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まちなかに短歌を仕込む

2021-10-09
真の「短歌県」への道
まちなかに短歌を仕込むために
若い連中の躍動に期待!

かれこれ3年ほどになろうか、県庁文化振興課の「短歌県推進」を任とする方々との模索を始めたのは。「果たして県内がどんな状態になれば、真の『短歌県』といえるだろう?」という問いを何度となく話し合って来た。既に県はその年の優秀な歌集を賞する「牧水賞」を制定し、「牧水短歌甲子園」「老いて歌おう」など老若男女の短歌イベントがあり、地元紙宮崎日日新聞は「俵万智短歌賞」など一般公募の短歌賞も充実している。こうした土壌があることはまず「短歌県」の背骨として大変に重要なことであろう。だが高校生も高齢の方も短歌に親しむ人は一部の限られた人々で、一般の人々でも年齢層は中年以上で平均年齢の高さは否めない。社会全体が抱え込む少子高齢化の波そのままに、短歌に関わる人々も先細りにならないかが懸念される。若者を中心により多くの年齢層で短歌に親しみ関心を持つ層を増やさなければならないだろう。「若者への対応を加速」などというと、どうやら「ワクチン」と同様な対応のようでもある。それが現状の日本社会を映し出す鏡ということだ。

よく「国語授業」においても、「言語文化に親しむ」などという目標が掲げられることがある。ではいったい「親しむ」とはどうなることか?明確でないことが少なくない。簡単にいうならば一般の人々が「野球に親しむ」と言えば、日常生活の中に「野球を観る機会・する機会」が多いということになろうか。野球という例ならばチーム編成や場所の問題などが伴うのだが、短歌の場合は諸条件となる環境は不要である。まずは一人でも道具がなくとも短歌を創ることはできる。問題は「日常に短歌がある」という環境と、そのために「短歌は難しいものではない」という感覚を多くの人々が抱くことだ。本来は「誰でもできる」ものを特別でハードルの高いものと思う傾向は僕の身近でも強いと感じる。まずは「創る」ことだけで、人生がことばで彩られるのだ。ほとんど「やるかやらないか」で「人生を豊かに大事に生きるかどうか」が決すると言っても過言ではない。ということで人々の身近な環境に「短歌を仕込む」プロジェクトを、学生らが始めたのである。

さらに様々な分野の人とコラボする
まちなかに楽しく短歌に親しめる環境を
餃子支出ランキングと短歌の競争でもしてみようか。


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短歌県の綺羅星たちーみやざき短歌甲子園

2021-09-27
全国高校生みやざき短歌甲子園
オンライン開催ながら白熱の接戦が展開
そして「短歌展」開催もきらり

25日・26日の2日間にわたり、国文祭芸文祭みやざき2020の一環として「みやざき短歌甲子園」が開催された。全国には「短歌甲子園」と通称できる大会が3箇所で開催されている。石川啄木の故郷岩手県盛岡での「全国高校生短歌大会」・『万葉集』編者とされる大伴家持ゆかりの地富山県高岡での「高校生万葉短歌バトルin高岡」・そして若山牧水の故郷宮崎県日向市での「牧水短歌甲子園」の三大会の成績上位校を集めて開催される三冠統一交流戦が今回の大会である。昨年11月にプレ企画としてオンライン開催、今回はリアルに高校生が集結することが望まれたが、やはりオンライン開催を余儀なくされた。それにしても参加した高校生たちの短歌はいずれも素晴らしく白熱した接戦が展開し、審査員の歌人の方々も判定に深く悩む表情が見てとれた。審査員の講評の中では短歌の本質が語られる。「伝えたい気持ち」があり、それを「自分なりの言葉を発明し自分なりの手つき」で「相手に手渡す」、俵万智さんの評は現代版の歌論とも言えるもの。「作者の(描写対象への)接触する角度」(米川千嘉子さん)や「ポエジー」(笹公人さん)といった批評の表現そのものにも学ぶものが大きかった。

