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台風を見送りながら

2010-10-31
30日(土)台風が接近し日本列島の南側を撫でるように通過していった。朝から次第に風雨が強まり、昼前後には首都圏のJR線などにダイヤの乱れが生じ始めた。早めに仕事を切り上げて帰宅。台風を見込んで、昨日のうちに日曜日まで3日分の「おでん」が鍋の中にたんまり存在する。食糧に困ることはない。早速、うどんを共に煮込んで家ランチの出来上がり。

 午後3時からは、マンションの管理組合理事会。地デジ対応の件などいくつかの議題で1時間半の会議がもたれた。管理組合理事になってから毎度感じることは、分譲マンション全体を、自分の持ち家であるという意識を、どのレベルで持つか否かということ。未だ築年数が浅いから大きな問題は生じていないが、今後、年数を重ねていくにあたり、問題なきようにすべく、重要な案件について意識的に対応しておく必要性を感じるのだ。

 夕刻になって、更に風雨が強まるのかと思いきや、南岸を北上する台風のせいか、東京地方は、それと感じさせるほど強い風雨には至らなかった印象だ。少々、机に向かって作業をしてから、夕食へ。

 もちろん買い置きしたおでんとワイン。地上波放送のないプロ野球日本シリーズをBSで眺めながら、週末の一献を楽しんだ。しかし、世界バレーは妙な盛り上がりでTBSが独占放送しているにも関わらず、果たして「地上波のない日本シリーズ」という状態でいいのだろうか?日本の秋の風物詩、野球文化の衰退は憂えるべきことだとつくづく思う。

 台風を見送りながら、今宵はソファでウトウト・・・。赤ワインによる幻惑に、しばし世俗を忘れる時間が過ぎゆく。

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ハロウィンはどうしよう?

2010-10-30
29日(金)バレンタインやクリスマスほどではないが、ハロウィンも、昔よりは日本に定着してきた欧米の風習の一つだろう。多くの人々がこぞってチョコを買い求めたり、家の外部を電飾したり、という入れ込み具合には未だ程遠いが、ハロウィンに関する商品を販売している売り場も、次第に増えてきたような印象を持つ。

 かといって、家庭や職場でハロウィンだから特別なパーティーをするかといったら、そういうわけでもない。どこでどうしたらハロウィンの文化を享受できるのか?やはり、それはディズニーランドのような、夢の異空間ではないとならないような気もするが。

 ハロウィンを2日後に控えたこの日。先週のジムのプログラムで、インストラクターが「来週はハロウィン週間ですから、参加する方は仮装をお願いします」と呼び掛けた。ここのところ、いい調子でこのクラスに参加しているので、やはり呼び掛けには応えるべきではないかと、何やら仮装を考え始めた。運動をするので、まるまる妖怪の衣装を着るわけにもいかない。軽くワンポイントでオレンジ色のものを身に付けるという、大変簡易的な方法もある。しかし、それではつまらない。どうせなら仮装といえそうなことをして、インストラクターの意図に応じたい。

 そんなことを考えながら、仕事帰りにパーティーグッズの売り場に立ち寄る。腕にでも付ける小さなオレンジのカボチャ顔を模した「ボンボン」にするか、それともカボチャ顔のマスクにするか。結論は後者になった。せめて身に付けて周囲がわかる程度のものでないと意味はない。

そのマスクを持参して、いつも通りにジムへ。参加しようとする前のダンスクラスを覗いてみると、何人かの人々が頭になにやらハロウィン対応のグッズを付けて踊っている。なかなか会員の面々も乗りがいいと思って、マスクを持参したことに納得してきた。

 ところが、いざ参加クラスに行ってみると、仮装しているのは小生1人。もちろん提案者のインストラクターは、魔女の仮装で登場した。プログラム内容からして、初心者の方が多いクラスゆえ、仮装までする余裕がないのだろうか。まあ、1人ゆえに目立つという考え方も出来る。フリース的な手触りのナイロン素材のマスクだったので、顔に着けてのレッスンは、あまりに暑そうだ。まあ頭上にカボチャの顔が来るように被り、いよいよレッスン開始!

