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大掃除と整髪

2010-12-31
30日(木)ここ数日、場所を絞って大掃除を続けている。この日はリビングと台所まで辿り着いた。当初の予定だと、水回り全般を終わらせる筈だったが、風呂場とトイレが残ってしまった。しかし、ダイニングテーブルの上が一掃され、すっきりとした眺めはなかなか掃除のやり甲斐があるというものだ。3時過ぎにカットサロンに予約を入れていたので、掃除はそこまで。

 それにしても、掃除中に埃を吸い込んだらしく、鼻水が止まらなくなった。もともと花粉症で、ハウスダストにもアレルギー反応が出ていたのだが、特にマスクなどはせずに掃除を敢行していた。逆な見方をすると、それほどの埃が部屋の中に堆積していたことになる。埃を吸着する製品が、様々に発売されてもいるので、今後はこまめに実行すべしと、決意した。

 カットに行くと、年末的な雰囲気で忙しくスタッフが動いている。休日的な街中とはやや気分が異なった。待ち時間に雑誌を読んでいると、大掃除特集があった。片付けを習慣化すると、仕事が効率化し、気分的に前向きになり、運が開けてくるという。無駄な物を周囲に置いておくというのは、仕事の優先順位が判断されておらず、過去を引きずっていて、埋もれた運命の中で迷走するということらしい。コラム欄には、イチローが遠征の荷物を始め、片付けの才能も天才的だと紹介されていた。極度の緊張感を持続すべきスポーツ選手なら尚更であろう。旅行の際なども、荷物が纏まっていれば、忘れ物などのトラブルもなく順調に日程が消化できる。

 髪も整えて、新たなる年に運を引き寄せる準備も出来た。カットサロンの店主とは、長年の付き合いだが、この日は紅白歌合戦で桑田佳祐が復帰する話題で持ちきりであった。どうやら2曲歌うらしいと教えてもらった。そこで、曲は何だろう?と詮索し続けた。1曲は新曲、あと1曲は何?昨年の矢沢永吉も、大ヒット「時間よ止まれ」を歌ったのだから、大ヒット曲となると?「TSUNAMI」では思ったが、サザンの曲でいいのか?桑田のソロの曲ではないか?などと、紅白のサプライズを楽しむ会話に終始した。

 その後は、両親と知人の登山家と、上野で食事。いつも行く中華料理店が年末で休みであった。これには一同驚いた。年末にこのような老舗料理店が休業とは。経済状況や社会構造の影響は、すぐ傍にいくつもの特異とも思える現象を引き起こす。昭和の時代感覚を中心に考える両親の年代だと尚更そうであるらしい。気分を切り替えて、老舗の和食店へ。登山家の提案で、山形の名峰である「月山」という名の日本酒をいただきながら、仕上げの鰻重まで堪能。夏のアメリカ・カナダ旅行を振り返りつつ、来年の登山計画の話などを聞き、新たな年に希望を見出す話が続いた。

 人と人とを繋ぐ忘年会も、ほぼこれで完結。大掃除もあとわずか。この1週間ほど、来年に向けての準備が着々と整った。

 希望を胸に、2011年がもうそこまで来ている。
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ジム納め

2010-12-30
29日(水)昨日からの大掃除も、書斎からリビングに移行。整理できる物は整理して、捨てる物は捨てる。整理途中で必要以上に書類などの中身を見ない。止まらずに次々に進行させるのが要点だ。それでも思い描くようには進まない場合も多いが、音楽をかけながら、気ままにやれば効率もアップする。

 やや遅い昼食を馴染みのカフェで。やや閑散とした街の様子に、カフェも落ち着いた雰囲気を取り戻していた。5月新規開店、6月頃から常連となった。約半年で人気が出たので、このカフェにとって最上の1年であったことだろう。「来ると思ってましたよ」という店主夫妻の言葉に、やはり年納め常連客としての心も温まった。常連と言えばもう2軒。カフェの帰り際に、酒屋さんに注文をして、その向かいの豆腐屋さんで夕食を調達。今年を納める為に、店舗の人々とふれあうことが、とても心地よく感じられる。

 更に夕方にかけて大掃除を進めて、夜はジムへ。今年最後の通常営業時間。スタジオプログラムも、インストラクター総出で、年納め総決算的な雰囲気で行われるようだ。まずは7時台の有酸素運動プログラム。9月頃から毎週金曜日の基礎クラスに出てきたことで、かなりその動きにも順応できるようになってきた。予想以上に多くの会員が詰めかけており、声の出し方もいつもに増して熱い。60分をインターバルで2度ほど心拍数の頂点が来る。脂肪燃焼の効率からいったら、抜群のトレーニング効果が得られる。終了後の爽快感は格別である。

 約1時間の休憩に、バナナで栄養補給。休憩室でしばしの読書。そして最後は音楽に合わせて筋肉を鍛えるクラスの総決算。これまた参加者の多くが、大きな声を出し今年1年のトレーニングを締め括っているような雰囲気に包まれた。こうしたスタジオプログラムは、単に身体を鍛えるだけではない。何度となく小欄にも書き込んできたが、精神的に苦しいときのバネになるのだ。自分の限界点でバーベルを持ち上げる、また苦しい有酸素運動で山を乗り越える。そんな鍛錬が、痛めつけられた精神を強固に補修してくれる。

 手帳を見返すと、今年はこの日までに143回ジムに通った。何回かはリラックスの為にサウナのみという日もあったが、大概がスタジオプログラムへの参加である。年間365日の39%に当たる。体脂肪率などの身体的な数値も改善し、心身共に鍛え抜いた1年となった。そんな年に相応しいジム納めとなった。

 帰宅して就寝は深夜になった。しかし、納得のいく1日を過ごすのは何とも気分がいい。

 少々の読書をして、使用した筋肉とともに夢の世界へ。
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常連客としての年末

