心の花宮崎歌会3年ぶりの新年会
2023-01-09
再びの感染者数の増加に伴い午前中の歌会は中止とし午後からの新年会のみ開催
距離がありつい立てのある円卓に今年の短歌を語り合う
新年となって1週間が経過した。毎月第一土曜日に開催される心の花宮崎歌会の新年は、8日(日)の開催で3年ぶりの新年会が予定されていた。しかし再びの感染者数の増加、ここのところの死者数の増加(県内の状況も)を鑑みるにやはりこの感染症はまだまだ侮れない。急遽、午前中の歌会は中止となり、午後からの新年会のみを対策を十分に施して開催することになった。宮崎歌会では、コロナ禍前まで歌会と新年会を融合する形で実に充実した行事として開催していた。その「新年会」も2021年2022年と行われず、誠に残念な年の初めとなっていた。やはりあらゆることに「初・・・」があるように今年の短歌は、心の花歌会新年会で始まるという「日常」を早く取り戻したい。そんな思いが募った末に、事務局の方々の大変な努力と工夫があって、この日は新年会が開催された。
冒頭に伊藤一彦先生のご挨拶。歌会そのものも感染対策の上で授業教室の形式で行ってきているために、新入会員の方々が相互に顔と名前が一致しないことを憂えることが指摘された。歌会においてはやはり顔を突き合わせることが、実に大きな意義であることがわかる。会は黙食を前提としつつその後に、新入会の方々の自己紹介が行われた。さらには歌会ができなかったのを補うべく、選者である伊藤先生と大口さんから5首選の歌について評がなされた。「ネックレス」の擬人化、過去と対比した「前線」の兵士たちのクリスマス、感情の「前借り」、など秀歌の要所を押さえる歌評がなされることで、題詠「前」の多様な表現が確かめられた。新年会そのものは「2時間」に限定されたが、やはり一堂に介しての時間は貴重な今年のスタートとなる。今年も1ヶ月に1回のこの機会を柱に、毎月の新しい自分を見つけてゆきたいと思う。
歌壇賞の久永さんをはじめ若手の参加も多く
多様な年齢層である宮崎歌会をさらに活性化するために
閉会後にはさらに若手らとじっくり語らう時間を持つことができた。
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比喩とユーモアー第375回心の花宮崎歌会
2022-11-13
比喩こそ歌の醍醐味ジョークではなくユーモアのある歌
冒頭は牧水賞受賞の奥田亡羊氏の歌2首鑑賞
諸々の事情で通常の第1土曜日から、今月は第2土曜日開催の心の花宮崎歌会。冒頭に伊藤一彦先生の「旭日小綬章」叙勲について、会員全員から温かい祝意が湧き起こった。また仙台へ移住された俵万智さんのこれまでのご参加に感謝する弁とともに、今後も宮崎歌会には「5首選」として参加し続けていただけるとの紹介があった。毎月1回はお会いできる可能性がなくなったのは寂しさが拭えないものの、俵さんの宮崎歌会への愛が感じられて誠に嬉しいニュースであった。冒頭は9月から開始された伊藤一彦先生の2首鑑賞、今月は牧水賞受賞が決まった奥田亡羊氏の歌から。歌集『花』のタイトルにもなったであろう「かけてゆく子どもの声は遠く近く/風にちぎれて耳に咲く花」が取り上げられ、「声」を「耳に咲く花」と比喩した点に「声へのいとしさ」が表現されているとの鑑賞。またスポーツなど様々な取材経験を素材にした歌も取り上げ、素材の豊富さにも言及された。また「二行書き」の表記方式は石川啄木が試みてからあまり為されていないが、表現方法の挑戦として歌の懐が深くなっているとのこと。短時間ながら伊藤先生の鑑賞から、歌をより良くするにはどうするか?という要点が的確に伝わってくる。
