ダラダラ感を救う笑顔の会話

2009-10-31
 30日(金)自宅で仕事の1日。しかし思うように原稿が進まない。MLB中継がワールドシリーズ第2戦でヤンキース対フィリーズを中継している。贔屓チームに敵対するヤンキースの試合を複雑な心境で眺める。

 最近、決して精神的なコンディションは良いとは言えないが、身体で好調なのが消化器系。どうやら夜にヨーグルトを食べているのが功を奏しているみたいだ。しかも、スーパーで見つけた「生存型ビフィズス菌LKM512」含有の、信州ミルクランド製造の「おしいいヨーグルト」が身体に妙に適合するみたいだ。他者の比較的有名なブランドヨーグルトよりも、やたらと調子が良い。朝のトイレでの状態が何とも言えず好調なのだ。この朝の一物をみて詠める。

 ふとぶとと1本の・・通りたりたまきはるわが命なりけり

 何となく浮かんでしまった。斎藤茂吉先生ごめんなさい。

 午後もダラダラしていると、妻からTV電話の着信。久しぶりにパソコンの画面越しに会話ができた。何しろ妻は、大学院での課題量が半端ではなく、次から次へと課題に追われる毎日。こちらのダラダラ感とは比べものにならない生活をしている。その笑顔に、どうしてもこちらが勇気づけられるという、どこか立場が反転したような状況でもある。しかし、その対話の中にこそ、様々な2人の今が構築され、自覚する内容も1人で妄想しているより、格段に進歩的だ。インターネットの存在は、世界の距離を飛躍的に縮めている。これでまた改めて前進する力をもらった。

 その後、大学の先輩である大学教授に手紙を書く。自己の考えを率直に伝えて、今の状況を越えていかねばならない。以前にも親身に仕事の声を掛けてくれた方だ。

 夕刻になったので、ジムへ。サウナで身体を温めてからストレッチ。昨日のトレーニングで筋肉の張りがある。適度にほぐれて来た。その後は、今日も馴染みの中華料理屋。自分でもどうしてこう毎日中華料理で飽きないのかと思うほど好きだ。
 帰宅して他の業種の友人に電話。不景気の影響がジワジワと身に迫ると実感しているようだ。悩んでばかりもいられない、世間には現実と闘っている人々も多いのだ。
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身体が重いときは重りで解消

2009-10-30
 29日(木)起床も6時と通常より遅い。何となく身体に重さを感じる。昨日は映画を観た爽快感から、鏡に映る自分の顔が健康そうであると自覚して寝たはずなのだが。心の動きと身体の状態は、なかなか自分でもその関係性がはっきり分かるわけではない。

 仕事は午前中で。午後は自宅で可能な内容なのですぐに帰宅。昼食は昨夜作った味噌煮込みうどんが、まだ十分に残っている。身体の重さは甘い食べ物を要求するようなので、コンビニでシュークリームとアイスクリームを買って帰る。どうやらこれで少し疲れが取れてきたような気もする。その後は順調に仕事内容を終える。

 夕刻からはジムへ。行こうかどうしようか迷ったが、やはり身体が重いときは「重りを挙げた」トレーニングで解消すべきかと、ボディパンプに向かう。この週末はハロウィンだということで、今日のレッスンでは、インストラクターの女性が猫に扮していた。どうやら先週には「仮装して来て下さい」と会員にリクエストしていたみたいだが、聞き逃していた。参加する会員の中にもカボチャのかぶり物を付けてきている方が1名。レッスンが進むとそのかぶり物が、ヒヨコやゴジラに変化する。この1名が脚光を浴びていただけだ。クリスマスに比してハロウィンは日本にはまだ十分に馴染んでないみたいだ。

 トレーニング後は、馴染みの中華屋。いつもウエイターの中国人男性が笑顔で迎えてくれる。水餃子・肉野菜炒めに玉子炒飯。食べ過ぎかとも思ったが、筋力トレーニングをして食べないと、またまた疲れだけが残る。野菜と肉と炭水化物とのバランスを考える。そしてこの日は、酒を断った。特に飲みたいとも思わなかった。帰りに会計を済ませると、いつものように「ありじゃしたー!」とやや中国語訛の笑顔で見送ってくれる。自分にとって欠かせない一店である。

