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外国語学習・・・表現しないと始まらない

2014-11-01
外国語で意思疎通ができた感慨
その小さな愉悦を忘れずに
何事も表現しないと始まらないものだ

教員用英会話クラス2週目。幸運なことに先週来のトピックが、僕の好きな「スポーツ」に関することであった。外国語の場合は、その話題に興味関心が深いと、自ずと当該分野の語彙力も増し理解表現が円滑になる。僕の過去の経験では、英語ならば「BaseBall」の話題となると、球場の隣席となった見知らぬ人とも、結構なコミュニケーションがとれたと自負できる。(まあ、だいぶビールを飲んで舌が滑らかだという影響も大きいが)中国語では「漢詩」の話題となれば、李白・杜甫などの著名な詩を朗誦しながら、それなりにアカデミック”らしき”話が可能となった経験がある。

兎にも角にも、些細な誤りを気にせずに表現することだ。暫く表現から遠のいていると、如何にその力が後退するかということに、今回は愕然とした。英会話クラスが実施される国際連携センターまで行く道すがら、同学部の先生と出会った。ここに書いたような趣旨のことを話すと、「外国語も筋トレみたいなものですね。」と反応してくれた。まさにそうだ、筋力は使わなければいくらでも衰える。特に加齢とともに適切に鍛えておかないと、後に大きな差となる。筋力は維持している身として、外国語力も同等以上に維持すべきと、あらためて決意した次第である。

この日はクラスに行くと、研究室を近くに並べる韓国語の先生もいらしていた。欲を出して「韓国語も学ぼうと思う」といった意志表示を彼女にしていただけに、英会話で同等の立場になることに、聊かの妙を感じた。もちろん韓国人である彼女の日本語能力は確かである上に、英語もかなり流暢に話す。根っから「語学好き」なタイプなのであろうか、実に研究者としても憧れのロールモデルである。クラスの帰り道に歩きながら「このクラスで会えるとは」とお互い感激を口にした。どうやら彼女も「ジム通い」に勤しんでいるらしい。やはり筋トレと語学は、どこかで相通じるものなのだろう。

地域に住むからこそ国際的に
その窓口は語学からである
伝えたら反応を受け取り再び伝える、双方向性の連続を忘れずに。
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忙しいから語学と読書

2014-10-25
本も読む時間がないとか
語学に落ち着いて取り組めないとか
本当に時間がないのが理由なのだろうか・・・

「忙しいからこそ読書ができる。」そんな逆説的なことばを、何かで読んだことがある。もとより「読書」など、静かに書斎の机でするのではなくとも、ダイニングとかベッドの上とか、公共交通機関の中(最近の僕はまったくこれは無くなったが)や、心地よいBGMが流れるCafeなどでするのがよい。多少の雑音に曝されていたとしても、意欲的に読み進められるのが読書愛好家ということになろう。むしろそのBGMや振動などが心地よいリズムを醸成し、読む推進力となる場合がある。(時に最近は、この程合を破壊する会話や通話をする輩がいて辟易することもあるが。)

昨日から後期教員用英会話クラスが開講した。前日に留学生歓迎会に出席して刺激を受け、また国際部の方から勧められたこともあって、申し込みをしてなかったが心が動いた。午前中も週末に必要な講演資料などを作成し慌ただしく、時折「この忙しい中で英会話」といった怠惰の虫が蠢いたが、初回に参加するのが”すべて”ではないかと、ファイルを片手に国際連携センターへと歩みを進めた。玄関で昨晩声を掛けてくれた国際部の方にも偶然会い、「早速ですね!」と笑顔。気分よくクラスに入った。

しばし英会話機会がなかったので、発信力が極端に低下していた。嘗て東京で週2回英会話学校に通っていた頃は、ともかく吐き出すほど表現の鍛錬を重ねた。多少間違ってもまずは喋る。そんな前向きな姿勢を今は失いかけている。それがわかっただけでも大変意義があった。幸運なことに、この日の対話テーマは「スポーツ」であった。僕の得意分野であり、流れを「BaseBall」の話に持って行けば、”こちらのもの”!「レフリー」と「アンパイア」の違いをネイティブ講師が問い掛けた時、すかさず僕が答えられたのは爽快だった。