2010-12-29
28日(火)今年も残すところあと僅かとなった。1年を振り返り様々なことを思い出す時期である。同時に1日ごとに場所を区切り、家の掃除を進めるのも、この2〜3日の目標である。などと思いつつ、先週からの京都旅行の残像が頭を離れず、小欄にフォトチャンネルを設定。巡り歩いた場所の写真を読み込み、左サイドバーから入れるように設定した。細かな説明書きは付けていないので、文章との対応でご想像願いたい。

 そんなことをしているとすぐに午前中が終わる。昼頃から米国にいる妻とSkype交信。京都でのことや、米国での研究状況など、思うがままに会話に興じた。その後は、書斎の整理と清掃。本棚に更に効率よく本が詰め込めないものかと工夫を凝らす。本棚の上部のズペースも有効に使用し、少し余裕ができたので、気持ちよく本を収納した。

 夕刻からは、今年1年で常連客となった店を、2軒訪ねようと思い家を出る。まずは馴染みの洋食屋さん。毎週「火曜日の老人」も既に定位置でワインを飲んでいた。京都土産の八つ橋を店主・奥さんと老人に差し上げて、同じようにワインを味わう。店主からは、ベーコン&ポテトの鉄板プレートが老人と小生にプレゼントされた。常連とはいっても週に1回だが、この洋食屋さんでの時間は至福だ。店主・奥さんの人柄もさることながら、老人と親しく会話をしたことが、余計に店の常連としての位置を強固にしたように感じる。何気ない思いやりを毎週してくれるお店に対して、僅かばかりのお土産を届ける。そんな関係が何とも温かい。店主が酒よりも甘い物好きであることも、承知の上だ。「また来年も宜しく」との声に、笑顔で応えて約2時間の夕食を後にした。

 その足で、馴染みとなったワインバーへ。今年1年間で人間的な付き合いが拡大したのは、このバーを愛好する方を中心にした関係性による。職業も違えば境遇も違う、そんな人々が、1人でも気軽にしかも厳選されたワインを賞味できる、ありがたい場所だ。店主が主義主張を持って、店の営業に臨んでいるのもいい。マナー違反と思しき客には毅然と注意を促す。自ずと行儀正しい上品な店の雰囲気が醸成される。ワインとは、かくも美味しいものかと、改めて感嘆したのもこの店のお陰だ。常にワインについての情報収集を怠らず、ベストな逸品を提供してくれる。この日も、ドイツの白ワインを堪能した。ほのかにフルーティーな味わいの中にも、酸味が利いており、その融和が口の中で見事な味わいとなる。酒は飲むものではなく、味わうのもだと感じたのも、この店のお陰だ。

 そうこうしていると閉店時間に。年末だから早目の閉店を意図していた店主であったが、結局、通常通りの時間まで居座ってしまった。遅い時間から、3人組の常連さんが来たことにも起因しているが、やや申し訳ない思いも持ちながら会計をした。最後に、「景気の動向などから、今年は我慢の年だった」と店主。同様に、仕事上で我慢の年であった小生の状況と重ね合わせる。「そんな(我慢に拠る)タメを作ると、来年は飛躍するものですよ!」という店主の含蓄ある言葉に励まされて、店を後にした。

 常連客として、年末のご挨拶を2件励行した。それは建前でなく、その店での時間に、どれほど救われ、どれほど励まされたかという、この1年の素直な思いの体現である。

 こんな馴染みの店がもてることが、何とも幸せである。

 カウンターコミュニケーション、人生に不可欠な活力である。
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年内ポイント期限

2010-12-28
27日(月)午前中にメールがあり、以前から約束していた元同僚との再会が延期になった。彼も先週土曜日までの予定で、遠方まで調査旅行に出掛けていたが、悪天候の影響で船が欠航し、帰京が1日延期。その上、寒さのために風邪を引いたという。旅で学んだ偶有性レッスンも脂がのってきたのか、こうした突発的な予定変更にも何ら心が動揺することもない。年明けに改めて再会の日程を決めて、この日の夜は、旅で怠っていたジムに行けるとい思い、それはそれで嬉しくなってきた。

 昼頃から、年内最後の仕事の残務整理。仕上がった書類を顧客に配布するという単純作業だ。約束時間に、全ての顧客が来訪。小1時間で仕事を終えることができた。

 その後は、池袋西武へ。クラブONというポイント制度で、所有する半分ほどのポイントが年内に切れる。そこで、商品券との引き換えにカウンターへ出向いた。どうやら多くの人がギリギリまで交換していないらしく、大混雑している。以前に気付いたときにやっておくべきだったと思いつつ、「10分ほどの待ち時間です」という店員の案内に促されて、読書をしながら待った。すぐに整理券番号の順番となり、4000円分の商品券を獲得した。これを何に使おうかと迷ったが、結局、買うべき本を何冊か購入することにした。

 クラブONポイント制度は、もう一つ要点がある。1年間の購入金額に応じて、次年度のポイント率が決定されるのだ。この日を以て、あと9000円買うと、次年度も4%のポイントとなる。3%と4%でどれほど違うのかと思うのだが、やはりそう言われると4%にしておきたくなる。いろいろ考えてジムでのトレーニングウェアを購入し、次年度4%を獲得した。またそのウェアもキャンペーンで10%Offであったのも大きい。何だか、百貨店の販促戦略に存分にのってしまっているようだが、家電量販店やドラッグストア同様、ポイント利用を活かすのは、賢い買物と言えるだろう。

 年末に締め括るものは、こうして一つずつ処理していく。

 夜はジムで5日ぶりの汗。京都でも沢山歩いたせいか、基礎代謝量が増えており、体重の増加もなかった。しかし落ちていたのは腕の筋肉量。鍛えていない身体は正直である。
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龍馬の足跡を辿る京の旅(最終章)