 帰宅してソファでくつろいでTV。長妻厚生労働大臣が生出演していたが、何とも厚生行政は課題が山積のようだ。しかし、言っていること、行おうとしていることには国民の立場を重視した内容であり、誠実に話している。こうした政治家が台頭してきたのは心強い。しかし2055年には、1人の働く若者が1人の高齢者を養う世の中になるという。現在は3人が1人を支えている。司会者が眉を顰めて、「騎馬戦から肩車になってしまうんですね。」と比喩していたが、少子化対策は急務のようだ。

 そうこうしていたらソファで寝てしまっていた。身体の為にはまたよくない。規律よりのんびりしたので、まあリラックスしたと解釈することにしよう。
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吉祥寺でANVILを

2009-10-29
 28日(水)早朝から原稿書き、まあまあ進んでいるものの、内容がエッセイ風な回顧録になってしまっているのが気になる。職場では担当箇所も少なく、自分の仕事が進められた1日。午後は小さな会合。既知のことを改めて規定されて、新発見だというような発表が為されて拍子抜け。自身の行動のあり方には以前から根拠がある。

 夕刻から吉祥寺に向かう。目的はドキュメンタリー映画「ANVIL」を観るためだ。いい映画だというのに、何せ東京では六本木ヒルズとこの吉祥寺バウスシアターでしか観られない。全国でも8か所しか上映していないという。この状況そのものが映画の内容と響き合い、これまた共感を誘う。賑やかな表通りから少し引っ込んだ場所にある映画館は、ややレトロな感じ。入場すると前の回を観たカップルの男性の方が、目を赤くして出てきた。期待は高まる。席を確保しようと場内に入ると、自分のバンドのギタリストに似た男を発見。Tシャツにジーンズにやや小太りだ。開演前にトイレに行くと、手を乾燥させるドライアーが、いつもバンド練習で使用するスタジオと同型で、少量の吐息程度しか風が出ない。トイレまでの通路は煙草の煙で充満。いかにロックバンドに関係した観客が多いかを物語っていた。会場内も天井はむき出し、そこにスポットライトが散在。これもライブが可能なような劇場になっているらしい。

 30年前にカナダのトロントで結成され、メタリカなどのメジャーバンドにも大きな影響を与えたというバンドANVIL。しかし、その後は鳴かず飛ばずとなり、現在は他に仕事を持ちながらのバンド活動。しかし仲間とぶつかり合いながらも熱い友情で結ばれ、また家族にも支えられ30年間夢を諦めずにヘビーメタルバンドの活動を続ける。ヨーロッパツアーなどを敢行するが、移動の列車に乗れずに開演に遅れ、ギャラを払ってもらえずなどと悪戦苦闘。しかし人生の中で、音楽ができる幸せだけを噛みしめて夢を求める毎日。「観客が0人でも俺は演奏する。」とギターを持って楽屋からステージに向かう姿は涙を誘う。観た後の何とも言えない爽快な気持ちは何だろう。彼らの人生は好きなものに賭けるという姿勢が、純粋かつ尊いからだろう。

 吉祥寺は、妻と結婚する前に初めて(妻の)バンドのライブを観にいった街だ。帰り路にそのライブハウスの前を通る。当時と変わらぬ小さな看板を見つめて、時の流れとともに、変わらぬ想いを持ち続けることの尊さが心に浮かぶ。あの時、妻の歌っていた、せつない思いを表現した歌詞の曲が頭の中を駆け巡る。

 帰宅して野菜を多めの味噌煮込みうどん。食後はジムのサウナ。行き帰りの支度も冬仕様に変えようかと思うほどの温度。もう11月が近い。
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平凡が平和―常連のいる店

