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楽天家たる子規の生涯

2010-12-13
12日(日)NHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』第2部が先週から始まっている。この日は、「子規逝く」の回であった。短歌・俳句の革新運動を行った正岡子規が35年間の生涯を終えていく様子が描かれていた。その壮絶な闘病生活に耐えながらも、新聞連載の「病牀六尺」を書き続け、そしてその脳裏には俳句が次々と自然に浮かんでくると言う生き様だ。明治時代人を概して「楽天的」と位置づけるこの原作ドラマの中でも、「とりわけ子規が誰よりも楽天家であった」とナレーションの渡辺謙は語っていた。

 子規の墓というのは、小学生の時に出向いたことがある。通っていた小学校の近くにあって、まだ子規たる人物が、何たるかを知らない頃に、自由研究の題材のために数人の友人たちと訪れたと記憶している。ドラマの中でも、四十九日を迎えた時に、子規の墓を友人・秋山真之が(本木雅弘)訪れ、妹の律(菅野美穂)と会うシーンがあった。やや小高い丘のような墓地に、粗末な木製の墓標の下で子規は眠っている設定になっていた。小生が小学生の時に見た子規の墓は、その後改修されたのか、もう少し立派な墓石であり、平地である寺の境内に平然と建っていたように記憶している。ただ、その寺の裏手は小高い丘のような傾斜地なっているので、明治時代にはそんな状況だったのかと、より想像力が掻き立てられた。

 ドラマの終わりには、協力の欄に「大龍寺」とあったから、何らかの情報を番組に提供している可能性もある。いずれにしても、根岸の子規庵から、葬列がこの寺に向かったのかなどと、実際のルートなどが想像できる環境に生まれ育った小生は、子規に対して何らかの縁があるのかもしれない。そういえば「土葬云々」について子規は、詳細に記した記述も遺していたようだが。改めて子規の遺した珠玉の言葉を読んでみたい衝動にも駆られた。

 明治35年9月19日が子規の命日。坂の上にある一朶の雲に向かって、明治という時代を駆け抜けた生涯だった。

 糸瓜咲て痰のつまりし佛かな
 痰一斗糸瓜の水も間にあはず
をとゝひのへちまの水も取らざりき

子規の絶筆三句。
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