グライダーから凧へ後退
2010-01-21
20日(水)外山滋比古氏(とやま・しげひこ)『思考の整理学』(ちくま文庫)を読み始める。「東大・京大で1番読まれた本」(2008年大学生協調べ)と広告たる帯にある。その「自ら学ぶ」という姿勢を説く内容は、発行から24年目の時を経てもなお「変わらない価値がある」という。
最初に日本の学校で学ぶ学生をグライダーに喩えて曰く、
グライダーと飛行機は遠くから見ていると、似ている。空を飛ぶのは同じで、グライダーが音もなく優雅に滑空しているさまは、飛行機よりむしろ美しいぐらいだ。ただ悲しいかな、自力で飛ぶことができない。
とあって、「優等生とはグライダーとして優秀なのである。」という。学校では「ひっぱられるままに、どこへでもついていく従順さが尊重される。勝手に飛び上がったりするのは規律違反。」とあり、学校が「グライダーの訓練所」であり、「飛行機などがまじっていては迷惑する。危険だ。」と述べている。
年頭から「日本社会の特徴と問題点」ということをいくつかのテーマに沿って考えてきたが、この外山氏の表現で大きく腑に落ちるものがあった。日本の、主として第二次世界大戦以後の「教育」は、「グライダー学生」を養成する場所になっていたのだ。
朝日新聞夕刊には、関 曠野氏(せき・ひろの)「日米安保条約50周年 依存「卒業」、ソフト力で」という論考あり。「徳川幕府の門戸をこじ開けたのはペリーの黒船だった。以来近代日本国家は英国についで米国というアングロサクソンの覇権国家が形成した世界に適応することを課題にしてきた。」とある。国家という大きな枠組み自体が、英米に「依存」して成長してきたということを述べる。
外山氏の記述に戻れば、「学校が熱心になればなるほど、また、知識を与えるのに有能であればあるほど、学習者を受け身にする。本当の教育には失敗するという皮肉なことになる。」とある。それは、「いまのことばの教育は、はじめから意味をおしつける。疑問をいだく、つまり、好奇心をはたらかせる前に、教えてしまう。」とも。教育は、英米に引っ張られてしか飛べない国家国民を、見事に「グライダー」化し、世界の大空へと滑空させたのである。
というわけで、小生も外山氏の文章によって、本日は滑空できているようなもの。最後に、少しだけ自力で高度を上げようとするならば、こうだ。外山氏の指摘からの24年間で、「グライダー訓練所」は「凧の養成所」に変わってしまったかもしれない。「グライダー」ならば、まだ優雅に飛び美しくも見えるので「飛行」していると言えるが、「凧」では「糸」に誘導され、「飛ばされている」状態でしかない。「受け身」は「誘導される」域まで後退したように思う。
「自ら考える」ということ。その世界的な標準が、日本の教育ではなされない。「凧」は糸が切れたら墜落するだけであり、風の影響を受ければ、それを立て直す操縦も不可能だ。学校の教師は生徒を「糸」により「誘導」せねばならず、また自らも学校組織や教育委員会により「誘導」されて余裕を失い、負のスパイラルに突入している。この、「受け身」「依存」を脱するには、果たしてどうしたらいいのだろうか?