題詠は「耳」「読」「嘘」、特に形のない「嘘」を詠む場合に「物に寄せる」ことで描写が可能となり、意志を持って言葉を選ぶということの大切さがわかると云う。26日の2日目は審査員座談会が行われたが、題詠について「本音をいうための隠れ蓑」(俵万智さん)という効用が述べられたのも興味深かった。高校生たちの質問も奥深いものがあり、それに対して「情報を込めきれないのが短歌のメリットで、何を切り捨てるかが大事」(俵万智さん)という核心に迫る返答が展開した。歌を創る姿勢に対しても「(できない時は)場所を変える」(大口玲子さん)とか「自分が面白いものを作ればよい」(笹公人さん)などが語られた。散文との対比についても、「言葉を削ぎ落とすことの厳しさ」(俵万智さん)などが。まずは「創ってみること」すると人生に実に深みが増すという短歌の素晴らしさを、会場に来た宮崎県内の高校生らが共有できた機会となった。会場となったメディキット県立劇場では「短歌展」も開催されており、この日は最終日であったが、午後にようやく訪れることができた。制作に関わった方や県の担当者の方にも会えて、短歌県へ向けて多くの人々の心がそこにあることを実感できた。

短歌県の綺羅星たち
そして全国の短歌に向き合う豊かさに目覚めた若者たち
繊細に丁寧に焦らず社会を自らを見つめる、より多くの人が短歌に目覚めればこの世は平和だ。


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地元新聞の文芸欄【短歌】ありがたさ

2021-09-21
地方新聞を毎朝読むに
身近な話題や知っている人のことが記事に
そして文芸欄のありがたさ

日本の新聞の特長を語る際に短歌人が取り立てて云うのは、「どの新聞にも文芸欄があり公募短歌・俳句が盛況である」ということだ。三大紙はもちろん、地方新聞でも選者を立てて短歌・俳句の文芸欄が必ずある。これほどに詩歌が日常生活に定着している国など、そうそう世界を探してもないだろうと云うのだ。はっきりと調べたことはないが、文芸の草の根の拡がりとして誇るべきことと考えてよいだろう。やや勝手な推測であるが、江戸時代の庶民的な文化の拡がりが世界でも目を見張る識字率の上昇を招き、草の根で文芸への関心が高まったあたりに根がありそうな気がする。いずれにしても地元紙の「文芸欄」を読んでいると、この地域の人々が何を実感し何を心に抱いたかがよくわかる。短歌という文芸による、公的な瓦版や目安箱のようにさえ思えてくる。

昨日の宮崎日日新聞文芸欄「伊藤一彦選」の【評】には驚いた。◎で選歌された歌が初句から「類さんとニシタチ巡り・・・」というもの。どうやら先日の「だれやみ文化大学」を観ての歌ではないかとされて、その後に「トークショー」について「類さんと俵万智さんと宮崎大学教授の中村佳文さんと私で、・・・」と選評の文章が綴られていた。オンラインとなったのはいささか残念な面が否めないが、伊藤一彦さんにとっても大変に楽しい機会であったことが語られている。7行ほどの選評において多くの紙幅を「吉田類トークショー」の振り返りに当てているのである。◎二首目の歌は、かつては箪笥の上にあったラジオが今ではベッドで朝まで鳴るという趣旨の歌。選評には続けて「ラジオ深夜便」で類さんが宮崎でのことを楽しく語ったことにも触れられており、当該番組の人気が高い秘訣がこの歌にあると記されている。類さんとの「トークショー」の件は開催翌日の記事にもあったが、公募短歌を交えてあらためて選者によって語られるとまさに地域の方々と吉田類さんの素晴らしさを共有したような気になってくる。これこそ地方新聞の責務であり特長であろう。何よりこうした楽しい選評を記す伊藤一彦さんの度量と地元愛の深さに感謝である。

短歌でつながる地域の人々
コンパクトで生の顔が見える社会
地方新聞が読めるありがたき生活


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だれやみ文化大学・吉田類トークショー・国文祭芸文祭みやざき

2021-08-29
「酒縁社会」
「酒場は学校」
「知らぬ地で今宵は俺も吉田類」
(吉田類さんご著書などから)

