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【WWF Earth Hour】に参加

2011-03-27
26日(土)完璧な闇を私は知らない。幼少の頃に、悪戯で押し入れに隠れても、襖の端から光が差した。小学3年生で、初めて親元から離れて英会話のサマースクールで山間の宿舎に行ったとき、「天の川だ」という声に天空を見上げ、ふと気が付くと自分の周辺は、それまで経験したことのない闇だったと記憶する。たぶんそれが最高レベルの闇の中だと自認している。それ以来、常に電気によって光が供給され、時間とともに通信機器もTVだけではなくなり、電気によって世界と繋がっている状態が日常化した。物理的な意味での光のみならず、人や世界と繋がる手段としても、私は本当の闇を知らない。

この日、日本時間午後8時30分から9時30分まで、WWF Earth Hourに個人参加した。消灯はもちろんであるが、部屋中のコンセントを抜き、電気で起動しているものを全てOFF(自宅電話も)にした。充電されているというのは言い訳にならないだろうと思い、携帯も全てOFFにして、外界との繋がりを遮断した。それでも東京の街はかなり明るい。次第に闇に目が慣れて行くと、窓からの明るさで十分とさえ思える空間となった。暖房は大地震以来1度もつけていないので、厚着で過ごすのは既に習慣化していた。

そんな環境で1時間、ただ座り込んで沈思してみた。自分の生活とは何だろう?自分がやるべきことは?成すべきことは?と自問自答を繰り返した。次第に、こんな静かに物を考える時間を、常日頃は持っていなかったことに気付いた。布団に入れば、そそくさと眠ってしまうし、起きればWeb上から氾濫するかのごとく情報が押し寄せる。あくせくと組織の流れに従い、ただ前例の繰り返し。唯一、沈思しているとすれば、小欄の文章を構成している何十分間ぐらいであろうか。心と向き合う時間をいかに持っていなかったという事実が明らかになった。

いつの間にか、1時間を大幅に過ぎて時間を確認すると午後10時を回っていた。その時間確認という動作も、実は電気なしでは不可能なのだ。一個体としての人間の無力さよ。時間という自然の摂理さえ、自身の能力で把握できない。いや現代人だからこそ失ってしまった、退化の図式なのかもしれない。自然に対する畏敬の念を失い過ぎた人間として、今を見つめ直す時が来ているのかもしれない。

この1時間の暗闇は、日本時間で日曜日の夕方にかけて世界を1周するという。谷川俊太郎に「朝のリレー」という詩があるが、さながら「闇のリレー」である。日出づる国で、世界でも早い段階で、1時間の活動に参加できた小さな達成感があった。されど、地球上においては「自然保護」などという観念自体が横暴なのかもしれない。自然の中で生きている小さな存在が人間なのだ。


被災地への思いも込めて、この1時間を体験した意味は小さくはなかった。
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