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書籍のありかを見直す

2021-01-12
研究室と自宅と双方の書棚
その配架をどのように棲み分けるか
あらためて自宅書斎の利点を見直して

人文系の研究者が抱える問題として、書籍の保管場所がある。書籍そのものが「商売道具」であるゆえに、東京に居住している折から書斎にはこだわりがあった。それでも、マンションの1室を書斎にする場合「スライド書棚」を購入し、なるべく集中的に書籍を配架していた。しかし既に10年前になるが、その「スライド」書棚の形状・構造も災いし3.11の際は「地震保険」の請求認定が下りるほど書棚が壊滅状態になった。マンション12階ゆえに「長周期震動」によって「スライド」の部分が少しずつ揺すぶられ、向き合った書棚が相互を破壊するように倒れに倒れた。その間にあるプリンター類置き台を押し潰し、机上のパソコンも破壊された。書斎復帰には、1ヶ月以上の時間を要した。

3.11の2年後、宮崎への赴任が決まり引っ越しとなった。書斎の多くの研究書は、大学の研究室に架蔵できることになって、自宅の所蔵図書量は大幅に減った。また購入した一軒家の自宅二階には、書架にちょうどよい一部屋があってマンションで所有していた書棚を余裕で置くことができた。現在は主な研究書は大学研究室にあるが、宮崎に居住して以来増え続ける「短歌関係」の書籍や雑誌は自宅書庫に置いている。もとより研究室までも自宅から至近であるため、書籍が欲しくなればすぐに往来して対応できるのがよい。昨年来、あらためて在宅勤務が見直されているゆえ、より自宅の書斎が重要な研究の場となって来た。昨秋の「中古文学会シンポジウム」や「朗読対談」でも、自宅書斎から「出演」となった。あらためて自宅書斎を整えて、書籍のありかを見直すべきと思っている。

パソコンのオンライン環境の整備も
配架の見直しをし新たな執筆へ向けて
研究環境を大きく見直す契機なのかもしれない。


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必需品としてのスマホ歴

2019-11-12
スマホは生活必需品か
機種変更で様々な「復元」が求められ
セキュリティーを強化すれば自らが闇に舞い込む

携帯が一般的に普及してから四半世紀、スマホとなって10年以上になろうか。いずれの契機においても「私は持たない」などと大量のデータ通信が可能になることに、ある種の恐れや懸念を抱いていた方々も少なくはないだろう。何事にもこだわりのある僕も、特に周囲から「持たない派」と見られていた節がある。しかし現職教員として大学院へ通うようになって、緊急連絡の必要性が生じた際には必需品だと反論をして所持するようになった。まだアンテナを伸ばすトランシーバーのような機体で、本当に携帯「電話」の機能しかなかった時代である。ところが10年ほど前になって、ちょうど学位が取得できた年のことだ。ある人々と出逢ったことを契機に、スマホを所持するようになった。

以来、10年ほどスマホを機種を変えつつ使用して来ている。何が一番大きな機能かといえば、「Japan Knowledge Personal」をいつでもどこでも検索できること。今や『日本国語大辞典第二版』や『新編日本古典文学全集』までが含まれるデータベースであり、歌会を始め外で語彙検索をしたい際には誠に便利である。もちろんSNS系のアプリで家族や友人と連絡を取るのも日常的である。また出張などの航空券管理、短歌の素材メモなど用途は広範に及ぶ。今回は、従来から所持していた「携帯」と「スマホ」の二回線を一回線に統合しようと目論んで、機種変更に及んだわけである。今まで使用して来たスマホを、そのまま新たなスマホに復元したい。ショップでも丁寧な対応をいただいたが、「復元」には時間を要するということで家に引き取って試みていた。その際の「パスワード」との格闘は誠に葛藤とストレスの極み、セキュリテーを強固にしようとして自らが迷宮に入る結果となる。この精神状態もまた、この「時代」を生きるということか・・・。

既に母らの世代もスマホを
「5G」となるとさらに革命的という話も聞いた
この先どこまで行くのやら・・・


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携帯・スマホを再確認する

2019-10-24
既に所持して20年以上か
ほぼ通話のみの携帯からメールそしてそスマホへ
所持していない人と生き方にも違いがあるか?