2009-10-28
 27日(火)とりたてて何もない平凡な1日。仕事に追われて気づいたら夕刻。今日は英会話の日だ。いつものように例の洋食屋に行く。決まった曜日の決まった時間帯には、ほぼ決まった常連客がいる。これもこの店が愛されているからであろう。ファーストフードやコンビニ飯にはない温かさは、何も料理だけではない。今日も、いつもの中年紳士がいたが、ビーフシチューではなくコロッケを注文していた。また1人の老人は、コンビーフ。結構な御年配に見受けるが、どうも肉が好きらしい。一般的に、「老人は肉を食べない」(のではないか)という固定概念に囚われていたが、そうではないらしい。むしろ肉を食べた方が、肌艶やかに長生きしているようにも見受けられる。おまけにおしゃれにワインなどを添えて。奇しくも世代を異にする3人が2人おきぐらいにカウンターで食事をするという状態であった。毎週のように観察眼を鋭くしている自身は、やはりビーフシチューを注文。こんな食事時の平凡さが、いかにも平和の証しか。

 英会話では、「1000年の山古志」を観たことを話した。映画の内容や感想を英語で言うのは結構難しい。パンフレット持参で写真を提示しながら進めたので、講師が単語などは、だいぶ助けてくれた。毎回のフリーな会話のたびに、語彙力の不足をひしひしと感じる。まだまだ勉強が足りない。

 帰宅して少々読書。マンション前の道路拡幅工事がややうるさい。寝床で英語学習をして月が西に傾くのも早い時季なので、月に遅れずに就寝。

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ドアに挟まる男性

2009-10-27
 26日(月)朝から淡々と仕事をこなす。そんな中でも、顧客が個別に成果が上がったと報告してくれると、嬉しいものである。良かったことも悪かったことも、人との「対話」を繰り返し、そこで自己のあり方を捉えていくべき。決して「独語」を一方的に語っていては、何も生まれてこない。そして、その表現は、多様性があっていい。「声」のみならず様々なジャンルの表現があっていい。これまた、読書から学んだことである。この本も大詰め。

 職場からの帰宅途中に地下鉄に乗ったら、ドアが閉まる瞬間に思いっきり、いわゆる「駆け込み乗車」してきたマスクの男性がいた。ドアに挟まり、おまけにホームドアも設置されているので、二重に挟まった感じ。さながら罠にかかった獲物のように、挟まりつつも身体を車内にねじ込もうともがく。自分自身の感覚としては、ドアを力技で開くことを援助すべきではないかと一瞬思ったが、相反する思いでそのまま観察し続けるしかなかった。かつて昭和の時代ならば、ドア周辺の乗客はこういったケースで、何人もが協力してこの挟まる男性を助けたであろう。現にそうした状況で「協力」の一員になったことが何度もある。ならばなぜ今回は躊躇したかというと、駅や車内アナウンスで重ねて言っている、「駆け込み乗車はおやめ下さい」に反して、それを助長してしまうのではないかという感覚が働いたからだ。結果的に、この男性はもがいた揚句に自力で車内に入り込み、周囲の目を気にしたのか、次の車両へと移動していった。果たして助けるべきであったかどうか?時代は、一刻も無駄にできないと人々が感じていた昭和という時代から、遥か20年以上。ゆっくりでもいいではないかという時代になった。同時に、共同体が「個」を守る時代から、一個人が自力で生きる時代にもなった。ただ、これも大局的な時代の捉え方ゆえ、自らの行動をそれに規定されていいものかという想いもある。新首相の指名から、時間が空き過ぎたタイミングで所信表明演説が国会で行われた。新たな「友愛」という時代が、真に幕を開けるのだろうか。

 夕食は月曜恒例の豆腐に和食惣菜。台風接近で雨風が強いのでジムへも行かず、久しぶりに自宅の浴槽につかりつつ風呂内TVで「水戸黄門」。その後読書。眠いので英語CDを聴きながら早目の就寝。
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ドキュメンタリーの偉大さー1000年の山古志

2009-10-26
 9時過ぎに起きてMLB中継を観ようと思っていたら雨天中止という。何となく政治討論などみるが、気が紛れず。この休日をどう過ごそうか迷う。じっくり原稿を書くか、それともジムか。ありきたりの選択をするのも無益に感じる。思い切って橋本信一監督のドキュメンタリー映画「1000年の山古志」を観にいくことにした。12時には家を出て東中野まで。この映画を上映している唯一の映画館「ポレポレ東中野」へ。

 到着してすぐチケットを買うと、整理番号は12。けっこう早い方である。開場時間までの間、映画館の並びにある「麺屋ばく」でつけ麺を賞味。太麺にそれほどしつこくないつけ汁。偶然入った店にしては当たりだ。

