fc2ブログ

維新の1週間はじまりはじまり!

2009-11-30
29日(日)昨日、何か急に目覚めるように精神が強くなった。なぜだろう?伏線がなかったわけではないと振り返る。帰宅途中に、枯葉舞い散る舗道。思わずその落葉を踏むと、カサっと音がして、既に冬の趣を感じた。いつの間にか季節は秋から冬に推移していたのだ。しかし、そんな季節への敏感な心を失っていた自分がいる。生活実感として大切にしたいものへの感性が失われている。鈍り切った心は、不安定さから右往左往したからに他ならない。季節を感じる鋭敏な感覚で生きていたいと思ったからだった。

 朝の目覚めも良い。休日ながら5時半には起きて書類作成や原稿の最終チェック。本日中に郵便局の休日窓口に提出するのだ。珍しく朝食にパンを買い込んでおいたので、手間いらず。午前中はこんな作業に没頭した。いつも気になる政治談議の番組もどうでもいい。ただただ自身が前に進むために。ちょっとした休憩時に、来年2月に行われるアリス東京ドームライブの先行予約をしたのが、唯一の娯楽だ。

 午後は休日出勤。内容的には意味を感じない仕事だが、自身の中でやるべきことを淡々とこなしていく。不満で自滅するより自分自身の為の時間と位置付けよう。またまた充実して仕事が大幅にはかどった。帰宅してすぐに郵便局の休日受付窓口へ。急ぐあまり、自宅前の工事で凸凹になった道路で軽い捻挫。まあこのくらいの試練はなんともない。すこし時間が経って腫れて来たので湿布で落ち着かせた。久しぶりだ、捻挫なんて。それを不運とは感じない。せいぜい靴と靴下の相性が良くなかったので今後は気をつけようと思う程度。

 その後は、両親を誘っていつもの寿司屋。奥のテーブル席で、様々な話ができた。刺身をつまみながら、自身の決断を語る。そこに迷いはもはやない。前向きな決断が揺るがないことを自覚しながら。

 帰宅して、10時からのBSで「坂の上の雲」を観た。今日が初回であるが、幕末の日本人の在り方を再考させられる内容であった。平成維新などともいわれる政治的な変革期でもある今。明治から学ぶものは少なくないはずだ。正岡子規の生き様が描かれているのも実に興味深い。明治の力を更に注入して、変革維新の1週間が始まった。
関連記事
スポンサーサイト



カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

サラダが悪いわけじゃないのよ

2009-11-29
28日(土)「サラダが悪いわけじゃないのよ」と思わずこころに浮かんだことば。夕食を食べていると、突然、その孤独感と虚しさで顔を左腕に伏せてしまった。小欄にも折々書き込んできた精神的な不安が、極点に達した瞬間だった。心は耐えきれなくなり大粒の汗を眼から放出。それは「水菜と大根のサラダ」を食べた瞬間でもあった。決してサラダが悪いわけではない。

 この日は、夕食を選ぶのにも迷いの中。どこかの店に行くか、デパ地下で買い込んで家で食べるか。結局、後者を選択するが、何を買っていいかわからない。何かを食べたいという気持ちが起こらない。流れで地下街を歩いていると、偶然に見つけた「サラダ」と「煮しめ」。まあ野菜中心の食事だからいいかという投げやりな食の選択であった。それというのも、本来は午前中で終わるはずの仕事が、今日は様々なことで午後まで。やら「ねばならない」やる気のない仕事の継続が、精神を極点まで疲弊させていたのだ。

 ところが、どうしたことだろう?食後、しばらく虚脱感の中でソファーに座っていると、突然、活力が身体中を漲った。極点までの虚脱感からの反転か、無性に前向きな気持ちへと切り替わった。「よし!行くぞ!」とばかりジムへ。これまでなら、夜だから自転車で向かってしまうところだが、家を出た時に、ポツポツと雨が頬に当たる。今までなら、後ろ向きに不運であると嘆いていたところを、この時は歩いて行くチャンスであると思い立ち歩き出した。歩くことは、更なる精神の昂揚感を生む。ジムではサウナだけと思いこんでいたのだが、トレーニングをしたい衝動に駆られた。靴を持参してなかったが、靴下のままで腹筋運動を2種目に、上腕部のダンベルトレーニングを50回こなした。その後はサウナで妄想。何か自身の中で、予想もしない変化が訪れているのを自覚する。こういうものは突然やってくる。人生の転機とはそんなものだ。今までにも、飲み屋でトイレに行った瞬間とか、意図せず階段で偶然に出会った瞬間とか。そんな一瞬が、人生の岐路となって大きな流れを呼び込んだことがある。またまた、そんな瞬間に邂逅したのだ。

 どこかで、精神を支えてくれたのは、アリスの曲の歌詩。作詩したチンペイさん(谷村新司)ありがとう!

