宮崎大学短歌会(第6回)ー繰り返し(リフレイン)を活かすには

2017-07-19
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君
(若山牧水『海の声』より)
短歌の中の繰り返しを考える・・・・・

宮崎大学短歌会定例の活動日。自由題により十首の詠草が提出され、活発な議論が為された。奇しくも提出された歌には、「繰り返し(リフレイン)」を含んだものが多く、こうした偶然性というのも短歌の面白みであると思われた。三十一文字(みそひともじ)という限られた字数内で表現する短歌は、素朴に考えるならば同語の重複は避けるべきであり、繰り返しにはそれなりの効果が求められる。だが冒頭に記した牧水の歌のように、敢えて同じようなフレーズを繰り返して個性を発揮できる可能性もある。特に牧水の場合は第一歌集『海の声』にこうした歌が多く、その要因として、一次言語(音声言語)としての意識が強く作用しているのではないかといった指摘を、昨年の『牧水研究』(第20号)の評論に書いた。一次言語にはいくつかの特徴があり、総じて「力動性」があるもので、その中でも特に「累加・累積性」があることを活かした歌作りといえるのではないかということである。

冒頭に記した歌も「山」と「海」の対照性を、「見よ」という命令形と「日は照る」という自然の根本的作用の組み合わせで繰り返しを構成している。その大自然の中に自己と恋人のみが置かれているかのような、壮大な虚構的物語的な景色が想像されつつ、結句では恋人の「唇」を頑なに力強く求めている。もちろんこの歌は、牧水若き日に熱愛した小枝子を求めた歌である。大自然に抱かれながら今此処にいるふたり、その求め合いたい愛への永劫な思いが繰り返しによってよく表現されているように思われる。思えば楽曲の場合も繰り返しの効用は実に大きく、所謂「サビ」の部分というものは、複数回繰り返されることで人の心に響く曲となる。思いつくままに例を挙げるならば、昭和歌謡の名曲「Love is over」なども、この題のフレーズがかなりの回数繰り返され、歌い出しから締め括りまで一貫して嵌め込まれている徹底した繰り返しが効果的であるように思われる。

短歌の中の「音楽」
美しくことばが響くためには
音声言語の力を再考する契機ともなる
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「なにとなく君に待たるる心地して」宮崎大学短歌会「自由題」

2017-06-21
「なにとなく君に待たるる心地して出でし花野の夕月夜かな」
(与謝野晶子)
いつかどこかで読んだことのある・・・

ある街やある駅の景色を見ると、「いつか此処に来たことがある」と直感的に思うことはないだろうか。また夢の中で「また此処に来た」と思える場所を見ることはないだろうか。これは「文学」上の「此処」の場合でも同様で、体験的に「読んだことがある」に出会うことがある。文学理論的な物言いをするならば、我々は「内面の共同体」の上で「文学」を享受しているということになる。そのなんともいえない思い出すような郷愁とか、過去の貴重な経験の反芻によって、人は人生を一本の糸のごとく紡いでいるのかもしれない。このような経験的な「読書」という行為も「国語」が学習者に提供する大きな役割に違いない。とりわけ短歌の場合は、この「読んだことがある」という感覚が起動することで、こころに訴えかける歌に出逢うことが多い。

メールやSNSが全盛の時代にあって、「なにとなく君に待たるる心地して」という感覚そのものが失いかけたものなのかもしれない。だが似たような感情を抱いてメールやメッセージをすると、相手からもほぼ同時に送信されて来たという経験はないだろうか。それはあくまで偶然なのか?それとも”テレパシー”でも通じているのであろうか?そのタイミングが頻繁に一致すればするほど、相性のよさを実感したりするものである。「待つー待たれる」という関係性が「性急さ」へと変質した現代の事情については、哲学者・鷲田清一の著名な評論がある。そのような現代にあってもやはり、「なにとなく」の「心地」を実感することにはある種の深い情趣を覚える。現代社会の性急で高速化した時間軸の中にあって、穏やかにその一点を摘み取るような短歌に出逢うと、実にホッと安心した心境になるのは僕だけではあるまい。

学生たちの歌から感じられた
晶子・牧水らの歌の一節
短歌に出逢うことで「待つ」感覚さえも回復することができるのである。

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宮崎大学短歌会ー題詠「サラダ」

2017-06-07
『サラダ記念日』30年記念トーク
題詠「サラダ」短歌募集
全員で出詠すべくまずは短歌会で・・・

今年は俵万智さんのベストセラー歌集『サラダ記念日』が出版されて30年になる。それを記念して今月25日に地元紙・宮崎日日新聞主催でトークショーが開催される。同時に題詠「サラダ」の短歌を募集しており、当日その中から「俵万智賞」が表彰されるというのだ。この地元地域でのまたとない機会に、宮崎大学短歌会としては参加しない手はない。ということで、この日の学内歌会のお題は「サラダ」として九首の詠草が提出された。30年前「「この味がいいね」と君がいったから七月六日はサラダ記念日」の一首は、それまでの「短歌」という概念を打ち破り、日常的な口語を導入しつつ爽やかな韻律に乗せて清らかな相聞歌(恋歌)として一世を風靡したわけである。「サラダ記念日」という語の鮮烈な印象、それは今でも旧くは思われず新鮮に人口に膾炙する一首であろう。