結果を尚早に求めるあまり、焦ってしまう。オバマ政権1年にして、「結果が出ない」ことを理由にOHIO州などで支持率の下落が盛んであるとTVが報じていた。尚早な結果を求めれば求めるほど、将来的に大きな幸福への道は閉ざされるはず。日本の教育・社会もどのような方向へ向かうか、新しい10年が鍵を握っている。
- 関連記事
-
- 冷静な客観的視線を確保する (2010/01/28)
- 『ジャーナリズムの可能性』を考える (2010/01/27)
- 「善か悪か」ではなくその意味を問う (2010/01/26)
- 朝飯前!Twitterも気軽に開始! (2010/01/25)
- 東京地検と小沢一郎氏に思う (2010/01/24)
- 「見つめる鍋は煮えない」 (2010/01/23)
- 「忘却」の効用 (2010/01/22)
- グライダーから凧へ後退 (2010/01/21)
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
語学(英語)を学ぶ快楽
2010-01-20
19日(火)何事も「できなかった」ものが「できる」ようになるのは、嬉しいものだ。自転車に乗れた瞬間の、あの不思議な感覚。最初は、どう考えも倒れてしまう乗り物にしか見えないが、いつしか「あっ」と思う瞬間に、理屈ではなく乗れるようになる。あの快楽は、人類的な発見・発明の瞬間に近いような感覚を、多くの人が日常で味わう瞬間かもしれない。
そもそも自転車の場合も、「どのように」ということを考えていたら乗れない。前項のような感覚さえ持たず、幼少の頃に知らぬうちに自転車に乗れるようになっていた方も多いだろう。これは、語学にも共通するように思える。理屈抜きに、自己の思うことを表現し、相手に伝えようとする。そして伝わった瞬間の快楽は、えもいわれぬものである。
新しい年になって最初の英会話教室があった。一定の期間継続して学んできたので、今年は新たな意識で臨もうと思っていた。つまり、いかに日常的な中で、自然に自己の思うことを表現していこうかということである。理屈ではなく表現してみる、という意識がもてるようになるのが、次へと進む段階であると思うゆえである。
しかし、「理屈ではなく」と思うということ自体が、「意識している」ことにもなる。自然にというのは、言葉にできないような状態になってしまうことだ。この日の教室では、最初から雑談のような内容で話が始まり、いつしか授業に入っていた。これぞコミュニケーションであり、自転車に乗る状態に近い。授業は休憩も忘れて2時間に及んだが、講師と2人の生徒に疲れはない。いかに自然な会話が2時間行われていたかが覗えた。
「島国日本」における語学学習環境は、時代と共に様々であったはずだが、どこか特徴的な面があるような気もする。陸続きで多言語が共存する欧州。国土が巨大であるがゆえに、一国の中にも多言語が共存している中国。その中国から輸入された漢字により、ようやく言語が表記できるようになった我が日本。語学が「特別なもの」であるという感覚は、地理的条件による長き歴史の中で形成されてきたはずだ。
他人に伝えたいことを伝える。この単純である行為が、他言語によって行えるという何ともいえない快楽。英会話教室に行く前に、いつも寄る洋食屋のおにいさんが、「もう英語ぺらぺらなんですよね!」と言ってくれた瞬間に、日常で学んでない人から見たら、自己では未熟と思っていても、英語でコミュニケーションができるという自覚を持った。
英語は自然に自転車に乗るがごとく。それを「快楽」と感じ始めた自分が、新しい境地にいることを発見した。
- 関連記事
-
- 『ジャーナリズムの可能性』を考える (2010/01/27)
- 「善か悪か」ではなくその意味を問う (2010/01/26)
- 朝飯前!Twitterも気軽に開始! (2010/01/25)
- 東京地検と小沢一郎氏に思う (2010/01/24)
- 「見つめる鍋は煮えない」 (2010/01/23)
- 「忘却」の効用 (2010/01/22)
- グライダーから凧へ後退 (2010/01/21)
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
続・センター試験と日本の教育
2010-01-19
18日(月)土曜日・日曜日で行われたセンター試験の結果を自己採点し、大手予備校などにデータを提出する。予備校も我先にと問題やデータを分析し、講評を付けたり予想平均点などを出す。そして、この日のうちに集まったデータを詳細に分析して木曜日ぐらいには、受験生のもとに合格の目安などが届く。センター試験後、毎年恒例の一連の動きである。
この後、国公立大学の場合はたいてい2次試験があり、多くの大学ではセンター試験では問えなかった、論述力や記述式解答により最終的に合格者を決める。しかし、国公立の一部もそうだが、私立大学の大半が、このセンター試験の結果のみで合格者を判定する。いわば、自分の言葉で書くという「論述」なしに大学に合格できるのである。次第にこれを利用する私立大学は増加してきた経緯がある。