 ビールを飲んで、自身に乾杯!もう迷うことはない。一度極点に達した精神は、あとは強くなるばかりだ。明日へ向かって前進あるのみ。活力ある就寝を迎え、明日へ向かって希望の橋が見える。
関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

寝溜めは「貯め」になるか?

2009-11-28
27日(金)朝から自宅で仕事を予定していたが、昼まで寝てしまう。早朝から携帯の音で何回かは目覚めたが、夢うつつな状態の中で筋肉疲労の残る身体と、時折の性欲に駆られながら、ついつい布団から出ることはできなかった。今週の疲労感を取り去るには、やはり通常の倍程度の睡眠が必要であったのだろうか。

 起床後は予定していた書類作成に専念。集中してかなりの量を一気にこなした。何らかの達成感が欲しい毎日である。しかし、こんなでいいのかという疑問が渦巻いたりして、相変わらず精神は右往左往する。妻からのメールに励まされて、何とかこの精神状態を立て直す。前向きにやるべきことを推し進めようと、気持の中の優柔不断さを排除していく。どうも「鬱」な状態になりがちな日々。このトンネルの出口を見つけるのは、実に簡単であるのだが、それゆえの困難さがのしかかる。

 夕食は、厚揚げにもやしに葱とナメコの味噌汁。夕食というか、この日の唯一の食事になる。昼からはフルーツと煎餅のみで過ごしていた。夕食後も机に向かい続ける。精神がどこかに遊離しないように、この作業に没頭するしかない。

 その後、通常より遅い時間になってジムのサウナへ。身体を温めて血行を良くすると、机に向い続けていた時には思いつかなかった文章が、サラリと浮かぶ。改めて脳に対しても、血行促進は不可欠であると自覚する。帰宅して就寝と思いきや、通常のようにすぐには寝付けない。どうやら長い睡眠で、一時的な寝溜め状態になっているようだ。「夢か現か寝てか覚めてか」な状態を複数回繰り返し、通常では起きないトイレにも起きた。こうなると果たして寝溜めは有効なのかどうか?お金を「貯める」ように、いいタイミングで使えるならばいいのだが、どうも逆効果の方が大きいようだ。
関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

憤慨からの飛翔

2009-11-27
26日(木)冴えない気分の毎日が続く。ひとえに自己の精神的な安定のなさが生み出すもの。そこに外部から様々な情報がもたらされることで、余計な憤慨も増大する。社会情勢を報道する新聞記事。職場で顧客対応への方針。そして顧客による利益最優先の態度、などなど。憤慨の原因は一様ではない。

 仕事を終えてすぐにジムへ。この1日で唯一、精神と身体を開放してくれている空間だ。今日もボディパンプの1時間は、筋肉を刺激し持久力をつけ、精神的な忍耐をも鍛錬することができた。この運動という名の発散があればこそ、何とか精神が正常に近い状態で保たれている気さえする。来月24日クリスマスイブも木曜日であり、このクラスがあるので、インストラクターは「みなさんぜひ仮装して来て下さい」と告げていた。一丁、仮装してやろうかと気構える。こうした戯れに対しても前向きな気持ちになることこそ尊いはずだ。

