大学図書館資料の未来
2023-09-23
感染拡大時期の入館者減少入館者数は回復しても貸出数は回復せず
電子版資料やデーターベースの利用が一般的になる社会で
21日(木)午前に夏季休暇中ながら、宮大短歌会の勉強会を開いた。テーマは「連作をどう読むか?」で、短歌会先輩の受賞作や連作といえば俵万智さんということで『サラダ記念日』をあらためて読み直し大いに勉強になった。参加者は限定的であったが、聞いてみるといずれも『サラダ記念日』は電子書籍でタブレット内に所有していると云う。この勉強会用の資料提供についても、PDFなど電子化されたものがありがたいと学生は云う。僕自身はPDF化が間に合わず、写真提供では文字が不鮮明な気がしたのでコピーの紙媒体を持参した。あらためて「紙資料に自由に書き込むのはいいですね」と学生は言ってくれていたが、コピー用紙を持参する我が身にやや年代を感じてしまった。かくいう僕自身も結社歌会の詠草はタブレットで持参し電子ペンで書き込みをする。何より保存が楽で物理的な容積を食わないのがいい。
副館長を務める附属図書館で冒頭に記したように、貸出冊数の減少が問題になっている。コロナ禍中にあり入館者数が落ち込んだものの、昨年ぐらいから回復傾向が見られた。しかし貸出冊数は回復しない。この現状について、各学部の先生方と意見を交換する機会を得た。各学部の専攻と分野によって、使用する資料の性質も大きく異なる。理系は電子ジャーナル・電子図書館を中心に使用率が高いが、人文社会系は未だに紙書籍への依存度が高い。概ねそんな傾向も浮き彫りになった。考えるに学生たちが「調べる」と言うとき、大概がスマホに依存しているのが否めない。だが果たして、十分に資料の信頼性を意識・選別して使用しているかは甚だ疑問である。少なくとも国文学の分野であれば、ジャパンナレッジなどのデータベースを使用してこそ「調べた」と言えると思うのだが。ある意味で学生の貸出数の減少は、大学教員が基本的に「調べる」姿勢をどう教えているかにも関わる。その上で電子書籍・(オンデマンド)データベースをどの程度に揃えていくか?大学図書館の在り方が、大きな曲がり角にあるのではないだろうか。
所蔵場所の問題、検索の優位性
諸々と考えて僕自身の資料の扱いも課題に思いつつ
タブレットが「よむ」行為に欠かせない僕がいる。
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学生たちが創るちから
2022-12-15
「プロジェクションマッピング×朗読劇」公演構想2年半の到達点を見る
「主体的対話的深い学び」はもちろん大学においても
大学図書館は、交流ができる場であり孤独になれる場であり創発ができる場である。2020年7月にリニューアルオープンした附属図書館であるが、各フロアごとに前述のようなコンセプトを叶える場を目指している。「学び」は時に「孤独」になって自己を確立していくものであるが、同時に「自分ひとりでは気づけないことに気づく」対話の場が必須であるのは昨今の教育において自明となってきた。さらには「創発」と呼んでいるが、新たなイノベーションを起こすことで「学び」はより自発的創造的なものに進化していく。「知の交流拠点」としての大学図書館が、現在向かうべき姿である。とはいうものの、学生の自発的な活動を多様に展開するのは容易なことではない。「創発WG」を据えて何人かの先生方に協力を得て、いくつかのユニットを形成してきたがそれが継続するちからを持たせるためには、強力なリーダーとなる学生の存在との出逢いが求められる。あくまで支援者(ファシリテーター)に徹しながら、学生たちのエンジンに燃料や潤滑油を送り込むのが僕の役目と心得て進めて来た。「指示待ち」ではない前向きな主体性、教員に限らず現在の日本の若者に一番必要な学びの機会ではないのか。
工学部大学院生のデジタル投影機器を扱う高度な技術、だが何を素材にしたらよいのか?という相談が図書館の「創発」の場に投げ掛けられた。そこに「文学(国語)」を学ぶ教育学部の学生たちがいる。当初は短歌の素材となる自然の場のマッピングも製作し、それを投影しつつ歌会で批評する試みに至った。今回はさらなる展開であり、教科書教材を用いた「マッピング×朗読劇」という応用となる。既に小欄にも記したように、附属小学校でも6年生を対象に授業も実践した。さらに「エンタメ」的要素を持たせながら、創発朗読劇をいかに公演として成立させるか?ある意味で「文学的文章の国語授業」における夢のある展開である。文理融合のちからとともに、多様な人々の享受にどう応えていくか?という「社会」とのセッションが求められる機会と思う。教員にはあらゆる意味で「社会性」が必要だ、というのが僕自身が「教員」になった際の約束であり信念である。仲間と協働しながら「社会」に向けて、訴えるものを創発する。学部課程では学べない部分を、こうした「創発」活動は補完してくれる。ある意味で、思うようにやって「失敗から学べ」ばいい。ICTと文学の出逢いを叶えながら、学生が「創発」に学ぶ過程を大切にしたい。
多くの苦難を努力で乗り越えて来た結果
さらに「学内」という「甘え」の枠を超えてどのように学外公演を展開するか?