マークシートにより、正確かつ迅速に解答が採点されるのは、多くの受験生を公平な土壌で判定している。受験生は、大概5つから6つという選択肢の中から、「説明として最も適切なもの」を選び取る。一定レベルの基礎知識を問うということならば、大変効率的であり、まさに客観的な手段に見える。しかし、国公立のように2次試験に論述・記述があるならまだしも、この「選択肢式」のみで大学に入学できるというのは、どこかで日本の教育のあり方を拘束し、頽廃させているのではないかと思えることも多い。
「選択肢を選ぶ」ということは、換言すれば「間違いを探す」ということでもある。問題作成側の立場になれば、いかに簡単には見抜けない選択肢を作るかに腐心するのだ。他に設定しようのない知識ならば、「答えは一つ」であるだろうが、「国語」の読解・鑑賞を問うような場合は、「最も適切なもの」とならざるを得ない。されど、「一つの答え」を見抜き、他の間違いと区別しなければならない。必然的に間違いを探し「唯一無二の答え」を求める思考になる。
「国語」の読解・鑑賞という領域は、本来、各個人の多様性が認められるはずで、「自己の個性的な意見を思考し表現する」ことで、初めて成立するもの。決して「答えは一つ」であるはずはない。しかし、「自己の個性的な意見を思考する」よりも、与えられた選択肢から「間違い探し」をするという思考が、短絡的に即座に「唯一の答え」を求めようとする、日本における若者の思考に大きな影響を与えているのではないかと危惧するのだ。
現にTV番組のバラエティーなどにおいても、選択式思考ばかりが目立ち、正しいか間違いか、YesかNoかという選択を迫る。それが様々な面で国民世論にも反映され、「賛成か反対か」という選択のみを迫る政治姿勢などに、国民が誘導されていく結果となり、二極化の格差社会を生み出す。「勝ち組」と「負け組」という思考こそ、まさにその典型的な表象であったはずだ。
価値観の多様性が消去された社会は、生活する国民を「人間らしい生活」から遠ざける。そして「間違い探し」の思考は、「犯人捜し」に繋がり、一定の小さな価値観の中からはみ出した人物を「KY」と呼称し排斥してきた。ある一定の考え方が「常識」だとか「当然」だという発言は、価値観の多様性を奪い、他人を痛めつけ排除する発想に連なるのだ。
選択式問題の利点がないわけではない。しかし、日本の教育が世界水準に比して下落を続けている現状が報告されるたびに、「指導要領」の改訂や教育改革が叫ばれてはいるが、同時に「大学入試改革」を断行しない限り、高校の教育内容は変化しないのではないかとも思う。世界的に「意見が言えない日本人」と言われて久しいが、そこに「個性」より「正解に靡く」という集団としての性質が、大きく関係していると考えられないだろうか。
2010年代初のセンター試験を終えて、こうした「憂い」を新たにした1日であった。
- 関連記事
-
- 「善か悪か」ではなくその意味を問う (2010/01/26)
- 朝飯前!Twitterも気軽に開始! (2010/01/25)
- 東京地検と小沢一郎氏に思う (2010/01/24)
- 「見つめる鍋は煮えない」 (2010/01/23)
- 「忘却」の効用 (2010/01/22)
- グライダーから凧へ後退 (2010/01/21)
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
- 動かぬ大地になぜ驚かぬ! (2010/01/11)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
センター試験と日本の教育
2010-01-18
17日(日)この一両日で今年の大学入試センター試験が行われた。目立ったトラブルは無いものの、インフルエンザや大雪の影響で、過去最高の961人が追試受験に回ったそうだ。大手予備校は競ってWeb上に解答速報や問題分析を掲載。科目ごとに昨年より難化か易化かと、それぞれの見方を提示している。
「国語」の問題を見ると、
?評論=易化(文章が短くなった)
?小説=昨年並み(ただし会話文が多い)
?古文=難化(和歌が多く選択肢が選びにくい)
?漢文=難化(新傾向の設問あり)
おおむね以上のような傾向と難易度と分析されているようだ。(もちろん予備校により見方は違う)しかし、難易度といっても何を基準に言うかということが大切であり、「選択肢が選びにくい」というのも、客観式試験では当然のことかもしれないし、「設問に新傾向」といっても、思考を施せば難なくこなせるはずであり、そうしたことに翻弄されるということ自体が、順応性を欠くということなのかもしれない。
ただ受験生にしてみれば、この試験に多くの望みを託している。国公立と私立を含めて複数の志望校の合否が、この一つの試験によって決定されるからである。この後の個別試験であれば、一試験に対して合否結果は一つ。しかし、私立大学の利用拡大で、センター試験の意味は、とても大きくなったと同時に、重荷になったといえようか。