 気分よくトレーニングして、夕食はいつもの中華屋。入店すると客は一人。しかもその男、携帯を大声でなおかつ馬鹿笑いをしつつ通話している。またまた憤慨の原因に出会ってしまった。その男の方は見えないように後ろ向きの席に座ったのだが、なかなか通話を終える気配もなく、円急騰の話題などを話している。店員も何度か男の方を睨みつけるようなしぐさ。普段は笑顔の店員さんが怖い顔になっていた。よっぽど注意してやろうかと何度か身構えたが、注意したら喧嘩になりそうな気配を感じたので、そのままビールを飲んでいた。この場面、注意すべきなのかどうなのか?「自分で気づけ馬鹿野郎!」と何度も心の中で呟いたのだが。そういえば、先日小欄に書いた「じいさん」は、駅などの下り階段で携帯を見ながら上ってくる奴がいると、頑固にその行く手をふさぎ「矢印が見えないのか、あっちに行け」と注意していた。しかし、今のご時世、注意することでむしろ被害者になりはしないかと心配でもあったが。世の中を住みやすくするのは、自分たち一人一人のはずなのだが。

 そのせいではないが、ビールと紹興酒を飲んでほろ酔いになってしまった。店員さんは、帰りがけに「奥さんいなくて、寂しくないの」と優しい笑顔で問いかけてくれた。「あなたも中国へは帰る機会は?」と問いかけたりして、食事の終わりは一転して和やかな気分になった。そんなことがあって帰宅すると妻からメール。忙しさに任せて返信を怠っていた。自分のこのような精神性をブログには書かない内容まで告げられる唯一の大切なパートナーだ。その後、パソコン画面を見ていると前後不覚に。時計は12時を裕に回っている。

 憤慨だけでは自分が潰れてしまう。自宅近くの道路を歩いていると、すれ違うだけで誰に対しても「あぶないね!」とかぶつぶつと呟いて憤慨している婆さんがいるが、その顔には自滅の相がある。憤慨を持ったら、それをいかに高尚な次元に昇華するかが大切なのであろう。かの司馬遷は「発憤著書」というごとく、『史記』という著作という形に「憤慨」を昇華させた。この憤慨の地平から離陸してこそ、自己の価値を最大限に発揮したということになるのだろう。迷わず飛翔への助走に入るべきである。
関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

ブログ2か月間連続更新

2009-11-26
25日(水)小欄を開設して2か月になるが、1日も絶えることなく更新し続けることができた。この間、自己の心情をなるべく素直にことばにしてきたつもりだ。そして、更新した文章を読み返すことで、無意識に何を考えて何にこだわっているのかを、自身で探ってきたのである。継続はいかなる力として効果を発揮するだろうか。

 朝日新聞のオピニオン欄に、詩人・谷川俊太郎へのインタビューが掲載されていた。気になることばから。

 「ブログが単なる自分の心情のハケ口になっているとしたら、詩の裾野にはなりえないでしょう。」
 「世界の見方が知らず知らずのうちにデジタル化しているのではないか。つまり、ことばがデジタル的に割り切れるものになっているような。詩はもっとアナログ的な、アナロジー(類推)とか比喩とかで成り立っているものですからね。詩の情報量はごく限られていてあいまいです。」

 果たして小欄は単なる「心情のハケ口」になってはしないか?すべてにおいて詩を意識する必要はないが、ことばの選択や文体などにより、自己の心情が詩に昇華し、何らかの類推を持ち得るものであれば、素敵なことではないか。

 相変わらずの仕事。昼食の社員食堂で会いたくない者を時間的に避けたつもりが、むしろ逆に遭遇。座席は意図的に離れたものの、そのしかめっ面で食事をする音などが嫌でも耳に到達する。下品な物食いをする者は、下品な物言いしかできない。ましてや他人の心情を察するなど程遠い。いつか社内研修で、大学の心理学教授が語っていたが、「人に温めてもらったことのない人間が、他人に温かくできるわけはない。」と。こういう人間の為にあることばも、当人は何ら類推する力がない。哀れだ。

 仕事を終えると、夜は編集会議。前回よりは具体的な内容に踏み込んだ話し合いが持たれた。意見や資料の提示にしても、以前より経験しているメンバーとのギャップは未だ大きい。されど、新しい視点を提示してこそ、この編集に参画させてもらっている意義があるというもの。忌憚なく自己の考えは述べるべきだろう。

 帰宅してジムのサウナへ。この囲われた空間での妄想は自己を救い解放する時間となる。1日の不快なものを汗として体外に放出させる。出た汗の分だけ新しい活力を注入し、英語のフレーズも充填して就寝。
関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

