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都市集中地方波及の理屈

2021-05-03
「新型コロナ」の全国感染状況地図
都市部の感染拡大が次第に地方へと波及する
その渦中でいかに地方が生きるかが問われる

大都市部へ緊急事態宣言が発出されているが、感染者数というのは直近2週間の状況ゆえに更なる感染拡大に見舞われているような思いを致す。また感染者が次第に地方へも波及しており、宮崎県でもクラスターなどのニュースが毎日のように聞かれるようになってしまった。北海道の感染者は過去最高となり、九州でも福岡県の感染者は厳しい数字が出ている。要は札幌と博多という地方都市繁華街を持つ街は、大都市部と同等に感染が拡大している。こうした構造は既に一年前から見てきたものだが、毎回毎回同じ轍を踏むことをくり返しており、一向に対策が為されていない印象を受ける。「大都市部」と「人の移動」概ね素人でもこの二つの要素が感染を拡大させていることはわかるのだが、「経済対策」への中途半端な思惑が、さらに経済を圧迫している構図ではないか。

もはや仔細な感染経路の特定などは報道すらされなくなったが、今でも昨年の初期と同じような対策でしか動かず、検査拡大などの措置は民間レベルでは見掛けるが、大規模な官主導の体制が整うことはない。ワクチン接種の地方自治体任せのチグハグさを尻目に、新型コロナウイルスは自らの生存のために変異という名の進化をくり返している。中には山梨や鳥取のように県単位での徹底した対策が功を奏しているところもあり、地方自治体のあり方そのものも炙り出している。建前の選挙活動よりもあらゆる政治の力は、今が一番見やすい状況にあるのかもしれない。宮崎県の場合は「観光」も大きな県の経済的政策であるゆえ、都市部からの観光客の流れには多様な思惑を持たざるを得ない。新年早々の感染拡大という経験があるゆえ、今回もその兆候があるとして県独自の対策に乗り出した。過去に東京に住んでいただけに考える様々なこと、あらためて生活に「都市的要素」は要らないことを本気で主張すべきと思う。

移住者の増加傾向とか
手がまったく付けられない東京大阪一極集中社会の破綻
あれだけ「地方創生」と言っていたじゃないか。


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寄席の粋な意地を讃える

2021-04-26
「社会生活に必要なもの」として
都からの要請文には「社会生活の維持に必要なものを除く」と
もはや噺のネタのような社会である

東京に四軒ある寄席、在住時には中でも上野「鈴本演芸場」には足繁く通っていた。宮崎移住後も東京へ行く機会ごとに、なるべく寄れるなら足を運んでいた。ある時、タクシーに飛び乗り「上野鈴本まで」と言ったら、運転手が「鈴本って何ですか?」と応じたことに甚だ幻滅したことがある。一時期から東京のタクシーが運転手不足で転職等での新人も多いとは聞いていたが、少なくとも都内を走るなら主な遊興施設ぐらいは覚えておいて欲しかった。それでも落語ブームの再来もあり、昨年からの新型コロナ禍でもYouTube配信を試みるなど頑張って経営しようという意地のあるところを応援していた。それがこの度の三度目の緊急事態宣言にあたり、冒頭に記したような主張で「無観客に応じない決断」をしたのだと云う。東京寄席組合・落語協会・落語芸術協会が協議しての結論らしい。

落語等の演芸・舞台の芝居・映画などは「遊興」、ゆえに「社会生活に必要がない」と果たして言えるのだろうか?これはどこか国語教育の上で「文学は必要か?」などと云う議論が展開してしまう世知辛さと同線上の社会における文化的後退であると思う。この日曜日にTVを観ていると「ヘイトクライム」の問題を論じていたが、政治による社会の分断とともに、文化的なものへの意識の後退が大きな要因になっているとの指摘をする論者がいた。落語では「与太郎噺」を始めとして、江戸時代に由来する人情が弱者を包容する社会の温かさが描かれている。御治世の社会に矛盾があれば、それを逆手にとって笑いに転じ乗り越えようとする江戸っ子の意地も見える。親友の落語家は、現状の社会を「禁酒番屋」だと演目に擬えていた。自らの愚かさに対する意識の低さこそが、文化的水準を左右する。「学校」でも「生活に必要なものを教えよ」と号令がかかるが、否、「人生に必要なもの」と言い換えてもらいたいものだ。

