ドキュメンタリーの偉大さー1000年の山古志
2009-10-26
9時過ぎに起きてMLB中継を観ようと思っていたら雨天中止という。何となく政治討論などみるが、気が紛れず。この休日をどう過ごそうか迷う。じっくり原稿を書くか、それともジムか。ありきたりの選択をするのも無益に感じる。思い切って橋本信一監督のドキュメンタリー映画「1000年の山古志」を観にいくことにした。12時には家を出て東中野まで。この映画を上映している唯一の映画館「ポレポレ東中野」へ。到着してすぐチケットを買うと、整理番号は12。けっこう早い方である。開場時間までの間、映画館の並びにある「麺屋ばく」でつけ麺を賞味。太麺にそれほどしつこくないつけ汁。偶然入った店にしては当たりだ。
映画の冒頭は、2004年10月23日午後5時56分の中越大震災の被災状況から始まる。当時、報道を通じてけっこう見ていたつもりだが、これほどまでに悲惨な大震災であったかと、改めて心が痛む。その日その時は、ちょうど東京で学会の懇親会に参加し、歌人の佐々木幸綱先生と『万葉集』について談笑していた時だったと記憶する。東京でもそれなりの震度であり、一時、先生との会話が「地震だ」といって途切れ、全面ガラス張りの懇親会場が音を立てていた。その時、山古志では・・・。知っているようで、実は何にも知らないことがあまりにも多いのではないかと、改めて思う。
山古志では、被災した翌日には全村民避難勧告発令。家畜としての牛などを身を切られる思いで残し、ヘリで非難せざるを得なかった。その後しばらくして、子供たちに村の状況を見せようと、ヘリで上空に連れて行く決断をする。村の悲惨な状況を見て帰った子供たちは落ち込んだが、その後、山古志で生きてく為には、これを見せる必要があったと考えた村の方々の気持ちは尊い。多くの被災者の方々が、「自分が歩んできた何十年もの歴史が白紙になってしまった。」というようなことを口にする。自然は人間の何十年を一瞬にして消し去るのだ。人間の歩みとは、一生とは何であるかという問いを、映像は被災者の方々の生き様を通して語り掛けてくる。この虚構でない語り掛けに、ドキュメンタリーの偉大さをひしひしと感じた。
しかし山古志の人々は強かった。再び村で暮らすために、生活再建に立ち上がる。棚田を復活させるために自分で山の中を切り開き、ホースで水を引くように設営する女性。ひまわりの種を村の希望として植えていく女性。錦鯉を育てる家業を継いで、暗中模索して努力する男性。地震で倒壊した牛舎の下敷きになった牛たちが理不尽でならず、牛の命を最優先に考えた構造の牛舎を新築した牧畜家など。力強く山古志の生活を復興させていく。その生きる力に、人生を切り開く力をもらった思いであった。
自分自身と山古志の接点も浅からぬものがある。山古志村の入り口に小さな温泉地があるが、その付近に祖父が宮大工として建造した神社がある。2008年夏には両親と妻と4人で、その神社を訪れた。その先の山古志に、かくも力強い多くの人生があったことも知らずに。知らないことを知ることは貴重だ、ゆえにこの映画が語り掛けてくれたことは、自身の生き方を揺さぶるのだ。次回は、ぜひ山古志まで足を運ぼうと決意する。
帰宅してジムでサウナ。夕食は再びカレー。その後は読書。弟からメールで、小欄を読んで「胸に刺さるところもある」という。メールながらお互いの「今」を考える対話ができるのがありがたい。小欄が読者を少々揺さぶっていることを自覚し、その文章を綴るのも、2か月目に突入する。
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