疲労と苦痛の1日

2009-11-25
24日(火)朝のTV番組が、愛社精神に関する調査結果を報道。就職内定時は80%の者が持つという愛社精神が、2〜5年後には50%になるという。そして世相が表わすように、転職を考えている若手社員の率は、高まるばかりであるようだ。終身雇用・滅私奉公といった姿勢は、もはや過去のもの。組織の為に企業戦士として働いた世代は、多くが退職を迎えている時代だ。

 連休が休めなかったので、朝から身体疲労が甚だしい。中心にズシリと鉛があるかのように重苦しい状態だ。その上で、眠気も伴う。やはり休むべき時には休まなければならないだろう。倦怠感のみならず、精神的にも重苦しさは甚だしい。早くこの肩にのしかかる嫌悪なる重みを取り去るべきだ。

 夕方からは英会話。いつもの洋食屋が今日は休みなので、カレー店で夕食。洋食屋が馴染みになる以前に、比較的頻繁に利用していた店だ。野菜エビカレーを注文。野菜の具が豊富でなかなか健康的なカレーが食べられる。英会話では週末の出来事を報告。シンポジウムにイタリアンレストランとソフトボール丸2日。これでは疲労しても仕方ないと、英語で発言しながら自覚する。この英会話教室の日程を見て、他の受講者の方と談笑していると、早くも来週のこの時間は師走であると気付く。東京では神宮外苑の銀杏が見事に色づいていると新聞に写真が載っていた。英会話講師は、週末に紅葉を求めて京都に行くという。いつしか秋も終り初冬の趣。旧歴でも冬となる神無月になっている。英会話から帰宅して、即刻風呂に入り就寝。寝るのが何よりの薬だ。
関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

迷い道の果てに

2009-11-24
23日(月)勤労感謝の日。今日も昨日に引き続きソフトボールの試合。同じ時刻の電車で会場となるグランドへ向かう。同じことを同じように永年続けることにも意義がある。しかし、毎日が何の変哲もなく過ぎていくことに疑問を感じることも多い。当初から自身が意図した道ではなく、一時期の興味で迷い込んだ道であればある程、その修正を求めた生き方を模索する。20代に迷い込んだ寄り路から今は原点となる正道へ戻ろうとしているのだ。

 ソフトボールの試合は1試合目で競り負けた。選手は自分たちの力以上のものを出した。「競る」ということ自体が、成果であるという見方がある。一方で競技には勝たねばならないという思いもどこかで常に付きまとう。その上で、試合をやるまでの過程や、日常でありながら日常性を失う特異な時間としての「試合」を経験することに大きな意義があるのだ。勝つ方法はいくらでもあるだろう。しかし、「勝つ」ということだけに意味を見出しては、現在の世知辛い世の中そのものだ。自分の技量が試されるような場合、多くはその過程にも意味があり、結果は二の次でもある。

 試合後は、会場近くの居酒屋で懇親会。これまでに、自身が取り組んできた過去を振り返りつつ、今の状況との段差を感じ取る。ボタンの掛け違いはすでに全てが解かれて、ボタンを初めから掛け始めるところまできている。その確信と離別の情を、オブラートに包みつつ挨拶の言葉として述べる。帰宅の方向が同じ人々と電車で。別れ際には、「もう会えないかもしれない」と告げる人がいた。一つの迷い道が、遥かなる過去の中に封印された瞬間である。

 帰宅して母から電話。明日、知人と食事をするが一緒にどうかという。明日の夜は英会話なので無理だと返答。行く末の心願成就の為に、昨日、参詣に出掛けたという。これまでにも、こうした参詣やお守りにより窮地が救われたことが多い。無病息災、そして心願は必ず成就するはずだ。湯船につかりしばし妄想。もはやこのような連休の過ごし方は2度と訪れないだろう。未来だけを噛み締める自身こそ尊い。疲労回復は10時台に寝るのが秘訣だという。迷わず明日という未来へ向かう眠りの森へ。もはや森の中で迷うこともないはずだ。

関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

じいさんの笑顔

2009-11-23
22日(日)早朝からソフトボール大会に参加のために家を出る。風はないがこの時季としてはかなり冷え込んで、その上時折の小雨模様。重ね着に重ね着をして、なんとか寒さを凌ぐ。大会では自身がプレーするわけではなく、マネージャー役。ベンチで試合を見守るというのは、更に寒さが身に沁みるのだ。

