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肉声で歌を語れるー第355回心の花宮崎歌会

2021-03-14
久しぶりの対面歌会
宮崎県内の新規感染者の落ち着きを背景に
1ヶ月に1度は肉声で歌を語れる場として

宮崎県内の新規感染者は「0」の日も続き、久しぶりに心の花宮崎歌会は対面で開催されることになった。年末年始の急激な新規感染者増加で新年歌会からして中止であっただけに、会員のみなさんにとっても待望の一日であった。もちろん円座になることもなく、消毒や換気をし時間も最小限という配慮の元での開催であった。事前に互選票を事務局宛に投票しておき、「こころの花だより」に他の貴重な情報とともに投票結果を掲載していただいている。この日は司会を担当したが一覧表があるために歌評をする方々が順番にスタンドマイクの位置まで移動し、スムーズに語れたのは大いに時間節約となった。投票のない「可能性無限大歌」については、全体を三分割し伊藤一彦先生・俵万智さん・長嶺元久さんらの評をいただき、歌会は最後に選者への質問コーナーまで実施でき円滑な進行を果たすことができた。

出詠歌についての言及は控えるが、特に話題となった点を覚書としておきたい。まずはよく言われることだが助詞の選択、「は」「の」「が」「も」「に」等々どれがその歌に適切かは推敲に推敲を重ねる必要があるようだ。次に「五七五七七」において、どの語句をどこに置くかということ、下の語への係り方によって意味が十分に伝わらないとか、解釈を取り違える可能性がある場合に注意が必要だ。また特に俵万智さんから提案された「短歌トレーニング」方法として、結句を「三月」とする歌をいかに「詩のことば」で表現できるか?その月の季節観を自分なりの歌にする良いトレーニングだと云う。さらに短歌は俳句と違い、当該の季節の歌でなくとも出詠が可能だということも確認された。いずれも具体的な場面・情景が見える歌、思いも寄らぬ比喩のある歌が互選高点となり、選者の5首選にも選ばれている。

それにしても肉声の歌会はやはりいい
春に浮かれず感染対策への意識を持ち次の歌会を待つ
この日があることで1ヶ月間、短歌への力が湧いてくる。


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短歌史を進める文学運動体

2020-12-08
「進行形の短歌史の最前線」
「1300年のやまとうたの歴史上に身を置く」
意識が動き出す佐佐木幸綱先生のことば

今月も所属する短歌結社誌『心の花』が届いた。家のポストだと時折、雨水が流れ込んで濡らすと困るので、大学学部宛に毎月届けられることになっている。メールボックスでその封筒を見つけるのが、1ヶ月で一番ウキウキするお届け物である。その場で即座に開封したい衝動を抑えソワソワしながら研究室に戻り、すぐさま開封しまずは自らの短歌がどのように選ばれたのかを探る。しばらくは夢中になって、その誌のページを繰り続ける。この想いは何であろうか?Webが活況を呈する時代に、書簡の恋文への返信が届いたように心を揺さぶられるひと時である。このような気持ちをさらに高めてくれる、主宰の佐佐木幸綱先生のことばにこの度は出逢った。先週末の「心の花宮崎歌会」で配布されたバックナンバーのコピー「短歌の現在ー選歌の現状」(2001年12月号)である。

本日の標題や冒頭に記したことば、「『心の花』はサービス機関ではない」「営業的投稿雑誌でもない」と勘違いを矯正しつつ、力強く「短歌史」の上に立つ「運動体」であると宣言している。選者の方々も情熱を注ぎ、それは「短歌に対する愛着と短歌史の未来への期待」によって支えられていると説く。前項で記したワクワク感のみでは済まされない、まさに「1300年の短歌史の上」における「最前線」で躍動する「運動体」こそが毎月の『心の花』なのである。このことばには、身震いがするような気概を覚えている。僕自身としては研究の射程にあった古典和歌と同線軸上に身を置いているというのが、あまりにもダイナミックな生き方である。今月号では「作品評」のご担当の方に「秀歌三十首+今年の収穫」に一首を選んでいただいた。もちろん、「月詠」と「メール題詠」にも自らの表現を見出した。「運動体」の一要素として、「最前線」に立つ決意を新たに歌を詠み続けたいと思う。

