一箱の友情

2011-03-31
30日(水)ふと呼び鈴が鳴った。階下のエントランスモニターには、宅配便の配達員の方が映し出される。ここのところ家具転倒防止器具等を注文しているので、それが予想外に早く来たのかと思った。配達員が玄関まで来ると、かなり重そうに大きな段ボール箱を差し出した。中身はミネラルウォーター12本入りだった。

差出人は、大学時代の大親友で、現在は実家のある兵庫県に住んでいる。箱を開けると短い手紙が同包されていた。

「とりあえず飲料水送ります。何か不足のものがあれば連絡下さい。役に立てるかどうかわからないけれど、体だけは気をつけて!!」

その文面を見たとき、何とも言えない友情のありがたさを感じた。

彼とは学部も違うが、サークルで私が幹事長、彼が副幹事長という仲。運営上の様々な苦労を共にし、卒業後も何でも相談できる友人だった。常にお互いを尊重しつつ、やる時は大胆に羽目を外す。そんな気の置けない仲であった。

学祭の打ち上げなどでは、自らが率先して飲んでつぶれないと、皆を統率できないなどと、訳のわからない理屈で、宴会の序盤から飛ばした。衣服が酒に浸るほどに飲み尽くして、2次会以降の記憶はない。

ただ、下宿に向かう途中で、彼が好んでいるラーメン屋に入り、トイレに入って出てこなくなってしまったことだけは覚えている。気付くとお互いに、彼の下宿に担ぎ込まれ、私などは玄関で寝込んでいたという顛末だった。

卒業後、彼が東京にいる間は、しばしば会う機会も多かったが、関西方面に帰ってからは、時折の電話ぐらいとなった。それでも、私が関西に行くと必ず時間を作って会う機会を設けてくれた。

野球が趣味の私が、甲子園の高校野球を観戦に行くと、その折を見てスタンドに駈け付けてくれたこともあった。共に飲んだ甲子園のビールと、大振りの名物焼き鳥が今も忘れられない。


阪神大震災の折、大阪市内に在住していた彼は難を逃れた。しかし、すぐに電話をしたぐらいであった。あまり支援物資を送ろうなどと考えなかったのは、まだ若かったからであろうか。震災の性質からであろうか。


一箱の友情。

その箱を見つめて、小欄に記したような様々な思い出が蘇った。

長きに渡る友情って本当に温かい!!!
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国外退避の現実感

2011-03-30
29日(火)毎週火曜日は英会話教室だが、今は春休み中。だが、授業の前に腹ごしらえをする馴染みの洋食屋さんへ、この日も夕食に出向いた。常連である90歳の老人は、私より早く、いつもの時間にいつもの席にいらしていた。一人暮らしの老人は、地震以来、結構不安な要素が多いという。電車のダイヤが混乱するので、出掛けるのは控えている。暗い道を歩いていると、速度を上げた自転車などが恐怖でもあるようだ。ならば、自宅に居ればいいというのは酷な話だ。他人と会話をすることで、不安を解消するのは、誰しも同じことであるから。ゆえに、この時間に夕食に行くのは、自分の為でもあり、老人との交友への感謝の為でもある。勿論、外食を控える傾向にある中で、馴染みの洋食屋さんの売り上げに貢献することも重要だ。

ヒレカツなどいただきながら、談笑していると、カウンター内にいた店の息子さんが、「原発が本当にヤバくなったら仕事も捨てて海外に逃げますか?」と問い掛けた。店の奥さんは、すかさず「そりゃ、奥さんの所へ行くでしょ」と笑顔で付け加えた。この数週間、「国外退避」という事を、妄想レベルでは考えたりもしたが、現実に問われた時に、どう答えたらいいかはわからなかった。老人は、退避するともしないとも言わず、「逃げるならヨーロッパがいいね」と渋く語った。さすがは元パイロットでフランス語も堪能な老人。偏西風に乗って放射能が来づらいヨーロッパがいいというのだ。店主夫妻や息子さんは、「私たちは逃げるところもないから、日本に居続ける」と言った。



