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「日常」を創り出すために

2023-04-21
人からの隔絶が求められた3年間
飛沫・マスク・距離・手洗い・換気
まだまだ流行も懸念される中で「日常」を創り出す

この3年間、「日常」の概念が大きく変化した。メディアなどで囁かれてきたのは、「日常を取り戻す」という言い方だった。もとより季節性インフルエンザは、100年以上も近現代人を苦しめ続けてきた。約1000年前の『源氏物語』には「わらはやみ」(マラリヤ性の熱病)に光源氏が感染して加持祈祷を施すために京都北山に籠るという筋書きは有名である。人類の歴史において「感染症」は必然なものであり、むしろどう付き合うか?が常に問われてきたと考えた方がよい。人は独りでは生きていけない、それゆえに他者と接触しお互いに助け合って生きる。多くの動物にも仲間と相互扶助の関係が見られるように、人は「言語」という高度なコミュニケーション手段を持ち高度な助け合いの中で生きる動物である。

「思考」一つをとってみても、独りで考えていては視点が狭く高次元なものは生まれない。他者と話すことで、自分の殻の中だけでは考えられないことに気づく。他者とその違いを認識することで、「自分」というものも鮮明に自覚できるようになる。そんな交流がこの3年間は「隔絶」されてきてしまった。なるべく人との飛沫接触機会を減らすことが、唯一の感染拡大への対策と云われた。ここで書き連ねてきたように、人間が人間らしく生きるための「接触」が忌避されてきた。だが、新たな100年はもう始まっている。恐れてばかりいずに、「取り戻す」という後退ではなく「創り出す」という気概が必要であるように思っている。オンラインでは決して聞くことのできない、学生たちの生の声を聞くことのできる「日常を創り出す」、その意志を持とう。

「教室」での生の反応
マスクなき顔のあらゆる表情から得られる理解
ゼミ生たちを育てるための日常を創り出す


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口を開き蛸壺から出て大海を見る

2023-03-30
3年間のマスクが与えた身体への影響
なるべく人と接しない生活習慣
いつまでも感染は侮れないが前へ進むために

3年前のあの異様な3月は、たぶん一生忘れられないだろう。豪華客船・ダイヤモンドプリンセス号内の集団感染が報じられている間は、多くの日本人は他人事のように思っていた。だが次第に国内にも感染の波が襲い、3月29日には志村けんさんが70歳にして感染による肺炎で急逝され昨日で3年であった。この感染症が人類の生存さえも脅かすものだという恐怖が、日本社会に充満し始める契機であった。さらに10年前の「豚インフルエンザ」が一時的に流行した際に、一部では予測できた呼吸器系肺炎を引き起こす感染症の拡大が世界を呑み込み始めたのだ。現在の朝の連続テレビ小説「舞いあがれ」では、主人公・舞ちゃんの夫・貴司くんがフランスを訪問し滞在している間にロックダウンという設定が描かれている。こうして3年前の現実がドラマになると、あらためて僕たちが遭遇して来た人類史的な感染症の世界次元での拡大という事実を回顧しつつ今後の生き方を思わないではいられない。

マスクが誰それ例外なく日常品となり、人との接触をなるべく避けることが常態化した3年間。あくまで今後も感染症への対策は考慮しつつ、失われた3年間の日常を僕らはさらに新しくせねばならないのであろう。まずはマスクを常にして喋ることで口の開閉を怠けさせ明瞭な発音のできない発声が、無意識に定着している我々の言葉を見つめ直すべきだろう。物理的にマスクが声を遮蔽することも手伝い、教室での学生の発言の多くがくぐもり気味である。教員養成を旨とする所属学部の学生を育てる上で、これは憂えるべき問題である。また国内外へ見聞を広めることも、ほとんどが避けられてきた3年間。野球観戦・音楽ライブ・諸々の講演など、人が集まる場を避けてきたことで、僕らの感性や感覚に悪影響は出てきていないのだろうか?まさに蛸壺の中の蛸のように、僕らは世界から隔絶され大海を知らない了見の狭さのうちに生きている気がしてならない。赤児は母からの免疫が途切れた後、むしろ雑菌に晒されることで自己の免疫を高めるそうだ。幼少の頃に麻疹・おたふく風邪・水疱瘡などは罹患した方が良いという考え方があると聞いた。新型コロナは特に高齢者は罹患してよい感染症ではないが、それは過去のインフルエンザも同様だった。この3年間でどのように行動すれば感染し、何をすれば感染を防げるかを僕らは学んだ。3年は費やした人類の学びを活かし、再び人と人とが繋がる日常へ前へ進むように生きたい。