昨日の「酒」に続き「落語」なども
僕自身が愛好している「文化」のあるところ
健全な社会にはいつも「笑い」があるものだが・・・


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酒が悪いんか

2021-04-25
再び緊急事態宣言
酒類販売の制限も
「社会生活の維持に必要なもの」とは?・・・

教師が授業中に教室の生徒らがザワつくのを、「うるさい!」と叱ったとしよう。最初は一時的な効果で静まるにしても、それを連発したら次第に「あの先生はいつもうるさいって言ってるから」と静かになる効果はほとんどなくなる。僕が初任時に、教室で学んだ心得である。教師は生徒らの思いを受け止め対話し、上から叱るのではなくむしろ心を通わせることで初めて「授業」が成立してくるものだ。少なくとも生徒らが「聞きたくなる授業」をすべく分析や工夫の努力がなければ「プロ」とはいえない。再度の「緊急事態宣言」に、教室での「うるさい!」に類似した性質を感じた。何が問題で何が感染拡大の要因であるか?政治も専門家もメディアもこぞって「酒場の環境」や「路上飲み」などの様態を指摘し、「酒」という「悪者」を意図して見つけ出し吊るし上げる。だがしかし、果たして酒が本当に悪いんか???と思わずにはいられない。

若山牧水は酒浸りで肝硬変になって死んだ、などと人生の側面を取り上げて否定的な見方が為されることが多かった。もちろん飲み過ぎは健康によくないのは明らかだが、360首以上に及ぶ「酒の短歌」までを否定するものではあるまい。「白玉の歯にしみとほる秋の夜の酒はしづかに飲むべかりけれ」(牧水『路上』より)少なくともこの短歌に表現された酒は、崇高な陶酔、ヨガ的な瞑想の彼方にあるような「しづかに飲む」である。『万葉集』にも大伴旅人の「讃酒歌」があるが、酒ありてこそ「生きる」ことを見つめられる気さえする。問題は「酔い方」でもあり、その際の「言動の性質」が問題なのだと思う。僕の懇意にする東京のバーでは、明らかに「生きる楽しみ」のための「酒」がいただける。その「酒」は、人と人との出逢いをつなぎ、折れかかった心をつなぎ、明日へと希望をつなぐ。良質の陶酔の中でこそ、自らの愚かさも輝きも見えてくる。「生活」に必要でないと叱られても、「人生」に酒は必須だ。「酒を販売するな」などと自らの努力を怠った「教師」が権威のみで「教室」の中で怒鳴る。「崇高な陶酔」を知らない日本社会の文化的な後退、と言わざるを得ない。

酔うための酒、否、生きるための酒だ!
あらためて牧水や旅人の短歌を再評価したい
「崇高な陶酔」のお店は軸がブレずに動じない、宮崎からいつも心で応援している。


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一寸先はやはり闇

2021-04-21
予定通りに物事は
交通機関の定時運行という幻
果たして1ヶ月後、来週、今日の夕方、そしてこの直後

世界を見回しても、これほど公共交通機関が定時運行する国は類い稀である。僕自身の経験でも中国の船はいくら経っても出航しなかったし、イギリスの列車は概ねドーバー海峡を渡った船からの乗客が乗り切ったと見るや定刻前に走り出した。東京で電車に乗ると「当電車は、1分ほど遅れて運行しております。お忙しい中、ご迷惑をおかけします。」と詫びのアナウンスがある。日本の航空会社は、「定時運行率」が世界でトップクラスの努力を続けていると聞く。海外では航空機の遅延や欠航は、織り込み済みな雰囲気が一般的だ。この「予定通り」を常識と考える国民が、先の見えない「新型コロナ」に直面していると考えてみることも必要なのかもしれない。

