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雑談がもどってきた!

2023-05-03
講義前後の雑談
ちょっとしたことを話すことで大きな発見が
雑談のできなかったオンライン授業を思い出しつつ

「オンライン授業」というのも過去のものになりつつある。だがやむを得ず休講にせなばならない予定がある場合、「オンデマンド式のオンライン授業」を設定して補講の時間を確保できる利点は残っている。この3年間は「オンライン授業」をやむなく行ってきたわけで、未だ効果検証も不十分であると言える。ゆえにやみくもに「オンライン」を設定し、学生との対面機会を無くすのはまったく適切ではない。反対に通常の「対面」であるならば、「学生たちが教室に集まって来る意味」を実感できる講義展開を実践すべきであろう。仮に「(オンラインでも対面でも)どちらでも変わらない」と認識している場合は、講義そのものに問題があるように思う。僕らの過去の時代の大学では、「90分間自分の本を読んでいるだけ」とか「教科書を買わせても違う話ばかりしている」ような講義が許されていた。(特に僕の母校学部がそうだったのか?)つまり「教室に集まる意味」「オンラインでの効用」を明確にして学生の学び意欲を高める必要があると思うのだ。

教室に雑談が戻ってきた。同時双方向式のオンラインでは、講義が終わるとすぐにパパパパと画面から学生の顔が消えていくのが大変に虚しかった。今やグループ対話の際に近くに行って、助言することもできる。さらには講義後に片付けをしていると、帰り際に学生が話しかけてくれたりする。こうしたわずかな雑談こそが、大変に重要だと思っている。昨日も事前に課題のWeb上での提出についてメールでやりとりした学生が、講義後にその件でお礼を言いに来た。こうした状況で一言の感謝を述べるという「心のキャッチボール」に気づく機会が持てることが学生らにも大きな学びである。「オンライン講義」だけの頃だと、これがメールだけで終わっていた。学生は話しかけて来た主旨を述べ終わると、「高校の時に先生の出前授業を2回受けました」と伝えてくれた。そうだ!コロナ禍にあっても役職柄、出前授業を実施する県内の大学に頑張って出張していたことを思い出した。「あの時!恋の短歌の話をしたよね!」と学生と盛り上がる会話によって、当時の出張の努力が報われた気がした。こんな雑談が戻って来たのである!

「教室」で学ぶ意味を真摯に考える
さらにAI(人口知能)の発達は僕らの教室をどう変えていくだろう
眼の前にいる生身の人間しか信じられないとしたら、原点の対面を深く考えるべきだ。


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オンライン脳ー教室の感受性・共感性と表情

2022-08-30
「オンライン脳」とか「スマホ脳」などの指摘
「感受性・共感性」を失うなどWeb上の孤独とリアル感の喪失
そういえば笑わなくなった表情なき教室の光景が気になることも

現首相が新型コロナに感染し、「オンライン」を通じて「執務再開」という報道があった。公開用のオンラインがあると同時に、閣僚らとも「オンライン」で会談をしたのだと云う。特に後者の内容は政府の機密情報が含まれるため、首相官邸に閣僚らも足を運び同じ建物の中での「オンライン」だったという記事も読んだ。今年度前期になって感染状況の如何に関わらず「対面」という方針となったが、ゼミをオンラインにすると構内から参加する学生もいて類似した環境を体験したこともある。この2年半、常に考えて来たのが「オンライン」と「対面」で何がどのように違い、どんな正負の影響があるかということだ。思えば3年目となるコロナ禍にして、現大学3年生は入学式も行えず直後の授業開始も1ヶ月遅れた、2年生・1年生となるにつれて「対面」の率も増えたのであるが、既に高校時代からオンラインを経験した世代となる。少なくとも「オンライン講義」であると、「教室」で講義前後に雑談するとか声かけすることができない。自ずと学生との距離が縮まらない印象が、僕の中にも渦巻いている。

