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人文知をみやざきに

2023-12-19
県内大学に文学部が無いこと
県内文学関係者で『みやざき文学の旅』を作った
科学が進むからこそ人文知が重要になると心得たい

宮崎県内の大学には「文学部」が無い。この20年ほどで新自由主義の傾向が強まった社会において、全国的な文学部衰退傾向を見るにさして問題ではないように見える。だが進学の条件として県内大学を選択し「人文知」を学びたい高校生にとっては進路上の大きな問題だ。さらに言えば、県内の文化的な基盤への有識者の存在や人材育成において、あまりにも心許ない。こうした背景であるからこそ、県全体で「短歌」や「神話」というテーマで文学的な土壌づくりが盛んであるのだろう。数年前に僕自身も編集に携わった『みやざき文学の旅』(上下巻・非売品)では、「みやざき」に関連した文学を古典から現代まで集成することができた。例えばこの書籍の編集委員がリレー方式で講義を展開すれば、「みやざき連合文学部」の「文学史講義」が成立する。新たな地方大学の姿が模索される中、人文知の結集のような連携の可能性が考えられる。

僕自身は大学に進学する際に「文学部」か「(国立)教員養成学部」かで迷った挙句、恩師の影響もあって「文学部志望一本」で受験をした。「教育」を「教育の土壌」で考えるのではなく、広く「人文知」の上で考えたいと思っていた。何より「文学」に表現された「人」を読むことに、深く興味を持っていたからである。「人文知」をジャパンナレッジで検索すると『現代用語の基礎知識」の「人工知能(AI)と哲学【2020】」の項目に出会った。そこには「人間を取り巻く問題を考えるときには、自然環境を抜きには議論できなくなってしまっている。言い換えると、哲学をはじめとした人文知は、いまやポスト・ヒューマニズムともいうべき新たな学問体系へと刷新を余儀なくされているいるのだ。」とあった。だからこそ「みやざき」そのものを「短歌」で問い直す、自然や第一次産業そして観光に根ざした県のあり方に、「短歌」という日本文学の真髄を関わらせて行く必要がある。県内で「中学校国語」の教員が不足していると聞く、ここに記した事情が他県に比べて影響を及ぼしているとすれば、「文学部的な学び」の場を僕自身がさらに提供せねばと考えている。

演劇・芸術などの諸分野も含めた実践の中にある文学部
若者の短歌ブームも背景に文芸を広く楽しめる県へ
「短歌県大学文学部」人文知を学び環境を整えたい。


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リズムが意味を表わし意味がリズムを定める

2023-12-13
「『この味がいいね』と君が言ったから七月六日はサラダ記念日」
「『嫁さんになれよ』だなんて缶チューハイ二本で言ってしまっていいの」
(『サラダ記念日』より)

例えば、前掲の短歌二首を芝居にした場合を考えてみよう。歌の主体(主人公)とその場面で「 」内の言葉を発した人物がいる。お手製の「サラダ」を食べている、または「缶チューハイ」を飲んでいる、という設定なので双方ともお店ではなく主体か発言者のどちらかの部屋が場面として想像できる。一首目が描く叙景としては「この味がいいね」と「君」という存在が主体に「言った」という演技が行われる。主体は手料理の味を褒められたあまりの嬉しさから、「今日は七月六日だね、そうだ今日からこの日を『サラダ記念日』にしよう」と「内言・モノローグ」を心の中でナレーションのように呟くか、はてまた発言者にこの発案を告げる。「叙景+抒情」を短歌の基本的な形とするならば、「言ったから」までと「七月六日」以降に構造的に分けられ、声に出して読む際もそこで「休音」をとって句切れを入れる。芝居的には「この味がいいね」の台詞の後にも軽い「休音」が入り、微妙な間が叙景の中にいる人物たちに命を吹き込むように作用している。いわゆる典型的な「三句切れ二部構成」の短歌ということだ。

