宮崎大学短歌会〈卒業特別編〉歌会&納会

2018-02-14
1年間の活動を振り返り
今日もまた歌をよみ合う
新歓準備や次なる目標へ向けて・・・

宮崎大学短歌会の〈卒業特別編〉歌会と納会を開催した。今回は、宮崎市の繁華街中心部にある宮崎大学「まちなかキャンパス」を会場とした。人通りのあるアーケード街に所在し、多目的なセミナールームを備えた施設で、図書館などとも違って飲食なども可である。この場所を利用して歌会を実施すれば市民の方々との交流も可能で、今後の可能性をあれこれと模索する。小中高生との短歌を通した交流や高齢者の方々との年代を超えた歌会など、活動の幅を広げることができる。また申請すれば前のアーケード下の路上でイベントも可能で、「まちなか短歌甲子園」なども考案してもよいかもしれない。現在の宮崎大学木花キャンパスは自然に恵まれた環境であるが、「まちなか」における市民の方々と学生の交流が絶たれたことが大きな問題でもあった。次年度の活動でぜひともこの施設を活用し、地域活性化・地域定着事業の意義を孕んだ内容を短歌会で実行していきたいものである。

試験期間も終わり今年度最終回の歌会は「自由題」で、様々な素材の歌が並んだ。無記名10首の歌にも自ずと個性が表れてきて、互いに誰の歌か予想がつくようにもなってきた。素材としても「卒論」「飛行機」「財布」「ミサンガ」「徹夜」「感謝の挽歌」「インスタ映え」「参考書」「方言」「におい」など多岐に渡った。試験や卒論提出の後ゆえ、それが素材になるのも学生らしい。また「ミサンガ」(糸を編み込んで手首や足首に巻き続けると願いが叶うというもの)や「インスタ映え」の歌があったのも若者ならではかもしれない。また聴覚や嗅覚を題材にとった歌もあって、若者の感覚から発した心の有り様があれこれと読めて面白かった。会場担当の大学事務の方が帰り際に言っていたが、(学生が)互いに遠慮のない意見の応酬がある。昨今の若者は「さとり世代」などとも言われ、対面して意見や考えを言い合うのを苦手とする者も多いが、短歌を対話の対象にすることで、自由で活発な意見交換が為されるのは学生の成長にも間違いなく有効である。年度内には「九州大学短歌会」と合同チームで、「大学短歌バトル」にも出場する。この1年間の短歌会の成長を喜び、歌会の後は納会会場へ場所をかえて喜びの盃に酔った。

下級生から卒業生に心温まる寄せ書きと記念品
教師になる彼らは職員室でこの品を使おうと喜んだ
この熱心で短歌好きな若者たちと語り合えることに、僕自身も深く感謝したい。

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題詠「もち」ー宮崎大学短歌会平成30年新年歌会

2018-01-17
お正月といえば「もち」
雑煮・しるこの慣習も様々に
そして「やきもち」の歌も複数あり

宮崎大学短歌会の新年歌会を開催した。「新年」というには時期が遅かろうが、大学暦では最初の火曜日(9日は金曜校時であった)となる。新年歌会の題詠は「もち」、日本のお正月には欠かすことのできない食べ物である。出詠歌は11首、参加2度目の新メンバーやLINEで参加してくれた会員もいてなかなか賑やかな顔ぶれとなった。歌会で話題となったのは、「もち」の形状のこと。ここ九州では「丸餅」が一般的で、短歌の中に「玉(例えば『お年玉』)」があったりすると、「もち」の丸さをイメージできるという意見が出されたりもした。関東出身の僕としては、「もち」は切り餅の四角が一般的で、「丸餅」はせいぜい鏡餅が通例。この食文化の東西のあり方を深く考えさせられた。

「お雑煮」に関しても、それがどのような代物であるかは地域性があって千差万別。具材に何が入っているか、だし汁や味付も地域によって違い、その家々によって文化があると言っても過言ではない。他にも「信玄餅」「おしるこ」「餅巾着」などが題材となって、この食文化の多様性が感じられた。「餅巾着」などは”コンビニおでん”の中で「店員がお玉で掬う商品である」という趣旨を、「おでんたち」の立場から詠んだ歌もあって実にユニークであった。また複数に及んだのが「もち」の膨らみ具合、焦げ具合と「やきもち」を掛けて作られた歌。「煙」がくすぶったり、「ふくれて中身が空になったり」という趣旨の歌が複数あって、その三首が「競詠」のようになったのも大変面白かった。