それゆえに、全国で不公平感がないように、その実施マニュアルというのは厳格であり、詳細なことまで規定されていると、親戚の大学教授の話として聞いたことがある。この日の新聞意見欄にも、英語のリスニングに個別な機械を利用して、試験会場では音を立てないようにと、試験官に対しても厳しい注意事項があるという点が指摘されていた。教室で放送により実施すれば済むのではという提案でもあった。
少子化の影響で、大学受験も年々変化してきている。しかし、こうした一発試験のあり方や、その出題方法などが検討され、改善されるということにおいてはあまり変化がない。世界基準の中での学力低下が問題視されているのなら、やはりこの大学入試の大きな改革が必要だろう。そうしない限り高校教育も変わらない。それはどうしても受験に絞った教育内容となる学校が多く、OECDが行うPISAなどとは違った方向の学力観による教育内容となってしまうからだ。
一発試験であるから、その偶発性に助けられて、大学受験を突破したという経験をお持ちの方もいるだろう。客観式問題形式が多ければ多いほど、実力を伴った確率論の上で、解答がなされていくようになるからだ。それに対して小論文や記述式による個性的な答案を求めている大学に、世界規準への視点が意識されているようにも思う。
大学入学後の教育のあり方も含めて、日本の教育制度の見直しが、今こそ求められているのではないだろうか。その内容をアメリカなどと比べた時に、様々な点でお粗末なことが目立ちすぎるように思う。
などと入試と教育改革を提言しても、受験生にとっては直面した入試が全てだ。複数の高校生から、試験の出来如何のメールが届く。自分の為した結果から目を背けない勇気を持つということこそ、人生にも必要な姿勢でもある。そこで「思い通りにはならない」という経験も、後には大きな糧になるものだ。センター試験が全てではないのも事実。
一日、センター試験のことを身近に感じて、夜は「龍馬伝」に引き続き「NHKスペシャル 巨大地震?」。この日は、阪神淡路の大地震から15年目でもあった。「明治維新」のあり方から「地震大国日本」、そして「教育の現状」などなど。この日本が考えねばならないことは、様々なところから顔を出しているという思いにさせられる。
就寝前は、俵万智著『短歌をよむ』(岩波新書)を読み始める。
- 関連記事
-
- 朝飯前!Twitterも気軽に開始! (2010/01/25)
- 東京地検と小沢一郎氏に思う (2010/01/24)
- 「見つめる鍋は煮えない」 (2010/01/23)
- 「忘却」の効用 (2010/01/22)
- グライダーから凧へ後退 (2010/01/21)
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
- 動かぬ大地になぜ驚かぬ! (2010/01/11)
- 自分が真に求めたいことは? (2010/01/10)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
政治を身近に!―Twitterをいかに使うか
2010-01-17
16日(土)夕刻から夏の参議院選に民主党から出馬予定の、ジャーナリスト・有田芳生さんの新年会に出席。この日は、民主党大会も行われたと報道されていたが、一昨日からの小沢一郎幹事長秘書らの逮捕に、参議院選への影響は如何にという情勢となり、有田さんご自身も朝日新聞の夕刊にコメントを寄せていた。「検察が暴走気味」とも、「小沢氏の説明では何が本当かわからない」とも、様々な捉え方があるだろうが、「生活を何とかしてくれという国民の思い」に応えるために、政治に取り組んでいくことが何よりも政治家として大切なのではないだろうか。有田さんは、小生のような一介の庶民も常に大切にしてくれるという姿勢がある。ともすると、政治の世界との大きな乖離を感じてしまうこともあるが、どこかで身近な存在として意識しておきたいという思いがある。
新年会参加者には様々な職業の方がいて、地方からいらした方も。そのそれぞれの生き方において政治への問題意識が高いからこそ、こうした会への出席で巡り会えるというもの。有田さんのお話が直接聞けるということも大変重要だが、さらにこうした支援者の方々との出会いが、新たな視点をもたらしてくれる。
そんな宴の最中、Twitterの話題になった。始めるかどうするか考えていた最中だったので、大変参考になった。どうも新しいIT文化を利用しようとすると、身構え不安視し躊躇する自分自身があったが、利用者の方々にその考え方をぶつけてみると、「電話や写真を生活に導入してきたときと同じ」だという。
回線を通じて遠い相手と話ができるという不安。自身の姿が写されたら魂を取られるのではという恐怖。更には、大空を飛べるのは鳥だけではないという発見。今でも飛行機への搭乗をためらう人はいるものだ。されど、全て人間の進化として日常化したというのだ。これは宴会中、ある方が明快に「まずはやってみるべし」ということを小生に説いてくれた話の流れだ。その上で、使い方は「各人の自由であり制約は受けないのだ」という。
