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「古典」は面白いか?

2010-01-13

12日(火)読書に適した時を「三余」といい、それは「冬・夜・雨」だと昨年10月頃の「天声人語」に教えられた。時代や人によって様々に感じ方の違いはあるだろうが、おおむね当たっている気がする。この日は、「雨」が「雪」の地方も多かったと思うが、この三条件が揃っていた日でもあった。

 「読書」とは、かけ離れた状態で文章を読まねばならない時がある。とりわけ大学などの入試問題として文章を「読まねばならない」場合は、異質な読み方を強要される。もちろん、その中に面白いと思える文章が皆無というわけではないが、「設問」を解くために「読む」ということは、やはり通常の「読書」とは異ならざるを得ない。

 とりわけ「古典」などの場合、更なる「解析」という意図を含んで、文法や単語レベルで文章を解体して読んでしまう場合が多いようだ。その結果、若者は「古典」を忌避し、その内容から何かを学ぶことにまで至らず、決して味わい深いものとは思わなくなってしまうのが現状のようである。果たして「なぜ古典を学ぶのだろうか?」

 「それを学ぶ価値を論理的に説明できないから学ぶのだ。」という趣旨のことを繰り返し述べているのは内田樹氏である。この逆説的とも言える「学習の意義」は、どこか的を射ているように思われる。特に長年、風雪に曝されながらも人口に膾炙してきたからこそ「古典」なのであり、それを学ぶ意義が最初から理解できているなどという若者がいたら、それはよほど天才か嘘つきであろう。ということになると、「読む価値を説明できない」のだから、必然的に面白いということにはならないのかもしれない。「古典」を「面白く」ということ自体が幻想で、その意味は学んだ後に、しかもだいぶ時間が経ってから悟るときが来るのかもしれない。

 それでも、寅年にちなんで小さな古典解釈に目を向けると、「面白い」と思える事にも出会う。

「人喰虎」と「人喰於虎」の違いはわかるだろうか?

 正解は、前者が「人虎を喰らふ」と読むのに対して後者が「人虎に喰らはる」と読み「受身」の意味が生じる。前者が「虎喰い人」なのに対して、後者は「人喰い虎」のことを表すという大きな違いがあるのだ。たった「於」という一字があるかないかで、漢文などはこれほど大きな意味の違いを生じる。

 ふと「古典をなぜ学ぶのか?」という題の原稿を依頼されて、このようなことも考えた。初雪が観測された東京。自身の「読書」もペースを上げて、まだまだ学ばなければならない分野は多い。
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