さびしくてあくがれていく
2023-09-21
「夏山の風のさびしさ百合の花さがしてのぼるまへにうしろに」(若山牧水『白梅集』より)
よくなかったことからよかったことへ
若山牧水没後95年にあたり、今月9日特別公開講座と17日牧水祭において、延岡の菓子店「虎彦」の社長さんとさらなる親交を深めた。社長とはもとより母校を同じくし、没後90年の牧水祭では壇上で母校出身者一同が「都の西北」を牧水の遺影とともに大合唱するのを仕掛けたのも社長であった。早稲田大学校歌の制定は創立25周年の明治40年であるからちょうど牧水の在学時であり、あらためて牧水が大学の先輩であることを噛み締めて歌った。社長さんは今月の2度の機会に銘菓「若山牧水」を提供いただく大判振る舞いで、母校出身者の豪快な面を覗かせて嬉しくなった。また特別公開講座の折は「牧水歌ごよみ」もご提供いただき、有志の方々に配布することができた。
この「歌ごよみ」は、大正15年生まれの「虎彦」初代店主が、脳梗塞で右半身が不自由となりながら左手で牧水の歌を色紙に書いて希望者に進呈、その一部が日数ごとに31首書かれている逸品である。ちょうど昨日は、冒頭に記した歌が書かれていた。夏山で風に吹かれるとふと孤独なさびしさを覚える、だが自分の周囲を見回し友だちのような百合の花をさがして前へ後ろへと歩を進めるという、やはり牧水の「あくがれ」の歌である。人は生きていれば、否応無しに「よくないこと・嫌なこと」に出会う。だがその「さびしさ」を吐き出して、「よかったこと・嬉しいこと」に向かって「あくがれる(在処離れる)」ことが必要だ。奇しくもWebで、1日の終わりに「よくなかっやこと・よかったこと・明日の目標」を箇条書きにすると、精神が落ち着くという記事を読んだ。牧水の歌には、そんな人を励ます力があることを再認識した。
日々「歌ごよみ」を声に出して読む
牧水も多くの苦しみを乗り越えるために歌を詠った
人は言葉にすることで新たな希望を見出すものである。
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馬鹿でごめんよー『杜の詩』と若山牧水
2023-09-19
「降ればかくれ曇ればひそみ晴れて照るかの太陽をこころとはせよ」(若山牧水・全集未収録歌)
「大馬鹿になるための方法」そして今
沼津市のHPを検索すると「ぬまづの宝100選」の中に「千本松原」が数えられている。そこには「日本の白砂青松100選の一つ」ともあり、この松原が、現在へ継承されて来た深い意味が実感される。晩年、沼津に居を構えた若山牧水は、静岡県がこの松原の伐採計画を進めようとしているのを知り反対運動の先頭に立つ。それまであまり社会的な運動に関心を示して来なかった牧水だが、富士を望む大自然の一部である松原の伐採をどうしても許せなかったのであろう。牧水はじめとする反対運動がなかったら、現在の「ぬまづの宝」は大きな一つを失っていたことになる。その地は古来から、多くの詩歌に詠まれたまさに名勝である。長い年月に引き継がれて来た自然を愛する優しい心を、牧水が僕らに「Relay」してくれたわけである。
サザンオールスターズの新曲「Relay〜杜の詩」がリリースされた。国立競技場にほど近い神宮の杜を望むスタジオでデビュー以来、音楽を紡いで来た桑田佳祐さんのメッセージソングである。周知のように神宮の杜は都の再開発計画が進み、多くの樹木が伐採され伝統ある球場や競技場が新たなものに建て替えられようとしている。歌詞では「自分が居ない世の中 思い遣れるような人間(ひと)であれと」訴えている。これを考えた時に、まさに牧水は「自分が居ない」永遠の自然を「思い遣れる」人間であったことになる。歌詞の中でまた目を引くのが標題にした「馬鹿でごめんよ」の一節である。詩歌や音楽に夢中になって生きるということは、ある意味で「馬鹿」ということなのかもしれない。冒頭に記したのは、全歌集に未収録の新発見の牧水の歌。何某に「大馬鹿になる方法」をと乞われて作歌し条幅に揮毫した一首として、宮崎県立図書館に保管されている。「太陽をこころとはせよ」利欲なく自然そのものを敬愛する「馬鹿でごめんなさい」。
