その通りの歌ー第384回心の花宮崎歌会
2023-09-03
読者の心を引かない読者にはわからない表現
自然を敬い具体的な実感が印象に残る
第384回心の花宮崎歌会が開催された。新型コロナ感染はかなり水面下となったが、それだけに用心も怠らず歌会は開催される。円座にしての歌会はいま少しお預けとなっている。それにしても毎月普通にこの場に集まれることが、歌作りには大きな励みである。発表未発表に関わるので具体的に短歌を挙げることは控えるが、歌会での指摘などを覚書としておく。互選票が得られない歌に顕著なのが「読者の心を引かない」ということだが、「(読んで)その通り」という指摘が伊藤一彦先生からくり返しなされた。「できすぎ」「わかりやすすぎる」とも言い換えられる場合もある。併せて歌の表現に「なぜ?」「どんな?」が投げ掛けられるのも類似した指摘である。
一方で互選票を獲得した歌で印象深かったのは、自然への敬いが感じられた歌だ。雨・風・木々の葉などに生命感を見出す、これぞ宮崎歌会ならではの歌ではないかと感じ入った。そこに「発見」があり「共感」と「驚愕」を読者が覚えるというわけだ。一概に「自然」というが、どのように見つめるかを深く考えさえられた。また個人的には「犠飛」という野球用語に興味を覚えた。野球は「敵性競技」であるのに、なぜ社会から排斥されなかったか?それは「軍事教練に役立つ」ということが建前だった。その名残が現在の甲子園での諸問題に尾を引いてはいないのか?野球愛好者として、こんな視点を持って野球を観るべきと大変に勉強になった。
終了後は少人数の懇親会
かつての歌会後は必ず呑んでいたと振り返りつつ
歌を語る刺激と抱擁と、宮崎歌会ならではのあたたかさ。
スポンサーサイト
tag :
追悼と手触り感のことなどー第383回心の花宮崎歌会
2023-08-06
野菜の手触り感を比喩として一つの助詞により表現する感情が反転して
急逝された会員の方を偲びつつ
心の花宮崎歌会定例の歌会が開催された。冒頭に急逝された会員の方を偲ぶ話が、伊藤一彦先生から為された。事務局の調べによると、昨年12月末〆切分は『心の花』23年3月号に掲載されている。今年になって僅かな身体の異常により診察を受けると即入院、その後の闘病の奮闘もむなしく先週に帰らぬ人となった。僕自身も通夜にてご家族と話をさせていただいたが、「短歌が生き甲斐」であったと云う。諸々の賞への応募をされ此の度は最優秀賞を受賞していたが、授賞式に出席できない無念だった。歌会には花を持参し故人の歌を切り貼りで集成した「号外」を配布する「同期入会」の会員の方もいらした。きっと僕たちの心のうちには、故人の短歌が響き続けるだろう。そんな思いを胸に、「いま生きていて詠める1首」こそを大切にしなければならないという歌への向き合い方に襟を正す時間でもあった。
歌会での覚書。互選票も上位で個人的にも気になった歌は、「野菜の手触り感」を比喩とする歌。野菜を切る動作とか洗浄する際の特徴を上手く捉えていた。もしかすると野菜を調理したことがない人は、読みが深まらないかもしれない。そのような意味で日常生活での種類を問わない「経験」が歌作りには必要なのだと思った。反転して日常の家事などの中に貴重な歌材が眠っていることにもなる。また、助詞のあり方を考えさせられる議論もあった。「・・が」なのか「・・と」なのか、歌の中で省略されてしまっている助詞について読者によって補う助詞が異なり、その結果で表現された感情が正反対に解釈される歌だ。形式と韻律の問題と関連し短歌に助詞の問題は永遠の課題であろうが、推敲の段階で自らが思う以上の吟味が必要だと思い直す機会になった。
懇親会はみなさん諸事お忙しいので中止
今月来月は様々な短歌関連行事もある
僕らの生き甲斐として月1回支えられる貴重な集いだ。
tag :
だれやみ日曜夜会ー疲れなきは意欲
2023-07-24
心の花選者の黒岩剛仁さんをお迎えして東京歌会のこと、巨人についての昔話など
だれやみと明日への意欲!