そう!時間がないからではない、やらないのは意志がないのだ。大学授業1コマ分を自己の英会話研鑽に当てられずして、何が研究者だ。いつか学会の懇親会で「優秀な研究者は何をやってもできてしまう。」といった趣旨の話を力説している先生がいた。日常的な時間利用を含めた「生活」の質そのものを我々は問われているのであろう。もちろん正直なところ「無駄に忙しい」を感じないこともない。だがそこに甘えては何も始まらない。筋力同様、更なる力を求め脳を活性化させるのは、時間の使い方次第である。そしてフィットネス同様に多様な脳力の使い方をすべきであろう。

学生曰く「授業が忙しくて読書の時間がありません。」
応えて曰く「よかったね!忙しいから本が読めるのだよ。」
忙しいから闊歩できる、といった境地をいつでも笑って実行していたい。

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文脈化・個人化した外国語活用を

2014-02-26
使用する場面に臨むということ。
自分自身の気持ちの発露とすること。
外国語習得段階での心掛け。

久し振りに早朝の語学番組を視るようにしている。2年ほど前に1年間継続して、なかなか成果があったことを反芻してのことだ。起床したらまずは脳内を外国語モードにしてみる。同時に毎日の習慣とすることで、継続されていくことが何よりも大きい。

その番組の中で次のようなことを言っていた。「このフレーズを使える場面で、まずは使用してみて下さい。」と。単語・イディオムは丸暗記するにあらず。知識として学んだら場面設定と使用すべき気持ちになって、活用するのが定着の第一歩である。

そうはいっても、なかなか英語や中国語を使用する機会が多いわけではない。せめて虚構の場面を設定したり、自己の置かれた状況を外国語で描写したりする”妄想的演習”が必要になる。文脈化・個人化したフレーズは、そのリズムとともに身体的にも精神的にも自己の内部に定着するものだ。

やはり語学は筋トレのようなもの。
演習がなければ衰えるばかり。
日常生活にそれをどう取り込むかである。
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語学番組でいいじゃないか

2013-11-07
習慣化ほど強い味方はない。
小さな蓄積が大きな財産となる。
何より継続は力なりは語学。
毎朝必ずという習慣を思い出した。
語学番組を見て真似することである。

2年前のことである。1年間を通して毎朝6時からの語学番組再放送を毎日観ていたことがある。月曜から木曜日が英語で、金曜日が中国語。まさにこの2カ国語を一定の線まで学んだことのある僕にとって、格好の再放送だ。そこに出て来る表現を楽しみ、また登場人物に関心をもって文化的な最新事情なども学んでいた。

ふとこの数日、それを思い出してTVチャンネルを合わせてみた。中国語番組には、当時も出ていたお気に入りの女性が今も登場していた。また子どもから大人まで楽しめる「リトル・チャロ」の簡易な会話表現の紹介は、すぐにでも役立ちそうだ。2年前の感覚を思い出して、改めて語学は継続だと痛感した。

最近、忙しさに追われ気味で、大学内の英会話クラスに足が遠のいている。時間が欲しくなるとどうしても、義務でないゆえに削ってしまうという悪循環である。英語のリスニング機会としては、せいぜいMLB中継を英語で聴くことだけであった。(これに関しては、朝食や身支度をしながら音声だけを聴いていても、試合運びは十分に理解できるようになっている。好きこそものの上手なれ、そのものだ。)そのMLB中継も、シーズンが終わってしまった。

小さな継続こそ語学の力に。
参考書に向かうだけが語学ではない。
むしろ生活の中に取り込むことが肝要。
しかも、遊び感覚を存分に活かすべきだ。
あらためて語学を楽しむ境地を見つけようと思う。
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英会話ランチ

2013-10-12
「これはなんですか?」
と留学生らしき男が僕に聞く。
サラダの中に入っている「ハム」の正体を知りたいらしい。
片言の日本語で一生懸命な眼差し。
僕は英語を使って彼に学食メニューの解説を始めた。

大学学食のビュッフェですぐ後ろに並んだ留学生。この10月より交換留学でインドネシアから来たという。日本語学習もまだ数ヶ月の経験でありながらも、果敢に発話しようとする姿勢には感心した。僕も、これはよい英会話の実践練習場面だと決め込み、食事も彼とともにすることにした。

少々の日本語が混じりながらも、多くは英語で会話することになった。ちょうどこの昼食の直前が、ネイティブ講師の教員用英会話クラスがあったので、脳が英語モードになっていたのも幸いした。僕は留学生にいくつかの質問をしながら、大学の生活事情やこの土地の特長について解説をし続けた。彼もまた「日本語では何と言いますか?」といった質問を繰り返し、相互に意欲的な時間が経過していた。