小さなちからを付けたら、さらなる「ちから」に結びつくことを期待している。
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絵が見える群読ーリアルの想像か物語に入るのか?
2022-05-14
宮沢賢治「注文の多い料理店」3人による群読「絵が見える」という感想もあり、面白いが怖い物語
さて?どのようなプロジェクションマッピングに致しましょうか。
前日のゼミ活動の成果を早速発表する機会として、附属図書館創発ミーティングを実施。文学教材としての『注文の多い料理店』の読み語り群読を、主に工学部の院生チームの学生さんや参加した先生方に披露をした。聴く側の人々には「文字資料」は提供しない。なぜなら、「文字」があるとほとんどの人が読み語る声を傍らに置き去り、手元の「文字」を黙読するからである。多くの講演や講習で試しているが、十中八九の人々が「声」よりも「文字」を無意識に好むものだ。世間一般では「物語は(文字で)読む」ものだ、と思い込んでいる人々は少なくない。たがそれはまだたかが100年間ぐらいの慣習であり、元来の文学作品は「声」で享受されていくものであった。「文字」である以上、紙面・机上・平板から物語が飛び出すことはなく、あくまで「字面」の上でのみの絵空事である。物語は人間の身体性を通してこそ生きたものとして蘇るのだ。とりわけ「声の文学」ともいえる、宮沢賢治の作品にはこの方法で味わわない手はない。
読み語りを聴いた工学部院生チームのメンバーから、いくつかの提案が為された。この異分野融合においてこそ、新しいICTが生まれる。現実には起き得ないような不思議な現象が、物語内では起きる。そんな光景は光技術で演出をして架空に再現することができうそうだ。プロジェクションマッピングは、立体オブジェなどを対象に投影すると立体感が増幅することは融合短歌会で体験した。作品中の「扉」や「部屋」などが、どんな空間に再現されることになるのか?今から楽しみである。また日常にない自然との融合性、賢治は東北は盛岡の自然への意識があるだろうが、この教材化においては宮崎の自然を取り込み作品に溶け込ませるのも面白いという意見も出た。ゼミ生たちの読み語りについては、落語みたいに聴こえた、面白く語るか怖く語るか、などの批評が提起され、まさに「語り」になっていたことには一つの到達点が感じられた。最終的に附属小学校の児童たちへの授業化を目指しているに当たっては、「大学に来るとこんな楽しい学びができる」ことを誘発するのではという意見もあって、重要なキャリア教育の一端になることも確認された。
学生たちの個々の力が創発に花開く
未来の教育へ向けての教材・教具・環境の総合的な開発
「リアルな想像」ではなく、「物語世界に没入」というメルヘンな体験でありたい。
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思ったことはやってみて考えようー創発を楽しむ
2022-01-08
頭の中で考えているのみならず試作をノートにアプリに形にしてみること
書いたものは消さず、形にしたものはやってみる
附属図書館にて「学生創発WG」を、毎月1度月初めに開催している。WG長となってもうかれこれ1年半ぐらいが経過するが、ようやく「創発」らしい対話が学生中心に行われるようになった。もとよりここまでの内容に到達するまでも、なかなか活性化せず教員だけの語り場になってしまう時期も少なからずあった。しかし「創り出す」活動というのはやはり「待つこと」が必要、学生の自発的なプログラム開発が起ち上がるまで、多くの時間を要した。その甲斐あって実に夢のある学部間コラボな構想が現在は展開している。全貌を明らかにするにはいま少し時間をいただきたいので、ここではその内容の公表は控えておく。「創発」という用語そのものがAL(人工生命)やAI(人工知能)において、鍵となる概念であると云う。『情報・知識imidas』によれば「システムの上位レベルに備わっていなかった機能が明示的な指定なしに下位レベルから発現すること。」とされている。具体例として「アリの集団の秩序だった行列は個々のアリの行動から創発される。どのアリも全体のことは感知していないが、全体としては秩序が保たれている。」というのはわかりやすい。