契約の見直しをしようと考えて、先の休日に携帯スマホショップを訪ねた。休日とあって多くの人が訪れており、予約がないと相談時間が取れないと云うほどの盛況であった。現在の料金形態は妥当な額か?不要なオプション料金を取られていないか?より便利に使いこなすにはどうしたらよいか?複数の会社で用途別に所持している意味はあるか?等々、様々な見直し要点があったが担当の方は丁寧に対応いただいた。無理やり多くの料金を取り続けようという姿勢ではなく、可能な限り安くしたいという、こちら側の立場を尊重した態度に好感が持てた。多くの時間を費やしてのち、妻のアプリ引き継ぎ方法の相談にも十分な対応をしてくれて好感度はさらに上がった。こうした窓口の対応ひとつにも、会社のあり方が見え透いて来るものである。

契約年数が新たに知られて、もう既にこんなに長くスマホを所持しているのかと振り返った。当該のスマホシリーズは、当該契約の会社しか扱っていない頃に加入し、それ以前から広く知られている番号のいわゆる「ガラケー」と2台を所持する状態が続いて来た。この10年間ほどで「スマホ」の所持率は格段に上がったようだが、単に通話のみならずプレゼンソフトなどを始め仕事に関係することまでをこなせるようになり、今や生活必需品になっている。日常的な光景を写真に収めることも普通になり、あらゆる検索や地図で場所や店を探すなども容易にできる。航空券やホテル予約、カード管理や書籍の購入、防災情報や地域のゴミ出しの告知、健康増進の歩数計までもが内臓されている。さらに大きいのは有料会員契約だが、膨大な辞書データベースを日常的に持ち歩くことができるようになった。こうした生活の変化は、今後もどこまで進むのだろうか。

思うに母の年代でもスマホをこなし
小欄を毎日読んでくれている
子どもの頃に観たSFの装備が今や日常化している。


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さびしからずや置き去りの傘

2019-08-21
ちょうど車を降りる際の急な雨
たぶん忘れる可能性は高い、と思っていても
ポケットに残る傘立ての番号札

傘の声が聞こえる「自分の都合のよい時だけ大事にしてくれて、用が済むと置き去りかよ」と。所用で県立図書館へ赴いた際に、駐車場に車を停めると今まで晴れ間さえ見えていた空から大粒の雨が落ちて来た。歩いて1分とかからない建物までゆえ「濡れていこう」とも思ったが、帰りの際に本降りになっても困ると懸念して車内に置いている傘を開いた。図書館の玄関にある番号札付鍵の傘立てに収めて館内へと入った。約2時間ほど館内で過ごし、帰る頃には再び陽が射すほどの晴れ間が出ている。あれほど「忘れる可能性がある」と意識した傘であったが、こうして翌朝になった今も、県立図書館の玄関先でさびしく一夜を明かしていることだろう。僕の手元にはむしろ、県立図書館の備品たる番号札が握られている。

「雨に濡れたくない」という願望を救世主のように叶えてくれる傘であるが、状況が変われば「無用の長物」になってしまう。東京暮らしで折畳み傘を使用していた頃は、傘立てには置かずに濡れた水分を吸い取る機能のあるケースを持参していて、建物内にも持ち込むようにしていた。傘立てに置くと間違われる危険性も高く、嘗て神保町の古本屋街でよい本が買えたと意気揚々で店を出る際に、自分の傘がなくなっていたこともあった。宮崎に来てから車の移動も多いため、長い傘を主に使用している。間違われないように湾曲した手持ちの部分に、千社札風の名前シールまで貼り付けて用心をしていた。それでも尚、焼肉店の店先で間違われたことがあるが、果たして僕の姓と名までが貼りついた手元を、どこのどんな人がさしているというのか?幸い今回はそのまま県立図書館で、人々の往来を暫くは僕の傘が眺めていてくれるであろう。

