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誰でもできる「つぶやき」報道

2010-02-28

27日(土)2月も残すところあと2日。積極的に行動して充実させようと決意して過ごし、まあその目標は達成された。しかし、やはり早く過ぎ去っていく印象は残る。早くもこの週末を越えれば3月となる。冬季五輪による巷間の喧噪がなおさら時間を加速させたような気もする。

  半日の仕事を終えて帰宅。すぐにジムに向かいボディパンプのクラスに飛び込む。四国旅行などがありスタジオプログラム参加の頻度が落ちていた。通常では出たことのないインストラクターのクラスに参加。やはり相性というか感覚的な好みがあり、行うトレーニングは同じでもお気に入りで参加するプログラムのインストラクターとは勝手が違った。だが、時にこのような変化があってこそ、何がお気に入りなのかが見えてくるというものである。

  帰宅するとTwitter上でチリでのマグニチュード8.8(この時は8.8とCNNが報じていた。のち8.6に訂正されたもよう)の地震が話題になっていた。世界を駆けめぐるつぶやきを展開している方々は、早速CNNを観ているという。こちらも同調してTVのスイッチを入れた。未だ被害の全貌は明らかになるはずもない時点だが、ビルのガラスが路上に散乱したり、建物の破壊の映像が流されている。CNNのカメラマンやレポーターは全世界に配置され、いかに即時的な報道をするべく待機しているようにも感じられる。同時刻にNHK総合にチャンネルを振ると、時代劇をやっていたから、やはり世界のニュースに対する意識は、CNNが高く、またTwitterで世界と繋がるという発想の方々とのやりとりは、いち早く世界に目を向けることになる。

  CNNの報道でもTwitterで集められた情報を画面に流し、現地情報や世界の声を拾っている。もはや、Twitterが使用できれば全ての人が身近な話題を世界に報道できる社会なのだ。現にTwitterを私に勧めてくれた方のコメントが「CNNで読み上げられた。びっくり」と深夜になってつぶやかれていた。これぞ世界と繋がることだと実感を深める出来事だった。

 冬季五輪と、最後に来てチリの大地震など、様々に世界が動き2月もあと1日となった。
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「無心の境地」で跳ぶ・舞うに過熱

2010-02-27
26日(金)この日、日本では多くの場所で冬季五輪フィギュアスケート女子が話題を独占していた。毎回そうだが、五輪に対しての過熱度は世界標準で見ても高い国民ではないかと思う。しかも日本人選手が出場し上位の成績が有力な競技に限定して。五輪開催中に海外に滞在していた経験があるが、TV・新聞などのマスコミがここまで過熱した報道をするのは、やはり日本に特徴的なのではないかと思っていた。

  一昨日の小欄でも書いたように、この日の見所は韓国・キム・ヨナと日本・浅田真央の一騎打ち。昼過ぎは巷のあちこちで、また様々な職場で興味の目が注がれていたことだろう。小生は、自宅研修をいいことに、自宅の大画面を独占し、この対決を見ることができた。

  順番からいくと、浅田の前にキム・ヨナの演技。観ているとその無心の世界に自然と引き込まれるよう。そして演技を終了した直後に、自らの完璧さに溢れ出る涙。もはや近寄りがたい崇高さを備えた19歳は、そのコメントの中で「結果は神様が決めるものだ」という趣旨のことを発言したという。それはまさに「無心の境地」を代弁したもの。あの集中度の高さの秘密は、こうした精神の根底に支えられていたのだと納得した。その結果の世界最高点到達。

  その次の浅田の演技。果敢にトリプルアクセルを2回敢行し成功させたが、後半でスケートのエッジが氷に取られてジャンプが不十分な印象。全体としてまとめたといえるのだろうが、大逆転を果たしたという結果にはならなかった。しかし、後半の不運がなかったとしても、たぶんこの日のキム・ヨナには及ばなかったのではないかと思われる。しかし、夜のTV番組で報道されていたが、浅田は徹底した栄養管理と体重管理を施してきたという。その中で「(体重が)500g違うとトリプルアクセルの負担が違う」ということを発言していた。まさにミリ単位の勝負が行われていたのだと実感した。しかし、幼さの残る表情を、無理に怖いように仕立てて舞うのには、少々違和感があった気もする。安藤美姫のクレオパトラの方が、個性的にはまっているようにも感じられた。競技の基本的構成を浅田に適合したものにしていくのも、今後の課題ではないか。つまりコーチの問題だろう。

  こうした大まかな論評は、既に世間に氾濫するほど出回っているだろう。この日の夕方から髪カットに床屋に出掛けたが、やはりこうした話題が独占。各座席に個々に備えられたTVモニターに流される番組も、改めて何度も2人の競演を映し出していた。そして殆どの客がスタッフと、スケートの話題。他の客の弁によると、昼時にTVを備えた喫茶店は、立ち見まで出ていたという。「なんならうちの床屋でも立ち見でいいのになあ」と友人である店長の弁。床屋でスポーツ中継の立ち見というのは、聞いたことがない。まあ小さな巷間においても、国民の多くがスケートに注目していたという縮図が覗えた。

