落ち着く食事穏やかな水

2017-10-27
「いつもので」という旦那さんの一声
疲労回復栄養素豊富にひれかつ
そしてシムのプールでしばし思考と身体の対話

しばらく椅子にも座らず、立ちながらというよりも走りながら生活をしている感がある。もちろん比喩的な表現であるが、数ヶ月間のそれはなかなか簡単には止まることのできない状態にある。むしろ止まったらそのまま立ち上がれなくなりそうな気もしないでもない。かなり以前に小欄の「トレーニング・健康」カテゴリーにおいて、「疲労はトレーニングで癒す」といった趣旨のことを書いた記憶がある。あの寝過ぎてしまった時の、何とも言えない気怠さが嫌いだ。むしろ筋肉を刺激して全身の血流をよくすることで、蓄積された疲労の要素たる老廃物は排泄されるような感覚がある。イチローさんが年齢を感じさせないプレーを今でもできるのは、「オフもトレーニングを続けている」からだといった趣旨の記事を読んだことがある。

夕食に馴染みのとんかつ屋さんに行った。旦那さんが麦茶とおしぼりを持ってテーブルに来て、僕の顔を見ると「いつもので」と一声掛けてくれ、僕も「はい」と笑顔で頷く。この呼吸感がたまらなく癒される瞬間である。「いつもの」とは「ひれかつ」のことであるが、脂身が少なく栄養素が凝縮していて疲労回復効果は抜群である。その後、1週間以上行けなかったジムへ。何人もの馴染みの会員仲間の方から「忙しいんですか?」と声を掛けられる。「何とか今週の初めで一段落ですね」と応じて、ストレッチマットで身体の隅々と対話する。いつもにない肩甲骨周辺の凝り、股関節もかなりの硬直具合である。その後は激しい筋トレなどは避けてプールへ。「初級」コースにて、限りなくゆっくりゆっくりと水中を前に進む。次第に身体が自然に動くようになって来て、様々な思考が豊かに蘇ってくる。やはり人間は、元来水の中から出でし生命なのだろう。

日中は書類書きに会議の連続
途中で都城島津邸まで往復2時間
ひれかつとプールの水にありがたき英気を貰い週末は静岡へ。


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「平等ですから」ーこころ和むことば

2017-09-27
ジムのロッカールーム
挨拶をよくする好感が持てる一人の男
曰く「平等ですから」こころ和むことば・・・

来月の和歌文学会大会準備に日々追われている中、時に体力は持つだろうかなどと不安を覚えることがないわけでもない。だがそれだけに体力維持と気分転換の意味で、なるべくジムは励行しようとも心掛けている。先日、久しぶりに泳ごうと思ってプールに行った。そのコースは「上中初級」に類別されていて、「連続して泳ぐ」「25m目標」「ゆっくり」と目安が表示されている。筋トレの後ゆえ「ゆっくり」が選択したかったが、そこには3人もの人がまさにゆっくり泳いでいて、そのうち2人はカップルらしい。中級は中級で初老の方々が3人泳いでいる。残るは上級、そこには比較的ジムでよく挨拶をする身体をそれなりに鍛え上げた男性が一人泳いでいた。この状況で自分が選択するのは、やはり「上級」になってしまった。泳ぎ出すとやはり、その男性と速度が大きく違う。しばらくは彼の後ろを狙ってなるべく追いつかれない位置で泳いでいたが、複数回の往復を繰り返すと次第にそうもいかなくなって来た。

筋肉の状態が厳しいことも相俟って、しばらくするとコースの端で僕はしばし停止した。すると男性も僕の後ろから来て停止した。僕はなかなか次の泳ぎに出ることを躊躇していると、男性は「いいですか!」と声をかけて僕の前に泳ぎ出た。彼はたぶん「連続して泳ぎ」たかったのであろう。少々、彼のトレーニングを邪魔したような気になってしまい、その後はあっさりプールから上がってしまった。こんなことがあった。

だが昨日、やはりロッカールームでその男性に会った。僕は気が引けていたゆえ、「先日はお邪魔して失礼しました」と声を掛けた。すると彼から返って来たことばは「いや!ここでは平等ですから」という爽やかなものであった。声を掛けて本当によかった、という爽快感に満たされた一瞬であった。「運動」をするとどうしても、能力の差が顕著になる。だがジムというフィットネスの場では、みんなが「平等」なのだ。様々な格差が露見する社会情勢の中で、その男性の感覚こそ「理性」ではないかと思えて来た。その後、スチームサウナへ。後から入って来た老年の男が、僕の脇の座り位置に乱暴に水をぶちまけ、一瞬イラっとした。だがそのサウナを後にする時、僕はこれ以上ないほど丁寧に自らが座っていた位置に水をかけて退散した。これでいいのだ。

