既習なら漢字で書くという近現代の幻想
2022-12-16
小学校学年配当漢字が既習であれば表記は漢字にせよという教育の階梯
「文字」のみが言語と考える近代の幻想
落語や芝居を観る際には、明らかに「音声」を聴き取り内容を想像する脳の働きが基本となる。声の調子や場面に応じた変化など、「音声」に伴う非言語な部分も含まれる。総合的に「場面に応じた声と発する人間の表情・動作」などの総合体によって、噺も芝居内容も我々は理解することになる。「聴き取る力」というのは言語使用の上で大変に重要な要素であるが、昨今はやや疎かにされているのではないかと思う事例も少なくない。バラエティ番組のさして重要ではない芸人の発言などが、画面下に字幕が出て伝えられることが圧倒的に多くなった。脳の作用として視聴者は芸人の「音声を聴き取る」という感覚ではなく、「字幕を読むことに音声が伴う」ような感覚で捉えていないだろうか?講義においても「音声」のみの説明では理解し難い表情をする学生も多く、プレゼンソフトの使用が一般的になったことも相まって場合によると「文字情報」をスマホで撮影しようとする局面に出会うことも少なくない。自らの「身体に情報を刻む」のではなく機器の利便性に委ねることで、果たして内容の咀嚼に深浅は生じていないのかと思う。
『枕草子』を題材にした演習発表を行なっているが、学生の発表に前述した傾向が覗かれることも多い。諸注釈を比較して「漢字表記」なのか「仮名表記」なのかという点に必要以上にこだわり、「文字」として意味が理解しやすい「漢字表記の妥当性」を述べる傾向がある。小学校では漢字の学年配当があり、「既習のものは漢字で書く」のが国語学習の基本となる。だが古典に遡る言語表記史を辿れば、決してそうではないことは和歌をはじめとして明らかであることに気づいてもらうのもこの演習の大きな意義だと思う。現代では短歌創作をしていれば、自ずと「漢字」「ひらがな」「カタカナ」「ローマ字」など表記方法を縦横無尽に選び取ることが標準である感覚が芽生える。もちろん、広告宣伝などにおいて敢えて「ひらがな」などという効果を狙ったものも最近は多く目にする。仮に「ひらがな」が「和歌を表記する」ために開発されたという仮説を立てると、「和歌は音声」でありそれを「書き留める」ためには「表音文字」が必要であったという理屈になる。掛詞の理解は落語のオチなどを聞き分けることに通じ、享受者が脳内で「漢字に変換し書き分ける」ために表記される際には「かな」が選択されるという訳である。
わたしたちの言語の融通性を広い視野で考えたい
「音声」という言語要素を見直すべき
「漢字」を多用した表現が空疎なのは国会を見れば明らかではないか。
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場における相互作用ー待遇性ある言語特性に短歌は生きる
2022-03-03
虹の色は何色か?普遍的な心的言語
西洋言語は個体・名詞として物事を捉えるのだが
家族でも職場・学校の友だちでもいい、先にある2人が話していたとしよう。その会話に後から入る際に、「今この2人は何の話題を話しているのだろう?」と詮索する思いが働く。会話に急に飛び込んでも、にわかにその会話に参入することは難しい。また一定のテーマで会話をしていると、急にその内容に齟齬が生じることがある。それは相手たる人が、自らの中でこちらが気づかぬ間に話題を変えてしまった場合である。こちらは以前の話題だと思って話し続けるゆえに、会話内容に齟齬が生じる。少し先になって、「今・・・のこと話している?」と問いかけて初めて、話題が合一する。また「あれ・これ・それ」を多用して会話する場合、話し手と聞き手に齟齬が生じることもある。「こそあど言葉」の指示内容が明確でないままに、自分はわかるが相手はわからないという場合である。このように言語とは、あくまで「文脈」の中にあってこそ「意味」が生じる。有名な「私はウナギだ。」という発言者に対して、その「文脈」つまり使用される「場」がわからなければ異常だと判断するかもしれない。だが「蕎麦屋の店先」だとすれば「カツ丼」でも「親子丼」でもなく「うな丼」を注文する際の発言だと周囲は平然と理解することができる。
