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ことばの不思議

2009-12-09
8日(火)朝刊のコラムに小林秀雄の次のようなことばが引用されていた。

  「美しい「花」がある、「花」の美しさという様なものはない」

 能について批評した下りだそうだが、ことばと人間の認識の問題を的確に捉えている。本日が日米開戦の日ということが風化してしまうのを懸念し、「「悲惨な戦争」があり「戦争の悲惨さ」という様なものはない」ということを主張せんがための引用だ。ことばは抽象化することで、その問題意識と想像力を封じてしまい、他人事のように忘れ去られていくという。ことばという「認識」は、物事に対する考え方そのものである。

 今日は英会話の日。その前の食事も楽しみの一つ。一日中何かに縛られている感覚なので、その呪縛を何らかで解きたい。そこでいつもの洋食屋へ。時間帯が早いせいもあってか、やや空いている店内でカウンターに座る。少しするとこの時間に来店する常連で、洒落たワインを賞味する老人がやって来ていつもの座席へ。その席は配慮して空けておかなければなるまい。早々に出された水を飲み干したら、水を汲みながら店の奥さんがいろいろと話し掛けてきてくれた。妻の留学先のことから始まり、アメリカの食物事情、アメリカ人の体型のことなどなど。どうやらこの老人は、フランス語を学んでいるらしい。どうりで洒落たワインを片手が妙に似合うと思った。食後には、奥さんがコーヒーまでサービスしてくれて、すっかり常連客と化した。何にもこだわりなく自分のことを話せるという、ごく自然な行為が自然に行えることの何と爽快なことよ。ことばは、このように軽快にこだわりなく使用するものであるはずだ。やや頭痛気味であった状態は一気に吹っ飛んだ。「楽しかったです!」と、カウンター内の店主と奥さん、それにワインの老人にお礼を言って英会話へ向かう。

 英会話クラスは、いつものクラスメイトが欠席らしく、他の曜日を振り替えたという婦人が一人。どうやら生徒は2人。自ずと話す時間が増える。この1週間の悩みを話したが、講師も同情してくれて様々な英語表現を教えてくれた。日本語でなく英語で表現されると納得いくものも多く、外国語翻訳によりむしろ実体化が為された感覚であった。だからことばは面白い、話すことで自己の状態が捉えられるのだ。そうこうしているうちに、他の曜日を振り替えてこのクラスに来ていた婦人は、以前の顧客の母親であると判明。これまた偶然。しかし、外国語で話すというのは、以前の関わり方を封じてしまい、特別にバツの悪い感じを持たなかった。やはりことばは不思議だ。

 帰宅する途中に母から電話。今の状態を心配しているという。いくつになっても母は母なのである。改めて勇気をもらう。就寝前に、物事が事務的に進むように書面を作る。事実を事実のままに伝えるだけのことばと、少々の建前がそこにある。パソコンで作成した文字に、最後に自身の名前だけは万年筆で刻む。名前ということばこそ、何よりも重いゆえである。その名を全身で引き受けて、明日への快眠へ。
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