人生はいつも本番(群読劇公演千秋楽)

2016-08-08
「本番」とはなんだろう?
企画・準備・稽古からすべて本気で取り組む
人生はいつも「本番」なのだ

2日間の群読劇公演も千秋楽。爽やかな海風に吹かれながら、この日はまず青島神社に参詣し、公演が最後まで滞りなく進行することを祈願した。その後、参道商店会にあるマンゴーを販売する店舗へ。僕が宮崎に来てから、一番信頼が置ける親友ご夫妻としばし談笑。昨晩の公演ではこのご夫妻の奥様から実家のお母様を介して、公演に出演した女優さんに花束のお心遣いをいただいた。誠にこの地の人々の、心の温かさをあらためて実感した。その後、栄養をつけるべく海鮮料理の店へ。青島の賑わいとともにお店も活気があり、僕が宮崎に来た当初にこの店で様々な出逢いがあったことを思い返すことができた。今回の公演がこの地・青島でできたことは、決して偶然ではなく、僕が宮崎に赴任した時からの運命的な邂逅が成した技なのではないだろうか。同時にこうした青島での過ごし方に、友人である女優&ギタリストご夫妻とともに行動していることも、きっと必然なことなのかもしれない。

15時にはスタッフが公演準備に取り掛かり、15時30分には役者が集合。集合日から9日目であるが、毎日稽古・公演でふれあってきた面々と集い会えるのも今日が最後である。特別な感慨に耽りながらも、運営側としての心配は尽きない。急な雷雨など手の施しようのない天候の問題、また夏本番の中で青島の賑わいを加勢する周囲からの音の侵入、千秋楽の方が多いとは予想しつつも観客動員数等々、あれこれと考えながら公演時間を迎える。この日は出演している中学生が所属する附属中学校の校長先生や、大学側で附属校との責任者をしている先生、そして仏語や独語の同僚の先生方をはじめとして、国語専攻の学生たちの多くが来場してくれた。最終的に観客動員数は96名、予想していた80名を遥かに上回る数に企画制作側としての何物にも代えがたい歓びを覚えた。そして僕自身もようやく、世界でここにしかない「星の王子さま」という物語ライブを堪能できた。出演者全員の声が青島の星空に響き、物語こそが人生の糧になることを再発見した。思えば以前から燻っていたこうした公募制群読劇を創ろうという意欲を、宮崎県立芸術劇場企画の工藤さんと共有し、3月19日に大学構内で行われたシンポジウムの打ち上げ会場で話を煮詰め、二次会は敢えてカフェのカウンターに陣取り、具体的な企画を始動させた。稽古開始4ヶ月前ということを今あらためて考えると、いかに無謀でなおかついかに夢追い人の行為なのかと、自分たちの「強引な勇気」に恐ろしささえ覚えるほどだ。だがしかし、人生は歩きながら考えなければ何も始まらない。2016夏、今しかないこの時に9名の出演者と役者にギタリストが渾然一体となって、脚本・演出家の情熱と愛情に満ちた指導に向き合い、奥深くも笑いがある「平和と愛」の象徴のような時間を共有できたことには、自ら「奇跡」とも称したいほどの驚きを覚えるほどだ。打ち上げは大学地元の焼肉店で。乾杯の発声に合わせてこの企画に参加してくれたすべての人々に僕はこのことばを贈った。「人生はいつも本番である!」と。

響き合いやがてかなしき芝居かな
今日からまた参加した面々は個々に人生を歩み続けることへの一抹の寂寥、
そしてもちろん「かなしい」とは古語で、「愛しい」という意味に他ならない。
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亜熱帯植物園で創る砂漠(群読劇公演初日)

2016-08-07
南国の植物が繁茂する
「星の王子さま」の舞台である砂漠
空間と仲良くなり、場所を味方につけるとは・・・

7日間の稽古を経て、いよいよ公演初日となった。早朝は聊か朝寝をしようと決め込んでいると、我が家に滞在している女優&ギタリストご夫妻から声が掛かった。どうやら「お隣さん」が呼び鈴を鳴らしたらしい。玄関を出ると誰もいなかったが、家の前の道路を見ると唖然。かなりの位置まで、道路は冠水しているではないか。慌てて車庫の車をやや高くなっている庭方向へ下げて、エンジンルームへの浸水は逃れることができた。激しい雷鳴、テレビ等電気製品の電源を遮断し、暫くは天候の脅威に耐える時間が続く。だがそう時間は経たないうちに豪雨と稲光・雷鳴は止み、冠水も瞬く間に引いた。これぞ高台に居を構えた利点でもあろう。公演初日という緊張感の中で、こんな朝であった。1週間の稽古による疲労感に襲われている上に、公演時間の天候へのこの上ない不安が脳裏をよぎった。