IT文化が進化する急速さに押され気味でもあり、不安が先立っていた。しかし、ITとの付き合い方への不安は、あっさりと拭い去られたような気になった。確かに、職場などでPCを使用するのを未だに忌避している方を見ると、文房具を使えないのと同一視してしまうではないか。使用してみて、その使用法を自身に合うように設置する。そんな賢いユーザーになるべきだと痛感した。
さて、Twitterの利用は急速に広がり、元日から鳩山首相も使用しているのは既に有名な話だ。アメリカではオバマ大統領選挙などの折から、IT利用への注目は集まっていた。政治家とも、はてまた有名人とも同等に、その「つぶやき」を介して意見が述べ合える。民主主義の忠実な実行には、この先進文化こそが大きな役割を果たすのかもしれない。
民主党政権下での「情報の公開性」は、政治を密室から解放しつつある。政治の世界が国民から程遠かった時代は、ITの進化によって終焉を迎えようとしているのかもしれない。現に鳩山首相の使用に対して、自民党側からは批判が相次いでいたではないか。今こそ日本人が「政治を身近に」していく、大きな波が押し寄せているのではないかと思う。
自らも一国民として「政治に参加する」という意識を持って、身近にTwitterで考えを表明して行けたら。多ジャンルの人々との情報・意見交換という意味において、実に自身の視野を限りなく広くしていく道具である。その使い方は、自分自身が決めればいいのだ。
やはり2010年代! 1月から新しい流れをひしひしと感じる日々である。
- 関連記事
-
- 東京地検と小沢一郎氏に思う (2010/01/24)
- 「見つめる鍋は煮えない」 (2010/01/23)
- 「忘却」の効用 (2010/01/22)
- グライダーから凧へ後退 (2010/01/21)
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
- 動かぬ大地になぜ驚かぬ! (2010/01/11)
- 自分が真に求めたいことは? (2010/01/10)
- 「演じる」とは「訴える」こと (2010/01/09)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」
2010-01-15
14日(木)大学入試センター試験を週末に控え、昨年来懸念されたインフルエンザは、ほとんど治まった状態と見ていいのだろうか、「不安」はない。しかし、直前にして受験する上での「不安」を口にする高校生に何人も出会う。ある意味、受験は「不安」なもので、誰しもが経験する未知な世界であるから、「不安」を持つのは当然かもしれないが、その質が年々変容してきているような気もしないでもない。
模擬試験などを繰り返し受験してきているので、試験慣れしているはずなのだが、「悪い時の自分」を拡大解釈して、「そうなったらどうしよう」という不安。「その点数だと、志望校の配点では大変不利なのですが」という、結果も出ていないのに「個別的・各論的」な不安。不安だけが増幅し、平常心で受験ができない精神状態に陥るのではないかと心配になってしまう。
街では、そんな受験生の心を慰める商品も盛んに販売されている。この日、教室で高校生にこんな質問をした。「漢文では必勝というが、これを英語で言ったら何というか?」と。かなりクソ真面目に考えていたが、特に答える者もいないので、「Kit Kat」と言うと、あまり聴き取れなかったせいか、「へえ〜」と信じ込む。日本語的に「キットカット」そして「きっと勝つと」と言い直すと、「なんだ〜」と笑い、じゃあチョコを買ってきてよとせがまれた。
「きっと勝つと」に「うか〜る」(カールの受験祈願仕様)など、商品名の掛詞的連想から、受験商品として販売されるという現象はいつのころからか。昔と変わらず初詣などによる祈願は隆盛だろうが、神頼みならぬ商品の名前頼み。「名前」に「霊力」が宿るというのは、日本古来からの「言霊信仰」ではあるが。
いずれにしても正攻法な思考で、日常の「自分」で試験に挑めればそれでいい。誰しも「不安」はあるが、「過度の不安」が増幅し、その不安で自滅してしまうのが、何よりも「大人側の不安」である。そんな時に、受験会場で「言霊」宿るチョコレートを食べて前向きな気持ちになれるなら、それはそれで良好な精神作用を生み出し、甘いものは脳を活性化させるであろう。
受験は大学に入る為のものである。しかし、その受験勉強に取り組む段階から、実際の入試に挑むに至るまでの全ての過程が、受験生本人を1人前の「大人」に育てていくのだということを、改めて理解しておきたい。ゆえに「大人側」が過保護になっては、その成長機会を奪うことにもなる。聞くところによると、大学受験会場で保護者控え室を拡大しなければならないという事情があるという。受験生本人が「1人で行くから付いてくるな」というような状態が、普通ではないのだろうか。
