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附属図書館「国文・芸文祭2020みやざき」PRコーナー設置

2020-07-30
「国文・芸文祭2020みやざき」
PRコーナーを大学附属図書館に
若者が育つ場にこそ文化の光を

新型コロナ感染拡大により本年10月から開催予定であった「国文・芸文祭2020」が、来年の7月からと開催期間が延長されている。今年になって開催までのカウントダウンも始まっていたゆえ残念ではあるが、むしろPR期間が長くなったと前向きに捉え「プレ企画」を含めて楽しみたいと思っている。県民全体が「文化」に親しみを持つ意義深い機会として、テーマの一つに掲げられている「若山牧水(短歌)」に関連して協力をしているところだ。県内ではここのところ毎日のように感染確認が相次ぎ、見る見るうちに感染者総数は3桁となってしまった。PR企画もプレ行事も、現状では思うようにいかない困難さも垣間見える。

こんな情勢下だが、開館したばかりの附属図書館1階コニュニケーションコモンズの一角にPRコーナー設置を模索していた。僕のゼミ生である学生創発活動の学生が仲介役となり、この日は県庁ご担当の方々が設置作業にいらした。ポスターやパンフも期間変更の訂正が為され、比較的余裕のあるスペースにコーナーが設けられた。本県出身者ばかりとは限らない学生たちに、少しでも宮崎での「国文・芸文祭2020」を知ってもらいたいと思う。大学図書館は単なる学修の場であるのみならず、「文化」交流の場であるべきだ。学生は専門の学修をするだけでは、人生の萌芽期には物足りない。正解のない人生を見通すためにも、「文化」を体験的に受け入れるべきと思う。

「学び」の捉え方が閉塞的な昨今
「文化」の力は若者の感性を耕す
宮崎大学附属図書館1階「国文・芸文祭2020みやざき」コーナーをよろしく!


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若き人も牧水賞授賞式へ

2020-02-13
松村由利子さん・黒岩剛仁さん
お二人の授賞式
宮崎の春はここから始まる

「球春」と言ってスポーツキャンプが始まることもさることながら、宮崎の2月歳時記で重要なのは「若山牧水賞授賞式」である。県からのご案内もあって、ここ4年間は毎年必ず参列させていただいていた。今回は松村由利子さん・黒岩剛仁さんのお二人の受賞ということもあり、賑やかな授賞式になるであろうと楽しみにしていた。だが毎度のことながら授賞式日程とこの時季の大学暦との相談が、なかなか厳しい場合も少なくない。今回は特に卒論審査の関係と会議等も重なる1日となり、大学での校務すら隙間のない日程となってしまった。そこでやむを得ず校務を全て終えてから、「現代短歌南の会」主催のお祝いの会に駆けつけることができた。

授賞式でご披露される受賞者の弁や選考委員の講評、さらには記念講演で今年は佐佐木幸綱先生の「啄木の発明」があって、喉から手が出るほど聴きたいテーマであった。ちょうどここ2年間ぐらいは、『牧水研究』において啄木と牧水の関係と同時代性について評論を書いて来たので尚更であった。公式の祝賀会が終了する頃合に会場に到着、会場から出ていらした県知事に本日の授賞式からの出席が叶わなかったことを告げた。すると「授賞式にもっと多くの人が来られるといいと思うのですが」と仰ったので、「ぜひ学生など若い人を増やしたいものです」と応答した。昨年来、県の文化振興課の方々と「短歌県」づくりについて模索していることもあり、この宮崎の風物誌に若い年代層の興味を多く引きたいという思いを強くした。本日も宮崎日日新聞では、1面に授賞式の記事を掲載している。宮崎の春は「牧水賞」から、県の大きな誇りとしたいものである。

歌会始召人であった栗木京子さんとも
毎年のこと作歌への思いを深く刺激される
「どこか人懐かしくぬくもりを感じさせる」見習いたき歌の境地である。


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「歌垣ピクニック」来県!