『心の花』1466号(2020年12月号)
日本で一番古く長い「運動体」である
今日の一首が大きな明日へと翔び立つごとく。


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歌に集う「運動体」ー第352回心の花宮崎歌会

2020-12-06
「ユーモア」の詠み方
単純化への匙加減
そのものを言わずそのことが伝わる

日本全国が感染拡大第3波に襲われている。状況からしてまた春先の対応に戻るのかなど懸念は多いが、感染対策を十分に施して年内最後の「心の花宮崎歌会」は開催された。三人掛けに1人が座り同じ方向を向く、限定1時間半、歌評は短く明解に、等々の配慮を十分に心掛けての開催である。事務局の対策を徹底する施しには、いつも頭が下がる思いである。出詠歌は43首、互選評の得票が多い歌から歌評をはじめ、ほとんど投票した歌にのみしか意見は言えない限定的な状態はやむを得ないところ。投票者の歌評ののちに、伊藤一彦先生と大口玲子さんの指摘が為されていく。

以下、いくつかを覚書としておきたい。「ユーモア」の歌の詠み方とはどうあるべきか?という問題提起が伊藤先生から為された。「川柳のようでは駄目」であり「どこか心の機微に触れる」表現が求められるということ。自省を込めて、やり過ぎの「ユーモア」は「心の機微」と遠くなってしまうようだ。また「単純化」の指摘もいくつかの歌に対して為された。作り込み過ぎるというか、表現が多重過ぎることで、伝えたいことがぼやけてしまうことが往往にしてある。新型コロナで新たな世相を素材とする歌も少なくないが、それが個々の心の機微といかに結びつくのか。「我」はいかにこの世界史に残る世相を生きているか。そんな気概と繊細な匙加減が必要なのだろう。

「短歌史を進める運動体である」
佐佐木幸綱先生の『心の花』(2001年12月号)
「選歌の現状」の紹介にも大きく心を動かされた。


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理由なく読んで楽しい歌ー第351回心の花宮崎歌会

2020-11-15
「理由から歌を作ってしまいがちだが
 ユーモアのある読んで楽しい歌もよい」
(歌会席上での伊藤一彦先生の評)

再び第3波の声が全国より聞こえる中、宮崎はまだ感染者「0」の日も続き対面でのリアル歌会が実施された。それでも中央公民館研修室に入れる人数は限定され、時間は1時間半まで、互選票を入れた歌に対して参加者の票はあるが、なかなか多くを自由に語る時間まではない。不自由さを感じつつも、何より月に1度でも歌仲間が集えるだけありがたい機会と思うべきであろう。何より評者(選者)として伊藤一彦先生に加え、俵万智さんの参加があるのが大変に贅沢な歌会である。この月例の時間こそが作歌のモチベーションを大きく上げてくれていることを、あらためて実感する。

本日の題にもしたことだが「理由」から歌を作るのではなく、ユーモアのある読んで楽しい歌があってもよいという伊藤先生の評は参考になった。当該歌に対しても僕自身は「なぜその歌の描写する現象が起きたのか?」と「理由」を求めていた。正岡子規が『古今集』や「紀貫之」を批判し、短歌における「理屈」を排除すべく攻撃したのは有名である。現代社会にあってはさらに「理屈」がはびこりだし、リアルな描写ではなく観念により頭の中で作った歌が多いのかもしれない。自然との親和性なども含めて牧水などからあらためて学び、宮崎ならではの歌を作る意志が必要なのではないかと思う。

宮崎方言の歌にも様々な議論が
季節の歌か現実的な相聞歌か
常套から抜け出す方向性は多様である。


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自然の素材が溢れているー第350回心の花宮崎歌会

2020-10-11
対面を再開して2回目の歌会
参加者の評があってこそ
歌も「新型」ばかりにあらず

新型コロナ感染対策で通信方式(メール等で詠草互選投票)のみから対面歌会を再開して2度目。変わらず消毒・マスク・距離などの対策が取られつつも、対面で歌会ができるのは誠に嬉しいものだ。出詠された短歌も「新型コロナ」に関連したものが多数ということもなく、秋の季節を感じさせる素材が増えたのも一つの傾向であった。海老・秋茄子・おみなえし・月見草・ガクアジサイ等々、植物や自然景物の歌が多く並ぶのも宮崎歌会の特長ではないかと思う。よって歌評においても植物へ造詣深い内容が聞けることもしばしばで、各ご自宅の庭にある植物と比較した評が聞けることも少なくない。あくまで統計的ではなく印象でしかないが、自然との距離が近い宮崎歌会の歌には心を癒される思いである。