野球が観たい、人と会いたい
朗読もカラオケも教室での笑い声も
「取り戻す」のではない「前に進める」のである。


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あたたかき陽射しのめぐみー換気に十分な気温ながら

2023-01-13
日中の気温は18度で4月並み
研究室の窓を開け新鮮な空気とともに
換気はしやすい環境ながら宮崎は・・・

気圧配置の関係であるか、宮崎県内の日中の最高気温が18度を打った。この週末にかけて20度超えも予想されており、4月並みの陽気であると云う。県内では既にJリーグキャンプが開始されているが、早々に野球も始めて欲しいような格好の天候である。12月はやや寒さを感じることもあったが、一冬を通じてこの程度の陽気であるのは誠にありがたい。寒さによって活動的でなくなってしまうこともなく、外を歩き十分な空気を吸い込んで希望の活力が湧いてくる。研究室の窓も日中は開けておき、停滞した空気を追い払う。「気」は循環してこそ新陳代謝が起こり、新しい運気に出逢えるというものだ。

それにしても、ほぼ3年目を迎えた新型コロナ感染拡大が収まらない。10万人あたりの感染者数は宮崎が全国ワースト、死者の数も日々において増加傾向で一向に侮れないウイルスである。ここへ来て新たな変異株の報告もあり、諸々の耐性を強めているとの報告もある。この日は講義が2コマあったが、日中は窓を開けての換気を十分に行うことができた。廊下側の出入口も開け放ち、海から山へ風が抜けるような環境で講義を進める。インフルエンザとの同時流行も起きているとのこと、換気に加えて欲をいえば加湿を行いたいところだ。長年、中高教員もして来たが、教室での感染においては明らかに湿度不足が災いしていると実感する。若い頃、よくスキー場に行くと風邪症状が緩和することがあったが、一定の湿度はウイルスの増長を抑えてくれる。宮崎がワーストなのは、このあたりにも原因があるのだろうか?

対策を取りつつ日常を取り戻す
春先取りの陽気は第8波を押さえ込まないものか
陽射しのめぐみだけを頼りに今日も前に進むしかない。


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自制するこころ

2022-12-04
急激に寒さも増して
風邪のような症状に見舞われる
原則は疑わしきは自制せり

先週来、妻にやや風邪のような症状が見えたが高熱が出るわけでもないので、事なきを得たと思っていた。するとやはり今度は僕に風邪のような症状が表れた。高熱が出たわけではないのでとは思いつつ、金曜日から予定していた笹公人さんの歌集読書会や、この土曜日の「老いて歌おう」表彰式や講演会については自制して参加を泣く泣く断念した。笹さんの新歌集『終楽章』は僕にとって今年一番とも思える歌集で、「老い父への接し方」という意味で体験的な共通項もあった。歌集を謹呈いただいてからというもの、その内容にも触発され自らの作歌を活性化させてくれる存在であった。ご本人にも長文の感想のお手紙をお送りし、直接にお会いできて話せるこの両日をかねてから待ち望んでいたのである。誠に悔やんでも悔やみ切れないほどの葛藤を抱え込みながら、今回は自制することに徹することにしたのだ。

読書会の同時刻に静養のため寝ていると、読書会会場に参加している夢を見た。会場にはいるのだが、どうしても喋ることができない。歌集について言いたいことを、いくつも用意しているにもかかわらずである。誠に不思議な夢であった。その後、読書会後に懇談している宮大短歌会の学生に「幽体離脱して(僕が)行っていなかった?(オカルト短歌を詠み続けてきた)笹さんなら見えたはずだけど」という冗談のラインを送った。するとすかさず「笹さん、見えてました、とのことです笑」と返信があった。参加を控えた僕が参加できる唯一SNS活用の上での方法であった。また「老いて歌おう」についても、昨年は僕自身が登壇し馴染みのある大会であるがやはり自制が妥当と判断した。会自体が高齢者の会であること、風邪であっても僕の母などに移すのは憚られることなどを第一に考えた。静養の甲斐あってだいぶ体調は回復した。誰かの決め台詞ではないが、「これでいいのだ」と思っている。