2010-12-27
26日(日)いよいよ京都滞在の最終日を迎えた。宿の中は暖かく快適だが、京の街中は底冷えがして気温以上に寒く感じられる。昨日など、伏見で晴れた空の合間にある雲から、雪がちらついていた。坂本龍馬が暗殺された当夜も霙交じりで寒く、好物の軍鶏(シャモ)鍋が食べたいと言い、中岡の下宿先であった菊屋の息子である峰吉に、軍鶏を買いに行かせている。旧暦11月中旬であるこの季節に、京都を訪れたことは、この底冷えを体感する意味でも貴重であつた。

 宿をチェックアウト時間の11時に出る。まずは帰る際に通過点となる地下鉄の烏丸御池駅に向かい、コインロッカーに大きな荷物を預け身軽に。龍馬の足跡に関しては殆ど昨日までに見学を終えたので、この日はのんびりと気ままな街歩きだ。されど幕末という時代的テーマは、どうしても意識されるので、「禁門の変(蛤御門の変)」の跡を辿ってみようかと思い立った。

 初日午前中のアクシデントで、大政奉還が宣された二条城を訪問していなかった。行ってみると26日〜元日まで休城の表示。仕方なくお堀を見ながら、中学校の修学旅行以来の懐かしさが漂う界隈で、宿はどの辺りだったか考えたりしていた。堀川通りを北上。この日は、徒歩で京都市内の距離を感じるのもテーマの一つ。地図を見ながら通りを進むと、以前に、今は亡き伯母と京都で食事をした会館が右手に見えた。底冷えの中トイレが近いので、懐かしさと共に、ロビー奥にあるのを覚えていたので、ちょいと拝借。

 堀川通りに戻り、更に北上すると何やら変わったカフェを発見。有機野菜のみを使用した店だという。徒歩で散策するのは、こうした偶発性が常につきまとうのがよい。野菜のみで作ったというベジプレートを食す。堀川通り沿い、上長者町通りとの交点西側。カフェMORPHO。

 そこから中立売通りを西へ進み、北野天満宮まで。自身と妻の学問成就とともに、関係している受験生の大学合格祈願で参拝した。境内は初詣の準備が進められながらも、参拝客はそれなりにいて、拝殿の前では暫く並ぶほどであった。絵馬に祈願を書いて奉納する。

 北野より更に西側、天龍寺を拠点としていた長州軍が、東に向かい御所を目指して進軍した「禁門の変」。先ほど歩いて来た中立売通りから、一条戻り橋付近で三隊に分割し、御所の各門に攻め入った。その距離感を歩いて体感しようと思い、今出川通りを東へ。御所北西側の交差点に出る。その北側が現在の同志社大学。幕末には広大な敷地の薩摩判藩邸があった場所である。烏丸通りに面した門の脇に石碑がある。
 冬休みで静まり返った同志社キャンパス内を巡り、御所の北側へ出る。京都御苑内に入り、「禁門の変」で激戦地となった西側の門を目指す。人影も少ない御苑内であったが、時折、犬を連れた人などが散歩している。北側から中立売御門・蛤御門・下立売御門である。特に激戦地となった「蛤御門」には、長州側が放ったと思われる弾の痕があるという。行って外側に面した柱を見ると、幾つかの弾痕を確認できた。146年という時間は長いか短いか?京都という土地の歴史からすれば、未だ生々しい傷跡とも言えるのかもしれない。長州軍対幕軍の壮絶な攻防。蛤御門奥の大きな椋の木の辺りで、長州藩の来島又兵衛が、薩摩兵に胸を撃たれたということも、説明書きに記されていた。

 幕末という日本の大転換期。その中で大志を抱き、それぞれの主義主張を持って闘った志士たち。平穏な御所の風景が、この上なく平和な現在を象徴していた。蛤御門が何たる地であるかも知らないのか、その前にて笑顔で写真撮影をする中年女性の集団が、今の世の中を映し出していた。

 丸太町から地下鉄に乗り、烏丸御池で荷物を取り出し京都駅へ。新幹線は午後8時半頃なので、京都駅でもゆったりと過ごせる。土産物を購入してから、南北自由通路にある「時の灯」上にある和食「はしたて」へ。英会話講師が勧めていたこの店は、実に落ち着いて和食が堪能できる。この日は、酒は飲まないと決めていたが、ついつい京都地酒、辛口の「澤屋まつもと」を注文。肴は旬の寒ブリお造り。おちょこに辛口の酒を注ぎつつ、旅というものの意味を考える。





 この旅行中に見た、茂木健一郎氏の連続ツイート「旅」に次のようにあった。

 「何か」を待ち構え、「何か」を探し続けること。その「何か」は名付け得ぬものであり、出会って初めてそれとわかるものである。脳の中に空白をつくることで、その「何か」が呼び込まれる。

 ふだんの文脈をはぎ取られ、裸になってしまった自分を温かく見つめること。人が「自分探し」に旅に出るのは、つまりはその裸の自分に出会うためであろう。

 予定外のこと、アクシデントを楽しむこと。旅は偶有性の最高のレッスンでもある。旅にも初級から免許皆伝まである。偶有性を歓迎できるようになって、初めて旅の真髄に近づいていく。

 「今、ここ」の質に心を砕くこと。「今、ここ」はいつもあるはずなのに、日常の中でのかけがえのなさを忘れてしまっている。旅に出て、「今、ここ」を取り戻すことで、命が更新される。





 幕末、龍馬の足跡を辿ることで、「今、ここ」の質を取り戻した気がする。単に墓参や参拝などで、「気を貰った」などという前近代的な意味ではなく、自分の中で「何か」を待ち構える準備ができ、命が更新されたというものだ。これぞ、「龍馬」という一つのテーマを追跡して得た、今回の旅の意義であろう。

 東京駅を歩く自分が、一回り大きくなったと自覚できた。
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龍馬の足跡を辿る京の旅(その3)

2010-12-26
25日(土)旅に出ても小欄の更新を怠らない。日常と同じように宿で起きると、すぐに文章を綴る。宿にインターネットアクセス環境が整っていることも必須条件である。手持ちのブック型ノートPCも3年目となり、OSを始めやや旧式の重さが目立ってきた。それでも、文章を綴ること自体を脳と身体が求めてしまう。

