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龍馬の足跡を辿る京の旅(その3)

2010-12-26
25日(土)旅に出ても小欄の更新を怠らない。日常と同じように宿で起きると、すぐに文章を綴る。宿にインターネットアクセス環境が整っていることも必須条件である。手持ちのブック型ノートPCも3年目となり、OSを始めやや旧式の重さが目立ってきた。それでも、文章を綴ること自体を脳と身体が求めてしまう。

  宿を出てすぐに、海援隊京都本部が置かれていた酢屋へ。初日に立ち寄ったが、1階の木工細工売場しか開いておらず、2階の「龍馬ギャラリー」は見ていなかった。入場料500円を1階のレジで支払い、靴を脱いで2回への階段を上がる。それほど広くない2階には、様々な展示と、改装されてはいるが、龍馬が身を潜めていたという部屋がある。龍馬は、この部屋から外に向けて短銃の射撃訓練をしていたともいう。現在、その前の通りは「龍馬通り」と呼ぶ。女性の案内員が1名、酢屋の歴史や海援隊との関係など、展示資料に基づき丁寧に説明してくれた。このあたりは高瀬川に浮かぶ舟の輸送力を頼りに、材木商が多くあったという。酢屋もその1軒。龍馬としては、大阪との交通が便利であったり、いざと言うときに舟による脱出も可能だということで、この場所を選んだともいう。毎年、この酢屋の主催で、「龍馬の手紙」という企画がある。現代に龍馬が生きていたら、どんな手紙を書くかということを全国から公募して、入賞作を決定している。これは書いて応募しようかと思いきや、龍馬が凶刀に倒れた33歳までが応募資格である。ややがっかりしたが、龍馬がそれほどの歳までに、大仕事を成し遂げていたことに、改めて敬意を表せざるを得ない。

 朝食兼昼食は、恒例、三条大橋西詰のスタバへ。京都には外国人客も多く、アルバイトと思しき店員も、少々なら英語で対応している。中には外国人客の方が、片言の日本語で注文したりしていて、外を眺めながらその様子に聞き耳を立てているのも面白い。店を出ると寒さが身に染みる。これぞ京都の底冷えということなのだろう。鴨川から吹きすさぶ風が身を切るようだ。ジーンズの下に保温素材のタイツをはいて来なかったのに気付き、一旦宿まで戻る。それほど遠くないので苦にならなかったが、たぶん面倒がってそのまま行っていたら、この日の天候状況に後悔しただろう。

 京阪三条駅から大阪中ノ島方面の列車に乗って、中書島まで。この日の目的は伏見で龍馬の足跡を辿ることだ。特急列車に乗れば約15分ほど。高瀬舟で下るとどれほど要したのだろうか。電車に乗っても舟好きの龍馬に思いを馳せる。

 中書島駅北口から、ほぼ直線に伸びる道をしばらく歩くと寺田屋へ到着。その昔ながらの外観は、幕末当時への思いを更に掻き立てる。外回りの写真撮影を済ませてから中へ。入場料400円、親切そうな女性が「靴はビニール袋にどうぞ」と案内してくれた。参観券の裏面には「京へ来たなら一度はお寄り 伏見寺田屋 坂本龍馬 昔白刄の うらばしご」の都都逸が記されている。

 「最初は2階へどうぞ」の声に促され、階段を上る。この階段こそ、伏見奉行所の捕吏が龍馬と三吉慎蔵を襲撃した場所だと思うと、胸の高鳴りが押さえられない。板敷きの階段を上り切ると、踊り場を中心にいくつかの部屋がある。部屋には「松竹梅」などの名前が配され、龍馬が使用していたのは「梅の間」だという。現在は、各部屋に書簡の複製や龍馬やその周辺の人々が詠んだとされる漢詩などが展示されている。梅の間には、大きな龍馬全身の肖像を描いた掛け軸に、刀や短銃などが展示。寺田屋騒動で、龍馬は高杉晋作が上海で手に入れ、龍馬に託したというこの短銃で応戦し、難を逃れた。床の間の向かって左側の柱には、「弾痕」が残されていた。見ていると若いカップルなどが、その弾痕に指を捻じ込んで触っている。その歴史的意味を感じ取り想像して見るのが筋だと、心の中で呟く。されど弾痕は、だいぶツルツルした状態なので、多くの人が指を突っ込むのだろう。人間、穴を見ると、どうして指をいれたくなるのだろうか。わからんちゃ。