 ソフトボールという競技は、元来がマイナーであり、トップレベルの試合であってもTV中継されることは殆どない。日本チームがオリンピックで金メダルを獲得して、少しは脚光を浴びたが、それでも日本のトップリーグがどのような試合をしているのかという認知度は社会的に低い。しかし、一般人がこの競技に取り組むことにおいては、硬式野球と比較すると大変親しみやすく、多くの人が楽しめる競技となる。(だいたいにしてトップリーグを始め、大学以上の試合で野球の硬式球に匹敵する革ボールを使用していることさえ、知らない者が多く、オリンピック優勝の立役者・上野投手がTV出演した時なども、番組はゴムボールを用意して握りをさせていたという始末だから)特に今回参加の大会は、素人がソフトボールに取り組んでその魅力を知ろうとする機会を設けるという、草の根的な競技人口の裾野を広げるための大会である。

 この大会は、勝利至上主義ではなく、大会を運営し参加するチームの人的な交流に支えられている。大会の創設からして、このような考え方でソフトボールの裾野を広げてきた御大の功績を讃えてのものなのだ。その御大、既に80歳を越えておりながら大変元気に、この日も試合会場に姿を見せてくれた。我々は、尊敬の念を込めて彼を「じいさん」と呼んでいる。

 じいさんは、いつも笑顔だ。しかも「俺がいれば雨は降らない」と豪語する神通力の持ち主で、この日も天候が心配されたが小雨程度、予定の試合は全て消化できた。じいさんは、賭けが好きだ。この日は馬の方には投資したかどうか定かではないが、人生の遊びを堪能している。ゆえにソフトボールで采配をふるっていた頃も、本塁突入などで一か八かに賭ける果敢さが目を引いた。

 ほぼ1年ぶりに会ったじいさんは、「君に逢うと若返るよ」と元気に告げてくれた。こうした寛容で包容力のあるじいさんが、多くの子供にソフトボールの魅力を提供してきたのだ。野球は、プロがやるもので「観戦するもの」という位置づけをする場合が多いが、やはり人間は実際にやってみることで、理解できる度合がかなり違ってくる。TVで観ているだけでは何も分からないことの方が多い。しかし、現在、こうしたスポーツを通した人的交流が減少してきている気もする。野球を観て机上の空論の方が喧しい場合も多い。スポーツを通して自身が不可能であったことを可能にし、他者との葛藤やチーム内での組織作りに加えて、自身の長所・短所を見出すのはとても大切なことだと思う。じいさんの笑顔は、尊大に言えば教育の一端を支えているのだ。

 身体が冷え切ったので、帰宅して即刻ジムのサウナへ。1時間以上身体を温めては交互に水風呂にも浸かり血行促進。おかげでかなり温まってきた。帰りがけにいつもの中華屋。思わず「紹興酒熱燗!」と注文。その温かみは全てを忘れさせてくれた。その上に麻婆豆腐丼を食べたら、その辛さに身体は温かみが十分に戻った。帰宅してメールなど少々。1日中、外にいて寒さに凍えた身体は予想以上の疲労。明日に備えて9時半には英語を暗誦してから消灯。即深い眠りの底へ。
関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

邂逅と呼ぶにふさわしく

2009-11-22
21日(土)午前中の仕事を終えて、すぐに母校である大学へ。それでも仕事が延び延びになり、慌てて電車に飛び乗る。あるテーマのシンポジウムが開催されているからだ。到着すると開始後1時間経過。しかし、お目当ての方の基調発表には間に合った。話を聴き始めると、思いがけない発見があって、これぞ「邂逅」と呼べるもの。「邂逅」ということば自体が、「ぱったりと出会う」という意味であるが、特に「(人生の途上において重要な機縁となる)出会い。めぐり会い。」(新明解国語辞典・三省堂)と辞書にあるのに適合する。『新明解』という辞書は、このような微妙なニュアンスが表示されているので、他の辞書も参照しつつ比較すると実におもしろい。シンポも終了後、発表者に直接質問して、自己の知りたい点を掘り下げる。あとは帰宅してネット検索をすればいい。