2020-02-01
ニシタチ歩きもピクニック
素材を狩りマッチングなど楽しむ
メッセージ性と遊び感覚が短歌県への道

宮崎県庁文化振興課の方々とともに、宮崎を真の「短歌県」にするにはどうしたらよいかという課題を模索している。今年は秋に国文祭・芸文祭を控えており、多くの県民の方々にこの趣旨を喧伝する大きなチャンスの年である。この日は大阪から陸奥賢さんをお招きして「まちなか」でできる短歌企画の体験に伴い、様々に語り合う会が実施された。陸奥さんは既に大阪で「歌垣風呂」など短歌に関連したイベントを企画し話題になり、全国に「まちあるき」による活性化の仕掛け作りなどをしている観光にも関連したアイディマンである。諸々とその秘訣を聞くに、「まちづくり」とは「仲よくなること」であると云う。集う人・お店の人が相互に仲よくなり、何らかのコミニケーションツールを介して、楽しく話題を語り合える場にすること。まさに行って楽しい場にすることが大切なのは、飲み屋さんひとつ取っても同じ理屈である。

宮崎市中心部には昭和の香り漂う繁華街「ニシタチ」(西橘通)がある。この夜は参加者で「歌垣ピクニック」という企画を試行的に実施した。「まちなか」を概ね30分ぐらい歩き、短歌の素材を発見する。五七五七七の形式だけが決まりで、あとなんら制約はない。字余り字足らずも問題なし、という自由度の中で発見できたもの、想像したものをそのまま言葉にして再び会場に戻る。男女同数の会として歌を無記名で投函し、作者以外が無作為に取った歌を声に出して読む。まずは男性側が5首の歌を読み、女性側は眼を瞑り聞いている。同じことを女性側の歌でも実施し、相互に一番耳で聞いて直感的にいい歌だともったものに投票する。音声のみで実施することも、誠に身体的な感度を上げるようで刺激的な時間であった。開票し相互の歌を選び合っていたらカップル成立、短歌の言葉に表現された感性によるさながら「フィーリングカップル5対5」である。その後、ここで使用された短歌をどうするか?例えば「ニシタチリーフレット」にするか、「ニシタチ短歌マップ」にするとか、話題は尽きずその流れで懇親会まで充実した時間となった。

宮崎だから短歌で仕掛けよう
「遊ぶ」感覚が何よりも重要
繁華街に観光名所に「歌垣ピクニック」の可能性は無限大である。


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「待つ」ことは生きることー#まちなか文化堂

2019-12-22
「外はため息さえ凍りついて
 冬枯れの街路樹に風が泣く
 あの赤煉瓦の停車場で
 二度と帰らない誰かを待ってるwow」(桑田佳祐作詞「白い恋人たち」より)

国文祭・芸文祭2020プレ企画「まちなか文化堂#2」の担当第2回目が開催された。前週同様に蔦屋書店さんとのコラボ企画で、市内中心部にある店舗の売場内に設けられた特設会場にてセミナーを実施した。街はX’mas前で親子連れなども多く絵本のコーナーなどに訪れており、このセミナーを目当てにして来た人ではない方々が、覗き見てくれるような感覚が嬉しい。まさに「まちなか」に文化の香りを漂わせるのが大きな目的である。さて、今回のセミナーの中心的なキーワードは、「待つ」ということであった。X’masの明治以降の受容史を鑑みながら、僕たちはいつの時代も何を「待って」生きて来たのか。サンタクロースのプレゼントを待つ子どもたち、そして聖夜を恋人と過ごすために待つ男女、または会社帰りのお父さんを待つ家族。何か特別な日にあらずしても「待つ」という感情そのものが、生きることそのものに思えてくる。

「死ぬために命は生るる大洋の古代微笑のごときさざなみ」(春日井健『青葦』より)の短歌などは、「生命」の根源を「大洋」(海)に見出し古代の香りを漂わせながら考えさせられる歌である。『百人一首』(97)にある藤原定家の「来ぬ人をまつほの浦の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」を読んでも、恋い焦がれる対象を待つという心情は、X’masの有無を問わず人間の普遍的なものであると言える。単に『百人一首』のみでも、恋の歌で「待つ」心情を表出したものは多く見出すことができる。「人は独りで生まれ、独りで死んでいく」という無常な必然性を考えるに、まさに誰かと出逢いを待つために人は生まれのである。その生きる哲学とも言える普遍性の中で、人生は自ら行動し「待つ」対象と出逢うための冒険なのかもしれない。「君を待つ土曜日なりき待つという時間を食べて女は生きる」(俵万智『サラダ記念日』より)

「待ち時間長きもよけれ日の出待ち月の出を待ち永遠を待つ」(伊藤一彦『待ち時間』より)
待つことができない世の中がさらに進行しそうな世相の中で
せめて宮崎では穏やかに「待てる」生き方ができるようにありたい。


