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ならば『超訳 ニーチェの言葉』を

2010-12-07
6日(月)師走となると何かと「最後」が意識され、気分も慌ただしくなる。この日も、顧客への最後のアドバイスと意気込んでいたが、その反応の低さに落胆してしまうほどだった。「打っても響かない」というのは、こういうことを言うのだろう。人生には余白が必要だ。目前の関門という目標にのみ眼が行き、他の物が視野に入らない。むしろ人生の経験者からの「余白」たる話こそ、目標である関門突破のためのヒントになったりする。発想を拡げることこそ、何事も先へと進む結果となるものだ。

 慨嘆しても仕方ない、ならば『超訳 ニーチェの言葉』を読もうと思い、時間の使い方を切り替えた。その中で発見した「言葉」・・・


みんなが考える以上によく考えている広い思考の幅を持っている人は、組織や派閥に属する人間としては不向きだ。
(中略)
組織や派閥というものは、考え方においても人を枠にはめておくのがふつうだ。
(中略)
だから考え方の問題で組織になじまなくても、自分だけがおかしいと思う必要などない。
(世について 96「組織をはみだす人」より)


 この世には、いかにもまともそうに見えるニセ教師がたくさんいる。
 (中略)
 よく考えてみよう。ニセ教師の教えることは、すべて価値判断だ。
 人間と事物についての本質の見方など、これっぽっちも教えてくれはしない。
(世について103「ニセ教師の教えること」)


 読んだ瞬間、思わず笑みがこぼれるほどの至言。こうした「言葉」との邂逅が人生を豊かにするのだ。それを知らない、また知ろうとしない、「ニセ教師」にばかり教えられて来た顧客は不幸だ。

 ニーチェの思想は「生の哲学」と呼ばれ、「世に生きる人間の道徳が必要」だと考え、「宗教的な道徳尺度を押し付けようとするものではない」と編訳者の白取春彦は「まえがき」で述べている。

 こんな書物との出会いによって、心は大きく救われる。

 「人間と事物についての本質」は、たくさんの書物に触れない限り、理解できないのは自明のことだ。

 素晴らしき「書物」「言葉」との邂逅を果てしなく求めていくことこそ、人生そのものだ。
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