こうした生きた英会話の時間は実に好ましい。僕が高校生のとき、レスリングの日米交流大会があって、アメリカ人の高校生が多数来校したことがあった。教室で”アームレスリング”をすることになり、軽量級の一人と僕は対戦した。何とか勝つことができて、体操部だった僕は日本の”お家芸”の強さを示すことができた。などという自惚れを思い浮かべながら、その時の英会話経験が、実に楽しかったことを思い出す。型に囚われず、自由奔放に話す。朝礼のときに、そのレスリングチームの団長先生がスピーチする内容を、僕の高校の英語教師が、大変下手な日本語で訳していて、スピーチが”ぶち壊し”だ、と批判的視線で教師を見ていた、高校生である僕の感性を思い出す。

そんな経験も思い出しながら、
実に楽しいランチの時間が持てた。
彼とは名刺交換をし、日本語のことでわからないことがあれば、
聞きに来るよう勧めておいた。
英会話ランチ!毎日でも実行したいものである。
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日常に巻き込む強さ

2013-10-05
語学はともかく継続。
身体トレーニングもまた然り。
〈教室〉の「音読」も日常化することが肝要。
腹筋や腕立てが一定量難無くこなせるように。
柔軟で表現力豊かな身体でありたい。

大学で教員用ネイティブ講師による英会話クラスがある。前期から参加してはいたが、自分の担当講義と重なって身の丈に合わない高度なクラスにしか参加できなかった。後期になって講義枠が変わり、中級クラスへの参加が可能となった。前期では間断をもって参加していたが為に、何とか講師の発言を聴き取ることはできるが、自分が表現しようとすると適切な発言ができない状況を自覚した。受身となっていて能動的ではない語学脳に退化しているようだ。

出張などで暫くトレーニングができなかった後の重さ。腹筋や腕立てといった筋力系の鍛錬は勿論キツく、また身体各部も柔軟性を失っている。せめて出張先でも、部屋でもできるストレッチなどは継続すべきなのであろう。こうした感覚と、語学習得の感覚は大変似ているように思う。日常にその行為を巻き込み定着させることが必要だ。

大学院や学部の授業で、〈教室〉の「音読」のあり方について講義している。どうしたら学習者が「届く声」を出せるようになるかということ。これもまた日常化が肝要である。日頃から語学やトレーニングのように身体を使うかどうかということ。毎回の授業で必ず「音読」する構えを作り実行する。その積み重ねが「群読」作品などを創り上げる際に活かされて来る。何事も「ローマは1日にしてならず」なのだ。

東京在住時に通っていた英会話講師の授業を思い出す。
ともかく受講者に表現させ続けた。
彼はカナダに帰国し、昨年は自宅を訪問したが今はどうしているだろう?
ともかくそのフリートーク英会話の時間が楽しかった。
そう!語学・トレーニング・「音読」みんな楽しくやるべきなのである。
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語学を学ぶのは何のため

2013-06-18
先週から教員対象の英会話クラスが開講した。
1週間で一番授業の多い日の昼休み。
場合によると、夜には東京出張に赴く金曜日。
だが、「忙しい」を理由にしたくない。
英会話に臨んで来たこの5年間ぐらいで積み上げたものを崩したくはないゆえに。

語学と筋トレは似ていると、いつか小欄に書いたことがある。やめてしまえば感覚(筋力)は退行し、使い物にならなくなる。少しでもいい、継続して「話す聞く」機会が持てればレベルへの納得はともあれ、維持できるものである。過去には大学院入試を中国語で受験したほどであるから、英語よりも得意な感覚を持っていたが、今や英語の方が確実に得意である。(中国語「筋力」が退行してしまったのだ。少しこちらも筋トレを開始したいのだが。)

今現在、英語を学ぶ大きなモチベーションは野球観戦という趣味の為である。それゆえ日常から時間さえあれば現地放送で中継を観たり、少なくともハイライトは必ず観るようにしている。その実況を聴き取る耳はかなり高度になったと自負できるものがある。やはり好きな物の為に行うという動機付けこそ、語学充実を支える大きな要素であると思う。

大学学部の基礎課程で、2つの外国語(英語・中国語)を学んだ。その時は、双方を学ぶ意味はそれほど鮮明ではなかった。だがしかし、中国語を学んだことによって高校までは「漢文」という範疇でしか理解していなかった「中国文学」を、「外国文学」として考える視点が得られた。漢詩の原典リズムの美しさが体感できた。語学が一定の「文化」を背負っているゆえに、学ぶことで萌芽するものがある。