  しかし、もはやこうした採点競技は、点数や順位は度外視するべきではないかとも思う。個々がそのベストな妙技を個性的に魅せることが、こうした競技の焦点ではないか。そうした意味で、「無心の境地」であったキムが自然に結果的に女王の座に就いたのは、必然であるだろう。

  五輪も終盤。こうした日本での過熱の背後では、カーリングの準決勝で針の穴を通すような神経戦が展開されていたり、エアリアルで4回転もの空中での妙技が大胆に行われていたりもするのだ。

  報道の過熱ぶりに触れつつ、自らもその話題に飲み込まれた。19歳の氷上のライバル関係が、新たな日韓関係への橋渡しにでもなれば、尚更嬉しい過熱ぶりと言うことにもなるのだろう。
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「アリス」チケットが取り持つ旧交

2010-02-26

25日(木)今週の月曜日になって友人から電話があり、次週28日に開催の東京ドーム・「アリス」ライブのチケットが知人に依頼していたら重複して取れたという。しかもアリーナ席。こちらは主催者先行予約で早々に確保しておいたのだが、アリーナ前席を予想していたら、2階席が送られてきて疑問と不満を感じていた。それを友人に話しておいたので、このような電話をもらうことにもなった。

  友人が譲るというアリーナ席は2枚。そして一人で興じようと思っていた席が1枚。結局自分の分を含めて3枚のチケットを手元におくことになった。言い換えると、一緒にライブを観てくれる人と1人でも興じてくれる人の2種類の人を探さねばならない結果となった。さてどうしよう?

  まず思いついたのが、高校時代の部活顧問の先生。いつも学校に通勤してくる最新型スポーツタイプの車で、アリスの音楽を掛けていたことを思い出していたからだ。しかもアリスの3人が60歳になったというのだが、その同年代。卒業後も、時ある毎に温かい関係を保っていたので、久しぶりに会ってみたかったこともある。早速、母校に電話すると授業と会議で手が離せないというので、こちらの携帯番号を伝言していただいた。夜になって先生から電話をもらったが、日曜日は校務があってライブには行けないという。しかし、久しぶりに電話で話せたことで、近況も報告でき、また部活が高校総体に出場したことも知った。そして先生があと2年で定年であるということもわかり、部活顧問としてのあと2年間は、同級生たちと部活の支援をしようかなどと、思いを馳せる結果となった。

  だが未だ席は埋まらない。

  次は大学の後輩に電話、すると日曜日にはテニスがあるという。しかし過去に、アリスの解散ライブ(後楽園球場・1981年)を観て感激し、その後アリスを聴いていたという。なので、テニス仲間とスケジュール調整を図るので少し待ってくれということに。しばらくして電話があり、どうやら「テニス」より「アリス」を取ったらしい。まずはアリーナ席2枚の人員は決まった。

  残るは2階席1枚。これは音楽が純粋に好きな人でなければと思い検索開始。まずは、職場の同僚でいつもライブ通いをしている男に声を掛けてみた。すると洋楽のライブにしか行かないとかいう冷めた答え。おまけに「早く誰か見つけないともったいないね」とか付け加えられた。だからお前に声を掛けているんだろうが、と思ったが、やはり単なる職場の同僚でしかない関係に腹を立ててもどうしようもない。アリーナ席を確保した友人に言わせれば、チケットショップか当日の会場前で何とか売れないかとも言うが、「チケットぴあ」で確保した券面には自分の名前がプリントされていることも気になり、金が戻ることよりもアリスのライブを興じる人にこの席に座ってもらいたいという気持ちが増幅した。

  そこで、ギターを演奏し曲を書いて、ライブや路上を繰り返しているバンド仲間にメール。即座に「すっごく行きたい!」という返信。しかし「金がないので断念します」という言葉も付加されていた。しかし、数分後には「やはり一生後悔するので行きます!」と返信。これだけの情熱を音楽に持った男にこのライブを見せずにはいられない。そこで「金は出世払い(笑)アリスから何かをつかんで欲しい」と返信し、チケットを進呈することにした。もはや金の問題ではない。ライブはその名のごとく何かが生きているのだ。音楽という「生命」がそこにあるということを、このギター好きの仲間に教わった。

  チケットを追加で確保してくれた友人とも付き合いは長いが、それによって3人の人と旧交が温められた。それがあることによって、また日曜日のライブへの気持ちが急速に高まった。昨秋の武道館で久しぶりに復活したアリスを観て、精神的に大きく助けられたことは、小欄にも記してある。ここで改めて1981年以来というアリスの後楽園球場(=東京ドーム)ライブ。球場施設は変遷したが、アリスと我々ファンがそこにいるのは同じ。それにしても、またまた「アラ還」世代が会場を席巻することになるのか。