  宿を出てすぐに、海援隊京都本部が置かれていた酢屋へ。初日に立ち寄ったが、1階の木工細工売場しか開いておらず、2階の「龍馬ギャラリー」は見ていなかった。入場料500円を1階のレジで支払い、靴を脱いで2回への階段を上がる。それほど広くない2階には、様々な展示と、改装されてはいるが、龍馬が身を潜めていたという部屋がある。龍馬は、この部屋から外に向けて短銃の射撃訓練をしていたともいう。現在、その前の通りは「龍馬通り」と呼ぶ。女性の案内員が1名、酢屋の歴史や海援隊との関係など、展示資料に基づき丁寧に説明してくれた。このあたりは高瀬川に浮かぶ舟の輸送力を頼りに、材木商が多くあったという。酢屋もその1軒。龍馬としては、大阪との交通が便利であったり、いざと言うときに舟による脱出も可能だということで、この場所を選んだともいう。毎年、この酢屋の主催で、「龍馬の手紙」という企画がある。現代に龍馬が生きていたら、どんな手紙を書くかということを全国から公募して、入賞作を決定している。これは書いて応募しようかと思いきや、龍馬が凶刀に倒れた33歳までが応募資格である。ややがっかりしたが、龍馬がそれほどの歳までに、大仕事を成し遂げていたことに、改めて敬意を表せざるを得ない。

 朝食兼昼食は、恒例、三条大橋西詰のスタバへ。京都には外国人客も多く、アルバイトと思しき店員も、少々なら英語で対応している。中には外国人客の方が、片言の日本語で注文したりしていて、外を眺めながらその様子に聞き耳を立てているのも面白い。店を出ると寒さが身に染みる。これぞ京都の底冷えということなのだろう。鴨川から吹きすさぶ風が身を切るようだ。ジーンズの下に保温素材のタイツをはいて来なかったのに気付き、一旦宿まで戻る。それほど遠くないので苦にならなかったが、たぶん面倒がってそのまま行っていたら、この日の天候状況に後悔しただろう。

 京阪三条駅から大阪中ノ島方面の列車に乗って、中書島まで。この日の目的は伏見で龍馬の足跡を辿ることだ。特急列車に乗れば約15分ほど。高瀬舟で下るとどれほど要したのだろうか。電車に乗っても舟好きの龍馬に思いを馳せる。

 中書島駅北口から、ほぼ直線に伸びる道をしばらく歩くと寺田屋へ到着。その昔ながらの外観は、幕末当時への思いを更に掻き立てる。外回りの写真撮影を済ませてから中へ。入場料400円、親切そうな女性が「靴はビニール袋にどうぞ」と案内してくれた。参観券の裏面には「京へ来たなら一度はお寄り 伏見寺田屋 坂本龍馬 昔白刄の うらばしご」の都都逸が記されている。

 「最初は2階へどうぞ」の声に促され、階段を上る。この階段こそ、伏見奉行所の捕吏が龍馬と三吉慎蔵を襲撃した場所だと思うと、胸の高鳴りが押さえられない。板敷きの階段を上り切ると、踊り場を中心にいくつかの部屋がある。部屋には「松竹梅」などの名前が配され、龍馬が使用していたのは「梅の間」だという。現在は、各部屋に書簡の複製や龍馬やその周辺の人々が詠んだとされる漢詩などが展示されている。梅の間には、大きな龍馬全身の肖像を描いた掛け軸に、刀や短銃などが展示。寺田屋騒動で、龍馬は高杉晋作が上海で手に入れ、龍馬に託したというこの短銃で応戦し、難を逃れた。床の間の向かって左側の柱には、「弾痕」が残されていた。見ていると若いカップルなどが、その弾痕に指を捻じ込んで触っている。その歴史的意味を感じ取り想像して見るのが筋だと、心の中で呟く。されど弾痕は、だいぶツルツルした状態なので、多くの人が指を突っ込むのだろう。人間、穴を見ると、どうして指をいれたくなるのだろうか。わからんちゃ。

 『龍馬伝』では、この部屋で(福山)龍馬が襲われた際に、「三吉さん、ちくと難儀じゃのう〜」と声を上げるシーンが印象的だ。壁には二人が短銃と槍で応戦する絵も掲げてあった。部屋を何度も出入りしながら、階段から捕吏が上がってくる緊迫感を想像する。しかし、龍馬らが難を逃れたのは、恋人お龍が、入浴中に旅籠周囲の異変に気付いて、半裸で龍馬らに知らせたから。その梯子があった位置にある裏階段を、上から眺めおろす。気丈なお龍の行動を、再び想像しながら1階へ下りた。そこにはお龍の入っていたとされる古びたお風呂があった。その後、お龍は、薩摩藩邸まで、龍馬たちの危機を知らせに走ったという。何とも気丈極まりない行動力。龍馬への愛の深さが知れるとともに、お龍なくして幕末史は今のようになっていないことに心が騒ぐ。

 1階では、年配の男性が寺田屋の由来などを講釈している。なんと豊臣秀吉の時代から約400年間も、この場所で舟宿をやっており、現在も宿泊できるという。いかに大阪と京都を結ぶ交通の要所であったかがわかる。大阪までは三石船で約6時間、大阪からは流れを遡るので倍の12時間だと知る。この男性に、「龍馬らはどこから逃げたのでしょう?」と質問すると、たぶん裏戸ではないかと思いますが、定かではありません。」ということだった。裏梯子から裏戸へ。左手を切られ大きな傷を負った龍馬らが逃げた足跡を追いたくなった。