吉田類さんトークショー出演の当日、朝から宮崎はこれ以上ないほどの青空が広がった。人間社会は感染拡大に頭を痛めているが、自然は全開で爽快な顔を見せてくれる。「蔓延防止」によって酒類提供ができない宮崎市において、せめて最高の宮崎らしき空が類さんを迎えてくれた。控え室にご挨拶に伺うと丁重に「はじめまして」と言っていただいたが、「実は11年前・・・」と昨日の小欄に記した「出逢い」のことをお知らせした。この「再会」そのものがこの日のトークショーのテーマである。トークでも進行の伊藤一彦さんがそのような流れに話を差し向け、神保町 Bon Vivant を紹介することもできた。「お酒」の意義というのは「人をつなぐ」こと、類さんのご著書の言葉ならば「酒縁社会」ということだろう。よき酒によき人が集う、そこには各自の人生が淀んでいる。偶然の出逢いで個々の状況は違っても、酒を発酵させる際の「上澄み」がある意味で貴重なように、酒場で語ることで個々の精神がバランスを回復する。酒は外に淀みを発散させるとともに、自分の内面を見つめる(内観する)ことができる。これまで苦しい時ほど、そのような「酒縁」に助けられてきた僕の実感である。

「国文祭芸文祭みやざき」の企画であるゆえ、宮崎の魅力を語ることも大切。宮崎に来た頃、運転していた僕が横断歩道で停止して小学生を渡らせると、渡りきって振り向いて声を出して「ありがとうございました」という姿への感動。どんな場でも酒場でも人々は穏やかで心優しい、「和む」「融け合う」といった県民性をこの8年半でひしひしと感じてきた。食文化では、地鶏や肉類はもとより、海産物の美味しさに注目して発言した。特に日南での「かつお」「しび」の刺身の美味さは格別である。これも「酒縁」であるが、自宅近所に海産物を商う親友ができたことで、その豊かさ奥行きを知ったのである。「太刀魚」「伊勢海老」といった今まではあまり馴染みのなかった海産物の美味しさ、もちろん焼酎との適合も存分に味わった。伊藤さん曰く「『伊勢海老』という名前を変えられないものか?『青島海老』とか!」現にご本家『伊勢』に供給しているとも言われている。俵万智さんからは、野菜の素晴らしさが語られた。新鮮で安い野菜が身近に買えることはこの上ない幸せである。また吉田類さんの「1万円拾ったら」トークは爆笑だった。「四国四県」で「貯金する」「商売に使う」など各県民性があるらしいが、高知県は「もう1万円足して酒を呑む」ということらしい。さて宮崎県民は?とも思うが、僕は牧水の著名な「白鳥は哀しからずや空の青海のあをにも染まずただよふ」の「染まずただよふ」というあたりに、宮崎県民の魅力があるという発言をした。空と海が「融け合う」ような、そしてあくまで純白の「白鳥」、強引だったり虚飾のない純朴と融合こそ宮崎が誇れる魅力である。トークしてこそ、宮崎の魅力があらためて深く自覚された。

類さんのお人柄
そして短詩系がつなぐ力
吉田類・伊藤一彦・俵万智に座を連ねられた幸福。


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命に向き合うー日本周産期・新生児医学会学術集会特別講演

2021-07-12
生まれ出づる命に向き合う医学
ことばを通して人の命のあり様に向き合う短歌
「私の歌は、その時々の私の命の砕片である。」(若山牧水)

標記の学術集会が宮崎市内シーガイアコンベンションセンターで開催されており、初日の「特別講演1」に登壇することになった。これまで幾多の研究学会で発表はして来たが、医療系の学術集会というのは初めての経験であった。会場の規模もさることながら、受付からの流れや企業出展、発表用PCの申請・確認まで実に組織的・機能的な対応にいささか驚かされた。講演題は「若山牧水と日本の恋歌ー性愛と家族愛のまなざし」とした。東側をすべて海に向かっている宮崎県、日出づる光景に障害なく日常的に向き合える「ひむかの国」では、自ずと「生命の誕生」が象徴的に意識されることになる。宮崎が日本一の短歌県を目指しているのは、近現代短歌史を語るに欠かせない存在である若山牧水の生誕地であるからだ。「国文祭・芸文祭みやざき2020」のテーマの一つにも短歌がなっている。酒と旅の歌人と評されることが多い牧水、その死と生について概況を主治医が遺した資料で紹介した。死期が迫る中、主治医の許しもあって酒が与えられていたこと、また生誕の状況は医師である父が外出してしまった時に生家の縁側で「コトり」と音を立てて生まれたとされる姉の記述などについて語った。

