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世界で一つの発見ができたら

2021-04-18
今ここでしか見つからないものを
ことばで切り取り箱へと保管する
生きるとは丁寧に発見をし続けること

言葉は同言語であるならば、使用する一定の枠内で共通理解ができるようになっている。反転すれば「共通理解」をするために、「・・・語」と各言語が同地域で形成されてきたと言い換えられる。音韻・文字・語彙・文法が共通認識され、例えば辞書を引けば語彙に一定の理解が得られるのが同一言語である。さらに広く考えれば、言語の種類でも系統があり派生的に展開したものも少なくない。日本語では先に記した四要素のうち、「文字」が無かったゆえに大陸から渡来した「漢字」を使用し始めた。その後、「漢字」を母として「ひらがな」「カタカナ」を産み出した。文学史を認識する際に、口誦から記載へという過程を考えるのは大変に重要であると思われる。一人の人間が産まれてから成長する間にもこの過程がある。

前述したような「共通認識」ができる言語であるが、使用する人間が世界に一つしかないものを発見しその表現において使用する。「共通認識」の原則は保ちながら、今ここにしかない組み合わせで言語を響かせ、今ここにいない人にもわかるように情景を描写することを通して、世界で一つの心のあり方を表現する。特に「伝えよう」という意志が大切であり、聞くもの読むものの心のうちに共鳴するものでなくてはならない。その共鳴を「感動」と呼び、人は言語で「心を動かさせられる」存在である。また、人間の力ではどうにもならない天象気象の問題を、神に祈りを伝えるために言語・文学の根源が生じたと考える説もある。そこには祭式的呪術的なものが生じ、「言霊」などの発想も出てくるわけである。このような背景から考えるに「文学」は奥深いもので、決して表面的なものではない。

「文学史」などを担当し伝えたいこと
あなたの「今ここ」の言語が大切である
短歌を考えると言語も見えてくる


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己を知るために語る

2021-04-10
自分の内側だけで思考していると
なかなか「己」のことはわからない
語り合いが学び合いになるように

自分のことは自分が誰よりも分かっている、ということそのものが思い込みである。人はいついかなる時も「自分」に贔屓目であるようだから、自ずと「己」を偏って捉えてしまう。よって「分かっている」のは「己」の一部の姿や性質であって、決して全容ではないと思っていた方がよい。己への贔屓目をなくしそのあり方に厳しく対応した人が、世の達人となるのだろう。どこまでが「野球の頂点」か、常にわからないほどに己に厳しかったのがイチローであろう。黙々と誰よりも早く球場に足を運び、日常から筋トレを欠かさず、食事にも万全の注意を向ける。誰よりも己を知ることに長けていたのであろう。

イチローは、思う以上に饒舌で話好きである。アリゾナのキャンプを観に行った際に、僕の近くにいた日本人の女性ファンが「イチローさん好き!」と声を飛ばすと、「朝から告白されてもね・・・」とネット越しに返してきた声に僕は衝撃を覚えた。チームメイトとも楽しく会話し、よく語りよく笑う。語ることで己を知ることに真理がある。ということで、今年度も講義が始まった。開始2週間はオンライン、初回の昨日は受講者一人ひとりになぜ「国語」を専攻し「国語」の教員免許を取りたいと思ったのか?を語ってもらった。予想以上に「文学好き」の学生も多く、そのコメントに嬉しい気分になった。その受講生同士の語らいこそが、個々の「己を知る」貴重な機会なのである。

同僚とも語らいが必要
テーマなど決めずただ思いつくままの自然
己が今どこにいるかが知られるようになる。


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生活言語と短歌のことば

2020-12-16
生活を成り立たせる言語
広告や営利目的のCMの言葉
短歌を成り立たせる彩のあることば

生活上の言語は、誰でもどのような状況下でも分かりやすく、多様な解釈を生まないものが求められる。街頭の表示板やアナウンスが多様な解釈を生んでしまっては、道ゆく人々は混乱してしまうであろう。見やすく分かりやすい万人が理解できるのが、生活言語である。昨今はこのような一般常識に適った言語の理解にも及ばない場合があるのか、共通理解を教え込まないとならなくなったのかもしれない。情報の適切な読み方とか常識的な解釈などという、生活の中で学ぶべき内容を学習課程の中に押し込めているようにも見える。