それにしてもW杯では選手も観客も対策などなく
これからの時期は風邪もインフルも胃腸炎なども
賢く怖れる、何が「賢く」なのかを見極めていきたい。


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仮面としてのマスクを考える

2022-09-22
市役所の支所へ行けば
馴染みの方々に2組も偶然に会えた
マスクで顔がよくわからないなどと言いつつ

必要があって市役所支所へ赴いた。申請書に書き込み、順番待ちのカード番号を発行し待合椅子についた。すると見たことのある方が、近くの椅子に腰掛けた。ただし、お互いにマスクをしているので、「たぶん」とは思いながら確信が持てない。僕の方からほぼ間違いないと思い、「こんにちは」と声をかけると、「私、知っていますけど」となかなか誰だかわからない様子。それを察知したので、「・・です」とこちからか名乗ると、「あ〜!」と僕だということをわかってくれたようだ。「マスク」といのは、感染対策の用途以外にある種の「仮面」になってしまっている。ほぼ眼と頭髪の情報しかない。街を歩けば「似たような」人だと思うことも、以前より多くなった気がする。有名人が所謂「変装」するのは、帽子とサングラスが定番だが、「マスク」が加われば最強だろう。僕たちは公共の場で、顔の全貌を曝さない社会に生きている。

勤務校では今年度4月から「全面対面」が貫かれている。ゆえに新入生の「仮面を剥いだ素顔」を僕は知らない。感染対策に効果があるとされ、ほぼ日本では着用が暗黙で義務付けられている。エリザベス女王の国葬に参列された天皇皇后両陛下であったが、往復の航空機では「白マスク」、英国到着時は「黒マスク」、国葬参列時は「ノーマスク」という変化があった。一部の報道によると「宮内庁の熟慮」だそうだが、まさに日本の国家国民を象徴しているかのような事例であった。周辺の状況に「和をもって」同調していく、という訳だろう。欧州では、ほとんど公共の場でマスクを着用している人は見かけない。特に「白マスク」は「病人か医療関係者」に見えるらしい。あの荘厳な女王の国葬の場で、仮にマスクをしていたら明らかに場違いな印象を世界に与えることになる。顔全体の表情や喋る際の口の開閉など、マスクが個々人の身体に影響を与えている面も否めない。「みんながしているから」という同調主義の際たる現象が、コロナ禍の「マスク」ではないか。翻ってこれほど「マスク」を着用している国が、しばらく感染者数世界一であった現実を僕たちは、どう評価していったらよいのだろうか。

この2年半「マスクをしないで過ごした」という親友も
ウォーキングなどの機会には僕も既にノーマスクだが
「国民総マスク」製造販売業者は潤っているのだろう。


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オンラインはコロナのためならず

2022-08-27
地方在住研究者の学会参加
夏季休暇中のゼミ生との対話
帰省した人も参加できる学生短歌会 等々・・・

「オンライン」「リモート」などという遠隔Web通信を表現する語彙が一般化したのは、明らかに新型コロナ感染拡大のお陰である。人と人との接触を避けて、Web通信で仕事や授業を行うことができる。たぶんそれまでもSkypeなどを始めとして、オンライン会議や対話に使用する場合もあった。だが「対面」でできるものは「対面」でと、オンラインが主流になるなど考えられていなかった。特に「大学講義」に関しては、「原則対面」の殻を破ることに頑なだった面もある。だがなぜか?感染拡大を受けて大学では特に”zoom”がオンラインの代名詞になった。(絆創膏を「バンドエイド」と呼ぶ次元程度)だが「オンライン」はそれ以前からなかった訳ではないことも、今まさに確認しておきたい。僕自身も2017・18年頃より「地域連携推進科目」において、9コマの「e-ラーニング」コンテンツを作成しており、今まで毎年のように稼働させている。6コマは「対面講義」というハイブリッド方式であるが、この経験は「オンライン講義」になっても全く困らなかった要因でもあった。