 映画の冒頭は、2004年10月23日午後5時56分の中越大震災の被災状況から始まる。当時、報道を通じてけっこう見ていたつもりだが、これほどまでに悲惨な大震災であったかと、改めて心が痛む。その日その時は、ちょうど東京で学会の懇親会に参加し、歌人の佐々木幸綱先生と『万葉集』について談笑していた時だったと記憶する。東京でもそれなりの震度であり、一時、先生との会話が「地震だ」といって途切れ、全面ガラス張りの懇親会場が音を立てていた。その時、山古志では・・・。知っているようで、実は何にも知らないことがあまりにも多いのではないかと、改めて思う。

 山古志では、被災した翌日には全村民避難勧告発令。家畜としての牛などを身を切られる思いで残し、ヘリで非難せざるを得なかった。その後しばらくして、子供たちに村の状況を見せようと、ヘリで上空に連れて行く決断をする。村の悲惨な状況を見て帰った子供たちは落ち込んだが、その後、山古志で生きてく為には、これを見せる必要があったと考えた村の方々の気持ちは尊い。多くの被災者の方々が、「自分が歩んできた何十年もの歴史が白紙になってしまった。」というようなことを口にする。自然は人間の何十年を一瞬にして消し去るのだ。人間の歩みとは、一生とは何であるかという問いを、映像は被災者の方々の生き様を通して語り掛けてくる。この虚構でない語り掛けに、ドキュメンタリーの偉大さをひしひしと感じた。

 しかし山古志の人々は強かった。再び村で暮らすために、生活再建に立ち上がる。棚田を復活させるために自分で山の中を切り開き、ホースで水を引くように設営する女性。ひまわりの種を村の希望として植えていく女性。錦鯉を育てる家業を継いで、暗中模索して努力する男性。地震で倒壊した牛舎の下敷きになった牛たちが理不尽でならず、牛の命を最優先に考えた構造の牛舎を新築した牧畜家など。力強く山古志の生活を復興させていく。その生きる力に、人生を切り開く力をもらった思いであった。

 自分自身と山古志の接点も浅からぬものがある。山古志村の入り口に小さな温泉地があるが、その付近に祖父が宮大工として建造した神社がある。2008年夏には両親と妻と4人で、その神社を訪れた。その先の山古志に、かくも力強い多くの人生があったことも知らずに。知らないことを知ることは貴重だ、ゆえにこの映画が語り掛けてくれたことは、自身の生き方を揺さぶるのだ。次回は、ぜひ山古志まで足を運ぼうと決意する。

 帰宅してジムでサウナ。夕食は再びカレー。その後は読書。弟からメールで、小欄を読んで「胸に刺さるところもある」という。メールながらお互いの「今」を考える対話ができるのがありがたい。小欄が読者を少々揺さぶっていることを自覚し、その文章を綴るのも、2か月目に突入する。
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恩師の個展

2009-10-25
 24日(土)早朝から小欄の更新に時間がかかりすぎ、原稿が進まない。本末転倒な状態になっているが、毎日の「自己」を語り出すことは貴重だ。既に癖になっている。

 午前中の仕事を終えて、関連業者の研修会へ。新たなデータに基づいた報告であるから積極的に行くべきだと、社内の主任がいきり立ってけし掛けて来たが、行ってみれば一般論。既に手元にある資料でも知れることや経験的なことばかりの羅列。第二部では、専門分野の対策研修会というので、嫌々ながらもう少し付き合ったが、更なる胡散臭さ。とうとう耐えられず、途中で失敬した。

 18時まで恩師が個展を開いているので、駆け足で直行。和菓子の手土産を携えて東京駅近くのギャラリーへ。大学時代に書道を4年間にわたり指導いただいた先生だが、ご亭主と何十年もかけて、ほぼ中国全土を旅したという。その各地での風景をご亭主が写真に収め、先生が自詠の漢詩を詠み、それを書作品にする。何とも粋で素敵な夫婦2人3脚である。写真とともに漢詩として書かれた字体が、中国の悠久なる自然や歴史を語りかけて来てくれる。私も中国にはけっこう行っている方だと思っていたが、行き先を地図に示した展示を拝見した途端に脱帽であった。「若いのですから、まだこれから何度でもどこへでも行けるではないですか」とご亭主。「学生時代は、千葉の記念碑除幕に車で連れて行ってもらったわね!」と先生。恩師と心得ているが、先生の方がこちらの学生時代における行動を詳細に覚えていてくださる。学生時代から垣根のない親しみ深い先生であったが、今にして改めて恩師とはありがたいものだと尊敬する。個展の写真と作品の図版集までいただいた。感謝と同時に、恩師との関係はいつまでも大切にするものであると実感。