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まちなかの偶然

2019-12-21
「TVに出てましたね」の声
民放2局のみの可能性の高さ
まちなかに行けば知った人にも多く遇える

「先生、TVに出てましたね」と、今週は何人の方々からお声を掛けられただろうか。たぶん僕のインタビュー映像が流れたのは5秒程度と思うが、身近な方々がこんなにも多く観てくれていたのかと思う。日曜の夕刻5時30分、夕食にはまだ早く「ちびまる子ちゃん」と「サザエさん」前にニュースを特に欲する時間なのかもしれない。さらに宮崎では民放2局、前述した日曜夕方の行事的なアニメ2作品を観るためには、NHK6時のニュース前に民放の2択から観ておく必要もある。思うに、こうしたコンパクトな密度の中での出来事は、宮崎の生活そのものの快適さに通ずるものがあるのではないだろうか。

まちなかに行けば、たいていは知人に遇うことができる。学生に言わせると「巨大ショッピングモール」なら尚更なのだと云う。大都会では感じられない、コンパクトな生活環境が宮崎にはある。市内の自動車の渋滞も朝の一定の時間・場所のみで、東京の感覚から言うと「渋滞」には入らない程度の車の密度である。同じような理由で、地元紙の紙面に知人を発見することも多い。こうした様々な環境を考えるに、共同体的なコミュニティーを創りやすい環境であるのは確かである。さて、今週も「まちなか文化堂」と称して本屋さんで公開講義を実施する。先週は大学の学生たちも多く来てくれ、その一方で隣のカフェから覗くように観ている方々もいたのが嬉しい。この人口密度を利用して、「短歌」の魅力をより多くの方々に知ってもらいたいものである。

そして大学教員もまちなかへ
12月21日(土)15時〜16時
TUTAYA高千穂通り店にて「まちなか文化堂ー日本の恋歌とX’mas」開催


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#まちなか文化堂ー「日本の恋歌とX’mas」

2019-12-15
明治以降150年の謎
日本ではなぜクリスマスで大騒ぎをするのか?
「待つ恋」短歌とクリスマスソングと

「国文祭・芸文祭2020みやざき」のプレ企画として、「まちなか文化堂#2」を市内のTUTAYA書店(宮交シティ店)で開催し季節柄「日本の恋歌とX’mas」をテーマに60分間の講義を担当することになった。宮崎が短歌県日本一を目指すために、あれこれ県庁文化振興課の方々と相談していた中から浮上した企画である。どのようになったら「短歌県」なのか?しかも「日本一」になるには?という対話をしているうちに、短歌に興味のなかった多くのまちなかの人々に、短歌に目を向けてもらう仕掛けが必要ではないかということになった。本屋さんに飲食店、繁華街で酔った勢いで短歌を投稿できるなどというのも粋である。このような経緯から、口で言うのみならず、まずは自らが実験台になることが必要と、今回の企画を温めてきた。

街はX’mas10日前、2010年代も終わりを告げようとするこの時期に僕たちはどのような「X’mas観」で生活をしているのだろう。明治以降の西洋文化の急激な受容の中で、X’mas観も様々な変遷を辿ってきた。戦勝の社会的気分に乗せられたり、豊かな家庭生活の象徴のような日として、そしてまたバブル期を中心に「恋人と過ごす」というこの国なりに宗教観とはまったくかけ離れた過ごし方の「文化」を醸成してきた。社会との関係はさておき、恋の短歌には古典和歌からして「待つ恋」をテーマとするものは多い。「来ぬ人をまつ帆の裏の夕凪に焼くや藻塩の身も焦がれつつ」(『百人一首』97 藤原定家)は『万葉集』の歌を踏まえた題詠であるが、「来ぬ人を待つ」という響きが後世にまで伝わる鮮烈な響きを伴う。さて、現代短歌ではX’masはどのように詠まれているか?管見は十分な視野には及んでいないが、いくつか考えるべき要素が発見できた。

次週21日(土)15:00〜16:00 TUTAYA高千穂通り店にて
同内容で来週もあるのでネタ明かしはこのぐらいで
本屋さんの横にはカフェフがあり、壁もなく人が繋がる雰囲気が嬉しい。