帰宅してWebを見ていると、参議院議員・有田芳生さんのブログに「(外国人)16万人強が出国」とあった。約221万人いる外国人から、永住している外国人を除くと132万人となり、その八分の一が日本から退避した計算になるという。その多くは、地震の揺れに対する恐怖以上に、「原発震災」に対する不安からである。

確かに自分の周辺でも、知人の登山家の娘は、夫がスイス国籍のイタリア人だが、地震の3日後に、成田に自家用車を放置して帰国した。連絡を受け、私の父と知人で、ガソリン供給の厳しい中、成田まで自家用車を拾いに行った。それは短期間での帰国ではないことを示唆している。

英会話教室で3年間お世話になったカナダ人は、どうしただろうか?メールをしたが、未だ返信はなし。もともと地震に関わらず、この3月で英会話教室を辞め、6月頃にはカナダに帰国する予定でいた。職場でしかメールが見られないと言っていたので、まだ自分のipadが購入できていないだけかもしれないが・・・。


そうこう考えていると、携帯が鳴った。大学近くの馴染みの小料理屋店主だった。4月に予定していた娘の結婚パーティーを中止せざるを得ないという旨の連絡だ。娘は、フィンランド人と結婚し、向こうでの生活を続けているが、国の方針で、この時期に夫婦で日本へ行くことが許可されないという。欧州では、現在の日本で起こっている事態を、それほどまでに重大に考えているのだ。日本でいえば、外務省の渡航禁止国というところだろう。

米国留学中のウメ子の大学でも、日本で学んでいる(当該大学)留学生は、大学が費用を負担するので、即座に米国に帰国せよということらしい。こんな周囲の反応を見ていると、原発への敏感さは、1位、欧州人(特にフランス)・2位アメリカ人という印象だ。唯一の被爆国である日本人の原発に対する意識は、今までが低過ぎたと言わざるを得ないのであろうか。



そんな中でも、デマや風評被害に惑わされずに、立ち上がろうとする日本人の姿は、やはり心に響くものがある。だからこそ、今こそ、冷静に論理的に物事の核心を捉えようとする、一人一人の眼が必要であるに違いない。


サッカーが、それほど好きではない私であっても、この日のチャリティーマッチで魅せた、44歳カズのゴールには心が熱くなった。


世界基準の中で、本当に日本人の真価が試されている時なのかもしれない。
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金八幻想の功罪と終焉

2011-03-28
27日(日)「3年B組金八先生」が32年間のシリーズファイナルを迎え、SP版の放映があった。金八演じる武田鉄矢自身がはまり役として、ほぼ半生を捧げてきた学校ドラマである。初期の映像も随所に挿入されたSP版を見ていて、本当に32年間も経ってしまったのかと、その時間の早さが身に染みた。「金八」はこの3月で定年退職となったのである。

これまで、シリーズの全てを観てきたわけではない。真剣に観たのは最初の2回だけ。あとはドラマの変化か、自身の変化か決め難いところだが、観る意思を失った。たぶん後者の理由が大きいのだろう。金八の姿が幻想に見えてきたからである。事実、ドラマも初期2作と3作目の間に約8年間の断章がある。その間に、高校・大学生活を経て、私自身が現実の教育現場に立ったという経緯は、このドラマに対する態度を一変させた。ゆえに、この時点でドラマの功罪を語っておくことに、一定の意味を感じるので、長文になるがしばらくお付き合いを願いたい。



このドラマが提示してきた同時代の集約的な教育問題。性教育・校内暴力・家庭内暴力・性同一性障害・ドラッグ等。その顕わな社会への提示があったからこそ、シリーズがここまで継続してきたとも言える。それまでに存在した学園ドラマのように、生徒と青春を謳歌し、めでたしめでたしと終わる類とは一線を画していたといえる。原作者・小山内美江子氏の現場取材に基づいた問題提起には、一定の説得力があったといってよい。(それもシリーズ3以降の進行に伴い、制作側との確執があったようだが)

