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世論は疑ってかかるべし

2010-01-31

30日(土)半ドンの仕事を終えて、午後は急いで文京区民センターへ。有田芳生さんが勧めていた『消えた警官―ドキュメント菅生事件』(講談社)出版記念シンポジウムに参加した。著者の坂上遼さんの講演に始まり、『ジャーナリズムの可能性』(岩波書店)の著者・原寿雄さん・TBSでラジオ報道に長く携わった田原茂行さん・司会は「日刊ゲンダイ」編集部長などを経験された二木啓孝さん。そこに有田さんが加わり、シンポジウムが展開された。

 大きなテーマとして提示されたのは、「権力犯罪」と「調査報道」ということ。記者クラブに依拠した「発表ジャーナリズム」は世論操作システムになっており、そこから出てくる世論は「疑ってかかるべし」と原さんの弁。その上で「調査報道」の重要性が説かれていた。また有田さんの弁には、「58年前の事件を題材にした書物がなぜ今出版されるのかに注目する」と。その上で「現在の問題に連なる歴史の記録」としての重要性を説いていた。

 一般人である我々が、「報道」を見る目は無知に等しい。表現として報じられた内容が、どのような経緯で、どのような情報をもとに、どのような立場で書かれているかということを意識して見ることをしない。最近は新聞記事にも、記者の名前が表示されているものが増えたが、その報道の責任はどこにあるのか?新聞とはいえ匿名性の中で表現される内容の信憑性やいかに?である。その「公正中立性」を担保できるものは何か?事件や社会問題を扱う際の「アジェンダセッティング」いわば、視点・意識をどこに置いて報道されているかということに敏感にならなくてはいけないはずだ。

 ノンフィクションの執筆過程は「人の話を繋いでいくことだ」という坂上さん。「発表しないことを書くのがジャーナリズムだ」という気概を述べた原さん。長年のジャーナリズム魂が、十分にその話の中に浮き出した内容であった。しかし、司会者の二木さん、もう少し有田さんの発言機会を設けてほしかった。後半は「年功序列」なのか?原さん・田原さんの話が殆どで、しかもやや冗長になってくる。ジャーナリストの「書く力」と「話す力」は異質であるということも体験できた。「小沢民主党幹事長と検察の関係」は、まさにホットなニュースであるが、そんな点に関する質問が会場から多かったのであるから、有田さんの出番が求められた。

 シンポ終了後は、有田さんに誘われて懇親会に同行した。坂上さんをはじめ、何らかの形で出版やメディアに関わる方々の中で、やや場違いな所に来た印象を持ったが、それでも何人かの方々と名刺交換。未知の業界で活躍する方々との交流こそ、自己の殻を破り、新たな視点をもたらす重要な機会であるはずだから。

 懇親会の途中で有田さんとともに退席。有田さんは翌日も埼玉県東松山市で「医療問題」に関する講演があるので、その準備もあるということ。適度な時間を懇親会の席上を濁したことに。ここでの出会いがまた自分に新たなものをもたらせてくれるだろう。

 有田さんに同行し、本郷三丁目の駅から丸ノ内線で池袋まで。Iphoneの話や個人的な仕事な話など、様々に語り合える時間となって、大変光栄であった。有田さんは、携帯の電池具合が悪く、携帯ショップに寄るという。場所を知っているので同行しますと進言すると、「時間の無駄ですから」と。やはり世の中で何事かを成してきた人物の言葉は重い。その言葉の裏に「あとは自分の時間を自分のために使って」という優しい気持ちが込められていた。別れ際にこちらが恐縮するほどご丁寧に頭を下げ、その笑顔から感じた無言の背後に、深い含蓄が横たわっていた。

 その後、自宅で残っていた豚汁とうどんの食事。何だか時間を有効に使って自己の創作的な仕事をしていく意欲に満ち溢れた。食事後、いくつかのつぶやきをしてからジムへ。昨日のボディパンプでかなり筋肉が張っているので、サウナと冷水温水浴の繰り返し。気分も身体も十分に今週の疲れを癒すことができた。

