「生き金」という考え方

2010-05-31

30日(日)日曜日の夜は、毎週『龍馬伝』を楽しみにしている。幕末という時代とは何かということもさることながら、その時代に生きる人間の生き様から学ぶことも多い。新しい日本を求めて奔走する龍馬、それと対照的に「算盤」で生きていこうとする岩崎弥太郎。しかし、分野は違ってもこの二人にはどこか共通項もある。ここのところ気になった言葉が「生き金」というものである。

 お金を効果的に活用し「生かす」ということ。無駄なことに埋没するような使い方をしないこと。何が「生かす」ことかは、人それぞれ違うはずである。であるからこそ、所有している金の使い道で、その人間の価値観が測れるというものだ。

 この日の話では、友人を捜しに京へ行った龍馬が旅籠で、ある女と出会う。後に龍馬の妻となる「お龍」という女である。この女、妹がやくざ者に借金のかたに連れて行かれたのを、何としてでも取り返そうとして、旅籠のおやじ・おかみさんを困らせている場面で龍馬が仲裁に入るという設定だ。相手を殺してでも妹を取り返そうとする「お龍」。それを龍馬は、「何であろうと人を殺すのは理が立たないぜよ」となだめた末に、土佐の姉から送金された5両もの大金を、差し出す。

 「これを生き金に、してくんしゃい」

 家が経済的には豊かで、金に苦労してこなかった龍馬は姉からの支援を受けることを後ろめたく感じたこともあり、見ず知らずの女に大金を託す。その妹が救い出せるということが、「生き金」になるというのである。困った人を目の前で見て、黙っておれない龍馬の人間像が描かれていた。もちろん、これが契機で龍馬は、妻と出会うというドラマ設定なのであるが。

 金に限らず、時間や自分自身をどう「生かす」か

 有効に活用できる道を模索しながら、絶えることのない時間の流れの中を歩む

 幕末は、何事も命懸けであるという緊張感もある

 せめてこの平穏な世の中で「生き・・・」を産み出す生き方をしたいものだ
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「落語に学ぶ」が始動

2010-05-30

29日(土)以前から計画されていた「落語に学ぶ」企画の、第1回が実施された。懇意にしている落語家の方から、落語のあり方について、様々な角度からお話しいただいた。その中で、いくつかの「地噺」が紹介され、どのように自分なりにアレンジして噺を作っていくかという、構造が紹介された。

 古典的な落語の内容に関わりを持って、自らの創作的な噺を添えていくのは、実に楽しそうだ。日常の体験や、世相を賑わせていることなど、その添えていく噺にこそ、個性が表出する。根幹として崩さない噺の内容とのギャップが激しいほど、名人芸になるという。その域までは、ほど遠いかもしれないが、まずは自分が挑戦する噺の台本をこれから1ヶ月間で作成することになった。

 会も和やかに終わり、落語家さんを交えて我々や学生らとともに、いつもの小料理屋へ。落語をネタにした語らいの場は、更に酒を加えて宵のうち続いていった。その中で、落語に挑戦する我々に、洒落た名前が付けられて会は終始盛り上がって行った。

 「話芸」というのは、何とも奥深く、それを聴くだけに非ず、自ら挑戦してみることこそ、その味わいが深まって来るはずだ。これから約1年間のプロジェクトが何を産み出していくか。そんな楽しみが芽吹いた1日となった。
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嬉しい訪問者たち

2010-05-29

28日(金)昨日の反省に立ち、昼食をきちんと摂った。初めての経験になるが、馴染みの寿司屋のランチタイムに行ってみた。「おまかせちらし」で健康的に魚を食べて、午後への活力が湧いた。だが短時間でカウンターを立つのは、何となくいつもと調子が違ったが。

 午後も有効に時間を使い、夕方からの大学講義に備える。まさに理想的な1日の過ごし方だ。自己管理の中で、自身のやりたい仕事を淡々とこなす。組織に縛られない生活こそ、今の自分に必要なのだ。

 大学の講義には、昨年度の受講生が訪問してくれた。1年前を懐かしみながら、90分の授業に付き合ってくれた。こうした人間的な付き合いがあるのがまたいい。講義は単位の為ばかりでなく、人間として何を得るかということが大切だと改めて実感。1年後に受講生が訪れてくれるということは、そんなことを象徴的に語ってくれた。