所属大学の多言語多文化教育研究センター主催のシンポジウムに、オンラインで参加した。先日、韓国ドラマを題材にした短歌について、比較言語学の立場からオンライン歌会を作者の俵万智さんを含めて実施した韓国語の先生も発表者であった。冒頭に記したような言語学の基本的な認識の問題に発し、最後は短歌が表現する言語のあり方が示され大変に興味深かった。中でも東洋の言語は「場における相互作用」に焦点を当てる傾向で動詞的であり、西洋の「個体」に焦点を当てて名詞的なものと対照的であると云う。先に示した「私はウナギだ。」の文も場合によれば「私は」も省略され、「ウナギ!」だけを発話する場合がむしろ日本語としては自然かもしれない。「蕎麦屋という場に置かれ入店し席に座る」という場の相互作用が、主語も動詞も要らずに発話に意味を持たせることができる。英語ならば「Can I have・・・」とか「I would like・・・」などと主語と意志を表現する動詞が焦点化された名詞を補助するだろう。シンポジウム発表への質問として、こうした日本語の「待遇性」について指摘をした。短歌の解釈とは、三十一文字に含まれる表現をヒントに、どれほどの「場の相互作用」や「待遇性」を読めるかが解釈の要諦となる。言語学の立場から短歌を見つめる、大変に良い機会に巡り合ったと思う。
他にも英詩の”ryhm”や”iamb”などの音韻に注目した発表も
教育学部の壺の中だけでなく、多言語多文化の中で短歌を考えて行くべきだろう
誠に言葉は面白い!
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「さよなら」か「さようなら」か?ー歌詞を唄う聲
2021-11-17
歌唱から聞き取った「音(聲)」としてCD添付の歌詞カードを基礎資料としつつ
表記や助詞の有無などについて考える機会
新刊著書の出版社から夜になって電話があった。既にメールを数本送っているので、早急に確認をお願いしたい事項があるという趣旨であった。校了して提出したゲラのうちに「さよなら」と「さようなら」が混在しているので、確認してほしいというのが一番重要な内容だった。出版社に直接に提出した際に、章名に「さようなら」を加えたことによる齟齬である。僕の頭の中では当該部分の歌詞をミュージシャンが唄っている上では、明らかに「さようなら」と聞こえてそう記憶していた。だが本文中の歌詞引用部分は「さよなら」になっているという指摘だ。早速にCDの歌詞カードを見ると、最初に当該の曲だ出された際とその後のベスト盤が出された際には、ともに「さよなら」でありながらその後に助詞「は」があるとないのと齟齬があり、興味深い発見もできた。自ら作詞作曲するミュージシャンは、唄っているうちにメロディと歌詞にリズム的な空白があることに気づくと、「は」などの助詞などで補うのかもしれないという「唄う聲」の発見であったからである。
もとより「さようなら」は「左様ならば」であり、「『さよう』という語は中古からあるが『さらば』(和文)『しからば』(漢文訓読文)で表わされ、中世末期には『さらば』『それなら』が多く用いられ、『さようならば』の使用頻度が高くなるのは近世中期以降である」と『日本国語大辞典第二版』「語誌」欄にある。さらに「別れの挨拶の用法」においては、「先ず『ごきげんよう』『のちほど』などの他の別れの表現と結びついた形で用いられ、次いで近世後期に独立し別れのことばとして一般化した」とある。「打ちとけた間柄での『おさらばよ』やぞんざいな言い方の『そ(す)んなら』に比べて、『さようなら』は丁寧な言い方」ともある。「発音」として「サヨーナラ」と長音になることからからも、歴史的仮名遣いでは「さやうなら」であり現在でも発音する際に「さよなら」とあっても「よ」の音がやや長めに延びることから「さようなら」と聞こえることも少なくない。もちろん『日国』にも「『さようなら』の変化した語』として「さよなら」の見出し項目も設けられており、漱石『吾輩は猫である』では「さよなら」の用例がある。もちろん今回の判断に影響があったわけではないが、僕の小学校高学年の担任の先生は教室で下校の際に「さよ”おなら”」と言っていたのが思い返される。ちなみに、音楽の先生であったことも一興だ。
歌唱のことばは生きている
メロディと歌詞との関係で生じる微妙な日本語の音韻
やはりことばは生きているのだ。
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事情を知らぬ人が読んでも文書は
2021-09-25