神宮外苑には幾多の思い出が僕にもある
それを過去のものとは決してされたくはない
都会のオアシスは100年後の東京の宝のはずだが・・・
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牧水没後95年牧水祭開催ー牧水愛が繋がる空間
2023-09-18
感染拡大で4年ぶりの開催人と繋がることを大切にした牧水
記念文学館館長・伊藤一彦先生の人の繋がりも企画展にて
第73回牧水祭が4年ぶりに、従来のプログラム構成で開催された。【第1部 歌碑祭】では牧水生家前にある夫婦歌碑にて牧水短歌の朗詠が行われた後、主催者・親族・来賓の方々をはじめ一般の方から夫婦二首の歌が刻まれた歌碑に酒が献じられた。牧水のみならず妻の喜志子に向けても、多くの方々が心を寄せるのが誠にありがたき歌碑祭である。10時20分より場所を若山牧水記念文学館前の「牧水公園ふるさとの家」に移し、「偲ぶ会」が開会。牧水母校の坪谷小学校全校児童による短歌朗詠と歌の斉唱、市長らのご挨拶の後は講演「『牧水と伊藤一彦』〜牧水との出会い、そして今〜」が始まる。冒頭は「牧水の死生観」から、人は自然に生まれ自然に還る、歌は神の前に跪くように、安らぎと穏やかな気持ちになるという牧水の生き方が語られた。そして、伊藤先生ご自身の問題意識として「牧水は故郷を愛しながらなぜ宮崎に帰らなかったか?自らは大学を卒業し帰ってきた身として大きなテーマであった」と明かされた。
講演では18首の歌が引用され、「あくがれの歌人」「目線の低さ」「恋の歌」「身体性」「旅先で名もなき庶民と繋がること」「(稀だが)社会・政治問題」など牧水の魅力を伊藤先生自身が再発見してきた内容であった。僕自身が大変に感銘を受けたのは、妻・喜志子の歌「行きいかば事にも遭はむしかれども今日の嘆きにますことはあらじ」である。牧水を一流歌人にすることに自らの生涯を捧げ、自身も歌人でありながら陰の存在に徹した喜志子である。その姿勢はどこか牧水の無名の人との出逢いを大切にして尽くし、自らも一庶民として社会的評判など「名前」で生きない姿勢に通ずる。没後10年に延岡「城山の鐘」の歌碑除幕式に臨んだ喜志子の歌「千万人来つつ見るとも遂に見ぬ一人のありてたのしまぬ身や」があらためて心に響く。没後の夫の名声よりも「ただあなたにだけ逢いたい」という切なる牧水への愛が伝わってくる。講演後は「懇談会」、弁当を食した後にアトラクションなど。この場では牧水・喜志子の曽孫さんと席を隣とし、僕の新刊で語りたかったことや今後の研究の方向性など、実に有意義な時間を過ごすことができた。
その後は「伊藤一彦展」へ
展示というより「伊藤一彦をよむ」何度も訪れたい内容である
VIVANT最終回を控えつつ堺雅人さんの直筆原稿の文字のまろみに心を打たれた。
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若山牧水没後95年ーその苦悩と仕事場
2023-09-17
詩歌雑誌の発行住所として妻子がいる家から10分以内の下宿屋など
借金などの苦悩を抱えつつ自らの仕事場として