朝、出勤しようと予定通りに行動するが、何かアクシデントがあれば大幅に行動は変容してしまう。そのアクシデントの可能性を事前に摘み取っておく、それが「定時運行」の基本的な努力であろう。かのイチローが試合のある日の昼食は必ずカレーを食べ(お腹のコンデションをいつも一定に保つため)、球場へは誰よりも早く足を運び、身体の手入れや準備を入念に行なっていたのも「定時運行」のように力を発揮する国民性が表れていたようにも思う。しかし、新型コロナ感染拡大から1年以上が経過したが、未だに「定時運行」は難しい。大阪を中心とする関西圏の大学は対面講義を予定していたところが多いが、府知事の「オンライン要請」が出された。僕自身とて例外ではないだろう、2週間のオンライン期間を経て対面に入るにあたり、「予定通り」行くのか一寸先はやはり闇と見ていた方がよいのかもしれない。ということで、受講者が160人を超えた講義は感染対策上も「対面&zoom中継」というハイブリッド型講義を模索することにした。対面で教室に来るのは1回につき50名少々、その際に個別的な対話ができるという利点も見据えつつ、いつでも全面オンラインに戻すことも可能だ。「定時運行」をしたい前期講義の予防線となればと思う。

この直後、アクシデントなく進むには
ワクチン接種は、今年開催される行事は
闇を冷静に見つめる眼が求められているのだろう。


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慣れれど馴れ合わずー新型コロナ1年の新年度

2021-04-09
「慣」=「心+貫き通す」
「馴」=「馬+川のように(人に)従う」
「なれる」にも大きな違いがある

新型コロナ感染拡大が、世界を覆い尽くして1年以上が経った。昨年の今頃は、新年度の講義が予定通りに始められず右往左往していたことが思い返される。約1ヶ月遅れで講義を始めなければならなかったのは、一向にこの「新型」の正体がわからなかったからである。その後もオンライン中心の講義を余儀なくされ、大学のあり方には多くの課題が提起されている。そして1年が経過した今、果たして「新型」の正体は「わかった」のだろうかとも思う。既に第4波の入り口とも云われているが、過去からグラフの波は再拡大をくり返す図式は変わらず、次に来る波が確実に大きいのが事実だ。現状の大阪の状況などを鑑みるに、1年前よりも深刻なのではないかとさえ思う。やがてその波は、日本列島全域を覆い尽くすだろう。

我々は、マスク・手洗い・消毒液にも慣れた。既にそれを「せねばならない」ことを疎ましくも思わない。(人によるのかもしれないが)しかし、冒頭に記したように「なれた」という時に「慣れた」と「馴れた」では大きな違いがあることを知るべきだろう。「マスク・手洗い・消毒液に慣れた。」と言えば、「初めから終わりまで一つのやり方、心の働きを通す」という趣旨である。しかし、人間は往往にして「馴れて」しまう。馬には申し訳ないが、字源の上で「馬が人間に(無批判に)従う」のが「馴れる」ということ。馬ならず人間も、この「新型」の状況に「馴れて」しまっていないだろうか?いつしか1年前に正体不明のウイルスに向き合った時より、安易に対応してはいないか。政治家の中には「恐れていては何もできない」などと抜かす輩もいる。それを尻目にウイルスは変異をくり返し、さらなる正体不明になろうと進化している。しかし、人間は無策に第〜波まで「馴れて」しまうのだろうか。

「わかっている不幸」に眼を瞑る
即ち「馴れ合い」と言う
原則予防、適切に恐れることに「慣れる」ことだ。


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誰もが同じ不安の中に

2021-03-28
新型コロナが顕在化して1年以上
誰しもが同じ不安の中に身を置いている
それぞれの意識、それぞれの不安

昨年ほどの危機感には曝されていないが、不安が拭い去られたわけではない。ちょうど1年前の今頃、新年度の大学授業の運び方などについて立場上、混沌とした議論を続けていたのが思い出される。「一寸先は闇」状況のめまぐるしい変化と、様々な情報により困惑し続けた日々だったことが思い出される。マスクにも消毒液にも慣れてしまい、友人らと楽しい会食もできないことの方が普通になってしまった。人間とは常に恒常性がある生き物ゆえだが、この「慣れ」でいいのかと思うことがある。感染者状況の波は、たぶん昨年のこの時期と同じように、再び次のわからない山が来ないわけではない。ここのところの地方都市での感染者増加は、明日は我が身と思わねばならないだろう。

世界の人々がたぶん等質に、この災禍の影響を受けている。だが国によって文化が違うように、そこに向かう意識はそれぞれ違うはずだ。日本国内でも様々な生業を持つ人々が、それぞれに苦しい日々を送っている。もちろんコロナ禍によって、収入などの条件が大きく上がった人々もいないわけではないだろう。どんな職種でどんな生き方をしているか?それがそのまま当人の「不安」になってしまうという意味では、あまりに不公平な苦難が地球上に現れたといえるかもしれない。それだけに生きる上で、何を信頼しているか?が試されている。過日に観たTV報道番組では、ドイツで飲食店を経営している夫婦が「ドイツ政府を信頼しているので不安はない」と答えていた。ある意味で世界共通の災禍ゆえに、言い訳はできない。たぶん100年後も終わらない「コロナ社会」、何を信頼して生きるのか?を慎重に考えたいものである。

