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情動と読解力ーシン心詞論に寄せて

2024-02-17
学部研究プロジェクト発表会
「読解力プロジェクト」からの報告として
「情動」を読み取るというやはり心詞論として

学部のプロジェクト研究発表会を、担当者として企画・開催した。学部には6つのプロジェクトが立ち上がっており、昨年から2ユニットごとに年度末に成果報告をお願いしている。いまこの文章に「お願いしている」と書いた。通常ならば「行なっている」でもよさそうである。事実、そのように書き直そうとした。だが前述したように僕が「担当者」として企画し、ユニットの代表者にも依頼してこの日の報告会が成り立っているゆえに、「お願いしている」という自らの「心」が表現の中に垣間見えることになる。このように「ことば(詞)」を発すれば必ずその背後には「心」が読み取れるもので、平安時代より『古今和歌集』仮名序に「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」と宣言され、特に詩歌の場合は大変に重要な存在意義として意識される。こんな趣旨を『短歌往来』2月号(ながらみ書房)巻頭の「視点」欄に寄稿した。

話は迂遠したが、報告会で「読解力プロジェクト」の内容が大変に興味深かった。いわゆる「国語」でいう「読解力」と、OECD各国で調査する「PISA型読解力」と2つの型に分類して考えるべきということだ。前者には詩歌に代表されるように「行間・余白を読む」ことも考えると、2つの中間に位置する「読解力」も考えるべきで、基本的な文章理解力とともに「情動」を伴うこととリテラシーと呼ぶ領域と幅広く「読解力」を考えられそうである。社会生活、特に仕事をしていると顕著に感じられるが、「心」を相互理解できるかどうかはそう簡単な問題ではない。同じ「ことば(詞)」を言っても「情動」まで掬ってもらえないことは日常茶飯事である。伝える側にも努力は必要だが、発言者の「心」まで「読み取る」ことが人間関係そのものといってもよい。学習指導要領にも「学びに向かう力・人間性等」が位置付けられるのは、「国語」が単に「国語科」としての学習課程のみの数量的評価に留まらず、「人として生涯を生きる」ための「豊かな言葉の学び」を目指すものと考えたい。ゆえに我々は狭量な「国語科教育」を含みこむ「国語教育」を豊かにするための研究をすべきと思い直すのである。

「心」と「詞」
あらためてふかくまことに(シン)極めて行くべき
あらゆる関係性の根源が「心詞論」である。


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千歳をかねて楽しきを積めー新年を寿ぐ

2024-01-03
「新しき年の始めにかくしこそ千歳をかねて楽しきを積め」
(『古今和歌集』巻第二十・大歌所御歌)
笑顔集まる「楽しき」を積め

元日の昼より妻の実家に向かい、兄弟や親戚の集まる集いに豪華なおせち料理が並んだ。こうして「1年の計」に笑顔でみなさんが集まれるというのが何よりの時間である。義母が注文したという京都のおせち料理に、冒頭の和歌が色紙仕立てに立派に付録されていた。「大歌」とは「古代宮廷の節会など公儀に用いられた歌謡」のことで、前掲歌には「おほなびの歌(大直日歌)」の詞書がある。「大直日」とは「伊邪那岐命(いざなぎのみこと)の御子、「大直毘神(おおなびのかみ)」のことで、この神を祀る際の歌謡が前掲歌である。この神は「異常で穢れた状態をただしく直す」つまり「禍を吉事に変える」神であるとされている。「新しい年の始めには、このようにして一同が集まり千年の繁栄を期待し、『楽しき』を『御竈木(みまかき・衛士が庭に積んで祝う木)』のように積み上げましょう」という歌意である。

誠に「新しき年の始め」においては、このおせち料理のような思いが古代から込められている。誰もが生きていれば苦難があるが、それを「正しく直す」ためにも「一同が集まり千年の繁栄を期待する」めでたい時間が求められる。家族や親戚が集まる意味は、この和歌のような趣旨にある。などと「楽しき」時間を過ごしていると、スマートウォッチに「石川県震度7」の通知が。自然の神は元日など人事の祝いに容赦なく襲いかかる。まずは被災された方々へのお見舞いを申し上げる。既に古代の祭祀とまつりごと(政)はかけ離れた世の中であるが、平穏を「大直毘神」に祈るような心を誰しもが持つべきではないか。自然を崇拝してこそのecoであり、温暖化防止への道であるような気もする。「大直毘神」とは、人間自らの「心を直す」ことでもあろう。などと石川県能登半島方面への祈りを続けていると、昨夕は羽田での飛行機接触炎上事故が起きてしまった。