文脈で「自分たち」だけがわかるのではレポート・卒論を書く学生らに指導すること
誰が読んでもわかる文章を書く
先日、ある会議に出された事務文書において、「・・をーーに推薦することが承認された。」というものがあった。「・・」「ーー」はいずれも人物呼称が入る。初めに読んだ際に「・・」の人物を「ーー」という役職に「推薦する」のかと解釈し、大変に違和感を覚えた。その場で文書訂正の発言をしたのだが、声に出して説明するうちにすぐ、「・・」の人物を「ーー」の元へ向けて「推薦する」のだと気付き、意味の確認をした上で「読み間違えていました」と発言してその場を終えた。会議全体では「特に問題はない」という雰囲気であったが、「解釈の多様性」などのことを普段から考えている身としては大変に気になった。要点は助詞「に」の使い方である。「ーー(という役職)に」とも解釈でき、「ーー(の立場の人の元)に」とも解釈できるわけである。「ーー」が「目的」にもなれば、「ーー」が「対象」とも解せる。
短歌ではこのような助詞の機微によって、多様な詩的世界が拡がることが少なくない。それだけに助詞の選択は、生命線といってもよいほど難しい。むしろどれだけ「説明的」に明確にしないかが、短歌を創作する上で心がけることだ。短歌の批評で「説明的」とか「散文的」と言えば、「詩になっていない」と言っているわけで批判の対象である。名歌ほど多様な解釈ができ、一様な解釈に落ち着かない懐の深さがあるものだ。牧水の有名な「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の歌も、「にも」と表現されているが「白鳥」が「空」になのか「海」になのか、どちらに「ただよふ」のかは読者の想像次第で多様な解釈ができる。「空」「海」という単純な「場所」なのか?より哲学的な場所の持つ含意があって「目的」なのか?「白鳥」が何羽いるか?という問いも含めて多様に解釈できることが、この歌が名歌中の名歌とされる所以である。助詞で文章成分をつなぐ膠着語(対立する概念は「孤立語」で文型で成分の役割意味を示す言語)である日本語の特徴を、最大限に活かしたのが短歌という文芸であるといってよい。だが事務文書で当該の状況をまったく知らない人が読んで、解釈の多様性があってよいものか。周知の内輪ゆえに当該人物を知っているから解釈が定まっているだけで、まったく知らない人が読んだら「読み間違う」ことがあるはずだ。僕などは学生のレポート・卒論を読む際には、当該の学生を知らない立場で文章を評価するよう心がけている。もちろん僕たちは論文を書く上で、自分のことを何も知らない人に対しても説得力のある文章を書くことを心がけているプロなのだから。
こうして小欄の文章を見直すといくつか助詞の訂正が
それでも「内輪話」になっている箇所があるかもしれない
知っている人が読めば「こうだ」とわかり、知らない人が読めば一般論などはよくあるのだが。
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尊きは個々の命
2021-08-16
「尊い」とは?「高貴である。品位が高くすぐれている。すぐれて価値がある。
あがめ重んずべきである。大切である。たっとい。」(『日本国語大辞典第二版』より)
76回目の終戦記念日。今年は五輪放送の影響などが指摘されているが、TV各局が先の第二次世界大戦に関する特集番組を放映することが少ないことを実感している。少なくとも「反戦・平和」への思いをこの日にあらたにし、僕たちは二度とあのような惨禍が起きぬように誓うべきだろう。よく学校で子どもが思わしくない行動をすると、「反省文」を書かせるということがある。だが「文章」として書く内容は、果たして真の「反省」になっているのか?と思うことも少なくない。建前の「反省」ではなく、真に自らが犯した行動に悔い改める決意を持つかどうか?言葉は時として表面的でもあり、時として真意を露呈させるものである。このような意味で終戦に関連して語られる「尊い犠牲」という言い方に、毎年のように大変に違和感を覚えている。「(戦争の)犠牲」への修飾語として「尊い」というのは一見、戦争で犠牲になった方々を追悼しているように聞こえるが、よく考えるとそうではないことに注意深く気づくべきではないのだろうか。