 特に違和感もなくレッスンは進行。特に何か特別なことが起こったわけでもないが、ハロウィンを唯一享受する場面を、見事に体験したことになる。レッスン終了後には、参加者にお菓子が配布されたが、インストラクターは仮装してくれたので2つどうぞ!と言ってくれた。

 日本でハロウィンというと?という疑問の中での行動。欧米の特にアメリカの文化贔屓である、最近における小生の精神状態を反映し、ハロウィンも何かしてみたかった衝動を現実化した。それで何があるわけでもない。しかし、呼び掛けに応じる気持ちとともに、「仮装」という風習を自ら体験してみることも貴重だと感じた。天から聖霊が舞い降りる夜ということなのであろうか。きっとこの日常から一歩解放された行為で、何らかの幸運がもたらされるなどと信じながら、ジムからの帰路を歩いた。
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宅配BOXの謎

2010-10-29
28日(木)1週間前に配達されたはずの荷物が手元に届かない。宅配業者はBOXに入れたと言うが、そのBOXで取り出しの段取りを踏むと、「お荷物はお預かりしていません」という表示が出てしまう。いったいどういうことなのだろうか?

 荷物の発送元の業社は、宅配BOXの利用が「可か不可か」とう選択を、利用者に委ねている。昼間は仕事で留守にしがちであるし、毎度、不在票を以て連絡をして受け取るのも手間である。ゆえに「宅配BOX可」という登録を選択していた。これまでは何ら問題はなかったが、今回はどうしたのだろう?

 宅配業社に問い合わせると、「荷物は入れた」という。しかし、小生が取り出せないのは、部屋番号などの登録を間違えている可能性が考えられる。宅配業社は「荷物はあった」の一点張りで、管理会社に依頼して取り出してもらうようにとのこと。やや良心を欠くような対応に思えてしまっている。

 第三者が荷物を預かってくれるのが何よりと思い、管理人さんに依頼して、当該のBOXを「管理人マスター」で開けてもらうが荷物はなし。いったいどこへ荷物は消えたのか?

 このように匿名で書いているゆえに、この程度の事情に留めるが、宅配業社の方も、あるいはマンションの住人の方で、お心あたりの方は、すぐに荷物を正しい届け先である小生のもとに届けて欲しい。これ以上、届かないとなると、発送元から宅配業社に対して確認をして貰うとか、BOXの利用記録を参照せざるを得なくなる。それからであれば、小さな物事が、大きな問題になってしまい、困るのは宅配業社か、荷物を誤って取り出した方ということになる。

 便利になったシステムであるがゆえのトラブル。昔なら「向こう三軒両隣」などと言って、荷物はお隣さんが預かってくれていたものだ。小欄のようなネット空間と同様に、顔の見えない空間に居住している隣人たち。住環境のコミュニティーのあり方が問われている。

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遠い過去の残像

2010-10-28
28日(木)会社組織のボーリング大会と宴会あり。毎年この時季の恒例行事だが、参加するのは久しぶりだ。人間関係の摩擦や、特定な人間への忌避の感情が、参加することを拒んできたからだ。まあ最後の機会として、人間観察でも楽しもうかと思い、この日は参加してみた。

 しかし、その随所で思い浮かぶのは、過去の残像だ。この時季の行事として、未だ組織に埋没していた頃のことが、脳裏に浮かんで離れない。部署別にボーリングを競い断トツで優勝したこと。宴会の席で、狐のような男への忌避が増大したことなどなど。そして、その翌日に起こった、運命的な出来事と・・・。


 その日を境に、自分は大きな運命の流れに乗ることになったから。


 今ではただ懐かしく思い出されるが、その頃の感覚が遠い。そのような残像を追いながら、この日はボーリングも宴会も、やはり心底は楽しめなかった。ただ心のうちで、自分が歩み行く道の妥当性を確信するのみ。

 宴会の席順は、年功序列が生じないようにくじ引きで決まる。よりによって、あの狐男の真ん前となる。些細な言葉の端々に、姑息な利害と自己優先さを感じ取る。やはり狐という形容が妥当であることなど、確かめなくともいいものが確かめられる。この組織を忌避したいと思う感情が生じる原因の何パーセントかは、この狐男によるものであることも改めて理解した。

 時折浮かぶ過去の残像とともに、時間を無駄にしたという感情が入り交じる。まあ二度と無きこの空間と思い、気の知れた人たちの二次会にも参加し、ほろ酔い加減で帰宅。
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罰と利害

2010-10-27
26日(火)参議院議員の有田芳生氏のHPで次の言葉を見つけた。

「ひとを罰しようという衝動の強い人間たちには、なべて信頼を置くな」(ニーチェの言葉)

 確かに罰則主義な考え方は、どこか浅はかなものを感じさせる。幼少時ならばともかく、大人の社会においては尚更である。そこに至る過程に於いて、いくらでも対話が可能であり、その中で解決の糸口を見つけるべきであると思うからだ。それに罰則の裏には、どこか利害の臭いがするのも否めない。