若山牧水没後95年、まさにその朝を迎えた。主治医の書き遺した診断書によれば、朝6時半頃に葡萄糖注射・日本酒100cc・卵黄入重湯などを朝食として摂るが、7時20分頃になり冷汗をかき脈拍が異常をきたし、家族・門人に見守られながら末期の酒に唇を浸らせつつ静かに眠るように息を引き取ったと云う。自らを自然の一部と考えていた牧水は、死を怖れることなくまさに自然に還ってから本日で95年の時を経た。それにしても生涯、一貫した短歌への情熱は並々ならぬものがあった。明治時代とはいえ「歌人」で身を立てるのは、そう簡単なものではない。父の危篤の報せがあった際も帰郷の旅費の金がなく、歌集原稿を出版社に強引に持ち込み金の工面をしているなど苦悩は尽きなかった。だが牧水は支えてくれる親友・知人を、心から大切にした。生涯の友・平賀春郊はもとより、先輩歌人の太田水穂、瀬戸内の島に住む三浦敏夫など、物心両面で牧水を支援した人々は少なくない。
歌人をはじめ物書きにとって、仕事場というのは実に重要だ。牧水は喜志子と結婚した数ヶ月後、父の危篤の知らせで坪谷に帰郷し後継ぎ問題で約1年間は東京に帰れずであった。その間に妻・喜志子は実家の信州で長男・旅人を産んだ。そして大正2年6月、やっとの思いで牧水は再び上京。小石川区(現文京区)大塚窪町に家を借りて信州から妻子を呼んだ。しかし、心労と発熱などで半年ほど牧水は体調が優れず、借金取りから逃れるとか赤児の長男の夜泣きなどから自宅近くの下宿屋に籠り仕事場としていた。かつて僕も現職教員として大学院に通う頃、実家の旧来の部屋が書庫としても有効なので、自らの住まいから通って論文を書き続けたことがある。個別の籠れる空間があるのは、物書きにとって誠にありがたい環境だ。現在、僕は大学研究室まで徒歩10分、昨日も市立図書館での教養講座を午前中に終え、午後からは研究室で原稿に集中した。原稿を進めるのは苦労と思う時がないわけではないが、基本的には物書きの幸せな時間である。自らの置かれる環境を思いつつ、牧水の当時の苦悩と幸福に思いを馳せている。
人は生活とか金のために生きるのではなく
自らに与えられた天命たる仕事を進めるために生きるのだ
95年の時を経て、いとしの牧水と自らを繋ぐ線を探し続けている。
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恋のちからー牧水を育てたもの
2023-09-16
「大人になると麻疹は重症化する」喜びより苦しみ多き恋の果てに
牧水が歌人として表現を磨くためのバネ
俵万智著『牧水の恋』が2018年(平成30)に出版され、牧水の若き日の恋の微細な心の動きまでが評伝文学という文体で明らかにされた。そのまとまりを見るまでも、伊藤一彦先生によって歌表現を精巧に読み解くことで様々なことが明らかにされて来た。牧水の生き様を知るに牧水と共に生きた弟子・大悟法利雄の著作の数々は貴重だが、若き恋の顛末についてはある時期までほとんど不問に付されていた。それはやはり妻・喜志子が存命であれば、また恋人であった小枝子も比較的長生きであったこともあり、各個人に配慮して解き明かすのがためらわれていたわけだ。確かに現在でも「牧水の恋」を語る時、ここまで個人的な恋を没後95年に至り話されるのかという思いを抱かざるを得ない。だが偉大な歌人・若山牧水の短歌を語るには、この恋を語らずして全貌は見えないゆえ僕たちは恋の深淵を探究することを止めないでいる。
伊藤一彦先生がよく語るのは「大人になってからの麻疹のような恋」ということ。旧制延岡中学校でもほぼ男子のみの環境で育ち、東京の大学へ行っても詩歌の学びばかり考えていた。そこへ衝撃的な小枝子との出逢い、まさに高熱を出してもおかしくない境遇であっただろう。中学・高等学校が一貫男子校であった僕自身は、牧水の気持ちがわからないでもない。一転して大学は文学部という女子比率が高い学部に進学したが、今思うにその恋愛は甚だ不器用であった。入学して間もない頃からある人にだけ夢中になり、これも今思えば広く様々な女性に視野を広げていればよかったと悔やむこともある。しかし、なかなか意中の人に振り向いてもらえず「なぜ自分の好意は伝わらないのか?」と苦悩したがために、様々な面に眼を見開く大きな力になった。たぶん、社交性も洞察力も他者との関係性も、ましてや服装のセンスなどまでが当時の苦悩によって磨かれたのだと思う。相手の心が掴めず、また己の心が相手に伝わらないという恋の苦悩を若い頃に知るか知らないかで、生きるための社会性にまで大きな影響を及ぼすと思うのである。