 1月も大詰め、新しい出会いとツールを得て、この1カ月の精神状態はかなり前向きである。
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即時性の獲得―iphoneの魅力

2010-01-30

29日(金)2日間の飲み会続きは、やはり身体によくない。ジムで運動して汗をかくことを求めている。なので朝から急いでジムへ向かい、ボディパンプに参加。筋肉を刺激すると、通常の活力が戻って来る感じだ。

 飲み会というものは、考えてみればまともな食事をしていないのに等しい。ゆえにこの日は食事にも注意をした。昼はいつものイタリアンレストランでランチ。サラダや新鮮な素材のパスタ。運動後の昼食は特に美味しい。

 ここで、朝刊を熟読。その中で、朝日賞を受賞したという野田秀樹氏の弁が気になった。

  「創造性やモノ作りは幼児性と深く関わっています。」

  「ただ、今の文化には無批判で無防備な幼児性がはびこっています。」

  「僕は精神技術の必要性を感じて、文化が成熟しているヨーロッパに目を向けました。」

 とある。「無批判で無防備な幼児性」とは言い得ていると思うが、「精神技術」というものの中身がよくわからない。野田氏の他の発言などから、少々奥深く知ってみたい気になった。

 また大佛次郎賞を受賞した石川九楊氏の弁。

  「パソコンによる作文は、触覚なしに成立しますが、非常におそろしい問題を含んでいます。肉体的、精神的な行程をすっぽり抜いて、一種の奇怪な機械操作によって文字があらわれ、つなぎ合わさって文章ができる。」

 とあるが、「肉体的」はともかく「精神的行程」まで欠如しているというのは、偏った発言に見える。


 その後、池袋のビッグカメラへ行き、iphoneを購入。もともと所持していたau携帯から乗り換えるかどうするか少々迷ったが、電話として使う場合、電波の到達度が違うということもあるそうなので、2台所有を決断。auは電話とカメラ機能が主な用途となり、iphoneはネット主体の使い方になりそうだ。ソフトバンクの女性店員さんが親切にケースの種類に至るまで解説してくれた。ありがとう!

 これで、特にTwitterにおける即時性を獲得したことになる。さっそく夜には使い始めるが、なかなか慣れない。これも「遊びながら覚える」という気持ちで触っていればわかるようになっているという。なので必死にマニュアルを読むこともしない。なにせマニュアルは付属されていないのだから。

 夕食は、豚汁に野菜をたっぷり入れて。それにサラダに豆腐という野菜三昧。バランスの取れた食事となった。

 Twitterでの即時性と、小欄のあり方とをどのように融合していくか。そんなことも考えながら、この更新まえにも一言つぶやいた。
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論評する力

2010-01-29

28日(木)朝から多くの文章に触れる。それは慶應大学の過去の小論文を解いてみた複数の答案に、講評を求められていたからだ。慶應大学の大半の学部は、入試科目に、いわゆる「国語」ではなく「小論文」を課している。「現代文・古文・漢文」という枠組みの中で、主に選択式解答が中心のライバル大学とは、対照的な入試形態であると言える。

 過去に出題された問題を見ても、かなり長大な文章を読解し要約等を施し、それを元に自己の意見に論評を加えて述べるというもの。自ずと文章読解力と、その裏返しである表現力の度合を測ることができる。それに加えて、主として近代から今現在に至る社会で、何が問題視されているかという内容が多いので、「社会」を考える視点で、様々な知識が必要になる。

 国際的な尺度に於いて、日本人の学力水準が甚だ低下している現状を顧みると、こうした入試が何より好ましいことになる。特に「読解力」と「表現力」そして「論評する力」が、経済大国であることに反比例し、坂を転がり落ちるように劣化しつつある国民なのだから。慶應のように小手先の技術で対応できない入試を課す大学は、他にもあるが、やはり独自な教育方針を掲げ、学生の実力も伸ばしていると思われる。入試のあり方というのは、その大学の教育そのものを見定める大きな指標であるには違いない。