傘へのこだわりの歴史
欧州では傘をささない人も多く見かける
置き去りにしてごめんなさい、僕の傘。


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片付け整理へ向かいたき

2019-03-29
年度末の仕事あれこれ
卒業式以後もデスクワークがあり
動きながら整理できるように・・・

例年は卒業式を終えると、年度内の書類や講義関係の保存資料などを整理して新年度準備を始める。だが今年はいくつもの積み残し作業があって、なかなか整理に入れていない。だがようやく先が見えてきたので、この日はシュレッダーにかけるべき書類の選別に至った。もとよりこうした書類を溜め込まない仕事術を身につけるべきかと最近は思う。最初から紙書類は選別し、保存したいものはスキャナーにかけ、多くはその時々で研究室に残さないことが肝要のようだ。既に最新型のスキャナーを購入してあるので、新年度からそんなスタイルを心がけたいと思っている。

「デジタル化」とはいえ、未だ「紙」資料は少なくない。教授会資料は3〜4年前ぐらいからタブレットで閲覧するようになり、情報検索すれば後に確認できるようになった。だがすべての会議がそうであるわけではなく、特に様々な委員会に出席すると膨大な紙が手元に残ることも少なくない。年度末年度始めで様々な品目の「値上げ」が世間では囁かれているが、「紙」の値段や品不足も深刻であるようだ。ならば尚更、なるべく「紙」を使わない資源意識が必要にもなろう。ファイルはデジタルで、となれば検索も手早くなり仕事の効率も上がる。ここはまず自らが「デジタル化」に進んでみようかと思う。

いったいシュレッダーのゴミ量はいかほど
限られたスペースにはなるべく価値ある書籍を置きたい
もう新年度が眼の前に控えている。


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必須文具たるPC様さまだが

2019-01-26
新しいPC
様々なセットアップ
適合不適合?果たしてこの機種・OSでなどと・・・

研究も教育も仕事も、PCなくしてはまったく立ち行かない時代である。先日などは朝方に小欄を書いていると、両親がいるため家中の暖房機を過剰にONにしたせいで、ブレーカーが落ちてしまった。もちろんPC画面は一時期ブラックアウトと化してしまったが、復旧させると概ね書いたあたりまで文章は残っていて時間の浪費は避けられた。だが、この電気に全面的に依存している生活の所業については聊か考えさせられた。研究室のPCが老朽化したので、一台のデスクトップを新調した。選定には昨年末から入念に下見を繰り返してきたが、いざ入荷して稼働させてみると様々な適合性に不満がないわけではなかった。まずはOSの問題、どうしても「一般的」を思った選定をするのだが、その動作に納得がいかない。打ち込んだメールを「音声読み上げ」などのキーを誤って押してしまった際には、音声表現の研究者としての矜持もあろう、かなり辟易してしまった。

Web閲覧のブラウザを変更して少しは快適さを得られたのだが、この問題は過去から常に付き纏われている気がする。最初にPCを購入したのが修士に入学した時、僕は現職教員でもあったがその費用は決して安いとは言えない時代であった。確か大学生協の推奨機種を購入し、学内でセットアップ説明会やらサポート体制が整っていた。現在からしたら考えられない低いスペックのノートPCであったが、修士の単位取得や論文執筆には欠かせない相棒であった。その後も家置きのデスクトップが使えなくなったり、急にハードディスクが落ちたりと様々なトラブル経験をした。スマホを使用するようになってからは、その連携が大変便利であるゆえに私的なPCの選定には迷わなくなった。だが国文学研究をしていると日本語ソフトやWebデータベースがそちらのOSに対応していないことが残念でならない。汎用性互換性を旨に「使用せざるを得ない」という葛藤を伴った選定において常に動揺をしなくてはならない。「自動」という概念が「便利」ではなく、むしろ使用者の意志を奪うような制作概念には、いつも感覚的な齟齬を覚える。論文は日本製文章作成ソフトを使用したくなる、この20年変わらぬ葛藤が煩わしくも懐かしくもある。