前日の公演の疲れはいかに?と思いきや比較的早く起きる朝。起床してすぐに、その日の予定が頭を巡る習性がある。その中で「楽しい!」と思えることがあると俄然に元気に活動を開始できる。ゆえにむしろ「楽しい!」を探すようにしているのかもしれない。もちろん「辛い苦しい」がないわけではない。人は誰しも心にのしかかる重みを、持っているはずだ。だが何事も意欲的に前進しようとすることで疲れは取り払われる。宮崎には「だれやみ」という方言があって、「だれ=疲れ」を「やみ=止み」と語を分解するとわかるように、「疲れを休める」を基本義に「晩酌」のことを指す言葉である。様々な心にのしかかる重みも、酒を飲むことで「だれやみ」とするわけである。
この日は夕刻から、心の花選者の黒岩剛仁さんをお迎えしての宮崎歌会懇親会が開催された。県内国富町ふれあい短歌会に講師として招かれた黒岩さんとの楽しみな時間となった。もう4年ほど心の花では全国大会が開催されていない。ゆえに選者と諸々のお話ができる機会は貴重である。短歌が紙の上・文字の上だけにならないためにも、まさにこうしたふれあいの時間が大切であろう。会の中では『心の花』会誌の編集の現状、選歌・編集作業のこと、1500号記念号や記念大会のことなど、大変に興味深いお話を聞くことができた。おまけに僕自身が幼少の頃から後楽園球場に通い詰めた話を、大の巨人ファンの黒岩さんとすることができた。最後は野球選手がよく訪れる宮崎餃子の名店で締め括り。誠に「だれやみ」を超えて、疲れとは意欲が乗り越えさせてくれると思う宵のうちであった。
自らにのしかかる重みが短歌を詠ませてくれる
決意も新たに意欲が湧いてくる酒
ちょうど「ニシタチ歌集化プロジェクト」が朝日歌壇に紹介されていた。
tag :
想像が展開する歌〜第382回心の花宮崎歌会
2023-06-04
結句ができすぎているダメ押し意外性が乏しく一読して広がらない
できすぎ・わかりすぎるから展開がある歌へ
定例の第一土曜日、心の花宮崎歌会が開催された。社会全体がコロナ禍から解放されつつある中で、対面歌会の意義をあらためて実感する。出詠46首、得票は5票1首、3票2首、2票10首、1票13首、可能性無限大20首という結果であった。冒頭には伊藤先生の「今月の2首」の鑑賞がある。今回は5月20日に熊本県御船町七滝に建立された河野裕子さんの歌碑の歌が取り上げられた。先月5月20日に、歌碑除幕式と記念講演会が現地で開催された。講演者は吉川宏志氏「河野裕子の歌う風景」伊藤一彦氏「河野裕子のふるさと」永田和宏氏「河野裕子のおくり物」の3氏である。伊藤先生は歌碑に刻まれた「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」について、この歌は「琵琶湖」だけを詠ったものではなく、結句にとらわれずむしろ第四句までの核心的な表現を読むべきだという鑑賞を提起した。「近江」の部分にはどんな地名を入れることも可能であり、「真水」というのは単に「淡水」というより「真の水」と解せるのではないかという読みである。御船町でも「なぜ琵琶湖を詠んだ歌碑がわが町に?」という疑問があったようだが、その思いを払拭し思いを拡げる読みが提起できたというお話であった。
冒頭の鑑賞で語られたように、解釈にも「単線的な理解」で終わってしまうと歌が拡がらないことがわかる。歌評に入っても「わかりすぎる歌」という指摘が、伊藤先生から随所に為された。これは宮崎歌会の通例であるが、「意外性」や「想像の展開」が欲しいと補足されていく。5首選をする場合も、まずは10首ぐらいに絞りそこから最終的に落とすのはこの要素が無い歌であるという。具体的な描写でありながら、読者にたくさんの想像をさせる表現にしていく必要があるということ。選者4名の5首選には、やはりそのような「展開」が読める歌が採られている。「言葉」は社会的に通行せねば、その役割を果たし得ない。しかし、文芸はその基盤のさらに上層部で「拡がる想像に誘う表現」が求められることになる。歌会終了後には少人数ながら、かつて毎回行なっていた居酒屋で懇親会。あらためて各自の歌を皆さんで読み直し、歌会での「一首の力」の大きさを確かめ合う時となった。