不器用な恋から学ぶちから
一途な純朴さと愚直さの先に
恋の底知れぬ思いを「訴える」ために「うた」があるのだ。
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牧水のバトンー歌の朗誦性
2023-09-15
例えば、あなたはどのくらいの速度で一首を読むか?概念ではない「古代性」を途絶えることなく
近現代化で失われそうなものを牧水は僕たちにリレーしてくれた
母の従姉妹にあたり僕も幼少の頃から大変にお世話になった方が、95歳の天寿を全うされた。訃報を知る前であるのに、先日小欄になぜかその「おばさん」のことを記した。たぶん前日に亡くなった「おばさん」が、宮崎に在住の母と僕に挨拶に来てくれたのだと思っている。母も「おばさん」の夢を見たと言う。牧水が亡くなった昭和3年9月17日、すでに「おばさん」はその時この世に生を受けていた。ただそれだけを考えても、牧水をさらに身近な存在として考えることができていた。僕らは与えられた命を全うすることで、前代から次代へと何かをリレーするのだ。僕は「おばさん」に心のあたたかさ・語ることの重要さ・自分の親戚ルーツを大切にするなどのバトンを受け取り、いま宮崎で生きている。2018年には宮崎にも来てくれた「おばさん」は、今も宮崎の空の青から僕たちを見守ってくれている。
牧水没後95年、「おばさん」の寿命と同じだけの時を経ていま、僕は牧水が渡してくれようとしたバトンリレーを受けるべく走り続けている。僕はなぜか牧水が歩き活動した縁のある東京の土地で、生まれ育った。それは新潟出身の母が東京に嫁ぐにあたり、「おばさん」という力強い相談相手がいたゆえに成り立っていたことなのだとあらためて思う。また牧水が「みなかみ町」を好んで2度訪問していたことは、僕が牧水からのバトンを受ける走者であることの証である。母と「おばさん」を始めとする親戚の「いとこ会」は毎年「みなかみ町」で開催され、30年以上継続したのだから。その場で引き継がれたことの多くが、僕の中には牧水からのリレーの要素も多分に含んでいたのだと思っている。新刊著書の副題は「短歌の朗誦性と愛誦性」、人は「聲」で繋がり交わり、「聲」こそが命である。「聲」を疎かにしている近現代人には、大きな代償があるかもしれない。ゆえに僕は『牧水の聲』を探究することで、リレーのバトンを確実に受け取ろうとしたのだ。
1928年(昭和3)辰年から世紀を生きる
「短歌は詠うもの」という牧水のリズム
さらなるデジタル化で失われようとしているものがある。
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歌人・太田水穂の旧居
2023-09-14
若山牧水が東京で歌人として身を立てようとした時先輩歌人として頼ったのが信州出身の太田水穂
牧水が妻とする太田喜志子との縁や短歌雑誌の発行を後押しするなど
僕自身が「太田水穂」の名を知ったのは、確か小学校4年生の時である。馴染みの書店の棚に近藤冨枝『文壇資料田端文士村』を見つけ、どうしても欲しくなって貯金箱の百円玉を寄せ集めて買った記憶がある。当時にして確か¥2000円は超える書籍であったから、小学生には高い買物であった。買ってはみたものの内容をスラスラと読めるわけではなかったのだが、地図好きという趣向から冒頭に織り込まれた「田端文士村地図」をとことん読むのが好きになった。普段、歩き慣れた町内に大正・昭和期にこれほどの作家や芸術家が住んでいたとは。そしてまずは自宅周辺から次第に小学校との往復の道すがらにある、文人の旧居跡の地点を確かめるのが好きになっていた。確か課程内(授業枠内で行う自主研究活動)で「社会クラブ」を選び、そのまとめには「芥川龍之介旧居跡」についてレポートした。