人はこの世に生を受けたその時から母胎から離れ、「ひとり」で孤独な人生が始まる。そして、死にゆく際も「ひとり」である宿命を誰しもが背負っている。それゆえに生きている際に、誰かと恋をし寂しさから逃れ、性愛の関係を持つことで家族を築き人とつながって生きていく。しかし、恋をして性愛の関係に至るのはそう簡単な道ではない。牧水がそうであったが、叶わぬ恋に身悶え苦しみその坩堝に身を投じて足掻き続ける日々がある。恋は苦しいゆえにまた、絶頂の恍惚や陶酔が生きる上で掛け替えのない時となる。若かりし頃に熱烈な恋をした5年間によって、牧水は「命そのもの」である短歌の表現力が磨かれたのだ。古典和歌からして、「あやめも知らぬ恋」(理性をはずれた恋)が大きなテーマとなる。それは現代の桑田佳祐さんの楽曲にも表出し人類普遍のテーマかもしれない。その後、現代短歌に表現された「性愛」をダイジェストでよむ、次第に現代の若き世代の特徴に言及する。「恋愛忌避」「晩婚化」など日本社会が抱え込んだ問題は根深い。医療と文学と教育が手を携えて解決していかねばならない課題は多い。最後に宮崎在住の著名歌人・俵万智さんのお子さんの誕生を喜び、母親としての愛情深いこころを短歌によみ、牧水もまた4人の子どもたちにとって素晴らしい父親であったことを紹介し講演を終えた。

新刊書が近刊されることにも触れ
様々な分野の人々に短歌を考えてもらいたいという願いを込めて
「命に向き合う」みやざきでの学問・教育を追究していきたい。


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「みやざき大歌会」世代を超えて短歌でつながる!!!

2021-07-11
【冒頭挨拶要略】
「国文祭芸文祭みやざき2020」が本学附属図書館の連携企画ができますこと、地域に貢献する宮崎大学としても意義深く誠にありがたい機会となりました。県の実行委員会の方々ご担当者の本日までの取り組みに、まずは御礼を申し上げます。先の見えない新型コロナ対応ですが、このようなイベントにも様々な対応が求められ、図書館事務長らとともに、苦心を強いられておりました。すると、ある素敵な声が聞こえてきました。

「そんなこと気にしなくてもいいですよ星もいつかは壊れますから」東直子

丁寧で柔らかなことばのなかにも、地球的な視野を開かせてくれる。私たちの国文祭芸文祭は、人類史の境目で行われていることを悟りました。詩も小説にも絵画にも素晴らしいお仕事をしている東さんから、本日はさらに多くを学びたく思います。

「色のない他人の海がひろがってわたしとわたし以外だ 世界は」田中ましろ

なかなか自分の色のわからない現代の世相で、写真と短歌をコラボする「うたらば」の活動をされている田中ましろさん。本日は宮崎の中高大学生にどんな色を見せてくれるでしょうか。

本日、ここに集まりました宮崎の私たちには、「短歌」があります。先週の国文祭芸文祭開会式でも、高校生らが短歌を朗読する声の響きに希望が見えました。明日のみやざきのために、本日はゲストのお二人とともに、短歌を通して中高大学生が世代を超えて繋がる豊かな時間を創り出したいと思います。本日は、どうぞよろしくお願いします。


【東直子×田中ましろトーク概要】
東さんは、大学で「食物栄養」を学び「演劇」していた。田中ましろさんは理系で「宇宙塵」の研究などで大学院まで進学し広告会社にコピーライターとして就職した。ともに短歌にはあまり馴染みのない大学時代。しかし、投稿短歌の存在を知って「選歌されるモチベーション」を得て、自らの歌が「活字になる」喜びから短歌の世界の素晴らしさを知った。近現代短歌は「事実」述べるべきというのが主流であったが、短歌の多くが「もうひとつの意味」を表現したものだ。そこには生身の作者を超えた「作中主体としての主人公」を設定してもよく、自由な想像力が働くものであってよい。「実人生を描くのが短歌」という域からもっと自由に短歌を楽しめばよいのではないか。「ことば選び」三十一文字で表現する、「どこを削ぎ落とすか」を考え、「どこで詩が生まれるか」を意識する。