『宮大短歌』配布に対する御礼も各方面から
これまでの活動をあれこれとまとめることも
次回歌会は、2月13日(火)宮崎大学まちなかキャンパス(市街地・若草通り)で開催。


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創り出す1年を振り返りー宮崎大学短歌会納会

2017-12-27
数名のゼミ生から始発
そして力強い新入生たちが集い
全国へアピールできるようになった『宮大短歌』

宮崎大学短歌会の納めとなる歌会・忘年会を開催した。創設して約1年となる短歌会が、年末にこのような豊かな時間を共有できる仲間の集う場になっていることに驚きと深い感謝を覚える。物事を始発する際には、自転車を漕ぎ出す時のようにバランスと大きな力が必要である。短歌会も当初は大学公認申請をしようとすると、「しばらくして活動が波に乗ったら申請してください」と”名ばかりサークル”になりはしないかと学生支援課でも活動に懐疑的であったようである。それが会誌第1号を発行し、学祭でも教室を確保し学内外に存在をアピールし、県内の「心の花」の方々や全国の大学短歌会へ向けて、その会誌を配布するまでに成長した。その結果、平成30年度版『短歌年鑑』(角川)に掲載されている「全国大学短歌会地図」には、堂々とその名を連ね「地元メディアへの出演も果たし存在をアピールした。」といった寸評もいただいている。また宮崎市で開催された「平和のための短歌甲子園」で優勝(4チーム中)、日向市で開催された「マスターズ短歌甲子園」(4チーム中)で準優勝と、県内には若い短歌の力を示すことができ、大学への公認申請において文句ない実績を築いたといえよう。

こうした活況を呈したのも、従来からいる僕のゼミ生に加えて、4月から入会してきた新入生の力が合流したことが大きい。高校時代に「牧水短歌甲子園」で活躍した学生を筆頭に、教育学部以外からも複数の会員が参加するようになって、短歌に対する議論も多様となって白熱した。こうした学年を超えた力の融合があってこそ、短歌会たる自転車はバランスを保ち前に自走し始めたのである。また短歌会の特徴として、お互いが忌憚のない意見を言い合える環境となっていることも重要だ。昨今の若者はWeb上のやり取りに慣れて、SNSなどにおけるメッセージによる、ある意味で”架空な会話”を好む傾向がある。現に「リアル歌会は怖くて参加できない」と思っている者が全国的に多いと聞いている。この問題は、今後の社会構成上においても熟慮すべき問題であろう。社会に出れば自ずと「対面」で仕事をすることが未だ大半である。その「対面性」を忌避する環境に、若者たちが逃避し甘んじているとすれば、現在でも問題となっている「離職率・休職率」が、今後もさらに増加する傾向が否めないのではないか。だからこそゼミや講義や実習、そしてこうしたサークル活動を通して「対面」で腹の底から意見を言い合える「体験」を、学生時代に必ずすべきではないかと思われる。

大学短歌バトル(3月開催)「九大宮大短歌会連合」予選通過
そして地元「牧水研究会」と共催の「若者の語る牧水」企画も
新しき年に向けてこの1年を礎として、地方大学ならではの短歌会がさらに羽ばたこうとしている。

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「戦争」と「自由」とー平和のための「短歌甲子園」

2017-12-09
題詠「戦争」と「自由」
県下から年代を超えて4チームが参加
昭和16年12月8日真珠湾攻撃から76年目

8月15日や8月6日・8月9日に比べて、〈12月8日〉のことが取り沙汰されることは少ない。この日もメディアはどれほどその意味を語ったであろうか?薄れていく悪夢の歴史的記憶、少しでもその意味を世代を超えて考える機会や場が必要である。宮崎でそんな趣旨から、弁護士さんをはじめとする市民の方々が実行委員会を組織して「平和のための戦争展」が開催されている。その催しの一環として冒頭に記した題詠による「短歌甲子園」が開催された。そこに、宮崎大学短歌会も参加させていただいた。思い返すにちょうど1年前、このイベントで本物の牧水短歌甲子園優勝校の高校生に挑戦しないか?というご提案をいただき、ゼミのメンバーに声をかけて急造のチームを編成したのが、宮崎大学短歌会創設の契機ともなった。昨年は1試合のみであったが、今年は4チームが参加し、3試合の熱戦が繰り広げられた。