このような環境において、芥川龍之介・菊池寛・萩原朔太郎・室生犀星など教科書にも掲載される可能性がある作家の旧居跡が「田端文士村地図」に記されているなか、なぜ「太田水穂」が僕の印象に刻まれたかというと、僕の実家に一番近かったからである。大正・昭和初期より道路の区画もやや変化していたが、「太田水穂」と地図上に示された地点は僕が産まれた産科医院の真向かいぐらいなのであった。それ以後、「田端文士村地図」には自宅の位置を赤鉛筆で記し、開けば常に「太田水穂」の名前が意識されたのである。たぶん小学生で「太田水穂」の名前を知っていたのは、当時の全国で僕ぐらいであったろうと思う。水穂が歌人であったことは当該書を読んで知ったものの、なかなか水穂の歌を読む機会には至らずだった。今まさにこの僕が小学生であった頃の課題を紐解いた時、水穂が少なからず東京に出て来た牧水に対して諸々の助言や支援をしていることを確かめている。これまさに僕自身に天命として与えられたライフワークなのだろう。
あの場所で僕が産まれた運命とは
水穂が上京して最初に住んでいたのが文京区茗荷谷付近
牧水の東京での足取りに深い興味を覚えている。
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伊藤一彦展はじまる
2023-09-13
「月あかり浴びて立ちゐつ旧暦の八月十三夜がわが誕生日」(伊藤一彦『新月の蜜』より)
地元紙・地元放送局も記事に・・・堺雅人さんの直筆寄稿なども
若山牧水研究の第一人者といえば、伊藤一彦先生である。「牧水と宮崎を愛する歌人 伊藤一彦展」という企画事業が、日向市東郷町坪谷の若山牧水記念文学館で9月10日(日)から11月26日(日)まで開催されている。昨日は伊藤先生のお誕生日ということもあり、先日の特別公開講座の御礼も含めてお祝いのお電話を申し上げた。企画展のチラシのデザインもそうだが、伊藤先生のもう一つの代名詞は「月の歌人」かもしれない。80歳のお誕生日にあたり、冒頭に記した一首を思い出した。「宮崎=旧国名日向」であるゆえ神話の関連からも「太陽」に注目しがちだが、東側を全て海に面した宮崎でこそ「月」を観賞するには絶好の地であると考えさせられる。第二歌集『月語抄』第九歌集『新月の蜜』第十一歌集『月の夜声』と歌集名にも「月」が多く取られている。
「牧水は明治18年生まれ、私は昭和18年生まれ」と、折あるごとに伊藤先生は牧水との縁を語る。先生の牧水研究の進展がなければ、牧水もここまで再評価はされなかったはずだ。現在、歌人の専門研究誌は伊藤先生が会長・牧水研究会が発刊する『牧水研究』と『(佐佐木)信綱研究』ぐらいである。その牧水と僕自身にも不可思議な縁があり、伊藤先生の背中をみて牧水研究に従事できる幸福を噛み締めている。敢えて若山牧水と伊藤先生と僭越ながら僕の共通点を見出すならば、家業を継がずに文学の道に進んだことだ。もちろん早稲田大学で文学を学んだという共通点もある。牧水は教師になることはなかったが、伊藤先生と僕には高校教師であったという共通点もある。今回の企画展の目玉は、伊藤先生の教え子・堺雅人さんの直筆原稿であり、今から読むのが楽しみである。
牧水先生の出生地・宮崎に僕が来た縁(えにし)
早稲田大学では師と仰ぐ何人かの先生方に出逢ったが
あらゆる意味で宮崎で出逢った伊藤一彦先生は人生の師である。
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青島に祈る朝
2023-09-12