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現代版『日向日記』ー航海実習日誌を素材に短歌

2019-12-12
日記に歌とえいば『土佐日記』
海洋高校の生徒たちの航海実習日誌
他の高校生では体験できない生の声を短歌に

廊下では大きな声で「ちわっ!」の挨拶、授業開始時の「気をつけ」の後も「しあすっ!」と威勢のよい声が教室にこだまする。思わず僕自身の初任の頃の教室の光景が再現されたかのようで、実に懐かしい感情が蘇った。この日は、県立海洋高等学校の国語の授業を参観した。それも県の派遣研修で半期ほど当該校の先生が大学にいらしており、僕の講義なども受講していることの縁によるものだ。この学校でしかできない実践、宮崎でやるべき実践を求めて授業づくりをされた結果、冒頭に記したように航海日誌を生かすという実利的な実践を考案された。「日誌」を単なる記録に終わらせない、そこにある「経験」を三十一文字に仕立てていくことで、学習者の高校生も僕ら参観者にも多くの発見があった。

授業そのものは「歌会」の構造を高校生らでも順応できるよう、ワークシートや活動方法が明示された。班活動の中に「選歌」や「優れた点を評する」という言語活動を盛り込み、全体で各班1首ずつの歌を全体共有し、最後に当該歌の作者がその創作動機や状況を語るというもの。まさに「主体的対話的な深い学び」を実現する授業として、有効に機能していたように思われる。高校生らの創作した歌は素朴で屈託なく、航海でしか触れることのできない海の光景や航海作業の専門用語なども入ることで「素材」の面で豊かな歌となっていた。中には寄港先のハワイ滞在時に見聞した「ホームレス」の行動を描写した1首もあり、社会的テーマとして考えさせられる歌もあった。まさに『土佐日記』ならぬ、日向の高校生らの歌を綴る航海記。生の航海経験を三十一文字が魔法の杖となって、ことばの力を存分に感得できる実践であった。

明日の漁業を支える若き心
生徒ら個々を尊重してこそ歌は生きる
実践の歌集冊子ができることを楽しみに待ちたい。


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「恋するあなたを応援ー日本の恋歌とX’masーまちなか文化堂」

2019-12-09
12月14日(土)TUTAYA宮交シティ店 18:00〜19:00
12月21日(土)TUTAYA高千穂通り店 15:00〜16:00
各店内特設会場にて開催します。お待ちしています。

標題としたミニ講演を、まちなかの本屋さんの店先で開催することになった。先ごろから来年開催の「国文祭・芸文祭2020宮崎」に関して、県の文化振興課の方々とあれこれと相談して来ていた。大学で担当している講義「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」の話をすると、それは面白いということになり、より多くの一般の方々に聞いてもらえればとまちなかの本屋さんでの開催という案にまとまり実行の段となった。先週来、宮崎日日新聞の一面下欄の広告にも掲載され、昨日は「県政けいじ板」にも情報が掲載された。これによって日常ではなかなか和歌短歌に親しみを持てなかった方々にも、歌謡曲も媒介することで身近に文化の香りを楽しんでもらえればと願いつつ準備を進めている。

昨日は会場の下見をしたが、カフェに近接しどこからが店舗内か外かわからないような開放スペース(宮交シティ会場ー最近新装開店した店舗)であり、講座を目的にいらした方々ではない人々に声が届くのが嬉しい。なんとなくカフェで珈琲を飲む、昨今はスマホを眼にしている人々が多いが、その意識を「文化」に向けられるよう和歌短歌と歌謡曲の力を空間に放つ。例えば、中年以上の年代から最近の若い人々まで、山下達郎の「クリスマスイブ」の曲に心を動かされる人々は多いであろう。CMにも使用されたロングセラーの曲だが、「きっとき君は来ない」に表現されたように、なぜ「恋人を待つ」ことのせつない心が描かれるのであろうか?X’massそのものが、本来の降誕祭としての宗教的な色彩でななく、日本では特徴的に過剰な盛り上がり方をする。バレンタインや最近ではハロウィンなどにおいても、似た傾向のあるこの国の人々の動向。それも明治以降の近現代日本が創ってきた様々な社会性が関係しているようなのだ。ただし「恋しい人を待つ」ことは、古典和歌から「恋歌」の定番になっている。そしてもちろん、桑田佳祐さんやユーミンの曲などの歌詞も考えながら、「日本のX’mas」を読み解いてみたいと思っている。