例えば、学校現場での性教育が、欧米に比較して形骸化しており、肝心な要点を隠蔽し表面的な建前知識しか提供していない現実と比べ、32年前にTV映像を通して考えた性への意識は衝撃的であった。この月日が経過したのちに、性教育の現状が改善されたかと言えば、現場全体として「?」と言わざるを得ない。「できちゃった婚」などが、堂々と市民権を得てしまった日本の現状は、若者の性意識が極端に低いことを象徴している。現実的な方法を提供せず、「性行為=悪」という図式から抜け出せない学校現場のあり方は、たぶん世界基準において、かなりな性教育後進国ではないかと思ってしまう。なおかつ、教師が性的に不適切な行為により処分対象となる報道などを見るに、現場で性教育への意識を共有できていない事実が露骨に理解できてしまう。

「腐ったミカンの方程式」(シリーズ2作目)という比喩も、鮮烈に心に残る。ミカン箱の中に、腐ったミカンがあれば、それを真っ先に排除すれば、他のミカンの健全が保たれるという方程式を、生徒にも当てはめて、問題児を学校から排除しようとするあり方への警鐘である。金八は、「我々はミカンを育てているのではない、人間を育てているのです。」と涙ながらに語る。学校や教師が、その体面を穢さない為に保身に走る。定年後に要職を得るために、管理職は問題が起こらないことだけを願い、「腐った」と認識した生徒を他校へと排除する。必然的に生徒はたらい回しにされる。そこで、なぜ「腐ったのか?」ということを考え、少しでも生徒の心の闇に向き合う教師がいれば、生徒は「ミカン」でなくなるかもしれない。そんな人間的な向き合い方を、このシリーズでは語っていた。

今や「モンスターペアレンツ」などと言って、外部からの批判に対し極端に弱い教育現場。批判を小手先でかわすことしか考えない管理職。向き合おうとする教員は、個人的負担を強いられ、精神的に追い込まれてしまい、休職を余儀なくされる教師も多いと報告されている。その結果、発言権のある親、経済力のある親の子供たちが優位な教育を受け続け、結局は二極化を促進する。表現方法を知らない思春期の心は、優位な親の元で理不尽にも擁護され続けるか、あるいは無関心な親の元で、心を打ち明けられる相手も得られず頽廃するかという構図が、より顕著になってきてしまった。首都圏などにおける私立中学受験の過熱ぶりは、その後の進路を優位にという意識と同時に、「腐ったミカン」がある箱には、入れたくないという親の意思が強いようにも思われる。

こんな点を概観するだけでも、日本の教育現場は、この30年間で多大な問題を放置し、改善される方向性を持たずに歩んできてしまったのであろう。それが若者の向上心の欠如や閉鎖的な状況、いくつもの犯罪行為などに象徴的に露出してきていると言えないであろうか。自責の念を込めて、今、改めて日本の教育に真摯に向き合わねばならないことを痛感するのだ。



一方で、ドラマ・映画にはヒーローがつきものである。金八もある意味で、非現実的なヒーローであることを忘れてはならない。自らの全身全霊で生徒に向き合うという姿勢は、どれだけ現場主義の教師であれ、不可能な所業である。今回のファイナルSPでも、3年B組に来た問題児を、自らの家で生活させ更生させるという話となっていた。実際問題として、教師がそこまでプライベートな生活を、教育に懸けられるかと言ったら、それは不可であろう。そんな「おせっかい」極まりない行為こそが「教育」なのだという、ある意味、教師という職業に対する暴力的とも言える理想像の提示が、社会を席捲したとき、生徒や親の期待度が、極端に変質するという罪をもたらしたのではないかと思うのだ。

メディアリテラシーの問題が、随所で頭を擡げてくる昨今、日本の教育レベルが、ドラマの虚構的問題提示に追いついて来なかった現実を垣間見る気がする。私自身の経験からしても、金八シリーズ1・2に対する思いが強いのは、自らが思春期であったという点が、最大の要因である。幸い、その後の大学での学問や、教育問題を議論する同朋と思える人々の存在により、自らの教育理念は、理想を掲げつつも現場主義的な点で折衷し、前に進んで来られた。

