GWは最初が肝心

2010-04-30

29日(木)昭和の日。休みが終わったときの虚しさは、何とも言葉にし難いほどだ。印象的に言えば、日曜日の「笑点」から「ちびまるこ」に「サザエさん」まで行くと、終わりの歌で泣きそうになってくる。大河ドラマを見る頃は、もう開き直っており、特に時代を開拓した英雄に励まされ、むしろこの週への活力が湧いてくるものだ。日曜日という単独ではないが、GWの最後に「虚しさ」が倍増しないように、今年はその最初から実りある過ごし方を模索している。

休日であるこの日も7時起床。日常的に5時台起床が普通なので、これでも2時間の朝寝だ。そこから小欄の更新にMLBのネット中継に興じ、終わったらGW明け〆切りの原稿に取りかかる。午前中だけでも3つのテーマをこなしたことになる。

午後一番はジムへ。ボディパンプの特別企画プログラムで、多くの人が来場し、かなりの盛り上がりであった。身体を十分に使ってから帰宅。家の中を少々整理と清掃をしてから、冬物を持ってクリーニング店へ行き、その後スーパーで買い物。午後も3つのテーマをこなすことができた。

夜は両親とともに馴染みの寿司屋へ。先月行われたイベントの写真のことや、夏休みの渡航計画について相談した。

連休の滑り出しから、好調な一日。休日でもむしろ仕事(原稿書き)もするという姿勢が、その後の余裕を生み出す。もう一つGWの目標を立てるならば、『1Q84』の読破を掲げておくことにしようか。

少なくとも仕事上のストレスからは解放されるような日々が送れそうだ。

GWは最初が肝心!

谷間の仕事も淡々とこなし、来るべき充実した休日が待ち遠しい。
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記憶のデータベース

2010-04-29

28日(水)人間の記憶ほど奥深く不可思議なものはない。一定の規則があるわけでもなく、記憶が鮮烈なものと、薄れて消滅してしまうものがある。その多くが心や身体の作用に加えて、外界からの刺激によって保存状態が決定されているようにも思う。いわば、記憶の中にはデータベースが刻まれているのだ。

一つの小さな犬の置物を見て、それがここに存在する背景にある鮮烈な印象が蘇る。その犬の置物は、射的の景品として自らがコルク玉で打ち落としたものであった。そしてなぜ、その射的ができる店に行ったのか。その日はどんな日であったのか・・・などなど。記憶の中にあるデータベースが、次々に起動して、脳裏というスクリーンに様々な映像を映し出し始める。いうなれば記憶の中に眠る「物語」が、そこに再演されてくるのだ。

 その「物語」は、時として微笑ましく時として寂しい。それが起動された要因の性質によって、楽しい場合もあり、次第に「今」を取り戻すと、過去とのギャップに涙を誘うこともある。もちろん一番こうした「物語」を起動しやすい要因は写真だ。しかし、そこまでの具体像でなくとも、ある店の席に座ったときや、道を歩いているときにふと漂う香りとか、衣服や布団の肌触りなど、身近な中に「物語」を起動する要因は山ほど存在している。

他の人と話したりして比較していると、小生は性癖として、こうした「物語」を枝葉末節まで覚えていることが多い。数字などはことさら意味がないと思うと、すぐに忘れてしまうが、「物語」の詳細には不思議と自信がある。先月行われた、親戚が集合した宴会で、小生のそれまでの歩みを「自分史」として年表にしたが、なぜこんなことまで覚えているのかと驚かれた。

「物語」は概して、良いことを想起するように見えるが、もちろん気分を害するたわいもない渦が、再び巻き起こることもある。人間的に許し難い弾圧的な言葉を浴びせた者の発言は、精神的に辛い渦中の記憶を蘇らせる。ことさら、社会的な力関係で支配する側の人間に、「美しい物語」を踏みにじられた記憶は、敵意としてデータベース化されて、同じ場所で他人の気持ちを察しない口調で、陰湿かつ冷淡な発言をされると、瞬く間に「再起動」してくるものだ。この日は、そんな場面に遭遇した。

それが「記憶」である以上、あくまで過去のものだ。しかし、なんらかの要因でその「データベース」が、更新されて今に「再演」されたとき、新たな「物語」が、自己の中に生まれる。