研究学会もだいぶ「対面再開」の動きがあるものの、未だ感染状況に左右されている。多くで「ハイブリッド」か「ハイフレックス」の方式を採用し、同時双方向によるオンライン視聴とか一定期間は動画配信が為される学会も少なくない。地方在住の僕などには出張費や移動労力の軽減になり、誠にありがたい方式である。同様に学会委員会などもオンライン開催が多くなり、これまた様々な面での負担軽減になっている。またこのような夏季休暇中にゼミ生が相談があるなどという場合、帰省先などからでもオンラインは誠にありがたい。メールのみのやり取りでは伝えられない趣旨を、画面越しに話すことで伝えることができる。昭和の感覚からすると自宅にドラえもんの「どこでも画面」(作品では「どこでもドア」だが)があるようなもので、僕らが子どもの頃に描いていた未来像を手にしているとも言える。もちろん短歌の歌会などの活動はオンラインと実に相性がよく、うちの学生短歌会はもちろん結社歌会などでも「オンライン」が行われている。しかし、皮肉なものでこのような「未来」を「コロナ禍」がなければ活用できていなかったと思うと、日本社会の意識の低さが情けなくも感じる。大学教学システムなどは、「原則対面」になった今も有効に活用して講義を行っている。「オンラインはコロナのためならず」、あらためて「元に戻る」という言い方に違和感を覚える要因だと確認しておきたい。

「捺印」も廃止で「電子決済」へ
お金のやり取りは「接触感染」が心配だからではなく「電子決済」が便利
その一方でWeb社会がもたらす偏りがあることなども僕らは注意深く対応せねばなるまい。


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何を大切にすればいいのだろう?ー島国らしき鎖国の中に

2022-08-12
海外諸国の様子はあまり知らされず
感染者数の累積と医療逼迫の報道なのだが
いま僕たちは何を大切にすればいいのだろう?

最近、めっきり「海外の新型コロナ事情」が報道されなくなった。ロシアのウクライナ侵攻など優先して報道すべきものがあるからなのだろうが、「ウクライナ情勢」にしてもトップでは報じられない。ここ暫くは「豪雨」や「猛暑」など日本の天候の話題がトップニュースばかりを飾っている。豪雨被害に遭われた方々にはもちろん大切なニュースであろうが、ある意味でこの島国が自然と向き合って存在することに偏った報道なのかもしれない。それにしても新型コロナ感染拡大の当初から、「島国」であるニュージーランド・台湾の施策は現実的に機能していて目を引くものがあった。奇しくも両国ともに、女性が政治的指導者の立場にある。この2国の現状の新型コロナの状況など、僕たちはまったく知らない。いやむしろ世界が「新型コロナ」を気にしないようになった、と言い換えることができるのだろう。昨日の共同通信の記事によると、WHOの集計(8月)1日〜7日の日本の新規感染者数は149万6968人で3週連続で世界最多。次いで多い米国75万人、韓国71万人の約2倍の突出した多さで、世界全体の週間感染者698万人の21%を占めるのだと云う。

ある知人が欧州に取材の仕事に行き帰国する際の感想を述べていたが、「鎖国のような検疫体制」なのだと云う。検査と陰性証明を入念に施されて帰国の途についた実感がこもっていた。欧州ではほとんどの人がマスクをすることもなく、平然と公道を歩いているのが普通であるとも云う。考えてみれば「一番マスクの着用率が高い国」がなぜ「最多感染者数」になるのかと、素朴すぎる疑問に直面せざるを得ない。この国に根付く「横並び同調主義」が、教育段階で十分に浸透しているがゆえの「マスク着用率の」の世界で類を見ない高さなのだろう。あらためて我々は意識しないうちに、呪縛のような「鎖国」の中で生きているのではないか?2年半前と何ら変わらない感染症対策、医療逼迫となる図式も改善された様子もない。このように無策の中に投げ出されたような僕らは、建前の「検疫体制」で水際を固めるフリと、どの専門家をどう信じてよいかわからぬ報道の混濁の中に身を置いている。少なくとも世界で「特異」な状況に置かれているこの島国、「行動制限のないお盆」などという言い方がTVで垂れ流される。「感染」の自己責任が際立つ社会の中で、世界を見据えて僕たちは何を大切にすべきなのだろうか?