さて、出詠47首、互選票高点は5票2首、4票2首、3票2首、2票4首、1票8首という結果であった。今回の歌会を通じて要点となったのは「比喩」と「ユーモア」。まずは「比喩」こそが歌の醍醐味という伊藤一彦先生の指摘もあり、各歌の「比喩の質の高さ」が読み解かれていく。比喩は読み手側の受け止め方の深浅にも関わり、比喩の奥深さを読み解けば腑に落ちる描写の精度が表れることがわかる。『万葉集』以来の「寄物陳思」や『古今集』仮名序に示された「六義」で論じられたように「やまとうた」表現の根幹を支えるのが「比喩」と言ってもよい。次にユーモアの歌、古典和歌から明治大正期の歌まではなかなかユーモアが含まれることも少なかった。だが現代短歌に至り、素材の自由さとともに様々なユーモアが含まれるのは豊かな心が担保されているということだろう。「ユーモア」は人を笑わせるだけの「ジョーク」とは違う、という伊藤一彦先生の指摘。ある意味で江戸俳諧の「洒脱・軽み」などをうまく融合して現代短歌に至ったようにも思われる。「(表現者に)余裕がないとユーモアは詠めない」とも伊藤先生、肩肘張った歌から誰もが素朴に微笑むことのできる温かい歌、といったあたりが宮崎歌会の「ユーモア」の特徴でもあろうか。歌会は約2時間半に及び、充実の時間を今月も過ごすことができた。
来年は久しぶりに新年会の計画も
歌会後は伊藤先生とともに明日の牧水トーク&朗読のリハーサルへ
実りの秋、充実の心の花宮崎歌会である。
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「私」個人を離れた歌ー第373回心の花宮崎歌会
2022-09-04
冒頭に伊藤一彦先生鑑賞二首「共感を呼びやすい歌」=「常識的で限界がある」
一点に絞り事実関係を示した歌 等々
先月はあまりの感染拡大に、通信投票のみとなった宮崎歌会。今月は対策を取りながら対面の歌会が戻ってきた。だがこの期に南海上に変則的な動きを見せる台風11号があり、前線が刺激され宮崎地方は急激な豪雨や雷雨が続いていた。その影響もあってか、参加者は通常よりも少なく互選票の投票者(投票歌に批評のコメントを述べる)も出詠者も「欠」の多く付く詠草となった。今回からの試みとして、冒頭に伊藤一彦先生が選ばれた【今月の二首】が始まった。今回は高野公彦氏と武藤善哉氏の歌を引き、短時間ながら作歌に参考となる内容が語られた。「ウクライナ侵攻」の歌も数多くある中で、高野氏の歌は「プーチン」という「人間をもう一度見直す」視点が提起されている。世界の多くの人々が彼に「憎悪」の思いを投げるな中で、「人間」として見つめる視点が新鮮だという。それでもなお「作者は憎悪を抱くのが読める」とするが、評ともども絶妙な歌である。また武藤氏の歌は、「人間の文明への視点」があり「『私』個人を離れた歌」も作ると作歌が拡がりを持つというお話だった。
出詠43首、互選7票1首、4票2首、3票3首、2票4首 1票10首、可能性無限大23首という結果であった。選者は伊藤一彦・大口玲子・長嶺元久・俵万智(5首選のみ歌会は欠席)の4名。主な議論の焦点は、「シンプルでわかりすぎる歌」への疑義で「共感を呼びやすいが常識的で限界がある」ことが何首かの歌を対象に語り合われた。また反対に「わからない歌」、三十一文字の表現からは意味が十分に伝わらず解釈ができない、「謎の深すぎる歌」への言及もあった。前述の鑑賞2首の歌も、至って意味内容は捉えやすい。だが読めば読むほど、その内容に奥深さや展開、考えさせられる内容が湧き出てくる。そんな共感と驚愕の「短歌の中庸」を、目指すべきなのだろう。歌会は2時間半近くに及び、心配された豪雨や雷雨にも見舞われなかった。未だ講義形式の座席で席間を空けているのだが、座を囲み議論しさらには懇親会までが楽しくできるのはいつの日のことのなるのだろう。そう考えつつ、1ヶ月1回の貴重な時間を噛み締めている。
選者5首選の発表でお開き
再び来月の歌への思いを募らせて
久しぶりの来訪者も参加する充実した宮崎歌会であった。
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推敲論ー第371回心の花宮崎歌会
2022-07-03
短歌は長い時間を詠うのが苦手結句にある表現は本当に作者の言いたいことなのか?