さて、前回の対面は選者が三首を選んで講評をするという形式であったが、今回は事前に投票した歌に対して参加者からの評が加わった。マイクは回さずにスタンド式が会場の数カ所に立てられる、三人掛けの机に一人ずつという対策が取られる。時間も通常よりは短縮して1時間半、それだけに歌評で述べる内容を精査する必要もあり、むしろ引き締まった進行になった気もする。指摘されたこととして「地球」を「テラ」、「惑星」を「ほし」とふりがなをつけることは避けるべきではないかということ。また絶妙な比喩で現代の「生きづらさ」を述べた歌を讃える評もあった。また個人的にはカギカッコ「楽曲名」が詠み込まれた場合、その著名な歌詞のフレーズまでを含み込んで鑑賞を施してもよいかなどに興味が持たれた。

まだまだ会場での会話を控えるなど不自由さもあるのだが
いつしか350回の節目
月1回このように歌仲間と会えることだけでも貴重な時間なのである。


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俵万智『未来のサイズ』宮崎生まれの愛情に溢れた歌たち

2020-10-10
心の花宮崎歌会が初出の歌たち
確か批評もしたことがある歌も
母親の愛情そして教師の愛情

出版されたばかりの俵万智さんの第6歌集『未来のサイズ』をご本人からご恵贈いただき、既に通して3回読んだ。歌集冒頭に「2020年」が据えられており、コロナ禍で歴史に刻まれたこの年を、「ふかいことをおもしろく」短歌が紡ぎ出している。此処から2013年まで、俵さんがまだ石垣島で生活されている頃を素材とした歌もあり、宮崎へ移住されてきた時間を遡及することができる。そして何より僕たちにとって、心の花宮崎歌会に出詠された歌たちが歌集に収められていることが嬉しい。確か歌会で評を申し上げたことがある歌が何首かあって、まさに宮崎に住んでいる特権であるように、この歌集を楽しむことができる。

「『短所』見て長所と思う『長所』見て長所と思う母というもの」

『未来のサイズ』は、俵さんの息子さんへの母としての愛情に溢れていると同時に、居住された土地への愛情をたくさん読むことができる。人が生きる上で「愛情」とは何かを深く考えさせられる歌が多いのだ。もちろん、ご当地の美味しい食べ物への愛情も忘れることはない。掲出した歌は母としての「愛情」を素材とした歌だが、ある意味で「教師の生徒への愛情」にも置き換えられるように読めた。向き合う子どもの「長所と短所」を言語化する際に、何をどう書くか?教師は担任する学級の児童生徒について、記録として所見を記すという大切な仕事がある。その際の向き合い方が、まさに掲出歌の「母というもの」と等質な「愛情」をもっていることに気付かされる。俵さんご自身が大学卒業後に経験した「教師」、第1歌集『サラダ記念日』には「教師目線」の歌もあるが、その当時から一貫して変わらない豊かな愛情に『未来のサイズ」は溢れている。これぞ「全肯定」を旨とする俵万智の「一貫した新境地」のようにも思われる。

ご本人への御礼メッセージでお伝えしたこと
ご丁寧な返信をいただき感謝
宮崎での俵さんとの交流は、僕の人生史の上で誠にありがたい時間である。



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助詞の難しさ美しさー第344回心の花宮崎歌会

2020-02-02
「前を」なのか「前に」なのか?
「時間」なのか「場所」なのか?
短歌そして日本語の助詞の難しさ美しさ

毎月第一土曜日に開催される心の花宮崎歌会、今月は朔日ということで二月は短歌で始まる。また宮崎ではプロ野球5球団が一斉にキャンプイン、駅のコンコースにも各球団のユニフォームが展示されファンの方らしき観光客も姿も多かった。宮崎歌会では毎度、活発な意見交換が行われるが、今回特に話題となったのが助詞の使用法。冒頭に記したように「・・を」なのか「・・に」なのかで解釈は「時間」か「場所」かとふた通りの解釈が生じて、時間をかけた議論となった。この助詞が受ける動詞が「待つ」であり、「到来するべき時間(を)待つ」という文脈と、「到来すべき時間を待つ場所(に)」という解釈が生じた双方の意見があったと云うことである。議論は相互の解釈ともあり得るとして、なかなか着地点が見つからなかった。