冒頭に記した「オンライン脳」という指摘がある。端的にいえば「感受性・共感性の喪失」という症状が出るらしい。このコロナ禍で始まったことばかりではなく、以前からWeb上の「孤独」とか「全能感」の問題としても指摘されていたことの延長にある問題だろう。「同じ場所に居ない」ながら、音声や文字情報だけが大量に流れて来る。何を「感受」し何に「共感」すればよいか?オンライン講義で「ビデオ停止(自らの顔が映る画面をオフにして黒い画面に参加者名のみが表示される状態のこと)」で臨む場合に、「オンラインの向こう側」で学生たちはどんな表情をしているのだろう?自ずと講義をする僕らも、「感受・共感」している情報が得られず派生したことや雑談に及ぶことは避ける傾向にある。こうした講義の「受け方」に慣れてしまうと、一々反応をすることが億劫になるのだろう。今年度は「対面」で行っていても、「大教室」の講義などでは「反応の少なさ」を実感する。ましてやマスクで目しか見えないゆえに、表情が豊かであろうはずはない。「良い講義」を目指すには「感受性・共感性」に訴える点が不可欠だと、長年の教員経験から僕は知っている。「オンライン」の際も「学部ごとに反応の声を上げてもらう」などの工夫をしていたほどだ。中には受講者の一人が「ミュート(自らの声がオンライン上に流れないよう停止させること)」を忘れて、オンライン上に講義で扱った課題曲の歌声が流れたこともあった。当事者は「オンライン講義に迷惑をかけて」と課題で謝罪して来たが、実はこんな「共感性」が担当者としては嬉しかった。今後もあれこれ工夫を凝らし、「表情なき教室」に「感受性・共感性」を取り戻さなければならない。

マスクの仮面を被った無表情
ましてや「笑い声のなくなった教室」で
人間が人間たる最も大切な感性が失われようとしているのか。


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休講がなくなったオンデマンドとかハイフレックスとか

2022-04-28
諸事情による休講も「オンデマンド」にすれば休講にあらず
さらに「ハイフレックス=ハイブリッド&フレキシブル」という方法
「休講」を喜んでいた僕らの時代よ遥かに・・・・・

大学教員である親しい先輩が検査入院をするという投稿を見た。気になって投稿欄ではなく個人的にメッセージをお送りし、お見舞いを申し上げた。「老いれば様々に出て来るものよ」とあっけらかんとした反応であったが、諸々と身体には気遣いをせねばならない世代になったのだと自らも省みて自覚する機会でもあった。まずは「検査」ということで、異常なき結果を祈りたいと思っている。ところで、その先輩の投稿の中に「休講および補講措置等の連絡手続きやら、オンデマンドのコンテンツ作成(オンデマンドにすれば休講になりません)」とあってある意味で興味深かった。この2年間、いや現在でも全国の大学では新型コロナ対応で様々な講義方式が採られてきた。主に採用されてきた方法としては、講義時間帯と同時間帯にWeb上の「同時双方向システム(*ネット上の画面に講義をするライブ映像を配信し、受講学生はそれを各自の場所で視聴し講義に出席する方法)によって講義配信するタイプ、これは応用として「オンライン飲み会」とか「オンライン親戚会」など、LINE通話などを簡便に利用してよく行われる方法だ。これと大きく二分する方法が「オンデマンド方式」で、Web上に講義動画や音声とか講義資料など作成したコンテンツを上げておき、受講する学生側は「いつでもどこでも自分の都合と環境の要求に応じて」講義に出席できるというもの。(*大抵は受講したら課題を課すことで出席を認定し、課題〆切までに視聴を終えるという制約があるのが一般的)もちろん講義をする教員側も自分の都合に応じてあらかじめ講義コンテンツを作成しておけばよいわけで、これが「休講にならない」理由である。

さらに都市部の大学では「ハイフレックス」などと呼ばれる方法も採用され、前述したオンライン講義の2方法に従来からの「対面講義」までも組み合わせる方法だ。この2年間でミュージシャンの「オンラインライブ」も盛んになったが、会場に集まった観衆とともにその映像がWeb上に流され、さらに「見逃し配信」が一定期間は観られるという方式である。観衆は場合によると会場でライブを楽しみ、その後の一定期間に録画し映像化された配信を自宅ですぐに見直すことができるという訳である。人気ミュージシャンの場合は事情は違うのだろうが、講義の場合でこのような方式を採用すると、多くの学生は「対面」を選択せず「同時双方向」か「オンデマンド」の方に出席する傾向も全国で報告されている。中にはこうした利便性が高くなった講義方法に対して学生側が悪知恵を働かせ、同じ時間帯の講義を「二重登録」していたという事態の報告も聞いたことがある。(*もちろん発覚後は、それ相応の措置が取られたようだ)概ね「原則対面」という方針が主になった本年度、このような2年間で習得した講義方法を織り交ぜていかに活用するかも問われているような気がする。例えば、悪天候での休講などにおいても従来は「補講」が求められていたが、「オンライン」のいずれかの方法で休講は回避することができる。入院する先輩の大学では、「オンデマンドにすれば休講にならない」という基準が示されており、どうやら先取りして入院中の講義コンテンツを作成しているという訳である。どうやら病院へのPC持ち込みは禁止らしいので、さすがに病室からの「同時双方向」は無いようであるが。だがオンライン学会などなら病室から参加ということも可能になったという現実を僕たちは手に入れている。善かれ悪しかれ?果たして「休講がなくなった」というのは、教員の負担としてどうなのか?などとも思い、いざ自分がそのような事態に向き合ったらどの方法を選択しようかと考えている。