  ちなみに、私自身はアリス世代からすると若手というか子供同然の世代。などと言い訳めいたことをいいつつ、アリスを基軸に自身の人間関係を振り返り、人生の定点観測をしたような気分になった。
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アジアの競演―「妖艶」対「堅実」

2010-02-25

24日(水)バンクーバー冬季五輪も終盤戦。この日はフィギュアスケート女子のショートプログラムが行われた。かつて野球の日本シリーズが昼間に行われていた頃、学校の休み時間にその途中経過を先生に尋ねたり、はてまた学校にラジオを持ち込んで盗み聴きしたり。職場にあっては、TVが暗黙の中で解禁になり、仕事の合間に同僚とにわか評論を対峙させたりと、それはそれでコミュニケーションの活性化に役立っていた気もする。今や時差の為せる技で、このような時にしか昼間のスポーツ観戦機会はない。

  浅田真央とキム・ヨナの2人の対決が、注目を集めたこの五輪であったが、それ以外にも悲喜交々のドラマがあったようだ。カナダのジョアンニ・ロシェットは、応援に駆け付けようと東海岸を出発した母が急逝。その悲しみを背負いながら、演技ではほぼ自分の力を出し切った。その精神力やアスリートとして高く評価すべきであると感じる。肉親の死という大きな心の痛手に、自分が立ち向かいつつ通常の力を出し切るというのは、並大抵なことではないと想像する。演技終了直後に見せた大粒の涙を、母は天国から優しい微笑みで見つめたことだろう。彼女の今後の活躍にも大いに期待したい。

  安藤美姫は4位。ジャンプのパワーを前面に出した前回のトリノ五輪に比べると、その変身ぶりは目を引くものがある。コーチを変えたことが、そのスタイルの変更に直結しているようだが、現在の採点基準からいくと、妥当な演技内容になっていると評価できそうだ。色白で売り込むことが多い選手の中で、敢えて浅黒く肌を焼いて五輪に臨んだことも、話題を呼んでいた。

  浅田真央はほぼベストな演技で、今季の自己最高点。女子フィギュア史上初の、3回転半の成功が認定されたという。一時期はスランプに陥り、ジャンプの成功率も低かったのだが、この五輪に合わせてベストに調整してきたことが覗える。少女時代の面影を残しつつも、19歳の成長した演技は、「堅実」さと秘めたる跳躍力に支えられ、バンクーバーの氷上に舞ったのである。

  一方、韓国のキム・ヨナ。浅田がベストな演技を終えた後に、リンク脇で控えている表情をカメラが捉えたが、チラッと見せる不敵な笑み。その笑顔の奥に秘めた闘志と自信は、その直後の演技により確信に変わる。ジャンプの回転数こそ浅田より少ないのかもしれないが、その回転の艶やかさや、着氷直後に見せる肢体とその表情は「妖艶」ということばで、どれほど言い得ているだろうか。さらには、007をモチーフにした、そのダンス的な要素は、フィギュアという競技の性質を別なカテゴリーに越境させるような魅力がある。まさにパワーのみならず、芸術性を極めた演技といってよいだろう。

  採点競技の規準は素人である我々にとって、完全には理解しかねるが、総合力でキムが1位となったのは、十分に肯ける結果であろう。しかし、この五輪のフィギュア女子は、アジア人の活躍が目立つ。従来、ロシアやアメリカ選手の活躍が目立った時期もあったが、アジアの力量が「妖艶」対「堅実」という図式で頂点を競うのは、同朋として心強い。同時にスピードスケートなどでの韓国の躍進は、野球の実力が伯仲している事とも併せ考えて、日本のライバルとして手強い存在となっていると感じざるを得ない。単に対抗意識が表面化するのではなく、相互にスポーツを通して高いレベルで競い合い、その友好度を深めた交流の契機になれば何よりである。

  フリーの演技は、金曜日の午前から昼にかけて行われる。また学校や職場で、勉強や仕事のみではないというべく、巷間の人間的なコミュニケーションを活性化させるアジアの競演が展開されるのである。
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やがてかなしき旅の空

2010-02-24

23日(火)旅から現実の生活に戻る。それは旅が楽しく充実していればいるほど、その断層は大きく、1日ぐらいは頭を切り換える時間が必要だ。四国で得たものは何か?毎日、小欄に書いていた内容がそれなのであろうが、そう簡単に具体的な形で眼前に現れるものではない。

 松尾芭蕉に有名な次の一句がある。

  おもしろうてやがてかなしき鵜舟哉

  鵜舟に興じた後に、直面した現実やその興じた事実を振り返り、空虚感が蔓延する芭蕉の感情が読み取れる。鵜の本性を利用した人間エゴの醜さに気付いたという点も、「かなしき」の感情に含まれるようにも読める。「祭りごと」や「旅の空」は、やはり日常性からの解放。そこから日常に回帰し拘束されるときには、精神的な峰を越えなければならないということか。