 夕方から職場の外部組織の会合。この1月より進行役を請け負った。他の職場における代表の方々が、その現状を報告する。こうした組織の意義も、やはり働く者が問題意識を持ち、そこに論評を加えて、殻の外側から自身の職場を眺めるという点にあるはずだ。小さな殻の中で思考していては、生ぬるい水に浸っているだけになってしまう。

 会合の後は5〜6名の方々と新年会。公的な会合の中では語れない内容の話も聞けた。以前は、こうした活動が単なる負担にしか思えなかったが、こうして参加してみると、やはり「客観的な視点の確保」に繋がる。メンバーの中には、法律に詳しい方や、様々なご苦労を経て今に至る方がいる。「現場取材」というような考え方で、当事者の立場を冷静に見つめることができる。

 人生は、与えられた全ての場で学ぶことができる。その随所において、温室的な発想を以て暖まっているよりも、寒さを少しでも体感して、思考し論評する姿勢が必要ではないかと思う。

それが現状の日本社会に欠如し過ぎている。

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冷静な客観的視線を確保する

2010-01-28

 27日(水)取材するという立場を考えると、如何に客観性を持って冷静に行動するかが求められるはずだ。されど、あくまで想像の域ではあるが、人間とは弱いもので、随所に自身の思惑が顔を覗かせる。交流があるジャーナリストという職業の方たちが、どんなにか日常から冷静であるかということを、常々感じていた。いや、冷静で客観的な発言があるから交流したいと思うのかもしれない。


 たいそうひさしぶりに職場の大がかりな飲み会に参加。久しぶりに登場したので、たいそう珍しいという反応がありながらも、好感をもって迎えてくれたメンバーが殆どであった。人事発表の後とあって、各々の思惑は納得と反発の間を去来する。達観を決め込んでいる小生にとっては、この光景が不思議というか、懐古的である。その後の仕事の持ち場が決まるということで、一喜一憂する姿は、様々な人間模様を浮かび上がらせる。

 ただ、単に人事の配置によって感慨を述べ合いながら、酒に興じるだけならば、それはそれでよい。妙に気になるのは、人事の以前から水面下での密談的な「工作」とも言えるような動きをする者の存在だ。幸い、この日の飲み会に、そうした類の人物は呼ばれていなかったが。大概の場合、自身の人事がどうこうというよりも、その類の人間の存在に、心の底から嫌悪感を抱いてしまい、こうした飲み会の場でも、その動きが露わになるので、避けてしまっていた感もある。

 換言すれば、その類の人間は、自身の思惑を達成するために、他者を攻撃し排斥するような「空気」を充満させるのだ。そして、その「空気」に支配されて、公平に行われなければならないはずの諸事項が、実に一定の人間にとって有利に働く場合がある。各人が客観的なことを前提に、どのように思考し、どのように意見を持ち、どのような成果を上げるかということよりも、どこにどう働きかけて「空気」を醸成するかに腐心する。まさに日本社会のあり方の縮図でもあるのだ。

 久しぶりの飲み会参加は、むしろ自己の客観性が保たれているかを試す機会となった。「思惑」の域を脱して、冷静に物事を把握している自分を確保しながら、過去の様々な事跡に対して批評的に再検討するために、「読書」から学び、広い世界の「人間」から学び、そして「書く」ことで「思考」していく。素人ながら、取材的な冷静さを保ちながら、自己の経験したことを、ジャーナリズムの精神で表現できれば、何らかの意味が生じてくるような気がする。

 理不尽なことに対して、目をつぶらない生き方こそ、尊いはずだ。
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『ジャーナリズムの可能性』を考える

2010-01-27

26日(火)朝からTwitterに反応あり。新年会で始めることを勧めてくれた方々が気付いてくれた。少々でも気軽にご挨拶ができることが何とも嬉しい。こうした小さなコミュニケーションから、自己の新しい視野が開ける。そういえば、夜には鳩山首相の「ハイチ大地震調査団報告」に対するつぶやきがあったので、「(救援・支援を)瞬発力を持って実行して欲しい」という旨のつぶやきを返してみた。少々なれど政治に意見を言ったつもりにはなる。これぞ新しい民主主義か。