「素人考え」という言い方があるが、それが「全体の秩序」にとって大きな作用を及ぼすことがあるのだろう。ただ前の他の「アリ」に付いていくだけのものもいれば、よく観察すると1匹だけ違う方向へ行こうとしたりする「アリ」がいるものだ。だがもしかすると、その「1匹」の方向こそに大きな利があるかもしれない。「創発」の意味の発想に帰れば、こんなことも考える。要は多くの異分野の学生たちが集まって、新たな発見・発明を楽しむことが肝要なのだろう。この日もある学生が「試作品」を創って来た。それに対して、様々な意見が飛び交った。「試作」のフレームを取り下げようとする時に、「発想したものは作り込んでみてから見直せばよい」という助言がなされた。そう!人は新たなものを他者に提案する際に、自分の発想は駄目なのではないかと考えがちである。これは、初めて短歌を作った人の場合も同様だ。だが意外と初心者の表現というのは欲がなく自然体で短歌の場合は、素晴らしい歌であることも少なくない。「学校」というのはすぐに「×(バツ)」を付けられる場であるが、「○」か「×」かという判断だけで社会が回っているわけではない。「○」と「×」など社会の基軸が反転すればすぐに反転してしまうゆえ、全方位的な視野からまずは肯定的に捉えて試みる姿勢が求められる。学生たちのやりとりを見ていて、こんなことを考えた。
ノートに書いた言葉の欠片(かけら)
そこに羽が生じて詩性を帯びる
理系の学問だけがイノベーションを起こすわけではない。
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県内公立図書館の夢を語ろう
2021-08-24
県立図書館主催の専門研修創発読書活動による対話を
研修そのものを対話的な活動で
本来は県立図書館に一堂に会して実施する予定でああったが、オンラインでの開催を余儀なくされた研修で講師を務めた。県内の公立図書館における司書や職員の方々が参加し、「読書活動」を据えた図書館づくりを考える研修会である。今の時代、図書館は蔵書・資料を揃えて利用者を受け身で待っていることは過去のものとなった。地域に根ざした活動を図書館に仕込み、その活動に参加する地域の人々が互いに出逢い、蔵書・資料を活用して新たな発見や創造をしていく場と認識した方がよい。まさに図書館は「創発」の場である。「創発」とは「要素間の局所的な作用が全体に影響を与え、その全体が個々の要素に影響を与えることによって、新たな秩序が形成される現象。」(『デジタル大辞泉』より)と辞書にある。元来は『岩波生物学辞典』に「創発的進化」が項目にあるように生物学などで使用されていた語のようである。物質や細胞の化学的・物理的変化による「新たな秩序の形成」と考えればよい。人間の思考もまだまだ「創発」する必要があるということだ。
さて、研修はまずある県内公立図書館の「読書活動実践報告」で始まった。「古い・暗い・汚い」図書館から「重厚・貴重・綺麗」な図書館への転換を目指し書架等を整備し、また地域の人々とつながりながら、自らの弱点を補強して人々が出逢える図書館づくりを目指していた。各公立図書館は施設や予算には限界がありながら、地域の人々の力を集めるということが肝心と思う。その後、僕から「読書活動の意義」について話した。「読書は体験である」という基本的な姿勢を元に、「人生を増やす」「自分を見つめ直す」など、読書活動の基本的な考え方になる内容をお伝えした。午後は宮崎大学附属図書館の学生創発活動実践についての報告を元に、「うちの図書館の夢」についてオンライン班別対話を実施した。「コロナだからこそできたこと」を自己紹介に盛り込み、結論を求めず自由奔放に質より量で他のアイディアとつながる自由な対話をすることができた。これも実情ではオンラインであるからこその効用、よって今後は県内でもオンラインでつながる企画などを展開すべきという「体験」にもなった。総じて、参加者は自らが夢を語るという体験を通して、あらためて各地域で「人々に夢を与える図書館づくり」をお土産にしたようである。