まずは「わたし」が「心」を大直毘神に祈る
自然と人の世とあらゆることが穏やかにあれ
あらためて祈りを込めて「やまとうた」を大切にしてゆきたいものだ。


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年賀状を手書きにこだわる意義

2023-12-30
年賀状の多くは宛名もプリント
だが今年も筆ペンで1枚1枚を書く
事務的なものにあらず普段は会えない人を思うために

年賀状は確か25日頃までに出すよう、日本郵政は喧伝している。もちろんこれは「元日に届けるため」ということなのだろう。だが最近はその広報も喧しくなく、むしろ世間では年賀状をやめる向きの話題もよく聞く。社会の動向はどうあれ、自分自身の年賀状という存在を自問自答してその意義を見いだす人でありたい。今年は早々にデザイン印刷を注文し手元にあったにもかかわらず、結局は着手したのが昨日、宛名は筆ペンか万年筆で手書き(今年は万年筆のインク事情で筆ペン)、さらには必ずわずかでもコメントを付すのでそう簡単には終わらない。日常から礼状の類もそうだが、筆ペンや万年筆の手書きは貴重だと思う。今年は『牧水の聲』(鉱脈社9月17日刊)をお送りする際に、宮大短歌会の学生がお世話になった馬場あき子先生に手書きのお手紙を添えた。すると大変にありがたくも手書きのお葉書をいただいた。短歌に関わる者として、それは家宝となる1枚として机上の見える位置に掲げている。

このように文章を書いているうちにも、まだ年賀状を投函していない。本日にコメント書きをしてからの投函となる。昨日も書いたが、日本郵便の配達日数は今や「明治時代並み」に衰退してしまっているように思う。これもひとえに、日本郵政という会社のせいばかりではない。だがその配達状況からすると本日と明日は土日で、配達も集配も動かないということか?すると僕自身の年賀状は、仮に今日に投函するといつ配達になるのだろうか?と疑念が先行してしまう。それを心配するなら25日までに投函すればよいのだが、仕事に原稿、さらには短歌関係ですべきことが優先となる。むしろ年始の心を自らが持ち始めた今頃にコメントするのが、本道とさえ思う。それでも1年に1度、この葉書のわずかな面積の上だけで交流が続いている人も少なくない。その方々へ届ける一言と手書きの宛名、「あなたの名前を一字一字書く」ということに敬意を持つことが僕自身の大きな年賀状の意義だと思っている。

三が日を過ぎてしまうのだろうか?
はてまた葉書が80円台になったらどのくらいの人が年賀状を
デジタル化が甚だ進む時代に「手書き(相手への思いを文字を刻む)」ことを考えたい。


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いま言葉にして寝かせて推敲する

2023-11-10
まず出会ったらやる
その時はいいと思っても寝かせると
推敲して言葉が引き締まる

起床後の小欄をはじめとして、僕は日々にどれぐらいの言葉を紡ぎ出しているだろうか?歩数はここのところ、1万歩は裕に超えている。小欄で概ね800字から1000字ほどか、仕事上のメールや講義にオーラル上の公私の会話を含めれば裕に何万字に達しているだろう。最近、大切だと思うのは「出会ったらすぐにやる」ことだ。短歌も原稿も仕事メールも「すぐに言葉にする」こと。ある意味で小欄は「起きたら今日の自分という存在を確かめて、前日の大切だと思われる脳に刻まれている記憶を言葉にする」という行為だ。昨日は仕事を終えて帰宅して夕食を食べたら、ある提出書類の送信を忘れていることに気がついた。この件もまた「出会ったらすぐやる」ことで書類はほとんど出来ていた。

夕食後にスーパーに牛乳を買うことも兼ね、仕事場まで車で向かった。送るべき書類を確かめるといくつかの言葉を修正したくなった。1週間ほど「寝かして」おいたことで、「すぐやる」時点では良かれと思っていた文言をより適切な内容や表現に修正できた。このような経験をすると「すぐやる」のは確かに実行すべきだが、「寝かせる」ことも大切だと痛感する。彫刻ならばまず思った通りに粗々の形は削っておくが、寝かせてから他者が鑑賞する眼でもう一度見直して細部を仕上げていくだろう。即時的なインスピレーションとともに、寝かせることで客観的な視点で見つめ直す。この相反する作用があってこそ文は、生きたものになってくるものだ。

