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令和6年心の花宮崎歌会&新年会

2024-01-07
歌会から恒例の郷土料理のお店で
新年歌会は題詠「時」
新年懇親会で実に楽しい短歌トーク

これでこそ新年歌会&懇親会という「時」が帰って来た。昨年はまだ感染への懸念から広い結婚披露宴をするような会場で座席間を空け、ついたてを立てての控え目な新年会を実施した。自ずと酒なども自粛気味であったためか、あまり深く記憶に刻まれていない。心の花宮崎歌会の新年会といえば、やはり地元郷土料理店「杉の子」さんで歌会から通して実施するのが恒例であった。今回はこの新年会幹事となったが、あと2名の方々と「かつてはどうしていたか?」という記憶の発掘が大きな仕事であった。座席のことや進行の段取りなど、我々の記憶とは「掘り起こす」という形で顕在化してくるものもある。コロナの空洞が消し去ってしまったものを、僕たちは過去の利点の「時」を洗い直して取り出しているのかもしれない。歌会は15:30から2時間、その後の新年懇親会があるので延び延びにすることもできない。得票のある歌と選者の五首選を中心として小気味の良い展開を心がけて司会を進行させた。

歌会の題詠は「時」、高得票の歌では実に自然に「・・・・時計」と詠まれているのが印象的であった。また厳しさのある「時」を的確に比喩したり、「かなしみ」を擬人化する歌もあった。さらには社会の様々な場所で「怒る時」はどういう言葉を使用するか?と考えさせられる歌もあった。また題詠でなければ決して詠まないだろうと伊藤一彦先生が評された「不時着」の歌。「時そば」を詠み込んだ歌も大変にユーモアある歌で、落語の内容をどのように読むか?などが個人的に気になった。この題詠「時」は、昨年に急逝された時任勝正さんを偲んでのことだ。詠草にも時任さんへの追悼を思わせる歌も見られ、空を飛ぶなどに関連する話題になれば時任さんをみなさんが思い浮かべる。このような歌仲間たちの温かさも宮崎歌会のありがたさである。最後に「時」について考えさせられる歌が多かった中で、伊藤先生が自らの習慣に言及した話題が印象に残った。電波時計や充電電子式の腕時計が多い中で、伊藤先生は毎朝腕時計のネジを巻くのだそうだ。他に「時」を制御されず、自らが「時を動かす」という能動的な生き方の意識だと感化されるものがあった。

懇親会では高点者・昨年の出版・新入会員のスピーチ
さらには、心の花125周年記念会のスライドトーク
そして心の花賞や佐佐木幸綱賞(記念会)のお祝いに大きな拍手が送られた。


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俵万智『アボガドの種』ー現代の心詞論

2023-11-14
「言葉から言葉つむがずテーブルにアボガドの種芽吹くのを待つ」
「心から言葉をつむぐとき、歌は命を持つのだと感じる。」(帯文より)
『古今和歌集仮名序』に通ずる現代の心詞論

『心の花』創刊125年記念会の素晴らしい時間の余韻が冷めやらぬうち、日曜日の最終便で宮崎へ帰ると俵万智さんの新刊歌集『アボガドの種』が自宅に届いていた。東京で俵さんご自身に久しぶりにお会いできたところだったので、お送りいただいたことを知ればお礼を述べたのにという思いに苛まれた。早速その夜の就寝時から読み始めると、歌のテーマの多彩な日常性に深く引き込まれた。昨日の朝になってお礼のメッセージをお送りすると「宮崎の歌もたくさん出てきますので、お楽しみいただければ嬉しいです」とのご返信を早々にいただき恐縮した。確かに「宮崎の歌」になると、俄然としてリアル感が増して解釈できる。中にはきっと世界で僕だけしかできない解釈が可能な歌がある、といった自惚れたある種の優越感に浸ることのできる、僕にとって幸せな気分になる歌集である。

歌集の帯文に引用された「あとがき」を冒頭に一部引用させていただいた。(収められた歌についての言及は控えたい)歌集名になった一首は雑誌掲載時から気になっていたが、「あとがき」を併せて読むとまさに現代の「心詞論」だと深く心に刻みたい歌論としての趣がある。『古今和歌集仮名序』に紀貫之が記した「やまとうたは人の心を種として、よろづの言の葉とぞなれりける。」からおよそ1118年、やはり短歌の本質は抒情性だということを現代短歌の視点からこの歌集はあらためて宣言しているようにう読める。「一首一首、自分の目で世界を見るところから、歌を生む。」(あとがきより)ということを僕などは分かっているようで分かっていないのだ。今回の記念会歌会の評にあったように、「粗筋を書く」のではなく「作者の立ち位置」を示さねば心から言葉をつむぐことはできない。あらためて俵さんがいかに「自分の目」で宮崎を世界を見ているのかを、一首一首から勉強をしているところである。