今回のSPで、金八は狭心症を患っているという設定になっていたが、それを押して生徒に向き合う姿を、果たして礼賛していいのかと、甚だ疑問を持たざるを得ない。いや、このような教師生活をしていたら、せいぜいシリーズ2ぐらいで、とっくに精神的ストレスから病に倒れていてもおかしくない。それをいつも笑顔で、卒業式まで乗り切る金八は、やはりウルトラマン張りのヒーローとしか思えないのだ。最後には「優しさ・信じる・愛」というスペシウム光線を発射し、眼の前の問題を悉く粉砕する。それを現実社会の教師が持てたなら、この職業は、決して辞められない快楽のみを伴うであろう。

私自身の見方もあるが、ファイナルSPの内容も、シリーズ1・2の内容に依存する部分が大きかったようだ。思い切った物言いをすれば、「金八」はシリーズ2までで、あとは惰性と言ってもいいかもしれない。



最後に、初期作品の前後には、「仙八先生(さとう宗幸)」とか「新八先生(岸田智史)」などという姉妹作品もあったが、やはり「金八先生」だけがここまでの寿命を得たのは、武田鉄矢の人間的魅力という点も大きいであろう。国立・福岡教育大学中退であるが、長年の「金八」役が大学側に評価され「名誉学士号」を授与されたというエピソードもある。卒業式での語りの台詞は、ほぼ武田自身の自作である場合も多く、半年間のドラマ撮影を終える感慨が、生徒出演者との間で共有できているような印象が常にあった。「贈る言葉」に代表されるような曲のあり様は、武田が若い頃から求めてきた真骨頂であろう。その独特の歴史知識や含蓄ある歌詞の数々、武田のあまり知られない曲を聴けば、そんな一面も見えてくる。印象として、様々な受け止め方ができるあのキャラクターから、今後は「金八」の仮面を剥がしてみるのもいいかもしれないと思う。



長々と、「金八」幻想について語ってしまった。まさかこれ程までの苦難に立たされた日本で、「金八」がファイナルを迎えることを、誰が予想したであろうか。「一つになろう」などという標語は、それはそれでいい。しかし、この機にあって、我々日本人が本当に考えなければならない意識とは何か。それを多くの人々が議論し合える社会となるよう、現実の改革を推し進めていかねばならないはずだ。


「金八幻想」は終焉した。

「金八」開始、爾来32年間の日本の歩みを真摯に受け止め、これからも復活を懸けて歩み続ける国として、我々一人一人が冷静な意識で生活していかねばならないと切に思うのである。
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【WWF Earth Hour】に参加

2011-03-27
26日(土)完璧な闇を私は知らない。幼少の頃に、悪戯で押し入れに隠れても、襖の端から光が差した。小学3年生で、初めて親元から離れて英会話のサマースクールで山間の宿舎に行ったとき、「天の川だ」という声に天空を見上げ、ふと気が付くと自分の周辺は、それまで経験したことのない闇だったと記憶する。たぶんそれが最高レベルの闇の中だと自認している。それ以来、常に電気によって光が供給され、時間とともに通信機器もTVだけではなくなり、電気によって世界と繋がっている状態が日常化した。物理的な意味での光のみならず、人や世界と繋がる手段としても、私は本当の闇を知らない。

この日、日本時間午後8時30分から9時30分まで、WWF Earth Hourに個人参加した。消灯はもちろんであるが、部屋中のコンセントを抜き、電気で起動しているものを全てOFF(自宅電話も)にした。充電されているというのは言い訳にならないだろうと思い、携帯も全てOFFにして、外界との繋がりを遮断した。それでも東京の街はかなり明るい。次第に闇に目が慣れて行くと、窓からの明るさで十分とさえ思える空間となった。暖房は大地震以来1度もつけていないので、厚着で過ごすのは既に習慣化していた。