いつでも「オンライン化」が可能である方法を日常から
「同時双方向」と「オンデマンド」の教育効果の違いなど未だ検証されておらず
音楽ライブのように「対面」でどれほどの教育効果があるかという教員の原点を見つめ直しつつ。

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レポート類のデジタル化

2022-03-29
この2年間の遠隔講義による変化
レポート類のデジタル化促進
紙資料の大幅削減でECOな研究室へ

今年度も最終週、新型コロナ感染拡大によって遠隔講義を盛んに実施して来た2年間が終わる。文科省が出した通達によると、次年度よりは極力「対面」による講義を実施せよということらしい。所属大学でも「原則対面」の方針が提示され、むしろ遠隔で実施するには特別な事情に基づく全学における「承認」が必要となる。だがすべてがコロナ前の講義方法に戻るのかといえば、僕の場合はそうではない。Webシステムを活用し主に講義時間外学習を対話的に実施できるようになったことは、むしろ遠隔講義がもたらした大きな利点でもあった。講義外で読んだテキストについて感じたことをチャット欄に書き込む予習は、学生がSNS書き込みをする感覚で主体的で自由な表現が多くなった印象だ。また講義内の課題をまとめる小レポートを「出席要件」にすることで、学生自身の理解度を十分に把握し、システム上でコメントを付して返却することができる。双方が負担のない程度の字数で小レポートは課すことが肝要だ。概ね1クラス20名前後400字小レポートならば、1時間でレポートチェックとコメント作成を完了する。さらには期末レポートに関しても、提出はすべてシステム上でデジタルデータである。

これによって学生レポートの管理が大変に安定した。紙ベースのレビュー用紙で学生ごとに個性的な文字で書いてもらうことにも大きな意味を感じているので、時折そうした機会も設けるようにはする。だが考えてみれば既に我々が「手書き論文」を書くことは難しいように、学生らがレポートを作成するのはデジタルが普通である。今後は「手書き」機会の確保にも配慮しつつ、デジタルを最大限に活用することになるだろう。レポートのデジタル化は、研究室のスペースを侵食することもなく、返却とか物理的な保管の必要性もなくなった。この日は研究室の整理を始めたのだが、9年前の赴任当時のレポート類が書棚のスペースを占有している。色々な意味で担当した学生のレポートは保管期間を過ぎても廃棄し難いたちだが、研究室のスペースにも限りがある。僕の母校では「吉永小百合のレポートを保管している」という教授がいるという噂を聞いたことがある。学生を見抜く慧眼であったのか、既に吉永小百合はスターだったのか?少なくともデジタルデータになったからには、スペースも取らずにすべてのレポートを容易に保管できるようになった。研究室の紙ベースレポート類を整理し、赴任9年間という月日を思い返す日々である。

文字の構成と学校の板書との関係なども
保管しておいても見返す機会もなかなかないものだが
デジタルデータであればポータブルディスクの中に保管庫ができる。


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対面講義ですべきこと

2021-10-14
講義外学修180分
対面では「問い→個人思考→班別対話」
そこで得られた「思考対話メモ」を熟成させるべく課題を

僕が大学学部の頃、講義のあり方は今とだいぶ違っていた。私学で特徴ある姿勢を貫く大学であったせいもあるかもしれないので、同時代に全ての大学でそうであったとは考えないでもらいたい。たぶん当時も国立大学などでは、もう少し「真面目」に講義が行われていたのだろう。高校生の頃、学風が知りたくて国立大学に潜り込んだ経験からそう思う。僕の母校ではともかく「講義には出るものではない」といった風潮があった。学問は自ら学ぶものと誰からともなく教えられ、学部読書室にある本で興味ある分野をあれこれ読んでいた。講義の中には「出席を取らない」科目も少なくなく、内容や話題が面白ければ出席するが、ただ担当教授が出版した自著をダラダラ読むだけなどと見極めるとほとんど出席しないでレポートを出せば「優」などということもあった。むしろ専門的に興味深い内容の講義には、卒業単位に関係なく複数年次にわたり出席し続けたこともある。遂にはその講義の授業資料作成を担当の先生に依頼され、僕が手書きで講義資料を作成していたこともある。それはそれで誠に深い学びとなった。