どんな意識で何を信頼して生きるのか?
「仕方ない」と言わないために
言い訳はせず前向きな生き方を見つけたい。


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宮崎県感染者なし22日連続

2021-03-25
やればできる「感染者0」
首都圏では山梨県が独自の対策で
しかし未だ感染は身近だと感じることも

宮崎県の新規感染者「0」が22日間続いている。今月2日に2人が発表されて以後、感染のニュースを聞いていない。忘れられないのは1月7日の「105人」の感染発表、そのまま県独自の緊急事態宣言が1ヶ月間続いた結果、ようやくここまで漕ぎ着けた感である。全国の状況を見ると宮城県などが100人台の感染者が連日発表される様相、首都圏のみならず地方都市でも感染拡大の根が常にあることを考えさせられる。宮崎県もこれで気を緩めぬよう進まねばならないだろう。かと思えば首都圏でも山梨県は独自な対策を充実させ、「感染者0」を続けている。県や市単位の行政が徹底的に感染対策を指導し、「グリーンゾーン」なるお墨付きを飲食店に与え、むしろ飲食を勧めている状況だと報道で知った。

この冬はインフルエンザ流行のニュースを一度も目にしなかった。これだけ頻繁な手洗いとマスク着用が啓発されている状況なら、感染症は防げるものだということがわかる。また1年前のクルーズ船の反省から、「ゾーニング」こそが対策として重要だと知った。それ以来、自宅では宅配の箱(段ボールは特に不衛生)は玄関近くの廊下までしか持ち込まず、新聞が読める机と食事をする机を分けている。コート類も廊下など決められた場所まで、外歩きのトレーニングウェアと家で着るものは分けている。これは研究室も同様で、外来者は入口付近で対応、自分もマスク着用のゾーンとデスク周辺の僕しか使用できない「グリーンゾーン」とに分けているつもりである。変異ウイルスなどを含めた第4波が懸念されている中、果たして宮崎県はどこまでこの状況を維持できるだろうか。県民の一人として、さらなる徹底を貫きたい。

東京で友人が感染のニュースも
お見舞いメッセージの返信に悔しさが滲む
適性な人口密度において「心は密」で生きる。


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オンラインで叶わぬ雑談と懇親会と

2021-03-07
休日出勤の仕事の合間にも
オンラインならではで研究発表会に参加
だが参加の面々と雑談や懇親会ができない虚しさも

季節柄、諸々の仕事があり休日ながら出校をした。大学の役割を担うにあたり土日に業務が入ることで困るのが、研究学会への参加との重複である。コロナ以前であれば、昨日の土曜日に東京で行われた研究発表会に僕は、確実に参加することができなかった。しかし「オンライン開催」ということで、校務が落ち着けば参加できると考えて参加申込をしておいた。ありがたくも校務は発表会以前に概ね終えることができ、研究室のPCにて研究発表を聞くことができた。この研究学会は、僕自身も院生時代から育ててもらった思い入れの強い学会。例年は、この年度末と後期開始前の9月末に開催ということで、ともに校務が重複する期であり、最近は参加できていなかった。誠にオンラインはありがたい。

しかし、多くの研究仲間が参加しているものの、オンラインでは雑談もできない虚しさもある。対面で会場に行けば各々の近況報告など、様々な人々との情報交換もまた有意義な時間だ。研究発表のみならず、こうした機会であることが学会の意義とさえ思う。もちろんこの日の研究発表を聞いて、僕自身も新たな研究意欲が掻き立てられたのは確かだ。ただ、雑談やましてや懇親会があればなおさら、大きく心が揺さぶられ明日への意欲や意識に繋がるものである。学会を運営する事務局の先生にも、発表者にも、司会者にも、何らかの労いの言葉や議論をしたいことが山ほどある。あらためて「新型コロナ」が僕らから奪った、「雑談と懇親会」の効用を深く実感する機会ともなる。