仕事で必要な1台
そう思いを落ち着かせるのだが
次なる機動力あるタブレットに大きな期待をしている。


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探し物はなんですか?今年もあと・・・

2018-12-19
必要な郵送物がない!
朝から気になる時間を過ごす
整理整頓そして大切なものは・・・

井上陽水の独特のあの声には、なぜか人の行動を喚起させるものがある。高い声というのは一般的に通りやすいのだが、その域を超えた浸透力がある。まさに「探し物」がある際には、いつも心の中で陽水の曲の標題のフレーズに追い立てられる。この日も朝から必要な郵送物がなく、家を出るまでにも見つからずにイライラ。普段から整理整頓を心がけているだけに、こうした「探し物」の時間にやるせない思いを致す。次第に自分の心がけはあるのだからと傲慢な心が頭を擡げ、滞在している両親のものに紛れてはいないか、などと人のせいにする矮小なこころにまた自分自身で嫌気が差す。

研究室などは同僚などに言わせると、大変整理されていると云われる。もとより「研究」は「整理」することであるし、前段で述べたような時間を過ごすのを避けたいがためである。それでもなお、6年目となる研究室には新たなレイアウトと整理が必要ではないかと最近は考えている。それにしても研究室でも家でも、不要な「再生紙」の量には驚かされる。家への郵送物には個人情報が表示されているものが大半で、すぐさま「再生紙回収」に出すわけにもいかず。シュレッダーを常備して、日頃から丹念に裁断する必要がありそうだ。さて「探し物」の行くへはいかに?今朝になって小欄を書く前に、大切に引き出しにしまっていたことに気がついた。郵送物が使用する2ヶ月以上も前に届いたことによる、僕の精神作用であった。

仕事が忙しいからこそ
身の回りを整えてストレスなく
1ヶ月滞在していた両親は東京へ


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「ゴム印」で押す名前と数宇

2018-03-07
名前が刻まれた10個近くが引き出しに眠る
幼少中高そして教員時代
パソコン印字で使用されなくなった「ゴム印」たち

同僚の先生に「ゴム印」は持っていないかと問われ、引き出しの中を探した。すると、縦書き横書きやサイズを違えた10個ほどの名前印が発掘された。木製の先のゴム部分に、自分の名前が彫り込まれた代物だ。卒園・卒業のたびにもらったものを保存し、また新任教員になった際に各サイズを取り揃えた記憶がある。今やパソコンからあらゆるものが印字できる時代になったが、当時は出席簿などは、この「ゴム印」を人数分押したものである。新人教員になった時に、先輩から印箱を引き継ぎ、クラスのすべての生徒分の「ゴム印」を並べるのが最初の仕事であった。年度替りで学級が変わると、そのゴム印を新クラスに分ける作業が最初であった。それほど多くの事務仕事を「ゴム印」に依存していた。

名前印と同じように重宝したのが、「数宇印」である。こちらも3サイズが引き出しの中に眠っていた。出席簿の欠席数統計をこの印で押す。またプリント作りを「切り貼り」でしていた頃などは、よく表題の数宇をこの印で打った。同僚の教員には「几帳面だ」と言われていたが、数字を押す感覚がなんとも言えないものがあった。4月の新年度には授業担当用に所謂「閻魔帳」を作成するが、こちらもこうした「ゴム印」の出番が多かった。きっちり作成された「閻魔帳」を携えて授業に行く感覚は、実に爽快だった。教員の仕事としてこうした地味な事務仕事も実は重要なのである。生徒一人一人の名前を押す感触そのものが、学級担任や授業担当における生徒への愛情に通づるように思う。それゆえにパソコンから印字される名簿は、無味乾燥だと感じるのは古い時代の人間になった証拠なのだろうか。