1週目オンラインという全学方針が解けて、2週目から対面講義が始まり地元紙は写真入りでそれを報じた。昨日は、学部1年生ほぼ全員が履修する「国語」という科目の対面初回であった。120名超の履修者に対し収容250名の教室を配当してもらい教室の収容率は50%程度、座席は前後左右の間隔を空けて指定席にして講義後の追跡調査が可能にしておく。それでも昼休み後の講義であったため、早めに機材設定に行くと多くの学生たちが夏季休暇開けの対面再開に各所で談笑している姿が目立った。他大学の教員も指摘しているのだが、対面講義の感染対策としては講義中より講義の前後が問題だと云うのを実感する。機材も問題なく設定し講義開始、間隔を空けてはいるが教室はほぼ全面が埋まっている印象。そう!学生たちはほぼ休むことなく出席しているということだ。それを思うと、担当者としては対面に出てきた甲斐がある内容を教室で展開すべきと熱くなる。要するに「オンライン」と変わりないことは「対面」ではしないということ。教室ならではの音読の響き、学生の反応に応じ語る内容の工夫、唐突に教職大学院生のTA(ティーチングアシスタント)に「あなたならどうする?」と発問の見本を求めたり。まさに「ライブ感」とはどうすることか?を考えた進行となる。間隔を取りながらも(既に昼休みを思うと問題はないが)5人1組での班別対話を設け、そこで得られた多様な意見をメモをして持ち帰り、講義課題をさらにまとめることで思考を熟成させる。講義に「ただ来てそこに居る」だけでは済まないような仕掛けをするのである。

誠に自らの学部時代を考えると隔世の感が
オンラインでこそ上手く行くことも多いことがわかって来た今
対面講義の性質を精査すべき時が来ている。


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解体される授業

2021-06-10
学習者の活動からどんな学びが生まれるか?
どのような力をつけて何ができるようになるか?
オンライン講義になって解体されている講義

ゼミ4年生の公立学校での実習視察に先週・今週と赴いている。既に3年次に附属学校での基礎実習を経験しているゆえ、各校での評価を聞くとなかなか健闘している様子に安堵する。教育学部の4年間の学びの集大成であると言ってもよいこの実習。昨年度は新型コロナで実施できなかったが、その連中が今や教壇に立って現場で実習分を取り返すほど奮闘している姿も想像している。実習授業を参観してあらためて考えるのは、「授業分析」の視点である。どのような目標で、学習者にどんな力をつけさせようとしているか。学習活動はその目標や力を成し得るために有効に機能しているか?学習者の言語活動で何が表現され、教師を含めた三角形の対話から何を発見しているか?目標とする力がついたことを、何を観察しどのように評価するか?嘗て「教科教育」を担当していた際に講義で事細かに学生とともに考えていたことが、再び観点として蘇る。

いわば「授業」は解体され個別的な事象が分析される。あまりに定式的で技術的な授業というのも考えものだが、授業者は常にこうした自己省察が必要だ。この点は大学講義についても同様であると、最近は痛感している。新型コロナ感染拡大に伴うオンライン講義によって、大学講義はまさしく「解体」されることになった。学生が学びを深めるために、何をどのようにどのくらい提供したろよいか?それを仔細に検討することで、オンライン講義の方法が定められる。「解体」という意味では、授業者の「話す声」または「顔容姿」の情報提供は必要なのかどうか?そんなことまで考えることになった。今年度は文科省の方針もあって「原則対面」が進められているが、コロナ以前に単純に立ち帰って「解体」された意識を持たない講義をするのは簡単だ。だが僕らは、特に教育学部の教員であるなら、昨年にオンライン講義作りに向き合った苦闘から学んだ上で以後の講義に向き合うべきだろう。もちろんまだ〈教室〉では、感染対策が必須で「対面」ながら不自由なことも少なくない。僕がいま苦悩しているハイブリッド講義などは、「解体」され内容が暴かれている際たるものである。だが、実習生の研究授業を指導しているなら、自らも丸裸で勝負すべきと決意をもって進んでいるのである。