三十一文字が立ち上がりさらに飛び立つために
なおしかし、やり過ぎで「肩肘張らない」ように
歌仲間が集まる1ヶ月1回の貴重な時間が再び平常化しつつある。
tag :
人間の都合ー第381回心の花宮崎歌会
2023-05-07
自然の立場を無視し人間の都合で考えていること
「わたし」とは何かを問い続けて
連休中ながら第1土曜日恒例の心の花宮崎歌会が開催された。新年度により会員名簿が配布されたが会員数は58名、その規模は東京歌会に次ぐものといつも注釈がつく。都道府県の人口密度からすると、やはり「短歌県」の面目躍如たる会員数の歌会ということになる。また東京は「首都園」として近県在住の方の参加もあろうが、宮崎歌会は交通手段のせいもあるが基本的に県内在住者であるという意味でやはり活況であると言えるだろう。出詠46首、最高得票7票、以下5票1首・4票3首・3票1首・2票4首・1票11首・可能性無限大25首という得票状況であった。またこの日は関東在住の方が、旅の道すがら歌会に参加。こうした会員間の交流があるのも、宮崎歌会会員としては嬉しい。
出詠歌の詳細を語ることはここでは控えるが、全体を通して「自然」に対して「人間の都合」を批判的に捉えた作品が目を引いた。菌・ウイルスの次元から身近な虫たち・植物たちまであらゆるものが、ぞれぞれの立場でこの世の中を生きている。それを利用したり忌避したり規定したりして、人間は自らのご都合主義で自然を支配しようとしている。その独善で傲慢な姿勢を、三十一文字は具体的な像をもって批判していく。また本来は自然の一部であろう「私」そのもののあり方に眼を向けた歌で得票が多いものも注目された。概してこうした「自然」と「人間」が対立ではなく親和な関係を見出そうとする歌が多いのも、宮崎歌会の特徴であるかもしれない。そこで相対化された「自己」へ眼を向け続ける。首都一局ではない短歌の地方におけるあり方として、宮崎歌会の「役割」というものがあるのかもしれない、などと考えた。
会場は未だ講義教室形式
懇親会はもう少々の辛抱か
またまた来月に向けて歌作りの英気が養われた
tag :
心の花宮崎歌会3年ぶりの新年会
2023-01-09
再びの感染者数の増加に伴い午前中の歌会は中止とし午後からの新年会のみ開催
距離がありつい立てのある円卓に今年の短歌を語り合う
新年となって1週間が経過した。毎月第一土曜日に開催される心の花宮崎歌会の新年は、8日(日)の開催で3年ぶりの新年会が予定されていた。しかし再びの感染者数の増加、ここのところの死者数の増加(県内の状況も)を鑑みるにやはりこの感染症はまだまだ侮れない。急遽、午前中の歌会は中止となり、午後からの新年会のみを対策を十分に施して開催することになった。宮崎歌会では、コロナ禍前まで歌会と新年会を融合する形で実に充実した行事として開催していた。その「新年会」も2021年2022年と行われず、誠に残念な年の初めとなっていた。やはりあらゆることに「初・・・」があるように今年の短歌は、心の花歌会新年会で始まるという「日常」を早く取り戻したい。そんな思いが募った末に、事務局の方々の大変な努力と工夫があって、この日は新年会が開催された。
冒頭に伊藤一彦先生のご挨拶。歌会そのものも感染対策の上で授業教室の形式で行ってきているために、新入会員の方々が相互に顔と名前が一致しないことを憂えることが指摘された。歌会においてはやはり顔を突き合わせることが、実に大きな意義であることがわかる。会は黙食を前提としつつその後に、新入会の方々の自己紹介が行われた。さらには歌会ができなかったのを補うべく、選者である伊藤先生と大口さんから5首選の歌について評がなされた。「ネックレス」の擬人化、過去と対比した「前線」の兵士たちのクリスマス、感情の「前借り」、など秀歌の要所を押さえる歌評がなされることで、題詠「前」の多様な表現が確かめられた。新年会そのものは「2時間」に限定されたが、やはり一堂に介しての時間は貴重な今年のスタートとなる。今年も1ヶ月に1回のこの機会を柱に、毎月の新しい自分を見つけてゆきたいと思う。
歌壇賞の久永さんをはじめ若手の参加も多く
