「エンジョイ」と「楽しむ」のあいだ
2023-08-29
「エンジョイベースボール」の受け止め方同様に「楽しい授業」とはかくあるものか?
基礎基本骨格なき活動は果たして楽しいと言えるのか
慶應高校の甲子園優勝にあたり、チームが掲げていた「エンジョイベースボール」という方針が話題になっている。野球評論家の上原浩治さんが記事やTV出演を通じて、「エンジョイ」の真意を取り違えるなという趣旨のことを述べた。当該記事をSNSに引用したところ、懇意にする声優さんが「芸事の世界にも言えること、エンジョイの陰には、どれだけの努力が積み重なってきているのか、そこなくして、奇跡は生まれないと思うのです。」という返信をいただいた。それぞれの分野で同様に「エンジョイ」への反響は大きい。
スポーツ選手が「楽しもう」というようになったのは、この20年ぐらいであろうか?たぶん英語の「enjoy」の翻訳から来たのではないか。英語圏に行くとレストランでもホテルでも、ともかく「enjoy」と声を掛けられることは多い。詳細を調べたわけではないが、英語の「enjoy」と翻訳日本語の「楽しむ」ではやや言葉の趣旨が違うような気もする。僕なりに考えると、明治時代以降の翻訳で趣旨が歪んで捉えられ続けている語彙が思う以上に多いのではないかと思う。「授業を楽しもう」も同様に、基礎基本骨格なき学びは「楽しめる」はずはないのである。
安易な精神論に回収すべきではなく
あくまで個々の主体が尊重され才能を発揮するための環境を
「人生を楽しもう」ということが日本人は下手なのかもしれない。
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文の奥に入り込む感覚
2023-07-03
読むときは再読に再読を重ね推敲のときは見直しに見直しを重ねる
文の奥に入り込むような感覚で
朝に新聞を見わたすように読むことと、文学作品を奥に入り込んで読むのとでは大きな差がある。新聞記事やニュースのアナウンスは、より客観的で事実を事実のままに伝えるのが第一義である。よって文の奥行きを探っても何かがあるわけではなく、「言葉」のままに受け止めればよい。これが言語としての「言葉」が社会に通行している大きな理由でもある。あくまで「伝達手段」として汎用的なのが「言葉」である。その一方で「ことば」あるいは「コトバ」とひらがなやカタカナで表記すると、その意味合いも違ってくる。表現をしたものが世界で此処にしかないことを何とか伝えようとして、魂の底から発したようなものと言えばよいだろうか。そこに文の奥行きが、自ずと生じている。
平日に仕事をしていると、前述した両者を巧みに使い分けねばならない。仕事のメールを読んで返信をする脳と、「コトバ」を読み取ろうとする脳は明らかに違う。この日は久しぶりに何事にも囚われない休日であったので、後者の脳をフル回転させようと意気込んだ。午前中の歌集への向き合い方、そして派生的に他の関連歌に及ぶ視点など、なかなか切れがよいスタートとなった。昼食後は書斎の整理に勤しみ、眠気が催すのを自らが動くことで避けることができた。その後は研究室まで足を運び、ある文章の最終的な推敲に執心した。自らが記した文に無駄はないか?用語は適切か?その奥にある真に伝えたいことが他者にも伝わる文か?などなど、まさに斬り込んで行くような感覚で自らの文を裁いていく。その集中度と爽快さに、酔い痴れるような時間になった。
未だ梅雨前線の停滞で豪雨が続く
だが文の奥に入り込む快感をもって夏のような潔さを一足先に
7月は調子がいいぞ!と天の女神が微笑む午後でした。
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真実の最大の敵ー「表現する」虚構という名のうそ
2023-05-02
「かくす」=「ゴマカシ」=「機密・謀略」=保守的「表現する」=「ホラ」=「虚構」=革命的
「うその中にこそ想像力によって生みだされる真実がある。」(寺山修司の言葉より)