語学は「話す・聞く」「読む」「書く」のどの要素も含み込む為に、双方向の授業が作り易い。昨今、大学授業への「アクティブラーニング」導入が様々な場所で提唱されているが、語学を的確な方法で教授することにおいては、これまでも十分にその条件を満たしていたのではないのだろうか。語学そのものが何の役に立つという功利主義的発想ではなく、語学を学ぶ過程に様々な苦難と葛藤が存在し、それを体験することに意義があるのではないだろうか。僕の母校学部が、基礎課程で徹底的な語学教育を行って来た意味は、このあたりにあるのではないかと思う。

小欄で繰り返し語って来たことであるが、今一度。
「学び」とは”何の為”になるかはわからないものである。
ゴールを見据えて「学ぶ」のではない。
その「学び」の経験から歩む道に光が照らされるのだ。

大学に限らず、
「この科目は要不要」といった悪癖が教育現場に跋扈している。
どうも”直線的”にいきたい人が増えているのだろうか?
寄り道・回り道をしてこそ人生に意味を与える光景に出逢えるのに・・・。
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気楽に話そう英会話

2012-04-30
知人の娘さんが、フィンランド人の夫とともに来日した。毎年恒例でこの時季に、墓参に家族で出掛けるのだという。その機会に、これも毎年恒例で懇意にしている何人かの人々が、同行することになっていた。今回は、そのフィンランド人にとって少しでも妻以外の話し相手がいたほうがいいということから、僕も声を掛けていただいた。日常ではほとんど得られない生きた英会話の場である。

フィンランドの人は、自国の言語以外にまずはロシア語やイタリア語などの欧州言語を勉強するという。その次に位置するのがようやく英語なので、彼らにとって第四言語程度の位置づけになるという。その多彩な言語環境を器用に精密にこなしているあたりが、お国柄を表象しているようにも感じる。学習度合や言語的優先順位からすると、確実に日本人である僕の方が、第二言語としての英語レベルに達したいという願望も強く、英語により存分にコミュニケーションをとらなければならない。だが、こちらの受ける感覚からすると、ほぼ同等レベルの会話能力であると、自己評価してしまう。

それでも彼は、僕の英語を「上手い」と評価してくれていた。妻である娘さんと結婚直後で“ラブラブ”であることから、何となく僕が割って会話するのもやや憚られた。車内の座席配置からして、どうしても夫妻での会話が多くなる。一層、娘さん夫妻と3人のうちにおいて英語で会話するというのが望ましいのだろうが、ひとたび日本語で会話を始めた娘さんと英語モードになるのは、想像する以上に難しい。このあたりに、日本人が英語レベルを上げられない一つの原因があるのではないかと自己分析。多言語的な社会環境が稀少であるという精神的問題が、英語の実力以上の壁になっているように感じる。

一通りの行程を終えて東京に戻り、打ち上げの酒席をともにした。フィンランド人の彼が何よりこの酒宴で一番の人気者であるから、多くの酒を勧められる。すると、昼間以上に彼は口が滑らかになり、様々な話題を会話した。酒はコミュニケーションを促進する。ここでようやく一つの壁を突破したのではないかと自覚した。気楽に何も考えることなく、ただただ英語で会話する。その淵へと飛び込むまでに日本人が、DNA的に所有する障壁がどんなものかが把握できた。

何より英語を気楽に使用する言語環境が必要だ。
そんな意味では、過去に受講していたフリートーク中心であった講師の会話クラスが思い出される。
言語には「相手に伝えよう」という意志が絶対的に必要だ。

僕の場合は、アメリカで野球ファンとの会話が何より流暢である自覚があるのはその為だ。
気楽な英語話者の友人を持つことが、
何より上達への早道ではないかなどと考えて、
ほろ酔い加減で帰路についた。

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英語を声に出して呟く効用

2012-02-24
 語学学習しているとその進歩の度合いが明白なので、様々な悩みを抱くこともある。ただ、実際にその言語を使用する環境に埋没しなければ自覚できないことも多く、僕の場合はたいてい渡米すると、英語学習の足りなさを悔やむ。ということはいかに日常では断片的な英語学習をしているということである。身体的な筋力と同じで語学は使用しなければ、その瞬間から衰え始めるという自覚を新たにするのである。

 日本で生活している以上、なかなか全てにおいて英語を使用する環境を作り出すのは難しい。よほど英語使用を推奨する企業にでも勤務しない限り無理だろう。語学学習の悩みが絶えないゆえに、「聞くだけで・・・」といった教材が大変よく売れる現実もあるようだ。ただ「聞く」のは実に受動的な行為。僕の様々な経験からすると、情報を“入力”するよりも“出力”した方が、結果的に記憶に定着しやすい。