会員としてのマナー以上の「理性」
そんな穏やかな気持ちを失わずにいたい
自らの信念を和やかに守る上で、人はみな平等である。


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お湯の音にぞおどろかれぬる

2017-08-23
天井から滴るお湯
打たせ湯は身体を打たれるためのみにあらず
その音に心身の回復をみた宵の口

来週から学部3年生は3週間に及ぶ附属小学校での教育実習に入る。その直前指導が実施され、諸々の事務仕事を終えて附属小学校へと出向いた。学生たちは授業で使用する教具などを担当クラスごとに配分する作業を行い、その後、各学級で担当教諭からの指導を受けた。こうした作業的な動きが出てくると、いよいよ実習が始まるという感覚である。それにしても相変わらずの暑さはしんどい。100名近くの学生たちが一堂に会して作業を行えば、熱量も相当なものなのだろう。その会場の若い熱気に、こちらはやや押され気味である。役目を終えて附属小学校を後にしたが、聊か水分の欠乏を感じたので、近くのカフェで休憩することにした。短歌など読みながらしばしゆったりした時間。人気店らしく午後の半ばの時間帯でも店内に客は多い。だが短歌という「声」に耳を傾けるだけで、不思議と静かな気持ちになれるものである。

夜はジムのプールに行くか否か迷ったが、結局は近場の温泉へ。いつも行く公共施設が休館日なので、大学の福利厚生でいただいたチケットを利用し、プロ野球キャンプでも使用されているホテルの温泉へと向かう。夏休み中でここもまた聊か喧騒が絶えなかったのだが、思わず自分なりのスポットを発見してしまった。それは「打たせ湯」の一角。「源泉」から引いたというお湯が天井付近から湯船に常に滴り落ちている。その湯に身体を「打たれる」にあらず、傍らで水面に落ちる音を聞きつつ、ゆったり半身浴をしているのがよい。その一定な「水音」というのが、次第に引き立ってきて、自然と周囲の喧騒を掻き消してくれた。かの芭蕉には「古池や・・・」「閑かさや・・・」の名句があるが、聴覚というのは詩心としては大変重要だ。それも際立った音でなくていい。ささやかな「水音」こそが、心身をこの上なく癒し覚醒させてくれる効果があるように思われた。

日常に「癒しの音」はあるか?
鳥の声・せせらぎの音・寄せては帰る波の音
五感を無駄に生きていては面白くもあるまい。
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自らの身体に聞け!

2017-08-17
散歩・読書・入浴
ヨガ・筋トレ・水泳
自らの身体との交信はあるか?

いくつかの短歌関係の予定があったことと、お盆でジムが休館であったこともあって、約1週間ぶりのトレーニング。身体の声を聞いていないとやはり、思考の方も淀んだり後退的になってしまうものである。こうした身体の”休み明け”にこそ、準備のストレッチから身体各部の状態を覗き込むように、繊細に入念に行うようにしている。ストレッチは準備に30分、筋トレ後に30分、その間に60分間の筋トレプログラム。この配分(ストレッチと筋トレや有酸素運動の関係)が対等時間であるのが理想だと、以前に東京の尊敬するトレーナーさんから聞いたことがある。それが往々にして、メインと考えられる「筋トレ」のみをしてしまいがちである。また「筋トレ」ばかりに偏るのもいけない。この日は筋トレ後に15分間の水泳、水中に浮いて一定のリズムで身体を動かしていると、不思議と思考が活性化してくる。いわば、”瞑想的水泳”ともいえようか、実に心地がよい。