 授業後は、2人の受講生と大学近辺にある蕎麦屋で一献。「枝豆・板わさ・さつま揚げ」を肴に、辛口の日本酒こそ、蕎麦屋的な飲み方か。実に楽しい時間を過ごすことができた。

 希望の光を心の中で見つめながら

 嬉しい訪問者に励まされながら

 今、自分が何を為すべきかを改めて悟った1日
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規則正しい食事

2010-05-28

27日(木)昼食をどうしようか?などと考えながら、今少しで仕事のけりが付くと思い、引き延ばした結果、三時半頃の昼食になってしまった。仕事にけりが付けば、外でランチができるという思いが尽きず、この結果である。ある意味で潔くなく、ある意味で落ち着いたランチの時間が、精神的な余裕が得られるという豊かな時間である証拠でもあった。

 しかし、日常の食事サイクルを崩すと、どうもその後がいけない。三時半という時間であったので、サンドイッチ程度の軽食にしたが、満足感が得られないばかりか、食事をした気分も薄かった。おまけにコンビニで購入した甘いデザートも付け加えて、変に腹にもたれる食事となってしまった。

 睡眠リズムもそうだが、身体のサイクルというのは緻密である。日常の規則正しさを身体が記憶しているのだ。それを崩してしまうと、自ら変調を来すことになる。睡眠は1.5時間の倍数で覚醒する。食事は1日3回、一定の時間内に内容を考えて摂取するのがよい。しかも自分が信用できる材料で、信用できる調理を施してあるものを食べるのが安心だ。

 そしてよく噛んで、ゆっくり時間をかけて食べるのがよい

 夜には筋力トレーニングをしたので、栄養素も考慮すべき

 規則正しい食事と内容の吟味は、日常的に欠かせない
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文章読解力とは何か?

2010-05-27

26日(水)よく「読解力とは何か?」と問われることがある。そして、それを養うにはどうしたらよいか?と。大概の場合が、その「読解力」を手軽に身に付けるにはどうしたらよいか?という意味での問いかけである。されど、「読解力」などそう簡単に手に入るものではない。単純化して考えている自体が、「文章読解力」の真意が分かっていないということだ。

ことばは、語彙・文法を基礎として、特に日本語の場合、漢字という大きな要素がある。そうしたいわば、言語技術が礎となるべくして、部品のように一定の目に見える体系で存在している。あたかも、プラモデルの部品のようなものが言語技術である。それを、人々は各人の方法で文章に組み立てていく。しかし、その組み立て方は千差万別、単純なものから難解なものまで、むしろ簡単に分からないように、独特の組み合わせを楽しむ作家や批評家・文学者が多く存在する。

「文章読解」とは、このそれぞれの組み立て方の道を辿る旅である。自らの思考をフル動員して、暗闇の中で言語がどのように構成されていて、どのような脚色があり、どのような仕掛けがあるかを探る、知的な旅行である。その辿り方は、自分で地図を読み、自分で歩くしか方法はなく、他人に歩いてもらった道を、話に聞いて身につくものではない。いわば、常に実践的な体験を繰り返すしかないのだ。

スポーツに喩えるならば、それは全て試合のような実戦形式。相手がどのように対応し、予想もしない変化で挑んでくることに、こちらも対応しながら身に付けるしかないのだ。一定の実戦経験がるものは、だいたい試合勘がついてくる。そして究極の技術を持った選手は、意識しなくとも身体が反応するようになる。「文章読解」とは、教わるものではなく、自分の力で実戦形式を繰り返し、体験し体得するしかないのではないかと考えている。

その、ある意味で苦痛を伴う歩みを、簡単な指標として共通認識にしようとする、愚かな行為を目指そうとする人々もいる。すると知的教養が持っている、闇の中で発見する喜びなどを理解するレベルにないことになる。あくまで文章読解とは、見知らぬ道を新たな発見を求めて歩む、知的冒険なのである。

しかし、「知的教養」といっても、通じない輩が多い時代

 Webの進化やサブカルチャーなど、多種多様なものが散在する時代であるが

 であるからこそ、知的教養というものを、もう一度見直してみるみるべきである

 「読解力」が簡単に手に入る、それは幻想でしかない

 たった一つの方法は、「丹念に文脈を追う」それしかないのだ
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家庭的洋食店さん

