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四国行脚?ー正岡子規と俳句言語維新

2010-02-20

19日(金)早朝の便で羽田を発つ。朝が早いという辛さと、現地に早く入り時間を有効に使うことを天秤に掛けて後者を選択する。羽田までの電車やモノレールも未だ混雑しておらずに快適だ。車窓から新しい国際線ターミナルの整備具合が目に飛び込んでくる。飛行機が見えてくると自ずと旅への高揚感が。羽田は現実から自己へ回帰する転換点になる。

 羽田を飛び立つと、すぐに眼下に広がる東京湾。わずか数分ぐらいか、横浜のみなとみらい地区が見える。さらにその数分後には江ノ島を望む湘南海岸。まるであり得ない近距離の衛星写真地図を俯瞰。さらには、白く雪が多い場所が目に入る。地形的な高度が感じられないでいると、ジグザグに刻まれた登山道路の跡。これが富士山であると、直後に気づいた。

 機内では『正岡子規』(ちくま日本文学)の文庫本を読む。その非凡かつ機知に富んだ文章センスに改めて脱帽。楽天家で愉快な人物であったという司馬遼太郎の描く子規像が、果たしてその通りなのか思いを馳せてみたいとも思う。改めて窓の外を見ると、穏やで波静かな海面、瀬戸内海だ。追い風の影響もあり、大きく海側から旋回し、機体はいよいよ伊予国松山に着陸する。

 到着便に合わせた道後温泉行のバスに乗車。松山市中心部を抜けて、思い描いていたような地図が、現実の道路となって眼前に展開する。市電の緩やかな動き、城下町を基礎にした区画の街並。温かく穏やかな街を車窓に、道後温泉に到着した。

 中心地には『坊っちゃん』電車やからくり時計。案内板を見て道後温泉本館への商店街を進む。宿は本館前の西洋風ホテル、宿から本館へ浴衣で出向けるという利点と料金の安さで選択。地元に居住の大学の先輩も推奨していた。まずはフロントで予約の確認をし、荷物を預けて、松山市内の散策に出掛けた。

 市電の1日券を購入。該当の日付をスクラッチで削る方式。「間違って削らないようお気をつけください」という運転手さんの言葉。街の穏やかさは人々の優しさへと姿を変える。まずは、松山市駅へ。子規の生誕の地は、駅の前の路上にある碑に示される。駅で2日後の讃岐国善通寺への高速バスを予約。その後、駅の南側にある子規堂へ。お寺の境内に、子規が17歳まで過ごしたとされる住居が再現されている。傍には子規の遺髪を供養する塔もある。堂内には複製が多いが、子規俳句の様々な墨蹟に漱石の草稿なども加わる展示が。堂の前にある「坊っちゃん列車」の展示と「子規と野球の碑」もあった。

 その後、駅から銀天街を抜け、河東碧梧桐の生誕地や愚陀佛庵(漱石と子規が共同生活をしたという2階家の離れ)がもともとあったという路地裏へ。空襲で焼けたということもあり、今は県庁裏手に再現されている。再現された庵の脇に掲げられた案内板に、二人の句が並び記されていた。

  愚陀佛は主人の名也冬籠 漱石

  桔梗活けて志ばらく暇の書斎哉 子規

 近くに、この日のメインである「坂の上の雲ミュージアム」へ。司馬遼太郎の小説の流れを、展示で追いつつ、秋山兄弟と子規の足跡が様々な形で味わえる。途中、壁面一杯に、新聞小説として掲載された時の全ての複製が貼り付けられていて壮観。明治維新に近代日本に新たな息吹をもたらした3人の生き様は、今まさに新世紀の社会の変化へ自己の立ち位置をも確認させてくれる。



 日本人というのは、明治以前には、「国民」であったことはなく、国家という観念をほとんど持つことなくすごしてきた。かれらは村落か藩かせいぜい分国の住民であったが、維新によってはじめてヨーロッパの概念における「国家」というひどくモダンなものをもったのである。(『坂の上の雲』第1巻「根岸」より)


 宿に戻って、待望の道後温泉本館で奮発して1200円の霊の湯へ。ゆったりと早朝からの旅の疲れが、休憩場で汗取りの浴衣を羽織り煎餅とお茶に癒される。漱石が使用したという「坊っちゃんの間」を最後に見学させてもらった。

 夜は大学の先輩家族と宴会。全員が文学や日本語への関心が高く、俳句の話題に花が咲く。この若さで俳句の道に進んだご長女の繊細かつ現代的な言語感覚が印象的であった。地元の酒や魚介類をたくさんいただき、大満足。最後はひれ酒に火を灯して仕上げ。だいぶ気分上場で、道後のほろ酔いは最高な時間であった。

 先輩の長女とTwitterアドレスを確認しあい、寝る前に感謝のつぶやき。なぜか言語感覚に変化がきたし、文体や語彙に敏感になる。俳句という17文字の短詩型にこだわった人との交流が140字の世界に、新たな感覚を運んでくる。

 かくして子規と俳句による新たな言語維新の一日。
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