 昨日来読んでいた原寿雄氏の『ジャーナリズムの可能性』には、時折、胸が熱くなってしまうような表現があり、読んでいてやや涙目になったりもする。まさに本の題目に答えたような次の一節は、そんな感性を揺さぶった部分である。

  「自由と民主主義の社会に、ジャーナリズムは不可欠である。権力はどんなに民主的に選ばれても、放置すれば確実に腐敗し民主主義に背く。自由主義社会は厳しい倫理観が伴わなければ利己主義が横行する。弱肉強食のジャングルの法則に支配され、貧富をはじめとする社会的格差を増幅する。結果として自由も民主主義も大きく歪められ、市民社会は崩壊してしまう。
 ジャーナリズムは権力を監視し、社会正義を実現することで、自由と民主主義を守 り発展させ、最大多数の最大幸福を追求する。人権擁護はもちろんのこと、自然環境の保護も、人間性を豊かにする文化の育成も、ジャーナリズムに期待される機能である。」

 日常で何気なく接してきたつもりの「ジャーナリズム」に、これだけの使命があり、それを遂行してきた著者の思考がまざまざと読み取れるのだ。そして現在の状況が商業主義やご都合主義に流され、そのあるべき姿を失っている面を、原氏は的確に指摘している。「ジャーナリズム」に上記のような使命があるのなら、そのあり方自体を監視し、民主主義の遂行に努めるのは、実は我々個人個人の思考や感性ということになるのではないか。新聞・雑誌・TVそしてネットに氾濫する情報の渦中で、我々の客観的で冷静な判断力が問われているのだ。

 Twitterを始め、小欄の存在もそうだが、ネット社会が今後どのように機能し、新たな「ジャーナリズム」を生み出していくか。理性を持った対応で「人間性を豊かにする文化の育成」を心掛けて行きたいものである。
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「善か悪か」ではなくその意味を問う

2010-01-26
25日(月)週末に行われたという世論調査で、民主党の支持率が続落し、不支持が支持を超えたとTV局各社が報道。政権交代から5ヶ月目、もちろん現政権に課題は山積であるが、こうした世論を果たして大勢と見ていいのだろうか?そしてその世論とは何か?

 原寿雄氏『ジャーナリズムの可能性』(岩波新書)を読んで、日本のジャーナリズムのこの十余年のあり方に様々なことを考えさせられた。特に政治報道に多くの視点を注いで書かれており、現在の状況に至るまでの流れに対する考えを更新させられる。

  「(警察や検察に対して)必要にして的確な批判が十分になされていない。特に政界関連の疑獄事件などニュース性の高い大事件を扱う東京地検特捜部への批判報道は、事件報道上の最大のタブーと言えよう。」

   「とくに東京地検特捜部を批判できない聖域としている状況は、特捜部権力が強大なだけに実は大きな社会問題であることを警告したい。」

 といった部分を読んで、現在の「小沢氏をめぐる金の報道」を見ると、今一度、冷静に客観的に状況を見直そうという気になる。原氏の書物には具体例として次の記述もある。

   「九二年、金丸信自民党副総裁への五億円ヤミ献金事件では、本人の事情聴取もせずに略式起訴の罰金二〇万円で済ませている。」

 こうした「政治と金」の過去の歴史を、果たして多くの「世論」の構成者たちは、記憶にあるのだろうか?また原氏の著作「視聴率に支配されるテレビ」という項目では、

   「ラジオ・テレビという最も進歩したマスコミ機関によって、“一億総白痴化”運動が展開されているといってよい。」という一九五七年の評論家・大宅壮一の言葉を紹介している。

 報道はあくまで情報源。そこから得られたことから何がどうなっているのかと思考してこそ意味があるというもの。その思考が欠如し、「空気による社会支配」が進行するのは、何としても避けたいと思うのである。「善か悪か?」といった単純な選択ではなく、「何がどのような状態なのか?」を問うべきだ。