2010-05-26

25日(火)毎週火曜日は英会話教室である。そして最近は、その前に立ち寄って食事をする洋食屋の常連となった。いつからか、店の奥さんが親しげに話してくれるようになり、野球好きのご主人は、巨人の試合経過を気にしながら、野球の話題を提供してくれるようになった。もはや、この話せる空間で食事をすること自体が、英会話教室とセットで恒例な時間となったのだ。

また、同じ時間帯に必ずやって来る常連の老人がいる。いつも一人で杖をついて、ゆっくりとした足取りで来店する。どうやらこの曜日に、近所でスイミングをこなし、やって来るのだという。一人でカウンターに座り、ワインを注文しながらベーコン焼きなどをつまみにして、ひとときを過ごしている。いつからか、この老人とも会話をするようになり、「君はアルコールを飲まないのか」などと勧められるようにさえなった。「これから英会話教室なので」と数回断わり、その境遇がお互いわかるようにもなった。

一人でカウンターに座り、黙って食事をしていれば、それはそれで美味しい食事が堪能できる。しかし、毎週、店の奥さんとご主人、そしてこの老人と会って、世間話をすることが、何とも言えない楽しみになった。所用があり火曜日に来られない週だと、「彼はどうしたんだろう?」と話題になっているという。なので、最近は所用で火曜日を水曜日に振り返るだとか、そんな事情まで前週に話しておくようにしている。

家庭的な洋食屋さん。こんな人間的な繋がりのある店が都会の中にもあるのだ。そのわずかな時間を、日頃から大切にしていきたいと思う。

そんなわけで、最近、英会話教室へは遅刻寸前で飛び込むようになってしまった。話に花が咲くと、洋食屋さんのカウンターから抜け出せなくなるのだ。

されど、英会話を学ぶのと同等ぐらいに、会話が交わせる店は貴重なのである。

もちろん、週1回の豪華な肉料理は、活力の源でもあるのだ。
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やる気だけでは成果は出ない

2010-05-25

24日(月)毎週、月曜日になると担当する仕事がある。とはいっても隔週の当番制ではあるものの、遅い時間まで職場に残らなければならないのだ。内容があって意義深いものならば、納得して時間を費やすが、その仕事内容は取り立てて我々がしなければならない内容とも思えないので、尚更、矛盾を感じながらの時間浪費となるのだ。

同じく月曜日の担当者である方も同じ意見で、毎週、お互いに「今日はお願いします」などと一言を交わし苦笑いする。もとを辿れば、特に勤務先全体で議論して決定したわけでもなく、ある一部の人間が「やる気があるなら」といった、職員の弱味につけ込んで始めた制度だ。だいたいにして、一部の人間の発案が、全体でまかり通ること自体に、たいそうな違和感を覚える。

職場になるべく長い時間いるのが美徳とするような発想が、未だに跋扈している。しかし、真にその仕事で大切なことは何かということが考えられたなら、「時間」にはこだわらず「質」に目がいくはずだ。「質的」内容を伴った「時間」であるならば、消費する価値もあるというもの。低次元の発想しかしない輩は、その「質的」が何であるかわかっていないものだ。

内容的に乏しく、表面的に派手に見える仕事をしている人間が台頭する社会では、真に「質」の高さを求めている人間が生きられない。その空気は、すぐに酸欠状態になるからだ。たちの悪いのは、その曲解した先導者に付き従って、ハエがたかるように生きている輩。この醜さといったら言葉にならないほどだ。更に、こうした職場内の状況が読めずに、派手な先導者のみを高く評価する管理職は、言うに及ばずである。

やる気だけでは成果は出ない

それは高校生にでも教えてあげたいようなこと

もともと「時間」への観念が違うのならば

「質的」が保証される異次元にワープするしかないのだ

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雨の日曜日は

2010-05-24

23日(日)雨が降る。早くも梅雨に入ったかのような天候になった。こんな日曜日は、特に出掛けることもなく、ゆっくりと家で過ごすのがいい。朝寝で前週の疲れを取りながら、布団の中で様々に思いを馳せるのもいい。