一方的でなく語り合う研修形式
「短歌県の図書館」という点も強くアピール
文学を大切にする「みやざき」に生きた血が流れ始めた。
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空(ゼロ)の発見ー創発読書会Vol7
2021-06-12
車輪が回転するのは中心に「空」な部分があるから「無為」にこそ大きな力が宿っている
端役が人と人とを繋ぎ社会が動く
朝から講義の準備、国文祭・芸文祭みやざき2020の附属図書館連携企画の打ち合わせ、講義、学部内での打ち合わせ、と隙間のない1日を過ごす。その隙間時間には、メール返信など「やるべきこと」は絶えない。常に「走ってる」ような状態であり、「自己」という「車輪」はどのように回っているものかと思う。「回転」し続ければ摩擦が生じ、やがて熱を帯び摩滅していくことになるのだろうか?『老子』に「三十輻一轂を共にす」のことばがある。『故事俗言ことわざ大辞典』によれば、「車輪は三〇本の矢が一つの轂(こしき)に集まり、轂は中心に穴があり、空であることによって回転できることをいう」とある。物事が回るためには実は「空(ゼロ)」なる部分が何よりも重要であり、目に見える「三十輻」はその車輪全体の均衡を相互に支えているということになる。生きる上でも「空」の時間を持たないと、うまく回っていくことはできないということになるだろう。
『老子』の話題は創発読書会で議論して再考したものだ。夕刻からオンラインで開催された読書会に参加して、ようやく「自己」を「空」にすることができたように思った。引き続き、河合隼雄『神話と日本人の心』を読んでいるが、「中空均衡構造」に関する記述の続きである。日本の場合は欧米に比べて、「調整」を旨とする長が組織の上に立つことが多いというのも興味が惹かれた。欧米からすると「長」には適さない人物が、なぜか「長」たる位置に座ることが少なくない。「調整」ならばまだ良心的な物言いだが、ここ最近は「忖度」にすっかり変化してしまった。リーダーシップなき新型コロナ感染対応を我々は目の当たりにして欧米諸国を羨みながらも、変質し歪んでしまった「中空」に身を委ねるしかない混濁の中にいる。明治以降の西洋文化の摂取・受容への前向きな姿勢の賞味期限も切れ、世界でも有数の経済大国であるという「過去の夢」だけを抱え込みながら、均衡なき歪んだ「車輪」がギクシャクしながら新型コロナの「悪路」を激しく揺れながら走っているのだ。そこに「TOKYO2020」という荷物を過剰積載を承知の上で、同じ「忖度」構造の中で車輪の上に載せようとしている。「歪み」ならばまだよいが、「三十輻」が折れ始め最後には「轂」の「空」を喪失した時、回転しない車輪になりはしないか?などと最悪の想定も考えておかねばならないのだろうか。
「空(ゼロ)」の存在を発見すること
「自然」の摂理に通ずる動きを歪めてはならない
せめて読書会の議論で意識化し、僕ら自身が均衡ある健全な「空」を保つべきか。
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中空均衡構造ー無意識と思考の傾向(創発読書会Vol6)
2021-05-29
己が思考する傾向を知るには「無意識」と「意識」の領域
河合隼雄『神話と日本人の心』読書会
前期講義も7週目に入りほぼ折り返し点、新入生も受講や課題に慣れて来たように見受けられる。毎回の講義課題については、講義外の学修を経てWebシステム上に提出してもらう。そこで必ず、短くともコメントを付して提出確認をしているのだが、次第に個々の学生の考える傾向が掴めてくる。まずは見よう見まねで課題に向き合って「やってみた」学生らに最近語っているのは「自分の思考の傾向を自ら意識せよ」ということだ。単純な二者択一方式で、一方の考え方を排除してはいないか?文学史などの場合は、往々にして自らが明治以降の近現代の偏向した思考に位置する場合が少なくない。しかも、それを「無意識に思考してしまっている」としたら大変に危ういことになる。形式的な「論理と名付けられたもの」よりも、「文学批評」こそが思考の道筋をつける。