記憶のデータベースを駆使するのは、やはり自己でしかなく、自己の表現することばの上にしかないのだと思う。

そこに限りない人間の可能性が眠っているはずだ。
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郷に入りては

2010-04-28

27日(火)見知らぬ土地を地図で見ていると、様々な妄想が脳裏をよぎる。あくまで平面上に道路を主体に描かれる地図は、起伏やその土地の状況までを、十分に伝えるわけではない。もっとも、最近はGoogleなどで検索すれば詳細な航空写真まで見ることができるから、やや事情は変わったのかもしれない。それにしても、愛用のアメリカ製道路地図「アトラス」を見ている時間は、何とも至福のひとときだ。

この日の英会話教室では、講師にカナダに関する質問をした。彼の故郷である都市周辺の美しいポイントなどを、地図持参で教えてもらうことにした。すると、当初は予想もしなかったあたりの地域が、実によい景観であるという。やはり地図ではわからない深みは、地元出身の人に聞くのが何よりだ。大自然に囲まれたカナダの大地。そこには日本人が考える観光とは、ひと味違った美しい道があるようだ。湖畔の小さな村、山林を越えていく道路などなど。

「郷に入りては郷に従え」という格言があるが、やはりその土地には、その土地なりの良さもある。自分で考えていたよりも、大自然と戯れるような旅行計画にするのが、カナダを知るためには不可欠なようだ。

GWに突入する今、夏の日の旅に思いを馳せる。

何とも贅沢な時間だ!
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人として見つめる「死」

2010-04-27

26日(月)「今まで夢だと思っていたことが、実は夢ではなかった」プロのチェロ奏者を目指していた主人公の心のつぶやき。この日、夜9時からTBSで映画『おくりびと』の放送。死生観を揺さぶられる、静寂な映像にゆっくりと浸ることができた。

「死」は普通のことで誰にでも例外なく訪れる。自らも肉親も友人も、いわば死に向かって歩いているといってもよい。しかし、現代人はその利便な環境に迷走し、いつしか「死」を遠ざけて考えるようになっていたのかもしれない。主人公の妻が、夫の新たな職業が「納棺師」と知ったとき、「穢らわしい」と拒絶する場面に、それは典型的に表現されている。

病院での閉鎖的で段取りを付けられた「死」が一般的である現在、なかなかそこに直面することも少ない。思い返してみれば、幼少の頃からやはり「死」は怖くも穢らわしものと思っていた自己を顧みる。そして祖母の「死」に直面して初めて、その美しくも気高い一生の終焉が、新たなる旅立ちのように、ようやく思えるようになった。端的に言えば、遺体に慈しみと愛情を以て接することができるかどうかということである。

『おくりびと』主人公が語る納棺師の仕事のあり方・・・「冷静で正確でしかも美しい」という境地は、どこか人間として美しい旅立ちである「死」を受け入れていく為の一つの言葉だ。チェロを奏でる芸術にも増して、その崇高な美しさを悟った言葉。

人間として「死」を受け入れることは、月次だが「生」を考えることでもある。今ある「生」をどう受け入れていくか。


先日、朝日新聞に連載されている落合恵子さんのエッセイ「積極的その日暮らし」に(4月24日付)サリンジャーの『ライ麦畑でつかまえて』にある内容が記憶の中に紐解かれていた。

  「未成熟な人間の特徴は、理想のために高貴な死を選ぼうとする点にある。

   反して成熟した人間の特徴は、理想のために卑小な生を選ぼうとする・・・。」


 確かに至言のようであるが、未だ小生では到達し得ない境地。

 ゆえにサリンジャーを含めて、多くの文学への旅を進めるしかないのだろう。

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新緑を感じながら

2010-04-26

25日(日)今年はどうしてこんなに寒さが長持ちしているのだろう。例年ならGW前には半袖が着たくなる陽気でもいいはずだ。しかし東京でも気温が一桁台とか、冬物に近い衣服が要求される場合が多い。そんな中でも、新緑は確実に芽を出し始めている。やはり自然の中で人間が一番脆弱になってしまったのかもしれない。