多くの方が指摘し実感するように、「戦争」や「自由」の題詠(その言葉を必ず短歌の中で使用することをきまりとする短歌の詠み方)は実に難しい。ましてや「戦争」などという語彙の使用さえも、如何なものかと偏向する世情である。メディアが口を噤んで「12・08」を大々的に喧伝しないことと無関係ではあるまい。そんな中で「ことば」によって「戦争」と「自由」を考える機会は、どの年代の人々にとっても誠に貴重な機会となる。戦争経験のある方や戦後の困難な中を生きて来られた方々の歌には、リアルに「平和」を希求するこころが表現されていた。またそうでない年代の方々の表現には、「手遊び」「ゲーム」「経済侵略」「食卓の争奪(利権)」「戦争の色(イメージ)」などを題材にした歌があって、その討論の展開から表現はもとより様々なことを考えさせられた。宮崎大学短歌会はというと、「曽祖父」「姉妹喧嘩」「Tom&Jerry」などを素材として、継承される戦争話や日常生活とアニメの中の異種属の争いを詠み込んだ歌が並んだ。試合は討論の展開上も有効と思える質問・回答を繰り返したこともあったが、宮台大短歌会は初戦を突破し、決勝となる「自由」の題詠まで進んだ。学生たちは日常の大学での歌会でも、同様の忌憚のない激しい舌戦を展開していることもあり、観客席から見ていると大変頼もしい姿に見えた。2試合ともに僅差であったと思われるが、創設1周年のこの機会を「優勝」の二文字で飾ることができた。この企画に関係し様々に御尽力いただいた、すべての方々に顧問として心から感謝の意を述べておきたい。

「自由」その本質を考えること
「語り継ぐ」とは「ことば」からリアルに想像をすること
いま僕たちが立たされている状況に「ことばの力」で目を開いていきたいものである。


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主張に育つ宮崎の美学ー宮大短歌会学祭慰労会

2017-11-22
忌憚なき主張を闘わせる
それこそが相手への理解と尊重の一歩
学祭を終えてまた大きく前進した短歌会の面々

大学祭での宮崎大学短歌会ブースでは、会誌第1号が約120部ほどの方々に配布されたと報告があった。当初はどのくらい配布できて、どれほどの新人勧誘効果があるかなど不安も大きかったが、こうした一石が次第に会の存在を知らしめ、やがては大きな波紋となって行くであろう。これも会員である学生たちが、学年を超えて協力し様々な産みの苦しみを経験しつつ踏ん張った成果である。赴任から今までの4年間は、学部の国語専攻のゼミ生としか深い関わりがなかったが、この短歌会のおかげで農学部・工学部の学生たちとも交流が深まり誠に嬉しい限りである。さらには彼らが対話や議論に対して、忌憚なき主張を闘わせる習慣を備えており、学年の上下関係や顧問である僕なども公平に「短歌」という表現の「学び」の中で向き合う姿勢があることに、ある種の驚きと深い感謝を覚えるのである。

昨夜も今月3回目の短歌会例会を開催。ある応募のために「奈良」の題詠を扱った。やや難しい題詠であったようだが、それだけに個々の歌への表現の豊かさがあらためて感じられた。応募作品ゆえに小欄での内容的言及は控えておくことにしたい。例会後は、学祭の慰労会へ。話題は多岐に及んだが、「意見の主張」を積極的にする姿勢について”主張”し合った議論がとても豊かな内容であった。自らのゼミの学生たちには、こうした姿勢を身につけられるように日常から工夫をしているが、自然と短歌会の学生たちも「主張」があるのが嬉しい。これも高校時代に「牧水短歌甲子園」やその他の文芸部での活動を通して、貪欲に「表現」を求めてきた面々であるからだろう。話題は「宮崎の将来の生きる道」などにも及び、世代を超えて「短歌」を見据えて、豊かな地方での生き方などの意見が交わされて、大変意義深い時間となった。昨今の学生に聊か物足りなさを感じていたが、一番身近な学生たちにこそ「主張」があったわけである。

「短歌」を創ることは「生きる」ことそのもの
ならば生活する風土のことにも無頓着ではいられない
荒んだ都会にはない「宮崎」が、学生たちの中にも見えたことが何とも感激なのである。


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若竹の伸びゆくごとくー宮崎大学短歌会学祭へ向けて

2017-11-17
「やよ少年たちよ
 若竹の伸びゆくごとく子ども等よ真直ぐにのばせ身をたましひを」
(若山牧水『黒松』より)

