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冬季五輪競技の「一刹那」

2010-02-17

16日(火)人生において、ある出来事が後になってみると大きな分水嶺になっている場合がある。たいてい、その時、その場では意識されないが、時間が経ってから悟ることが多い。その為に、人は「後悔」という語彙を持つ。いかにしても動かせない過去を、憎み苦しむが、それを克服してまた前に歩み出す。同じ「後悔」ならば、一歩踏み出した前向きな「後悔」でありたく、後ろ向きに立ち止まったことで「後悔」の念を抱きたくはない。

 開幕以来、冬季五輪競技に対して、何らかの形で情報を得ているが、特に映像を見ていると、考えさせられる事も多い。なぜなら、人間が意識すらできないほどの微細な一瞬を、超スロー映像として再現してくれるからであろう。たぶん、競技者本人の意識の中にすらない一瞬が、映像としてリアルに再現されるのであるが、その一コマこそ、競技の結果を左右している場合が多いのだ。

 冬季競技の場合、雪や氷が相手なので、自身でどれだけコントロールできるかが勝負の分かれ目であるように見える。それは、常に予想もしない反応を繰り返し、無情にも競技者が操りきれないと、転倒という目に見える形で、一瞬にして夢を奪う。一般人ならば、積雪の際に、予想もしない転倒で怪我に至る場合もある。それほど、「滑る」ことへの対応というのは、人間の動きに矛盾することである。

 この日に実施されたスピードスケート男子競技では、日本の長島圭一郎が銀メダル、加藤条治が銅メダルと健闘を見せた。長島の2回滑走の合計タイムが1分9秒98に対して加藤が1分10秒01だから、ほんの0.03秒の差である。素人目には、スケート靴の刃が、一瞬でも流れれば大きな後退となるように見える。この五輪での一刹那の為に、妥協なき闘いを選手たちは繰り返す。果たして、自己ベストタイムとのわずかな差を本人たちは認識できているのであろうか?どの部分をどのように後悔すればいいのだろうか、その「後悔」の術すら、素人には想像もできない。

 
先月来、ジムで新しいスタジオプログラムに挑戦していることは、以前にも紹介した。それはBodyStepである。目の前に置いた踏み台を使用し、様々なステップを繰り返し、有酸素運動効果を高めるプログラムである。今週の月曜日にも3回目の参加を果たしたが、どうも複合的な動きになると、付いて行けなくなる場面がある。終了後に、懇意にしているインストラクターの方が、分からない部分は聞いてください。と言ってくれた。しかし、同時に「頭で考えているとなかなか動きが連動しないが、身体が自然に動くようになれば、慣れたと言うことです。」という趣旨のことをアドバイスしてくれた。確かに、自身の運動経験でも、こうしてからこうするなどと、頭で考えているうちは、柔軟でしなやかな動きにならない。野球であれば、ボールに対して身体がどう反応するかは、ほぼ理屈の領域ではない。

しかし、その身体性を、今一度紐解き、解体していく過程に、人間の進化が垣間見えてくるのだ。特に科学技術の進歩が著しい昨今、この身体性が詳細に分析されるようになり、理論でコントロールしようとする動きも盛んだ。これこそ、人間だからこそできる、無意識を意識化する行為なのではないだろうか。五感では知覚できなかった百分の一秒を、人間は高度な文明で解き明かそうとしている。裏を返せば、その高度な解析を要求するほどの神秘が、無意識の身体性を帯びて人間の中に眠っているのだ。

 このような、身体性の分析を人間の証明として、具現化して見せてくれるのが冬季五輪競技でもある。元来、「滑る」という予想もしない動きを、何とか制御しようとしてきた、人間による抵抗という名の進化。一刹那により明確な順位付けが為されていく非情さこそ、我々が人生を生きていることの縮図なのかもしれない。

 ゆえに、人生の「一刹那」において、仕事も遊びも勉強も、「後悔」のなきよう、常に一歩踏み出しておく勇気が望まれるのではないだろうか。冬季五輪競技には、そんな「刹那」を意識させてくれるところに、観る側として大きな存在意義を感じるのである。
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