 朝起きて窓の外を覗くのが好きだ。リビングの窓からは、東京にしては珍しいほどの木々が見える。そのあちらこちらから、新鮮な若芽が出てきていそうな色をしている。秋には真っ黄色に色づいていた銀杏からも、綺麗な黄緑色の葉がたくさん出てきている。こうした自然の生命力を感じられることだけでも、無性に嬉しくなるものだ。

 午前中はMLB中継に興じ、朝昼食後も気が赴くままに部屋で過ごす。予定していた書斎棚の片付けをして、またまた机周辺が整い、原稿を書こうという気持ちが充実してくる。更には地図を広げて夏の渡航予定に思いを馳せる。地図を辿りながら、行こうとしている土地を様々に妄想することは、何とも至福の時である。今までの経験を元にしながらも、新たなルートなどを考えてみる。自然が満喫できそうな道を疾走する車窓からの眺めが、脳裏に浮かんでくるのだ。

 新緑を感じながら、新たな想いを巡らす。

いつまでも感覚的には新緑のようなつもりで。

若芽が吹いていくような、新鮮な気持ちを持続していきたいものである。
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居住環境と地域コミュニティー

2010-04-25

24日(土)今年度からマンション管理組合の理事長になってしまった。「しまった」というのは微妙な言い方だが、1年前からの流れを受けてということと、半分はやるべきだという意志が同居しているからである。今のマンションに居住して今夏で5年となる。当初は土曜日に仕事があり、なかなか管理組合総会にも顔を出すことができなかった。次第に管理人さんとも会話を交わすようになり、昨年3月に総会に出席すると、推薦を受けて副理事長に。そして先月の総会で理事長となったという経緯である。

 総会に出席して驚いたのは、その出席率の低さ。大半の方々が委任状で済ませ、自らの住居管理に関する審議を他人事のように議事録を傍観するだけの状態だ。賃貸契約で居住している方はともかく、分譲で居住しているのであれば、「自分の家」という意識をもっと持つべきではないかと強く思う。ゆえに、自ら「やるべきだ」という気持ちが次第に膨らんできたのも事実である。

 管理会社や担当管理人さんの尽力もあって、マンション管理に大きな問題は今のところない。築年数も5年を過ぎたところだから、特に大きな修繕を必要とする箇所はまだない。だからといって、自らの居住環境管理に、無関心でいていいものかと疑問に思う。先月などは、郵便受けの脇に置いてあるチラシを捨てる為のゴミ箱に、タバコの吸い殻が捨てられており、中で燻り焦げた臭いがしたという。一歩間違えば、自宅の玄関先を火災に追い込む行為を、平然と行っている居住者の意識を疑う。(勿論、完全に居住者に特定されるわけではないが、オートロック内に設置されたゴミ箱であるから。)こうした共同住宅における居住環境への意識の低さは、更に地域コミュニティーなど無視した生活感覚を招くことになるのだ。

 特にマンション住まいの場合、自宅周辺にどんな方々が住んでいるか知っていることも少ない。それもまた疑問だ。かくいう小生も、町内会の活動に顔を出したことはないし(町会費は管理費と共に徴収されているが)町会役員の方々が誰であるかも知らない。しかし、近所にある街の酒屋さんとは、この周辺に居住して以来の付き合い。おじさんは天下一品の江戸っ子で、大の話し好き。店に行こうが配達しに来た時であろうが、まず15分の世間話は普通のことだ。その酒屋の前には、昔ながらの豆腐屋さんがあり、週に3回はここの豆腐を食している。(健康食でもあるし)またおふくろのようなおばさんが、毎回温かく迎えてくれるし、お得意さんゆえ、密かに「おまけ」を混ぜてくれることもある。寒い暑いはもとより、個人的な家族の話まで、豆腐を買いに行くことが、一つの精神的な発露にもなっている。

 こうした商店も、日本経済の構造変化で次第に衰退してきてしまっている。酒屋さん・向かいの豆腐屋さんの脇には、クリーニング屋さんもあったが、2年前に店を閉じた。しかし、今でも店の面影残る住居の前を通ると、おじさんとおばさんが優しい笑顔で挨拶をしてくれる。都市空間に居住すること自体が、地域コミュニティーなど無関係という感覚を普通なものとしてしまうが、果たしてこれでいいのだろうか?商店―顧客という関係を離れた上でも、笑顔をくれる方々の気持ちが、何かを訴えているのではないだろうか。