黒い画面上の巣箱に書かれた各自の名前文字
質問者以外はなかなか拝顔の機会もなく
ありがたきオンライン社会で、僕らは何を得て何を失っているのだろう。


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東京2020オリンピックの行方

2021-03-03
東京五輪はどうなるのだろう?
全豪オープンテニスが開催できたのは
「今日、明日にも決断せねば」ということ

「今日、明日にでもまずは無観客と決めないとならない」報道番組に出演していた山口香さんが強く訴えていた。JOC委員である同氏は、その他大勢が口にしないことを歯に衣着せぬ口ぶりで公言して来ている。だが同氏の考え方や物言いが本来は大勢を占めねばならないはずだ。首相の国会答弁や都知事の会見を見聞きしてもあまりに他人事、「開催はする」とはいうのだが、果たして「東京(その他競技の開催地域)」の感染対策はどうなるのだろうか?正直いって国内の感染対策をやっと実行している現状で、世界から選手団や関係者を大量に受け入れらられるのだろうか?ましてや観客となると論外とも思えて来て、山口氏の賢明な意見に大いに同意したくなる。

全豪オープンテニスが観客も入れて実行できたのは、オーストラリアの国を挙げた徹底した感染対策の賜物であることを知るべきだろう。1人でも陽性者が出れば、錦織選手が一時隔離されたように徹底した姿勢を貫く。航空機内の感染対策としてチャーター便の使用・都市レベルでのゾーニング(感染危険地域を作らないために隔離を大規模に実施する)などこれまでの同国が実施できていた対策の延長で十分な対応になったようである。その全豪オープンテニスの十何倍もの選手団・関係者が見込まれる東京五輪、首都圏の医療体制は自国の患者対応でも逼迫していたのに、果たして外国からの選手団まで行き届くのか。否、もし五輪選手団を優先した医療が行われるとすれば、首都圏の市民が医療を受けられなくなる懸念があるのではないか?検査体制の拡充ももう1年間言われ続けているが、どれほど改善されたかは未知数である。

もう3月となった
島根県のような地方からの意見も
無理に実行することが果たして国の真価なのだろうか?


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特異な五輪と巣篭もりの効用

2021-02-28
例年の1月2月と比較して
巣篭もりゆえに長いとも感じられ
その間にじっくりとした仕事に取り組むこと

オリンピックの年であるのに、2月が28日までという異例な年を僕たちは過ごしている。開催年の歴史を紐解いても、1896年の第1回アテネ(ギリシア)大会に始まり、1916年ベルリン(ドイツ)大会と1944年ロンドン(イギリス)大会の中止、また1940年(昭和15年)東京(日本)大会の返上という事態を除き、4年ごとに規則正しく開催されてきたわけである。しかし「中止」「返上」ではっても、「4年ごと」のサイクルは決して変わることがなかったわけである。一旦は「中止」となった際には、やはり4年ごとのサイクル上に当て嵌めて開催していることがわかる。となると今回の「オリンピック1年延期開催(予定)」というのは大変に特異なことで、1940年(昭和15)の「返上」とともに「東京五輪」の因縁のようなものを感じさせる。

私たちは「五輪開催国」に住んでいるというよりは、「世界的パンデミック」の中でいかに個々が身を護るかという願望の元に生きている。年が明けて2ヶ月が経過しようとしているが、生活の焦点は「コロナ対応」である。引き続き「巣篭もり」を強いられているのだが、その中でいかに自らが信じるものに対して行動し事を先に動かせるかが大切だと思う。尊敬するミュージシャンの弁を聞くと「この期間に自分の何百曲という作品をすべて聴き直した」ことで、「新たな音楽の展開を見出せた」というような趣旨の発言には刺激される。配信ライブを積極的に実施し、この社会においても言い訳なしに自らの音楽を届けようとする人々を見て、僕らの仕事にも言い訳はできないという思いを強くする。この2ヶ月、論文執筆・評論校正・特集依頼原稿執筆・研究学会オンライン開催案作成・附属図書館オンライン読書会創発等々に加え、次なる著書への原稿執筆を進めている。年明けの県独自の緊急事態宣言下で在宅勤務を有効に活かした感がある。尊敬するミュージシャンに負けず劣らず、新たなものの受容と発信が求められている。

1日の質的な密度を上げる
今日何ができるかが明日を築く
2月28日を例年よりも深く意識している。


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