二首目はやはり初句・二句目の句跨り「八音」により、相手の発話で歌が始まるのは同様な構造だ。だが具体的で限定的な「発話」内容であるため発言者を表現する「君」は歌の中にはなく、自ずと「恋人」を思わせる相手の像が浮かぶ。「 」内を受ける「だなんて」という表現が、唐突な相手の発話に主体がやや戸惑うような心を読み取ることができる。この戸惑いの抒情が、声に出して読む際も歌をこの箇所での二句切れに導く。再び芝居の場面ならどちらかの部屋の卓上にある「缶チューハイ」が焦点化され、それを発話者が「二本」を飲んで酔っている光景が演じられる。最後に「そんな大事なことを(この程度の酔いに任せて)言ってしまっていいの」という主体の内言か小さな呟きが語られてこの場面が完結する。つまり「だなんて」「しまっていいの」の部分が「抒情」ということになり、二部構成を組み込む構造の出入りが多くなるといえばよいだろうか。自ずと五七調で二句四句目の「休音」が芝居とする際の立体感や臨場感を生むための場面描写に貢献していることになる。以上、この二首を比較しただけでも、短歌を音読して生じるリズムは歌ごとに多様で、一様に「七五調三句切れ」で読んでしまう一般的な風潮では歌の奥行きまでは味わえないことがわかる。

昨日の「小学校教員」を対象とした研修
「音読で親しもう」(中学年)「短歌を創作しよう」(高学年)をどう指導するか?
俵万智さんの歌を読んで学んだことを、最後は参加者の実作歌会で試してみる楽しい時間。


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じゃかいよ「国語捨てちょる」

2023-11-22
「『点滴の針は抜いちょきましょうね』と優しく針を抜かれちょる午後」
(俵万智『アボガドの種』より)
方言と短歌県みやざき

大学が県と協働で実施する教員研修を、附属中学校を会場にして担当した。午前中は同僚の先生による『百人一首』を中心にした研修、昼休み前に僕は会場に到着し午後の出番に備えた。今回まず最初の30分でお伝えしたのは、次の4点となる。(1)宮崎は「短歌県」(2)文学教材=散文という教材観の偏り(3)「叙景+抒情」という短歌構造(4)短歌は「説明」でなく「描写」。特に(3)には力を注ぎ、「場面・風景」と「内面・モノローグ」がどう重なるかが歌の基本的な「よみかた(読・詠)」であることを実例を挙げて体感してもらった。『古今集仮名序』以来、「歌は抒情詩」なのだとすることは、知識としてわかっていてもなかなか「経験」として理解されていない。作者(主体)の「立ち位置」や「視線」の問題とも関連させ、「歌も文」としてどうよむか、について俵万智さんの歌なども例に実感してもらった。

俵さんの最新歌集『アボガドの種』にある冒頭に記した宮崎弁を含んだ歌が、受講者の中でも人気だった。奇しくもこの日の宮崎日日新聞には、「探・九州弁」の「4紙合同企画」が掲載され、宮崎弁への愛着やエピソードが紹介されていた。「じゃかいよ(同意の意)」や「〜ちょる(〜している)は「後世に残したい宮崎弁」10選にあった。俵さんの歌に対する受講者の評では、「針を抜く」という痛そうな行為が、「抜いちょきましょう」「抜かれちょる」ということで和らいだように受け取れるという趣旨のものが多かった。「てげてげ(ほどほど)」「いっちゃが(いいよ・大丈夫)」にも通じて、宮崎弁の優しさをあらためてこの歌は実感させた。最後に受講者に各1首の歌を詠んでもらい、まとめの歌会を開催。教師視点のユニークな歌が詠草を賑わせた。中には生徒の「国語捨てた」という発言に衝撃を受けた作もあり、中学校国語教員の人材不足が深刻化している県の現状を窺わせた。まずは教師自身が「歌をよむ」こと、短歌県みやざきの「国語教師」に求めたい、日本で此処だけの研修を今後も続けたい。

短歌は抒情、ゆえに国語は「心を考える科目」
県内20名以上の国語の先生方との貴重な時間
短歌をよんだらいっちゃが!