大学の韓国語の先生と俵さんらと意見交換した一連も
植物の命にも通じる万の言の葉への向き合い方
大学のそして「心の花」の先輩としてあまりにもありがたい存在だ。


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題詠「飛」ー『心の花』創刊125年記念会歌会

2023-11-13
題詠「飛」出詠180首・歌評選者6名(30首ずつ)
司会・総評:伊藤一彦・全体講評:佐佐木幸綱
短い歌評の中できらめく要点を逃さず

全国大会が3年間も開催されず、4年ぶりの全国規模の歌会。今回は「全国大会」という位置付けではなく、また「125」という数宇として一通過点であるという趣旨を企画・開催に関わった何人もの方々から聞いた。新型コロナに関しても「五類移行」以前から企画されてきたわけで、どの程度の対策を講じた会にするかという迷いも尽きなかったと云う。会場や懇親会の有無などの検討など実行委員として関わって来た方々のご苦労には、心より敬服と感謝の念に堪えない。さて、この日は冒頭に記したように参加者全員の歌会が開催された。日頃は誌上の歌で出会っている方々とリアルな歌会を全国規模でするのは実に醍醐味のある時間である。もちろん詠草には佐佐木幸綱先生をはじめ、伊藤一彦先生に俵万智さんなど、あらゆる参加者の歌が無記名で並べられている。180首からの一首選は誠にしばらくの間悩んだが、それこそが歌をよむ楽しみであった。

歌会の全貌を記すことは難しいので、特に大切な指摘と思う点を覚書としておきたい。大きなことを言う歌は、抽象的になりがちだがいかに詠むか。逆接は理屈になりがち。作者の立ち位置・作者はどうなっているか?助詞の省略は子どもっぽい。変身させた自分詠う。登場人物の作者との関係性。一首は助詞と文体がいかにシンプルかが決め手。完了か打消か「ぬ」の曖昧。一字空きをどう使うか?使わないかは現代短歌の大きな要点。その歌を読む前と後で人生が変わるような歌を目指したい。文体がつながらず「粗筋」だけの歌が最近は多く「イメージ」を表現することが減少している。この歌は「頭で作っている」。「言いさし」は終止形の方が安定する。「舞う」と「凛として」の使用には注意。不要な付け足しがある歌(上の句だけにしたらいい歌)。以上、もちろん選者によって歌評の違いもあり、その多様な読みの中に短歌と表現が立脚しているものと再認識できた。

終了後は会場の1階に降りて懇親会
様々な方々と新たな交流もできた
次回はどのような全国規模の大会になるのだろうか、今から楽しみである。



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古歌と短歌界の現在ー『心の花』創刊125年記念会

2023-11-12
混声歌体(神の声+人の声)
信綱の勇気と戦争と貧困と
自分だけの歌を詠む理由ー結社は親戚のようで

『心の花』創刊125年記念会が、東京新宿で開催された。竹柏会としては2019年7月の徳島での全国大会以来4年ぶりの全国規模の集いとなった。毎月の誌上で投稿歌を読み合い、お名前とイメージが形作られている方々と、こうして1年に1度でもお会いできる機会は貴重である。冒頭の佐佐木幸綱先生のご挨拶に引き続き、森朝男先生のご講演「和歌と短歌」であった。特に覚書としておきたいのは、「混声歌体(二部合唱)」という万葉歌の捉え方だ。換言すると歌が「神の声+人の声」となっており、その段差に飛躍があるという読み方だ。枕詞そのものが「神の声」なのであり地名などと緊密に結びつくが、その発生は未詳なものが多い。これはまさに詩歌の祭祀起源説を考える上で大切な事で、人類史の上での視点でもある。また『古今集』時代になって紀貫之が「やんちゃ」をして「ことばのフットワークの軽快化」をもたらしたという視点も大変に興味深い見方であった。