「てにをは」と「語順」が推敲の要点
第371回心の花宮崎歌会、恒例の第1土曜に出詠44首、選者・伊藤一彦さん・長嶺元久さん、互選票6票1首・4票2首・3票2首・2票10首・1票7首・可能性無限大(0票)22首。5首選は選者2名に加えて、残念ながら欠席の俵万智さん・大口玲子さんからもいただいた。午後4時半に開始で約2時間半、かなりコロナ以前と同様の時間で実施することができるようになった。高得票の歌から批評することでじっくり意見が交流し、可能性無限大の歌は選者2名から評が為された。高得票から時間を費やすのは、やはり表現に長け多様な解釈の可能性を含むからである。他者にわからず表現力が乏しい歌に、時間を無為に割かないためでもあると云う。だが選者4名の5首選に可能性無限大の歌が入選することもある。この段差が歌会全体の「歌の読みの次元」ということになろうか。「わかり過ぎる」歌にただただ共感して選ぶのではなく、解釈に迷いながら興味の深い歌を選ぶことが求められるであろう。自分の「選歌」の位置と選者のそれとの差と距離を把握しながら、「なぜ?」という疑問に表現を根拠にしつつ具体的にことばにできることが肝要であるように思われる。もちろん選者の間で、その評に違いがあるのも自明である。ここが短歌の面白さである。
この日は冒頭に伊藤一彦さんが「短歌研究賞受賞」という速報もあり、お祝いのことばが贈られた。昨年(2021年)『角川短歌11月号』「さなきだに」20首が対象作品だ。題名の「さなきだに」は「そうでなくてさえ。ただでさえ。さらぬだに。」の意味。コロナの日常や戦火を予見するような歌に加え、AI(人工知能)やハラスメントなどの現代的素材、そして自他の生命に思いを致す歌が落ち着いた文体で語られる作品だ。ご本人は「意外な受賞」と謙遜されているが、あらためてその取材や文語文体の表現を深く味わい直すべきだろう。宮崎に居りながら社会のどんな側面に目を向けるべきか、なども考えさせられる。さてその伊藤一彦さんから今回の歌会で特に強調されたのが「推敲論」である。ある出詠歌を対象に、具体的に推敲すべき要点が語られ大変に参考になった。①結句の表現は本当に言いたいことなのか吟味する②短歌は長時間を詠うのが苦手。長い時間の中の1点を切り取る焦点化が為されているか③「てにをは」と「語順」が推敲の要点。といった点が挙げられた。そして推敲していくと「日々考えが変わるのが面白い」とも述べられた。〆切の最低1週間前に歌はできていて、推敲すべき時間を確保する必要があると説かれた。多くの会員にとって、大いに参考になり説得力のある「推敲論」であった。
「絵に描ける」かどうか?
「あなた」や「主体」に対して多様な解釈も
司会を務めた歌会は未だ講義形式の座席で意見が出づらい、車座の復活が待たれる。
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「芝生には聴こえる」ー第370回心の花宮崎歌会
2022-06-05
「言葉の怖さ」と戦争「深海魚」と眼疾
「みどりごの足音が芝生には聴こえている」
先月から復活した対面歌会、今回は前回までに設けていた1時間半程度の時間制限もほぼなくなり2時間半に及ぶ歌会となった。よく会食制限などにも「2時間」などとされるが、果たしてどれほど感染予防に効果的なのかと思う。歌会はマスク装着で検温(公民館入り口に自動装置が設置)換気を施し「喋る」ことが主となる。以前と違うのは、依然として「講義形式」の机配列ぐらいであろうか。兎にも角にも「短歌の仲間」と1ヶ月に1回、こうして集えることが実に尊いことを実感する。出詠49首、互選6票2首、4票2首、3票2首、2票3首、1票15首、可能性無限大25首という投票結果である。(事前にメール等で事務局が集計)それにしても詠草作成から互選の集計、また毎月の「こころの花だより」(宮崎歌会の事務連絡一覧プリント・今回でNo51)の発行という大変な作業を毎月重ねている事務局は、大変なご苦労かと思う。僕などはせいぜい司会として貢献するだけであるが、「歌会」が成立する裏にこうした事務作業があることを忘れてはならないだろう。来月はせめてもの司会者として貢献する予定になっている。
