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「希望」は発想し行動することから

2019-10-02
「こいねがうこと。あることが実現することを待ち望むこと。」
「将来への明るい見通し。のぞむ。可能性。見込み」(『日本国語大辞典第二版』より)
「冀望」は中国に典拠が求められ、明治20年頃までは「けまう」と読まれたとも。

「希望」という語は、現代語で前述したような辞書的意味で使用されている。どうやらその使用例も明治20年頃から一般化したもので、それ以前は漢語としての「冀望」(けまう)が元来の語であるらしい。漢和辞典を引けば「希冀」の語もあり、漢文訓読からも判るように「こいねがう」と類語を組み合わせた語の構成である。「希」に関してみれば、「希少」「希代」「希薄」「希有」などの語彙が多々あるように「まれである」という意味で「稀」の字に通ずる。もちろん「古希(七十歳)」は、「古来希(まれ)なり」という漢籍に典拠をみる語である。漢字本来の意味に拠れば、このように「まれなるのぞみ」ということになり、明治20年代以降から現代に至る使用の方が、「将来への明るい見通し」という特異で”稀”な用例であるのかもしれない。

いつの時代も、世相は語感に反映する。消費税が10%に上がり、まさに「希望」の時代になったのか?上昇分の財源は「社会保障」と「財政健全化」に使用されると言うが、それは「希望」なのか?後の時代に「あの時の上昇が」と、多くの人が思い出せる節目の1日を迎えたわけである。様々な世相の中で、僕たちはやはり「希望」を持って生きるしかあるまい。まさに「稀」に生まれることができた自らの生命をいかに活かすか、人生はそれほど貴重で尊い物語であろう。近現代のあまりにも便利で容易に安易な「希望」が叶う社会が、実は「稀な望み」という語感をすっかり忘れてしまったのかもしれない。「希望」とは元来から、自ら求めて行動しなければ叶うはずもない「稀少」な可能性の中でも前進すべく生きるということなのだろう。だからまたこの節目にいかに行動するかが、僕らに問われた課題なのだと思う。

仕事の上でも大きな始まりの1日
豊かに「発想」しながら「行動」へ直結する動きを
「希望」ゆえに深く「冀う」のである。


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「教える」の語感を考える

2018-06-18
「説明」ではなく自らの今を語る
「教える」のではなくお互いに気づく
世界でここにしかない発見をしたい

最近は「教える」という語彙に、抵抗を覚えるようになった。その一つの理由に、自分の一つの考え方を教え込んでも、学生にとっての学びにはならないと思うゆえである。少なくとも教え「込む」のではなく知識・技術は伝えた上で、学び手が自ら気づいて行動し活用できるようになることが重要なのではないかと思っている。あらためて『日本国語大辞典第二版』をくってみると、「(1)行動や身の処し方などについて注意を与えて導く。いましめる。さとす。(2)知っている事や自分の気持、要求などを他の人に告げ知らせる。(3)知識、技術などを身につけるようにさせる。教授する。(4)おだてたりして、悪い事をするようにしむける。」の四項目が見られる。特に(4)の意味については「語誌」に次のように記されており興味深い。

「本来は使役の辞である「教」字を、「をして〜(セしむ)」とよむ訓法が平安時代後期以降に成立した事に起因し、「〜」の本動詞の意味が特に悪い結果を生じさせたり、悪意に基づく所作であったりした場合に、「悪いことをしむける」の意味に解されるようになったのであろう。」

僕自身が今感じている「教える」に対する抵抗感は、たぶんこの「使役」の趣旨にあるようだ。
「読み聞かせ」という語もそうであるが、読み手が一方的に聞き手に「聞かせる」という趣旨の語感が生じてしまう。以前に俵万智さんともこの点について話したことがあるが、「なんだかお仕着せがましい」という意見で一致した。聞き手側にも主体性があって、その語りに参加していることが含まれるような適切な語彙はないものだろうかと現在も模索中である。誤解のないように記しておくが、上記の『日国』にある(1)(2)(3)の要素を、あくまで〈教室〉で不要だと言っているのではない。「さとす」「告げ知らせる」「身につけるように」と意味が記されているように、受ける側が主体的に「気づき」「行動し」「活用できる」ように「教える」ことが求められているということだ。この考え方の上では、教える側と学び手のすべてが平等でなくてはなるまい。