 マンションも、大きな管理上の問題や管理費値上げなどが関係すれば、参加する意識も高まるかもしれない。だが、自分の利害に影響してから意識が高まるというのは、まるで子供の発想ではないか。地震などの災害時にライフラインや食糧供給は、やはり地方公共団体経由でありながら、町内会や地域のコミュニティーに依存することになるだろう。その時になって、人間的な関係を急に構築して助け合おうというのは、何とも滑稽な社会構造ではないか。居住環境と地域コミュニティーは、日常から意識を持って創り上げておかねばならないはずだ。

 自ら意識を持って、この文章を書いたことで「理事長になってしまった」は「なった」に変化した。1年間の任期の中で、この文章に記したようなことを、少しでも同じ土地に住む居住者の方々に、伝えられたらという思いが芽生えた。

 まず自らが住む場所から、日本社会が陥っている非人間的な構造を改革していかねばならない。「改革」は政治家だけが唱えるものではあるまい。
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1年後の偶然?必然?

2010-04-24

23日(金)大学での講義を終えて、馴染みの小料理屋へ。雨が冷たく降りしきるので、温まる何かが欲しかった。店はほぼ満員状態。いつもの金曜日とは趣が違った。どうやら2つの団体さんが、テーブル席と座敷にそれぞれ陣取っている。馴染みをいいことに、何とかカウンターの片隅に座らせてもらった。

 テーブル席の方々には見覚えがあった。先方の方々も何人かが小生の顔を覚えていてくれた。そうだ!1年前にもこの店で、誕生会と称したこの会合に出会ったのを想い出した。しかもこの方々は、有名なアニメキャラクターの声優さんたちだ。改めて再び会えた偶然に感謝しつつ、とりあえず1人カウンターでグラスを傾けた。

 しばらくするとお誕生日ケーキが登場。座敷にいた他の集団と私にまで、このケーキをお裾分けしてくれた。これもまた昨年と同じ。こうした美味しいものをいただきながら、「うるさくしてすいません」という一言もいただく。恐縮するのはこちらの方で、「お邪魔してすいません」という気持ちになる。しかし、この方々は気持ちが澄んだ素晴らしい方々だ。決して、自分たちが有名であるというような素振りも見せない。実に謙虚で庶民的な対応に終始している。

 座敷の団体さんが帰る際には、アニメキャラクター声のサービスも。何でも生は違うと思っていたが、映像のない生声を聞けるなんてなかなか貴重な体験である。やはり「声」はそのキャラクターの印象を決定付ける。普通に後方から聞こえてくる声の中にも、アニメ中のイメージが時折覗く。やはり「声」の力は偉大だ。

 何となく、この団体さんと時間を共にして、カウンター席を立った。1人ながら楽しめる時間を過ごせた夜だった。

 偶然か?はてまた同じ月、同じ曜日の必然か?馴染みの店ゆえの出来事。

 帰宅して昨年の手帳を見ると、やはり1年前の4月24日(金)に出会っていたことを確認。これだから人の繋がりはおもしろい。
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学びは人間の証明

2010-04-23

22日(木)勉強が必要か必要でないか、それは学ぶ時点では分からない。むしろその価値が分からないからこそ学ぶ意味が生じる。とりわけ、人生をどのように生きていこうかなどが分からない時分には、あらゆる角度から勉強をして、スポンジが水を吸い込むように吸収しておくべきだ。その水がやがて生きる栄養素になるのだから。

 最近の高校生は、科目の必要性を考えて勉強をしようとする。その必要性とは、限定的に言えば大学入試で必要かどうかという範囲である。ゆえに、己の入試科目でない勉強を学ぶ意味を感じず、興味も示さない。歴史という人間の歩みを凝縮した科目であっても、日本史か世界史を選択し、どちらかの内容を限定的に、そして入試で点が取れるように勉強するだけだ。

 世の中の情勢は、通信網の発達や交通機関の整備で、広い世界を手に取るように見ることができるようになった。今、自分の周辺で起きていることは、世界と何らかで関連があるはずだ。そして視点は宇宙へも向けられ、地球全体で何が問題かを考える時代になっている。視野はどれだけ広すぎても、博すぎることはないのだ。