東直子さんは、60代以上の世代と40代以下の世代をつなぐ存在、田中ましろさんはWeb投稿短歌をはじめ自由な短歌と結社短歌をつなぐ存在、このお二人が宮崎の中高大学生とともに、久しぶりにリアルな歌会ができたことはこの上ない機会であった。真の「短歌県へ向けて多様な世代がつながり、やはり短歌で「生きる」を実感できるひと時であった。


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つながる大学であるためにー国文祭・芸文祭みやざき2020

2021-07-10
県を上げての全国的文化の祭典
大学附属図書館を会場にした連携事業
事前の企画からいよいよ前日準備へ

7月3日(土)に「国文祭・芸文祭みやざき2020」が開幕した。その開会式でも高校生から小学生まで宮崎の多くの若い力が短歌を声に出して読み朗詠し踊り語り、みやざきの明るい未来を表現した。以後会期は10月17日まで続くのだが、この祭典の大きな特徴が県内すべての各市町村で何らかの文化に関連した行事が開催されるということだ。県全体で一部の人だけが祭り事に関わる訳ではない、障害のある方もどんな世代の人たちも「住んでいる地域」に参加する可能性のあるイベントがあるのがいい。そんな方針を受けて僕が関われる場所にも関連行事がやってくる。この半年以上にもわたるだろうか、企画内容や規模・参加者など県庁のご担当の方々と進めて来た。その流れに伴い常に感染対策などが障壁になるなど、決して平坦な道のりではなかった。しかし思いはひとつ、みやざきの中高生と大学生らが「短歌でつながる」ことを希いここまで準備を進めて来た。

この日は午後から会場準備に入った。講義1コマがあったのでそれが終了して現地に向かうと、既に県庁ご担当者や関連業者の方々が見えて準備に入っていた。「国文祭・芸文祭」のイラストが施された背景ボードに、大学のボードがコラボする。まさに大学が「地域とつながる」象徴のような光景に心が踊った。その後、ゲスト講師の東直子さん・田中ましろさんが到着。もちろん来県直前にPCR検査を受けていただいての参加となる。東さんは短歌のみならず、詩も小説も絵画も創作する多彩な才能の持ち主、穂村弘さんとともに若者への短歌啓発を意図した著作も多い。ことばの芸術的な可能性を広い世代に伝える存在であると、お話してあらためて感じた。田中ましろさんは、「うたらば」という写真と短歌をコラボしたフリーペーパーを主宰しており、若者からの反響も大きい歌人である。スマホがこれほど普及し中高生以上ならば多くの人が日常で簡単に写真を撮れる。それを単なる「写メ」に終わらせることなく、三十一文字を添える。SNS等のWeb関連にも相性はよく、まさに「つながる短歌」を実践している存在である。さてこのお二人がみやざきの中高大学生を、どのようにつなげてくれるだろうか?いよいよイベントの幕開けである。

創発の場としての附属図書館として
中高大学生がつながる場として
「みやざき大歌会」本日13:00開始!!!
(*YouTube配信は「いざムー」で検索を)


