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ことばが介在しないのはなぜ?

2010-06-19

18日(金)今週は学校という空間で、生徒同士が刃物で同級生を傷つけるという事件が2件相次いだ。メディアを介しての情報からしか知る由もないので、短絡的に勝手な想像は避けるべきであるし、ましてやその原因を一般論に帰結させるのもあまりに危険であるようにも思う。だが、日本の教育現場に於いて、何らかの地殻変動が起きているのは、感じざるを得ないと同時に、世相全体にも漂う閉塞感やコミュニケーションの欠如に対して、我々一人一人が、問題意識を持って行かねばならないのは自明のことであろう。

 周囲に存在する他者が、自分の考えに反した行動をする。それに対して、まずは「ことば」を介して注意を促すのが、人間社会の基本的な対応であるのは、誰しもが理解しているはずである。集団や人間同士が接する空間では、必ず何らかの行き違いや反発があって然りである。反転して考えれば、自己の感覚が他者とずれていて、他者を理解できずに憎く思うことは、誰しもあることだ。その軋轢にどう対応するのか?という一つの社会性を身に付けるのが、ある意味で学校という空間の役目でもあろう。

 誰しも小中高という学校生活の中で、嫌な思いをした経験がいくつかは思い浮かぶはずである。だが、大人になって考えれば、そうした経験があったからこそ、それが免疫化して、社会生活に順応していることが多いのではないかとも思う。様々な葛藤や矛盾を、学校空間で味わうことは、ある意味で必要なのだ。だが、昨今の日本では、世相全体が妙な「無菌体質」に陥っており、身体的にも精神的にも抵抗感のない清い状態が存在するという、甚だしい勘違いが横行しているように思う。

 学校でも抵抗感なく快適に過ごせるという幻想を、保護者自体が持っており、そうした「無菌」状態を求めて、学校に様々な訴えを行う。自身の子息が精神的な「細菌」に身をさらし、社会生活をする上での免疫を付ける過程を、保護者側が排除してしまう。ゆえに、純粋培養された脆弱な精神は、暴発か自傷かという極端な二者択一に自らを追い込んでいくしかなくなってしまう。熱を出してでも、自己回復をする抵抗の過程があれば、精神は極端な行動へ移行しなくても済むはずだ。

 そこにまず「ことば」があれば。しかし軋轢を生む「ことば」は避けられてしまう。「空気を読め」などという、他者への感覚の押し付けが横行することで、個々人が十人十色で、様々な感覚の中で生活しているのだという、基本的な「1人」を許さない社会ができる。そこに、個性的な「ことば」の介在を許さない。ゆえに個々は追い込まれ、自己か他者を傷つける。

 冒頭にも述べたが、あくまで一般論で、今回の個々の事件の内容を言い当てているなどという傲慢な当てはめ方をすべきではないことは、再度お断りしておく。

 しかし、日本社会から大切な「ことば」によるコミュニケーションが、欠如し始めていることは、どこかで意識しておくべきであろうと思う。

 少なくとも野次馬的な発想ではなく、自己の住む社会の問題として考える意識が、各自に求められているはずだ。
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