 あらゆる角度から勉強をすることで、己が、人間が、いかに愚かであるかを知る。歴史はその最たる物だ。また先人が残した古典の中にこそ、未来を切り開く知恵がある。1人の人間が、知覚できる世界は限定されているのだから、様々な書物から雑学と思える物に至るまで、学んでおくことこそ、人間の証明である。

 高度に文明化したつもりが、入試や効率化といった狭い範囲で右往左往する、森の中の猿に逆戻りしている場合がある。学ぶとは何か、今一度人として問い直すべきだ。

 その時、価値が分からないなら、学んでおこうよ!
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机上の整理

2010-04-22

21日(水)仕事が休みだったので、計画的に書斎の整理を始めた。昨年度で一段落した大仕事から、新たな仕事へ移行するという気持ちも込めて。机上に出ている資料の数々は、その時、その時の状況を物語る。進行中のものに支障を与えないよう、主に廃棄すべき資料を抜き出すのが、主な整理の方法だ。

 意外に多いのが封筒に込められたままの資料類。整えられているように見えるが、この蓄積は結構やっかいだ。中身を確認する作業に時間を要し、だいたい中身の資料も過去の物が大半。ほとんど廃棄してよいものということになる。ならば、最初から封筒より出してしまい、その資料の賞味期限が自覚できるように置いておいた方がよいと悟る。

 しかし、改めて紙による資料の多さに唖然とする。エコを語るならば、まずはこの大半をデジタル配信にしてもらってもいいような気がしてくる。書斎の整理や携帯性と保存性と、どの点に注目しても、デジタルデータの方に利点がある。唯一、欠点を上げるならば眼に負担が掛かることぐらいだろうか。

 とりあえず机上は、大変綺麗に整理された。次の日曜日は机後方にある整理棚。整理棚とは名ばかりで、ただ本や資料が乱雑に置かれているだけだから。整理されて作業効率も上がった書斎では、また新たな文章を生み出していこうという気持ちが高まる。PC上でも更新や整理が必要なように、人間の営みには時折、整理整頓が必要なようだ。

 整理はやる気と新たな発想を生み出す、ならば定期的に実施するに越したことはない。
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頭脳と筋肉の日常鍛錬

2010-04-21

20日(火)頭脳も筋肉も鍛錬をしておかないと衰えるばかりなのは同じ。日垣隆氏『知的ストレッチ入門』(新潮文庫)で、「知的生産の技術」を学び、改めてそう思った。こうして毎日、一定の文章を作成するのも、「頭脳ストレッチ」の一環だ。「心身ともに」とよくいうのだから、「頭脳」も「筋肉」も日頃からストレッチしておかなければならない。

 この1年ぐらい、ジムでの筋肉トレーニングを定期的に行ってきた。身体に脂肪が蓄積するのを防ぐためには、「脂肪を落とす」という発想ではなく「筋肉を衰えさせない」という考え方が妥当だということを知り、実践してきた。その効果は抜群で、落とそうとしてもなかなか落ちなかった脂肪が、筋肉を鍛えることで押し出され、表面的にも筋肉が見えるようになってきたのだ。

 更に筋トレをすると、次の日に疲労を残さないために、ストレッチを入念に行う。これにより身体の柔軟性が復活してきた。2年ほど前には腰痛で接骨院通いをしていたのだが、今や毎日のストレッチで、まったく問題なし。特に股関節周りの柔軟性が確保されれば、腰痛になることもない。また腹筋・背筋の鍛錬が腰への負担を軽減しているのは言うまでもない。

 この日は、職場のスポーツ大会があり、久しぶりに短距離をほぼ7割方のスピードで走った。その状況は、2〜3年前なら不安があったが、この日は好調!膝や足首など関節への負担もなかった。やはり筋肉の日頃からの鍛錬がいかに重要かを知った。今、衰えてしまったら、年齢を重ねるごとに坂を転がり落ちるように、衰退していってしまうだろう。考えれば恐ろしいことだ。

 毎日の生活スタイルが、頭脳も筋肉も向上させるか衰退させるかを決する。まさに「生活習慣」がいかに大切か、何気ない1日を改めて大切にしていかなければならないと悟るのだ。
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