  職場の中での自分。社会の中での自分。家族の中での自分。様々な小社会の中にいたとしても、最終的には一つの大きな世界の中で、自分のしたいことをいかに実行するか。新たな世界観を身に纏いながら、前進するにはこの旅の後の行動に懸かっている。

  芭蕉をはじめ、ことばを操り人生を考えた昔日の詩人たちは、生きるとは「旅」であるという趣旨のことを述べてきた。「旅」の後の空虚感は、変えられようのない現実であるが、「今この時」そのものが「旅」であると解すれば、「虚しく」とばかり言ってもいられない。まさにあとは「実にして帰る」ことを永遠の旅人として受け止めていけばいい。

 次第に春の暖かさを感じるこの日。気付けば2月もあと僅かになっていた。
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四国行脚?―世は無常ゆえに進むべし

2010-02-23

22日(月)平成22年2月22日22時22分と「2」を並べ立てて、Twitterでその時間の状況をつぶやく人もいた。時は常に流れゆき、留まるところを知らないが、人間が作り出した数字という「記号の彩」が、人の注意を引き、時間が止まったかのような錯覚を起こさせる場合がある。「平成」なので日本限定ではあるが、こうした時間意識を中世の時代には「無常観」と捉え、様々な言葉や文学となって世に残されているのである。

 四国行脚も最終日を迎えた。3日間の疲れが身体に感じられるのは、巡り歩いてきた証拠。それでも文明的な交通機関を使ってのことだから、昔日の旅はいかなるものか、更に身体への負担が大きかったのだろう。この日は、ややゆっくり朝を過ごし。宿泊しているホテルの最上階にある天然温泉に浸かり目を覚ます。月曜日の朝に温泉という何とも贅沢な朝だが、露天風呂に行くと徳島駅前で行われている、政治演説の拡声器の声が、月曜日たることを示していた。

 ホテルの1階にはコーヒーのチェーン店があるので、早速調達してからPCに向かう。旅の最中でも、小欄の更新を怠ることなく進めてきた。この日は、前日の内容が重かったので、けっこうな時間を要した。しかし、この表現による反芻こそ、旅の記憶をより確実なものにして、無常なる時間を留める人間にだけ許された行為なのかもしれない。午前中は11時のチェックアウトまで、ゆったりと部屋で過ごす。

11時31分の徳島発高松行き「特急うずしお12号」に乗車。「特急」ではあるがディーゼル車両で2両編成。発進時こそ緩慢であるが、いざ走り出すと結構な速度で走る。しかも、曲線の多い線路にはかなりのスピードが感じられる。最新の新幹線などに乗り慣れていると、この列車の揺れは激しく感じられ、幼少時に乗ったオレンジと濃緑に塗装された急行電車を思い出させる。高松までの所要時間は1時間であるが、読書には適さない揺れだ。

 高松に到着し、目的地へのバス時間まで暫くあるので駅内でうどんを1杯。その後バスで「高松平家物語歴史館」へ向かう。港の工場や倉庫が多い地域のバス停で下車。運転手のおじさんが、反対側の停留所で帰りのバス時間を確認しておくように、また近所のうどん屋がおししいことを勧めてくれた。

 「平家物語歴史館」は、以前から『平家物語』の解説が為される書物に、写真が掲載されていたので知っていた。蝋人形による平家物語における主要場面の再現である。それに四国出身の著名人の蝋人形展示が加わる。1Fには政治家や文学者の著名人、正岡子規や秋山真之、坂本龍馬に吉田茂、作家の菊池寛などなど。しかし、蝋人形というのは、顔を見つめて目を合わせると、どうして動き出しそうな錯覚に陥るのだろう。人間としての形というもの自体が、こころ宿るような構造をしているというのか?

 2Fは、『平家物語』の名場面。この近所で展開した壮絶な「屋島の合戦」が、このような歴史館がある理由だ。屋島以前の「一ノ谷の合戦」が階段の途中から1・2F吹き抜けで展示されている。「平家にあらずんば人にあらず」とまで言われ、栄華を極めた「平家」が、「源氏」側の追討に追い立てられ都落ちし瀬戸内海を転戦し壇ノ浦で滅ぶ。この急転直下なあり様が、「世の無常」として描かれる。人間社会に永遠などあり得ず、常に死滅に向かって歩みを進めるしかない。こうした中世武人の生き様が、様々な光景から蘇ってきた。

 帰りのバスまで時間があるので、バスの運転手さんに教わったうどん屋へ。そして高松駅へ戻り、高松空港へのバスへ乗り換え。四国の旅は終着点を迎えた。羽田まではわずか1時間のフライト。海外と違い旅を振り返る余裕もない。しかし、この四国行脚の4日間は、自分にとって大きな意味があり、前進するための新たな原動力となったのは確かである。

 全体にゆったりとした時間が流れていたように感じた四国。松山での明治維新や俳句による街造り。空海生誕地と四国八十八カ所の入り口。そして瀬戸内に展開した世の無常。歴史から今を学び、自分が生きるということは、今の立ち位置とは、と自問自答を繰り返した旅。そして何よりも、そこで生活している知人たちのことばに、今の自分が映し出された。2010年四国行脚が自分史の中で、大きな意味を刻むような予感がある。
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四国行脚?―空海生誕地と一番札所