座談会は「短歌界の現在」俵万智さんを司会に、佐佐木頼綱さん・佐々木定綱さん・駒田晶子さん・大口玲子さんらが闊達な意見を述べ合った。ここでは特に各三首挙げられた引用歌から印象深い歌を覚書としておきたい。「花さきみのらむは知らずいつくしみ猶もちいつく夢の木実を」(佐佐木頼綱引用の佐佐木信綱の歌)「勇気」を読める歌、歌そのものだけでなく季節を過ごし言葉を交わす事そのものが「短歌」であり「結社の視点」が見えてくる。「百五十万の死をおもえども思われず人間の髪の数は十万」(大口玲子引用の吉川宏志の歌)自分と理不尽なアウシュビッツの死をどう向き合わせるかという歌、戦慄の世界情勢を我々は詠んでいけるか?どう詠むか?。「落ち着いてゐられる人はそれだけで違うたとへば年収がちがふ」(佐佐木定綱引用の濱松哲朗の歌)怒りが込められており「貧困」と「戦争」はどこかで繋がる。「この町の海には言葉が浮いている僕はさよならばかり集めた」(駒田晶子引用の昆野永遠・牧水短歌甲子園での歌)短歌を信じてそこに託す心のあり方。最後に結社のあり方について、親戚の様子を伺うような場であるという俵万智さんの言葉が印象深く刻まれた。

「心の花賞」「群黎賞」授賞式
140名ほどの活気ある集い
歌をよむための「此処」がある。


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歌会をより充実させるためにー第386回心の花宮崎歌会

2023-11-06
どうしたら歌会はさらに充実するか?
そして運営に関する役割分担のことなど
歌会の理想形とはどのようなものだろうか・・・

2020年から今年に至る約4年間に及び、対面を基本とする「歌会」もまた多くの制約を受けた。感染が厳しい状況の際は、通信による投票と選者の5首選がメールを介して共有するなどするしかなかった。やや感染状況が改善されつつも、マスクの着用を求め机椅子は講義式に並べたままにマイクを一箇所に据えて投票した人が当該歌に歌評を出て来てするという方式を遵守してきた。その結果、歌会を介した感染は防ぐことができた上に毎月必ずという歌会の命脈は保つことができた。もちろんまだまだ感染に対しては心しておくべきだが、対策によって犠牲にされてきた点についてはそろそろ考え直してもよいのかもしれない。少なくとも「歌会+懇親会」というセットが復活するのも大変に重要なことではないだろうか。

心の花宮崎歌会の月例歌会が開催され、終了後には「歌会のあり方」について主要なメンバーによる対話の時間が設けられた。歌評のあり方はどうあるべきか?『心の花1500号記念号』の「佐佐木幸綱語録」にあるように、「歌会で集中できるのはせいぜい2時間」を基本に据えて内容をいかに充実させるかを話し合った。互選票の扱い方は?歌評者をどうするか?会員にとって意義のある議論が展開するにはどうしたらよいか?等々、忌憚のない意見が交わされた。また歌会運営には会場確保・詠草(含・受取送付)・互選票・司会・案内連絡・会計・行事企画等々に携わる人の努力により作り上げられている。あらためてこれまでの労に感謝するとともに、役割分担をより明確にしていくことが確認された。

毎回40首以上の規模の歌会
より宮崎歌会らしいものを目指して
毎月1回の貴重な機会をさらに育てるために。


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その通りの歌ー第384回心の花宮崎歌会

2023-09-03
読者の心を引かない
読者にはわからない表現
自然を敬い具体的な実感が印象に残る

第384回心の花宮崎歌会が開催された。新型コロナ感染はかなり水面下となったが、それだけに用心も怠らず歌会は開催される。円座にしての歌会はいま少しお預けとなっている。それにしても毎月普通にこの場に集まれることが、歌作りには大きな励みである。発表未発表に関わるので具体的に短歌を挙げることは控えるが、歌会での指摘などを覚書としておく。互選票が得られない歌に顕著なのが「読者の心を引かない」ということだが、「(読んで)その通り」という指摘が伊藤一彦先生からくり返しなされた。「できすぎ」「わかりやすすぎる」とも言い換えられる場合もある。併せて歌の表現に「なぜ?」「どんな?」が投げ掛けられるのも類似した指摘である。

一方で互選票を獲得した歌で印象深かったのは、自然への敬いが感じられた歌だ。雨・風・木々の葉などに生命感を見出す、これぞ宮崎歌会ならではの歌ではないかと感じ入った。そこに「発見」があり「共感」と「驚愕」を読者が覚えるというわけだ。一概に「自然」というが、どのように見つめるかを深く考えさえられた。また個人的には「犠飛」という野球用語に興味を覚えた。野球は「敵性競技」であるのに、なぜ社会から排斥されなかったか?それは「軍事教練に役立つ」ということが建前だった。その名残が現在の甲子園での諸問題に尾を引いてはいないのか?野球愛好者として、こんな視点を持って野球を観るべきと大変に勉強になった。