「手で押す」という身体性
教員の仕事も様変わりした
それがあらゆる意味で「事務的」にならないようにと願う。


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家電品の寿命

2016-11-15
テレビ・冷蔵庫・洗濯機
果たして「寿命」はどのくらいなのか?
家電品も時代に即して・・・

あまり普段は使用しない部屋の電灯の具合が、急に悪くなった。「急に」とは書いたが、実はそうでないのかもしれない。あるいは「使用しない」ことで、悪化した可能性もある。衣類や靴に鞄などがそうであるが、使用しないで「保管」しておくと劣化しないかといえばそうではない。常日頃から活性化して使用してこそ、良い状態は保たれるものだ。たぶん「人間」も同じで、使用しない部位は退化してしまうのは、脳でも筋肉でも明らかなように思われる。家電品の場合、冷蔵庫は常に稼働しているわけであるし、テレビもスイッチが入れられない日はないであろう。洗濯機も同様であるが、この三品に関しては家電品で一番寿命が長いように思う。ほぼ10年以上は問題なく稼働し続けるのが一般的ではないだろうか。

「家電品に故障はない」という「神話」的な発想も、昭和の時代にはよく聞かれたような気がする。しかしながら、飛行機の墜落事故などを契機に「金属疲労」なる概念が社会に広まり、「機会は故障するもの」という”言い訳がましい”発想に変化したようでもある。それにしても、現在は多くの仕事の機能をPCが担っている場合がほとんどで、基本的に「故障」を前提としない発想で社会が動いているようにも思う。もちろん家電品も「小さなコンピュータ」が制御しているのも一般的になり、人間が担っていた「仕事」をPCや家電品が十分にこなしているのも稀ではない。「昭和の家電品の方が丈夫であった」という一部の人々の「思い込み」の真偽は、果たしていかに?”eco”を唱えるのであれば、やはり家電品も修理してでも使用するのが、あるべき発想であろうか。PCを中心とした展開の速いモデルチェンジを、僕たちは「家電品」と区別して考えなければならないのだろう。

人工知能の発達に伴って
「人間にしかできない発想」を育む教育が求められとも云う
僕の自宅では変わらず「街の電気屋さん」が家電品の保全を担ってくれている。
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オートマチックは苦手です

2016-05-25
新規購入携帯用PC
セットアップすれば新たな感触
その自在を目指した感覚に馴染めず

パソコンの基本OSには、大きく分けて2社のうちで相違が大きい。スマホに導かれタブレットに携帯用小型PCまで、比較的A社のものを愛用しているのだが、世間ではM社の方が基本的に大勢を占めている状況がある。公的な書類なども殆どがM社のソフトで制作されているゆえ、どうしても当該ソフトの作業が必須となる。もちろんA社パソコンでM社データを使用できるソフトもあるのだが、そのこと自体がA社ユーザーの微妙な葛藤を表している現象なのかもしれない。(その逆で使用するソフトを見たことがないので)今回も携帯できて「デジタル教科書」が搭載できる機種を求めると、必然的にM社製品になってしまった。そのセットアップを施しているが、どうもそのM社製品については、何でも「オートマチック」に作業を展開してくれるような仕様になっていることが煩わしい。

比較的に何でも意のままに作業したいと思うと、「勝手な」と思えるような動作が展開される。これはもちろん、当該OSやソフトを使いこなしていないということなのだろう。感覚的な慣れはA社好みであるだけに、その相違にも大きなストレスを感じてしまうのだろう。さらにはPCそのものがタブレット性を兼ね備えているので、画面タッチ操作の感覚が加わり、その相違と葛藤を大きくしているような気がしてならない。便利たれとOSやソフトがバージョンアップされるのだろうが、むしろ以前の方が使い易いと考えてしまうのは、単に使い慣れているだけだからなのだろうか。僕が現職教員として修士で学び始めた頃より、PCは一般にかなり普及し研究発表や論文作成も殆どがPCで行うようになった。だが便利な反面、この高価な”文房具”による憂いも増えたような気がする。巷間で喧伝される「自動運転」よろしく、オートマチックな作業感覚には、心の中で叫びたくなるような矛盾を覚える。それは僕だけなのであろうか。

DVD映像データの再生に至らず
様々なバージョンアップの背景が分からない
この先、さらに複雑化したオートマチックと付き合わねばならないのだろうか。
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