日本語の助詞・助動詞を文法的には「付属語」と呼び、「単独では意味をなさない」ものと解説される。義務教育においては、小学校ではおおらかに前後文脈から適切な用例を学び、中学校では「口語文法」として学ぶことになっている。だが所謂「学校文法」としての体系や教え方が決して活用しやすいものではなく、教える側の教師さえも曖昧な中で模索しているのが現状である。まだ外国人向けの「日本語教育」の方法を採用すれば、むしろ明快な学びになるのではないかと思うのだが。「文法」そのものの学びも重要であるのだが、それ以上に「文脈」を読む力を重要視した方が活用できるものとなる。前述の短歌解釈の問題も、「待つ場所」に一首の焦点があるのか、「待つことで至る特別な時間」に焦点があるのかで、「を」か「に」の適切さが判明することになろうか。やはり短歌には、日本語の難しさと美しさが集約的に表れるものである。

同じ語の繰り返しの問題なども
小説にあった比喩的表現の使用はいかに
単純化の成功例なども


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第343回心の花宮崎歌会新年会ー題詠「長」

2020-01-05
「長椅子」「長寿」「長男」から
「長い夜」「長介」や「長・内科」の固有名詞
「白長須鯨」まで

新年歌会始、心の花宮崎歌会は第一土曜日の原則もあり例年より早い三ヶ日明けの開催。詠草には通常よりも多い47首と50に迫る歌が並び、賑やかな新年歌会となった。題詠は「長」、冒頭に記したような使用が特に目を引いたが、比較的どのようにでも形容詞として使用できる語だけに、歌に仕立てることは容易だが、注目作にするためには工夫が求められるようだ。家庭の中の「長椅子」の存在は、ときに疲れた人を睡眠に誘導したり、家族の存在や役割を相互に自認する装置となり、また学校の相談室などのそれは心の対話の痕跡ともなる。また時代相からして「長寿」の語の使用も目立つが、それだけに高点を獲得するまでの素材としてはむしろ難しい印象があった。中には、松山千春の「長い夜」という曲名を入れた歌もあり、同曲の知名度の高さと宴会などでの使用頻度の高さが窺え場面も浮かび、固有名詞としては成功している歌となったようだ。

以下、歌会の議論の要点となったことを覚書とする。上句と下句の結びつきがわかりやす過ぎても良からず、またかけ離れ過ぎてもわからずという微妙な点のやりとりがあった。一首に「長男」を5回使用した歌があったが、作者の主張はどこか?と迷いつつも言葉遊び的に注目を引く歌となであった。「長く編む」という遊びの名称が実に響きがよい上に、遊びの本質を突き「長い」とは何かを考えさせられた歌。獣医という職業と結びつく「白き長靴」も、清潔感の象徴であるとともに、宮崎での口蹄疫の記憶も想起させる貴重な素材であった。また「白長須鯨」は、人間並みの寿命を海で長らく孤独に生きる、その姿から「この世の全ての孤独」を感じさせる秀歌もあり、それぞれ議論も活発に盛況な歌会であった。

引き続き新年会では
昨年に出版をされた方からのコメントなども
そして今年の国文祭・芸文祭みやざき2020への期待が高まる新年であった。


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焦点を絞るー第342回心の花宮崎歌会

2019-12-02
「なぐさまず歩み来れば月下にて音なくもつれ人格闘す(岡部桂一郎『木星』)
「身籠れるごとふつくらとかなしかるこの春山にけふは恋すも」(伊藤一彦『海号の歌』)
短歌における具象と抽象のことなど