「正直に事実を言いなさい」我々が〈学校〉で教えられるのは、基本的に「事実」第一主義である。「素直・正直・礼儀」などを校訓として掲げている学校は多く、「嘘をついてはいけません」という姿勢を強調される。もちろんこの姿勢に「理」はあるのだろう。ゆえにイソップの寓話「狼が来たぞいう羊飼いの少年」を読むと、「嘘をくり返しつくと信用してもらえなくなるから嘘はいけない」教訓として解するのが一般的だ。だがこの寓話では最後に「羊がすべて食べられてしまう」悲劇に遭遇するわけであるから、村人たちが「この少年がなぜこのように嘘をくり返すのか?」という「なぜ?」を抱き、排斥的にならずに内包して対話をすれば悲劇は防げたはずである。冒頭に掲げた寺山の「うその中にこそ・・・」はそれを如実に指摘している。寓話は「嘘の否定」ではなく、「うそはいつか真実になる」怖さを語るものとして解釈したほうが建設的で革命的である。
前述したような〈学校〉の教えがあるからか、「国語」で「文学」を読む際にも「事実」を標榜して欺瞞に満ちた授業になることが少なくない。「作者の意図」「登場人物の心情」を「事実」をベースに考えるように求めているから、学習者はやがてその「欺瞞」に気づき始める。小中高と〈学校〉生活を送り、大学に入学して来る新入生にまず教えるのは「正解はひとつではない」という姿勢である。『伊勢物語』を教材として、和歌一首にいかに多様な読みが可能かを考えさせる。やがて「人間の心など唯一無二の核心があるのではなく、多様に彷徨い常に揺れている」ことに気づき、試験・入試を目的にした〈学校〉での「国語」の欺瞞から目を覚ます。同様に研究発表とか会議で「実は・・・」という言い方をする話者が気になって仕方がない。「私は真実を言っている」と押し付ける誇大で傲慢な物言いに聞こえてしまう。寺山のエッセイに「私の好きなことば」として「真実の最大の敵は、事実である。」であるが、〈学校〉で言う多くの「実は・・・」は後者であることが少なくない。
「文学は読者が作る」とも
真実を見つめるための想像の果ての表現
あなたも「実は・・・」「事実だ」にはご用心した方がよい。
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「話す」は「放す」ことでもある
2023-01-29
心の内に持つことは誰かに帳面に短歌に「話す」
声や文字になった「心」は「解放」され自分の軸が定まってくる
珍しく仕事の予定がない週末を迎えた。冷える朝をややゆっくり寝て、時に身を任せるように過ごすのもたまには良い。昼過ぎから母と買物に出かけ、1週間分を目安に食材を調達する。母も至近のスーパーならば独りで買物に行けるのだが、やはり新鮮な野菜と精肉が購入できるスーパーを選んで行きたいという思いが強い。宮崎野菜と上質で良心的な値段の精肉などにより、自ら煮物などを作れる環境は、両親の健康を支えているように思う。正直なところコーラや甘い物を好む父の食生活には注文も多いが、それでも血液の状態が良いと医師に褒められたと云う。空気の良さのみならず、宮崎の生活環境は両親の健康長寿に大きな力を与えてくれている。
このような流れで、午後のひとときは暖かい陽射しが降り注ぐ自宅リビングで母とゆっくり話ができた。誰しもが年齢が上がるにつれて、先行きの不安がつきまとうのは当然であろう。過去の様々な岐路を思い返したりしつつ、現在の生活や今後のことなどあれこれと思いつくままに話す。「話す(はなす)」についてはよく短歌の座談などで、「放す」に通じる「やまとことば」であるという話題になることが多い。心の内に「不安」などがある場合、そのままにしておくと埃のように積もりに積もって自らの心身に不調さえきたしてしまう。ゆえに「放す」ために「声」や「文字」にして吐き出すのがよい。すると負のものはやがて「離す」ことに至り、心身が軽くなるものだ。良いものはいつまでも記憶に残り、次に進むための力になる。そういえば僕も中高時代に高価なノートに日記を書き続けていた。その際の「放す」は、どこか小欄の文章にも通ずる。そして論文・評論などの文章力として僕を支えてくれている。苦しい時こそ「放す」こと、さすれば必ずや光明が見えてくるはずだ。
夕食も両親とともに馴染みの洋食店へ
そして夜には著名な友人から宮崎来訪の連絡
1日中、「放す」ことで期待の新しい2月がやってくる。
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見えないことを見えるように
2023-01-07
「見えないことは存在しないことではない」(「交通教本」から)(鷲田清一「折々のことば」2606 朝日新聞より)