小欄には詠草の歌が特定されることは控えているが、興味深い議論を自らの覚書として記しておく。まず「さびしさ」という感情語の使用について、一般的に避けるべきとされるが敢えて使用すると効果的という場合があることを知った。その語の代替案も歌評の中で提示されたが、むしろ歌を「理屈」にしてしまう印象であった。牧水の歌などでは「さびしさ」「かなしみ」などはよく使用されるが、「時代」を考慮しながらもこうした感情語の高度な使用には注目した。それにしても「戦争」への耐え難い感情を詠もうとする歌は、現在はいずれの投稿歌でも多いだろう。次にこれもまた牧水の「海底に目のなき魚の・・・」の歌も取り上げながら評されたが、「深海魚と眼疾」とのつながりを発想した歌は大変に興味深かった。さらに「みどりご(嬰児)」が芝生を歩む場面の歌、「芝生に足音はするのか?」という疑問が呈されたが、伊藤一彦先生が「人には聴こえないが芝生には聴こえる」といった評をなさり図らずも腑に落ちた。「自然との親和性」牧水の歌に見える特長を、宮崎歌会そのものがどこかで意識しているといった議論も多く、地域の歌会として誠に特筆すべきことのように思われた。
選者出席者:伊藤一彦・俵万智・長嶺元久(各5首選あり)
詠草の歌は50首に迫る
さらに毎月ごとに平常の形態に戻ることを期待して。
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1首のために集う意義ー第369回心の花宮崎歌会
2022-05-15
未だ収まらぬ県内感染者の増加はあれど1時間限定として開催された対面歌会
1首のために集える意味を噛み締めて
宮崎県内の感染状況は再び増加傾向で、8日連続で前週比増となり14日は550人の感染が発表された。直近1週間の人口10万人あたりの感染者数は「345.18人」となって、沖縄・北海道に続く全国3位。GW明けの5/6には「185.21人」であったのが、この1週間で倍近くに跳ね上がった。山梨・愛媛・徳島・長野・山形・鳥取・島根あたりの県が人口10万人あたりを「150人以下」に抑えていることから考えると、地方としては誠に高い数字であり警戒を緩めるわけにはいかない。このような事情でこの日の歌会も開催如何が事務局で検討されたようだが、やはり1ヶ月に1回は対面で集う意義を重視して1時間限定ながら歌会が開催された。出詠45首、欠席もやむなく目立ったようだが、それなりの人数が中央公民館大研修室に集った。その部屋の雰囲気、いつもの面々が揃うということ。毎月20日の〆切に向けて歌を提出し、此処に集うことの深い意義をあらためて感じさせられる。
1時間という時間限定ということもあり、高点歌に限定しての歌評となった。個別の歌に言及することは控えるが、いずれも素朴な中に心を絡め取られる要素がある歌と言ったらよいだろうか。また多様過ぎるのも問題はあるが、解釈が限定されず広く読める歌であることも重要である。描写された光景が「寂しい」と読むのか?「納得」と読むのか?議論が分かれた歌があったが、伊藤一彦先生の歌評では「その双方の意味合いを含むのではないか」という指摘もあった。ということは当該歌が、実に微妙に「葛藤」を表現していることになる。「素朴」だけでは読んだ際に「そうですか」と通り過ぎてしまうが、「心を絡め取られる」というのはこうした「対立」する感情を読者が抱くということではないだろうか。とりわけ歌の中で肝となる喩の中に、そのような多様な対立が読める歌には、自ずと互選票も多いように思われた。歌会そのものはご欠席であったが俵万智さん・大口玲子さんの5首選も発表され、短縮ながら意義深い歌会はお開きとなった。
1首のために集う歌仲間
伊藤一彦先生の弁に学ぶ奥深さ
ありがたきかな宮崎歌会
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第363回「心の花」宮崎歌会ー助詞と語順構成
2021-11-07
旧来の2時間半で41首講義形式の座席・手指消毒・マスク
多くの意見が交流する歌会へ向けて
月例第一土曜日は「心の花宮崎歌会」、これまで感染状況にも翻弄されながら通信投票などの苦労も重ねて継続されてきた。あらためて、事務局で詠草・投票・連絡などに関係している方々に深い感謝を申し上げたい思いだ。そして感染状況の改善に伴い、1時間半などに短縮し互選評と選者評のみに要点を絞って展開する形式から、従来の様々な議論が展開する形式を模索する段階まできた。未だ座席は講義形式の着座をお願いしているので、大学講義と同様になかなか前に着席する人が少なく、意見が消極的になりやすい。どうもこの「語る人」「聞く人」と分断してしまう講義形式の着座には、対話をする上での物理的欠点があるのだと思う。今回も司会を仰せつかったが、「ご意見をどうぞ」と求めるが沈黙の時間も目立った。小中高の授業でもそうだが、「先生の正解を待つ」という誤った気持ちを講義形式の着座は助長する。「国語」の授業でも「先生の考えも一解釈で絶対的ではない」ことを常識にすべきと思うが、歌会でも「選者の意見が正解」であるとは考えない方が良いように思う。そこに短歌の解釈の多様性と魅力があるのではないか。
