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対面&オンライン融合講義

2021-04-28
50名の対面講義
約100名のオンライン参加
感染対策とともに双方の利点を活かすために

担当する基礎教育科目「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」(学士力発展科目)は、全学部の学生が受講できる講義である。今年で担当して3年目となるが、1年目は通常の対面講義で124名の受講、昨年は急な新型コロナにより全面オンラインとなって242名の受講であった。昨年のオンライン方式については様々に熟考した結果、「ラジオ番組方式」を採用。音声録音データをWeb配信し毎回の秀作課題はその「放送内」で紹介し、さながらDJをしているような方法が意外にも受講生の中から好評である意見を多くいただいた。「身構えず楽に聴ける」「何度でも聴ける」「想像が拡がり短歌がわかるようになった」など「怪我の功名」のような成果があり、新聞地方版の特集にも取り上げていただいた。

そこで今年はどうするか?と模索した結果、標題のような「融合講義」を実践してみようと発想した。全学的に開始2週間を経てほとんど「対面講義」が認められているが、昨年より受講者は少ないが160名が一堂に会すのは感染対策上の配慮が求められると考えた。そこで受講者を三分の一に班分けし、50名参加の「生番組」をオンライン配信するという「融合講義(ハイブリッド)」を実行することにした。この日はその初回、附属図書館には教育学部の50名の学生のみが集まり、会場のマイク音声をオンライン回線に繋ぐ。画面共有はプロジェクター投影とともにオンラインでも配信され、流したい音楽などもマイクが拾って双方に流れるよう機材設定を試みた。でき得るならば、それぞれの利点を活かすことを1週間ほど妄想して来たが、現実には無難に講義を進行させるのみで精一杯な状況となった。PC操作の上でもいくつか問題が生じ、オンライン参加の方に共有画面の頁が進行しないなどのトラブルもあった。しかし、何事も経験である。対面を50名にすることで、個々の学生らの顔と反応がよく見える。オンラインの向こう側の学生らに挨拶を求めたが、なかなか無謀な声をオンラインに投げることは、昨年の経験から憚られているような身体になっているという発見もあった。

昨年は受講者と一度も会えなかった
今年度は3回に1回は会える
今後はどのような対話をこの講義に取り込むかが課題である。


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対面講義が活きるためには

2021-04-24
2週間のオンライン期間を経て
始まった対面講義
ライブがやりたいと言うミュージシャンのごとく

新年度の講義が始まって2週間、帰省などで各地に移動した学生らを考慮し全学的にオンライン講義が続いていた。その2週間の観察期間が明けて、この日から対面講義が始まった。事前事後課題などはWeb上の提出が有効と考えてシステム上のオンデマンド(各自の時間・条件に応じて提出期限までに提出する)を継続、資料・テキスト等を使用して「教室に集まる意義」を最大限に活かした講義内容が求められると自覚する。もとより「90分の講義につき時間外学修が180分必要」として「単位の実質化」が求められている。かなり昔日からある議論であるが、諸外国の大学に比して日本の大学の学びの浅さというのは問題視されてきた経緯がある。1コマの講義に対する「課題量(例えば文献を読む量)」なども甚だ少なく、一時期は「大学レャーランド」と社会に揶揄されたこともあった。

昨年からのオンライン講義で「課題量が過剰」という点も指摘されてきたが、果たしてそうなのだろうか?学生に聞くと僕の課題もキツいと聞くが、毎回の課題を担当者が読んで短くともコメントできる範囲ならば、「過剰」とは言えないのではないかと思っている。ようやく「180分の時間外学修」を適切に実行してもらう習慣がついたように思う。その上で問われているのが、まさに「対面」の質ではないだろうか。資料提供で成し遂げていることに「説明」など加えるのも無益、もちろんテキストをなぞるのは「時間外」に学生がすべきことだ。こうした方法を「反転学習」と呼び、一人で学んだ方が有効なことは「時間外」に行うことになる。

ならば「対面は?」となるが、集まった学生らに課題についての対話を班別などで「親密に」して欲しいところであるが、感染対策上まだ憚られる。個々の学生の考え方を聞くため、僕が机間を巡りたいがそれもやはり憚られる。アクリル板が設置してある教卓と黒板の間に挟まれ、通常では使用しないマイクで飛沫に考慮して話す。「聞こえなくともよいから、自分がいいねと思った和歌を声に出して読んで」という程度に学生からの反応を止めた。そんな制約の中であるが、やはり「聴く者」たちを眼の前にすると語りが流暢となり、「考えて欲しい問い」を具体例を挙げながら提供できた。オンライン講義のやや「機械的」とも思える「語り」とは大きな差が生じた。これぞミュージシャンが「やはりライブはいい」と云う所以なのだと、あらためて実感した。

県内の感染状況も見据えつつ
「対面」の意義を突き詰めていけねばなるまい
新型コロナ2年目の大学講義の格闘が始まった。



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オンライン会議の功罪

2021-03-31
場所を超えて手軽に開催
しかし参加は対面会議より疲れるような
終了後の宴ももちろんなし

大学関係で1件、研究学会関係で1件、1日に2件のオンライン会議に参加した。ひとえに「オンライン会議」といっても、自室でひとりきりで出席する場合と、PCを持参し何名か共同な部屋に参集して出席する場合など、スタイルが多様になってきたように思う。自室であれば据え付けてあるデスクトップPCによってオンラインを起動するが、移動が伴うとノートPC及びタブレットの所持などが必要になる。同時双方向会議システム(zoomなど)を起動するのと同時に、会議資料を閲覧できるようサブの機材があった方が便利だからである。