2010-02-22

21日(日)松山での2日間は、明治期の歴史的人物の事跡に触れ、ともするとせいぜい20年ぐらい前までは、その人物と直接関わった人がいたという話を何度となく聞いた。例えば、漱石に松山中学で習ったとか、種田山頭火の膝に抱っこされたとかいう老人の存在だ。そういう老人を知っている人がいる。「降る雪や明治は遠くなりにけり」という中村草田男(松山出身)の句があるが、遠いといえども、近現代という意味では、どこか現在と繋がっているのではないかという思いがあった。

 早朝から「坊っちゃんエクスプレス」という高速バスに乗り込み、松山を発つ。馴染み深くなった市電が、またゆったりとした動きでカーブを曲がる。バスの高い車窓から、この文学の街との再会を約束する。

 バスは高速道路に入り約1時間40分程度、瀬戸内海沿岸を走り善通寺ICで下車。そこは愛媛側から行くと観音寺に次いで香川の入り口といった場所に位置する。これぞまさしく弘法大師・空海の生誕地である。高速バス停は町外れにあり、降りると左右不覚。ウォーキング中のおじさんに、善通寺駅の場所を聞く。けっこうな距離があったが、健脚こそ旅好きの証明。お遍路さん巡礼の方々に比べれば、たいした距離ではない。駅に着いて荷物をロッカーに預けようとするが、小さいタイプのロッカーしかなく、どう傾けても入らない。ガサガサと音を立てていると、近くのおばさんが荷物を分ければと提案。分けたところで、鞄の大枠自体がロッカーに入らないと説明。すると駅内コンビニ店員のお姉さんが、駅で400円払えば預かってくれると教えてくれた。荷物の大きさで100円増だが、荷物預かり所というのは昔懐かしい気もする。

 駅から更に1.5kmはあるだろうか、善通寺まで軽快に歩く。小高い山に囲まれ池の多い讃岐平野という、司馬遼太郎『空海の風景』に語られるような光景は、家も多く道路が区画整理されたせいか、違った印象である。それでもお寺の五重塔が見えてくると、空海生誕地という想いが、心の底からこみ上げてくる。山門を通り境内に入ると、左手に巨大な楠。樹齢によって空海の時代からここに存在するという立て札の解説。確かに太く立派ではあるが。人間存在としての繋がりが感じられた明治時代と違い、1200年の時をどのように溯ればいいのか。単に日本史の教科書に登場する、知識としての空海ではなく、その生誕地が歩んだ1200年はいかなる妄想も受け付けない長い時空であったと想いを馳せる。しかも、この21日は空海の月命日。このタイミングでこの土地は己を必然に迎えたのだ。

 本堂から御影堂を経て、裏手の駐車場まで一通りの参拝路を歩む。そこには西安にある弘法大師碑の縮小版もあった。そして小川の流れと小高い山。空海生誕の土地には、小さいながらも、起伏のある小宇宙が存在しているような印象を受ける。俗世の権威や名誉には意味を見出さず、超越した世界を模索した空海。その果てしない視野の彼方にある宇宙的な存在の中で、今や空海との接点を妄想するしかないのだ。俗世の名誉や利欲とはかけ離れた世界観に、讃岐平野の風が導くのだ。

 善通寺駅周辺にはうどん屋は見当たらず、あっても東京に進出した店舗のみ。むしろ興ざめで、讃岐にしかない店を探す。高松行きの列車までは時間があるので、一駅先の琴平まで移動。そこで携帯検索をかけると、結構な数の店が見つかった。駅から温泉街へ向かって最初のT字路角にある「将八」に入る。ショーウインドウで気になった「元気くん」という名の、うどんに生卵を割りのせて、つけ汁で食べるシンプルなものを注文。こしが強くさすがは讃岐うどんであると納得。店のお兄さんがなかなか親切なので、3000円以上送料無料の壁書きにも惹かれ、両親に生うどんを配送。その後、1時間に1本の高松行に乗る為に、慌てて駅に引き返した。

 高松までは小1時間。到着して駅前で徳島の先輩に電話。なかなか忙しいらしく伝言を依頼。その上で、徳島行の各駅停車に乗り込む。ディーゼル列車の独特な発進時のタイムラグを、むしろ楽しみながら、『空海の風景』を読みつつ徳島へ近づく。乗車中に先輩から携帯に電話。通話できないのでしばらくは耐える。板東という無人駅に到着。そこは四国八十八箇所の第一番札所・霊山寺のあるところだ。昔の街道を思わせる緩やかに曲がった道を歩くと、近所の子供たちが自作展覧会の呼び込みに立ち並んでいた。霊山寺はこっちでいいのかと問いかけると、道に示された緑の線を辿ればいいことを教えてもらう。気がつかず前ばかり見て歩いていた。ふと足元を見る余裕が必要だと、子供たちに学ぶ。これまた人生も同じ。