かくして受験シーズン到来。将来を担う日本の若者が、真に「自分自身」と「大きな世界」と出会う第1歩がここにある。そのあり方に対して、様々に考えることは、日本の将来を考えることに繋がるはずである。
- 関連記事
-
- 「見つめる鍋は煮えない」 (2010/01/23)
- 「忘却」の効用 (2010/01/22)
- グライダーから凧へ後退 (2010/01/21)
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
- 動かぬ大地になぜ驚かぬ! (2010/01/11)
- 自分が真に求めたいことは? (2010/01/10)
- 「演じる」とは「訴える」こと (2010/01/09)
- 歌丸師匠の柔らかな妙技 (2010/01/08)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
Twitterと短詩形日本文化
2010-01-14
13日(水)仕事の隙間時間を利用して津田大介氏『Twitter社会論』(洋泉社新書)を一気に読了。軽やかに読ませる文体が、明快にTwitterの現状や効用を解説してくれていた。さすが、140字の「つぶやき」を日常で駆使し、仕事にしている人物の著書であると感心もした。そこで考えたのは、この高いリアルタイム性と伝播力をもつネットサービスと「日本語」という言語との相性である。津田氏も「日本語の方が英語の同じ文字数の2〜3倍の情報量を詰め込める」と指摘するが、ひとえに表意文字である「漢字」と表音文字である「ひらがな・カタカナ」が混在した、日本語ならではの芸当であろう。
単に表記の問題だけではなく、日本文化はその言語を、長い歴史の中で「短詩形」で磨いてきたという事実も忘れてはならないはずだ。渡部泰明氏『和歌とは何か』(岩波新書)で説かれているように「和歌とは演じるもの」という観点から、様々な「レトリックの醸成」や「場」において、その表現を錬磨してきた。どこか「儀礼的」でもあり他人に共感を与えるような、自ずと「演ずる」言語であるという点が、Twitterにも活かされてくるはずである。
津田氏自身が体験してきたTwitterの活用法は、おおむね次の5点に集約できるとあった。
? 日常報告
? 時事への感想・解説
? 思いつきの提案・教訓・冗談
? イベント中継=「tsuda る」と呼ばれている使用方法
? 自分の活動告知
これだけ箇条書きにすると、ブログと何が違うのかとも思うが、それぞれがリアルタイム性を持って140字という制約の中で表現されるということが重要であるという。?などにおいて、会議内容をその場で要約し発信していくという即時公開性に、大きな効用があると説かれている。
このような利用をした場合に、使用者に求められるのが「要約」の技術ということになる。会議内容の中継などは事務的な色彩が強いと思うのだが、他の「場」によって「目的」が各人で多様化した場合、短歌・俳句に見られるように、凝縮した文字制限下における表現の優劣が、その発信内容の如何を問うことにもなるはず。
既にTwitter使用者の年齢層はどうであるかとか、他国との使用方法の相違などに問題意識が及び、まさに「つぶやき」の中で議論されているようだが、短詩形を大切にしてきた日本文化との相性を、個人的に追究してみたい気持ちになった。三十一文字(みそひともじ)の短歌で四首あれば、かなりの「訴え」ができるはずであるから。
かくして本日の小欄も、各段落140字を意識してみた。(もちろん厳格にではないが)そして仕事帰りに、携帯端末をTwitterに適した環境にすべきかどうかの検討材料を求め、池袋の家電量販店に立ち寄る。(実際に購入したのは「枕上の読書灯」)「まずはブログをやること」を、津田氏の著書の中における対談で勝間和代氏が述べているが、毎日更新により説得力のある文章に少しは近づいて来ただろうか。
夕食後にシムへ行き、部分的な筋トレにサウナ。帰りがけにエレベーターで端末を片手にする中年男性が、「つぶやいて」いるのかどうか気になった。いずれにしても、そのリアルタイム性に「拘束」されない自己を確立した上で。また、使用目的を絞って翻弄されない使用法を求めたいものだと感じて1日を終える。就寝前に筑紫哲也氏『若き友人たちへ』(集英社新書)を読み始める。
- 関連記事
-
- 「忘却」の効用 (2010/01/22)
- グライダーから凧へ後退 (2010/01/21)
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
- 動かぬ大地になぜ驚かぬ! (2010/01/11)
- 自分が真に求めたいことは? (2010/01/10)
- 「演じる」とは「訴える」こと (2010/01/09)
- 歌丸師匠の柔らかな妙技 (2010/01/08)
- 尻込みする日本人?いま一度大志を抱け! (2010/01/07)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
「古典」は面白いか?