 寺田屋を出て、道を挟んで前の舟着場あとに下りる。宇治川から引かれた清流が静かに流れている。伏見は水がいいので有名でもあり、酒蔵が多いことでも知られている。

 その後、寺田屋裏手の道から、龍馬がとりあえず避難したという川沿いの材木置き場を目指した。重傷を負った龍馬が慎蔵と歩んだ道を辿る。途中に何軒か寺がある。慎蔵はまずこのあたりの寺に救護を求めたが、周囲に追っ手が及んでいるのを察知して、更に川のある方面に逃げた。そして大手筋通りを大手橋まで行くと、「坂本龍馬 避難の材木小屋跡」の石碑を発見した。実際は、その石碑と反対側の川沿いに小屋があったというのだが。生死の境を行き来した龍馬が、ここで考えたことは何だろう?命を賭けて龍馬が成立させた薩長同盟の現場を歩いた。その小屋から慎蔵は単身、薩摩藩邸まで急を知らせ、薩摩藩の藩士が川沿いに舟を出し、龍馬を救ったというのだ。

 ならば、薩摩藩邸まで歩かねば、この足跡探訪は完結しない。川沿いを北上しようと川べりに下りて歩き出したが、しばらく行くと川沿いが歩けない状態になってしまった。仕方なく引き返し、公道から辿るように上流へ。川が大きく屈曲したあたりが薩摩藩邸跡地のようであるが、なかなか街中でそれを発見できない。探すことしばし、ほぼ諦めかけた時、道端にある「薩摩藩邸跡地」の石碑を見つけた。今では大きな酒蔵工場のようになっている。この伏見は、江戸時代には参勤交代の要所でもあり、かの篤姫も、この藩邸に滞在したと碑の説明書きに記されていた。

 その後、寺田屋方面に戻り、龍馬通り商店街へ。伏見の水コーヒーの看板に引かれて、洒落た喫茶店へ。確かにレギュラーコーヒーは美味しかった。向かいにある龍馬館で、また土産物を見て、『京都時代MAP』を購入してしまった。幕末頃と現代の地図が重ね合わせて見ることができる優れものである。歴史的に地図を見るにはたまらない1冊だ。

 かくして伏見での龍馬の足跡を辿った。何とも言えない達成感を胸に洛中へ戻る。

 京都最後の夕食は、やはり湯豆腐。先斗町で1階は豆腐屋を営業している「豆腐茶屋」へ。2階の店内は静かで、ゆっくり湯豆腐や全品豆腐関連の料理であるミニ懐石が3200円。それと京都の銘酒「玉の光」大吟醸をいただき満足。ほろ酔い加減で、先斗町を散策しつつ、祇園の方まで出てしまった。勢いで「舞妓はん」というわけにもいかず、以前から食べてみたかった「祇園 餃子処 泉門天」へ。ミニ餃子なので、「1人前というと15個ぐらいです」
という店員を信じて、熱燗の紹興酒とおしんこをともに注文。グルメの梯子が完結した。

 満腹満腹もたまにはいい。ジムのインストラクターも言っていた。年末年始の前に、トレーニングを充実させて貯金を作っておきましょうと。4日間ジムのトレーニングをしないのは、夏の米国・カナダの旅行以来だ。実は、京都でのチェーン展開するシムに行こうかと、ウェアーは持って来たのだが、肝心な会員証を忘れていた。むしろ年末年始はフルにトレーニングを敢行しよう。

 様々な店に出向き、退屈しなかった京都3夜。底冷えの中で冷えた身体も、温かな料理と人情に癒された。

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龍馬の足跡を辿る京の旅(その2)

2010-12-25
24日(金)今年はクリスマスイブなどという感覚を脱して過ごそうと思い、京都に滞在している。それでも街は華やかなイルミネーションに彩られ、夜ともなれば街行く人々もイブの夜に興じている。観光客としての利点は、比較的見学地が空いていること。その利点を活かし、いざ龍馬の足跡を辿る旅の2日目である。


 三条界隈に宿を取る小さな理由として、三条大橋の袂にあるスタバで朝食をとりたいからということがある。この日も、宿を出て最初に向かったのはそこ。向かいに老舗の豆屋さんがある。そこに以前は九官鳥が飼われていて、「豆ちゃん!」と喋り、通りがかりの人たちに愛想を振りまいていたが、この日は「豆ちゃん」の声は聞かれなかった。寒くて中に入っているのか、それとも。豆ちゃんの消息を気にしながら、ラテと野菜ロールを三条大橋を見ながら食す。

 そこから昨夜も徘徊した木屋町通りを歩き、朝の高瀬川の風情を味わう。昨夜の喧騒が嘘のように静かな中、岡田以蔵の刀痕を探したがとうとう見つからなかった。地図によると何となく客引きをしているお兄さんが、朝から立っている店のあたりなんだが。これ以上、ウロウロして、この手の店に入ろうかとモジモジしていると思われ、声を掛けられそうなので、次なる行程に向かう。

 四条通りに出て、鴨川を越える。三条大橋との距離感を感じながら渡りきると右手に京都南座。そのまま直進し、過去に立ち寄った店などを懐かしみながら、八坂神社境内へ入る。参拝をしつつ、境内を抜けると、今は冬木となっている有名な枝垂桜がある円山公園内へ。まずはここに坂本龍馬・中岡慎太郎の銅像があるはずだ。意気逸る足取りは、時として目標物を見過ごす。いつのまにか長楽寺・大谷祖廟の方まで達していた。どうやら銅像は円山公園の中のようだ。軌道修正し引き返し、公園内を更に奥へ。先ほど、通った道の左奥、木々に隠れていて気付かなかったところに、立派な二人の勇姿が見えてきた。昭和9年建立、第二次世界大戦にて、金属として供出。その後、昭和37年に再建されたそうだ。表示には、「坂本龍馬先生」「中岡慎太郎先生」となっている。

 そこからねねの道を抜け、高台寺を過ぎると、維新の道へ。この旅行の最大の目的「坂本龍馬の墓」がある、京都霊山護国神社の入り口に連なる坂道だ。坂道の途中に「維新の道」の石碑。そして右手には「翠紅館」。文久3年(1863)「八月十八日の政変」前夜、長州・土佐の志士たちが討幕の密議を行った場所だという。これを「翠紅館会議」といい土佐藩の武市半平太なども参加していたという。