「対面」が為されない大学への訴訟が起こされたという記事も
どのような対象の学び手にも有効な方法で常に順応できること
新型コロナが丸裸にして暴いたことを議論をすり替えて隠すこと勿れ。


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その話!伝わっていますか?ーオンラインの独善

2021-05-20
伝えることは難しい
「独善的」であることに独善的に気づかない
オンラインの向こうならなおさら

オンライン講義をやっていて一番気になることは、画面の向こう側の学生がどのように聴いているか?という疑問である。まずは大前提として「自分の声が正常に聞こえているか?」すら確証がないのである。オンラインを開始して最初に「聞こえてますか?」という確認をするのは常識的だが、重ねて共有資料が「見えているか」とか「頁が適切に送られているか?」など、こちら側で操作することが順調かどうかの確証がないのがオンラインの「独善性」のような要素である。ある大学による全国の大学教員を対象としたアンケート調査によれば、「オンラインで顔出しを要求して応じた学生の割合」は極めて低い数字であることも話題になっている。カメラのオフを解除して自分の顔をオンライン上に出すことが、学生らの間では「常識」ではない。もちろん「顔出し」を強制できるものではない、という議論も喧しい。

学生らの「表情」という情報がないことが、「聞こえてますか?」という問い掛けの「独善性」を助長する。「対面」であることの効用は、学生の数だけ「表情」という情報があることだったのだと今更ながら気づかされる。ゆえに「オンライン」と「対面」が「全く変わらない」と学生が感想を持ったとしよう、それは真性の「独善」であると思った方がよい。また「オンライン」では伝達者の情報も限られるため、話し手の特性があからさまに露呈する。言い換えれば個々の「独善率」が、明確になるとも言えるだろう。話し手は、聞く側の「わからない」とか「そんなことは言わないで欲しい」という表情を知ることはない。ましてや「不快極まりない」表情を察知することもない。特に資料を画面共有して、話し手みずからがその資料を見て話している際が一番危うい。というような体験を、誰しもができるようになった。テレビ出演し視聴者に向けて説得力のある話をできる人々を、最近はあらためて見習うべきと思う視点を持つようになった。

「独善」とは「客観性がなく自分だけが正しいと考えること」
本来「善」たるはいつも相対的なものである
中高教員以上に大学教員は「独善率」が高いと思うのだが、いかがであろうか?


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対面&オンライン融合講義

2021-04-28
50名の対面講義
約100名のオンライン参加
感染対策とともに双方の利点を活かすために

担当する基礎教育科目「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」(学士力発展科目)は、全学部の学生が受講できる講義である。今年で担当して3年目となるが、1年目は通常の対面講義で124名の受講、昨年は急な新型コロナにより全面オンラインとなって242名の受講であった。昨年のオンライン方式については様々に熟考した結果、「ラジオ番組方式」を採用。音声録音データをWeb配信し毎回の秀作課題はその「放送内」で紹介し、さながらDJをしているような方法が意外にも受講生の中から好評である意見を多くいただいた。「身構えず楽に聴ける」「何度でも聴ける」「想像が拡がり短歌がわかるようになった」など「怪我の功名」のような成果があり、新聞地方版の特集にも取り上げていただいた。

そこで今年はどうするか?と模索した結果、標題のような「融合講義」を実践してみようと発想した。全学的に開始2週間を経てほとんど「対面講義」が認められているが、昨年より受講者は少ないが160名が一堂に会すのは感染対策上の配慮が求められると考えた。そこで受講者を三分の一に班分けし、50名参加の「生番組」をオンライン配信するという「融合講義(ハイブリッド)」を実行することにした。この日はその初回、附属図書館には教育学部の50名の学生のみが集まり、会場のマイク音声をオンライン回線に繋ぐ。画面共有はプロジェクター投影とともにオンラインでも配信され、流したい音楽などもマイクが拾って双方に流れるよう機材設定を試みた。でき得るならば、それぞれの利点を活かすことを1週間ほど妄想して来たが、現実には無難に講義を進行させるのみで精一杯な状況となった。PC操作の上でもいくつか問題が生じ、オンライン参加の方に共有画面の頁が進行しないなどのトラブルもあった。しかし、何事も経験である。対面を50名にすることで、個々の学生らの顔と反応がよく見える。オンラインの向こう側の学生らに挨拶を求めたが、なかなか無謀な声をオンラインに投げることは、昨年の経験から憚られているような身体になっているという発見もあった。