 霊山寺の山門に到着。一番札所だけあって立派な仏閣である。そこで15年ぶりぐらいになるであろうか、先輩に再会した。事前に手紙なりで連絡を取っておけばよかったのだが、Emailに慣れたせいもあって出さずじまい。数日前から電話連絡をしていたが、なかなかタイミングが合わず、当日の連絡となってしまった。しかし、そこはさすがお遍路さんを「接待」するという精神にあふれた土地柄。歓迎の笑顔でありがたくも迎えてくれた。しばし寺内で近況報告などなど。社会的に15年前とは変化した自分を鏡に映すように、先輩の口から様々な言葉が。その中心的話題は、社会的な地位を得ることより、自らの個性ややりたいことを、激しく求めた生き方を追求せよということだった。少なくとも大学時代には、そうした活力が見え地位にこだわる人間ではなかったと説かれた。今回の四国行脚は、言葉にすればこのような自分を見定めるためでもあった。そんな趣旨を説明したわけではないのに、こうした話を説いてくれた先輩。持つべきものは親しき友であるという想いと同時に、空海の言葉に接するような想いであった。果てしなき宇宙で、自分の存在をどう活かすのかと。

 接待は予想以上の歓待となり、徳島駅方面に出向く。駅前のサンルートに宿を取ってもらい、まずは11Fにある天然温泉。赤味がかった鉄分を含む温泉が、身体をピリピリと刺激する。その後、市内の串揚げ店。カウンターで乾杯。どうやら「ストップです」と言うまでは串揚げが順次出続けるという。知らなかったのでかなりの種類を食べたが、どれも新鮮で美味しい素材であった。帰りがけにコーヒーを飲み、徳島の街での宵のうち。改めて温泉に浸かり夜空の半月が優しげに語り掛けてくれていた。

 真にお遍路さんを志している方からすれば、「行脚」という小欄のタイトル自体が、甘えたものであると解せるかもしれないが、自己の小宇宙と向き合うという意味では、十分にその内容を果たしたものと自惚れる夜であった。

宗教を超えた弘法大師・空海の偉大な文化的足跡。その原点を育んだ風土で、ようやく本来の自己に巡り逢えた。「虚往実帰」の一実践を成して、ブログ更新150回を超えた。
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四国行脚?ーことばと文学の街・松山

2010-02-21

20日(土)早朝から道後温泉本館へ。昨夜よりグレードを下げ、休憩室の使用なしで神の湯へ。湯が湧き出る中央の釜には万葉集の山部赤人の和歌が万葉仮名で刻み込まれている。温泉としては無色透明のその泉質は、源泉でも43度とか。ほぼ水を混ぜる必要はないという。しかし、この本館の雰囲気は積年の趣深しである。

 近所の喫茶店でモーニングを食し、9時半には先輩がホテルに迎えに来てくれた。今日の松山巡りの出発である。まず道後温泉付近にある仏閣・宝厳寺へ。山門に向かう道の両側は、以前には遊郭があったという。これは漱石の『坊っちゃん』にも登場する。寺と遊郭の同居という、矛盾か逆説か、その取り合わせには漱石も興味を持ったのだろう。次にすぐそばの、伊佐爾波神社へ。「和算」という江戸時代からある算学の解説が漢文で書かれているのが面白い。神社へ登る石段は、小さな岩を敷き詰めた急傾斜段々。俳句大学選手権というイベントの決勝は、この段を駆け上がって一句を詠むという。

 次にじっくり見るべき子規記念博物館へ。伊予国の古代の歴史において和歌がどのように関わって来た経緯からの展示。次第に子規の様々な資料展示へ。俳句・短歌はもちろん、友人の顔や日常のたわいもないことまで、分類し題目をつけたりするのが、子規の性癖であったということがわかる。現代であれば、理系的な頭脳でエクセルを駆使して様々なデータ解析を行っていたのではないか。また、考えられないほどの大食漢。病床にあっても3〜4杯の飯か粥を平気で完食。刺身や鰻などの高級料理、そして果物は梨なら4個ほど、ミカンなら10個以上を1回で平らげていたという。それが生きる力になっていたというのだから、繊細な俳句実作の感覚との乖離さえ感じる。しかし、人間としてまさに生きるということは何か、という問いを俳句と大食にて実現していたのであろう。夭折を自ら悟っていた子規ならではの完全燃焼がここにあった。

 その後、市電に乗って道後を離れる。大街道へ向かい「坊っちゃんカフェ」へ。月に1回ぐらいは漱石作品の読書会があるという。そこで名物のステーキの昼食。和風な味と肉の柔らかみが絶妙であった。付近からタクシーを拾い、伊丹十三記念館へ。13もの才能を持った男。実に映画監督から俳優・イラストレーター・楽器演奏者に料理人まで様々な才能が、それなりの高いレベルで1人の男の中に同居していたというのは驚き。CM作りやドキュメントのこだわりのあるセンスは、改めて見ると実に繊細な構造で製作されているのが理解できる。