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忙しい中でも向上の努力ー牧水賞に永田紅さん

2023-11-02
「研究者として非常に忙しい中でも、
 作歌力を向上させる努力を怠っていない。」
(牧水賞選考委員・伊藤一彦さん講評より)

毎年この時季の楽しみは、若山牧水賞受賞者が選考委員会で決定されることだ。今年も一昨日に記者会見があり、昨日付宮崎日日新聞一面に「牧水賞に永田紅氏(京都)」と報じられた。世界的細胞生物学者であり歌人としても著名な永田和宏さんを父に、2010年に亡くなった歌人・河野裕子さんを母として、「歌人一家(兄・永田淳さんも歌人)」に育った紅さんである。彼女自身も現在は京都大学研究員を経て特任助教であり、細胞生物学の研究者である。日本では高等学校段階の早期から「文系理系」と学びの系統を分けてしまうからか「理系の人に文学は無縁」のような風潮があるが、殊に「作歌」という意味で永田和宏さん・紅さん父娘を考えるにその社会的認識がいかに浅はかだと思わされる。同時に昨今の研究者事情からすると、細分化され過ぎた研究分野の閉鎖性の問題や所属機関での煩雑な仕事量の多さに忙殺されがちな傾向が否めない。冒頭に記した伊藤一彦さんの講評が指摘するように、紅さんの「作歌力向上の努力」は見習うべき点が多いと僕自身も一研究者としてぜひ見習いたい。

さらに佐佐木幸綱さんの講評では「科学者の視点も込めて懐妊を詠んだ歌はこれまでの短歌にはなく、過去の受賞作の中でもユニークだ」と称賛したと、宮崎日日新聞の記事にあった。幸綱先生は日頃から「職業詠」の大切さを説かれることが多いが、それこそが「その人しか詠み得ない歌」だからであろう。短歌そのものが「今ここにあるその人の独自性」を特に近現代では求められるようになったことを考えると、科学者としてその進化する研究に携わる視点からの詠歌は誠に貴重であり今回の受賞の大きな理由として特筆すべきである。受賞歌集名となった「いま二センチ」の歌の視点こそが、宮日新聞記事の見出しにもなった「前例ない独自の感性」を表現する象徴的な一首なのである。今から来年2月の授賞式で紅さんにお逢いするのが大変に楽しみになった。そして研究者だからこその「作歌力を向上させる努力」を学びたい。

宮崎日日新聞掲載受賞作から
「親指と人差し指のあいだにて『いま二センチ』の空気を挟む」
「日の暮れは子供も不安になるものかタソガレーナちゃんと呼びて抱き上ぐ」


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敬愛するために競うー第13回牧水短歌甲子園

2023-08-21
なぜ?言葉のやり取りで泣けてくるのか
「競う」「対戦する」とはまず相手を敬愛することから
第13回目を迎え全国規模の大会となった証として

8月19日20日と2日間にわたって開催された第13回牧水短歌甲子園。その熱くも冷静で、新しくも日本文化の源流に乗った展開に固唾を飲み、「1年分」とも思える短歌の学びと心の汗に浸る時間を過ごすことができた。よって珍しく昨日は小欄をお休みし、日向市の地で短歌にだけ専念していたことをまずはお断りしておく。今年の大会への応募は「36校61チーム」過去最多を更新しており、第13回目を迎えてますます全校規模の大会に成長して来た。向こう3年間は感染拡大でオンラインを余儀なくされることもあったが、今年は対戦後の壇上での握手や出場校交流会など抑制されいた大切な時間も復活した。初日19日(土)予選を通過した12チームが4リーグに分かれての各2試合ずつの対戦、抽選によるリーグ構成となるがそれぞれの対戦に各校の個性が光り始める。リーグ戦は第1〜4試合が題詠「新」、第5〜8試合が「競」、第9〜12が本大会恒例の「恋」であった。「新」では「新型コトバウイルス」が目を引き「新学期」などには高校生独特の心のあり様が覗き見られた。「競」では高校生が「過当競争」「競売」と表現するほどの社会に曝されていることが実感できた。「恋」ではもちろん高校生なりに恋に燃え、若き幸福とは何かを考えていることが切実かつ肯定的に三十一文字に表現されていたと思う。