 話は夕食時のことになるが、いつもの中華料理屋で食事中、以前にも似た状況を小欄に書いたが、また同じ席の位置で、女性が大声で携帯の通話をしている。小生は、前の著作を読みながら食事をしていた。当然、その女性から当方は視野に入るわけだが、何度も携帯で話しては切り、再び通話の繰り返し。よっぽど、読んでいる本を教室で読むような大声で音読してやろうかと思ったが、こちらは大人なので、理性がその行動には至らしめなかった。

 果たして、この女性の行動は「善か悪か?」この場合も、こうした二項対立の図式でのみ考えると、女性を悪者にして、こちらは憤慨して終わりである。だが、「何がどのように?」と考えれば、「他人の立場を気に掛けられない女性」として哀れになってきてしまう。日常から思考できる考え方を採りたいものである。

 朝日新聞夕刊に、池上彰氏が、「捜査の意味や見通しを示して」と「新聞ななめ読み」というコラムで「小沢氏の金をめぐる報道」への意見が掲載されていた。

 物事の意味を考えようとする思考こそ、何より貴重なのだ。
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朝飯前!Twitterも気軽に開始!

2010-01-25

24日(日)早朝から依頼原稿の書評を書く。なかなか対象となる書物への姿勢が定まらなかったのと、「書評とはかくあるべきか?」という疑問が湧いてきて、着地点が見つからなかった。切羽詰まったことで、かろうじて書くべき線が見つかった。多くの人が、その対象書物を読みたくなるような文章が求められるだろう。されど宣伝文句ではない。

 数日前の内田樹氏のブログに次のようにあった。

  「さいわい書評で絶賛したせいで、たいへん困った事態に陥ったという事例にこれまで遭遇したことがない。」と。

 絶賛まではいかないが、著者がどのような気持ちで執筆したかという点を読み取り、讃える姿勢で書くのが筋だろう。されど批評性は忘れてはならないが。

 それにしても「朝飯前」という言葉は、こういうことを言うのだと実感した。先日読んだ『思考の整理学』にあったが、脳は起きてから食事するまでが一番働くと。食事は遅くなれば、朝昼食で構わないと。辞書によると現在は、「朝食前の空腹な時にでもできる容易なこと」(現代国語例解辞典・小学館)というのが「朝飯前」の語義だ。しかし『思考の生理学』にもあるように「決して簡単でもなんでもないことが、さっさとできてしまい、いかにも簡単そうに見える。」というのが、本来の意味ではないかと推測する。確かに食事をしない空腹なまま、早朝からの脳は活性化している気がする。その上、「脳が楽天的」であるらしく、原稿も一気に書き上げることができた。これぞ「朝飯前」!

 午後になり食事後は、1週間前の新年会で勧められたTwitterのアカウント作成。「とりあえず始めて見るべし。遊びながら覚えていけばいいのだ」を実践した。新年会で出会った人々や、鳩山首相などをまずはフォロー。この日の朝日新聞にも、「ツイッターは政治を変える?」という題で3人の意見が掲載されていた。

 夜になり、『龍馬伝』。龍馬が江戸に着き、北辰一刀流の千葉道場に入門する話。構えの際に剣先を微妙に揺らすという特徴が、司馬遼太郎『龍馬がゆく』を読んだ際に印象深かった。そして浦賀への黒船来航が描かれるが、江戸の街がこれほどの衝撃を受けていたというのは、新たな発見。そのあたりの事情も知りたくなった。

 その後、Twitterでつぶやきの返信をすると反応あり。これはなかなか面白い!生活上の小さな発見にも、様々な反応が見られる。まずは初日にして気分よく実行できた。

 就寝前に原寿雄『ジャーナリズムの可能性』(岩波新書)を読み始める。
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東京地検と小沢一郎氏に思う

2010-01-24

23日(土)午後、東京地検特捜部の任意聴取に、小沢一郎氏が応じた。約4時間に及ぶ聴取で小沢氏は主に、陸山会の土地購入資金の出所について説明した模様だと報じられた。秘書3人の逮捕に及んでいるこの問題を、果たしてどのように捉えればいいのか?この1週間ほど、様々な立場から気になっていることだ。