「『見えない』ということは『わからない』ということで、この自覚がないと事故が起こる」
Twitterで話題になっていたので朝日新聞「朝日新聞連載・折々のことば」を読んだ。哲学者である鷲田の書くものには興味を持って読んで来たが、著書『日本の恋歌とクリスマス』の「待つ」という概念の基準に据えるべく引用もさせていただいている。しかし、哲学的なことばは学術書の中だけにあるわけではないことを、今回のコラム連載は教えてくれた。運転免許取得や更新時に教習所で配布される「交通教本」に、そのことばは掲載されている。自動車を運転していて運転席から「見えないもの」は「存在しない」と意識しない運転手と、「存在する」と予測する運転手では明らかに前者に事故の危険がある。僕自身も運転する際に、バスの物陰から歩行者が飛び出すとか、右折の対向車がトラックで見えない先から二輪車が飛び出すとか、可能な限りの予測をして運転するようにしている。正直なところ、他者の運転する車に乗って思わず足を踏ん張ってしまうことがあるが、それは前述の「見えないけれど飛び出すかもしれない」という予測なき運転者の車である。「見えない」は己のみの意識であり「存在しない」とするのは身勝手な自己完結である。
「見えない」に限らず「聞こえない」も同様のことかもしれない。「聞こえないことは存在しないことではない。」はずだ。父の誕生日ということもあり、大変に久しぶりに懇意にする洋食屋さんに出向いた。コロナの感染拡大もあるが、僕や妻があまりに忙しく、洋食屋さんの営業時間内に両親を連れて行くことができない日々が続いた結果である。この間、洋食屋さんの店主夫妻は僕ら家族をどれほど意識し、お互いに話題にし「待って」いたことだろうか。思わず僕はそんな店主夫妻の様子を想像して「見たり」、会話を「聞いて」みたりすることがある。久しぶりにもかかわらず、笑顔で「お元気でよかったです」の言葉を聞いた時、僕は店主夫妻の心がこの間も僕らに向けられ「存在しないことではない」ことを悟った。この厚情を思えば、再び「常連」と自ら思えるように足を運びたくなる。東京ではよくご無沙汰であると、怪訝な態度を取る店主などもいた。だが宮崎では「見えないことは存在しないことではない」という密度で、関係を結ぶことができる店が多い。「見えないことは見えないように」「聞こえないことは聞こえないように」というように、世間では誤魔化しがあまりにも横行する。自動車事故を防ぐためのみならず、豊かに生きるためにこのことばを活かしたいものだ。
見えないものを見えるようにことばで創る
聞こえないものを聞こえるようにことば大切に
閉鎖的「見えない」「聞こえない」からは新しい未来は見えない。
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言語は資質・能力そのものではないか
2022-11-12
日常言語生活→言語活動→言語(知識・技能)言語を核とした同心円のように学習単元は構成される
学習評価は「言語活動」を中心に「日常言語」でいかに活用されているか
学習とは、「資質・能力」を育むものであると学習指導要領には提示されている。学んだ結果、「何ができるようになり、どんな力を持った人となるか」が重要な評価指標である。その「力」を育むために、三つの観点が設定されている。中心を同じくする同心円を、思い浮かべていただきたい。その核心には「言語(知識・技能)」があり、外周に「言語を動かしいかに活用するか」を促す「言語活動」がある。さらに外周には「言語活動」を実践した結果、どのように「(自ら)学びに向かう力」を持った「人間性等」が育まれるかという構造になっている。この同心円の総体を「単元学習」と呼び、計画的に「国語」における目標に適った「資質・能力」が養われるという訳である。この構造を鑑みるに、「言語」は表面的に活用される「言語活動」を通して、「人間性等」そのものであると見ることができる。言語観や学習観は様々であるが、少なくともこの国の小学校・中学校では、「言語は資質・能力そのもの」であることを前提に母国語を据えた学習が為されているわけである。