今回の大会では、個人的にも大きな再会があった。出場校の一つ、埼玉県星野高等学校の顧問教諭が大学院研究室の後輩という縁に恵まれた。修了後はなかなか会う機会がなかったが、この上ない場所で再び巡り会うことができた。大学院当時は相互に短歌創作には目が向いていなかったが、そえぞれに上代・中古の和歌研究に発し現在は歌を詠むことも重視している共通点もある。出場校が次第に全国規模になって来たことで、この様な縁を牧水先生が用意してくれたことも僕にとって貴重であった。20日は朝から準決勝・決勝、フィールドアナウンサーを務める久永草太さんは「1日目の方が勉強になる、だが2日目はドラマになる。」という名言を披露し、頂点を目指す舌戦がくり広げられた。前日の題詠「競」でみんなが考えたことだが、人はなぜ競うのだろう?同様になぜ新しさを求め?恋に身を焦がすのだろう?準決勝の題詠は「言葉」、これはなかなか難しいと目されていたが、特に三十一文字に向き合っている高校生らの「言葉」に対する具体的で鮮烈な表現には手に汗を握る展開であった。この大会中、対戦の歌を読むだけで、また舌戦を目にするだけで涙腺が緩む機会が何度もあった。それもすべて「言葉」により具体的なイメージを僕ら観客が持てたからだ。あらためて「『説明』でなく『描写』だ」を強調する俵万智さんの講評が胸に響く。決勝は自由題、そこにはまさに等身大の高校生らの姿がイメージされた。されどなぜ短歌を競うのか?それは古代の歌垣や宴席歌、そして平安朝以降の歌合に遡る。それは決して「優劣」のみならず、相互の歌に真摯に入り込むための「対話」に他ならない。本大会にこそ「甲子園の本質」、つまり「相手を倒す」のではなく「敬意をもって相手の立場に思いを寄せる」という「平和への基本」が「言葉」をもって成せるということがわかるのである。

この大会から巣立った「みなと(OBOG)」の成長もよろしく
次回大会から「朗詠に長けた人への賞」の設置も発表された
「若者と短歌」先週金曜日の宮崎日日新聞にインタビュー記事が先週掲載されていた。


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幾春かけて老いゆかんー公開記念若手歌人トークイベント

2023-08-07
「身に水流の音ひびくなり」
自立するわが身への凝視と日本文化の象徴たる「さくら花」
限りなく優しく限りなく厳しく

歌人・馬場あき子さんは、昭和3年1月28日生まれ。若山牧水が昭和3年9月17日没なので、約8ヶ月の時間をこの世で共有している。短歌1300年の歴史に「伝承者」のリレーがあるとすれば、馬場先生は牧水から「バトンを受け継いだ」存在なのかもしれない。あくなき歌への追究、妙なる響きを詠う、生への慈しみと厳しさと。「リレー」とは同系統の走りを受け継ぐことではなく、自分なりのスタイルで「三十一文字の形式」に向き合うことだろう。この度、標記の映画を観てつくづく歌人の生き方の豊かさをあらためて思い知った。また馬場先生は、能を学び舞い続けてきたことが短歌表現の奥行きとなっていることも確かめられた。現在御歳95歳、93歳から94歳にかけて撮影されたドキュメンタリー映画には、一瞬も見逃せない精緻な馬場先生の眼差しがあった。

全国の様々な映画館で上映されている映画であるが、「若手歌人トークショー」を行なったのは宮崎キネマ館ぐらいだろう。宮崎大学短歌会の学生と県内の高校生たちが、馬場先生の好きな歌を選び、また自選3首の歌を披露しトークをくり広げた。最後にはサプライズ企画で、馬場先生ご自身から若手歌人へのビデオメッセージまでが披露された。馬場先生と映画の視聴者が短歌を通じて「対話的なリレー」を行なったのも全国広しといえど、宮崎ぐらいであろう。馬場先生はかつて「若山牧水賞選考委員」もされており、年に2度は宮崎に足を運ばれていた。そのような機会に僕自身もお話をさせていただく幸運な機会を持てた。特に2018年11月の「若山牧水全国顕彰大会(群馬県みなかみ町開催)」の宴席では、大変にご丁寧に研究の方向性を示唆するお話を伺ったのが思い出される。能のみならず古典への深い造詣を活かした詠歌、またその鋭い視点に学ぶものは計り知れない。今でも大変にお元気で和服で背筋もピンと立て凛として歩む、その歩調のリズムはそのまま馬場先生の韻律の良い歌を生み出す原動力なのだろう。まさに牧水の短歌に身体的な歩むリズムが乗り移るのと同質なものが感じられた。