 「政治と金」の問題は、ある意味で昭和史を綴ってきた自民党政治のあり方そのもので、長期にわたった佐藤栄作政権(1964年〜72年)以後、いわゆる「三角大福中」と言われる党内の戦国時代において、政治権力の獲得をめぐり、まさに水面下の攻防が繰り返された。そして小沢氏が、師と仰ぐ田中角栄の逮捕劇に及び、社会の中で表面化しつつも、経済成長を背景に、「暗黙の容認」が行われてきたようでもある。

 今回の問題でも、現野党である自民党が、小沢氏を追及すればするほど、自分たちの党の歴史を、批判し失墜させるという「自己矛盾」がある。だからこそ、現総裁のお人柄も相俟って、国会での追及も手緩いものになってしまうのだろう。小泉純一郎氏などは、「こんな事態が自民党内で起きたら、幹事長などやっていられない」と豪語する様子がTVで報道されていた。郵政選挙の折に「自民党をぶっ壊す」と宣言していたので、その流れを貫いているのだろうが、引退した政治家の党内発言として、真の「自民党政治終焉」が間近であることを感じてしまう。

 果たして小沢氏が「何ら!やましいことはありま、せん!」と党大会で発言した真意と、検察側の目指すところは、今後どのような状況で対峙が続くのだろうか?そして、その報道のあり方は、どのような作用をもたらすのだろうか?様々な角度からこの問題を考えて、「政治と権力」「報道と監視」というようなことを、真摯に辿って見る必要性を感じた。まさに日本のジャーナリズムのあり方が、いま試されている一面もありそうだ。

 思うがままに、小沢一郎氏の聴取で考えたことを記した。大げさに言えば、昭和に発する日本政治のあり方そのものが問われている。ゆえに、「政治とジャーナリズム」の歴史と奥深さを学んでみようかと、何冊かの書物を購入した。これまでにもスポーツ報道などにあたり、日本における報道のあり方に疑問を感じることが多かった。「ジャーナリズム」とは何か?今週はそんな問いを、自分なりに発していきたいと思う。



 この一週間は、脳と身体がかなり活性化してきた。手帳を見れば休館日以外は全てジムでトレーニングをした。書物により「思考」が「整理」された。そして、「教養」のために、様々な分野の書物に目が向いた。立花隆氏が「教養」を定義して次のように述べている。

  「人間活動全般を含むこの世界の全体像についての幅広い知識」
  「その人の精神的自己形成に役立つすべてのもの」
  「現代社会を支えている諸理念の総体」
 
「教養」はパンのための学問(実学)ではないとした上で、

 「知っていないと恥ずかしい知識の総体」
 「各界で教養人と見なされている人々と恥ずかしくない会話を持続的にかわせるだけの知的能力」

以上『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』(立花隆・佐藤優著・文春新書)。


自分自身がいかに蛸壺の中でしか学んで来なかったかがわかる。視野を開くというのは、こういうことだ。その先には、大きな地平が広がっているはずである。
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「見つめる鍋は煮えない」

2010-01-23
22日(金)早く煮えないかと鍋を見つめていると、なかなか煮えないという経験は誰にでもある。しかし、目を離して他のことに気持ちを移していると、知らぬ間に沸騰しているというものだ。『思考の整理学』を読了して、その比喩や含蓄の深さを十分に「思考」することができた。読書というもの自体が、受け身であってはならず、自ら学び習得すべきものであるはずだ。

日常においても、小さなことにこだわり過ぎていると、なかなか前に進めない。組織に属していれば、様々なことに対して「見つめて」しまいがちだが、「放っておく」ような気になれば、些細なことで済んでしまう場合も多い。自己の殻と社会の接点で、どのように思考するかということを、まさに読書という教養が支えてくれる。

「われわれがじかに接している外界、物理的世界が現実であるが、知的活動によって、頭の中にもう一つの現実世界をつくり上げている。」と『思考の整理学』にある。これは「第二次的現実」と呼ぶ「観念上の世界」であるが、「知的活動によって現実感をおびるようになる。」という。まさに小欄に記している文章自体が、「第二次的現実」なのであるが、それは「第一次現実以上にリアルなのかもしれない」という考えに共感できる。