そんな環境で1時間、ただ座り込んで沈思してみた。自分の生活とは何だろう?自分がやるべきことは?成すべきことは?と自問自答を繰り返した。次第に、こんな静かに物を考える時間を、常日頃は持っていなかったことに気付いた。布団に入れば、そそくさと眠ってしまうし、起きればWeb上から氾濫するかのごとく情報が押し寄せる。あくせくと組織の流れに従い、ただ前例の繰り返し。唯一、沈思しているとすれば、小欄の文章を構成している何十分間ぐらいであろうか。心と向き合う時間をいかに持っていなかったという事実が明らかになった。

いつの間にか、1時間を大幅に過ぎて時間を確認すると午後10時を回っていた。その時間確認という動作も、実は電気なしでは不可能なのだ。一個体としての人間の無力さよ。時間という自然の摂理さえ、自身の能力で把握できない。いや現代人だからこそ失ってしまった、退化の図式なのかもしれない。自然に対する畏敬の念を失い過ぎた人間として、今を見つめ直す時が来ているのかもしれない。

この1時間の暗闇は、日本時間で日曜日の夕方にかけて世界を1周するという。谷川俊太郎に「朝のリレー」という詩があるが、さながら「闇のリレー」である。日出づる国で、世界でも早い段階で、1時間の活動に参加できた小さな達成感があった。されど、地球上においては「自然保護」などという観念自体が横暴なのかもしれない。自然の中で生きている小さな存在が人間なのだ。


被災地への思いも込めて、この1時間を体験した意味は小さくはなかった。
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袖触りあうも・・・やっぱり縁か

2011-03-26
25日(金)慌ただしい1週間も金曜日を迎えた。今回の地震で倒壊した書斎の本棚も、ようやく父の助力を得て廃棄できる状態になった。そして新しい本棚を注文する。自室での揺れに耐えるであろう構造を検討し、あまり費用がかさまない程度の商品を発見した。リビングに一時的に積まれている書籍の数々を見て、何年も頁を開いていないものも多数ある。改めてその一冊一冊との邂逅を思い出したりするのも一興だ。

掃除を終えると、何だかスタミナがつく食事が摂りたくなったので、英会話教室の前に通っている、馴染みの洋食屋さんへ。店に入ると「あら!(この曜日に)珍しいですね」と奥さんの笑顔。「肉を食べて栄養が付けたくなりましてね!」と返答していつもの席に座った。まずはサラダを肴に少々のワインをいただきながら、店主夫妻や息子さんとの世間話。料理の味は勿論上々なのだが、このカウンターコミュニケーションがあるからこそ、この店を贔屓にしていると言ってもよい。

その後は、「栄養が・・・」と宣言していたので、奮発してサーロインステーキを注文した。それにまた奥さんが呼応してくれて、「通常ならバター乗せですが、ガーリック乗せもできますよ」という。迷わず「お願いします」と答えた。最近、ステーキと言えばアメリカに行ったとき以外、あまり食べていなかったが、この店のは別格である。こんがり焼かれたステーキが熱い鉄板に載せられて、音を立てながら目の前に出てくる。立ち昇る湯気から、既にスタミナの香りが漂う。

ステーキに舌鼓を打っていると、隣に父と娘のお客さんが座った。何となく気になったが、当初はお互い黙々と美味しい料理を食していた。しばらくすると、その娘の方が小生に向かい「監督じゃないですか!」と声を上げた。「あれ!」と、彼女の顔を見るや、すぐさま約15年前に監督をしていたソフトボールチームの選手であることを思い出した。どうやら、この洋食屋さんの近辺に住んでいるらしい。それにしても、この曜日のこの時間に、カウンターで隣り合わせになるなんて、やはり「袖触りあうも・・・やっぱり縁だな~」とお互い驚嘆しつつ、改めて連絡先を交換した。


どこかに所蔵されていた人生のファイルが、ふと顔を覗かせる一瞬。これは自分が積み上げてきた、誰にも侵害されない聖域の記憶である。地震により炙り出された蔵書と同様に、新たな邂逅として今に息づく偶然性の悪戯だ。