講義を終えて夕刻からは、附属図書館「創発読書会」オンライン開催に参加。この日から河合隼雄『神話と日本人の心』(岩波書店)を講読することになっていた。日本神話の特徴を「中空均衡構造」として「中心にある力や原理に従って統合されているのではなく、全体の均衡がうまくとれているのである。そこにあるのは論理的整合性ではなく、美的な調和感覚なのである。」などと説明されている。これに対して「ユダヤ・キリスト教のような一神教の場合」を比較し「中心統合構造」と呼び、その「変化」や「進化」のあり方に違いを見るという考え方である。前者は「受け入れる」ことから始まるが、後者は「対立」から始まる。「中空均衡構造」の場合は、外来の優位性があるものが侵入して来ると、「時と共に、その中心は周囲の中に調和的に吸収されてゆき、中心は空にかえるのである。」と説明される。それは「外来の仏教」の受容のあり方を見れば、明確に理解できると云う。「日本神話」の構造を分析した上での論考であるが、大陸文化の摂取・受容を考えた時に、多くの事例に当てはまる考え方でもある。明治以降の急速な西洋文明の過度な摂取・受容の際にも、こうした精神分析的な構造が働いたことも併せて考えたい。『古事記』『日本書紀』を考えることで、明治以降の思考に染められた我々の汚濁を払拭する可能性があるのだ。
次回へ向けて現代社会の構造との比較も
我々の無意識を少しでも明らかにしておくために
読書会の深さが次第に増している
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自然の演ずる芝居ー創発読書会Vol4
2021-04-20
「自然の演ずる芝居はつねに新しい。なぜなら彼女はつねに新しい客をつくり出すからである。」
(『自然ー断章』より)
附属図書館の活動として行なっている「創発読書会」も数えること第4回目、「ゲーテらしきもの」の手による『自然ー断章』をスローリーディングしてきている。この日は冒頭に「学校らしくない話題をすべき」といった趣旨の雑談があった。小中高の「国語」は明らかにそうであるが、「学校らしい」対話にしか発展しない傾向がある。規律正しく実直というか、「学校」にある一種の「道徳」の枠内に収めようとする矮小な話題に終始するということである。だが果たして「文学の学び」は、それでどれほどの達成を見るだろうかと疑問が尽きない。「教師ー学生」という相互の仮面を剥ぐことで、初めて見えるものがあるはずだ。人は誰しも多様な「人格の仮面」を被っている。「教師」「学生」「家族」「部員」「バイト」「町内会」等々、その「仮面」を一枚一枚剥いだら、どんな「顔」が残ると言うのであろう。
冒頭に引用した一節が、大きな話題となった。「演ずる」とは何か?この国では「演ずる」「芝居する」という言葉そのものに偏見があり、「人を騙す」とか「真の自分を隠す」といった負の趣旨で使用されるのが一般的だ。欧米の教育では「文学」を学ぶと、必ずその内容を「演じてみよう」という課題がある。「文学」に対して遠目から「学校」という「正義」の枠内での対話よりも、「文学の現場」を自ら体験する学びに利があるのは明らかだ。「演じる」とは、他者の気持ちになって未知の状況を想像上で経験することだ。我々は「自然」のことを何もわかっていない。ゆえに「自然の演ずる芝居はいつも新しい。」わけだ。「客」とのその場限りの「ライブ性」の中に生きてこそ「自然」ということになる。文章はその後に「生命は彼女のもっともすばらしい発明である。」と続く。もとより「自然」による「芝居」の中に生かされている「生命」、「豊かな自然が好きだ」と口ばかりではなく自らの身体を賭して「演じて」みるべきなのである。
牧水は短歌の響きの中に演じた
溺愛を演じ酒呑みを演じ旅人を演じた
次回の創発読書会は、参加学生さんの創作小説を読むことになった。
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新しい図書館を創った人々
2021-03-30
図書館事務の方々へ感謝永年勤続でご退職の方も
専門職が支えているということ