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いま宮崎に生きてー国文祭芸文祭みやざき2020開幕

2021-07-04
この地には豊かな海と山がある
人々の心の叫びは短歌となり
神話の源流から永遠に響き合っている

いまこの機に宮崎にいて、心からよかったと思った。新型コロナ感染拡大で延期になっていた「国文祭・芸文祭みやざき2020」の開幕に立ち会うことができたからだ。これまでも8年と数ヶ月、この「みやざき」で様々な文化に触れて生きて来た。その取り組みの一つ一つは真にかけがえのない出逢いであったことが証明された、という思いを新たにした。高校生らが朗読する『宮崎百人一首』の短歌の響き、その声で伝えられる「みやざきのこころ」。題材とされた短歌の歌人のほとんどとこの宮崎で出逢うことができ、僕自身の短歌への関わりにおいて大きな財産になっている。「牧水賞」があり「牧水祭」がある、その都度深い思いをもって参加して来たことが、自らの「みやざき短歌生活」の大きな柱となっている。さらには先月の研究学会でも実践調査報告のあった若山牧水の母校・日向市立坪谷小学校の全校児童による短歌朗詠には、いつもながら自然に溢れくる泪が止まらなくなった。なぜ未来ある子どもらの素朴で無垢な声に、人はこんなにも心を動かされるのだろうか?ここにも朗読を研究して来た僕自身のライフワークの源流があるように思う。

新型コロナ感染拡大も含めて、我々人類こそが悠久の自然の中で「生かされて」いるのだ。ゆえに「ウイルスに打ち勝つ」のではない、晴れの日ばかりではない地球の歴史の中でいかに生きるかが求められるのであろう。しかし人類は特に近代化を進めるうちに、自然に対して驕り始めた。それを繰り返すうちに「驕りが驕りである」ことも自覚できない病に陥ってしまうのだ。昨今のこの国の社会情勢を見ていると明らかであるが、「己の弱さ」を自覚できない輩が自らの偏向した特徴そのものを気に食わない他者への批判として判然と言い放つ。その状況把握そのものが「驕り」の象徴であり、この傾向がある心性は社会を大きな過ちに導くことは歴史が証明している。近現代が掛け間違えてきたことを「無名」に徹して「驕る」ことのなかった牧水の短歌は、僕たちに大きな示唆を与えてくれる。自然の中で「生かされている」ことをことばで把捉すれば、「死」は恐れるに足らず。43年間という現代にしては短く感じる生涯で8000首以上の短歌を自らの「生きる声」としてこの世に放った牧水。国文祭芸文祭みやざき2020の開幕にあたり、さらに短歌を牧水を、そしてみやざきを愛して生きようと思う。

来週7月10日(土)13:00〜16:00・ゲスト:東直子・田中ましろ
「みやざき大歌会」国文祭・芸文祭みやざき2020×宮崎大学附属図書館
まずはここから始めます!(*トークイベントYouTube配信あり)


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深いことを分かりやすくー俵万智さん宮日新聞連載「海のあお通信」

2021-06-29
19日開催「日本国語教育学会西日本集会宮崎大会」のこと
秀歌に選ばれた3首の魅力を誰にも分かりやすく
「短歌県みやざきの未来が、頼もしい。」と締め括る。

宮崎日日新聞毎月第4月曜日には俵万智さんの連載「海のあお通信」が掲載される。俵さんが宮崎に移住した年に始まったので、かれこれ丸5年が経過し60本ほどの話題が展開したことになる。今までも何度かいささかは僕自身に関連した話題もあったが、今回は主催した学会の内容について「短歌県の授業」と題して詳報を伝えるもので、誠にありがたいものであった。毎回思うことであるが、俵さんの文章の明快さは誰もが認めるところだろう。記事として要点を分かりやすく伝える表現は、何より肝心なことである。学会当日の対話そのものもそうであったが、対話する相手の話を的確に捉えて、実は奥深い勘所を簡単な言葉で誰しもが分かるように伝えてくる。書き言葉でも話し言葉でも、双方に癖も難解さもなく表現者としていかに長けているかをひしひしと感じるのである。我々など研究者は、往々にして難解で分からない言葉を平然と学生や一般の方々に投げてしまいやすい。自らの表現が分かりにくいことに自覚的でない研究者は、その研究そのものを問い直した方がよいように思う。