そんな思いに浸りながら洋食屋さんを出て、地下鉄を1度乗り換えて馴染みのワインバーへ。地震後は、孤独感から解放される為に何度となく足繁く訪れている。いつもながらの静かな雰囲気の中で心を落ち着け、ワイングラスを傾けていた。しばらくすると、顔見知りの方が来店。再びカウンターコミュニケーションの時間が続いた。それにしても「袖触り合うも・・・」という諺は、「・・・」に結構なバリエーションがあることを感じさせる。


馴染みの店のカウンターで、時間的空間的な多次元から、スタミナを得られた夜となった。
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身体の躍動を取り戻す

2011-03-24
23日(水)施設補修・停電・節電などの影響もあり、会員となっているスポーツクラブでは、限定的な営業時間が続いていた。スタジオでのプログラムは休止し、マシンによる筋トレを中心にした営業期間中も2度ほどは足を運んだ。しかし、電気で駆動するエアロバイクなどを使用するのは、節電に反するなどと考えてしまい、ウエイトを身体の力で挙げる単純な筋トレに徹していた。もし、バイクを漕ぐのであれば、その力で発電などできればと、偽善的な考えが頭をよぎったりもした。運動をするという素朴な身体行為でさえも、既に電気なしではできないというあり方に疑問を抱いていた。

この日から、通常の営業が再開し、スタジオプログラムも再開した。これは勿論、照明や音楽を流す為に電気が必要だ。久しぶりのプログラム再開を待ち望んでいた会員諸氏は多く、早々とスタジオ前には入場待ちの列ができていた。これだけ多くの人が、音楽だけでかなりの身体活動ができるのであれば、それはそれで有効な電気の使い方ではないか、などと勝手に理由づけて、小生も多くの会員とともに入場待ちの列に加わった。

「大きな余震が来たらプログラムの中断もあり得る」という注意が為され、通常の有酸素プログラムが始まった。10日以上、こうした運動から遠ざかっていた身体は、動きを求めると同時に、些細ながら筋肉の衰えを訴えるような調子だ。しかし、スタジオ一杯の会員諸氏とともに動いていると、次第に身体に躍動感が戻ってきた。小欄にもしばしば、身体の躍動が精神的な前向きさを誘発していくという趣旨のことを書いてきたが、この日は改めてそんな感じを受けた。

有酸素プログラムの後半は、ややバテ気味な部分もあったが、60分間走り抜けたような爽快感は、やはり何にも代え難い。身体が躍動したいという欲求を、しばらく抑え込んでいたのだと気付いた一瞬だった。


このようにして身体を躍動させることが、既に自分の日常であることを再確認した夜であった。
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それ行け!!Going Going

2011-03-23
22日(火)11日の震災以来暫くの間、音楽の美しさを忘れていた。余震や原発への不安に怯え、TV報道やWebの情報などを睨みつつ、悲痛な思いを先行させて過ごしていたような気がする。この日、眠っていると、ふと夢うつつにあるメロディーが脳裏に流れた。エレキギターの軽妙な調べが心の中で踊ったのだ。そのイントロの延長上には、麗しくも逞しい歌詞が息づいていた。

 「適当に手を抜いて行こうな
 真面目に好きなようにやんな
 我行く旅の道中は予期せぬことばかり

 歩みを止めたきゃ言いな
 悩み多き時こそ笑いな
 我が胸の奥の葛藤や身を切るような絶望も Oh,yeah

すべてを背負(しょ)いながら生きるは重たかろう!?
 吹く風に押され身体預けて

 それ行け!!Going Going
 追い風 Blowing Blowing
それ行け!! 男の子(ベイビー)!!
Wow・・・ ファイト!! 」


桑田佳祐最新アルバム「MUSICMAN」に収録された、「それ行けベイビー!!」である。桑田自身がガイドの中で吐露しているが、「エレキの弾き語りという曲作りを試した」というのだ。そのヒントは2007年ソロツアーのアンコールで、一人でステージに残り、「希望の轍」をエレキソロで歌い、「ラフだしアバウトな感じでいいな」と思ったからだという。その挑戦的な試みに、桑田作詞の歌詞がものの見事に調和し、現代における自分応援歌的な味わいを醸し出している。