 夜、TV朝日系「報道ステーション」の特集で、「自宅で最期を」という特集を放送していた。大阪で自宅に往診をする1人の医師を追ったドキュメントだ。人の終末期にというものは、好むと好まざるに関わらず、その人の人生が重くのし掛かる。そして病院ではなく、住み慣れた自宅で最期を迎えたいという人々を、利害抜きに往診する医師。医師になったからには、こうした使命があると言い、緊急時の呼び出しなどにも対応している。その姿や、実際の終末期を過ごした方々の生き様から、多く考えさせられるものがあった。

 終末期といえば、ドイツのタコ「パウル君」も自然死でこの世を去ったという。タコの死が報道されるのも稀であるというが、W杯のおかげで、世界中において一躍有名になったタコである。何ら利害も罰も受けることなど想定もせず、ただ二分の一の確率を当て続けた運命のタコである。人間とは何でも意味を持たせ、目に見える結果を求める動物なのであろうか。

 何かを崇高に求めるのは人間として尊い。しかし、そこに意図的な罰や利害が関係してくるところに、醜さが露出する。明日は今日の積み重ねともいう。自分の今日の生き様が、将来の自分のあり方に反映される。様々な事象に触れて、どうしても今の生き様などと考えてしまう、今日この頃である。
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苦難こそ成長の糧

2010-10-26
25日(月)安全に苦難もなく、配慮され至って順調に進行することばかり願う傾向がある昨今の日本の社会事情。それゆえに社会は子供たちの成長に対しても、苦言を呈する機会を失い、ただ何事も手をさしのべて行くことになる。それによって、子供たちは社会的な苦難を味わうこともなく、温室化された環境で生育するので、次第に他者の痛みがわからない感覚のみを持ってしまう。そんな中で他人の痛みが分かる人がいると、極端に苦労が強いられる形になったりもする。

学校生活は、やはり社会に出るための準備期間に他ならない。社会という大海で独り立ちして生きて行く為の力を養う場である。しかし、そうした考え方が、どうも日本の教育事情では、異質なものになって来てしまっているような気がしてならない。「受験」は確かに一つの苦難ではある。しかし、学校も塾も、その受験に向かうためだけに、それを突破する為だけの学習こそ、最善のものだと疑うことなく、子供たちに「わかりやすい」方法を提供する。そこに落とし穴があるのではないかと思うのである。

学習とは「暗記」ではなく、その大切な根幹は「思考」「思索」することではないか。そこに「わからない」という苦難があってこそ意味があり、それを自分自身で解決する力を涵養するのだ。その「わかる」過程を全て大人が提供してしまっては、真の学習にはならない。

また、現実を知らせる機会を回避する場合も多い。入試不合格や留年など、そんな苦難に出会ってこそ、生きる糧が得られるのではないか。順風満帆なことだけが訪れるわけではない人生に船出する準備をするには、壁にぶつかるような苦難が是非とも必要な気がする。それを、大人たちが「覚悟」をもって提供しなければならないはずだ。

「苦難」なき生育過程を経た子供たちが増えれば増えるほど、日本の国際競争力が低下することは目に見えている。同時に、身近でも「他者意識」のない、独善的な子供が増殖してしまうことになる。道路を歩いてみれば分かる、後ろから追い抜きたくとも、全く意識せずに平然と横に拡がり、くだらぬ話をして歩き続ける中高生に、「他者」の立場を考える感覚はない。そんな小さな意識が、様々な場面に拡大すれば、恐ろしい社会となってしまうのである。

苦難こそ成長の糧。社会として今こそ考えてもよい大きなテーマのように思うのだが。

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大切なものから即実行すべし

2010-10-25
24日(日)食事の時、好きなものを先に食べるか、最後まで残しておくか?あなたはどちらですか。楽しみは最後まで取っておいたほうがよいか、それとも何が起こるかわからなので、何より先に実行するか。人それぞれ感覚は違うのではないかと思う。この日の夜のTV放送で、チリの「奇跡の生還」を特集していたが、生還者は「大切なものから即実行すべし」という趣旨のことを述べていた。人生先が見えない状況に追い込まれれば、必ずや優先順位の高い事から実行すべきということになるのだろう。

それはどこか坂本龍馬の実行力にも通じるところがある。

「命を狙われるぐらいのことをしなければ、日本の国は変わらんぜよ!」

そう豪語する龍馬。どこかで命に限りがあることを予見していたかのように、前向きに前向きに幕末の時間を生きていた。この日の『龍馬伝』は「船中八策」、後に明治政府の「新政府綱領八策」となる、新しい日本の形を起草した内容条項である。しかもその内容は、それまでに龍馬が出会った、様々な人々からの教えを存分に盛り込んだ内容になっていた。命を惜しまず幕末を駆け抜けた龍馬、やはり「即実行」が大切なことだったように思う。