そしてまたユーモアと可愛らしさを失わない
あらためて馬場先生の短歌に学びたい
会場は満席、映画を柱にした文化的対話機会として貴重な時間でもあった。


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短歌と人とまちの話ー短歌みやざきシンポジウム

2023-03-18
「黒瀬珂瀾が詠んだ延岡を辿る
宮崎ぐるっと歌集化プロジェクト」
久永草太さんと三者による「まちと短歌」シンポジウム

令和4年度短歌みやざき事業の一環として、アーツカウンシル宮崎主催のシンポジウムにパネリストとして参加した。本年度の本事業の目玉は、前々回の牧水賞受賞者である黒瀬珂瀾さんが4日間にわたり延岡のまちを巡り歩き、詠んだ歌15首をQRコードで「まち」に埋め込んだ「歌集化プロジェクト第2弾」である。この日はまず黒瀬さんから「宮崎と短歌」と題して、延岡を中心に50分ほどの講演をいただいた。新型コロナの感染拡大で「文化が切り捨てられ国が暗くなる中で灯りのような文化」が必要と、「文化の記念碑」のような神楽との出逢いから話は起こされた。昨今の「短歌ブーム」と言われるなかで、「今の一瞬で人がつながる」ような歌がもてはやされるが、「長い人の営み」「すぐにはよくわからないけど心の底に沈着する歌」の存在にあらためて光を当てる必要があることを語った。「此処で一緒に呑んでいる仲間を横軸とするなら、過去の出来事は縦軸」であると云う。また「隣にいる延岡市民の姿は、遠い未来の人と一緒にいる」という歴史が伴うのだとも。「大きな土地の歴史と小さな人間の一瞬の時間」の中に短歌があるという点に、僕自身も大きな興味を抱く学びであった。

黒瀬さんとのシンポジウムでは、「今回の作歌が文語と口語のハイブリッド」である姿勢そのものが、前述の思考を表現するのに対応していることを述べた。どうしてもご時世として「短歌ブーム」が話題になるが、「エンタメ的な一瞬のあるある感情のような『わかる歌』」とともに、「純文学的で奥深く精緻な読みを求める歌」があると言い換えてみた。すると黒瀬さんの云う「土地鎮め」とか「地霊」などの問題とも関連し、相互の「言葉のシャッフル」が必要な時代ではないかという方向性が見出された。「まちと短歌」を考えるに、古典和歌にある「歌枕」との関連も考える必要がある。もとより「地名」に限らず、「紅葉に龍田川」など詠歌の素材になることで、次第に「土地と人の情」が重なり融け合うことで「歌枕」という美的感情の類型的な表出が蓄積されてきたと言えるだろう。「土地」には、長い時間に生成されたものたちが眠っている。それを「いま一瞬で自分と繋ぎ、受け継いでいくのが短歌の言葉」なのだという黒瀬さんの思いに呼応した。SNSとの相性から「ブーム」と呼ばれるが、実は1300年の歴史を生きてきた「歌」としてのスペックの一部が極端に閉塞した社会に風穴を開けようとしているのではないか。「ブーム」を否定することなく、上手く流れを掴みつつ「歌」と「土地」との繋がりの深さを考えさせられる機会であった。

第1弾「ニシタチ歌集化プロジェクト」(久永草太さん主催)
第2弾「黒瀬珂瀾が詠んだを辿る」(アーツカウンシルみやざき企画)
県内の土地に眠るものを短歌で呼び起せ!!!


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第34回歌壇賞授賞式参列記

2023-02-12
「彼岸へ」久永草太
大雪警報の出ている東京・アルカディア市ヶ谷にて
選考委員の方々・心の花東京歌会のみなさんとも

2月10日(金)短歌会の最も有力な新人賞といえる「歌壇賞」授賞式に出席するため、大雪が心配される東京へ向けて朝の便に乗り込んだ。予期せず時間に余裕をもたせて朝早々の便を予約したのだが、せめて降雪が激しくなる前に羽田空港に着陸してくれと、祈りながら座席のシートベルトを締めた。翌日が祝日のせいか、機内は満席でどうやら左右にご夫婦という真ん中の席は多少落ち着かない1時間半となった。だがあらためて今回の受賞作「彼岸へ」を読むに、次第に今この時間の状況などどうでもよくなった。一首一首の骨格のある表現の豊かさとともに、僕にしか読めない具体的な情景もある各歌の奥行きを味わいつつ選考委員座談会などを読み返していた。すると瞬く間に機体は着陸態勢に、窓からはまだそれほどの降雪は認められなかった。機内アナウンスは「みぞれ」を告げ、駐機場ではバス移動。まずは宿泊先に荷物を置き、昼食を済ませ午後はやるべきことを着々とこなした。どうやら「大雪警報」は午後2時前後に解除になったようで、雨は降り続きながら気温4度の東京の街を、市ヶ谷へ向けての地下鉄に乗った。会場のアルカディア市ヶ谷は、別称・私学会館。長く東京の私立中高に在学・勤務をしていた僕にとっては、お馴染みの場所でもあった。