多様な年齢層である宮崎歌会をさらに活性化するために
閉会後にはさらに若手らとじっくり語らう時間を持つことができた。
tag :
比喩とユーモアー第375回心の花宮崎歌会
2022-11-13
比喩こそ歌の醍醐味ジョークではなくユーモアのある歌
冒頭は牧水賞受賞の奥田亡羊氏の歌2首鑑賞
諸々の事情で通常の第1土曜日から、今月は第2土曜日開催の心の花宮崎歌会。冒頭に伊藤一彦先生の「旭日小綬章」叙勲について、会員全員から温かい祝意が湧き起こった。また仙台へ移住された俵万智さんのこれまでのご参加に感謝する弁とともに、今後も宮崎歌会には「5首選」として参加し続けていただけるとの紹介があった。毎月1回はお会いできる可能性がなくなったのは寂しさが拭えないものの、俵さんの宮崎歌会への愛が感じられて誠に嬉しいニュースであった。冒頭は9月から開始された伊藤一彦先生の2首鑑賞、今月は牧水賞受賞が決まった奥田亡羊氏の歌から。歌集『花』のタイトルにもなったであろう「かけてゆく子どもの声は遠く近く/風にちぎれて耳に咲く花」が取り上げられ、「声」を「耳に咲く花」と比喩した点に「声へのいとしさ」が表現されているとの鑑賞。またスポーツなど様々な取材経験を素材にした歌も取り上げ、素材の豊富さにも言及された。また「二行書き」の表記方式は石川啄木が試みてからあまり為されていないが、表現方法の挑戦として歌の懐が深くなっているとのこと。短時間ながら伊藤先生の鑑賞から、歌をより良くするにはどうするか?という要点が的確に伝わってくる。
さて、出詠47首、互選票高点は5票2首、4票2首、3票2首、2票4首、1票8首という結果であった。今回の歌会を通じて要点となったのは「比喩」と「ユーモア」。まずは「比喩」こそが歌の醍醐味という伊藤一彦先生の指摘もあり、各歌の「比喩の質の高さ」が読み解かれていく。比喩は読み手側の受け止め方の深浅にも関わり、比喩の奥深さを読み解けば腑に落ちる描写の精度が表れることがわかる。『万葉集』以来の「寄物陳思」や『古今集』仮名序に示された「六義」で論じられたように「やまとうた」表現の根幹を支えるのが「比喩」と言ってもよい。次にユーモアの歌、古典和歌から明治大正期の歌まではなかなかユーモアが含まれることも少なかった。だが現代短歌に至り、素材の自由さとともに様々なユーモアが含まれるのは豊かな心が担保されているということだろう。「ユーモア」は人を笑わせるだけの「ジョーク」とは違う、という伊藤一彦先生の指摘。ある意味で江戸俳諧の「洒脱・軽み」などをうまく融合して現代短歌に至ったようにも思われる。「(表現者に)余裕がないとユーモアは詠めない」とも伊藤先生、肩肘張った歌から誰もが素朴に微笑むことのできる温かい歌、といったあたりが宮崎歌会の「ユーモア」の特徴でもあろうか。歌会は約2時間半に及び、充実の時間を今月も過ごすことができた。
来年は久しぶりに新年会の計画も
歌会後は伊藤先生とともに明日の牧水トーク&朗読のリハーサルへ
実りの秋、充実の心の花宮崎歌会である。
tag :
「私」個人を離れた歌ー第373回心の花宮崎歌会
2022-09-04
冒頭に伊藤一彦先生鑑賞二首「共感を呼びやすい歌」=「常識的で限界がある」
一点に絞り事実関係を示した歌 等々
先月はあまりの感染拡大に、通信投票のみとなった宮崎歌会。今月は対策を取りながら対面の歌会が戻ってきた。だがこの期に南海上に変則的な動きを見せる台風11号があり、前線が刺激され宮崎地方は急激な豪雨や雷雨が続いていた。その影響もあってか、参加者は通常よりも少なく互選票の投票者(投票歌に批評のコメントを述べる)も出詠者も「欠」の多く付く詠草となった。今回からの試みとして、冒頭に伊藤一彦先生が選ばれた【今月の二首】が始まった。今回は高野公彦氏と武藤善哉氏の歌を引き、短時間ながら作歌に参考となる内容が語られた。「ウクライナ侵攻」の歌も数多くある中で、高野氏の歌は「プーチン」という「人間をもう一度見直す」視点が提起されている。世界の多くの人々が彼に「憎悪」の思いを投げるな中で、「人間」として見つめる視点が新鮮だという。それでもなお「作者は憎悪を抱くのが読める」とするが、評ともども絶妙な歌である。また武藤氏の歌は、「人間の文明への視点」があり「『私』個人を離れた歌」も作ると作歌が拡がりを持つというお話だった。