対面し声で告げることの大切さ
気づいたら自分で行動してみること
「説明」ではなく心を動かすものにすべきなのは短歌も同じ。


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漢文脈再考ー「山河草木みな光あり」の意義

2018-05-12
「春ここに生るる朝の日をうけて山河草木みな光あり」
(佐佐木信綱『山と水と』より)
第四句=漢語「さんがそうもく」=七音

明治維新から150年目の今年、この「近現代化」の歴史の渦中で僕たちは今でも生き続けている。明治・大正・昭和・平成そして・・・考えてみれば、祖父母は明治や大正の生まれであった。幼少の頃に新潟に在住する祖母から手紙をもらった際に、「こちらでも、ようやくてふてふがとびはじめました。」と文面にあって、新潟には「てふてふ」という特殊な生き物が飛ぶものか?と幼心なりの恐怖心とともに、その仮名の綴りに大変深い興味を覚えたのを記憶する。母親に聞いてそれは「ちょうちょう」と読むのだ、と知った時の衝撃は甚だ大きかった。こうした幼児体験が、僕を今のような職業に導く根になっているような気もしている。要するに祖母は、明治の言文一致の流れを受けて、旧仮名や文語と新仮名や口語が混沌と使用される時代を生きていたことを、親族内の生身の体験で知ることができたことは、大変貴重であったわけである。

担当する「中等国語教育研究」にて、「高等学校で古典を学び意味を、教師として説明する。」というワークを毎年実施している。また「現代文と古典ではどちらを担当したいか?」といった質問に理由をつけて答え、全体で議論することも行なっている。学生たちの直近の教育体験である高等学校国語(古典)において、真に「古典学習の意義」を理解して学んで来た者は、残念ながら稀である。特に「漢文」学習などにおいては「センター試験で課される」というのが大きな意欲であり、日本語の成立して来た上での重要な「接触と乖離」といった歴史的な意義、いや現在にも連なる日本語史を意識した学習へと導く高等学校教師が稀なのである。もとより高等学校教師が、こうした「漢文脈からの離脱」によって近代の口語体が成立した意味をほとんど理解していない。冒頭の信綱の歌は、昭和26年出版の歌集『山と水と』所載の名歌であるが、第四句の「山河草木」という漢語の「七音」を実に巧みに利用した歌である。

こうした明治の時代背景において
石川啄木と若山牧水はいかに自らの文体を確立したか?
本日は、いよいよ「牧水研究会・国際啄木学会宮崎大会」の研究発表である。


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「しっかり」誤魔化してくれますね

2018-04-04
学生に聞くと「しっかりやる」
政治的不祥事も「しっかり」解明するとか
NHKさんもそうそう「しっかり」連発しないでおくれ・・・

世間はすっかり「しっかり」ブームである。政治家・官僚からして何かと不祥事は「しっかり対応する」と言うだけで、その多くが虚偽であることが明らかになることの連続。スポーツ選手のインタビューを聞けば、ほとんどの競技で「しっかり」が何度使用されるか?まだ選手たちは結果を残しているから「しっかり有言実行」なので許せる。日常的に学生と話していてもその傾向は否めず、何らか痛い点を指摘すると「しっかりやります」と多くの学生は答える。例えば、「(教員採用試験の)勉強は進んでいますか?」と問えば、「しっかりやります」という具合だ。この学生の答え方に典型的なように「しっかり」を使用した場合には、具体的な行動をしていないことが裏打ちされると考えてよいように思う。