明治時代の法律の条文は、「漢文訓読体」で記されている。それはまさに多様な解釈を生まないため。国家のあらゆる「法」は、解釈する者によって多様であっては成り立たないからである。こうした生活言語や広告宣伝文の言葉と短歌のことばは、根本的に相違がある。もちろん「誰もが情景を想像できる」ことは大切であるが、その上でことばを突き詰め解釈を反転させたり上下左右の視点に移行したり「彩」の中で多様に動く運動体なのである。額面通りの表層で理解できるものではなく、深層の混沌とした模索や思考の格闘を経てのちのことばである。1300年の短歌史の上に身を置くというのは、こうした意志ある矜持があることなのだ。

文化のないスカスカな言語が溢れる社会で
奥行きのある歴史を掘り返すようなことば
読むものに迎合しない「直立した詩」に僕らは向き合っている。


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「忘却とは忘れ去ることなり」ラジオドラマ再考

2020-11-17
「忘却とは忘れ去ることなり、
 忘れ得ずして忘却を誓う心の悲しさよ」
(ラジオドラマ「君の名は」冒頭より)

朝の連続テレビ小説「エール」で今週は、ラジオドラマ「君の名は」の制作に関する内容となった。脚本家・菊田一夫と作曲家・古関裕而が1952年から1954年にかけて制作し、NHKラジオで放送され爆発的な人気を博したことを題材としている。番組のナレーションにもあったが、当時は「番組が始まる時間になると、銭湯の女湯から人が消える」と云うほどの社会現象になったそうである。その後は映画化もされたことで、ヒロイン・真知子のストールの巻き方が「真知子巻き」と呼ばれ社会全体への波及効果は大きいものがあったようだ。また当時のラジオドラマは「生放送」であったらしく、劇中の音楽は古関裕而がハモンドオルガンで奏で即興的に奏でていたことも連続テレビ小説通り知られることだ。

ラジオドラマ「君の名は」は、当初は社会派を目指していたために人気が出なかったが、真知子と春樹の恋にストーリーが集中し始めたことが大ヒットの要因になったらしい。連続テレビ小説でも描かれたように、キャストの関係でやむを得ずストーリーを先に進められない事情が生み出した偶然である。逢えそうで逢えないすれ違い、そのモジモジした真知子と春樹の心情に多くの視聴者はくすぐられたことだろう。恋愛を描く文学はいつもそうだが、その恋愛の成就ではなくそれまでの苦難や破局への道が描かれて行く。冒頭に記した名文が加藤幸子や鎌田彌恵の語りで流される、ラジオドラマならではの語りの響と間と・・・「君の名は」。

いまあらためてラジオドラマを再考すべきか
パントマイムなど要素を外してこそわかるもの
「語り」が誘う逢えない恋の物語


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原稿読みにできないこと

2020-10-31
「原稿」を読んだ音声
なぜ人の心に伝わらないのだろう?
ライブ感あるしゃべり言葉

宮崎高等教育コンソーシアムという複数大学の連合会における、今年の講義の時節となった。例年であれば宮崎公立大学の講義室で行われていた講義だが、今年はオンライン形式で実施することになった。1回のみ90分の講義ゆえ、多彩な動機付けも必要かと「動画+音声+スライド」の三つの媒体を組み合わせて講義を構成するようにした。受講する側が飽きないで学修できる配慮も重要と思う。そのための動画撮影を、職員さんの支援の元で行った。モニターにプレゼンソフトで短歌等が映し出されるようにした上で、それを背景に20分の解説講義をライブ録画した。リハーサルはなしの一発録り、やや乱暴なようだが講義を対面でやるとすれば「一発」なのである。