出詠43首、互選7票1首、4票2首、3票3首、2票4首 1票10首、可能性無限大23首という結果であった。選者は伊藤一彦・大口玲子・長嶺元久・俵万智(5首選のみ歌会は欠席)の4名。主な議論の焦点は、「シンプルでわかりすぎる歌」への疑義で「共感を呼びやすいが常識的で限界がある」ことが何首かの歌を対象に語り合われた。また反対に「わからない歌」、三十一文字の表現からは意味が十分に伝わらず解釈ができない、「謎の深すぎる歌」への言及もあった。前述の鑑賞2首の歌も、至って意味内容は捉えやすい。だが読めば読むほど、その内容に奥深さや展開、考えさせられる内容が湧き出てくる。そんな共感と驚愕の「短歌の中庸」を、目指すべきなのだろう。歌会は2時間半近くに及び、心配された豪雨や雷雨にも見舞われなかった。未だ講義形式の座席で席間を空けているのだが、座を囲み議論しさらには懇親会までが楽しくできるのはいつの日のことのなるのだろう。そう考えつつ、1ヶ月1回の貴重な時間を噛み締めている。
選者5首選の発表でお開き
再び来月の歌への思いを募らせて
久しぶりの来訪者も参加する充実した宮崎歌会であった。
tag :
推敲論ー第371回心の花宮崎歌会
2022-07-03
短歌は長い時間を詠うのが苦手結句にある表現は本当に作者の言いたいことなのか?
「てにをは」と「語順」が推敲の要点
第371回心の花宮崎歌会、恒例の第1土曜に出詠44首、選者・伊藤一彦さん・長嶺元久さん、互選票6票1首・4票2首・3票2首・2票10首・1票7首・可能性無限大(0票)22首。5首選は選者2名に加えて、残念ながら欠席の俵万智さん・大口玲子さんからもいただいた。午後4時半に開始で約2時間半、かなりコロナ以前と同様の時間で実施することができるようになった。高得票の歌から批評することでじっくり意見が交流し、可能性無限大の歌は選者2名から評が為された。高得票から時間を費やすのは、やはり表現に長け多様な解釈の可能性を含むからである。他者にわからず表現力が乏しい歌に、時間を無為に割かないためでもあると云う。だが選者4名の5首選に可能性無限大の歌が入選することもある。この段差が歌会全体の「歌の読みの次元」ということになろうか。「わかり過ぎる」歌にただただ共感して選ぶのではなく、解釈に迷いながら興味の深い歌を選ぶことが求められるであろう。自分の「選歌」の位置と選者のそれとの差と距離を把握しながら、「なぜ?」という疑問に表現を根拠にしつつ具体的にことばにできることが肝要であるように思われる。もちろん選者の間で、その評に違いがあるのも自明である。ここが短歌の面白さである。
この日は冒頭に伊藤一彦さんが「短歌研究賞受賞」という速報もあり、お祝いのことばが贈られた。昨年(2021年)『角川短歌11月号』「さなきだに」20首が対象作品だ。題名の「さなきだに」は「そうでなくてさえ。ただでさえ。さらぬだに。」の意味。コロナの日常や戦火を予見するような歌に加え、AI(人工知能)やハラスメントなどの現代的素材、そして自他の生命に思いを致す歌が落ち着いた文体で語られる作品だ。ご本人は「意外な受賞」と謙遜されているが、あらためてその取材や文語文体の表現を深く味わい直すべきだろう。宮崎に居りながら社会のどんな側面に目を向けるべきか、なども考えさせられる。さてその伊藤一彦さんから今回の歌会で特に強調されたのが「推敲論」である。ある出詠歌を対象に、具体的に推敲すべき要点が語られ大変に参考になった。①結句の表現は本当に言いたいことなのか吟味する②短歌は長時間を詠うのが苦手。長い時間の中の1点を切り取る焦点化が為されているか③「てにをは」と「語順」が推敲の要点。といった点が挙げられた。そして推敲していくと「日々考えが変わるのが面白い」とも述べられた。〆切の最低1週間前に歌はできていて、推敲すべき時間を確保する必要があると説かれた。多くの会員にとって、大いに参考になり説得力のある「推敲論」であった。
「絵に描ける」かどうか?