16時45分の開場に向けて建物内を進むと、中学校の恩師の結婚式を思い出した。野球部監督の先生の披露宴に、予告なしに花束を持って入り込んだ思い出だ。会場と窓からの外堀の景色の対比は、確実にあの時の「風景」であった。会場には既に「心の花東京歌会」の方々が、今回の牧水賞受賞者の奥田亡羊さんをはじめ黒岩剛仁さん・田中拓也さん・佐佐木頼綱さんらに会えた。また選考委員の東直子さんは、国文祭・芸文祭の折に大学図書館で開催した「みやざき大歌会」以来であり、牧水研究会で馴染みの宮崎出身である吉川宏志さんにも久しぶりにお会いできた。授賞式は「俳壇賞」と合同であり、まずは渡部有紀子さんへ賞が授与され、その後、いよいよ久永さんが受賞の壇上に登った。僕にとっては宮大短歌会顧問として、在籍中の受賞というのがこの上なく嬉しい。それは大学のみならず、宮崎が生み出した新人という意味で「短歌県みやざき」の喜びでもある。宮崎から列席したのは久永さんの恩師3名、伊藤一彦先生はもちろん、彼が短歌と出会った際の高校の恩師、そして大学6年間短歌会に在籍した顧問の僕。僕などは「恩師」というのはおこがましく、久永さんからはむしろ多くの刺激と学びを得た「短歌仲間」というような思いでいる。選考委員講評は、三枝昂之さん。委員4名の中では、当初は久永さんの作品を推していなかったことを吐露しつつ、自らがどんな魅力を読み取り変容したかを克明に語っていただき聞き応えがあった。授賞式後は心の花東京歌会の方々と一席、市ヶ谷という土地は宮崎県学生寮もあり、牧水も居住したことのある街。短歌を取り囲んで集える結社の方々との交流は、何にも代え難い時間だ。楽しい宴はあっという間、だが受賞者と選考委員との宴の方は未だ続いているようで、その後は伊藤一彦先生とその場に挨拶へ向かう。その結果、選考委員の方々や本阿弥書店社長さんらとさらなる三次会へ。三枝さんや俳壇選考委員の方ともお話しできて、夢のような時間を過ごさせていただいた。

タクシーで神保町経由で宿のホテルまで
東京に24時間ともおらず翌早朝から甚だ混雑する羽田空港へ向かい、宮崎への搭乗便へ
あまりの奇遇、「群読フェスティバル」に招聘した真山知幸さんと座席が隣であった。


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宮崎県知事選挙と「短歌県日本一」へ不断の決意

2022-12-26
宮崎県知事選挙クリスマス投開票
諸々の用件や牧水研究会総会へ出向きつつ
これからの宮崎へ向けて投票率56.69%

宮崎県知事選挙のクリスマス投開票、向こう4年間の県政の方向性を決する大切な1票を投じる日である。全国的なニュースとして、ワイドショーなどでも取り上げられているこの選挙。前職である東国原英夫氏が、復帰を目指し12年の時を経ての立候補が話題を呼んだ。現職・河野俊嗣氏は東国原氏が知事時代の副知事、ともに宮崎を全国に売り込むために手を携えていた二人が対決する構図となった。さらにはスーパークレイジー君という若手の立候補、規定の路線に固執して何も変わらない宮崎に新たな風を吹き込む可能性を秘めた選挙となった。3候補の選挙戦によって期日前投票から投票率の高さが報じられていたが、最終的に56.69%となった。前回2018年の選挙が33.9%という目を覆いたくなるような数字であったゆえ、今回の数字から可能性を秘めた候補が立つ意義が感じられた。最終得票で「河野氏258646票」「東国原氏235602票」「スーパークレイジー君7679票」と河野氏と東国原氏の差は、「23044票」と票を分け合う構図となった。前回選挙の河野氏の得票が「279566票」であるから、未来の県政を考えた県民の方々が多かったことがわかる。