 坂を登りきると、まん前の丘に墓地らしき段々なる土地が見えた。そここそ龍馬・慎太郎が143年間眠っている墓である。他にも木戸孝允など、幕末の志士たちが多く眠る墓所だ。入り口で入場料300円、硬貨をそのままゲートに入れると改札のバーが自動で開く。しばらく石段を登ると、「坂本龍馬・中岡慎太郎の墓」が目に飛び込んできた。早速、それぞれの墓前に手を合わせる。昨夜、何度も見た近江屋跡地での凶行で絶命し、慶応3年(1867)11月18日にこの地に葬られたという。太陽暦の採用は明治5年(1872)であるから、太陰暦(旧暦)によれば、この日は11月19日。まさに143年目を過ぎたばかりといってよい。次第に吹きすさぶ風が寒さを増してきた。龍馬暗殺の日も、霙交じりの寒い夜だったという。立て看板の解説を改めて読むと、墓に向かって左側には、龍馬の用心棒役、元相撲取の藤吉の墓もある。当初から、藤吉の墓にも頭を垂れたいと思っていたのに、見逃していた。改めて3人に墓前に深々と拝礼した。龍馬は今でも、この高台から西の方角を見つめ、日本の行く末を案じていることだろう。日本を何とかせねば、という状況は今の時代も我々に突きつけられた課題だ。龍馬の強い意志と行動力にあやかりたい。

 墓参後は、霊山歴史館へ。ここは維新の歴史ミュージアムであるが、12月26日まで「大龍馬展第?期」が開催されている。入場料700円を支払い、館内へ。最初の見所は、「龍馬を斬った刀」だ。龍馬暗殺の首謀者・実行犯は様々に諸説があるが、有力なのが京都見廻組説。その一員である桂早之助所有の刀が、「龍馬を斬った」として展示されていた。刀身1尺3寸9分(約42.1?)、予想より短い刀である。これにはある理由があった。2階の特設展示で
その謎解きはされているようだ。

 その2階に上がり、壁にある長大な年表で、まずは明治維新の歴史を復習。教科書で高校教師から学ぶときは感じられなかった、熱き思いが伴う。本来、歴史はこのような自発的な動機で、今の自分における意義と照らし合わせ、問題意識を持って学ぶべきものだ。知識のみを空欄に押し込み、解答するだけのものではない。年代や人物名を覚えることに腐心するのではなく、自らが生きる為の問題意識を養うべきだ。暗記すべきものは意識を持てば覚える。時間が経って忘れれば調べればいい。学校における歴史教育の意義を再考すべきだ。

 龍馬の書状や、関係した人物の書いた様々な資料複製の展示。更に幕末を揺るがした京都三大事件の映像。池田屋・寺田屋・近江屋である。いずれも今年放映された『龍馬伝』でも描かれた事件だが、現場に居た人物の手記などに基づき再現された歴史考証的な映像は、ドキュメント的な色彩もあり、興味深かった。その映像のもとになっているのが、再現模型である。4人の新撰組が、池田屋に踏み込み密談する20人以上もいた志士たちを斬り、また捕縛する。龍馬の盟友・亀弥太も斬られ、かろうじて脱出したが絶命するシーンが『龍馬伝』にもあった。その凄惨な現場が模型で再現されている。

 また龍馬が狙われた寺田屋騒動。後の龍馬の妻、お龍が入浴中に外の異変に気付き、半裸で龍馬らに知らせ、そして薩摩藩邸まで駆け込むのは、『龍馬伝』でも緊迫して描かれていた。その際に、龍馬が使用した高杉晋作から貰い受けた短銃の複製の展示。

 そして龍馬暗殺の近江屋事件。京都見廻組説に基づき、近江屋内部の再現模型。龍馬が致命傷を負うまでの過程が、詳細に映像化されていて引き込まれるように見入った。暗殺実行犯が短刀を使用したのは、近江屋の天井が低く、長刀が使いにくい為だという。龍馬を襲った桂早之助は、まず一太刀目で龍馬の額からこめかみを斬る。しかし、これは大きな痛手ではなかったという。床の間にあった刀を取りに向かう龍馬に、二太刀目。風邪を引いていた龍馬は厚着をしていたので、背中から腰を斬られたが、これも軽傷。三太刀目を龍馬は、手に取った刀で受け止めるが、鞘が抜けない。おまけに長刀は天井に触れて自由が利かなかったともいう。鞘で受けた短刀をこらえた龍馬であったが、そのまま押し斬られる形となり、前頭部に致命傷を負う。暗殺指揮役の「もういいだろう」の声に暗殺実行犯は引き上げたが、龍馬は隣の部屋まで這って行き、近江屋の主人に医者を呼ぶよう声を掛けたという。「脳をやられた・・・」。用心棒役の藤吉も、階段下で背中を斬られて倒れこんでいたという。真実は微妙に異なるかもしれないが、この凶行の全貌を知ることができた。再び1階の展示には、龍馬らの血しぶきが飛んだという屏風の複製。床の間にあった掛け軸なども展示されていた。

 じっくり見学した霊山歴史館を、後にして清水寺方面へ。途中、蕎麦を食べてから清水寺参拝。今年の漢字「暑」も展示されていた。

 夕刻となり、八坂の塔から祇園方面へ。花見小路には提灯に灯りが点り始めていた。ふと舞妓はんが2人、路地から現れる。予想以上に早足だ。それを外国人観光客が、俳優を追いかけるかのようにしてシャッターを切る。静かで上品な小路に、しばし喧騒が横切る。