最初にアルバムで聞いた時は、エレキの曲調だけが気になって、サビ部分の3声によるハモリなど、曲の流れに魅せられていた。ところが、歌詞カードを読んでみると、その歌詞の軽妙でありながら、生きることの真実を捉えるような掴みが堪らなく心に響いてきた。あっ! この流れはやはり今までサザンの曲に魅せられる時の段階的なパターンであることに気付いた。

すると、この曲が自らの身体と感性の両方に浸透した瞬間が来た。


「適当に手を抜いて行こうな
 ボチボチ好きなようにやんな
 終わりなき旅の道中は予期せぬことばかり Oh,yeah

命をありがとネ
 いろいろあるけどネ
 それなのに明日も知らぬそぶりで

 それ行け!!Going Going
 追い風 Blowing Blowing
それ行け!! ボク!!
Wow・・・ ファイト!! 」


「命をありがとうネ」の歌詞は、桑田が闘病生活前に書いたというが、それが後になって、自身の境遇に嵌(はま)り過ぎるほど嵌るあたりは、自己の人生を予見していく桑田の超能力的な感性のように思えてきたりもする。

そしてこの歌詞の中で桑田が、一番言いたかったフレーズが「真面目に好きなようにやんな」だという。ガイドの中では、「人間は所詮、不完全なものだから、あまり一生懸命やって煮詰まってしまってもつまらない、適当に手を抜いてやってみるのもいいんじゃない」と桑田は語る。



震災から10日以上が経過した今、新たな世界観の中で前進すべき日本人一人一人に向けて、こんな軽妙なエレキの弾き語りが、背中を押してくれるはずだ。その曲を、病魔の恐怖に立ち向かった桑田が熱唱するという図。これはもうファンとしては堪らない快感だ。


ぜひ多くの人にお聞き願いたい一曲である。
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跳梁跋扈する言葉の余白

2011-03-22
21日(月)表現された言葉を額面通りに受け止めるかどうか、甚だ迷う場面に遭遇することがある。また自らが発信した言葉から、実は伝えたいと思う内容を汲み取って欲しいと願いながら発言することもある。日常的な伝達を目的とした内容なら何ら意識することもないかもしれない。しかし、比較的公的な場面で語られる作られた言葉には、その背後にある思考を透けて見ようとするのが、癖になってしまっているようだ。

言葉の余白に入り込み、果たして発言者が日常において、どんな行動をしているかと比較している自分がいる。大きな志をもって生きるべきだと語る言葉の余白には、むしろ小さな志に収斂していくべきだという思考が見えたりする。行動と言葉には確実に距離があり、その距離を意識すればするほど、余白に挿入するコメントが跳梁跋扈してくるのだ。

音として発せられる言葉は、文字よりも力を持つことがある。一度、音として発言されると、文字情報以上に脳裏に刻まれている場合があり、その事に対してこちら側から指摘し反復したりすれば、自身の無意識の中に、その発言が暗躍することがある。こんな点に言霊信仰の科学的・理論的な解明の糸口があるような気もする。音読は脳に刻まれるのである。

氾濫するWeb上の言葉に対しても、些細な言葉尻を指摘するものや、余白を読めば指摘するほどのものではない事例などを目にする場合がある。その都度、言葉の余白に対して均衡をとった態度で適度に意識すれば、それはそれで楽しめる内容になるはずである。


このような言葉の余白にも、言語としての日本語の特徴が跳梁跋扈している。
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特例と通例の狭間

2011-03-20
19日(土)特例と通例の狭間にある現在の様々な事例で、何にどんな意義があるかを改めて沈思すべき時だと思う。これだけの状況の中で、通例に従うだけでは思考停止も甚だしい。されど、特例が万能な訳ではない。日常化していた事を、複眼的に見直すよいチャンスだと前向きに考える人でありたい。