牧水晩年の歌を集成した歌集『黒松』に、冒頭の歌がある。よく生誕地の日向の小学校などを訪れると、天井まで届かんほど立派な天然の木製ボードに、この歌が刻まれていたりするのをよく眼にする。牧水は晩年、自分の子ども等にも、また若い多くの少年少女等にこのような思いを持っていたのがよく伝わってくる。教育に携わっているか否かを問わず、子ども等が「若竹」のごとく伸びる姿に関わるのは、誠に嬉しいものである。ちょうど1年前頃であろうか、市内で行われる短歌イベントで、牧水短歌甲子園の優勝校に大学生が対戦しないかというお話をいただいて、ゼミのメンバーを中心に出場チームを構成した。それが「宮崎大学短歌会」の「若芽」となった。その後、今年度になってやはり牧水短歌甲子園に出場した経験のある学生が宮崎大学に入学して会員となり、他にもたくさんの仲間を連れて来るようになった。今や会員10名ほどのサークル母体ができた。

今週末は宮崎大学の学祭であるが、その場を活用してさらに会員を増やせないかと学生たちが考え始めた。僕自身が何かを勧めたわけではないが、いつの間にか短歌会が学祭中に使用できる教室を確保してきた。そしてやはり「短歌会」を名乗る以上、会誌が必要であろうということになり、先月末から毎週のように歌会を開いて題詠歌を競って創り、また今までの詠草歌を7首連作に仕上げるよう全員が努力した。さらには先週の歌会の状況を録音し、文字起こしをしてその状況がわかるようなページを個人的な努力で作成する者もいて、その若い力にこちらも呼応してできるだけのことは尽力しようとした。その会誌もようやく印刷し閉じこまれる作業にまで辿り着いた。手書きの表紙も愛嬌があって、手作り感満載の一冊となった。その完成した一冊を見て、あらためて「若竹」のような学生たちの底知れぬ力を実感した。1年でこれだけ伸びるのだ。高校生・大学生、そして一般の方々はもちろん、高齢の方々まで、「短歌県」と呼ばれるには、こうした世代間を超えた連携がぜひとも必要となるだろう。中でも多様に動ける大学生の力は大きい。

宮崎大学「清花祭」11月18日(土)19日(日)開催
木花キャンパス教育学部棟L313教室が宮崎大学短歌会ブース
会誌を無料配布しております、学生たちの短歌をぜひお読みください!


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九州学生短歌会の交流をー宮崎大学短歌会定例歌会

2017-09-06
宮崎出身の学生たち
福岡・熊本から郷里の宮崎大学短歌会へ
大学の枠を超えた交流を!

大学はまだ夏期休暇中であるが、定例月2回の宮崎大学短歌会歌会を開催。前回より、この休暇中を利用して郷里・宮崎に帰っており牧水短歌甲子園などに出場した経験のある学生たちも参加してくれて、賑やかな歌会となっている。牧水短歌甲子園の試合では、自らのチームの歌を主にチームメイトが読んでその魅力をアピールし、相手チームの歌に対してもその一首一首に敬意を払い真摯に読んで長所を述べた上で、わからない点や推敲案などを提示して批評をし合う攻防によって勝敗が決するという方式である。この相互のやりとりによって一首の歌が多様な読みの上に置かれ、その魅力が増してくる。経験者の参加によって、まさにこうした多様な読みの議論が活性化し、実に面白い歌会となった。

こうした「牧水短歌甲子園式」ともいえる「対話」に参加して思うのは、これぞまさに「国語」の学習が目指している境地なのではないかということである。「私」を主体的に起ち上げ、相互の率直な意見交換による「対話」を醸成し、表面的には見えなかった歌の奥行きを「深く」探し続ける。学習主体の「生きる私」がそこにあって、喜びも怒りも悲しみ楽しみも「三十一文字」の形式にある調べに載った美しい日本語を起点に語り出す。歌は古来から相互交流の具であり教養であったわけで、その営為によって「やまとことば」の美しさも自覚されてきたといっても過言ではない。ゆえに若い世代からこうした歌に関わる環境が、誠に重要な活動だと思うのである。歌会席上では今後の宮崎大学短歌会の目標も定められた。まずは創設1周年に向けて、会誌を発行すること。そこで全国学生短歌会に名を連ね存在感を示すことなどが語り合われた。そして何より宮崎県出身者の母体のような温床となること。さらには九州大学短歌会の交流を促進していこうという気概が学生たちから感じられた。