九州地区全域であれ全国区の場合でも、各地にいる参加者が手軽に会議ができるのは、時間的経済的にありがたいことでもある。正直なところこの1年間、県外出張はなく研究費の多くはオンライン機材などに投じたことになる。オンラインをいま「手軽に」とは記したが、それなりの資材が必要なのは確かだ。またなぜか対面会議よりも「疲労度が大きい」と感じるのは僕だけであろうか。PC画面を見つめる時間が長いせいか、眼精疲労は甚だ大きい。また気の知れた先輩後輩がいる研究学会の会議などでは、もちろん終了後の慰労の宴もない。画面に映る面々の顔ぶれを見て、「きっと(対面会議なら)この人は飲みに行くだろう」などと思わせぶりながら、会議が終了すると現実のままという悲哀が、疲労を増す原因だと思うのは失敬なことであろうか。

会議の質さえも変えたであろうオンライン
今後も有効に活用される度合が拡がるだろう
久しぶりに会える顔がありてこそ、やはり対面会議を望む心はやまないのであるが。


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遠隔講義が炙り出したもの

2021-03-18
学びに必要な思考を動かす
読み・考え・書く・見直す・循環性ある活動
定まった指導要領なき大学の学びこそ

僕たちが新型コロナに翻弄されて、もう1年が過ぎようとしている。今も先行きの不透明感は依然として変わらず、有効な対策が採られているとは思われない日々だ。東京の感染者は再び増加に転じ、変異ウイルスという新たな脅威がまた「何もわからない」社会の時間をさらに先延ばしにする。幸い宮崎県は「感染者0」が、しばらく続いている。昨年の「第1波」「第2波」の頃から言われ続けてきたが、「コロナ疎開」というのが現実的な選択かもしれない。このような情勢の中で、新年度の大学講義がいかなるものになるかも現実問題として僕らの直面する課題である。地方大学であり入学定員も都市部の私立大学に比べて少ないということを利とし、対面の学習機会をどれほど取り戻せるかも焦点の一つであろう。

今「取り戻せるか」と記したが、その表現は正直なところ本意ではない。正確には「対面の有効性をいかに活かせるか」が本心である。「やむを得なく『遠隔講義』になった」のは確かだが、それは大変に合理的で有効な学習環境を創ることに気づく格好の契機であったと考えたい。日本の大学で「単位の実質化」などが叫ばれて久しいが、欧米や東アジア諸国の大学に比べても日本の大学の学びがあまりにも「甘い」という現状が今も十分に改善されたとは思われない。嘗ては「大学レジャーランド」などと揶揄された大学教育、4年間を遊んでいても卒業できるというのは、社会に羽ばたき将来を支える人材を育てる上で大きな悪弊になってはいないだろうか。2000年代になってから指摘される日本社会の「内向き志向」は、「90分教室に座っていれば(何ら思考せずとも)出席となる」大学講義」に責任はないのだろうか。「遠隔講義」で課題の過剰さが話題となったが、僕自身の収穫としては、ようやく単位内容に見合った課題量で学生の思考の練磨ができるようになったと考えている。

遠隔で獲得した方法を活かしつつ対面の意義を探る
「コロナ以前」大学の学びを省みる
あらゆる分野において、このウイルスはその真価を炙り出しているような気がする。


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オンライン顔を出すのか出さぬのか?

2021-02-21
オンライン授業受講の際の映像情報
「顔を映す」意味が問われている
対面ライブ空間との比較で指導者・学習者はどう変化しているのか?

研究学会でのご縁があって、ある大学附属中学校の公開研究会にオンラインで参加した。関西地方にある学校なので、通常であれば入試業務も控えたこの時期に参加するのは難しい。しかしそこはオンラインの力、自宅で10時から昼休みを挟んで14時半まで様々な勉強をさせてもらった。研究会の大きなテーマにこの1年間直面した「オンライン授業」のあり方が探究されていた。中学生などでもオンラインを駆使すれば、学校外の専門家や多様な分野の人々と、交流して学ぶことが可能になった。しかし、その学びが一方的であったり、基礎知識が欠如したり、対面では捕捉されていたことが不十分であるという問題も抱えている。小中高大すべての校種でいえることだが、「オンラインを活かす」ためには学びの質を見定めた取り組み方が求められる。

複数の公開授業が編集整理された情報で提供されたが、もちろん「国語」に参加した。昨年の秋に研究学会でパネルを共にした先生により、オンラインで古典『徒然草』を教材とした授業実践が展開された。教科書教材に「読み比べ」用の補助教材を加え、中学生が自らの体験において身近に捉えられるよう工夫がなされていた。オンラインを駆使した「話し合い」の様子も録画映像で拝見することができたが、その際にお互いの「顔を映すか否か」という点も話題に上った。また敢えて「チャット」を使用した話し合いの様子も紹介されたが、SNS時代に生きる生徒たちの日常の言語生活を上手く活用できるかどうかが大きな焦点かと感じた。提起された問題として、ネット上に情報を扱う姿勢が「深読みが困難」であるということ。その上で「自分の信じたものを疑う姿勢」など思考の新たな次元への意識が求められている。学習材として紙情報かデジタル情報かについても、一概にどちらが優位という問題ではなく、今後はいかに融合して活用するかが問われているのだろう。

受け手話し手の相互に「顔が見える」意義は?
対面時に疎かにしていたことが問われている
ライブ時にどのような関係を結んでいたかも重要であるように思う。


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