短歌を作ると、歌会へ投歌したり短歌賞に応募したりする。自らの手から離れる瞬間、その表現は自らでは如何とも仕様がなく他者に自由に読まれる社会的・普遍的な一行となる。手を離すまでの推敲において、果たして自らの心を適切に他者に伝わる表現になっているかどうか?徹底的に見直し続ける。あまりに推敲に力を入れ過ぎて、むしろ表現が混濁して冴えない歌になってしまうこともある。しかし、なぜこれほど推敲にこだわるかと言えば、公表したら引っ込みがつかなくなるからであろう。「自らの心の叫び」が短歌だとすれば、作る者はその「叫び」に責任を持たねばならない。ゆえに投歌したり郵送・送信した後でも、脳裏の中で「この表現の方がよかったか?」という疑念が渦巻いてくる。表現の欠片をいかに恣意的に切り取られようとも、多様に如何様にも受け止められる運命を否定することはできない。短歌を手放す瞬間の喩えようもない緊張感と恐怖感にも似た快感は、「歌=こころ」であるという1300年の営為の上で成り立ってきた生きるための葛藤でもある。「言語」は手放したのち、「切り取られ誤解を呼んだ」「(その表現は)本意ではない」「撤回する」で済むものではない。小学生でさえも、一度提出した言語を散りばめた「テスト用紙」を「撤回」できるなどと思うわけがない。
自らを託す言語
言語生活は常に「人間性」と隣り合わせである
学習上においても甚だ害悪な醜態を政治家が世間に曝すのは、もういい加減にして欲しい。
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言葉が悪者なのか?ーことばの信頼と文化継承
2022-11-11
「本歌取り」はなぜ行われたのか?題詠という方法と自らの抒情を叶えること
そして、「・・・という印象を与えた発言は、本意ではない」という言葉切り捨て
「ことば」でこそ人は、平和で豊かな社会を作り上げることができる。たぶん人類が他の動物と違いここまでの文明的な発展を遂げられたのは、「ことばの力」のお陰であろう。季節ごとの美しい風景をことばにして、そこに個々の自らの抒情を託す。反転し自らの人恋しい心を、自然の景物の状況に擬えて人に伝えようとする。日本ではこうした心物対応を「三十一文字(みそひともじ)」に託し、古来から人と人の心に「ことばの信頼」を築き上げ繋がり和み合って来たのだ。心に深く刻まれた「三十一文字のことば」は信頼度が極めて高く、現代ならインスタグラムなどで写真を他者に誇りたいように「その光景」を後世に遺したいと考えるだろう。信頼の極めて高い「三十一文字」を「古歌」と呼び、自らの和歌創作の要素に溶け込ませていく。『新古今和歌集』時代に確立して来た「本歌取り」という方法は、このように極めて高い「ことばへの信頼」であり高度な文化継承の方法であった。この日の文学史講義では、藤原定家の『近代秀歌』の「本歌取り論」を読み、自らが本歌取り和歌を創作する要点を読み取るという内容で進めた。「国語」という教科を小中高の学校種を問わず教える際に、ぜひ理解しておいて欲しい文化的営為である。
翻って国を代表する閣僚たる政治家どもは、正反対に「言葉を悪者」に仕立てて自己弁護に走る輩だらけで甚だ嫌気が差す。自らが公的に発言に「問題がある」と批判されると、「(批判されたような)印象を与えた発言は、私の本意ではない。」という弁解を幾度となく聞かされる。さながら「(公的に)発言した言葉」が悪者であり、「私自身はそんな心を持っていない」と「言葉」をトカゲの尻尾切りのように切り捨て保身をするのである。さらに酷いのは、「(批判の対象として)言葉をそのように捉えた世間がおかしい」と言わんばかりのケースさえある。さらに言えば「高い緊張感」とか「緊密な連携」など、ほとんど実態がないからこそ吐き出される、空虚な表面的で信頼の欠片もない言葉で重要な事態に対応したかのようなポーズを見せる。あまりにも「言葉」が、可哀想ではないだろうか。こうした些細な「言葉の信頼の失墜」の積み重ねが、結局は政治不信を招いていることに気づかない。いや気づいていても「その方法で一時的に騙せばよい」とさえ思うような発言さえ出てくるあたりに、深刻な「言葉への罵倒」があるように思えてならない。ゆえに僕たちは「三十一文字のことば」を極めて高い信頼を持って尊重し、次世代に引き継ぐために、日々に歌を詠むのだという矜持を持って生きていたいと強く思う。
米国では民主主義を護るかどうかという選挙が
揚げ足取りではない「本意」を問うための「ことば」