それだけに、題詠「サラダ」は難しい。元来「サラダ」という「料理?」の定義はなんだろうか?『日本国語大辞典第二版』によれば、「生野菜またはゆでた野菜を主材料とし、ハム、魚介、卵、果物などを取り合わせてドレッシングなどで調味したもの。元来、ロースト料理の付け合わせだが、前菜や料理の添え物としても用いられる。」とある。用例は1874年・服部誠一『東京新繁盛記』を初出として、漱石の『草枕』などにも見えて明治維新以後の語彙であることがわかる。短歌では、『日国』の用例として啄木の「新しきサラドの皿の 酢のかをり こころに沁みてかなしき夕」があり、また白秋の「サラダとり白きソースをかけてましさみしき春の思い出のため」が見えて、いずれも「かなし」「さみし」という心情とともに詠われている。さて学生たちの「サラダ」歌は、いかなるものであったか。本日〆切で投歌するので小欄では紹介できないが、なかなか多様な「サラダ」に対する感覚が詠まれており実に勉強になった。

学生たちの歌は、俵万智賞に選ばれるだろうか?
この日から新たな会員3名を加えて賑やかになった
学部専攻を超えた短歌談義がこの上なく面白い

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宮崎大学短歌会ー題詠「道」

2017-05-17
「過ちは永久にこれを放棄する
 誓ひてもなほ右折する道」
 さまざまな「道」を発見できた歌会

5月第2回目の宮崎大学短歌会例会を開催。今回は題詠で実施しようということになりお題は「道」、さまざまな表情の「道」の歌が出揃った。冒頭に掲げたのは愚詠で、やや観念的・抽象的な歌であるが、今この時にこそ学生たちと考えてみたい社会詠であると考えて、敢えて出詠したものである。初句「過ち」は、即座に「戦争の過ち」であると解釈された。それは特に「ヒロシマ」の平和公園の慰霊碑に刻まれた言葉が連想される、という意見が傾聴に値した。続く「永久にこれを放棄する」はもちろん、憲法9条の文言そのものである。この「誓ひ」によって、72年という間、少なくとも「平和」が護られて来たのである。この9条を2020年までには「改正」するということが、明言されたのは記憶に新しい。

まさに今「平和」とは何かが問われているのだろう。「新たな脅威」だと隣国を位置づけ、目には目をの対応を拙速に進めれば、決して引き返せない位置に、知らぬうちに至っているかもしれない。既に「避難訓練」であるとか、警報により交通機関が停止したりする事態が国内で起きていることそのものを憂える。だが、その「脅威」と位置づけた国のみが絶対的な「悪」なのであろうか?歴史的に見ればそのような戦争状態を「世界」が作り出し、同じ国を二分し対立する構図を解消できずにいる。そのこれ以上ない「不幸」を、「対話」の力で解決に導く「平和」理念こそが「9条」ではないのだろうか。被爆経験をはじめ凄惨な「過ち」を経験した者たちとして、果たして「圧力」をかけることだけが「解決」の手段なのだろうか。拉致問題もそうであるが、「制裁」のみを手段とするならば、教育でいえば「体罰」を強いているのと違わず、いつまでも根本的な解決にはならない。だからこそ「誓ひ」を持つ我々の存在をもっと見つめて行動すべきではないだろうか。ひとたび「右折する」と、もう元の「道」には戻れなくなる恐ろしさがある。

雨の道・人生の道・わかれ道
いや「道などあるか」と学生たちの「道」は豊かだ
短歌のことばを信じ続ける活動を地道に続けたいものである。
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若いことばで今を詠おうー新年度第1回宮崎大学短歌会

2017-04-20
今しかない学生時代
その思いを歌に詠む
新年度宮崎大学短歌会始動!

昨年の12月に結成した宮崎大学短歌会、新年度第1回歌会を開いた。従来からメンバーであった国語専攻の学生たちに加えて、新たに農学部の新入生、さらには大学院生も加えて多彩な顔ぶれになってきた。歌を対象に様々に語り合う歌会は、なるべく多様な発想の人が集まるのが面白い。多様な詠草が出てくるとともに、多様な発想の読みが交響することで、歌は何倍も魅力的になってくる。特に「国語専攻」であるゆえの盲点もあり、理系の発想による詠歌は一味違った料理を味わうごとくであり、場の趣が実に豊かになったようである。出された詠草の小欄への掲載は当面控えておくが、どの歌も実に個性的で楽しい歌会となった。