いいぞ!宮崎!!!
羽ばたく牧水短歌甲子園出身者たち
小中高大一貫短歌を目指し「短歌県みやざき」からはじめよう

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「ことば」あるゆえ現実を知るー宮崎大学短歌会から

2017-08-15
世界は「ことば」でできているとも
「平和」「戦争」といった語彙で語り合うこと
風土・居住地で違う「津波」ということばの捉え方・・・

72年目の終戦記念日。先ほど来の激しい雷鳴で、目が覚めた朝であった。覚醒してからの意識が、「これが雷鳴でよかった」などと考えさせる。「神鳴り」という語源のごとく、目に見えない神霊的な存在が、人間に警告を発しているのか。自然との融和もまた「ことば」による作用によって、古来から人々は対応してきたのであろう。翻って、戦時中の体験がある方ならば、空からの大きな音は空襲の音を連想させるかもしれない。自分のことだけを考えて、うかうか寝てもいれない。TV映像などで耳にする、あの爆弾が落下してくる際の音の悲壮なことよ。大空からの閃光そのものに、耐え難い体験が蘇ってしまう方も多いだろう。だがしかし、そうした人為的な醜い争いで命の危機に曝された経験を持つ方も次第に減ってきている。先日も小欄で紹介した『角川短歌』8月号別冊付録「なぜ戦争はなくならないのか」は、紹介しきれない様々な考え方に溢れている。中でも「日露戦争」の悲惨な体験者が政権内部にいなくなった時期に、「太平洋戦争」が勃発したといった趣旨のことも書かれていた。また政権のみならず、「国民が引き起こした悲劇」だといった趣旨もあった。「なぜ戦争が・・・」という問い自体を否定するものもあった。

お盆の最中であるが、宮崎大学短歌会を開催した。会員の学生の高校時代の友人で、昨夏の牧水短歌甲子園を経験した九州大学短歌会の2名の学生さん、先日の「サラダ記念日30年」の折に公募された短歌が入賞した熊本大学の学生さん、さらには茨城県出身の会員のお友達を加えて、全11名による賑やかな歌会となった。題詠は夏にちなんで「祭」、若い年代の祭りに対する感覚が興味深かった。「縁日」「花火」「神輿」「甲子園」などの場面を中心に、様々な捉え方の歌があり批評も温度同様に白熱した。いつも感心することだが、牧水短歌甲子園を経験することで、自己の歌作りはもちろん、他者の歌の読み・批評・修正案などを具体的かつ的確に指摘した有効な議論方法が身についている。短歌会そのものが、この経験者に誘発されて議論が活発にならないことはない。高校課程内の授業でいかに学力を育てるか、などを「国語教育」の立場から考えている身として、実に微妙な葛藤を抱かざるを得ない。「理解」「表現」「思考力」「想像力」「言語感覚」を育てるなら他言は無用、ただ「短歌」のみであるような思いに至る。さて聊か興奮して趣旨が逸れたが、この日に一番考えさせられたことひとつ。ある短歌に詠まれた「津波」という語彙に対する考え方である。3.11以後、この語彙に対する感覚が明らかに変化したであろう。その時期前後が活動休止・再開の時期と重なった要因もあろうが、サザンの「TUNAMI」もあの日から、ライブをはじめ巷間で聞かれることもないように思われる。歌会中にも議論されたが、茨城や関東の者と九州の者とでは、その語感に差があるようにも思われた。だがしかし、重要なのはそのことばに乗った個々の「経験」を実感として語り合い、語り継ぐことの重要性である。ある学生が「そのように言葉の使用を抑制する社会が問題だ」といった趣旨の指摘をした。同感である。それは「一語」に敏感である「短歌」を考えるからこその発想のようにも思う。「ことば」への信頼が社会の中で大いに失われているいま、こうした感覚を世代を超えて共有することに大きな意義があるように思われる。だからこそ「短歌」なのである。

「祭」を興じ合える「いま」
多くの国語専攻の学生たちも参加させたい短歌会議論
72年目の夏、いま短歌とともに「平和」を創り続ける、
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「自由研究」に短歌をー宮崎大学短歌会TV初出演

2017-07-27
地元TV放送局企画
「自由研究お助け隊」
宮崎大学短歌会の学生たちがいざ!