昨年は受講者と一度も会えなかった
今年度は3回に1回は会える
今後はどのような対話をこの講義に取り込むかが課題である。


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対面講義が活きるためには

2021-04-24
2週間のオンライン期間を経て
始まった対面講義
ライブがやりたいと言うミュージシャンのごとく

新年度の講義が始まって2週間、帰省などで各地に移動した学生らを考慮し全学的にオンライン講義が続いていた。その2週間の観察期間が明けて、この日から対面講義が始まった。事前事後課題などはWeb上の提出が有効と考えてシステム上のオンデマンド(各自の時間・条件に応じて提出期限までに提出する)を継続、資料・テキスト等を使用して「教室に集まる意義」を最大限に活かした講義内容が求められると自覚する。もとより「90分の講義につき時間外学修が180分必要」として「単位の実質化」が求められている。かなり昔日からある議論であるが、諸外国の大学に比して日本の大学の学びの浅さというのは問題視されてきた経緯がある。1コマの講義に対する「課題量(例えば文献を読む量)」なども甚だ少なく、一時期は「大学レャーランド」と社会に揶揄されたこともあった。

昨年からのオンライン講義で「課題量が過剰」という点も指摘されてきたが、果たしてそうなのだろうか?学生に聞くと僕の課題もキツいと聞くが、毎回の課題を担当者が読んで短くともコメントできる範囲ならば、「過剰」とは言えないのではないかと思っている。ようやく「180分の時間外学修」を適切に実行してもらう習慣がついたように思う。その上で問われているのが、まさに「対面」の質ではないだろうか。資料提供で成し遂げていることに「説明」など加えるのも無益、もちろんテキストをなぞるのは「時間外」に学生がすべきことだ。こうした方法を「反転学習」と呼び、一人で学んだ方が有効なことは「時間外」に行うことになる。

ならば「対面は?」となるが、集まった学生らに課題についての対話を班別などで「親密に」して欲しいところであるが、感染対策上まだ憚られる。個々の学生の考え方を聞くため、僕が机間を巡りたいがそれもやはり憚られる。アクリル板が設置してある教卓と黒板の間に挟まれ、通常では使用しないマイクで飛沫に考慮して話す。「聞こえなくともよいから、自分がいいねと思った和歌を声に出して読んで」という程度に学生からの反応を止めた。そんな制約の中であるが、やはり「聴く者」たちを眼の前にすると語りが流暢となり、「考えて欲しい問い」を具体例を挙げながら提供できた。オンライン講義のやや「機械的」とも思える「語り」とは大きな差が生じた。これぞミュージシャンが「やはりライブはいい」と云う所以なのだと、あらためて実感した。

県内の感染状況も見据えつつ
「対面」の意義を突き詰めていけねばなるまい
新型コロナ2年目の大学講義の格闘が始まった。



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オンライン会議の功罪

2021-03-31
場所を超えて手軽に開催
しかし参加は対面会議より疲れるような
終了後の宴ももちろんなし

大学関係で1件、研究学会関係で1件、1日に2件のオンライン会議に参加した。ひとえに「オンライン会議」といっても、自室でひとりきりで出席する場合と、PCを持参し何名か共同な部屋に参集して出席する場合など、スタイルが多様になってきたように思う。自室であれば据え付けてあるデスクトップPCによってオンラインを起動するが、移動が伴うとノートPC及びタブレットの所持などが必要になる。同時双方向会議システム(zoomなど)を起動するのと同時に、会議資料を閲覧できるようサブの機材があった方が便利だからである。

九州地区全域であれ全国区の場合でも、各地にいる参加者が手軽に会議ができるのは、時間的経済的にありがたいことでもある。正直なところこの1年間、県外出張はなく研究費の多くはオンライン機材などに投じたことになる。オンラインをいま「手軽に」とは記したが、それなりの資材が必要なのは確かだ。またなぜか対面会議よりも「疲労度が大きい」と感じるのは僕だけであろうか。PC画面を見つめる時間が長いせいか、眼精疲労は甚だ大きい。また気の知れた先輩後輩がいる研究学会の会議などでは、もちろん終了後の慰労の宴もない。画面に映る面々の顔ぶれを見て、「きっと(対面会議なら)この人は飲みに行くだろう」などと思わせぶりながら、会議が終了すると現実のままという悲哀が、疲労を増す原因だと思うのは失敬なことであろうか。

会議の質さえも変えたであろうオンライン
今後も有効に活用される度合が拡がるだろう
久しぶりに会える顔がありてこそ、やはり対面会議を望む心はやまないのであるが。


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