こうした場でいつも例として挙げるのは、永田和宏さんのこと。世界的な細胞生物学者でありながら、歌人としての活動も超一流である。理系の「研究」たる仕事と作歌・著述活動の両立だけを考えても、誠に尊敬に値する偉大な歌人であるといえよう。学生時代には様々にやるべきこと、やりたいことがあるはずだ。本学部の学生ならば、教育実習や教員採用試験へ向けての学習などが本分であるのはいうまでもない。また農学部の学生も実験や実習に勤しむ時間が必要であり、大学院生に至ってはかなりハードな課程内容をこなしていくことになる。その本分たる所業のみに専念していて、果たして「豊かな学生時代」と言えるのであろうか。学生時代にしか得られない感覚と感性で、その若いことばで若い時代を歌にすることは、必ずやその後の人生を、花も実もあるものにするだろう。

ともに歌を学ぼうそして歌を楽しもう
常時、会員大募集中!!!
次回歌会は5月2日(火)18:30〜(毎月第1・第3火曜日に開催予定)
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優勝校に挑むー「宮大短歌会」短歌甲子園初参加

2016-12-12
「ぐちよだきい「お前の嫁に期待する」義姉(あね)と結べよ平和協定
 まぶたの上動かぬ君のほくろ見て平和な土曜日も一度眠ろう
 雪かきに手と手とりあう東北も小雪にはしゃぐ宮崎も平和」
(ピースフェス短歌甲子園出詠歌・宮崎大学短歌会3名)

この日、宮崎は「青島太平洋マラソン」に県内外から1万3千人のランナーが参加し、運動公園から市内へ連なる国道バイパスは自動車通行止めで快晴の空の下、ここにある「平和」を享受するかのように思い思いの走りが見受けられた。市内中心部にあるアートセンター前でその様子を見ていると、ジムで懇意にする方が走りながら声を掛けてくれたり、大学で僕の講義を受講する学生たちなどの顔も発見し、相互に手を振るという和やかな雰囲気の中、ゼミの学生たち3名と僕は「決戦」に挑む準備をしていた。今夏、日向市で開催された全国規模の「牧水短歌甲子園」で優勝した宮崎商業高校に、今月結成したばかりの「宮崎大学短歌会」が挑むというイベントに参加するためである。「走ろう平和の道 つなごう愛のバトン」と題した「PEACE FESTIVAL」は、音楽・朗読・落語等々が披露される「愛と平和の祭典」。市民マラソンもこうした文化的事業も、「平和」あってのことだという認識を新たにする機会でもあった。

「母親が投げる平和にバット振る少年の影大きく伸びる
 似合わないネクタイを君が締めている平和にかたちがあるなら水玉
 終わりゆく今日を平和と定義して流星群を見ていたあいつ」
(ピースフェス短歌甲子園出詠歌・宮崎商業高校3名)

「短歌甲子園」についてはご存じない方もいらっしゃるだろう。1チーム3名で相互に「題詠」か「自由題」かで歌を出詠し、1番バッターから自らの歌のアピール、そして相手方の歌への質問・応答を3番バッターまで相互に対戦する。チーム内では他の人の歌をアピールする場合が多く、双方の歌を如何に「読めて」いるかが大きく勝敗を左右する。そしてまた相手チームに質問する場合もその歌を敬意を持って「読み」、良い点を取り上げた上で推敲すべき部分や「読み切れない」内容を質問する。まさに「短歌」を中心とした対話的な言語活動である。全員の攻防が終了した後に、3名の審査員が紅白の旗を上げて本数が多い方が勝ちとなる。この日もまさに熱戦となり優勝校は手強いと思いきや、まだ短歌を学び日の浅い大学生も「がっぷり四つ」に組み合い、舌戦を展開した。前掲した「平和」を題詠とする短歌もそれぞれに高校生・大学生らしい内容で好感が持てた。最終的に審判の判定は「宮崎商業高校」に旗3本、優勝校の貫禄を見せつけた。今回、歌作りから作戦会議まで学生たちと付き合って感じたことであるが、他者を魅了するには論理(理屈)では通用しないということ。大学での教育はアカデミックな教養を育もうと、往々にして「論理」(理屈)に偏向しがちであることを痛感した。宮崎商業高校の生徒たちは実に素朴に歌を詠み、素朴に質問をしていた。「理屈」ではなく、まさに赤裸々な人間性を前面に押し出すということ。「教育」において、実はこんな点こそが大変重要なのかもしれない。歌人の方々のことばがなぜ心に響くのかと考えれば、そこに「理屈」がないからである。「説明」「理屈」の歌がよくないとされるのも納得である。僕自身も和歌を「理屈」で考え過ぎているのかもしれない、特に『古今集』を研究している身としてそんなことを考えた。

大河ドラマ「真田丸」も最終回「前夜」
信繁(幸村)の生き方はまさに「理屈」ではない
「論理」を翳した偏向社会が、もしかすると人間の心を蝕んでいるのかもしれない。
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