年度末となって退職や異動の時節となった。例年であれば送別会などが行われる弥生3月であるが、新型コロナ感染対応で宴を持つことはできない。比較的、公の場で退職や転任のご挨拶が為されるのは、何とも名残惜しく思うのは僕だけであろうか。「惜別」に「惜春」のことばがあるように、足早に駆け抜ける春というのは誠に惜しまれるものである。それまでに築いてきた仕事の円滑な流れがある場合はなおさら、まだまだ同じ環境で働きたいものだという気持ちが強い。僕らのような仕事の場合、多くが事務方に支えられていることを、あらためて深く感謝する日々である。
事務方にも個々の分野のスペシャリストの方々がいる。大学内でも様々な分野があるのだが、図書館という大学の心臓部において長年にわたり貢献いただいた方の退職は特に惜しまれた。僕が副館長となってから図書館改修工事もあり、全国の大学の多くの図書館を視察したり、改修案を模索したり、新しい部屋の名称を考案したりと思い出は尽きない。こうした動きにいつも地道に丁寧に穏やかに取り組んでいただいた方々の誠意が、現在の新しい附属図書館を形作っている。特にどこに名前が刻まれる訳ではないが、至る所にその事務方メンバーの方々の志があることを僕は知っている。
人生は新陳代謝が必要である
変わりゆくことで新鮮味が保たれる
退職・異動の方々の豊かな前途を祈りつつ、さらなるよき図書館を目指す。
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得体の知れないものの面白さー創発読書会Vol.2
2021-03-10
自然科学が世界を説明し始める「迷信」は排除され韻律は厳密に規則となる
そこに「退屈」が生じ再び「聖なるもの」を希求する
附属図書館創発読書会の第2回目を、オンライン開催した。休暇中とあって学生の参加は少なかったが、各自が問題意識を持って興味深い対話が展開された。前回同様に「ゲーテらしきもの」が記したとされる「自然ー断章」を読んだが、難解な文章ゆえに様々な解釈を許容する。短歌がまさにそうなのだが、「説明的」で「一様な解釈」しか為されないものは退屈し面白味に欠ける。だが現在の社会情勢は、「わかりやすいもの」を求めて「論理」などという語を翳して安易な「説明」を頽廃的に求める傾向が強い。世界で其処でしか出せない「手作り料理」よりも、米国に深い関係のある国には必ずあるハンバーガーチェーンの人造的で簡単には腐りそうにない化学薬品的な味が受け入れられ、コロナ禍でも甚大に収益を伸ばしている。少なくとも僕は、穏やかな「人」が材料をその「眼」で吟味し熟練した「腕」で調理する姿が見える店が好きだ。だがそうした店に最初に入るのは、「賭け」のような思いっきりも必要となる。
僕らは誰しもそれぞれの社会に向き合う際に、「仮面」を被りその役割を演じている。「学生」「教員」「妻」「夫」「子ども」「母」「隣人」など、1日に幾つの「仮面」を演じるだろう。それぞれが妙に「不自然」を自覚してしまうこともある。だが「デーモン小暮閣下」がそうであるように、「不自然」を貫き通せば「自然」となる。彼があの塗り顔で大相撲の精緻な解説をしていることに、少なくとも僕は微塵も違和感は覚えない。また「規則性」とか「行動の韻律」が「儀礼」のような意味合いを持つまで貫き通され、驚愕の結果が伴うと神聖化する例を僕らは好む。イチローが打席で投手に向かうまでのストレッチを伴い祈りの韻律を刻む一連の動き、長嶋茂雄の躍動する三塁守備や打席での小刻みな微動、王貞治の手袋なき握った手を口に当てバットを握るまでの動作から一本足での静止、いずれも当初は「不自然」であったかもしれないが、実に「自然」となり多くの人々を惹き付けた「儀式」であり「聖なるもの」なのだ。もしや現在のプロ野球は、ハンバーガーのように判で押したような選手ばかりにはなっていないだろうか。
文学・哲学でいかに現在の世相を切り取るか
読書会の多分野の参加者による自由な対話が生むもの
「答え」など安易な納得に着地しない得体の知れなさの中に・・・
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