せめて教室では「極めて高い信頼」のある「ことば」を教えたい。
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意見を言うこと声に出すこと
2022-09-30
意見を言ってこそ相手を、その場を尊重している意見を言わない後悔より言った後悔
そしてまた黙読ではなく声に出すことの意義も
小学校も半ばを過ぎるまでは僕はかなり引っ込み思案で、周囲からいじめられるような経験をした。だがいつも心の中で「この場面ならこういうことを言ってやりたい」と心の中で想像していた。例えば、授業中でも周囲が言う意見と違う考えを述べて、画期的な新しい視点を学級に提供するような妄想をよくした。次第に自我も発達し「自分は意見が言いたい人」なのだと明らかに悟るようになる。小学校4年生頃から妄想を実行に移し、社会の授業などでは「先生も知らないこと」をよく発言するようになった。日頃から「地図と年鑑」が好きでよく読んでいたので、音楽が専門だった担任の先生は授業中に、僕によく「内容を確かめる」ように発言を促した。この経験は「発言して場の空気感が変えられる」という面白さを、僕に実感させたのだ。以後、意見は「言った後悔より言わない後悔」の方が大きいと思うようになれた。現在でも研究学会でも、可能な限り質問をするように心がけて参加するようにしている。質問をしないということは、対象となる研究発表に対して失礼なことではないかと思う。
会議や学会で意見を言うのは、「声」で伝える行為である。意見は単に言えばよいのではなく、「言い方」も大切だ。全体の流れを汲み、その場の議論から新しい物を生み出す可能性を持った内容が求められる。論点をズラして自らの考えを滔々と述べるとか、前提から外れた「批判のための批判」を言う向きの輩がいるが、それを「意見」とは言えないとさえ思う。同時にこうした類の多くは、意見そのものの言い方が「何が言いたいのかわからない」場合が多い。もとよりその場の提案や議論の趣旨を、自らが理解していないのではないかとさえ思う。「質問」の言い方が全く整理されていない状態を伴う。また発言する際の「声」のあり方にも、僕は大変に深い興味がある。内容の不明確さは「声」のあり方によってさらに増長もし、補われる場合もある。「どのような言い方をどのような声で伝えるか」内容や場に応じて、僕はこんな部分も調整するようにしている。話は変わるが、11月に宮崎市内で「若山牧水に関する朗読&トーク」の公演に出演する。この日はメンバーとの初顔合わせ、とりあえず僕が読もうとする部分の雰囲気を伝えるために朗読をした。共演する演奏家たちとの実りある共鳴感、やはり伝えるのは「声」なのである。
【11月13日(日)午後「いとしの牧水ー短歌・朗読・トーク」公演・宮崎市内】
詳細はあらためて告知致します
深い思考を持った「声」を出せるよう、今後も心がけていきたい。
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わざわざ言うことの意義と虚脱
2022-09-29
前提であることを言わねばならぬ「ない」と言えば「あり」、「あり」と言えば「ない」
「水」のように容器に合わせて形を変えらてこその理解
誰しもが小学生の頃、「手のひらを太陽に」という曲を唄った経験があるだろう。もしかしたら年齢によって唄う経験も失われてきているのかもしれないが。アンパンマンで有名になった、やなせたかし作詞、いずみたく作曲、歌は宮城まり子、1961年(昭和36年)に制作され、1962年にNHK「みんなのうた」で放送された楽曲。当初は反響もない曲だったようだが、1965年(昭和40年)になってポニー・ジャックスが歌いレコード発売され、その年の紅白歌合戦で歌唱し大きな反響を得たとされている。1965年といえば戦後20年、高度経済成長の社会の中で「生きている」という前提をみんなが忘れ始めた時期であったのかもしれない。「手のひらを太陽に すかしてみれば まっ赤に流れる ぼくの血潮」という歌詞には、自らの身体に血流があることの発見である。いわば前提となることを敢えて「言った」歌詞なのである。「かなしいんだ」「うれしいんだ」「愛するんだ」という歌詞もまた、人の感情は「生きている」ことが前提であることに気付かせてくれる。命の実感が薄れてきた時代に、「生」の意味を再発見させる歌だったのだろう。