研究学会の発表でもオンライン講義でも、原稿を作成して丁寧に読み上げるスタイルがある。僕も若い頃は時間内で発表を終わらせる目的で、たいていは「原稿読み」で行っていた。しかし、ただただ「原稿」を読み上げるだけの学会発表が物足りなく感じるようになった。聴衆へ目線を送り、強調すべきところは訴える声色と表情が必要であり、この研究発表で何が言いたいのかを明らかにすべきと考えたからだ。「原稿読み」は比喩的にいうならば「のっぺらぼう」なのである。文字言語を表情なく音声言語に転換しているだけで、聞き手に伝えようという意志に欠ける。書き言葉文章の「句読点」のあり方を忠実に読めば読むほど、聞き手の内部に浸透しないものとなる。明治以降の150年以上の歴史が、文字言語と音声言語があることを我々に忘れさせてしまった結果なのだと思われる。

自らのうちから湧き出るように語る
内容に対して習熟する仕込みが不可欠
音声のみコンテンツと併用して浮かぶ上がった観点。


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こころとことば、そして音楽

2020-09-17
言の葉そして多彩な花を咲かせる樹木
ならば「幹」は何に当たるであろうか?
そして「感情に直接アクセスする音楽」

教育実習視察で附属中学校を訪れ、ゼミの学生を始め当該学年の国語専攻の学生の授業を参観した。中学校各学年にわたる授業であるが、いずれも詩的言語(和歌・短歌及び連句、またはそれに関連する説明文)に関する単元で「ことばの力」について学ぶ内容であった。『古今和歌集』仮名序に示されたように、「よろづの言の葉」となるその根源に「人の心を種として」という「心詞論」がこの国の歌論・文化論として基本をなしている。ここで肝心なのは、「言葉」はあくまで場面・条件・環境に沿って多様な「言の葉」であるということ。ゆえに「こころ」を直接に表現したものでない場合や、「こころ」の多面性を背景とする点もあるということだ。

実利主義の風潮を強める社会の中で、教育界では「言葉は功利的であるもの」という単一思考に陥っている傾向が否めない。ゆえに「わかりやすい」「誰でも理解する」ものを良しとして、謎めいたもの、逆説的なもの、悲劇的や空想めいたものが否定される傾向にある。だがしかし、実際の社会や人生を考えてみよう、現実には「わかりにくいもの」で溢れている。子どもたちが絵本の空想的な世界が好きなのは、理に適わないものが平然と出現するからだ。それは大人が、映画やドラマにスリルや爽快感を感じる作用と同じである。実習視察でこんなことを考えて、夜は歴史番組で古関裕而さんの作曲が生み出したものについて語り合う内容を観た。レギュラーコメンテーターが「(音楽は)知性を吹っ飛ばして、感情に直接アクセスする」といった趣旨の発言をしていた。戦前に「戦意高揚」に加担してしまった曲も、戦後に平和への祈りを込めた曲も「古関」の共通した訴える「音楽性」がある。換言すれば「詞」によって「曲」の性質は多様な「言の葉」に化ける可能性があるということ。僕らが意識せずとも好きになる「音楽」には、こうした人間への無意識・無自覚な浸透性を伴うものである。では「言葉」と「音楽」の中性的な存在である「やまとうた(和歌短歌)」はどうなるのか?まさに僕に与えられた命題がここにあるようだ。

「言葉」が一元化しないように
政治家が述べる「言葉」をすべて信じられるのか
『刑事コロンボ』では、犯人が自らの言動によって暴かれることが多い。


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「うしろには夢がない」寺山修司の触発されることば

2020-08-04
「自叙伝などは、何べんでも書き直し(消し直し)ができるし、過去の体験なども、 再生をかぎりなくくりかえすことができる。
できないのは、次第に輪郭を失ってゆく『私』そのものの規定である。」
(寺山修司「黄金時代」ー『寺山修司名言集』PARCO出版2003より)