先日の「牧水を語り合う会」で発表した内容と、こうした自らの身体性を比較して考えさせられることも多い。牧水の場合は”瞑想的散歩”に、万葉集長歌を中心にした”敬虔なる音読”、そして混雑していない”銭湯入浴”が、歌ができない際の打開策として挙げている3点である。これはまさしく「ヨガ・筋トレ・水泳」に通づる。自らを内観しつつ身体を動かし続けて体温を上げ自覚を高めるのがヨガ。日常生活でも部分部分は使用しているが、意識して作動させないと刺激が充満しない筋トレ。そしてコース内に他に誰もおらず、自らのペースで様々な思考をしながらの水泳。この3点が、誠に心身を活性化させるのに重要である。こうしたトレーニングの時間が、忙しさに任せて疎かにならぬよう、思いも新たに始動したのであった。そして最近は、ジムで楽しい会話をする人たちも増えてきた。地元地域の様々な職業の方々と、交流があるのも意味深いものである。牧水でいえばさながら、「散歩」や「(銭湯)入浴」で味わったようなことも、ジムは体験させてくれる。

様々な状況を乗り越えて前に進むちから
身体を活性化する動きさまざま
心身のバランスを十分に図りながら。
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そうだ歩いていなかった

2017-07-12
原稿〆切その他諸々
それでも十分な睡眠とともに
行き詰まった時にすべきこととは・・・

複数の原稿〆切に校務と会議と出張等々、変わらず忙しい日々が続く。そんな中で平常心を保つために、心掛けたいことを考えてみた。まずは、何より重要なのが睡眠である。これを削ってはむしろ、頭の回転が鈍くなってしまうように思う。それでも若かりし頃は、ある一定の期間において2〜3時間の睡眠で修士論文などを書き上げた経験もあるが、それでも身体へのダメージが大きかったように思った。首肩の張りが極点に達して、まさに”首が回らない”状態に陥ったこともあった。最近は最低でも6時間、できれば7時間の睡眠を励行している。そのためにはなるべく早く就寝すること。意外に就寝前というのは、無駄な時間が多いものである。ともかく適切な睡眠をとった翌朝の頭は冴えているものだ。

さて、原稿などが行き詰まった時にどうするか?そのまま机に張り付いていると、余計に立ちはだかる壁は厚くなるようだ。気分転換には様々な方法があろうが、何よりも大切にしたいのは「歩くこと」である。小欄でも過去に何度も記しているが、明らかに脳の活動は足の活動に連動して活性化する。梅雨時でなかなか屋外を歩くことも儘ならぬ日が続けば、自ずと気分は鬱々としてくるものだ。そこでこの日はジムのマシン利用でありながら、約40分間で5Kmほど”早歩き”を続けてみた。知らぬ間に脳内が晴れたような気分に至り、靄が取れたように明るい気分になった。「人生を前に進む」ためには、こころだけで考えていては覚束ない。足を動かして「前進する」という身体性を確保してこそ、初めて前に進めるものである。

「頭でっかち」の意味を再考
そうなんだ歩いていなかったんだ!ぜひお試しを
様々な思考をしながら身体を前に進める具体的行動の重要性を再認識した。
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「睡眠」「効率」と仕事の「質」のことなど

2017-06-19
「睡眠負債」という特集
寝不足が蓄積され知らぬうちに健康を害する
「時間」と「質」と「効率」のことなど・・・

日曜午後9時からのNHKスペシャルは、様々な現代的な問題を提起する。この日は「睡眠負債」という特集で、自分では睡眠が足りていると思っていても不足している場合が多く、それが長年続くと「負債」となり健康を害する恐れがあるというのだ。特に日本人は相対的に世界の中でも「睡眠不足」な国民なのであると番組は伝えていた。確かに「自分は何時間寝れば大丈夫」というものを「確信」している場合が多いが、それがいかに根拠なき「過信」なのかと反省させられた。僕自身が思い込んでいた「5時間」という睡眠時間は、ほぼ「最低限」の数値だと云う。人や環境によっても異なるというが、理想は「7時間前後」であると云うのだ。「睡眠負債」があると日中にも眠気に襲われて、むしろ仕事の作業効率は低下する。どうやら日本の「長時間労働」と「睡眠」に対する考え方にも相関関係がありそうだ。

「仕事」も「睡眠」も「質」が大切であると同時に、最低限の「時間」も必要なのだ。この「質」と「時間」とを踏まえた上で初めて「効率」を考えるべきなのであろう。なぜか「効率」が最優先課題と捉えてしまう悪弊が、現代社会では蔓延しているようにも思う。既に広く指摘されているように、就寝前の「スマホ使用」は目からライトを吸収し脳内で睡眠を促進する物質の分泌を抑制してしまい睡眠の質を低下させる。また朝はなるべく「上を向いて歩こう」が奨励されていたが、それはむしろ太陽の光を目から脳内に取り込むことで覚醒する物質が分泌されるからである。こうして「仕事」と「睡眠」の両者の「質」を高め、一方に偏らず双方の絶対的時間を確保し得れてこそ「効率」が上がるということになるだろう。以前に親友から「早起き」の方が健康を害するリスクが大きいという、オックスフォード大学の研究報告の記事を紹介されたこともある。あらためて自らの「睡眠」と「仕事」の双方をバランスよく見直すべきだと、今回は考えさせられた。