終了後は少人数の懇親会
かつての歌会後は必ず呑んでいたと振り返りつつ
歌を語る刺激と抱擁と、宮崎歌会ならではのあたたかさ。


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追悼と手触り感のことなどー第383回心の花宮崎歌会

2023-08-06
野菜の手触り感を比喩として
一つの助詞により表現する感情が反転して
急逝された会員の方を偲びつつ

心の花宮崎歌会定例の歌会が開催された。冒頭に急逝された会員の方を偲ぶ話が、伊藤一彦先生から為された。事務局の調べによると、昨年12月末〆切分は『心の花』23年3月号に掲載されている。今年になって僅かな身体の異常により診察を受けると即入院、その後の闘病の奮闘もむなしく先週に帰らぬ人となった。僕自身も通夜にてご家族と話をさせていただいたが、「短歌が生き甲斐」であったと云う。諸々の賞への応募をされ此の度は最優秀賞を受賞していたが、授賞式に出席できない無念だった。歌会には花を持参し故人の歌を切り貼りで集成した「号外」を配布する「同期入会」の会員の方もいらした。きっと僕たちの心のうちには、故人の短歌が響き続けるだろう。そんな思いを胸に、「いま生きていて詠める1首」こそを大切にしなければならないという歌への向き合い方に襟を正す時間でもあった。

歌会での覚書。互選票も上位で個人的にも気になった歌は、「野菜の手触り感」を比喩とする歌。野菜を切る動作とか洗浄する際の特徴を上手く捉えていた。もしかすると野菜を調理したことがない人は、読みが深まらないかもしれない。そのような意味で日常生活での種類を問わない「経験」が歌作りには必要なのだと思った。反転して日常の家事などの中に貴重な歌材が眠っていることにもなる。また、助詞のあり方を考えさせられる議論もあった。「・・が」なのか「・・と」なのか、歌の中で省略されてしまっている助詞について読者によって補う助詞が異なり、その結果で表現された感情が正反対に解釈される歌だ。形式と韻律の問題と関連し短歌に助詞の問題は永遠の課題であろうが、推敲の段階で自らが思う以上の吟味が必要だと思い直す機会になった。

懇親会はみなさん諸事お忙しいので中止
今月来月は様々な短歌関連行事もある
僕らの生き甲斐として月1回支えられる貴重な集いだ。


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だれやみ日曜夜会ー疲れなきは意欲

2023-07-24
心の花選者の黒岩剛仁さんをお迎えして
東京歌会のこと、巨人についての昔話など
だれやみと明日への意欲!

前日の公演の疲れはいかに?と思いきや比較的早く起きる朝。起床してすぐに、その日の予定が頭を巡る習性がある。その中で「楽しい!」と思えることがあると俄然に元気に活動を開始できる。ゆえにむしろ「楽しい!」を探すようにしているのかもしれない。もちろん「辛い苦しい」がないわけではない。人は誰しも心にのしかかる重みを、持っているはずだ。だが何事も意欲的に前進しようとすることで疲れは取り払われる。宮崎には「だれやみ」という方言があって、「だれ=疲れ」を「やみ=止み」と語を分解するとわかるように、「疲れを休める」を基本義に「晩酌」のことを指す言葉である。様々な心にのしかかる重みも、酒を飲むことで「だれやみ」とするわけである。

この日は夕刻から、心の花選者の黒岩剛仁さんをお迎えしての宮崎歌会懇親会が開催された。県内国富町ふれあい短歌会に講師として招かれた黒岩さんとの楽しみな時間となった。もう4年ほど心の花では全国大会が開催されていない。ゆえに選者と諸々のお話ができる機会は貴重である。短歌が紙の上・文字の上だけにならないためにも、まさにこうしたふれあいの時間が大切であろう。会の中では『心の花』会誌の編集の現状、選歌・編集作業のこと、1500号記念号や記念大会のことなど、大変に興味深いお話を聞くことができた。おまけに僕自身が幼少の頃から後楽園球場に通い詰めた話を、大の巨人ファンの黒岩さんとすることができた。最後は野球選手がよく訪れる宮崎餃子の名店で締め括り。誠に「だれやみ」を超えて、疲れとは意欲が乗り越えさせてくれると思う宵のうちであった。