今回の「海のあお通信」に俵さんが書かれた当日のシンポジウムの対話内容は、多方面から概ね好評だというご意見をいただいている。それは実践発表をした各学校種の短歌の全てを俵さんにお読みいただき秀歌3首を選んでいただき、その内容を具体的に対話の俎上に挙げたからだろう。そこが他の学会シンポジウムにはない「具体性・個別性」のあった特長ともなった。短歌そのものも「観念的」で具体性を欠くものはよしとされないが、研究者のみが参画する学会シンポでは往々にして理論的な空転になってしまう残念なケースが少なくない。学校現場で創作学習を進めるにあたり、指導者はどのような短歌をどのように評価したらよいか?短歌を褒める観点も修正を求める切り口も、当日のシンポジウムでは「秀歌3首」を具体的に論じたことで断然分かりやすくなった。さらにここで、僕だけが書けることを密かに記しておこう。角川『短歌』最新号(21年7月号)には迢空賞受賞を記念した俵さんの「笑いたい夏」30首が掲載されている。その中には、このシンポジウムのリハーサル段階で発想を得た歌があるのだ。自らが接するあらゆる経験から、前向きに肯定的に取材して表現する姿勢。あらためて表現者・俵万智を身近に感じたことで、僕自身が大きく変わる契機を得たような気がしている。

「子どもらのそばに短歌があることの陽ざしの恵み、海からの風」
(「海のあお通信」掲載歌)
短歌に携わる者として、これ以上の幸せはない土地に僕は住んでいる。


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先生は多彩に夢を持とう

2021-06-28
かつて「学者・医者・易者・役者・達者」
いま実務に追われて趣味もできないなんて・・・
いや、宮崎には多彩な先生がいるのです

僕が大学受験を志していた頃、城山三郎の小説『今日は再び来たらず』を読むとある大手予備校に取材したもので、冒頭に記したような先生の条件として「五者」が記されていた。学問研究に長け(学者)、受験生を的確に診断し(医者)、その未来を占い(易者)、教材に登場する様々な人物を演じられ(役者)、何より受験は日々が勝負ゆえに休まないように身体が丈夫でなければならない(達者)という五条件が揃っている先生が理想だとあった。当時、僕自身が大変にお世話になったラジオ講座で全国的に有名な先生も、いつもこの五条件を念頭に講義をしていると常々語っていた。先生は多彩でなければならない、その時から僕自身もこれを信条に先生をして来たように思う。言い換えれば先生が夢を持つことである。ところが昨今の小中高の学校の現状は、実務的な忙しさばかりに追われて、なかなか先生が夢に向かって個性的な活動をしづらくなっているように思う。偏狭な料簡で先生の個性的な才能を感じさせることができない授業では、学ぶ側の豊かな心も育たないように思う。

劇団ゼロQリーディング公演・第9回みやざき岡田心平演劇賞戯曲部門受賞作品「風〜つるっとじゅわっと消せない想い」を観覧するために、照葉樹林の吊橋で有名な綾町まで出向いた。街の格式ある蕎麦屋さんの店舗を活用した舞台で同公演が開催された。劇団代表の前田晶子さんとも朗読関連で交流があり、彼女のラジオ番組に出演させてもらったこともある。また演出の永山智行さん(劇団こふく劇場主宰)とは、小学校への演劇・朗読アウトリーチで何度かご一緒したことがある関係だ。そして今回の公演の脚本を執筆した藤崎正二さんは、高校の先生として活躍しつつ市内で「ポエトリーリーディング(詩の朗読)」を毎月開き、牧水短歌甲子園に出場する高校生らを育て、自ら短歌甲子園の司会も務め、「詩のボクシング」を始め詩作などの文芸に多彩な才能を発揮している先生である。今回の「戯曲(脚本)」も高校の風景に取材し、高校生らがコロナ禍の現実の中でいかにコトバに向き合うかがリアルに描かれた秀作で前述した岡田心平賞を受賞した作品であった。みやざきの高校生たちが豊かな学びをするためにも、藤崎先生のような方の活動は実に貴重である。短歌を始めとする詩歌の創作をはじめ、朗読や演劇などの表現活動が連携してこそ豊かなコトバが活性化するみやざきになる。かつて高校の先生であった僕自身が、このみやざきではどんな夢を追うべきなのか?それを藤崎先生の姿を見ていて、あらためて考え直す契機となった公演であった。

出演する役者さんに僕の講義をかつて受講した学生さんも
教育学部での学びは多彩であるべきだろう
先生に夢がなくてどうして夢のある子どもたちを育てられるのであろうか?


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