冒頭に「尊い」の辞書的意味を引用した。「尊い犠牲」とは、「すぐれて価値がある犠牲」「あがめ重んずべきである犠牲」ということになる。さらに「犠牲」の見出しで同辞書を引くと「すべてをなげうってつくすこと。自発的ではなく、強制されるものに、また偶発的な事故や自然災害に出会った場合についてもいう。」もうおわかりだと思うが、特に「強制」されて「すべてをなげうってつくす」ことを、果たして「尊い」と言えるのだろうか?そう、尊きは個々の命であって「犠牲」ではない。基本的な辞書的意味を適用するならば、「強制され犠牲となった尊い個々の命を悼み」というあたりの表現が妥当ということになるのではないだろうか。今現在も全国で、大雨により尊い個々の命が失われている。ニュース映像で「死者◯人」と見るのみならず、自らが自然災害に遭ったら、愛する人々が命を落としたら、と当事者の立場で考える必要があるだろう。新型コロナ感染拡大についても、「災害級」という表現は医療関係者が警告として出したはずである。決して為政者が「自然災害のようで自己責任として仕方ない」という言い訳には決して置き換えられるべきではない。言語表現の節々にこそ、発言者の真意が隠されていることを僕らは注意深く拒み続けなければなるまい。
個々の命こそ宝
今も世界中から聞こえる悲しみの声に心を致す
眼の前の人の命を尊んでこその平和だ。
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丁寧な「料理」のごとく
2020-10-03
季節によってホワイトボードに書かれたメニュー素材・調理・盛り付け・給仕のすべてが丁寧に
深く心酔する料理店のごとく
「料理店」という単語が、いつしか使われなくなっている。宮沢賢治の『注文の多い料理店』は有名であるが、小説の内容からはやや複雑な趣旨も感じざるを得ない。辞書を繰ってみると、「料理」そのものは平安朝からある言葉で「物事を整えおさめること。うまく処理すること。」という意味で、明治・大正の頃までは使用されたようだ。現在でも刑事ドラマなどの悪役が「どう料理するか」などと言えば、人を殺めたりする暴力的な趣旨が伴う。『注文の多い料理店』はこのような語誌を巧みに小説にしたようにも思う。「美味しい料理」に欲を出す荒んだ都会人が、「山猫」なる自然の得体の知れない存在に、反転して「料理され」そうになる物語だ。「食べ物」専用に使用されるようになっても、真のところでは素材たる肉野菜を「料理して”生命”をいただく」という意味で、元の意味合いが反映していると考えるべきなのかもしれない。
週に一回は足繁く通う「料理店」がある。店構えからしてその名がふさわしく、店主の人柄が反映した丁寧な料理、水を汲むことや給仕する動作も気品あるご婦人。まさに小説にでも描きたくなるようなメルヘン的な「料理店」である。調理する洋食の素材が十分に吟味されていて、肉や野菜に「敬意」をもって「料理」している姿勢が窺える。不思議とこの店で肉料理を食べると、格段の活力がつくのだ。Web上などで騒ぎになる「行列のできる・・・」などとは、まったく雰囲気を異にする閑かで穏やかな自然の中の一軒家である。店主とご婦人へは尊敬に値する気持ちを抱くのだが、それは先方が一介の客である僕らに深い「敬意」を抱いてくれているからであろう。この「料理店」のことを考えると、交友関係でも双方の心にいかに「共感と敬意」を持って接することができるかが大切ではないかと思う。時に異質さを感じたとしても、誠意ある「料理」を経て共感できる者こそが「友だち」ということなのだ。
「腹を割って」には「料理」の趣旨がある
通じ合う友だちの電話は自ずと笑いが溢れるものだ
真の「料理」を忘れてしまった食産業のものだけを食べていてはなるまい。
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「希望」は発想し行動することから
2019-10-02
「こいねがうこと。あることが実現することを待ち望むこと。」「将来への明るい見通し。のぞむ。可能性。見込み」(『日本国語大辞典第二版』より)
「冀望」は中国に典拠が求められ、明治20年頃までは「けまう」と読まれたとも。