自らにのしかかる重みが短歌を詠ませてくれる
決意も新たに意欲が湧いてくる酒
ちょうど「ニシタチ歌集化プロジェクト」が朝日歌壇に紹介されていた。


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想像が展開する歌〜第382回心の花宮崎歌会

2023-06-04
結句ができすぎているダメ押し
意外性が乏しく一読して広がらない
できすぎ・わかりすぎるから展開がある歌へ

定例の第一土曜日、心の花宮崎歌会が開催された。社会全体がコロナ禍から解放されつつある中で、対面歌会の意義をあらためて実感する。出詠46首、得票は5票1首、3票2首、2票10首、1票13首、可能性無限大20首という結果であった。冒頭には伊藤先生の「今月の2首」の鑑賞がある。今回は5月20日に熊本県御船町七滝に建立された河野裕子さんの歌碑の歌が取り上げられた。先月5月20日に、歌碑除幕式と記念講演会が現地で開催された。講演者は吉川宏志氏「河野裕子の歌う風景」伊藤一彦氏「河野裕子のふるさと」永田和宏氏「河野裕子のおくり物」の3氏である。伊藤先生は歌碑に刻まれた「たつぷりと真水を抱きてしづもれる昏き器を近江と言へり」について、この歌は「琵琶湖」だけを詠ったものではなく、結句にとらわれずむしろ第四句までの核心的な表現を読むべきだという鑑賞を提起した。「近江」の部分にはどんな地名を入れることも可能であり、「真水」というのは単に「淡水」というより「真の水」と解せるのではないかという読みである。御船町でも「なぜ琵琶湖を詠んだ歌碑がわが町に?」という疑問があったようだが、その思いを払拭し思いを拡げる読みが提起できたというお話であった。

冒頭の鑑賞で語られたように、解釈にも「単線的な理解」で終わってしまうと歌が拡がらないことがわかる。歌評に入っても「わかりすぎる歌」という指摘が、伊藤先生から随所に為された。これは宮崎歌会の通例であるが、「意外性」や「想像の展開」が欲しいと補足されていく。5首選をする場合も、まずは10首ぐらいに絞りそこから最終的に落とすのはこの要素が無い歌であるという。具体的な描写でありながら、読者にたくさんの想像をさせる表現にしていく必要があるということ。選者4名の5首選には、やはりそのような「展開」が読める歌が採られている。「言葉」は社会的に通行せねば、その役割を果たし得ない。しかし、文芸はその基盤のさらに上層部で「拡がる想像に誘う表現」が求められることになる。歌会終了後には少人数ながら、かつて毎回行なっていた居酒屋で懇親会。あらためて各自の歌を皆さんで読み直し、歌会での「一首の力」の大きさを確かめ合う時となった。

三十一文字が立ち上がりさらに飛び立つために
なおしかし、やり過ぎで「肩肘張らない」ように
歌仲間が集まる1ヶ月1回の貴重な時間が再び平常化しつつある。


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人間の都合ー第381回心の花宮崎歌会

2023-05-07
自然の立場を無視し
人間の都合で考えていること
「わたし」とは何かを問い続けて

連休中ながら第1土曜日恒例の心の花宮崎歌会が開催された。新年度により会員名簿が配布されたが会員数は58名、その規模は東京歌会に次ぐものといつも注釈がつく。都道府県の人口密度からすると、やはり「短歌県」の面目躍如たる会員数の歌会ということになる。また東京は「首都園」として近県在住の方の参加もあろうが、宮崎歌会は交通手段のせいもあるが基本的に県内在住者であるという意味でやはり活況であると言えるだろう。出詠46首、最高得票7票、以下5票1首・4票3首・3票1首・2票4首・1票11首・可能性無限大25首という得票状況であった。またこの日は関東在住の方が、旅の道すがら歌会に参加。こうした会員間の交流があるのも、宮崎歌会会員としては嬉しい。

出詠歌の詳細を語ることはここでは控えるが、全体を通して「自然」に対して「人間の都合」を批判的に捉えた作品が目を引いた。菌・ウイルスの次元から身近な虫たち・植物たちまであらゆるものが、ぞれぞれの立場でこの世の中を生きている。それを利用したり忌避したり規定したりして、人間は自らのご都合主義で自然を支配しようとしている。その独善で傲慢な姿勢を、三十一文字は具体的な像をもって批判していく。また本来は自然の一部であろう「私」そのもののあり方に眼を向けた歌で得票が多いものも注目された。概してこうした「自然」と「人間」が対立ではなく親和な関係を見出そうとする歌が多いのも、宮崎歌会の特徴であるかもしれない。そこで相対化された「自己」へ眼を向け続ける。首都一局ではない短歌の地方におけるあり方として、宮崎歌会の「役割」というものがあるのかもしれない、などと考えた。

会場は未だ講義教室形式
懇親会はもう少々の辛抱か
またまた来月に向けて歌作りの英気が養われた


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