早いもので師走、第一土曜日と定まっている心の花宮崎歌会が開催された。詠草には全部で44首の歌が並び、参加人数もいつもながら盛況である。午後3時半開始も定着して来て、懇親会まで時間的に余裕をもって運ぶことができる。それにしても毎回のように告知される県内の短歌行事は、実に多く実に多様である。これぞ「短歌県」たる所以であり、その各行事で心の花の会員の方々が活躍されている。さて歌会冒頭は恒例の三首鑑賞、この日に取り上げられたうち二首を小欄冒頭に記した。鑑賞担当の方が提起したのは「短歌の具象と抽象」について、特に一首目の岡部桂一郎の詠歌の姿勢は常にこの点にこだわりがあったと云う。解釈を深めないと「わからない」のだが、まさに詩的に哲学的な奥で、核心的な具象に辿り着きそうな歌なのである。

いざ歌会開始、今月も秀歌が多く得票にも迷う。高点歌からの批評となるが、その優れた点を議論するとともに、さらなる推敲を施す点にも意見が及ぶ。当然ながら時間配分も得票した歌に多くなるわけだが、「表現が未熟な歌は解釈が定まらないため、そこに時間をかけ過ぎない方がよい」と云う伊藤先生の意見もあってのことだ。秀歌に学び秀歌を目指す、その奥深く緻密な議論に耐え得るものが秀歌の条件でもあるだろう。この日の議論でいくつかの歌に対して「(一首の)焦点を絞ること」という意見があった。読者を惹きつけるに十分な比喩があるところに、言わずもがなの一句分(七音)が付加されている。だがどうやらその部分に詠者の言いたい部分があるようにも読める。「VTR(動画)的」ではなく、瞬時を切り取る「写真」にする意識で焦点が定まる。まさに短詩系たる所以が議論されたような、今年の総決算の歌会となった。

宮崎大学短歌会の学生たちの高点も目立ち
世代間交流も促進するような宮崎歌会
新年会へ向けてまた個々の作歌の時間に戻っていく。


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「短歌でしか表現できないこと」第341回心の花宮崎歌会

2019-11-03
『心の花』編集部から田中拓也さんをお迎えし
「『心の花』と私」の講話と歌評をいただく
結社ならではの充実した1日が宮崎で

歌誌『心の花』編集部から地方歌会への派遣事業が本年から始まり、田中拓也さんが宮崎へといらっしゃった。午前中には、宮崎大学を会場に「短歌の授業づくり」と題した講話とワークショップが実施され、一般の方や学生まで約20名の方々が参加した。僕自身は校務で附属学校園での式典に参列する予定があり、主に宮崎大学短歌会の学生たちが運営に当たった。本年『心の花』の5月合7月号で「短歌の継承ー短歌と教育」が特集されたように、現職教員が歌人として活動し短歌を児童生徒に継承していく責務は大きいように思われる。また教員という職業は短歌に向き合う知性や感性が発揮でき、学校という交流の場での人生を活写することができる特権があるとも思う。宮崎のさらに多くの先生方が、短歌に向き合う契機となればと願う。

心の花宮崎歌会は夜6時に開会し、冒頭の30分で田中さんから「『心の花』と私」の講話。高校生の頃の短歌の出会いから、「心の花」でどのように歌や歌人の方々と出会ったかを、短歌を引きながら実にリアルに話していただいた。あらためて心の花歌人の方々の多様さ層の厚さを思うとともに、いかに短歌に向き合う人生を送るかというモデルが示されたようでもあった。「短歌でしかできないことを歌うんだ。」「一人に千回読まれる短歌」など佐佐木幸綱先生や、「短歌を作る時間帯を変えると短歌の内容まで変わるんだ。」という伊藤一彦先生らから田中さんが得られた言葉の紹介もあり、宮崎の会員諸氏にとっても大きな気づきとなる内容であった。歌会は49首出詠、互選票の多い歌から批評が開始されていく中で田中さんの主題や表現構造を視点とした評が新鮮であった。特に宮崎歌会の特徴として挙げていただいたのは、「文末(結句)表現の工夫が多い」「様々な主題(素材)が詠まれている」「固有名詞が少ない」というご指摘であった。また「コンビニ」という素材の扱いの難しさや、ネットを使用しないで歌評する歌会の試みの紹介もあり、歌会とは歌評とは何か?という命題を考える意味でも貴重な機会となった。

歌会後は恒例の懇親会
さらに深く歌の奥行きを探った
「宮崎でしかできないこと」も悟った宵のうち


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