従来は四十人の車座というか、大きな長方形を組んで自由で多様な意見が出ていた宮崎歌会。新型コロナによって、この利点を失うわけにはいかない。時間はたっぷり2時間半まで回復したので、ぜひ次は車座の形式と積極的な会員諸氏の意見が復活することを望む。さて出詠41首、互選最高得票は5票、以下3票3首、2票5首、1票14首、可能性無限大18首という投票結果である。選者は伊藤一彦・俵万智・長嶺元久の3名、選者の5首選も最後に発表される。今回の歌会の評で目立ったのは助詞の使い方、「に」「と」は説明的になり、「の」では曖昧なので「を」ではないかなど、やはり短歌にとって助詞こそが勝負所ではないかと考えさせられた。俵万智さんの的確な推敲案にいくつも納得する機会があったが、やはり俵さんの歌作りは助詞への徹底的なこだわりがあるのだと痛感する。助詞一つで「詩を詠う」はずが、「散文的説明」になってしまうのだ。また伊藤一彦さんから指摘さた、結句の重要性も深く考えさせられた。例えば下の句の「七・七」を反転させるだけで、結句に来る詠物が圧倒的に焦点化される。上の句下の句の入れ替えなどを含めて、短歌の構成という点にも推敲段階で多様にこだわりたいと痛感する。その構成・見せ方が上手くいっている歌はやはり互選票も選者票も得ているようである。また動詞で表現するか名詞で表現するかも、推敲の大きな要点であることが具体的な歌を通じて語られた。やはり宮崎歌会は、学ぶところ満載な歌会である。
月に1回でも歌の仲間と会えること
マスクながら顔を突き合わせ歌が語れること
今後の感染状況を考慮の上だが、あとは懇親会の復活が待たれるところである。
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わかりすぎる歌ー第362回心の花宮崎歌会
2021-10-10
3ヶ月ぶりに対面歌会まだ車座は控えているが盛んに意見が交わされて
「わかりすぎる歌」という指摘について
全国の新型コロナ感染状況がだいぶ落ち着いてきた。宮崎では「感染者0」という日もあり、「まん延防止」の解除もあって、ようやく街に人が出てきた印象だ。宮崎駅前にはちょうど1年前に開業したアミュプラザ宮崎のビルがあり、その東側の公園内敷地に中央公民館がある。隣接する市民体育館は、宮崎一番の規模のワクチン接種会場。今も接種のために来訪する人の波が続いており、接種率を可視化できるような気分になる。宮崎歌会は出詠44首、評をする選者に伊藤一彦・大口玲子・長嶺元久の三名で、会員は主に互選票を入れた歌に対して意見を言う方式で進められた。互選票は事前にメールその他で提出されており、集計されて「心の花だより」に示されている。「たより」にはその他の短歌関連情報も掲載され、毎回の事務局長の努力には頭が下がる。コロナによってこうした歌会の方法も改められ効率化が促進した部分もあるようだ。未だ以前のように活発な討議までは及ばないものの、同じ空間に各自が一首を持ち寄って語り合うことの意義は大きい。
今回の歌会の批評でくり返されたのが、伊藤一彦先生による「わかりすぎる歌」という指摘である。読後に「心に引っ掛かりがない」とか、「付きすぎる」とも言葉は置き換えられたものも同想の指摘だろう。常套的な表現にさらに上塗りをしていくとか、「発見」のように見えるが読者として「そうですか」と考えが深まらない歌ということになろうか。牧水も歌論の中で「そうですか歌」という言い方で指摘している。歌の取材の独自な視点とともに描写の的確さ、その表現の中にどんな主張があるか?を読者があれこれと深堀りできる奥行きがある歌が、やはり互選票でも得票が高い。独自な視点でありながら、読者の多くが共感することも重要であろう。取材・表現・歌の心といった三要素に加えて、独自の噛み応えがあることが重要だ。素朴だが深い、深刻だがユーモアもある、その絶妙な地点に歌を直立させることが肝要と悟る。
表現を入れ替えるなどの推敲
不思議が多い歌のおかしみ
「ふかいことをおもしろく」(井上ひさし「創作の原点」)
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決め過ぎ・ワントーン・結句の着地ー第359回心の花宮崎歌会
2021-07-05
国文祭・芸文祭開会式から一夜明け毎月1回は集まれる短歌の仲間
依然、感染対策は十二分に施しつつ