心が受け止めたその時
まずは言葉にしてみること
酒と同じように熟成の時間も必要なのである。


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制約されない記憶ー山下清展

2023-11-05
周囲にいじめられひとりで絵を描く
見てきた景色の記憶で描いていく
手紙に句読点がないことを母に断るなど

宮崎県立美術館で開催中の「山下清展」を観た。あらためてその生涯と作品を味わったが、ドラマや映画でのイメージとはいささかの違いがあることも今回の展示で知ることができた。幼少の頃より周囲からいじめの対象となり、ひとりで閉じこもって描画に励んだ。7歳前後の鉛筆画にも繊細な観察眼が発揮されており、想像力と筆致との連動には眼を見張るものがあった。さらに貼絵作品制作の几帳面さと色彩の豊かさには、その本性から発する才能の豊かさが実感できた。放浪の旅や欧州旅行を題材にした作品には、景色を生きる喜びに転化する感性が窺い知れた。

作品解説などを読んで特に気になったのは、景色のある場所で作品を描くのではなく記憶している景色を描くという点だ。写真や動画が全盛な現代は、正確さに拘る感覚が蔓延っているように思う。だが一旦は自らの記憶の中に寝かせて創造的に発酵させるような過程が山下清の中にあったとしたら、大変に興味深い。ある意味で「短歌の景を言葉で捉え直す」ことに類似していると考えたからである。また展示にあった「母への手紙」では、その文章に「句読点がない」ことに対して盛んに断り書きを記していた。山下清の文面に拠ると「喋る言葉には句読点はない」からだと力説している。現在の「国語学習」では「句読点を適切に付ける」ように教わるが、まさに山下清がいうようにオーラル表現(喋り言葉)には「、」「。」はない。むしろ「読む側」が書き手の息遣い(意識)を汲み取るように読みべきものなのではないか?講義などで古典本文を扱う際、学生の「句読点への意識」が浅はかなのを感じるが、知人の日本語学者は手紙に「先方に失礼だから句読点は付けない」のだそうだ。肉声のような山下清の葉書には、日本語の原点が垣間見えた。

輝く個性を大切に開花させること
「イメージ」という意味で興味深い想像力と言葉
制約されず己の心を解き放つ抒情が様々な面で開花するのだろう。


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口をついて出た「いつもいつも思ってた」

2023-10-05
何気ない言葉のリズム
日常的に使っている日本語の「うた」の要素
講義のポイントに差し込んで思考を刺激して

隙間のないびっしり予定のある一日。午前中は非常勤先の講義の初回、新たに出逢う学生たちの表情が新鮮だ。「文学」という後期科目なので、自著『日本の恋歌とクリスマスー短歌とJ-pop』をテキストにして、ちょうどクリスマス時期に音楽と短歌が交響するような展開を意図している。講義で話していると意図せず「いつもいつも思ってた」というフレーズが出てきた。音数でいうと「いつもいつも(6音)+思ってた(5音)」である。これはまさにサザンの新曲『Relayー杜の詩』の一節である。桑田さんの歌い方を聞いていると「いつも(休音)いつも+思って〜た」というメロディに乗っており実質上は「7音+6音」ほどの尺に入れていて、「2音1拍」を基礎単位とする拍節として「4拍+3拍」に収まりまさに「七五調」の短歌リズムに相当する。

大岡信『あなたに語る日本文学史』(2023年8月刊 角川ソフィア文庫)を読んでいるが、その帯にある「私たちの言葉はすべて『歌』から始まった」が刺激的である。「日本文学史」特に「古典」を考える時、「歌が基軸」であるとするのは基本である。だがなかなか中高の古典授業では真逆の展開ばかりが為されており、我々のような和歌短歌研究者からすると甚だ違和感を持たざるを得ない。「私たちの言葉は・・・」という時、牧水・啄木のわかりやすい歌があったこと、さらには俵万智さんのまさに日常の口語を「五七五七七」の形式に流し込んだ流暢な歌を考えればより確信が得られるのは必定である。話題を桑田佳祐さんに戻そう。桑田さんの曲作りの基本は、まずは曲ができて「仮歌」が伴う。つまり「メロディ+リズム」の中に朧げな言葉が潜んでいると言い換えられようか。「◯◯◯◯+◯◯◯」という拍節に乗ったこのフレーズ、その次にこそたぶん一番訴えたい「知らないうちに(7音)+決まってる(5音)」が見事な口語七五調フレーズとして決め手となっている。