 個展の時間も終了したので、先輩1人と後輩2人とともに近くの居酒屋へ。画廊に行く時に道を教えてくれた、外で客を勧誘するおにいさんの店に入る。酒も肴もまあまあで、旧交を温めるひと時であった。雨が降る中を、今夜もほろ酔いで帰宅。

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「ヴィヨンの妻」をみた

2009-10-24
 23日(金)昨夜のボディパンプのせいか、はてまた酒のせいか、何となく早朝から目覚めつつも体が重く、起床は11時過ぎ。原稿を進めようと思っていた午前中を、あっという間に失った。メールチェックすると、「ストレスになっていた大学院の試験が終わった」と妻から。さらに小欄を読んで、長門裕之についてのコメントが記されていた。夫婦関係のあり方について考えさせられるという趣旨である。ここには記さないような内容で返信メール。この日記の読者の一人として、何倍もの対話を提供してくれるのが妻だ。

 午後は、新聞や読書。3時過ぎに浄水器フィルター交換の予定がある。1年に1回だがメンテナンスも含めて、毎日の飯炊きや生活用水の浄化に欠かせない。丁寧な作業員の方が訪れて、迅速に作業をしていってくれた。「ペットボトルの水かそれ以上ですので」と帰りがけに言っていた。どうやらペットボトルの水は買わないでいいらしい。されど飲み水用として、馴染みの話好きな旦那さんがいる酒屋からミネラルウォーターを買っている。義理を通すか、浄水器メーカーのことばを信じるか。

 読書を続けていたら、次のような一節。
  「あなたが『私はあなたを愛している』と言う時、自分の心の状態を報告しているわけではないのよ。」「それは誰かと一緒にいるための方法、生きていくためのすばらしい方法の一つなのよ。」

 改めて「愛する」とは何かということを考えていたら、以前から観ようと思っていた映画・太宰治原作の「ヴィヨンの妻」に行くことにした。ちょうど18時25分からの最終回に間に合いそうな時間だった。話の始まりや大枠は原作通りだが、その中で最後に囁かれる「私たちは、生きていさえすればいいのよ」という、主人公・さちのことばを、どう解釈するかという点に向かい、心中事件や愛すべき人との出逢いと運命の話が加えられている。さちの夫・大谷の発言をはじめとする、丁寧語の会話が新鮮でもあり、観ていると日常で丁寧語の使用率が高くなってしまいそうだ。それにしても、妻のことなど考えもしないで、酒や他の女に浸っている大谷を、健気に支えていく妻・さち。夫が盗んだ金の為に小料理屋で働くうちに、店の看板娘になる。ある日、妻が若い男と帰宅の電車を共にしたことを疑う大谷。自分のことはさておき、「俺はcocu(妻を寝とられた夫の意味・フランス語)になりそうです。」と不安を妻に投げかける。まるで『伊勢物語』筒井筒の「河内へ通う男」のようだが、昭和の小説において妻がこのダメンズ夫を引きとめるのは和歌ではない。
 さちが語ることば、「誠実に今まで親にも尽くして来て、好きな人の為に万引きして何が悪いんですか」というのが印象的だった。果たしてその「好きな人」とは。

 生誕100年の太宰作品に描かれた女と男。愛と一つの夫婦関係のあり方を語り出してくれた。夏の米国旅行中、読み直した作品を改めて映画で。ラストシーンで、桜桃を食べて種を飛ばすような行為がキザでもありまた粋でもある。
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事実とは何か?