心の花宮崎歌会の月例会、出詠40首、欠席者はあるが日曜ながら多くの方々が中央公民館に集まった。会場は市立体育館に隣接しており、そこではワクチンの集団接種も行われている。歌会そのものも依然、席を囲むようには座らず講義形式で座り、歌評をする際はマイクが置かれている特定の場所で発言するような会場作りへの配慮がある。もちろんマスク・手指消毒は必須である。会員の中には医師もいらして、助言を活かした運営となっているのはありがたい。まずは少なくとも月に一度はみんなで集まれることに幸せを感じるべきなのだろう。選者は伊藤一彦先生と俵万智さん、投票した歌への各会員からの歌評ののちにお二人から評をいただき歌会は順調に進行した。以下、主に選者の歌評の気になった点を覚書とする。
【決め過ぎ】詩歌は決まりすぎると、むしろよくない場合がある。全体の表現が実に巧みで素材が光り輝くような歌、決め過ぎはむしろ虚構の味付けが濃くなってしまうのだろうか?確かにファッションでもブランド物で決め過ぎると、むしろオシャレに見えない場合がある。言語芸術の匙加減は誠に難しい。
【ワントーン】一首が「ワントーン」であるという指摘が何首かに見られた。もちろん「詰め込み過ぎ」はさらに避けるべきではあろうが、「素直過ぎる」歌には読者の目に止まる引っ掛かりがないということだろう。関連して、「字余り」の歌が散見されたが、全体の構成上の均衡があればむしろ効果的な場合があることを再確認した。
【結句の着地】例えば、結句をどうしようかと考えて「朝」などとしてしまう場合は少なくない。だが果たして一首で一番言いたいことは「朝」なのかどうか?また明らかな結論を結句で言ってしまうのもご用心。もちろんそこには、虚構の匙加減も作用する場合がある。酒量を結句とする歌があり、その分量の加減への意見が割れたのは誠に一興。これぞ心の花歌会ならではの心意気であろう。
国文祭・芸文祭みやざき2020実行委委員会会長である
伊藤一彦先生から関連したお話も
開会式で「短歌県みやざき」の存在感を天皇皇后両陛下にもお伝えすることができたかと。
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ことばの精度に敏感たれー第358回心の花宮崎歌会
2021-06-14
比喩をいかに読むのか?動詞の微妙な違いへの繊細な意識
五七五七七のどこにどのように語を置くか?
先月は県独自の緊急事態宣言もあり開催できなかった定例歌会であったが、今月は県内の感染者数も落ち着き中央公民館で開催することができた。会場の隣は宮崎市のワクチン集団接種会場である中央体育館、特設されたタクシー降車場や看板類が目に止まり時勢を感じさせた。出詠44首、選者を伊藤一彦先生・俵万智さん・長嶺元久さんとして、事前投票の結果が一覧とされ会員は投票した歌に対して評を述べるという形式で時短を意識して会が進行した。2時間で44首の評を終えるには今のところこの方法が最善かと思う。本来ならば投票歌以外にも会員の意見が多く述べられて、議論が活性化するのが本望であろうがしばらくは様子見といったところか。司会を仰せつかり、手際よく先に進めることに尽力した。以下、個人的に歌評の中で覚え書きとしておきたい点を記す。
・【比喩の読み】
比喩として提示された表現をいかに読むか?もちろん読者ごとにそれぞれの「読み」が平等に認められるべきと思うが、それだけに歌会での多様な捉え方に耳を深く傾ける必要がある。例えば「風のような」とある時に、今現在自ら読んでいる書物などに左右される自己を発見した。「比喩」そのものが流動性あるものなのかもしれない。ゆえに愉しいのだ。さらには「オノマトペ」に諷諭的な意味を取る解釈が為され脱帽。
・【語句選択の精度】
動詞などで類似したものがある際に、どれほどの精度で使用するかにこだわるべきという貴重な学びを得た。日常生活でもどれほどの精度で語句を使用しているのか?常に繊細に意識すべきと痛感した。そこにはあくまで何も知らない人に「伝える」という深い意識が垣間見えた。当然だと思って使用した語句に疑いを持ってみよう。
・【三十一文字のどこに置くか】
あらためて三十一文字のどこにどのように語句を配するかは、大変に重要なことだと学ぶ。個々の「文体」という個性とともに、いかなる順番で歌を演出するかという意識を推敲時に持つべきだろう。素材の焦点化を含めて三十一文字という舞台の見せ方は、実に多様な操り方ができるはずである。
新語を使用した歌なども
やはりライブ感ある歌会の妙味
さらに深く語り合え、そして懇親会ができるのはいつの日か。
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