午後は、夏の渡航計画を練りながらホテルの予約をWebで。旅先での様々な出来事を妄想しながらの時間は、またなかなかのものだ。

全体としてゆっくりした休日。仕上げには、久しぶりにカレーを作った。何となく休んだ気分に、一つの達成感を加える。

そうこうしていると、友人から朗報メール。雨の日曜日は家で過ごすのがいい。
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小説の舞台を訪ねる

2010-05-23

22日(土)亡くなった井上ひさしさんの小説に『ナイン』という話がある。東京は四谷に、未だ自給自足の商店街があった頃、店の息子たちを中心に構成された少年野球チームの過去を振り返る内容だ。「新道少年野球団」と称されるチームが、夏の暑い陽射しの中、ベンチで主将の少年が、体を盾にして日陰を作り、奮闘する投手やバテそうなチームメイトを支え、延長戦を闘い抜くという感動秘話である。

しかし、その主将は、大人になってチームメイトたちに詐欺などの蛮行を繰り返す。しかし、チームメイトたちは、彼のことを悪くも言わず、警察に訴えることなどもしない。大人の社会に汚染された少年野球チームの主将を、仲間たちが少年の日に助けられたことで、信頼以上の友情を築いているという設定だ。

小説自体が、その少年時代の回想的な話で構成されているからか、更に今の時代の「新道商店街」を改めて訪ねてみたくなり、土曜日の夕刻に四谷駅を降りた。

「幅4メートル、長さ100メートルに満たないこの商店街」という記述があるが、本当にその通り。今や商店街は跡形もなく、多くが周辺の会社員や大学生を相手にした飲み屋街に変貌している。通りを歩くと、飲み屋に入るか入らないかといった大学生の集団や、本日はサービスディだとかいう飲み屋の客引きに出会う。そんな喧噪を尻目に、小説世界をもとに、様々な想像をしながら、100メートル歩くことを楽しんでみた。

脇道が何本かあり、その奥に見える家などが、小説の語りの舞台である畳店であろうか?豆腐屋や総菜屋に洋品屋などは、いつまであったのだろうか?商店街の中に小さなコミュニティーが成立しているという、大都市東京の過去を、存分に想像することができた。

小説は、この商店街が飲み屋街のなることを否定的に捉えているので、そこを尊重し、やや離れた所にある飲み屋で酒を一献。その後ほろ酔いで、少年野球の舞台となった「外濠公園野球場」を訪ねてみた。闇夜にうっすらと見えるダイヤモンド。3塁側ベンチは、西日が直接差す方向に確かにあるが、今やたくさんのビルが周囲にも建ち並び、少年たちが助け合うことを学んだ熱い太陽も、差し込まなくなってしまっているようだ。

ある変哲もない場所が、人々が生きてきた物語を持っていて、それが小説という形で保存されている。もちろん、小説は虚構の世界であろうが、そのリアルを今に訪ねてみるのも、こちら側の想像力を最大限に発揮させてくれる。

東京が失ってしまった下町人情あふれる人間的関係、自給自足の商店街、少年野球で育つ子供たち。

どれもみんな、自己の経験の中でも宝物のように眠っているものである。だからこそ、この小説は深く琴線に触れるのだ。

そんな世界を見事に小説化した井上さんに、改めて感謝した1夜であった。
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一足飛びに夏!

2010-05-22

21日(金)今季初めて仕事に半袖シャツで出向いた。天気予報の予想最高気温は30度を超える。4月から、何となく低温な状態が続いていただけに、一足飛びに夏が来たような1日であった。電車内にも冷房が入り、夏らしい出で立ちの人々が多くなった。エアコンのシーズン最初の起動は、何ともカビ臭さの充満から始まる。旧暦にしたがっても、この1週間で確実に夏になったのだ。

しかし、そんなに「暑い・暑い」というほどのものを感じなかった。周囲の人々は「暑い」と口にするが、別にそれほどでもない。むしろ、湿度の少ない爽やかな陽気に恵まれたように感じられた。だいたいにして、東京の気候では「暑い」と嘆くほどの時季は、本当に限られているように思うのだが。

夏は躍動の季節でもある。情熱的に活動的に行動していくべきだろう。

「暑さ」を「熱さ」と受け取るならば、気分爽快な季節の到来として歓迎しよう。
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