2010-01-13
12日(火)読書に適した時を「三余」といい、それは「冬・夜・雨」だと昨年10月頃の「天声人語」に教えられた。時代や人によって様々に感じ方の違いはあるだろうが、おおむね当たっている気がする。この日は、「雨」が「雪」の地方も多かったと思うが、この三条件が揃っていた日でもあった。
「読書」とは、かけ離れた状態で文章を読まねばならない時がある。とりわけ大学などの入試問題として文章を「読まねばならない」場合は、異質な読み方を強要される。もちろん、その中に面白いと思える文章が皆無というわけではないが、「設問」を解くために「読む」ということは、やはり通常の「読書」とは異ならざるを得ない。
とりわけ「古典」などの場合、更なる「解析」という意図を含んで、文法や単語レベルで文章を解体して読んでしまう場合が多いようだ。その結果、若者は「古典」を忌避し、その内容から何かを学ぶことにまで至らず、決して味わい深いものとは思わなくなってしまうのが現状のようである。果たして「なぜ古典を学ぶのだろうか?」
「それを学ぶ価値を論理的に説明できないから学ぶのだ。」という趣旨のことを繰り返し述べているのは内田樹氏である。この逆説的とも言える「学習の意義」は、どこか的を射ているように思われる。特に長年、風雪に曝されながらも人口に膾炙してきたからこそ「古典」なのであり、それを学ぶ意義が最初から理解できているなどという若者がいたら、それはよほど天才か嘘つきであろう。ということになると、「読む価値を説明できない」のだから、必然的に面白いということにはならないのかもしれない。「古典」を「面白く」ということ自体が幻想で、その意味は学んだ後に、しかもだいぶ時間が経ってから悟るときが来るのかもしれない。
それでも、寅年にちなんで小さな古典解釈に目を向けると、「面白い」と思える事にも出会う。
「人喰虎」と「人喰於虎」の違いはわかるだろうか?
正解は、前者が「人虎を喰らふ」と読むのに対して後者が「人虎に喰らはる」と読み「受身」の意味が生じる。前者が「虎喰い人」なのに対して、後者は「人喰い虎」のことを表すという大きな違いがあるのだ。たった「於」という一字があるかないかで、漢文などはこれほど大きな意味の違いを生じる。
ふと「古典をなぜ学ぶのか?」という題の原稿を依頼されて、このようなことも考えた。初雪が観測された東京。自身の「読書」もペースを上げて、まだまだ学ばなければならない分野は多い。
- 関連記事
-
- グライダーから凧へ後退 (2010/01/21)
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
- 動かぬ大地になぜ驚かぬ! (2010/01/11)
- 自分が真に求めたいことは? (2010/01/10)
- 「演じる」とは「訴える」こと (2010/01/09)
- 歌丸師匠の柔らかな妙技 (2010/01/08)
- 尻込みする日本人?いま一度大志を抱け! (2010/01/07)
- 転落か最高位か?さまざまな価値観 (2010/01/06)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
成人とは自ら悟るべきもの
2010-01-12
11日(祝)祝日法の改正以来、この第2月曜日が成人の日。「冠婚葬祭」の最初に来る「冠」=「元服」という通過儀礼として古来から存在するが、時代と共に年齢が上がってきて今も存在する。しかし、社会的な影響もあるのだろうが、年齢が上がったにもかかわらず、実際に「成人」となる人々の中には、それに値しない「幼児化」した人々も見受けられるものだと、TV報道などを見ると毎年のように感じてしまう。地方自治体主催の式典に参加し、おさまらない私語はもとより、壇上で祝辞を述べる人への暴言や妨害行為などなど。話が聞きたくなければ、無理に参加しなければいいのだが、それでも参加して抑制のきかない「幼児化」した行為に及ぶ。その影響もあってか、地方自治体によってはテーマパークで実施したり、ライブを導入したりと、若者志向に合わせた成人式も行われるようになっている。
果たして「成人」とは、一律に同じ段階で祝うものなのだろうか?日本の現状を考えると、十分に「成人」と認められる若者も多いが、そうでない者もいる。であるならば、「成人」というのは、それぞれの個人が「自ら悟る」べきものなのかもしれないという思いも出てきてしまう。そんな想いを胸に、先日、共に落語に興じた大学生2人にお祝いメールを送る。
この日の午後には、大晦日に申し込んだ元旦護摩祈願のお札を、西新井大師まで受け取りに行く。夕刻からは、今週末にはカナダに出発する知人の送別会。ライセンス取得のためにカナダでの過酷な修行に旅立つのだ。こうした旅立ちこそ、自立への道であり、まさに「成人」を意識する意味があるのかもしれない。彼の健闘を願い、そして夏頃にはカナダを訪問することを約束。希望の門出を、美味しいロシア料理とワインで祝った。
帰宅して2月に計画している「四国行脚」の航空便の予約。まずは行き帰りの足を確保することから、旅は始まる。いくつかの意図を持って、四国で何人かの知人を訪ねつつ、自身がこだわりある歴史に触れる旅を想定している。これでまずは第1歩。この段階なら航空機費用も「旅割」というのが適用され、四国の主要都市往復が、3万円を切る安さである。
様々な経験の中から、自らが何かを悟っていく。「成人」ならぬ、「若き青春の想い」をいつまでも持ち続けて、今年も前進していけるような予感がした。
- 関連記事
-
- 語学(英語)を学ぶ快楽 (2010/01/20)
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
- 動かぬ大地になぜ驚かぬ! (2010/01/11)
- 自分が真に求めたいことは? (2010/01/10)
- 「演じる」とは「訴える」こと (2010/01/09)
- 歌丸師匠の柔らかな妙技 (2010/01/08)
- 尻込みする日本人?いま一度大志を抱け! (2010/01/07)
- 転落か最高位か?さまざまな価値観 (2010/01/06)
- やはり「辺境人」であったか (2010/01/05)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :
動かぬ大地になぜ驚かぬ!