今しかない時間を大切にするためにも
2年間マスクはして来なかったという友人もいる
あらゆる面で世界から遅れをとっていることの象徴的な数字なのかもしれない。


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清潔一掃を求めすぎた近現代ーカビ取りの理屈

2022-07-26
風呂場などの塩素系カビ取り剤を使用して
大変に綺麗になるが人間にも「まぜるな危険」あり
近現代約150年が成して来た清潔一掃がもしやいま地球を

最近よく聞かれるのが「ウイルスを必要以上に恐れない」という謳い文句である。約2年半の間、全世界が新型コロナに翻弄されて来たが、「適切な付き合い方」を意識せよということなのか。もとより細菌と共存して生きている人間が、細菌を排斥したら自らの存在意義を危うくしかねない。腸内細菌が免疫力に大きく作用していることも、やはり科学で明らかになって来たことだ。「ゼロコロナ政策」を採れば自ずと、強制的な隔離や排斥主義による感染者への選別が実行されることになる。実行されることは子ども間の「いじめ」にも類似しており、「感染」を悪と決めつけ対象を排除するという図式である。折しも新たにWHOが「新型コロナ」からこれほど短い間隔で「緊急事態宣言」を出した「サル痘」なる感染症が、国内でも一例目として確認された。世界的に「根絶」が宣言されている「天然痘」に似たウイルスなのだ、との情報が一般的である。まったくの素人考えを承知で記すが、もしや「根絶」されたゆえに亜種となって再び世界に流行するという理屈があるとしたら、「SARS」の亜種としての「新型コロナ」というのも理解できる。結局は「根絶」「撲滅」しようとする人間の考えが、ウイルスの立場では「猿知恵」に過ぎないのかもしれない。

先の日曜日に、自宅風呂場の床を清掃した。床材のメジにカビが発生するので、カビ取り剤を散布する。しばらくおいて水で洗い流すと実に綺麗にカビは一掃されるので、重宝している家庭用漂白剤の一つである。だが周知のように、使用には注意が必要だ。肌に付着しないように手袋、発生するガスを吸い込まぬようマスク、可能なら目など粘膜への飛散を防ぐためのゴーグル、などが推奨されている。また所謂「まぜるな危険」という表示は、酸性タイプの洗剤と混ぜると有毒ガスを発生するという警告である。ある意味で「化学」の基本的な知識をもって使用しないと、人体にも害を及ぼす可能性があることを知るべきだろう。過去には「有毒ガス」による事故などの事例の報道に接したこともある。確かに大掃除でやや大量に散布した際に、気分が悪くなった経験がある。便利な製品であるゆえに、あくまで適切な使用を遵守する必要がある。気になるのは、「根こそぎ」という発想が「天然痘」などと同一であるということ。あくまで「根絶」は一瞬の幻想に過ぎず、カビがまったく無くなることはない。むしろ、こうした化学的な近代化による「清潔一掃主義」が蔓延った果てに、地球はいつしか異常な高温となりウイルスは再生のために強化され現状のような世界的なパンデミックの要因になってはいないかと憂えるのである。

「持続可能な社会(SDGs)」と喧伝するからには
現状が「持続不可能」であるという警句を含むのではないか。
「サル痘」が僕たちの新たなる憂えにならぬよう理性ある対応が望まれる。


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何もしないという方法ーどうなるこの感染

2022-07-22
個人がいかに自らを護るか
「検査拡充・治療薬開発認可・医療体制整備」
欧米と何が違うのだろうか?などと思いつつ

かなり久しぶりに、感染拡大がトップニュースのトレンドに上がってきた。今年度になったあたりから「行動制限」などはもはや有効ではなく、「日常生活をとり戻す」ことが重要な課題という風潮で社会が回り出した。大学では「原則対面授業」が貫かれ、教職員の行動制限は次第に緩和する一方である。その流れを嘲笑うかのように感染者は次第に増えて、昨今ではかなり身近になってきた。全国の感染者数は18万人、宮崎県でも過去最多の2000人超、東京都は初の30000人を記録することになった。無症状や軽症の人が多いとは言いつつも、感染者数が増えれば重症者や死亡者も必然的に増加する。プロ野球選手の感染も相次いで報告され、状況に応じてはオールスターゲームの開催が危ぶまれる声も出始めた。東京の親友とのやりとりによると、クリニックなど医療体制はかなり厳しい状況で医師や従事者の方々の労力は限界を超えているように見えると云う。この2年半、こうした「医療体制整備」は常に指摘されてきたわけだが、未だにほとんど改善されているとは思えない。もちろん早期の開発が見込まれたような報道もあったが、「治療薬」などが実用化される目処もない。