「いつかやろう」と思っていては、いつまでもその「いつか」はやって来ない。思い立った時が実行の時なのである。小生はこれまで、食事では最後まで好物を残しておく方であったが、少し考え方を変えてみるのも面白いかもしれない。


この日は、先週にジムに通い詰めて、ややオーバーワークになった身体を休めた。筋肉の張りがあるので、夕方にはマッサージに出向いた。久しぶりのマッサージ院であったが、やはり寒さが感じられるようになると、筋肉も硬直するという。60分間の施術で、十分に筋肉もほぐれてきた感じだ。雨の中を歩いていっただけの甲斐はあった。

大切なものから即実行すべし。たいていが朝起きると一番に小欄の更新をしているのだから、前日の自分自身を書き記すことが、何より大切なことなのかもしれない。
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十六夜にワイン引っかけプロ野球

2010-10-24
23日(土)秋も深まってきた。日中はともかくも、朝晩の気温はだいぶ低くなってきた東京地方。週末をどう過ごそうかと、あれこれと考えた。とりたてて観たい映画もなく、東京六大学野球は観たいカードではない。近くの温泉施設でゆっくりしようかと思うが、日常的にジムのサウナと大浴場を利用しているので、その欲求も低い。特に何もしないというのも、けっこういい休日になるのではないかと思った。

午前中の仕事を終えて、馴染みのカフェに直行ランチ。食べ終わって帰宅しようと思いきや、鞄の中に財布が見あたらない。紛失したか盗難にあったか?と一瞬考えたが、自宅の食卓の上に置き去りにしてきたと認識。でも恥ずかしいことに、全て食べ終わってから気付いたので、事情を話して名刺を渡して連絡先を店主に示し、急いで帰宅し財布を持ってカフェにとんぼ返り。まあ馴染みの店だから、店主は「次に来たときでいいですよ」と言ってくれたのだが、そういうわけにもいかない。まあご愛敬の土曜日午後となった。

夕方からジムへ。どうも身体が自然とその場所へ向かってしまう感覚だ。しかし、この日は、軽い腹筋運動とストレッチを30分ほどの時間を掛けて。1週間連日頑張った筋肉を休め、柔軟性を確保する日だ。その後は、サウナで十分に汗を出した。毎月の会費は一定額であるから、今月は今のところ23日分の14回利用している。1回当たりの会費もだいぶ安くなっている計算だ。

帰宅途中に、これも馴染みのおでんタネ屋さんに寄った。贔屓にしているにも関わらず、夏の間はどうしても足が遠のく。この日におでんが煮込みたくなったのは、やはり秋になった証拠だ。久しぶりにも関わらず、笑顔で対応のおばさん。「今日は自転車じゃないの?」と親しげに話してくれた。やや遠方からわざわざ来てくれていることに対する思いやりの気持ちが感じられる。その近くにある豆腐屋さん。いつも足繁く通う家の近所の店が土曜日は休みなので、ここで厚揚げを「浮気」して買った。実に美味しい厚揚げなのだが、土曜日の夕方にして、まだかなり残っている。店の中で頑固そうな顔で腕組みするおじさんの顔を見て、ついつい買いたくなってしまった。こうした個人商店の美味しい味と人間味を、もっともっと社会として大事にすべきであるとつくづく思う。この商店街の下町的な雰囲気は格別である。

さらに馴染みの酒屋に寄る。1週間頑張ったご褒美に、ワインでも飲もうかと思った。様々な種類があるが、「迷ったらこれ!」という表示があるフランス産の赤ワインにした。ここでもおやじさんと四方山話。「日本酒しかわからないんだけどね、ワインはMさんが美味しいっていったらね、また他のお客さんに勧めるからね、たくさん飲んでくださいね!」といつもの調子。たいてい店に寄るだけで最低15分間の大サービス世間話のおまけ付きだ。

帰宅時に見た十六夜月が、朧気に雲に隠れていたが、今宵は旧暦で9月16日、二十四節気の「霜降」。秋も深まり寒さが感じられる季節が近づく。

帰宅しておでんを肴に、ミスマッチな取り合わせの赤ワイン。しかし、意外にこの組み合わせも絶妙であった。TVでは、滅多に見ないNPBだが中日対巨人の試合を放映していた。