国会答弁にこの「しっかり」が目立つという指摘が昨今されているが、先輩の辞書編集者である神永曉さんが「日本語どうでしょう」(ジャパンナレッジWeb)にその調査結果を記している。どうやら2002年頃の小泉政権頃からその使用頻度が急激に高まった語彙であると云う。やはりそうか、所謂「劇場型政治」に「しっかり」はつきものなのだ。「劇場」を超えて今や「闇の世界」のような国会。語彙使用には五月蝿いはずのNHKニュースを観ていても、やはり「しっかり」は連発、昨夜などは同じコメント場面で男女が1度ずつ「しっかり」繰り返し呆れた。他者が直近に使用した語彙なら、むしろ「ズラす」のがコメントのコツではないのか。しかもニュースの構成順番や配分率などにも、微妙な「闇」の影がちらつかないか。映像コメントなどは、ご都合主義で編集されていることを、我々は「しっかり」認識しておくべきであろう。

「しっかり」を使わない方法
具体的に「何をどのように行動するか」
教育の現場でも安易に「しっかり」が頻用されていることを憂う。


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プレゼンと発表のあいだ

2017-09-21
図表を示し身体性も十分に活用するか
練りに練り上げた原稿を読み上げるか
果たしてどちらが効果的なのだろうか?

この国には、善かれ悪しかれ「原稿読み」による発表形式の文化があるように思う。国会をはじめ政治的な答弁はもちろん、式辞などの公的挨拶は紙にしたためておくことで儀礼的な重厚さが演出される。それのみならず宴席でのスピーチ、会議での発言、研究学会での発表に至るまで、多くが「原稿読み」という形式の口頭表現スタイルを採る。こうすることによって、政治的答弁は感情に左右されることなく、会議での発言も既定路線が守られ、研究学会での発表なら事前に図っておけば確実に時間内に終えることができる。原稿読みではなく場当たり的なものとなれば、ここに列記したことの裏返しの欠点が浮上して来る場合が多い。だからといって、「原稿読み」が最良のものとは、どうも考えづらいのである。

政治答弁に典型的なように、「原稿読み」をすると果たして当人が思ったことを弁じているのか疑わしく感じられてしまう。読み上げそのものが「棒読み」となり、感情が露出することはない。「官僚答弁」と揶揄されるのは、まさにそんな読み方の典型であろう。思うに、その「読み方」を育んでいるのが〈教室〉での「音読」ではないかと思うことがしばしばだ。小中高を通して発達段階が上がると、次第にこの「棒読み」は熟練して来る。いかに気怠く相手が”聞きたくないように読む”方法を身につける。などと学校教育の「音読」だけを悪者にしても仕方ない。ここには、日本語の「書き言葉」と「話し言葉」の無自覚な乖離があるようにいつも考える。文化的に転じてみれば、米国で行われる弁舌の訴える力は、まさにこの「棒読み」と対極にあるように思う。(最近は弁舌内容が野卑ではあるが)大統領スピーチからIT企業の新製品発表まで、実に効果的に訴える力がある。こんな視点から、「国語」の授業も改善される方向を模索すべきではないかと考えるのである。

聴衆の方を全くみないで発表し尽くす
アイコンタクト十分に身振り手振りも加える訴え
言語そのものが近現代に抱え込んだ矛盾を見直してみる時かもしれない。


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漢語優勢の自覚ーやまとことばを学ぼう

2017-09-07
「天地・鬼神・男女・武士」
さて上記四語は、どのように読むでしょうか?
まずは中学生に読ませて考えさせる授業実践へ

教職大学院生の実習指導で附属中学校へ。以前から対話を通して構想してきた、中学校3年生「万葉・古今・新古今」の単元の授業実践が始まった。教科書の最初の教材は「古今和歌集仮名序」を音読を中心に学習する構成となっている。概して「音読」というと「読んで終わり」というイメージが持たれやすいが、今回は「語の読み方を考えて内容の要点を捉える」という思考の深い授業を学習指導案の段階で院生と構想していた。まずはふりがなのない本文を、生徒たちが音読する。「(漢字の)読み方」に疑問を持ったらそこに印をつけておく。そして全体で一斉音読をしながら、「読み方」が割れた部分で音読を止めてその「読み方」を確認するというものだ。「仮名序」冒頭の「やまとうたは人の心を種として・・・」の「種」からすぐに「シュ」なのか「タネ」なのかと読み方は割れる。指導者は「冒頭を『やまとうた』と読んでいるが、それを漢字にすると?」と問いかける。最初は「大和歌」などを生徒は挙げたが、やがてそれが「和歌」なのだと気づかせるところが、この授業の大きな眼目である。