 一時帰宅して、服装を楽にしてから麹町へ。バンド仲間の友人たちとのグルメの会。グルメ通の友人が、絶品のイタリアンを予約してくれた。久しぶりに転勤先の大阪から東京に出てきた友人を囲んで、楽しい会となった。どうやらこの店は、サッカーのイタリア選手が来日したりすると、来店するという本場もの。客に誕生日の人がいると、急に消灯して、イタリア語で「ハッピーバースディ」を店員たちが歌う。

 集まったメンバーは5名。大阪からの友人は携帯をiphoneに変更していたし、久しぶりに会うIT関連会社に勤める友人は、自身で起業を考えているという。それぞれに少しずつ変化があり、その変化の機微が話題となる。子供が生まれて間もない友人は、夜中に2・3回起きるというし、メカに目がない友人は60型プラズマTVを購入したという。こうした四方山話の中、贅沢なイタリアンのコースに舌鼓を打った。

 食後に、近くのカフェでしばし懇談。次に会うのは年末の忘年会ということで日程を申し合わせた。この連休が過ぎると、いよいよ今年もあと1カ月というムードが高まる。様々に不安や迷いを抱えていた自身が、このような仲間の何気ないことばに励まされる。昼間のシンポでの発見を、帰宅してネット検索。確かに自身が意図している土地では、興味ある内容の企画が、市という行政単位で行われていると知る。まさに「重要な機縁となる」出会いではないかという思いが強まる。風呂に入り、明日の準備を少々して通常よりやや遅い時間に就寝。
関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :

「無頼なれ」は時代遅れか?

2009-11-21
20日(金)朝から起きるつもりでいたが、いつの間にか11まで寝た。しかし、後悔はなく気分が回復し身体も調子よくなったので、たまに10時間程度の睡眠も必要なのかと納得。その後、自宅で仕事として原稿の推敲や書類作成。自身が前に進むための一歩一歩がここにある。

 相変わらずアリスの曲を合間に聴いて気分転換。昔は気にならなかった曲にもけっこう味わい深いものもあることを発見する。3人のメンバーはいずれも作詩・作曲をしているが、多くの曲は、谷村が作詩・堀内が作曲というパターンが多い。その中で、この日は「BURAI」という曲が気に入り始めた。

 無頼なれ君よ 心震わす日の為に  無頼なれ君よ 君が君でいる為に

 「無頼」とは、辞書によれば、「定職が無くて、法を無視した行動をすること。」(新明解国語辞典・三省堂より)とある。70年代において、学生がこのように自分の道を思うがままに生きることは、ある意味で憧れであり青春の勲章のように考えられていた。TVドラマにも「俺たちの旅」(中村雅俊主演)などの「俺たち・・」シリーズがあり、その中でも、会社組織に就職しても馴染めず、自分で「1日1日を精一杯生きよう」とする若者群像が描かれていた。まさに「無頼なれ」と、むしろ賞賛されるような時代であったと捉えていいだろう。

  「就職氷河期」という世相が示すように、弱肉強食の「新自由主義」以降、こうした社会からのはみ出し方が、いわゆる「負け組」と称され、高学歴・高収入の道を歩むのが「勝ち組」とされた。結婚とてしかり。しかし、この「勝ち」は本当に「勝ち」と言えるほど充実した生き方なのだろうか?その陰で、日本では多くの人々が悩み苦しみ、自分を失い、前を向いて生きられない世の中になっている。

  「心震わす日の為」「君が君でいる為」という、やや古く青臭いフレーズを、今こそ見直してもいいのではないだろうか。そうした生き方が、時代を大きな力で動かしていく活力になるはずだ。しかし現在は「無頼なれ」と言うのが、やはり時代錯誤にしかならないのか。

  夕方は寒いので「おでんのたね」を売る店に行く。顔馴染みであるが、やはり夏の間は行く回数が極端に少なくなってしまう。久しぶりなので申し訳ないと思いながら店をのぞくと、笑顔でおばさんが対応してくれた。「じゃがいもが崩れ気味だから、もう一つ入れておくね」という「無法」なおまけ。この対応は、70年代のままだ。

 食後も書類作成を続け、遅くなってジムのサウナ。筋肉が寒さで硬直しているので、しっかり温める。帰宅して少々の読書をして、英語のフレーズを音読して就寝。
関連記事
カテゴリ :日記 トラックバック:(0) コメント:(-)
tag :
<< topページへこのページの先頭へ >> 次のページへ >>