  十六夜にワイン引っかけプロ野球


そんな川柳を浮かべながら、失われてきた日本の美しき文化を集積して、楽しき週末の時間が過ぎゆく。

個人商店での世間話に託した人間関係の温かみ

その店で売る商品の心のこもった味わい

酒を飲みながら食卓に流れるプロ野球の試合


これからも、こんな土曜日が送れる日本であってほしい
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活きた表現者

2010-10-23
22日(金)8月に書いていた原稿が雑誌に掲載されて、完成した献本が自宅に届いた。編集者からはなかなか評価していただく言葉をいただいていたので、それなりに自信作である。世に自分の考えを問い、様々な批評を乞う。独善に陥らない為にも、こうした場が必要であり、自分を見つめるためにもありがたい機会である。日常的に自分が行ってきた実践を、文章に託す。ゆえに日常の自分のあり方を曝すことにもなる。

それだけ自分の実践に於いて、真剣勝負である証でもある。より効果的に実践が行われるように、常に新たな発想を巡らしている。ただ、その感覚が現場に直結するかどうかは、現場を構成する人々による感覚の捉え方次第であり、外部評価と内部での評価は、大きく隔たることも多い。

それならば、自分が自分であるために、その実践を世に問うしかない。広い世界に訴えることで、自分の発想を認めてくれる人々も少なからずいるはずだ。そんな意味で、意見を雑誌などの場に投稿することは、非常に尊い。勿論、小欄などに考え方を載せて、こうして読んでいただいていることも同様である。

自分の頭の中だけで発想を巡らしているだけでは、なかなか前へは進まない。表現して発表して批評されてこそ、その意義があるというもの。ゆえに「活きた表現者」であり続けたいとも思う。

自分を活かせる場があってこそ、と常に考える。「活きた表現」を繰り返し、でき得れば日常的に活き活きと生活していたい。いやむしろ、現実と発想に隔たりがあるからこそ、「活きた表現」によって、その溝を埋めているのかもしれない。雑誌に載った自分の顔写真こそ「活きた表現者」の様相だと自負しておくことにする。
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連日のジムは何のため

2010-10-22
21日(木)今週はここまで、休館の火曜日を除いて連日ジムに通っている。もはや生活の一部となり、運動をしないとおかしな気分にさえなってくる。行くのが億劫に思ったことなど一度もなく、毎回のスタジオプログラムを楽しんでいる。この気持ちは何だろう。

25歳を過ぎれば次第に筋力は衰え始め、ましてや30代になると坂道を転げ落ちるように筋肉量が減少するという。そして40代が一生を通じて筋力維持の瀬戸際だと、何らかの情報で読んだことがある。また脂肪の増加を抑えるには、筋力を維持するのが有効だという。脂肪を減らすことだけに躍起になっていても、なかなか脂肪は減退しない。脂肪と共存する筋肉を鍛えることで、太りづらい身体が手にはいるということだ。ゆえに、ただただ、走ったりして有酸素運動のみを実行しても、筋力強化をしないと偏向した体作りになってしまうようだ。

またジムでトレーニングに専心することは、違った意味がある。身体のみならず精神的な効果である。ある目標を達成するまでの「願掛け」のように意味合いがあるということだ。よく「願掛け」というと「禁酒」などを実行する人もいる。今季セリーグを制覇した中日ドラゴンズの落合監督も、優勝するまでは「禁酒」を実行し、目標を達成したという。人それぞれ何らかの方法があるのだろうが、精神的に目標達成までの集中力を維持するには、毎日の充実感が欲しい。「禁酒」を宣言するまでもないが、ジムで毎日のように汗を流すことが、自然と酒量を減らし、体力を強化する。週に3回以上のトレーニングを維持することが、自分なりの「願掛け」になっていることにも気付いた。

この日もスタジオプログラムでは、かなり厳しいトレーニングとなった。自らバーベルのウエイトを上げ、自らの身体に厳しく対処する。それに耐えようとする精神が、不屈の意志を生む。腕立て伏せが行われているときに、インストラクターが、「(腕を下に下ろす幅が)浅いんじゃないですか!」と我々参加者を煽る。何となく視線がこちらに向いているのを感じたので、余計に自分自身をいじめ抜いた。

トレーニングが終わり、スタジオの出口で帰りの挨拶。「ナイスワークでした!」とインストラクターが笑顔で手をグーにしてのハイタッチ。これぞ毎日が輝くための小さな充実感を得た一瞬だ。同時に、この日の自分に厳しくする「願掛け」は見事に達成された。

崇高な志を維持する。それは精神のみにあらず、身体を、筋肉を、鍛え抜くことで初めてバランスを維持しながら達成されていくものだと実感した。10月21日にして、改めて「願掛け」の思いを強く胸に秘めて。
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