「生」を自覚するには、宿命たる「死」を自覚する以外に方法はない。言い換えれば「死」を意識してこそ、「生」を貴重なものと認識できるわけだ。前述の曲が人口に膾炙して60年近くが経過した今、まさに「生」の自覚なき時代になってしまっているもではと危惧する。前提として当然のことを人々が自覚するためにあるのが詩歌、だと言える。その詩歌はもとより、文学そのものが社会での影を薄くしている。だが望みがないわけではなく、若者たちの短歌ブームなどは「生の自覚」をことばに乗せて求めようとするゆえのことだろう。こうした発見の詩歌のことばは大いに意義あるものだ。これに反して、社会には虚脱する言葉も溢れている。無いことを有るかのように言う、空虚な言い訳めいた言葉だ。真実を隠すために十分に吟味されたとも思えない言葉で「ハリボテ」のように形作る。「聞く力」という言葉は、それが無い体質だから前提ながら言っているに過ぎないのが明らかだ。詩歌に比べたら次元が違いすぎる言葉、僕たちは注意深くことばを吟味していく必要がある時代なのだろう。
丸にも四角にも三角にもなる「水」
柔軟な思考こそが平和を形作る
言葉に騙されず、ことばを信じて。
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はったりで引っ込みがつかなくなる前に
2022-09-09
ついつい言ってしまったこと周囲からの投げかけに乗ってしまって
早々に自ら修正すべきところだが
「はったり」という語がある。「はったりを利かせる」などと使用して「(3)相手をおどすようにおおげさに言ったり行動したりすること。実際以上に見せようとして、おおげさにふるまうこと。またそのふるまい。」と『日本国国語大辞典第二版』にある。さらに同辞書の見出しには、「(1)なぐること。他人をおどすこと。(2)けんかなどをしかけて、金品を強奪すること。ゆすり。恐喝(きょうかつ)。また強盗、追剥ぎをいう。」とあって、(2)には「浄瑠璃」や「歌舞伎」の江戸時代1700年代の用例を添える。「語源説」として「王朝時代に徴税などを催促するハタル(徴)の転 [ことばの事典=日置昌一]」とあり、もとより「金の催促」に由来する語のようだ。意味として(1)(2)よりは最初に掲げた(3)は緩やかな行動であるが、現代ではもっぱらこの用法が一般的であろう。同辞書でも(3)については、1900年以降の近現代の用例が添えてある。僕自身の経験的な語感でも、ほぼ(3)の意味でしか使用しない。
「度胸が必要な場面に臨むとき」大学時代頃からよく「はったり」も大事だと思っていた。恩師と呑んでいる際に、先輩の誰かが「よく先生はあんなにたくさんの和歌を覚えてますね?」と尋ねたところ、「あ〜忘れたら適当に作っているよ!」と返答されて大笑いをしたことがある。先生の『万葉集』の演習では、実に見事に和歌が朗詠されその魅力の虜になった。もちろんかなり多くの和歌を身体に刻んでいるのは確かだが、いざとなると「作る」というのは「教師は度胸」が必要だとその後の経験で今も活かされている。また教員になって部活動顧問をしていた際に、野球部やサッカー部が全国レベルで強い勤務校であったゆえ、当初は弱小ソフトボール部顧問をしていた際に、他校にかなり「はったりが利いた」のを記憶している。もちろんそんな「はったり」はすぐに「化けの皮が剝がれる」わけなのであるが。大学学部や大学院時代も、読んでいない文献が話題になるとその場は「読んでいるフリ」をし、その日のうちに「読んでおく」ということも少なくなかった。要は「はったり」はすぐにバレる場合も多いので、すぐに「実際をはったりをした次元まで高める」必要があるだろう。その努力をしないで放置された「はったり」は、次第に「嘘で嘘が塗り固められて行く」ものだ。試験や試合など「はったり」が有効な場合があるのは確か、それゆえに様々な場面では引き際も肝心なことを心得るべきだろう。
やがて「詭弁に詭弁を重ねて正当性を強調」するように
放置した「はったり」は必ず信頼を失う原因となる
強引さが目立ち(1)(2)の語義に戻らぬように善用を心がけるべきであろう。
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