2009-10-23

22日(木)朝は原稿を執筆。少しずつ進んでいるものの、まだ波に乗って来たわけではない。焦る必要はないが、気分的に書き進めたいという衝動の入り口を発見したい。仕事では、同僚が担当分の時間枠を譲ってくれというので素直に献上。質的に進めていれば何の問題もないと認識しているが、人によっては量的に確保しないと、時間が足りないという感覚を持っているようだ。おかげで自分なりの時間が十分に持てた。

 一昨日、MLBマリナーズでの契約年数を残して退団し、日本球界に復帰するという城島のことが発表されていたが、今日の電話会見で次のようなコメントを残したという。

 「試合に(出場すること)に飢えている自分をいちばん暴れさせてくれるチーム。(に行きたい)」*(  )内は管理人注。

 たしかに技術を十分に持った人間が、現場の実践に起用されないのは苦痛が伴うであろう。プロスポーツである故に、このような選択も可能だが、仕事への思いというのは誰しも同じだ。納得していない仕事に張り付いていていいのだろうかと、改めて熟考する。

 しかし、上記のコメントもあるサイトを通じてメモ書きしたもの。果たして「事実」とは何か?昨日は、長門裕行さんに関するコメントをしたが、この「鴛鴦夫婦」の生涯にも、見えない部分がたくさんあるに違いないという。どうやらそんな点が気になったという妻からのメールで、過去のこと介護のことを知らされる。
 少なくとも、「事実である」という書き方は非常に危ういということを改めて認識した。読み進めている書物にも「すべての人々にとっての事実を発見する」というような主張は、偏った主張でしかないという趣旨が述べられている。まさにそれが「実証研究」の傲慢な点であると。

 帰宅して夕刻からボディパンプ。先週は参加できなかったので、今日は張り切って、バーベルを上げるにも充実感がある。その充実感からか、少々の酒ならいいだろうと思い、馴染みの中華屋で生ビールに紹興酒。1杯ずつであったが、けっこう効いた。何となくTVのニュースを観て、何となく就寝。英語学習は、酒の犠牲になった。まあ時にはいいだろう。酒に罪の意識を持つ方が罪である。
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対話する力

2009-10-22
  21日(水)朝は原稿を書こうと意気込んではいたが進まず、出勤せねばならない時間になった。焦りは禁物、筆が走る時に走るがままに。

   仕事中に担当の顧客と個々に会話。直近のデータに基づいての現状認識を短いながらコメントする。やはり、事務的にデータを渡すだけとは大違いで、個々の表情など受け止め方にも個性がある。やはり、多くの前でまとめた話をするのには限界がある。一人一人と対話する力は尊い。

  それに引き替え、社内のセクションごとの会議は空疎だ。建前や堂々めぐりのみで、議論にならぬ見せかけの議論。リーダーに個々の意見を引き出すがごとき「対話する力」はない。

  会議後、即退出。帰宅途中に池袋のリブロ。来週には全面リニューアルオープンするようだが、新しい本の展示方式に、思わず予定していなかった1冊まで購入。ただ棚に置いておくだけではなく、「展示方式」という名の「意図」と、客に訴えるがごとき「対話の力」がここにも存在した。

  帰宅すると、TVニュースで芸能界一の鴛鴦夫婦で知られた南田洋子さん逝去の訃報。夫の長門裕之さんが、会見を開いたのを中継していた。長門さんがいかに洋子さんを愛していたかが心の底から伝わって来た。しかし、役者として明治座の舞台公演中であった長門さんは、この日も公演に出演。洋子さんの死に目には会えなかったという。プロの役者とはかくなるものか。されど深い夫婦愛を語ることばに、自然と涙が流れた。しかし、芸能レポーターの不躾な質問には、見ていて心が痛む。長門さんを、愛する妻を失ったばかりの、悲痛な個の存在として対話しようとしていない。

  夕食後にジムへ。エアロバイクと少々の腹筋。エアロバイクの画面が映し出すTV]映像の段階では、楽天は日ハムに勝っていた。帰宅すると逆転負けをしたと知る。点差からして、もったいない試合を落とした。

  「私たちの私的な経験が世界をありのままに写し取ることができたとき、私たちは客観的だということになります。」
  「客観性とは心の状態ではなくレトリックである。」

 今日の読書からの引用である。果たして小欄の文章は、客観的にレトリックとして機能しているのか?

英語のフレーズを声に出してCDで聴いて就寝。
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