 宿に帰ってしばし休み、夕食は先斗町のお好み焼き店へ。常連さんがカウンターを埋め尽くし、4人掛け卓しか空いてにない。どうも1人で4人卓というのは調子がでない。店の人とも話せず、常連さんの雰囲気のままに、お好み焼きを食す。しばらくすると、トナカイのマスクを被ったりしている仮装した4人組が登場。これまた常連さんのようだが、更に店は余所者には不似合いな雰囲気に。焼酎1杯のみで、すぐに店を出た。

 宿の近くに気になるBARが。その名も「Fenway Park」。小生が愛するMLB球団・ボストンレッドソックスの本拠地球場の名だ。しかも「球団公認」とか。これは通り過ぎるわけには行かないと思い、足を運ぶ。店主がレッドソックスの大ファンだということで、球団社長の公認証も見せてもらった。レッドソックスの知識に関しては、自負があるので、店主に負けじとチームの現状や魅力を語った。それを丁寧に受け答えしてくれて、しばし時間を忘れた。時計は午前1時。再び楽しいカウンターコニュニケーションで、お好み焼き屋での不満が解消した。

 目的も果たし満足の第2日目、深夜の就寝。

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龍馬の足跡を辿る京の旅(その1)

2010-12-24
23日(水)休日でありながら、早朝から爽快に起床。やはり旅立つ日は、特別に胸が高鳴るものである。小欄の更新、その他、やっておくべきことを順調にこなしていると、携帯電話が鳴った。会社の上司からである。旅立つ前にやっかいなことは済ませておきたいと思い、話の内容に耳を傾けた。昨日、作成した書類の発行時期が的確でないと言う。話を聞きながら、その原因を考えてみた。プリントアウトして確かめた書類は正確であった。しかし、その後、PCデータから必要枚数分を個々に応じて印刷する際の設定において、時期がずれていたのだ。電話を切って、頭の中を整理。その書類を訂正するには、予定している11時台の新幹線には乗れない。宿泊セットで安価に指定乗車券を確保しておいたことが裏目に出た形だ。仕方ない。

 すぐに頭を切り替えて、会社へ向かう。作業自体は小1時間あれば十分に終えられる。ともかく、旅立った後でなくてよかったと安堵するとともに、こうした急なことへの対応力も、たぶん坂本龍馬なら長けていたであろうと想像して、気を落ち着かせて作業に取り組んだ。すぐに上司のOKが出て、昼前には自宅に戻ることができた。

 それから荷物の用意に1時間を要し、すぐに東京駅へと向かう。この日はとりたてて必須な見学地もないので、気分はだいぶ楽である。14時ちょうどののぞみ231号新大阪行きに乗り、いざ京都を目指して東海道を下った。新幹線はもはや自由席を選択した。小生は、全ての車両が禁煙だと思い込んでいたが、狙った車両に入るとタバコの臭い。しかし他の車両も、すでに席が埋まり始めている。やや動揺を覚えながら、仕方なく喫煙車両の席を確保した。自分の思い込みによる失敗が、再び。

 新幹線は快適で速い。幕末の時代なら20日間ほども要したであろう東海道53次を約2時間20分ほどで疾走する。日本の鉄道敷設を地図に描いていた龍馬がこれを知ったら、さぞ驚くことだろう。

 京都駅に着くと、夕陽が西山方面からホームに差し込んでいる。地下鉄に乗り換え京都市役所前まで向かう。先月、神戸に行ったときもそうだが、東京のパスモが関西の地下鉄では未だ使用できない。この技術の時代にと、また一つの思い込みを持ちつつ、現実によりその感覚を排除する。

 地下鉄京都市役所駅から地上に出ると、京都ホテルオークラ。そのあたりの土地は、長州の藩邸があった場所だ。桂小五郎の像があると知り、まずは木戸さんにご挨拶。そこからすぐ近くの、パック料金対応のホテルへ向かう。部屋に荷物を置き、すぐに周囲の散策に出掛けた。

 この界隈、三条から四条あたりは、幕末には藩邸や志士の寓居が密集していた土地である。まずは木屋町通りに行って、武市瑞山(半平太)寓居の跡。たいてい石碑が1本建っているだけで、他には何もない。何らかの店になっていたり、街の近代化により、当時を偲ぶには、想像力を逞しくするしかない。その後、池田屋騒動の碑。以前、ここはパチンコ店の軒先であったが、今は「池田屋」という居酒屋に様変わりしていた。店の内装も当時のものを再現しているようで、幕末ブームの賜物である。忘年会シーズンでもあり、多くの客が団体となって「池田屋」に飲み込まれていった。

 その後は、龍馬が常宿にしていた材木商「酢屋」へ。時間的に2階の展示は終わっていたが、1階の木工細工の店は営業していた。龍馬の横顔を模った木製のしおりを1枚購入。龍馬が居たとされる2階西側の部屋は、「ギャラリー龍馬」9時から17時までなら見学可能である。それは後日改めて訪れる。

 その後、木屋町通りを南へ向かい四条方面へ。途中に「土佐藩邸跡碑」があるはずだが見失い、四条通まで出てしまった。また「岡田以蔵の刀痕」も発見できず。現在のこの界隈は
盛り場と化し、休日の夜は多くの人で賑わっている。むしろ幕末の碑を巡っている人物の方が稀である。高瀬川沿いの木屋通りをしばらく戻り、「土佐藩邸跡碑」を発見。その路地を西に入ったところには、龍馬も祈ったという「土佐稲荷岬神社」。龍馬の小さな新らしそうな
銅像が境内にあった。

 そこから河原町通りに出ると、いよいよ醤油商「近江屋跡」。坂本龍馬と中岡慎太郎が暗殺された現場である。今やコンビニとなった店の片隅に石碑と立て札がある。その碑のもとにある花だけが、龍馬と慎太郎への気持ちを表現している。夜の7時過ぎ、楽しそうに街を歩く人々ばかりの中で、しばしその碑の前で立ち尽くした。多くが京都の地元の人々のせいか、振り返り碑を眺める人も少ない。暗殺と言う究極の暴力行為に、志半ばで絶命した龍馬を思うと、この平成の世がいかに幸福であるかと実感する。当時は現在の河原町通り側にも敷地があったという近江屋。ともに遭難した藤吉も偲び、ガードレール側から頭をたれる。