 高校の頃から、単語の記憶をする場合には必ず「音読」を実行していた。それがエスカレートして勉強部屋で「一人授業」をするのが常になった。次の日の英単語テストの範囲について、一人で声を出しながら架空の人々に対して教えるのである。覚えようとする英単語を認識して発音しようとする脳を刺激し、脳が声帯に伝令を出す。声帯は発音に必要な構えを作り、息とともに放出すると口がその発音に適した形となり声になって誰も聞いていない空間に放出される。放出された声の残響は、再び自分の耳から脳内に伝えられてその発音を確かめる。すると心の中にその「声」が記憶され、テストの段になって容易に蘇るという流れだ。

 このように文章化しただけで、ただ無言で記憶しようとするよりも格段に脳内を活発に使用していることがわかる。たとえ声が出せないような場合でも、声を出そうとする意識をしながら記憶すると、声帯においてはその構えが作られるので、効果があると聞いたことがある。
 ゆえに現在の英語学習でも、もっと「声」を使用して呟けばいいのだと改めて認識した。日常での些細な文脈を英語で呟くのだ。それだけで英語脳がかなり刺激されて、語学“筋力”を使用したことになるはずである。また歌を唄うのもいい。ここのところ英会話教室の講師が歌を導入し始めた。その中の美しく普遍的なフレーズについて個人化した体験を語る時間も設けられている。リズムやアーティストの豊かな声から英語がすんなり入力され、それを唄えば、自分の脳に定着させることができる。

You've never let me down before , mmm hmm♪


I don’t want clever conversations, ♬
I never want to work that hard, mmm hmm♪
I just want someone that I can talk to; I want U just the way U R♪


 Billy Joelの爽やかな声と美しいピアノの旋律と共に
 英語“筋力”を鍛える
 それは声を出して呟くことが不可欠であるという
 あたりまえの結論
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Intonation:Statement Pattern

2012-01-20
この日の英会話教室は、英文を発話する際のイントネーションについて、かなりの時間を費やした。日本人の発話する英語は、いたって平板であることが多い。声の抑揚・音調・語調をあまりつけず、平らな発話を続ける。一般的に言われるように、これは日本語の言語的特徴に由来するものということもできよう。国連などにおける政治家の演説であっても、同じ日本人から聴いていても平板な印象が拭えない。(ましてや日本語でしか演説しない政治家など問題外だが。)

2つの話し方類型

         ピッチ3
 ピッチ2
               ピッチ1
 (例文)I’m glad to meet you.



             ピッチ3
 ピッチ2
                ピッチ1

 (例文)It’s hard to explain.



上の表記ではわかりにくいかもしれないが、この2類型の練習を短い例文に従い、講師の後について発話し続けた。もちろん例文によっては一定のピッチが長かったり短かったりする。例文の上には傍線でピッチの変化が示されているので、語調の変化を可視化しながら発音することができる。何より講師の語調を真似る、いわばシャドーイングの効果が高いことを実感できた。語学は模倣からという所以であろう。


日本語においても、語調がない訳ではない。我々は無意識に日常生活の中で、語調を付けて発話している筈だ。だが、英語等の外国語を発話すると平板になるのはなぜだろうか?

この英語のシャドーイングをしていて気付いたのは、日本の学校教育における〈教室〉での「読み方」が、実に平板であるということである。例えば、中学校や高校時代の国語の時間に、指名された級友が教科書を音読した時のことを思い出していただきたい。実に平板に、表現を変えればこれ以上をないくらいに頽廃的に、最大限の無機質な語調で、教科書を読んでいたという印象がないだろうか。もちろん自分自身が指名されて、声に出して読まされた時のことを思い浮かべてもいい。ましてや、英語の時間であっても先生によっては、平板なリーディングを許容していた。というより先生自身が至って平板であったというのが小生の印象である。

こうした平板極まりない読み方を、〈教室〉特有の「教科書読み」と規定しよう。
どんなに名作小説の緊迫した場面であっても、〈教室〉では頽廃的な「教科書読み」が横行する。

人間は正直ゆえに、その読み方を無意識に身体化する。

知らず知らずのうちに、発話が「無表情化」する。
英語教育ではなく、まずは国語教育に大きな問題があるのだ。


英語を学びつつ、日本の国語教育の問題を発見する。
英会話を学びながら、週末の研究発表に更なる味付けが加わった。


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