以後、冒頭に記した語などは「テンチ・キシン・ダンジョ・ブシ」と読む者も多いが、それは「音読み」であって「訓読み」ではないことを指摘すると、諸々と考え始める。周知のように「アメツチ・オニガミ・ヲトコヲンナ・モノノフ」とやまとことばで読むのが一般的であろう。「国語」の授業では往々にして「読み方は教えるもの」という意識が指導者に強い。よって「範読」などという国語教育上の用語まであって、教師は読み方の「模範」を聞かせるような指導が多い。だが果たして総合的な意味で指導者の「音読」は「模範」と言えるのであろうか。むしろ生徒の「なぜそのように読むか」という思考を奪ってしまう。おしひろげて考えるならば、「読み方」そのものが多様で相対的なものではないのか。それにしても中学生が試みで読んだ「仮名序」は「漢語読み」が多いことに、あらためて考えさせられた。小欄の文章も例外ではないが、明治時代以降の「日本語」の歩みを考えた時、どうしても「漢語」の使用率が高い傾向にある。むしろそれゆえに、こうした古典学習の意義も深まろうというもの。特に「和歌・短歌」によって「やまとことば」が保存・継承されているという点は、重要であると思われる。

「漢語」は特に「(意味が)わかった気になる」
「やまとことば」に変換する学習も試みてみようか
明治の歌人で、やまとことば使用率が一番高いのは牧水であったという調査結果が貴重である。
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現場へつなげー国語問題

2017-08-25
漢字のとめはね・文字表記
歌の句切れに五七調のことなど
先輩と語る研究者が教育にできること・すべきこと

「西日本国語問題研究協議会」が宮崎市内で開催されている。会そのものに参加すべきところかもしれないが時間的な余裕もなく、参加のために宮崎を訪れた大学の先輩と会う約束をしていた。先輩は学部時代の「万葉集研究会」での繋がりで、少々年上であるが常に目をかけてくれている存在である。また「国立大学法人」勤務の先輩でもあり、公募採用や就職に関することでも過去に多くの相談に乗ってもらった。御専門が「国語学」であり、字体・文字表記をはじめ五七調の韻律の問題など、「ことば」の専門家でもある。この日の懇談でも、教科書字体(特に中学校教科書)の問題や現場の先生方の文字表記への意識、さらには和歌・短歌・俳句の基本的な理解が現場では十分でないなどという話題を共有した。その後、協議会に参加している方々2名とも合流し、正規ではないものの実に「文化的」な懇談の場が持てた。

先輩と話していて、あらためて地方国立大学法人「教員養成学部」の使命を再認識した。前述した「問題」のみならず、「現場」における「国語教育」の問題は多岐にわたる。それらを「問題」として指摘するのは簡単である。だがそれらを修正し、現場の先生方の「意識改革」を図っていくためには多大な努力を要する。もちろん教員を志す学部生に適切な「意識」を身につけてもらうことが使命の本分であるが、すでに動いている「現場」に対して、「技術論」ではない根本的な「発想」の転換を促す活動が必要なのではないかという思いに至る。和歌・短歌の問題一つを考えてみても、五七調の歌を平然と七五調で読み上げ、意味と韻律の関係が不整合であることにまったく無頓着な「授業」があまりにも多い。また教科書やワークブックに記された内容が「短歌の技法」などとあって、作歌の現場ではほとんど意識されない”名目”を教え込むことばかりに躍起になる「知識注入型」授業から、未だに抜け出せない現状に一つひとつメスを入れる「行動」を起こさねばなるまい。「研究」は「現場」へつないでこそ、意義あるものとなるはずだ。

