルトラマン張りのヒーローとしか思えないのだ。最後には「優しさ・信じる・愛」というスペシウム光線を発射し、眼の前の問題を悉く粉砕する。それを現実社会の教師が持てたなら、この職業は、決して辞められない快楽のみを伴うであろう。
私自身の見方もあるが、ファイナルSPの内容も、シリーズ1・2の内容に依存する部分が大きかったようだ。思い切った物言いをすれば、「金八」はシリーズ2までで、あとは惰性と言ってもいいかもしれない。
最後に、初期作品の前後には、「仙八先生(さとう宗幸)」とか「新八先生(岸田智史)」などという姉妹作品もあったが、やはり「金八先生」だけがここまでの寿命を得たのは、武田鉄矢の人間的魅力という点も大きいであろう。国立・福岡教育大学中退であるが、長年の「金八」役が大学側に評価され「名誉学士号」を授与されたというエピソードもある。卒業式での語りの台詞は、ほぼ武田自身の自作である場合も多く、半年間のドラマ撮影を終える感慨が、生徒出演者との間で共有できているような印象が常にあった。「贈る言葉」に代表されるような曲のあり様は、武田が若い頃から求めてきた真骨頂であろう。その独特の歴史知識や含蓄ある歌詞の数々、武田のあまり知られない曲を聴けば、そんな一面も見えてくる。印象として、様々な受け止め方ができるあのキャラクターから、今後は「金八」の仮面を剥がしてみるのもいいかもしれないと思う。
長々と、「金八」幻想について語ってしまった。まさかこれ程までの苦難に立たされた日本で、「金八」がファイナルを迎えることを、誰が予想したであろうか。「一つになろう」などという標語は、それはそれでいい。しかし、この機にあって、我々日本人が本当に考えなければならない意識とは何か。それを多くの人々が議論し合える社会となるよう、現実の改革を推し進めていかねばならないはずだ。
「金八幻想」は終焉した。
「金八」開始、爾来32年間の日本の歩みを真摯に受け止め、これからも復活を懸けて歩み続ける国として、我々一人一人が冷静な意識で生活していかねばならないと切に思うのである。
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