 タクシーで市内に引き返し、種田山頭火の編んだ一草庵へ。山頭火というと自由律俳句で有名だが、四国遍路という目的や才気ある俳人・野村朱鱗洞に会うために四国へ来たという。

 ひょいと四国へ晴れきってゐる
 鉄鉢の中への霰
 濁れる水のながれつつ澄む

 こうした自由律俳句の魅力は、こうした草庵生活と放浪行脚にあったのだと改めて思いを馳せる。定型詩たる俳句であるからこそ自由律が生きるという逆説の放浪俳人である。
庵の近くに護国神社があり、その境内には有名な額田王の「にきたづに船乗りせむと月待てば潮もかなひぬ今は漕ぎいでな」の碑があった。古代にはこの辺りまでが海であったということらしいが、諸説紛々として解決を見ないともいう。


 昨日行った漱石・子規が同居したという愚陀佛庵とこれで2庵を巡る。あとは江戸時代俳人の栗田樗洞の庵。やはり三庵巡りを果たすべく市電に乗り込む。その前に愛媛大学に少々寄って、キャンパス内を見学。長閑な地方国立大学の落ち着いた雰囲気は、東京の大学にない魅力もある。

 三庵巡りも制覇して、ここまで文学的な史跡をかなりのスピードで周遊した。携帯でのつぶやきもできないほどのペース。まあこれはこれで健脚は先輩と同様なので納得の観光ペースではある。未だ陽が高いことを確認して伊予鉄道で高浜まで。松山の北西部にある島への連絡線が出航する桟橋がある。その後、2駅手前に戻り「三津の渡し」を探す。狭い路地を抜けるとおじさんが船をスタンバイさせて待機していた。わずかに40m50mかそこらであるが、渡し舟で渡るのは粋なものである。おじさんに尋ねると料金は無料であるという。生活に密着した交通なので市が負担しているらしい。

 そして三津の船着場跡へ。子規も漱石もこの桟橋から小舟で沖に停泊する船に乗り込み江戸からの行き来で使用していたという。そういえば「坂の上の雲」には秋山兄弟や子規が小舟に乗って旅立つ場面が描かれていたっけ。そのあたりは広島風お好み焼きが名物だというので、店を探す。路地裏に小さな店もあり、また赤い「三津のお好み焼き」ののぼりを出している店を何軒か発見。ある店に入ると、カウンターでは昼から酒に興じた長靴姿の漁師さんたちが、もう既にかなり出来上がっている。まあこの雰囲気も漁港ならでは。おそばとうどんが挟まるお好み焼きを半分づつ注文し、先輩と2人で半々づつ食す。

 かくして松山の奥深くも趣ある文学散策の終点は松山市駅。市電で自宅に向かう先輩に礼を述べて、またの機会に松山を訪問することを約束し、この夜は別れた。駅周辺で、松山土産の「坊っちゃん団子」や伊丹十三がCMをしていた「一六タルト」を購入して宿のホテルへ。

 この地方都市の奥深い歴史と、文学とことばを大切にする自治体や市民の生活には、日本が失いかけている、柔らかな心の居場所があるような気がした。幕末維新の歴史に輝いた群像たちの足跡を追いかけることは、閉塞感という壁にぶち当たる、現代日本への過去からの贈り物となるはずだ。こうした魅力に満ちた松山であった。
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四国行脚?ー正岡子規と俳句言語維新

2010-02-20

19日(金)早朝の便で羽田を発つ。朝が早いという辛さと、現地に早く入り時間を有効に使うことを天秤に掛けて後者を選択する。羽田までの電車やモノレールも未だ混雑しておらずに快適だ。車窓から新しい国際線ターミナルの整備具合が目に飛び込んでくる。飛行機が見えてくると自ずと旅への高揚感が。羽田は現実から自己へ回帰する転換点になる。

 羽田を飛び立つと、すぐに眼下に広がる東京湾。わずか数分ぐらいか、横浜のみなとみらい地区が見える。さらにその数分後には江ノ島を望む湘南海岸。まるであり得ない近距離の衛星写真地図を俯瞰。さらには、白く雪が多い場所が目に入る。地形的な高度が感じられないでいると、ジグザグに刻まれた登山道路の跡。これが富士山であると、直後に気づいた。

 機内では『正岡子規』(ちくま日本文学)の文庫本を読む。その非凡かつ機知に富んだ文章センスに改めて脱帽。楽天家で愉快な人物であったという司馬遼太郎の描く子規像が、果たしてその通りなのか思いを馳せてみたいとも思う。改めて窓の外を見ると、穏やで波静かな海面、瀬戸内海だ。追い風の影響もあり、大きく海側から旋回し、機体はいよいよ伊予国松山に着陸する。