「いつもいつも思ってた」+「国語っなんて嫌いだ〜と」
などという応用を午後は本務校の1年生授業で発してみた
僕らは日常から「歌」を使って喋っているのだ。


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「エンジョイ」と「楽しむ」のあいだ

2023-08-29
「エンジョイベースボール」の受け止め方
同様に「楽しい授業」とはかくあるものか?
基礎基本骨格なき活動は果たして楽しいと言えるのか

慶應高校の甲子園優勝にあたり、チームが掲げていた「エンジョイベースボール」という方針が話題になっている。野球評論家の上原浩治さんが記事やTV出演を通じて、「エンジョイ」の真意を取り違えるなという趣旨のことを述べた。当該記事をSNSに引用したところ、懇意にする声優さんが「芸事の世界にも言えること、エンジョイの陰には、どれだけの努力が積み重なってきているのか、そこなくして、奇跡は生まれないと思うのです。」という返信をいただいた。それぞれの分野で同様に「エンジョイ」への反響は大きい。

スポーツ選手が「楽しもう」というようになったのは、この20年ぐらいであろうか?たぶん英語の「enjoy」の翻訳から来たのではないか。英語圏に行くとレストランでもホテルでも、ともかく「enjoy」と声を掛けられることは多い。詳細を調べたわけではないが、英語の「enjoy」と翻訳日本語の「楽しむ」ではやや言葉の趣旨が違うような気もする。僕なりに考えると、明治時代以降の翻訳で趣旨が歪んで捉えられ続けている語彙が思う以上に多いのではないかと思う。「授業を楽しもう」も同様に、基礎基本骨格なき学びは「楽しめる」はずはないのである。

安易な精神論に回収すべきではなく
あくまで個々の主体が尊重され才能を発揮するための環境を
「人生を楽しもう」ということが日本人は下手なのかもしれない。


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文の奥に入り込む感覚

2023-07-03
読むときは再読に再読を重ね
推敲のときは見直しに見直しを重ねる
文の奥に入り込むような感覚で

朝に新聞を見わたすように読むことと、文学作品を奥に入り込んで読むのとでは大きな差がある。新聞記事やニュースのアナウンスは、より客観的で事実を事実のままに伝えるのが第一義である。よって文の奥行きを探っても何かがあるわけではなく、「言葉」のままに受け止めればよい。これが言語としての「言葉」が社会に通行している大きな理由でもある。あくまで「伝達手段」として汎用的なのが「言葉」である。その一方で「ことば」あるいは「コトバ」とひらがなやカタカナで表記すると、その意味合いも違ってくる。表現をしたものが世界で此処にしかないことを何とか伝えようとして、魂の底から発したようなものと言えばよいだろうか。そこに文の奥行きが、自ずと生じている。

平日に仕事をしていると、前述した両者を巧みに使い分けねばならない。仕事のメールを読んで返信をする脳と、「コトバ」を読み取ろうとする脳は明らかに違う。この日は久しぶりに何事にも囚われない休日であったので、後者の脳をフル回転させようと意気込んだ。午前中の歌集への向き合い方、そして派生的に他の関連歌に及ぶ視点など、なかなか切れがよいスタートとなった。昼食後は書斎の整理に勤しみ、眠気が催すのを自らが動くことで避けることができた。その後は研究室まで足を運び、ある文章の最終的な推敲に執心した。自らが記した文に無駄はないか?用語は適切か?その奥にある真に伝えたいことが他者にも伝わる文か?などなど、まさに斬り込んで行くような感覚で自らの文を裁いていく。その集中度と爽快さに、酔い痴れるような時間になった。

未だ梅雨前線の停滞で豪雨が続く
だが文の奥に入り込む快感をもって夏のような潔さを一足先に
7月は調子がいいぞ!と天の女神が微笑む午後でした。


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真実の最大の敵ー「表現する」虚構という名のうそ

2023-05-02
「かくす」=「ゴマカシ」=「機密・謀略」=保守的
「表現する」=「ホラ」=「虚構」=革命的
「うその中にこそ想像力によって生みだされる真実がある。」(寺山修司の言葉より)

