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古典文学の生きる道

2011-03-06
5日(土)午後から大学で古典関係の研究会。院生時代から小生が自分なりのテーマで発表し、当該の学術誌にも投稿し、鍛え上げられてきた恩恵のある研究会である。それほど広くない「いつもの」会議室、「いつも」ながらの雰囲気で、この日も研究会が行われた。しかし、この十年ほどで参加するメンバーの顔ぶれは変遷した。わが恩師を始めとして、鬼籍に入られた先生方も多い。それだけに先生方から受けた教えを、更に発展させ後代に継続していくのも、我々の役目であると改めて自覚する。

 そんな事を考えながら、この日も研究発表が2本行われた。将来ある若手の院生とベテラン研究者である。そんな好対照な発表者の姿を見ていて、地道な自分の古典文学への読み方を、他者に提示していく根本的な意味を、自分なりに問い直したくなってきた。今、この時代にあって「古典文学の生きる道」とは何であろうかと。

 世間では「役に立つ学問」という観点のみから評価がなされて久しい。いわゆる「実学主義」の考え方である。この15年間ぐらいで、大学の学部選択において予備校や関連するメディアが使用してきた語彙である。その傾向を受けて、大学側も学部再編・改組を進行させ、特に「文学部」に関しては大きく様変わりした大学が多い。社会科学系の「法・経済・経営・商」学部などの多くが、そのままの看板を懸け続けているのとは対照的である。「文学部」では、その編成下で比較的「実学」的評価があるとされる、「社会学」「心理学」などを中心とする方向に舵を切り、「人間・・・」とか「社会・・・」などの看板を懸ける。また、内容的に大きな変化がないにしても「コミュニケーション」など、社会的に「役に立つ」であろうと見えるような看板に切り替えた。つまり、「文学」という看板は忌避され、せめて「文化」などという語彙に変換されて学部名にしている。

 その「文学」の中でも、特に「古典」領域は更に肩身が狭い。現代ではなく過去の遺産的文献を読むことの意味が、社会的な価値観に適合しなくなってきたのだ。学部学生も近現代文学ならまだしも、古典文学を専攻する者は大幅に減少した。だいたい前述したように学部編成の入り口で、「古典」を学ぶような方向が堰き止められているといってよい。ゆえに「古典」は、学問領域としても「古典化」してしまいそうな感がある。

 だがしかし、果たして「古典」に対する見方を疎かにしていっていいものだろうか。「文学」といった人間の根本を考える学問が軽視される社会は、やはり未成熟と言わざるを得ない。「経済的」「効率的」が最優先され、「労力」に対しての「利便」性のみが求められているという考え方自体が、現代社会の近視眼的発想であると考えるゆえである。人間の心における遥かなる歴史の蓄積は、「古典文学」の中にこそ多く遺されてきた。「経済的」「効率的」などという概念などの欠片もない時代に、人間はどんな心でどんな生き方をしたのか。様々な技術は進化したが、精神的な閉塞感の高まった今だからこそ、「古典」を遺した人々の心に向き合ってみるべきであると思うのである。

 
 この日の研究発表、そして懇親会での様々な会話を通して、改めてこんなことを考えた。それは自分自身が今一度、真摯に「古典文学」に向かうべきであるという宣誓であると同時に、「古典文学が生きる道」を自分ができる方法で、模索し構築することへの意欲に連接していく。それは、「文学」再生の鍵は「教育」との連係にあるという方向性だ。

 小中高の学校教育を通じて、「なぜ古典を学ぶのか?」という疑問に対して、前向きに答えられる状況を整備しなければならない。生徒・学生に「古典はつまらない」「意味ない、役に立たない」と言わせる前に、どんな方法を講じるか。それが小生に課されたテーマであると、改めて自覚するのだ。その延長上で、大学に入学し「古典を学びたい」と思う学生が少しでも増えることを願いながら。


 「文学」こそ人間の本質を考える「実学」であると言えるような、成熟社会へ向けての志である。
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