 『龍馬伝』では、この部屋で(福山)龍馬が襲われた際に、「三吉さん、ちくと難儀じゃのう〜」と声を上げるシーンが印象的だ。壁には二人が短銃と槍で応戦する絵も掲げてあった。部屋を何度も出入りしながら、階段から捕吏が上がってくる緊迫感を想像する。しかし、龍馬らが難を逃れたのは、恋人お龍が、入浴中に旅籠周囲の異変に気付いて、半裸で龍馬らに知らせたから。その梯子があった位置にある裏階段を、上から眺めおろす。気丈なお龍の行動を、再び想像しながら1階へ下りた。そこにはお龍の入っていたとされる古びたお風呂があった。その後、お龍は、薩摩藩邸まで、龍馬たちの危機を知らせに走ったという。何とも気丈極まりない行動力。龍馬への愛の深さが知れるとともに、お龍なくして幕末史は今のようになっていないことに心が騒ぐ。

 1階では、年配の男性が寺田屋の由来などを講釈している。なんと豊臣秀吉の時代から約400年間も、この場所で舟宿をやっており、現在も宿泊できるという。いかに大阪と京都を結ぶ交通の要所であったかがわかる。大阪までは三石船で約6時間、大阪からは流れを遡るので倍の12時間だと知る。この男性に、「龍馬らはどこから逃げたのでしょう?」と質問すると、たぶん裏戸ではないかと思いますが、定かではありません。」ということだった。裏梯子から裏戸へ。左手を切られ大きな傷を負った龍馬らが逃げた足跡を追いたくなった。

 寺田屋を出て、道を挟んで前の舟着場あとに下りる。宇治川から引かれた清流が静かに流れている。伏見は水がいいので有名でもあり、酒蔵が多いことでも知られている。

 その後、寺田屋裏手の道から、龍馬がとりあえず避難したという川沿いの材木置き場を目指した。重傷を負った龍馬が慎蔵と歩んだ道を辿る。途中に何軒か寺がある。慎蔵はまずこのあたりの寺に救護を求めたが、周囲に追っ手が及んでいるのを察知して、更に川のある方面に逃げた。そして大手筋通りを大手橋まで行くと、「坂本龍馬 避難の材木小屋跡」の石碑を発見した。実際は、その石碑と反対側の川沿いに小屋があったというのだが。生死の境を行き来した龍馬が、ここで考えたことは何だろう?命を賭けて龍馬が成立させた薩長同盟の現場を歩いた。その小屋から慎蔵は単身、薩摩藩邸まで急を知らせ、薩摩藩の藩士が川沿いに舟を出し、龍馬を救ったというのだ。

 ならば、薩摩藩邸まで歩かねば、この足跡探訪は完結しない。川沿いを北上しようと川べりに下りて歩き出したが、しばらく行くと川沿いが歩けない状態になってしまった。仕方なく引き返し、公道から辿るように上流へ。川が大きく屈曲したあたりが薩摩藩邸跡地のようであるが、なかなか街中でそれを発見できない。探すことしばし、ほぼ諦めかけた時、道端にある「薩摩藩邸跡地」の石碑を見つけた。今では大きな酒蔵工場のようになっている。この伏見は、江戸時代には参勤交代の要所でもあり、かの篤姫も、この藩邸に滞在したと碑の説明書きに記されていた。

 その後、寺田屋方面に戻り、龍馬通り商店街へ。伏見の水コーヒーの看板に引かれて、洒落た喫茶店へ。確かにレギュラーコーヒーは美味しかった。向かいにある龍馬館で、また土産物を見て、『京都時代MAP』を購入してしまった。幕末頃と現代の地図が重ね合わせて見ることができる優れものである。歴史的に地図を見るにはたまらない1冊だ。

 かくして伏見での龍馬の足跡を辿った。何とも言えない達成感を胸に洛中へ戻る。

 京都最後の夕食は、やはり湯豆腐。先斗町で1階は豆腐屋を営業している「豆腐茶屋」へ。2階の店内は静かで、ゆっくり湯豆腐や全品豆腐関連の料理であるミニ懐石が3200円。それと京都の銘酒「玉の光」大吟醸をいただき満足。ほろ酔い加減で、先斗町を散策しつつ、祇園の方まで出てしまった。勢いで「舞妓はん」というわけにもいかず、以前から食べてみたかった「祇園 餃子処 泉門天」へ。ミニ餃子なので、「1人前というと15個ぐらいです」
という店員を信じて、熱燗の紹興酒とおしんこをともに注文。グルメの梯子が完結した。

 満腹満腹もたまにはいい。ジムのインストラクターも言っていた。年末年始の前に、トレーニングを充実させて貯金を作っておきましょうと。4日間ジムのトレーニングをしないのは、夏の米国・カナダの旅行以来だ。実は、京都でのチェーン展開するシムに行こうかと、ウェアーは持って来たのだが、肝心な会員証を忘れていた。むしろ年末年始はフルにトレーニングを敢行しよう。

 様々な店に出向き、退屈しなかった京都3夜。底冷えの中で冷えた身体も、温かな料理と人情に癒された。

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