やはり学部時代から歌をよみ合う仲間
教科書そのものが「文学」をわからなくなってきている
せめて我々「歌」に関する研究者が、「現場」へつなぐ努力を惜しまないことだ。
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漢字の読み方の必然性を考える

2017-08-02
「和歌」は「やまとうた」
「漢語」に対して「和語」
「読み方」も覚えなさいではなくて・・・

漢字の「読み書き」というのは、日本における教育の中でも様々な問題点を含んだ歴史の中にある。その教育の困難さから、「漢字廃止論」が浮上し「ローマ字書き」案が提唱されたのは、第二次世界大戦後に始まったことではない。最近、Web記事で国文学研究資料館長に就任したロバート・キャンベル氏が、「日本人が古文を読めなくなったのは、言文一致があったからだ」といった趣旨をインタビューで答えていたようだが、問題は「言文一致」のみに留まるものでもあるまい。江戸期や明治初期までの漢文脈と西洋語(文化)の大量流入の問題、遡れば奈良・平安朝の和漢交流の問題など、日本語(日本文化)そのものの歴史の中から考えるべきであろう。

教職大学院生と、9月実習の授業案について検討を繰り返している。中学生に古典和歌をどう教えるかという問題は、そう簡単なものではない。だが古典を扱う意義というものを、どう捉えておくかで、動機付けの強い主体的な授業を構成することも可能だ。漢字の読み方一つでも、古文の文体ならば「和語」で読むという必然性を見出し、日本語そのものへの興味を掻き立てるのが、「言語感覚を豊かに」する授業ということになろう。もちろんこれは漢文教育にも連動しており、漢語を音読みすることが、江戸期の漢学の傾向を引き継いだ明治期の影響が大きいことも指導者としては知るべきではあるまいか。平安期の大江千里集(句題和歌)が、単なる「翻案した歌」としてよいかどうか?春先の中古文学会における齋藤希史氏の発言が思い出される。

「こう読みなさい」と教え込むよりも
「なぜこう読むか」と考える授業をしたい
「国語教室」は、あまりにも知識提供の場であると勘違いされている。

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新刊『さらに悩ましい国語辞典』ー「忖度」の用例に納得

2017-07-06
メディアで頻繁に使用されるようになった「忖度」
「他人の心を推し量る」という意味のみ
「何かを配慮する」という意味はない

大学学部の先輩である神永暁さんが、新たに『さらに悩ましい 国語辞典』(時事通信社)を刊行され早々にご恵贈いただいた。当該書籍は、話題を呼んだ第1弾の『悩ましい国語辞典』(同社刊)の続編であり、Web上の「日本語どうでしょう」で神永さんが連載している記事を一冊にまとめたものである。先日は、宮崎日日新聞コラム欄「くろしお」にも引用されており、人口に膾炙した一冊といえるであろう。神永さんは長年、辞書編集一筋の人生を歩んでこられ、その調査・編集の中で得られた貴重な情報により、通常の辞書では表面化しない部分を興味深くまとめていて実に面白い。まさに日本語の奥行きを知り「言語感覚を豊かに」するには、当該書籍は常に座右に置きたい2冊である。学生から一般の方まで、そして繊細な言語感覚が求められる短歌関係の方々にも、ぜひとも推薦したい好著である。さて冒頭に記したのは同書において、今年上半期話題となった「忖度」の項目の記事の一部引用である。同項目は、「本来なかったそのような意味があたかもあったかのように使われ始めている。辞書編集者としてはそれが気になるのである。」と結ばれている。「あったものをなかったように」も許し難いが、その逆もまた「日本語」に失礼であろう。いずれも公言の中でさえ、捏造や揉み消しが氾濫していることを思わせる。