2010-01-11
10日(日)誰の言葉だか忘れたが、次のような名言が心に強く残っている。大地が動けば地震と驚くが、動かぬ大地になぜ驚かぬ!
いま、こうして平静にブログなどを更新しているという事実自体が奇跡的でもあり、大変稀少な幸福を過ごしていると自覚すべきなのかもしれない。改めて我々日本人は、地震の巣の上で生活しているということを深く胸に刻んでおく必要があると感じた。
この日、21時からのNHKスペシャル「MEGAQUAKE 巨大地震?」を偶然見て、このような気持ちにさせられた。地球の歴史46億年(この数字自体人間の浅知恵だが)に対して、人間が地震を科学的に解明するようになって、未だ半世紀しか経っていないという事実。いかに人間が「猿知恵」で、地球という未知の上で生活しているかということ。そして、その地球上での地震の10%が日本で起こるという恐怖の統計。それでも、未知の地震を予知しようと試みる学者たちの奮闘ぶりが、わかりやすく描かれていた番組内容であった。
地震は、主に海底に存在する「アスペリティー(地震の巣)」(プレートが移動しても動かない固着部分)が、プレートの移動に耐えきれなくなり、大きく跳ね上がり発生するという。そのしくみは何となく知っていたが、その大きなプレートが、東海から四国沖にかけて存在しており、更には日向灘近辺にもパワーが溜まっているという研究発表がなされているという。この巣のどこかが耐えきれなくなり連鎖反応により地震が起きたら、関東から九州東の太平洋側で、多くの大都市が壊滅的な被害を受ける可能性があるらしい。要するに、今までに経験もしなかった巨大地震の可能性があるというのだ。
これは、アメリカのシアトルの例を見るとよくわかる。19世紀以後に建設された新しい都市であるゆえ、過去に地震を一度も経験していないが、その沖合には、やはり「アスペリティー(地震の巣)」が存在し、いつ巨大地震が襲ってもおかしくないという。その上で、高層建築が比較的密集した海沿いに集中して建設されているという環境。想像も絶する被害に及ぶという学者もいる。昨夏シアトルに行き、大学を訪問することや、イチローのプレーに興じたのだが、地震が来るなどとは微塵も思ってはいなかった。偶然、地震の被害に遭わずに1週間の滞在を終えただけなのかもしれない。
人間は知らないことがまだまだ多いのだ。何も変化がないことに安閑と胡座をかいていては、大きなしっぺ返しを喰らうことになる。日常からの考え方として、何も変わりないものにこそ、疑問を投げかけていかなければならないだろう。
平穏な休日にこのように感じた。夕方にジムで筋トレとサウナ。疑問を抱くのが脳のトレーニングならば、身体も常に活性化していないと、大きなしっぺ返しを喰らうはずだ。
「動かぬ大地になぜ驚かぬ!」日本人として肝に銘じておくべきことであろう。
- 関連記事
-
- 続・センター試験と日本の教育 (2010/01/19)
- センター試験と日本の教育 (2010/01/18)
- 政治を身近に!―Twitterをいかに使うか (2010/01/17)
- 「不安だけが増幅する」という大学受験生への「不安」 (2010/01/15)
- Twitterと短詩形日本文化 (2010/01/14)
- 「古典」は面白いか? (2010/01/13)
- 成人とは自ら悟るべきもの (2010/01/12)
- 動かぬ大地になぜ驚かぬ! (2010/01/11)
- 自分が真に求めたいことは? (2010/01/10)
- 「演じる」とは「訴える」こと (2010/01/09)
- 歌丸師匠の柔らかな妙技 (2010/01/08)
- 尻込みする日本人?いま一度大志を抱け! (2010/01/07)
- 転落か最高位か?さまざまな価値観 (2010/01/06)
- やはり「辺境人」であったか (2010/01/05)
- 「絶対的価値体」との近接度 (2010/01/04)
カテゴリ :日記
トラックバック:(0)
コメント:(-)
tag :