 到着便に合わせた道後温泉行のバスに乗車。松山市中心部を抜けて、思い描いていたような地図が、現実の道路となって眼前に展開する。市電の緩やかな動き、城下町を基礎にした区画の街並。温かく穏やかな街を車窓に、道後温泉に到着した。

 中心地には『坊っちゃん』電車やからくり時計。案内板を見て道後温泉本館への商店街を進む。宿は本館前の西洋風ホテル、宿から本館へ浴衣で出向けるという利点と料金の安さで選択。地元に居住の大学の先輩も推奨していた。まずはフロントで予約の確認をし、荷物を預けて、松山市内の散策に出掛けた。

 市電の1日券を購入。該当の日付をスクラッチで削る方式。「間違って削らないようお気をつけください」という運転手さんの言葉。街の穏やかさは人々の優しさへと姿を変える。まずは、松山市駅へ。子規の生誕の地は、駅の前の路上にある碑に示される。駅で2日後の讃岐国善通寺への高速バスを予約。その後、駅の南側にある子規堂へ。お寺の境内に、子規が17歳まで過ごしたとされる住居が再現されている。傍には子規の遺髪を供養する塔もある。堂内には複製が多いが、子規俳句の様々な墨蹟に漱石の草稿なども加わる展示が。堂の前にある「坊っちゃん列車」の展示と「子規と野球の碑」もあった。

 その後、駅から銀天街を抜け、河東碧梧桐の生誕地や愚陀佛庵(漱石と子規が共同生活をしたという2階家の離れ)がもともとあったという路地裏へ。空襲で焼けたということもあり、今は県庁裏手に再現されている。再現された庵の脇に掲げられた案内板に、二人の句が並び記されていた。

  愚陀佛は主人の名也冬籠 漱石

  桔梗活けて志ばらく暇の書斎哉 子規

 近くに、この日のメインである「坂の上の雲ミュージアム」へ。司馬遼太郎の小説の流れを、展示で追いつつ、秋山兄弟と子規の足跡が様々な形で味わえる。途中、壁面一杯に、新聞小説として掲載された時の全ての複製が貼り付けられていて壮観。明治維新に近代日本に新たな息吹をもたらした3人の生き様は、今まさに新世紀の社会の変化へ自己の立ち位置をも確認させてくれる。



 日本人というのは、明治以前には、「国民」であったことはなく、国家という観念をほとんど持つことなくすごしてきた。かれらは村落か藩かせいぜい分国の住民であったが、維新によってはじめてヨーロッパの概念における「国家」というひどくモダンなものをもったのである。(『坂の上の雲』第1巻「根岸」より)


 宿に戻って、待望の道後温泉本館で奮発して1200円の霊の湯へ。ゆったりと早朝からの旅の疲れが、休憩場で汗取りの浴衣を羽織り煎餅とお茶に癒される。漱石が使用したという「坊っちゃんの間」を最後に見学させてもらった。

 夜は大学の先輩家族と宴会。全員が文学や日本語への関心が高く、俳句の話題に花が咲く。この若さで俳句の道に進んだご長女の繊細かつ現代的な言語感覚が印象的であった。地元の酒や魚介類をたくさんいただき、大満足。最後はひれ酒に火を灯して仕上げ。だいぶ気分上場で、道後のほろ酔いは最高な時間であった。

 先輩の長女とTwitterアドレスを確認しあい、寝る前に感謝のつぶやき。なぜか言語感覚に変化がきたし、文体や語彙に敏感になる。俳句という17文字の短詩型にこだわった人との交流が140字の世界に、新たな感覚を運んでくる。

 かくして子規と俳句による新たな言語維新の一日。
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俳句というかたち

2010-02-19
18日(木)朝から雪模様の東京。さほど通勤通学の足に乱れはなかったが、それにしても、このような雪がちらつく回数が多いように感じる今日この頃。立春後の寒さというものは、更に春を待望させる要素となる。

 会議の連続や雑事で忙しく過ぎた一日。雑念を捨て、今まで小欄に書いてきた妄想をリアルに確かめる為にも、今の自分には四国への旅が必要だ。いよいよ、その出発が近づいた。

 昨日も触れたが、旅の入り口は伊予国松山。明治という時代に、日本的な短詩形文学である俳句・短歌を革新した正岡子規。その人物の生誕地を訪れることに大きな意義を感じる。

  犬が来て水のむ音の夜寒哉

 といった、何気ない写実表現に子規の俳句への魅力は増大する。

  糸瓜咲いて痰のつまりし仏かな

 などは絶筆三句の一句だが、教科書などでも馴染みが深い。


 また、子規に比べて最新の俳句とは?とふと考えた。

  浴衣着て浴衣を見る目ありにけり

  アイスキャンディー果て材木の味残る

 以上の2句は、宗左近俳句大賞を受賞した佐藤文香氏の句集『海藻標本』(ふらんす堂刊行)より。真新しい俳句。

 さて四国で何と出逢えるか?

 まことに小さな旅が開始期を迎えようとしている。
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