「睡眠」によって「仕事」も支えられている
悠々自適に何事にも囚われない人の健康そうなこと
人生は思い悩み苦労するためだけに生きているに非ず
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衰えかけを持ち直す

2017-05-18
出張でトレーニング不足
衰えた上での筋トレのキツさ
そこで持ち直す忍耐力・継続力

約1週間ほど出張などが続いていたために、ジムになかなか行けなかった。仕方ないとは思いつつも、身体が微妙に緩んだような感覚になって来る。理想的には各部の筋肉が、聊かな筋肉痛を常に伴う程度の状態が、ベストだと感じているからだ。筋肉に関しては、トレーニングを継続した時と、このように間が空いた時では、明らかな違いを自覚できるものである。それだけに空白後のトレーニングは、通常に増してキツさを覚えるのである。1週間程度でも衰えが感じられるのであるから、トレーニングなき生活を想像すると恐ろしいとさえ思われて来る。

こうした「持ち直す」ことには、大変重要な意義があるはずだ。プロのアスリートでない限り、身体性を高次元に保ち続けるのには限界があるだろう。人生の様々なことも同様であるが、「持ち直す」際の苦しみに耐えてこそ、再び希望の明日が見えるということ。そこで耐えるか諦めるかで、行く先の道は大きく異なる筈だ。遺伝子学の研究向上から、老化の細胞構造について次々と明らかになって来ている。筋肉を衰えさせないこと、また瞑想などで副交感神経を優位にする機会を持つこと等々、意識してやっておきたいことがある。脳内を含めて、停止せず活動させる機会を持つことが、細胞そのものも活性化することは素人目にも明らかであろう。

筋トレ後のプールはややオーバーワーク
欲張らず継続することを念頭に
「ココ」で踏ん張っておくことが明日を築く

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「痛い箇所に原因はない」トレーナーさんの名言から

2017-04-27
「痛い箇所に(痛みの)原因はない」
尊敬するトレーナーさんの言葉
筋肉の鍛錬と柔軟性のこと

先月のことであるが、上京した際に嘗て通っていたジムを訪れた。そこには、過去の小欄で幾度なく賞讃してきた尊敬する女性のトレーナーさんがいる。「フィットネスは競争ではない」「柔軟性や可動域の広さが大事」など、随所随所に的確なアドバイスをいただき、僕の健康生活を支えてくれていた。宮崎に来てからもジム通いは継続しているが、正直なところなかなかこの次元のアドバイスをくれる方には出会えないでいる。よって数ヶ月に1度は、上京した際に彼女のレッスンを受けに足を運ぶ。裏を返せば、指導者たるやこうした乞われる存在を目指すべきであろう。先月に訪問した際の彼女のアドバイスは、「痛い箇所に(痛みの)原因はない」であった。これは身体のみならず、様々な事象に対していえるのではないかと深く考えさせられた。

人は痛みがあれば、その箇所において対処療法を採る。湿布などが、その代表的な例であろう。だがそれは、一時の気休めに過ぎない場合も多い。打撲などであれば、湿布によって冷やされて腫れが引くのは事実である。だが関節痛・肩凝りや腰痛には、いくら湿布をしても気休めのように思われる。そこで前述した名言「痛い箇所に原因はない」が考え方として活きてくる。例えば膝に違和感があれば、必ず上下の脚の筋肉が弱っている。腰痛ならば、首・肩から足まで様々な筋肉に張りが出て、肝心要の部分を硬直させている。特に筋肉量と柔軟性は年齢とともに必然的に衰えるので、意識した鍛錬が必要だ。そしてまた中長期的な視点も必要であるように思う。各部位に支障が出たらトレーニング方針を再検討し、徹底して筋肉と柔軟性に特化した内容を設定する。また今現在の鍛錬は必ず、10年後の自らの身体に反映するものと考えている。年齢の2桁目にあたる10年を、身体鍛錬の上でいかに意識し実践するかで、次の10年が決まってくるという実感がある。