大学もようやく補講期間となったが次週は試験期間、今やすべての校種の中で一番夏休みに入るのが遅いのが大学である。小中学校では夏休みに「自由研究」なる宿題が出されるのだが、その「自由」なる点がなかなか曲者である。学習者主体な発想から出てきた課題なのであろうが、なかなか学習者が真に楽しく自ら進んで課題に取り組むことが多いわけではない。現在では(以前からその傾向がなかったわけではないが)宿題も保護者が関わって消化する時代と聞くが、地元TV局の「自由研究お助け隊」という企画に宮崎大学短歌会が出演することになった。主に小学生を対象として、日常生活を短歌にしてそれを大学生たちが歌会のように批評し、その歌について本人と対話をして魅力を発見するという内容である。午前中から研究室に2名の小学生が訪れて、レポーターの方とカメラクルー2名とともに撮影が敢行されたのであった。

「短歌は三十一文字の手紙」と、俵万智さんが折々におっしゃっている。今回もお忙しいスケジュールの中、別撮りで俵さんのインタビューも同コーナーに組み込まれる。小学校などの文章表現などの課題で問題なのは、書いても「読み手」が意識できないことである。短歌創作も「作らせる機会」は多くなったように思うが、廊下に作品を貼り出すなどはされているが、個々の歌を真の意味で「よむ」機会はあまり設定されていない。家族や友人、大人たちも子どもたちも加わって、「三十一文字の手紙」を読み合い表現主体が何を「伝えたい」のかを、様々な角度から「よむ」機会が必要だ。短歌は「他者にどう読まれるか」を知ることで、創作者も気づかなかった魅力が抽出される。しかも生活の中の小さな出来事を心に感じ取ったら、このコンパクトな定型によって手軽に「ことば」にすることができる。家族の中で話題のない場合などでも、一首の短歌が起点になって、豊かな対話が醸成される可能性がある。概ねこのような理論が、学生たちの具体的な言動で3分間のコーナーとなって、今夕地元宮崎で放映される予定である。

UMKテレビ宮崎(3ch)
UMKスーパーニュース(18:14〜)
本日7月27日(木)放映、宮崎のみなさん、ぜひご覧ください!!!
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宮崎大学短歌会(第6回)ー繰り返し(リフレイン)を活かすには

2017-07-19
山を見よ山に日は照る海を見よ海に日は照るいざ唇(くち)を君
(若山牧水『海の声』より)
短歌の中の繰り返しを考える・・・・・

宮崎大学短歌会定例の活動日。自由題により十首の詠草が提出され、活発な議論が為された。奇しくも提出された歌には、「繰り返し(リフレイン)」を含んだものが多く、こうした偶然性というのも短歌の面白みであると思われた。三十一文字(みそひともじ)という限られた字数内で表現する短歌は、素朴に考えるならば同語の重複は避けるべきであり、繰り返しにはそれなりの効果が求められる。だが冒頭に記した牧水の歌のように、敢えて同じようなフレーズを繰り返して個性を発揮できる可能性もある。特に牧水の場合は第一歌集『海の声』にこうした歌が多く、その要因として、一次言語(音声言語)としての意識が強く作用しているのではないかといった指摘を、昨年の『牧水研究』(第20号)の評論に書いた。一次言語にはいくつかの特徴があり、総じて「力動性」があるもので、その中でも特に「累加・累積性」があることを活かした歌作りといえるのではないかということである。

冒頭に記した歌も「山」と「海」の対照性を、「見よ」という命令形と「日は照る」という自然の根本的作用の組み合わせで繰り返しを構成している。その大自然の中に自己と恋人のみが置かれているかのような、壮大な虚構的物語的な景色が想像されつつ、結句では恋人の「唇」を頑なに力強く求めている。もちろんこの歌は、牧水若き日に熱愛した小枝子を求めた歌である。大自然に抱かれながら今此処にいるふたり、その求め合いたい愛への永劫な思いが繰り返しによってよく表現されているように思われる。思えば楽曲の場合も繰り返しの効用は実に大きく、所謂「サビ」の部分というものは、複数回繰り返されることで人の心に響く曲となる。思いつくままに例を挙げるならば、昭和歌謡の名曲「Love is over」なども、この題のフレーズがかなりの回数繰り返され、歌い出しから締め括りまで一貫して嵌め込まれている徹底した繰り返しが効果的であるように思われる。

短歌の中の「音楽」
美しくことばが響くためには
音声言語の力を再考する契機ともなる
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