特例な事だから特別措置ばかりが適応されるというのも、それまでの蓄積や思考を無視することになるので、甘んじてもいられない面がある。しかし、現実に通例では如何ともし難い状況が生じている中で、既定路線にのみ留まっているのは、思考の柔軟性に欠け、甚だ固着した行動になってしまう。要は両者の狭間において、どれだけ均衡が取れた思考を持ち得るかで、今後のあり様が決定的に左右されるはずだ。

買い占めなどという行為も、特例な状況を分析できず、雰囲気に左右されて根拠なき行動に出る典型的な例であろう。一方で、社会状況の困難さから大学等で相次ぐ卒業式の中止などについては、通例不可欠であった事が行われない典型的な例でもある。状況を十分に鑑た措置であるのは確かであろう。ただ、卒業生にとっては一生に一度の何にも代えがたい通過儀礼でもある。その意義を見失っていた大学教育のあり方まで踏み込んで、通例の検証を行うとともに、特例な事態だからこそ特別措置により、何らかの形式で実施する方向はないものかと思ってしまうのだ。



この日の夜、福島第一原発で放水作業を行った東京消防庁の警防部長以下、現場で指揮を執った2人の隊長が会見を行った。TV映像でその言葉の一句一句を受け止めながら、放射能濃度が高いという特殊な環境で極限な使命のあり様が、ひしひしと伝わってきた。命の危険に曝される任務に向かう際に、家族から「日本の救世主になって下さい」というメールが届いたという。また隊長として「隊員たちの家族のことを思うと」と呟いて、会見中に絶句した場面も見られた。消防隊員であれば、通例として命懸けの任務があるのは事実であろう。しかし、放射能濃度が高いという極めて危険な環境での特例な使命を遂行するために、その心のあり様は想像を絶する葛藤が渦巻いていたことを感じさせた。



様々な事例において、それぞれの持ち場において、特例と通例の狭間に揺れる心が散見される。

それゆえに、その均衡を深く意識する柔軟な思考が求められている。

物事の意義に対して逐次、知的に多面的に考えようとすることを通例とする人でありたい。
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世界観が変わった1週間

2011-03-19
18日(金)東日本大震災から1週間が経過した。あの午後2時46分から世界観が変わった。勿論、被災して命を失ったり、怪我をしたり、厳しい状況に置かれている方々からすれば、些細な変化であるだろう。そのことはこの1週間で、繰り返し小欄で述べてきた。

生活の具体的な変化によるものではない。目の前にある感覚自体が大きく揺れて変化したのだ。地震大国に居住していながら、十分にわきまえていたはずの対策が、実は十分には程遠かったこと。原発を全国に17か所も抱えている、世界有数の原発大国であるのに、その安全性に批評的な眼を向けていた「つもり」であり、貧弱な知識しか持ち得ていなかったこと。大陸の端で、幾つものプレートの上にあり、活動している地球の地殻変動を直接受ける国土の上で生活していること。等々・・・。

 自分は自分なりにこの1週間が大変長かった。そんな世界観の変化を受け入れる為に、その余震という名の「揺れ」の度に、改めて精神が大きく揺さぶられた。破壊された書斎の本棚を復旧作業していて、自らの整理能力の無さを自覚したりもした。小さいながらも、心に何ヶ所かヒビが入ったような感覚である。

その心のヒビを修復する為、人々と語り合った。孤独でいることからは何も始まらない。世界観が変わる前から親しくしていただいていた方々と、新たな世界観を以て接することで、今の自分の立ち位置を測定することができた。今までにない宵の過ごし方をした1週間だった。

ふと海外からの視点を持てば、我々日本人全員が被災者であるといっても過言ではない。相次ぐ卒業式の中止などを大学が発表している。一生に一度の儀式がである。大学によっては入学式や新年度の日程変更に踏み切る所も見られる。日常であったはずのプロ野球開幕にも賛否両論が喧しい。


世界観が変化しても、確実に言えることは時の流れは止められないという一つの事実だ。その流れを受け止めて、新たに前へ進むことが求められる。


そこに各自の屈することなき人生の絵図が広がっている。
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