「あなた」や「主体」に対して多様な解釈も
司会を務めた歌会は未だ講義形式の座席で意見が出づらい、車座の復活が待たれる。
tag :
「芝生には聴こえる」ー第370回心の花宮崎歌会
2022-06-05
「言葉の怖さ」と戦争「深海魚」と眼疾
「みどりごの足音が芝生には聴こえている」
先月から復活した対面歌会、今回は前回までに設けていた1時間半程度の時間制限もほぼなくなり2時間半に及ぶ歌会となった。よく会食制限などにも「2時間」などとされるが、果たしてどれほど感染予防に効果的なのかと思う。歌会はマスク装着で検温(公民館入り口に自動装置が設置)換気を施し「喋る」ことが主となる。以前と違うのは、依然として「講義形式」の机配列ぐらいであろうか。兎にも角にも「短歌の仲間」と1ヶ月に1回、こうして集えることが実に尊いことを実感する。出詠49首、互選6票2首、4票2首、3票2首、2票3首、1票15首、可能性無限大25首という投票結果である。(事前にメール等で事務局が集計)それにしても詠草作成から互選の集計、また毎月の「こころの花だより」(宮崎歌会の事務連絡一覧プリント・今回でNo51)の発行という大変な作業を毎月重ねている事務局は、大変なご苦労かと思う。僕などはせいぜい司会として貢献するだけであるが、「歌会」が成立する裏にこうした事務作業があることを忘れてはならないだろう。来月はせめてもの司会者として貢献する予定になっている。
小欄には詠草の歌が特定されることは控えているが、興味深い議論を自らの覚書として記しておく。まず「さびしさ」という感情語の使用について、一般的に避けるべきとされるが敢えて使用すると効果的という場合があることを知った。その語の代替案も歌評の中で提示されたが、むしろ歌を「理屈」にしてしまう印象であった。牧水の歌などでは「さびしさ」「かなしみ」などはよく使用されるが、「時代」を考慮しながらもこうした感情語の高度な使用には注目した。それにしても「戦争」への耐え難い感情を詠もうとする歌は、現在はいずれの投稿歌でも多いだろう。次にこれもまた牧水の「海底に目のなき魚の・・・」の歌も取り上げながら評されたが、「深海魚と眼疾」とのつながりを発想した歌は大変に興味深かった。さらに「みどりご(嬰児)」が芝生を歩む場面の歌、「芝生に足音はするのか?」という疑問が呈されたが、伊藤一彦先生が「人には聴こえないが芝生には聴こえる」といった評をなさり図らずも腑に落ちた。「自然との親和性」牧水の歌に見える特長を、宮崎歌会そのものがどこかで意識しているといった議論も多く、地域の歌会として誠に特筆すべきことのように思われた。
選者出席者:伊藤一彦・俵万智・長嶺元久(各5首選あり)
詠草の歌は50首に迫る
さらに毎月ごとに平常の形態に戻ることを期待して。
tag :