かたや映像で、MLBオールスターゲームでの大谷翔平さんの活躍を目にする。選手間の交流は密であるし、ファンサービスもしかり、スタンドは超満員で飲食をしながらファンが大声で熱狂する姿が映し出されている。それでも昨シーズン、チームによってはクラスターで戦力を欠く戦いを強いられたチームも散見した。現在はほとんどそんな心配もなく、シーズンを順調に消化しているように見える。「バイデン大統領陽性」というニュース記事も読んだが、それほど大事には扱われていない。米国に限らず、欧州でも「行動制限の解除」という報道を多く耳にする。世界は3年目に入り「動き出した」のは確かである。どちらかというと昨年あたりに、我々は米国や欧州での感染拡大人数に驚かされていた。それに比して日本で第5波・第6波とはいっても感染者数は抑えられた印象を持っていた。欧米と何が違うのだろう?という感覚は常に表裏の関係で、僕たちを惑わさせている。最近はほとんど「政府の分科会」など、専門家の意見も聞かれる機会がほとんどなくなった。「日本版CDC(疾病予防管理センター)」の創設など、この2年間に何度口先だけで唱えられたのか?もはや意図的に「何もしない」という方法が採られる中で、僕ら個人が自らの身体を護るしかないのであろう。

夏休みに入り今後の社会活動は
免疫力のある身体をなどと常に心がける
もとより「何かしてくれる」という感覚が幻想であったのだろう。


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コロナ禍で失っている身体性ー声と表情

2022-06-14
唇を適切に動かした発音
表情で相手に伝えるというコミュニケーション
「声」を「悪者」にして来た代償から逃れ出でよ

知らぬ間に、居住している県の感染者数への関心も薄らいだ。2ヶ月前までは前日の感染者数を在住県と東京ぐらいは十分に覚えていた。TV報道もいつしか感染に関するものは後回しにされ、必然的に社会活動が活性化されるようにできているようだ。このように報道が「変化」した時こそ、市民として十分な意識を持って注意深く情勢を見極める必要があるだろう。大学でもかつてあれほどお世話になった「オンライン」「遠隔」という言い方が、どこかに飛んで行ってしまったかのようだ。感染者数の多寡に関わらず「原則対面」の方針が貫かれている。このような状況を「普通に戻った」と言って、喜んでばかりいられるだろうか?とふと考えることがある。少なくとも今年度の新入生の「マスクのない顔」の全貌を見たことがない。教室に居並ぶ学生たちの顔と名前を一致させ覚えるのは僕らの仕事の基礎基本であるが、その際の情報の紐付けに変化が生じているように感じる。顔の場合は「眼から上」つまり、眼球と頭髪の情報がほとんどである。僕の場合は特に、講義中に「このような表情と喋り方でこのような内容を発言した」ことで名前と紐付けする習慣があるせいか、意識して感染対策上で指定席にしている学生に出席を取るなどして一致させるよう努めている。「マスク」がある意味で「半仮面」になっており、他者への認識をいささか曇らせている。

またこの2年間に「悪者」にさせられた際たるものは「酒」と「声」だ。「酒」を飲めば騒いで「声」をあげて飛沫が飛ぶという図式である。「酒」の問題はまた別の機会に述べるとして、「教室の声」の退行が避け難く進行しているように実感する。グループ別に対話をしてその内容を発表する際にも、なかなか教室全体に届く「声」で話す学生は多くない。「教室」の換気は行っているが、「大きな声で」という趣旨のことが言いづらい環境下にある。自ずと学生の表情も乏しく、まさに「半仮面」で淡々と語る印象が否めない。これには学生たちに責任があるわけではない。少なくとも語る内容を受け止めるべくマスク上の眼を注視するよう努めるが、その眼が生き生きとしていない実感がある。やはり「伝えたいことを喋る」というのは、顔全体が運動体として機能してこそなのだとあらためて認識する。既に「学習活動」の多くの分野が「文字」偏重であった上に輪をかけて、「声」を中心とする「身体性」が失われて来ているのではないか。僕が一つの研究分野として来た「音読・朗読」が失われると、学習者の思考能力も低下することになる。誤解のないように述べておくが、何も一概に「早くマスクから解放されよ」と言っているわけではない。「眼と耳」とともに「表情と鼻と口」を含めた総合力で、人は人と繋がることを忘れるべきでないことを強調しておきたいのである。

「声」を使わないよう規制された「授業」から
「声も表情も」必要ないと勘違いされる怖さ
「巣ごもり」で体調が悪くなるように「声と表情」なき非情な人間関係を避けたいものである。


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