「希望」という語は、現代語で前述したような辞書的意味で使用されている。どうやらその使用例も明治20年頃から一般化したもので、それ以前は漢語としての「冀望」(けまう)が元来の語であるらしい。漢和辞典を引けば「希冀」の語もあり、漢文訓読からも判るように「こいねがう」と類語を組み合わせた語の構成である。「希」に関してみれば、「希少」「希代」「希薄」「希有」などの語彙が多々あるように「まれである」という意味で「稀」の字に通ずる。もちろん「古希(七十歳)」は、「古来希(まれ)なり」という漢籍に典拠をみる語である。漢字本来の意味に拠れば、このように「まれなるのぞみ」ということになり、明治20年代以降から現代に至る使用の方が、「将来への明るい見通し」という特異で”稀”な用例であるのかもしれない。
いつの時代も、世相は語感に反映する。消費税が10%に上がり、まさに「希望」の時代になったのか?上昇分の財源は「社会保障」と「財政健全化」に使用されると言うが、それは「希望」なのか?後の時代に「あの時の上昇が」と、多くの人が思い出せる節目の1日を迎えたわけである。様々な世相の中で、僕たちはやはり「希望」を持って生きるしかあるまい。まさに「稀」に生まれることができた自らの生命をいかに活かすか、人生はそれほど貴重で尊い物語であろう。近現代のあまりにも便利で容易に安易な「希望」が叶う社会が、実は「稀な望み」という語感をすっかり忘れてしまったのかもしれない。「希望」とは元来から、自ら求めて行動しなければ叶うはずもない「稀少」な可能性の中でも前進すべく生きるということなのだろう。だからまたこの節目にいかに行動するかが、僕らに問われた課題なのだと思う。
仕事の上でも大きな始まりの1日
豊かに「発想」しながら「行動」へ直結する動きを
「希望」ゆえに深く「冀う」のである。
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「教える」の語感を考える
2018-06-18
「説明」ではなく自らの今を語る「教える」のではなくお互いに気づく
世界でここにしかない発見をしたい
最近は「教える」という語彙に、抵抗を覚えるようになった。その一つの理由に、自分の一つの考え方を教え込んでも、学生にとっての学びにはならないと思うゆえである。少なくとも教え「込む」のではなく知識・技術は伝えた上で、学び手が自ら気づいて行動し活用できるようになることが重要なのではないかと思っている。あらためて『日本国語大辞典第二版』をくってみると、「(1)行動や身の処し方などについて注意を与えて導く。いましめる。さとす。(2)知っている事や自分の気持、要求などを他の人に告げ知らせる。(3)知識、技術などを身につけるようにさせる。教授する。(4)おだてたりして、悪い事をするようにしむける。」の四項目が見られる。特に(4)の意味については「語誌」に次のように記されており興味深い。
「本来は使役の辞である「教」字を、「をして〜(セしむ)」とよむ訓法が平安時代後期以降に成立した事に起因し、「〜」の本動詞の意味が特に悪い結果を生じさせたり、悪意に基づく所作であったりした場合に、「悪いことをしむける」の意味に解されるようになったのであろう。」
僕自身が今感じている「教える」に対する抵抗感は、たぶんこの「使役」の趣旨にあるようだ。
「読み聞かせ」という語もそうであるが、読み手が一方的に聞き手に「聞かせる」という趣旨の語感が生じてしまう。以前に俵万智さんともこの点について話したことがあるが、「なんだかお仕着せがましい」という意見で一致した。聞き手側にも主体性があって、その語りに参加していることが含まれるような適切な語彙はないものだろうかと現在も模索中である。誤解のないように記しておくが、上記の『日国』にある(1)(2)(3)の要素を、あくまで〈教室〉で不要だと言っているのではない。「さとす」「告げ知らせる」「身につけるように」と意味が記されているように、受ける側が主体的に「気づき」「行動し」「活用できる」ように「教える」ことが求められているということだ。この考え方の上では、教える側と学び手のすべてが平等でなくてはなるまい。
対面し声で告げることの大切さ
気づいたら自分で行動してみること
「説明」ではなく心を動かすものにすべきなのは短歌も同じ。
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漢文脈再考ー「山河草木みな光あり」の意義
2018-05-12
「春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり」(佐佐木信綱『山と水と』より)