結果、河野氏による県政の4期目が始まることになったが、あらためて今回の県民の意志を尊重した県政をお願いしたいとも思う。安定した宮崎を求めていると同時に、新たな宮崎への期待を持った県民が多くいるわけである。かつては手を携えた同朋との闘いに「精神的な苦汁の思い」があったと河野氏は当選インタビューで漏らしたが、ぜひ「かつて」の時代を思い返し真に豊かな宮崎を目指して欲しい。僕としては何より「短歌県日本一」を目指そうとする文化政策、そして少子高齢化が進む教育・福祉政策に今まで以上に力を注いでもらいたい。考えてみればこの二つの課題は融合して進むことでより効果的な社会が生まれるはずだ。老いも若きも山間部の小規模校の子どもらも、自らの心を短歌で表現することで「三十一文字の宮崎の希望」が形になる。「生きづらさを超えていく短歌」をさらに全県的に、多様な年代に拡げていくことが望まれる。それでこそ「経済最優先」ではない、個々人が些細な日常で笑い合える社会を築き上げることができるだろう。そんな意味では東国原氏やスーパークレイジー君への期待を込めた票を、無駄にしてはなるまい。

個々人の思いが「ことばで通じ合える」こと
投票率があと10%増え7割に迫るとどうなっていたのだろう?
みんなで宮崎の未来を考えるための「短歌」をみんなが表現できる県を目指したい。


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朝ドラ「生きるための短歌」を宮崎でこそ

2022-12-22
「屋上を巡り続ける伝書鳩飛べるよ高く浮き雲よりも」
主人公に幼馴染が贈った短歌の秘密は・・・
そして歌を紙飛行機に託して飛ばす粋な計らい

朝の連続テレビ小説は、ささやかな出勤前の楽しみである。元来は「ラジオドラマ」が発祥という15分間に「生きるドラマ」が仕込まれており、ついつい涙腺を刺激する場面に出逢うことも少なくない。今作の「舞い上がれ」では、主人公がパイロットを目指す過程で、航空学校宮崎校で学ぶ場面が1週間で構成された週もあり親しみが増した面もある。ジェンダー平等観念の低い日本社会にあって、女性パイロット(この言い方自体にジェンダー観念がないのだが)を目指すヒロインの苦労の階梯を描く物語は社会の風穴を開けるという意義もある。現に宮崎に本社があるLCC・ソラシドエアでは初めて女性機長が就任したとのニュースも今年に聞いた。サッカーは先日のW杯で「9位」という位置付け、そして世界ランキング20位まで上昇したと云う。しかし「ジェンダー男女平等」や「報道の自由度」に関しては、かなりの後進国であることを我々は自覚すべきだろう。

さて朝ドラで何より注目しているのは、主人公「舞ちゃん」の幼馴染「たかしくん」が短歌で心を伝える場面である。就職したのちに会社を飛び出した際も五島列島の灯台で三日三晩を過ごし、短歌で生きることに光を見出す場面があった。そして昨日は、主人公がリーマンショックで就職が1年延期になった状況を冒頭に記した短歌を贈って励ました場面があった。上の句「屋上を巡り続ける伝書鳩」は「舞ちゃん」が「飛びたくとも飛び出せない」現状の苦悩を比喩的に表現している。しかし、下の句で「飛べるよ高く浮き雲よりも」と将来への希望を詠い激励している。さらには「折句」といって「五七五七七」の各句の頭の音を辿ると「お・め・で・と・う」というメッセージになるという技巧的な言葉遊びが隠されている。これは現行の高等学校学習指導要領「言語文化」において、創作的な活動として実践せよと明記されている技法である。それを「生活実感」がある場面でメッセージ性を含んで使用された例として、貴重な場面をドラマは描いたといえる。しかもその短歌が「紙飛行機」に記され飛ばされる。こんな「文学」を生活の中に活かしたあり方、この国はせめてこうした「豊かな心」を持つという点で、世界ランキング上位を目指すべきではないかと思う。

せめて「宮崎県」では日常に短歌を!
歌言葉を紙飛行機に載せて世界に飛ばそう
本当の「豊かさ」が目指せる県を思い25日の県知事選に投票したい。


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