研究や創作、そして心においても
「痛い箇所に原因はない」のだろう
となれば、脳内の活動的鍛錬と柔軟性を常に意識せねばなるまい。

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自然治癒力に託して

2017-03-07
花粉症は治った?
首肩腰の張りは?
自らの治癒力に託してみる

宮崎に移住して丸4年が近づいている。4年前の今頃は、東京からの引越準備をしつつ、WBCの一次予選を観戦に毎日のように東京ドームに足を運んでいた。正直なところその「WBC熱」も、前回や09年06年から段階的に自分の中で後退してきている。残念ながら「日本代表」チームにあまり魅力を感じないのである。さて、その4年間で身体的には何が変化したかといえば、花粉症の症状が緩和されたことである。控えめに「緩和」と書いたが、口頭では「治った」と公言している。抗アレルギー薬も必要なくなり、”あの眠気”からも解放され、この4年間で「薬」というものは「目薬」ぐらいしか処方されたことはない。宮崎はむしろ杉の名産地で、物質的な花粉量からすれば東京より多いのではないか思われる。だが、時折のくしゃみがまったくないとは言わないが、「症状」というほどのことはなく過ごせている。その要因は、一つに綺麗な空気、二つに免疫力の高まりではないかと自覚している。

現職教員ながら修士論文を書いていた頃、校務との両立でPC使用も長時間にわたり、ほとんど首が回らないほどに肩が凝ってしまったことがあった。やむなく自宅近くの接骨院に毎日のように通院し、首肩をほぐしてもらいまた夜なべをする始末であった。接骨院の先生は親切にほぐしてくれたが、かなりの”固さ”であると言っていたのが思い出される。僕の修論が成立したのも、あの接骨院の先生なくしてはあり得なかったといっても過言ではない。ところが、この10年間ほどは論文などに根を詰めても、首肩が凝り固まることはほとんどなくなった。それはやはり、ジムでのトレーニングを励行しているからであろう。昨日はやや首肩腰に張りを覚え、接骨院などが頭をよぎったが、やはり自らの力でと思い直し、ジムで入念なストレッチと水泳を行なった。他人の力よりも自らの中に治癒力は眠っている。それを引き出すか否かは、行動次第ということだろう。

自らの中に眠る力に気づき引き出す
文筆そして短歌なども同様であろう
「病」と名付け、薬や治療に頼りすぎな現代社会を思いつつ。
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「ルーティン」と「身体の声」

2017-03-02
定めたノルマ
維持したいと頑張り過ぎて
その日の己の「身体の声」を聴くこと

小欄からしてそうなのであるが、生活上の「ルーティン」が次第に多くなっている。朝起きてから家を出るまでにも、細かいことを入れればかなりの「意味」を持たせている行為がある。それはさながらビデオ動画を再生するように、規則正しく流れている筈である。「ルーティン」とは『現代用語の基礎知識2016』に拠れば、「きまった業務や手順などを意味する。」とされ、ラグビーの五郎丸選手が「キックに至るまでの動きを6分割して、集中力を高めることで周囲の雑音を遮断。」するような例を挙げて紹介している。特に「最後に指を4本立てるポーズ」は、巷間で大きな話題となった。もちろん野球のイチロー選手が打席に入るまで、守備位置に着くまでの動作がいつも同じであることや、その延長で球場入り以後や、それ以前の昼食まで毎日同じにしているというのは有名な話である。

ただ特に「生活」の場合は、ある程度の融通がきかないとならないと思うときもある。身体トレーニングなどは習慣化に支えられて継続するものであるが、その日の己の「身体の声」をしっかりと聴いて実施する必要があるように思う。「心」ばかりが先行すると、「身体」がいつしか悲鳴をあげているという場合も少なくない。今年になってトレーニングに水泳を導入して、以前より調子が良いことを実感していたゆえに、ここのところ泳ぐ時間・距離を伸ばし始めたところであった。また「水泳」の場合は、終了するとそのまま風呂に向かい後は帰るのみとなる。運動後のストレッチを施すことはない。「身体がほぐれる」と感じていても繰り返して距離が過剰になれば、筋肉の張りを誘発しかねない。ランニングなどもそうであるが、「思い込み」で「身体に良い」として過剰な運動になるのは危険である、という警告もいつぞやのWeb記事で読んだことがある。

何事もその時の「状況」を察知して
物事の「意味」は、日々において変化するものである
「心」が過剰に作用しないように、何事にも肝心な戒めである。
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