 その後は、先斗町通りに向かい、「お一人様歓迎」とWeb情報にあった居酒屋「ばんから」へ。1階の落ち着いたカウンター内で、優しそうな店主と笑顔の若いお兄さんが、歓迎してくれた。そこからは得意のカウンターコニュニケーション。関西と関東の気質の違いや京都における各季節の状況などと、話が弾んだ。ぶりのお造り、トマトサラダに京風だしのおでんなどの肴を美味しく味わいながら、京都の地酒をいただく。特に店主が勧める「蒼空」という半にごりである稀少な酒がめっぽう美味しかった。

 すっかりほろ酔い加減になって、再び先斗町通りから木屋町通りを抜けて「近江屋跡」へ。1867年11月15日のあらざるべき夜を、今一度想像しながら、現在のコンビにで飲み物などを購入。143年後にこの土地に足を運び、己を慕っている人間がいるなどと、果たして坂本龍馬は想像しただろうか?


 かくして、充実した京都の第1日目、宵のうちが過ぎる。

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仕事の要領

2010-12-23
22日(水)仕事の段取りは重要だ。どのような順番で、いかに効率よく作業をこなしていくか。それが1日の中で、何時に退社できるかどうかを左右する。最近は、無意識に朝の段階で、仕事の手順を意識するようになっていた。会社に到着して、短い時間でも、できる作業であれば差し込んで実行する。午後にしようと思っていた作業が、この「差込」により、午前中のうちに完成したりする。すると午後に出来た余裕で、更なる効率を生む。

  前日に、ある同僚から、会社に居残る当番を代わってくれないかと依頼された。新年1月の土曜日との交代である。どうせ、この日はやるべき仕事が多かったので、了承した。むしろ1月の土曜日を私的有効に使いたい思い、利害が一致したのだ。毎度、警備に依頼できないのかと思うこの仕事であるが、この日は自分のやるべき事を淡々とこなし、居残りという気分もなく、効率的に作業をしているうちに時間は過ぎ去った。

  時間は無限に存在するものであるように見えるが、実は有限である。それに一個体としての人間においては尚更である。前日の老人の話に感化されたのか、人生は思うがまま生きるべきだという思いが強くなった。そんな意味で、会社組織に委ねる時間など、そんなに多いはずもない。自分の命を最大限に発揮するにはどうしたらよいか。そんな発想で、自分が生きたように生きることこそ、重要なのではないだろうか。

  帰宅して即座にジムに。水曜日の有酸素運動プログラムに間に合った。思いっきり身体に酸素を取り込みながら、脂肪燃焼をさせ持久力も向上させる。同時に仕事で凝り固まった頭を開放する60分間だ。

  かくして充実した1日を過ごした。夜は年賀状の宛名書き。主要な方へのものは、殆ど書き終えた。郵便局推奨の25日までに投函できそうである。それにしても、20日の日曜日夜にWebで注文し、21日には年賀状が手元にあった。何という効率的な通販印刷会社なのだろう。仕事のあり方を教わったような感覚で、印刷された年賀状を受け取った。

 仕事も一段落。明日から2010年を締め括る行脚の旅だ。何処を訪ねるか乞うご期待!
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老人から歴史を学ぶ

2010-12-22
21日(火)仕事を昼過ぎで終えて、午後は出版社へ原稿確認に。その後、夜は今週の忘年会が控えていた。忘年会といっても参加者は2人。毎週火曜日、英会話教室に行く前に夕食で立ち寄る洋食屋さんのカウンターに来る、常連さんである老人との忘年会である。いつしか、その老人と親しく話すようになり、店主、奥さんと共に、様々な話題を語っている。英会話教室の年内授業が、先週で終わったので、この日は、忘年会をやろうということになっていた。

  店主からは酒の肴に、骨付きフランク鉄板のせがプレゼント。どのようなものでも、逞しく食する老人。ワイングラスを片手に、この日はいつも以上に、思うがままの話題を老人と語り尽くした。

  その中で驚いたのは、老人の祖母が「安政」年間生まれであり、父親は「明治30年代」生まれであること。「安政」といえば「大獄」と、誰しも歴史的な知識から言葉が出てくるだろう。また「明治30年代」といえば「日露戦争」の頃である。まさに『龍馬伝』や『坂の上の雲』の時代に、その老人の祖母・父親は生きていたことになる。老人自身の経験から、昭和1桁以降の歴史を聴くのも興味深いが、老人が祖母や父親から受け継いでいるものを聴き取ることは、更に貴重ではないかと思うようになった。

  飲み続けていると老人は、「年寄りは年金を使い果たすから、そんなに長生きしない方が社会の為なんだよ」などと呟く。90歳に近い老人が、社会年金の心配をして長生きを否定しなければならない国は、どう考えてもおかしい。「そんなことはありませんよ。政治家が責任を持って、安心して長生きできる国を作らないと!」と返答しておいた。更に、こうした生の歴史を、小生などが話として聴き、学べることの意味が、何より「長生きの社会的な効用だ」と、老人に話した。

  この小さな街の洋食屋さんで展開する、長大な歴史的生き証人の発言。これこそ我々が受け止めて語り継がねばならない内容であるはずだ。

  老人と同じ、ウイスキーのロックまで飲んで、すっかりほろ酔い。閉店時間まで、約3時間に及ぶ忘年会は、お開きになった。外は雨が降り出していた。老人は店の奥さんからビニール傘を借りて、杖をつきながらまた1歩1歩、地面を踏みしめて帰路についた。そのあまりにも緩やかな1歩こそ、長大な人生を生きてきた証であるような気がした。店の前で老人と別れ際に、来週も火曜日に来店することを約束した。

 生の歴史から学ぶ忘年会。
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