「今」小欄の一文字一文字を打ち込んでいる”とき”は順次「過去」になり続けている。既に何秒か前に打った「今」は、明らかな「過去」である。それが嫌だと思えば、パソコン上でいつでもいかようにも「消し直し」をすることができる。だが「今」は、それをせずに書き進めることにしよう。なぜなら「ふりむくな ふりむくな うしろには夢がない」という言葉に背中を押されるからである。小欄に言葉を紡ぐことは、過去や思い出に絡め取られるためではなく、「今」から前に輝く「夢」を見るためである。「私」そのものは多面体で形式的な「輪郭」はあるが、その「規定」は難しい。

寺山修司の短歌を読んで、その総体的な仕事のあり方に大変興味を抱き何冊かの資料を入手した。冒頭に引用した「名言」をはじめ、多ジャンルを横断的に表現し続けた奇才・天才のことばには、触発され魂を揺さぶられる思いがする。「書く」という行為そのものが「過去」であり「思い出」のようであるが、寺山にとってそれは「経験」ではなく「物語(ストーリー)」なのだと云う。「過ぎ去ったことなどはみな、比喩にすぎない」とさえ言う。また「実際に起こらなかったことを思い出にすることもできるものなのです。」とも。このあたりの名言に、短歌を考え直す大きな材料が散りばめられている。

今年もまた8月が来た
あなたは75年間のうち、どれほどをどのように生きてきたか
せめて「物語」を語り継ぎながら「夢」を見たいものである。


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「名にし負はばいざ言問はむ」名実のいま

2020-06-16
「名にし負はばいざ言問はむ都鳥わが思ふ人はありやなしやと」
『伊勢物語』第9段「東下り」より
「言問橋」「業平橋駅」(東京)「八橋』(愛知)など

気が早いのだが、今年の流行語大賞は「コロナ(禍)」以外考えられるのだろうか?2月ごろより各メディアで「コロナ」という語が、どれほど喧伝されたであろう。その報道の一部に、ウイルスと同名の「コロナビール」(メキシコ)の売り上げに影響がありやなしやというものがあった。ショットバーなどでは開栓後に柑橘類を瓶の口に添え、所謂”ラッパ飲み”するのが通例の爽やかなビールである。Web記事ゆえ信憑性はさて知らずだが、当ビールの検索数がかなり上昇しウイルスとは無縁ながら売り上げが減少してしまう風評被害に遭ったとされている。また日本の暖房器具を中心に製造している「株式会社コロナ」もあり、僕が東京で居住していた地域には「コロナ社」という出版社もあった。

「新型コロナウイルス」の命名は、そのウイルス形状が「太陽大気の最外層の希薄なガス体」にも似て、球体から複数の棘のようなものが出ている所以である。皆既日食などの際に太陽を観察すると見られる炎ゆえに、太陽が自らエネルギーを放つ恒星として燃え上がる恒常性の象徴として商品名や社名に採用されたことが推測される。(正確に調べた訳ではないが、暖房器具製造会社の社名としては格好の看板となる。)このように「命名」の問題は、人名を含めて様々な事後の現象に左右され肯定的にも否定的にもなる可能性がある。学部1年生の講義で『伊勢物語』を講読しているが、著名な「東下り」の段には冒頭に記した和歌がある。「その名前に”都”を背負っているならば、(都のことを知っているだろうから)さあ!問い掛けよう都鳥さんよ!」のように上の句は解せる。同段には「橋を八つ渡せるによりてなむ、八橋といひける」という語りもあり、平安前期の資料(他に『土佐日記』など)には名実の合致に対して深い意識を読み取ることができる。考えてみれば「東京スカイツリー駅」は元々「業平橋駅」であり、その近くの隅田川には「言問橋(冒頭の和歌に由来する命名)」が掛かるのを僕ら東京下町の住人は当たり前のように受け入れていた。駅名が変更になり、その由来の伝承が途切れてしまいつつ東京の名所であるのが惜しまれる。

名前に言霊あり。
僕が現在の所属校に赴任した際の時間割表の誤植「佳”史”」
発見し即座に事務職員の方に「文学を専攻するので佳”文”です」と言ったものだ。


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Zoom対談やります!