「檳榔樹の古樹を想へその葉陰海見て石に似る男をも」(若山牧水『海の聲』)牧水が大学生の時に帰郷し無医村である都井岬で医療に従事していた父を訪ねて
その途次の船で青島に寄った際に東京の恋人を想い詠んだ歌
特別公開講座の余韻冷めやらず、命日である17日までは若山牧水について小欄でも話題にしていこうと思う。大学あるいは自宅から一番近い牧水歌碑はと考えると、やはり青島の冒頭に記した歌碑が思い出される。東京で熱い恋が燃え始めた頃、日向国に帰省し都井岬に診療のために出向いていた父を訪ね、細島港から船で県南に向かった際に青島に立ち寄った際の歌だ。公開講座では伊藤一彦先生が引いた歌だが、なぜ牧水は青島でこの歌を詠んだのか?それは青島が山幸彦と豊玉姫の縁結びの地であり、そのご利益にもあやかろうとする牧水の想いを読むべきとの指摘があった。現在でもそうであるが青島には不思議な力が宿っているのは、僕も宮崎に来て以来、肌で感じて来たことである。
現在、僕は毎朝の散歩に出ると自宅近くの小高い丘の公園に150段ほどの石段を登り、樹木が開けた位置から青島に祈りを捧げている。山幸彦と豊玉姫に始まり、次に身近で天に召された人たちの顔を思い浮かべ、僕ら家族が安寧でありますようにと祈る。妻との縁も青島に由来しているだろうと思っており、その不思議な島のご利益を実感している一人である。牧水はというと、結果的に掲出歌の恋は苦悩の末に終わるのだが、歌人として名を遺したのは妻・喜志子との縁のお陰である。青島はいつも、その人に最も相応わしい人との出逢いへと最終的に導いてくれるのだろう。人はなぜ祈るのか?僕と妻との縁、それぞれの命へとリレーをしてくれた生命、自分自身の命があることの感謝を毎日欠かさないためであろう。
青島にある幸せの黄色いポストの奥にある歌碑
牧水の祈りは現代にも通じるものだ
不思議な青島の力を信じて今日も祈り続ける。
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刷り上がる『牧水の聲ー短歌(うた)の朗誦性と愛誦性』
2023-09-09
まだあたたかいような新刊が届く表紙と帯と装丁も素晴らしく仕上げていただき
出版社や背中を押してくれた方々に感謝
研究者となって一番の喜びは何か?と考えれば、やはり自著を作成し発刊することだろう。もちろんその過程として、1本1本の論文の執筆・脱稿・校正・雑誌掲載などの喜びを重ねてのことである。講義・講演・シンポジウムで話すことも喜びではあるが、やはり「形になる」という意味で自著の発刊は格別の思いが募る。好きな音楽に思い出が重ねられているように、自著の各章にも書いた当時のことが引き離し難く伴奏のように響くものだ。宮崎に歩んできて10年、その随所における人との出逢いや与えられた力が自著には込められている。
新刊『牧水の聲』が刷り上がり、地元出版社の担当者の方が研究室まで届けてくれた。牧水没後95年の節目にあたり、本日の公開講座に間に合わせるため、編集・校正・印刷には特段なご高配をいただいた。僕自身の忙しさや折り重なる諸事に校正の返しが遅れながら、この日に間に合わせていただいた熱い思いに感謝の念が絶えない。帯には伊藤一彦先生から推薦文をいただき、のみならず伊藤先生にはいつも出版を進めよと背中を押していただいてきた。また表紙のデザインは編集者に僕の意向を内容の趣旨から伝えておいたが、予想以上に素晴らしいものに仕上げていただいた。2枚の自然風景の写真が使用されているが、僕自身が素晴らしい宮崎の自然を撮影したものを使用いただいた。規定で本日の公開講座での販売はできないが、17日牧水祭の折には販売の諸本の一角に加えていただくことになった。
さあ特別公開講座で何を語ろう!
没後95年という時の重さを感じながら
いよいよ本日14時開講である。
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