知的活動とは、「三多」に集約される。それは「多く読書をする」「多く文章を作る」「多く工夫と推敲をする」ということだそうだ。ということになれば、小欄を毎朝更新していることが、その小さな実践ということになる。そして、自己の専門とする領域のみを「見つめない」幅広い読書が、新たな「二次的現実」を醸成してくれるはずだ。

かくして立花隆氏・佐藤優氏著『ぼくらの頭脳の鍛え方 必読の教養書400冊』(文春新書)を読み始める。自己が蛸壺の中だけで、「見つめ」ないために。


アメリカの話題を二つ。寒さのせいで母犬が配管の中で出産した子犬たちが、無事に配管を掘り返して救助されたTV映像。その愛くるしさに思わず見入る。アメリカの動物愛護の優しい気持ちには、いつも感心する。また、バージニア州の「フェアファクス郡」というところには、「都市災害救助隊」なる精鋭部隊が存在すると、朝日新聞夕刊「窓」欄に教えられた。ハイチ地震の半日後には現地入りし救援活動に従事しているという。そこで得られた経験は、結局はその郡で災害が起きたときに有効に活用されるということだ。題に「情けは人のためならず」とあったが、まさにその通り。こうした動きを「郡」単位で行っているアメリカの地方自治の現実を知らされた。地震大国日本は、果たして今のままでいいのだろうか?他国への救援の姿勢は、自国で災害時の縮図ではないのか。

夕食の準備で、いつのまにか煮えたおでんをつつきながら、様々な「二次的現実」に思いを馳せる。おでんの「餃子巻き」は崩れていたが、これはこれで全体に味が染み渡ったようだ。「第一次」と「第二次」の違いも、些細なところに顔を覗かせる。

冬には「読書」がよく似合う。
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「忘却」の効用

2010-01-22

21日(木)昨日に続き『思考の整理学』を読む。物事を「忘却」するということは、一般的に学校教育ではマイナス評価となる。要するに教育は「人間の頭を倉庫のようなものだと見てきた」のである。しかし、「忘却」を恐れないということこそ、思考の上で重要な意味を持つという。

 特にコンピュータの出現、普及は、「人間の頭を倉庫のように使うことに、疑問がわいてきた。」というわけで、「ようやく創造的人間ということが問題になってきた」という。むしろ「コンピュータにはこういう忘却はできないのである。」ということで、「コンピュータには倉庫に専念させ、人間の頭は知的工場に重点をおくようにするのが、これからの方向でなくてはならない。」としている。

 確かにこうして毎日、Web上に自分自身の文章を蓄積することで、その日その日に考えたことなどが倉庫に貯められていく。その時々を振り返るときに、この倉庫から、「忘却した自分」を取り出して、より客観的に見つめ直せばいい。いまこの文章自体が、本から学んだことを、「忘却」するために存在するとも考えられる。「頭を高能率の工場にするためにも、どうしてもたえず忘れていく必要がある。」というわけだ。

 最近、1年前の自分を参考にすることがある。昨年の手帳を机上に置いておき、時々、同月の同日を覗いてみる。1年という期間であるのに忘れている意外な発見に巡り会えることもある。これぞまさしく自身の「経験」として蓄積されたものだ。ちょうど1年前の手帳を振り返ってみたら、王貞治氏が早稲田大学で講演した際の言葉が書き残されている。

  「人生は氷山のようなもの」

 「自分の考えを持っていて、いざというときに出せることが大切である」と。

その「いざ」のために「忘却」を恐れてはならない。Web上や手帳が、「知的倉庫」の役割を果たしてくれる。「忘却」を恐れないからこそ、むしろ「蓄積」されるという逆説がそこに潜む。だいたい受験の時など、単語を「覚えなければならない」場合に、いかに「記憶」できないことを悩んでしまう受験生が多いこと。「覚えられない」は「忘却」を恐れているからに他ならない。

かくして、昨日の蓄積は小欄に任せて、再び知的創造の1日を始めよう!
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