2020-05-28
昨日の小欄を契機に
Zoom対談のお誘いが
5月31日(日)14時〜(いずれYouTubeに動画掲載)

Webの力をあらためて思い知った。昨日の小欄で、遠隔講義としてラジオDJ風に学生提出課題のドラマ朗読をしている旨を書いた。すると連携投稿されるTwitterに反響があり、DMへメッセージが届いた。それは宮崎に来る1年前、僕が朗読に関連する単著を出版したことを契機に、あれこれ助言をいただいた言葉や表現の研究者の先生であった。いささかDMでの会話をしていると、そのうちZoomで対談をしませんかというお誘いをいただいた。ちょうど今週の24日(日)に、所属する中古文学会のオンラインシンポジウムがあったばかりだった。頭の中でイメージができていた僕は、この学会シーズンにも全ての学会が中止になっていることもあり、特に予定もなかったので即座に実行を了承した。

対談の話題は「表現読み」、つまり身体的な音声表現のこと全般になるだろう。お誘いいただいた先生も最近は若山牧水に興味を抱かれているということ。牧水の短歌が「聲」を基盤に据えながら創作されており、評するにあたっても「音声表現」から解釈を考えていくべきと考えている僕の主張を具体的に語る機会にもなりそうだ。音声で表現するのことは、何も他者に聞かせることのみが目的ではあるまい。聲を発する自らも聞き手の一人であり、表現することで作品解釈が深まるという効用を見逃してはならない。多くの〈教室〉で行われている学校の「音読活動」には、この大切な視点が決定的に欠如している。音声表現をすることで自らが「読者=語り手」となり、その作品の地平の内側に立つことができるわけである。奇しくもこのコロナ禍によって、「聲」の存在に今一度光を当てる時が来たようである。

身体的に聲を出し解釈を深める
短歌が「わかった」というのはどういうことか?
Webの力のうちに素朴な身体性を語るという面白さを


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雑談力こそ実力なり

2020-03-21
特に目的などなくとも
自由気ままに話すことから
雑談が面白いかどうかが実力なり

最近は「雑談」の効用をひしひしと感じている。特にテーマも決めず、何とはなしに話していることから重要なヒントが得られることがある。生真面目に硬直した心身からは豊かな発想が出てくることもなく、奇想天外で悪戯めいた気分にこそ革新的な言動に導く力があるように思う。学生でもあれこれ話に来る者は、課題の進捗度でも目標の達成度も高い。自らの拙さを曝け出し語ることで、誤りを矯正し然るべき方向性が見え始めるものだ。無口で話さない者は、自らが置かれている位置がわからずどう進んでよいかもわからない。次年度からはさらに指導学生と雑談できる工夫をしようかと、画策しているところである。

僕が大学受験の際に講習でお世話になった英語の著名な先生は、講義以上に僕との雑談で教え導いたことが多かったと後によく回顧していた。講義が終わるとテキストに関する質問もないのに僕は必ず講師室に伺った。先生もよくわかっていて「質問はないのでしょ」と言いつつ、比較文学・言語の話題をよく「雑談」してくれた。そのまま最寄り駅までご一緒し山手線のホームでも雑談を続け、先生は内回り僕は外回りの電車に乗り込むまで雑談を続けた。中高教員になってからも大学院生になってからも、僕は先生のお宅にドーナツを手土産に年に数回は出掛けて、午後丸々をご自宅で雑談していた。これまで築いて来た研究の柱となる発想の多くは、この先生との「雑談」から得られたものといっても過言ではない。

新型コロナで「雑談」機会が奪われる
向き合い気楽に心を曝け出す時間
せめて家族で雑談を!


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