図書館・公民館や劇場ではなく
宮崎の本屋さんの店先は文化の水辺
「短歌県」へ向けての一歩として


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人生の歩みと研究と宮崎

2019-11-27
宮崎大学の研究として
7年近くをいかに歩んだのか
そして人生を貫く「聲」への思い

学内で貴重な研究発表をする機会を得て、これまでの研究や現在から将来の展望について約30分のプレゼンを行った。宮崎大学赴任のちょうど1年前に刊行した単著、その業績も評価されてか2013年に専任准教授として採用された。それ以前2年間の非常勤生活、さらに遡れば中高一貫校での専任教員として、現場に即した国語教育の実践を重ねてきた。だがやはり根本に据えてきたのは「和歌」研究であり、和漢比較文学という方法での漢籍受容の問題への興味関心が深かった。こう考えるとさらに僕の課題に通底するものは「歌とは?」であり「聲とは?」という根源的な文芸の営みを考えることである。音声表現論としての朗読研究は、幼少の頃の絵本や紙芝居の経験に端を発するが、やはりそこには「詩的抒情」が関係しているように思う。

宮崎では、若山牧水に出逢い直した。早稲田出身の歌人として、また牧水の妻・喜志子が在京時に身を寄せていた太田水穂の邸宅跡が、僕の生まれた実家のすぐそばであったことなど、牧水との縁は出生から連なるものがある。同様に早稲田のご縁でもある伊藤一彦先生にも出逢い、歌人としての実作や評論から大きな示唆と刺激を受けたことも、宮崎でこそあり得た人生の幸福であろう。牧水は、短歌の素材を多く耳から聴取している。「海の聲」を聴き、鳥の啼く音を聴き、「日の光きこゆ」とまで短歌に表現する。一言に「きく」と言うが、「聞く」は字源として「問う」に類し一方的に他に働きかける無意識な傲慢さが伴う。しかし「聴く」は、「受け入れる。許す。」「治める」「待つ」などの他を受け入れる寛大さと懐の深さがある。宮崎でこそ育むべきは、「聲を聴く」ことである。国語教育の「聲」と和歌短歌の表現、さらには恋歌における和歌短歌史の問題や歌謡曲との関係など、宮崎でこそ得られた研究を自らの物とする階梯をいま登っているのである。

「海の聲たえむとしてはまた起こる地に人は生れまた人を生む」(『海の聲』牧水)
「日向の国都井の岬の青潮に入りゆく端に独り海聴く」(『海の聲』牧水)
「学校にもの読める聲のなつかしさ身にしみとほる山里すぎて」(『山桜の歌』牧水)


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今ここでしかできない講義

2019-11-21
「日本一の短歌県」を目指して
この大学でこそ学べること
短歌を語り合い短歌を演じ合い

大学の学びは多様であり、自治的にその内容は保障されていなければなるまい。特に担当者の研究分野が生かされ、所在地域と関連する深い学びを提供する場でありたい。嘗ては「この大学でこそ学びたい」という志望が強く作用していたように思うが、最近は偏差値など入試尺度による選択ばかりが横行している傾向がさらに強まっているように思う。だがやはり大学の選択は、各自の「生き方」の問題に直結しているだけに、「ここでしか学べない」内容をいかに提供できるかにこだわりを持つことが重要であるだろう。僕自身の経験でもそうだが、大学入学時に将来のすべてを悟っているわけでは決してない。大学時代に経験する課外や恋愛までのすべてを含めた生活経験が、人生の自立や方向性を左右するように思う。そのうちなる講義ひとつのあり方にも、大きな責務があるはずだ。

1年生のオムニバス科目「国語」の第2回目(全15回分の担当3回)講義があった。宮崎が「日本一の短歌県」を目指していることを前面に押し出し、「国語」という教科の目標とする「思考力・想像力・表現力」について対話的体験的に実感できる講義内容を目指した。教材は、若山牧水の短歌2首と俵万智さんの短歌1首。限定された短歌3首のみであるが、それだけに密度の高い内容を提供できたように思う。一語の言葉にこだわり、その意味内容を深く考える。短歌の表現している場面を想像し、なぜその想像をしたのかを話し合う。さらには短歌が描く場面を「寸劇」で表現する。教材とした歌の選択といい、講義の方法といい、たぶんいずれも日本で此処でしか実施ていない講義であると自負できる。学生たちが此処で学ぶ意味、担当者としてその「?」に応える必要があるように思う。

「国語」を総合的に考えられる思考
「短歌県」ならではの講義内容
つまりそれは、僕がこの大学にいる意味でもある。


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