第四句=漢語「さんがそうもく」=七音
明治維新から150年目の今年、この「近現代化」の歴史の渦中で僕たちは今でも生き続けている。明治・大正・昭和・平成そして・・・考えてみれば、祖父母は明治や大正の生まれであった。幼少の頃に新潟に在住する祖母から手紙をもらった際に、「こちらでも、ようやくてふてふがとびはじめました。」と文面にあって、新潟には「てふてふ」という特殊な生き物が飛ぶものか?と幼心なりの恐怖心とともに、その仮名の綴りに大変深い興味を覚えたのを記憶する。母親に聞いてそれは「ちょうちょう」と読むのだ、と知った時の衝撃は甚だ大きかった。こうした幼児体験が、僕を今のような職業に導く根になっているような気もしている。要するに祖母は、明治の言文一致の流れを受けて、旧仮名や文語と新仮名や口語が混沌と使用される時代を生きていたことを、親族内の生身の体験で知ることができたことは、大変貴重であったわけである。
担当する「中等国語教育研究」にて、「高等学校で古典を学び意味を、教師として説明する。」というワークを毎年実施している。また「現代文と古典ではどちらを担当したいか?」といった質問に理由をつけて答え、全体で議論することも行なっている。学生たちの直近の教育体験である高等学校国語(古典)において、真に「古典学習の意義」を理解して学んで来た者は、残念ながら稀である。特に「漢文」学習などにおいては「センター試験で課される」というのが大きな意欲であり、日本語の成立して来た上での重要な「接触と乖離」といった歴史的な意義、いや現在にも連なる日本語史を意識した学習へと導く高等学校教師が稀なのである。もとより高等学校教師が、こうした「漢文脈からの離脱」によって近代の口語体が成立した意味をほとんど理解していない。冒頭の信綱の歌は、昭和26年出版の歌集『山と水と』所載の名歌であるが、第四句の「山河草木」という漢語の「七音」を実に巧みに利用した歌である。
こうした明治の時代背景において
石川啄木と若山牧水はいかに自らの文体を確立したか?
本日は、いよいよ「牧水研究会・国際啄木学会宮崎大会」の研究発表である。
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「しっかり」誤魔化してくれますね
2018-04-04
学生に聞くと「しっかりやる」政治的不祥事も「しっかり」解明するとか
NHKさんもそうそう「しっかり」連発しないでおくれ・・・
世間はすっかり「しっかり」ブームである。政治家・官僚からして何かと不祥事は「しっかり対応する」と言うだけで、その多くが虚偽であることが明らかになることの連続。スポーツ選手のインタビューを聞けば、ほとんどの競技で「しっかり」が何度使用されるか?まだ選手たちは結果を残しているから「しっかり有言実行」なので許せる。日常的に学生と話していてもその傾向は否めず、何らか痛い点を指摘すると「しっかりやります」と多くの学生は答える。例えば、「(教員採用試験の)勉強は進んでいますか?」と問えば、「しっかりやります」という具合だ。この学生の答え方に典型的なように「しっかり」を使用した場合には、具体的な行動をしていないことが裏打ちされると考えてよいように思う。
国会答弁にこの「しっかり」が目立つという指摘が昨今されているが、先輩の辞書編集者である神永曉さんが「日本語どうでしょう」(ジャパンナレッジWeb)にその調査結果を記している。どうやら2002年頃の小泉政権頃からその使用頻度が急激に高まった語彙であると云う。やはりそうか、所謂「劇場型政治」に「しっかり」はつきものなのだ。「劇場」を超えて今や「闇の世界」のような国会。語彙使用には五月蝿いはずのNHKニュースを観ていても、やはり「しっかり」は連発、昨夜などは同じコメント場面で男女が1度ずつ「しっかり」繰り返し呆れた。他者が直近に使用した語彙なら、むしろ「ズラす」のがコメントのコツではないのか。しかもニュースの構成順番や配分率などにも、微妙な「闇」の影がちらつかないか。映像コメントなどは、ご都合主義で編集されていることを、我々は「しっかり」認識しておくべきであろう。
「しっかり」を使わない方法
具体的に「何をどのように行動するか」
教育の現場でも安易に「しっかり」が頻用されていることを憂う。
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