「正直に事実を言いなさい」我々が〈学校〉で教えられるのは、基本的に「事実」第一主義である。「素直・正直・礼儀」などを校訓として掲げている学校は多く、「嘘をついてはいけません」という姿勢を強調される。もちろんこの姿勢に「理」はあるのだろう。ゆえにイソップの寓話「狼が来たぞいう羊飼いの少年」を読むと、「嘘をくり返しつくと信用してもらえなくなるから嘘はいけない」教訓として解するのが一般的だ。だがこの寓話では最後に「羊がすべて食べられてしまう」悲劇に遭遇するわけであるから、村人たちが「この少年がなぜこのように嘘をくり返すのか?」という「なぜ?」を抱き、排斥的にならずに内包して対話をすれば悲劇は防げたはずである。冒頭に掲げた寺山の「うその中にこそ・・・」はそれを如実に指摘している。寓話は「嘘の否定」ではなく、「うそはいつか真実になる」怖さを語るものとして解釈したほうが建設的で革命的である。

前述したような〈学校〉の教えがあるからか、「国語」で「文学」を読む際にも「事実」を標榜して欺瞞に満ちた授業になることが少なくない。「作者の意図」「登場人物の心情」を「事実」をベースに考えるように求めているから、学習者はやがてその「欺瞞」に気づき始める。小中高と〈学校〉生活を送り、大学に入学して来る新入生にまず教えるのは「正解はひとつではない」という姿勢である。『伊勢物語』を教材として、和歌一首にいかに多様な読みが可能かを考えさせる。やがて「人間の心など唯一無二の核心があるのではなく、多様に彷徨い常に揺れている」ことに気づき、試験・入試を目的にした〈学校〉での「国語」の欺瞞から目を覚ます。同様に研究発表とか会議で「実は・・・」という言い方をする話者が気になって仕方がない。「私は真実を言っている」と押し付ける誇大で傲慢な物言いに聞こえてしまう。寺山のエッセイに「私の好きなことば」として「真実の最大の敵は、事実である。」であるが、〈学校〉で言う多くの「実は・・・」は後者であることが少なくない。

「文学は読者が作る」とも
真実を見つめるための想像の果ての表現
あなたも「実は・・・」「事実だ」にはご用心した方がよい。


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「話す」は「放す」ことでもある

2023-01-29
心の内に持つことは
誰かに帳面に短歌に「話す」
声や文字になった「心」は「解放」され自分の軸が定まってくる

珍しく仕事の予定がない週末を迎えた。冷える朝をややゆっくり寝て、時に身を任せるように過ごすのもたまには良い。昼過ぎから母と買物に出かけ、1週間分を目安に食材を調達する。母も至近のスーパーならば独りで買物に行けるのだが、やはり新鮮な野菜と精肉が購入できるスーパーを選んで行きたいという思いが強い。宮崎野菜と上質で良心的な値段の精肉などにより、自ら煮物などを作れる環境は、両親の健康を支えているように思う。正直なところコーラや甘い物を好む父の食生活には注文も多いが、それでも血液の状態が良いと医師に褒められたと云う。空気の良さのみならず、宮崎の生活環境は両親の健康長寿に大きな力を与えてくれている。

このような流れで、午後のひとときは暖かい陽射しが降り注ぐ自宅リビングで母とゆっくり話ができた。誰しもが年齢が上がるにつれて、先行きの不安がつきまとうのは当然であろう。過去の様々な岐路を思い返したりしつつ、現在の生活や今後のことなどあれこれと思いつくままに話す。「話す(はなす)」についてはよく短歌の座談などで、「放す」に通じる「やまとことば」であるという話題になることが多い。心の内に「不安」などがある場合、そのままにしておくと埃のように積もりに積もって自らの心身に不調さえきたしてしまう。ゆえに「放す」ために「声」や「文字」にして吐き出すのがよい。すると負のものはやがて「離す」ことに至り、心身が軽くなるものだ。良いものはいつまでも記憶に残り、次に進むための力になる。そういえば僕も中高時代に高価なノートに日記を書き続けていた。その際の「放す」は、どこか小欄の文章にも通ずる。そして論文・評論などの文章力として僕を支えてくれている。苦しい時こそ「放す」こと、さすれば必ずや光明が見えてくるはずだ。

夕食も両親とともに馴染みの洋食店へ
そして夜には著名な友人から宮崎来訪の連絡
1日中、「放す」ことで期待の新しい2月がやってくる。


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