さて、まずは「忖度」は難読語ではという指摘もされているが、これほど話題にならなければ「ソンド」「フンド」「フド」などと誤読されることも多い語彙だと同書にある。そして何より同書同項目で納得したのは。神永さんが編集長を務めた『日本国語大辞典』における「忖度」の用例である。著名な福沢諭吉『文明論之概略』巻二第四章の文章が引用されているようだが、同書にはその現代語訳(神永氏訳)が示されているので、ここに覚書として引用しておきたい。

「人の心の働きはたくさんの事柄から成り立っていて、朝は夕方と異なり、夜は昼と同じではない。今日は徳行のそなわった人でも明日は徳のない品性の卑しい人になり、今年敵だった者が来年には友達になるかもしれない。人の心の働きが時機に応じて変化することは、それが現れれば、ますます思いがけないこととなるのである。幻や魔物のようで、あれこれ考えをめぐらすことも、推し量ることもできない。他人の心を忖度できないのはもとより言うまでもないことだが、夫婦親子間でもお互いにその心の働きを推し量ることはできない。単に夫婦親子だけでなく、自分の心をもってしても自分自身の心の変化を思い通りにすることはできない。いわゆる「今吾は古吾に非ず(=今の自分は昔のままの自分自身ではない)」というのがこれである。その実態はあたかも晴雨の天候を予測できないのと同じようなものである。」(同書p168・169より引用)


まさに人の心は「忖度」できないと云うのだ
それを心得た上で、夫婦親子関係を考えた方が健全なのかもしれない
時機に応じての変化に寛容であることを「愛情」と呼ぶのであろう。

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濫觴さまざま辿りて今に

2017-04-15
觴(さかずき)を濫(うか)べるほどの細流
長江も源流に遡ればそこから始まる
「細い流れ、流れの起源、転じて、物事の始まり。起源。起こり。もと。」
(『日本国語大辞典第二版』から)

漢語の持つ意味含有量は甚だ大きい。冒頭に記した「濫觴」なども「孔子家語ー三恕」に見える用例として、「孔子が子路を戒めたことば」と『日国』にある。故事成語のように、何らかの逸話・物語があって、そこで生じた含蓄ある「意味」を含み込んで二字や四字の熟語として通行する語彙となる。「矛盾」や「蛇足」というのもこれで、中学校教科書などでその原典を訓読した形で学ぶことが多い。こうした漢語を駆使するには、やはり漢文の素養が必要で、明治時代の漱石や鷗外などの文豪たちが漢籍の教養に長けており、漢詩なども創作していたのは周知のことである。中学校や高等学校の「国語」において「漢文」を学ぶのも、こうして日本語の基盤に「漢文脈」が存在するからであって、それを意識した「国語」学習をすることに考えが及ばない指導者も少なからず存在する。

一方で「和歌・短歌」は、明らかに「和文脈」を意識し発展・継承されてきた日本語表現ジャンルということになるだろう。江戸の漢学隆盛を受けて、明治の西洋文化の急速な流入。そんな社会・文化的背景の中で、西洋語の翻訳にも多く漢語が使用された。その上で平易でわかりやすい日本語表現を目指すならば、やはり「和語」が重要だということになろう。若山牧水の場合、その短歌表現は、「和語率」が高いことが既に「牧水研究会」の諸氏の評論で指摘されている。元来小生は、古代和歌に関する「漢文脈」から「和文脈」への様々な影響関係を研究テーマとしているだけに、こうした明治の短歌創作語彙の問題も実に興味深い。などと、ある方の歌集を読んでいて「濫觴」のタイトルがあったゆえ「漢籍の教養が高い」ことが窺い知れた。豊かな日常言語生活を考えるにも、「漢語」と「和語」の問題は決して無視できないのである。

「東アジア」の観点で日本語を考えること
短歌創作をするときの語彙選択を何如せむ
兵器による愚かな諍いではなく、言語的姉妹関係をもって対話を醸成するのが叡智であろう。
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