午後1時から公演場所の青島公民館で最終稽古。狭い場所ながら出演者と演出の立山さんとの、最後の最後までとことん演技を突き詰める”対話”の時間が持たれる。この本番に賭ける執心こそが、表現に携わる者にとって微塵も疎かにしないという情熱の証である。これまでの稽古でも何度も指摘されてきたことであるが、「情報量を渡す」という立山さんのことばは、表現する者にとってはもちろん、〈教室〉で児童生徒に向き合う教師が何よりも絶対的に心掛けるべきことである。「伝えたつもり」では相手には伝わらない。敷衍して考えれば、文芸創作でも批評・研究でも的確に「情報量を読者に渡す」ことは、誠に肝要なことであるのは自明だ。学生はもとより多くの人々にとって、この点を実感する契機は多そうで意外に経験できるものではない。それゆえに独善的な「授業」「短歌」「評論」「論文」に陥っていないか、常に「表現」を再考して常に突き詰める必要がある。

最後の通し稽古の仕上がりは順調。それでも尚、役者は「緩い身体(モワ〜ンとした雰囲気)」にせず「ナチュラルにしない(=身体にテンションを掛け続ける)」といった構えこそが、観客への敬意だといった指摘が立山さんから出演者に向けられる。「演出のムーブを自己の解釈を活かして自分だけのものにする」といった役者としての醍醐味も伝えられた。個々の出演者には「感情で読むと観客に伝わらない、語感を渡すのである」といった、この1週間の集大成のような指摘も徹底して伝えられていく。そしていざ会場へ向かうに当たり、「空間と仲良くなる(場所を味方につける)」と「亜熱帯植物園で創る砂漠」といった表現を駆使して、立山さんが本番へ向けて出演者たちの意識を高めていく。演技は役者の言動のみならず、舞台空間や音楽・自然の音に野外ならば天候そのものも「表現」のうちなのである。〈教室〉での授業が、いかに狭い「教科書」のうちに閉じ籠っているか、そんな狭量から抜け出せと「演劇」の「演出」は語り掛けてくれる。

会場準備を進める最中から、植物園の正門を出て青島に渡る橋のたもとで、音楽ライブが開催されていた。植物園事務所も商店会も、そして僕らこの群読劇企画を進めてきた者も、1週間前まではこの「事実」を知らされていなかった。僕とともにこの企画を推進してきた県立芸術劇場の工藤さんが、何度もライブ担当者と折衝しプログラムの噛み合わせを調整し続けた。結果、開演は10分押し、さらに無事に開演したかと思いきや、また次のライブが開始される。今回の企画で当初から懸案とはなっていたが、予算の関係で演者個々の声をマイクで拾うまでの機材が準備できていない。野外の植物園という空間で、果たして1週間稽古を積んだ出演者の声が、観客に届くのかという点が、大きな課題であると僕たちは感じていた。その上にこの至近距離でもライブ開催である。だがしかし、「人生ピンチはチャンス」なのである。終演後に何名もの観客の方から、「むしろ出演者の声を集中して聴けた」とか「物語世界に入り込めた」という御感想をいただいた。それほどまでに、出演者の声は観客に届くものに成長していたとともに、出演者全員が集中を切らさずに演じ切ったことの証しがたったということだろう。本番後の立山さんの指摘もまた魅力的で「人間は音をスポイルする力がある」と云う。観客の「聴く力の照準」がブレることなく、出演者が対話関係を1秒たりとも切らさずに演じたということだ。そしてまた「明日はまた新しい作品を創るつもりで届けよう」ということばで、僕たちの本番初日が幕を閉じた。

亜熱帯植物園に突如として現れた「砂漠」
青島という地の構造も見えてくる貴重な機会に
「共存共生」僕たちは「愛と平和」を願う人であり続けなければなるまい。
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自然に和むために届く声を(群読劇稽古7日目)

2016-08-06
南国の亜熱帯植物が僕らを出迎える
空に海に吸い込まれるちっぽけなひとりの人間の声
群読劇稽古も現地リハーサルへ

初めて宮崎を訪れたのは、野球09WBC日本代表合宿の際であった。イチローが先導役となり苦闘の末に決勝での勝利し優勝2連覇。この宮崎からロスまで、観戦できる全ての練習・試合をライブで僕は目の当たりにした。そんな意味で、僕にとって宮崎は野球世界一への入口であった。次に宮崎を訪れた際に宿泊したのが青島であった。嘗てはONがキャンプ宿舎として滞在し、温泉も豊かで情緒漂う青島グランドホテル。またこの宿から至近距離にあるお店の海鮮丼に勇気をもらい、僕はまた新たなる扉を開くことになる。この青島は、僕にとって運命が開かれる土地であるといってもよい。その後、時折宮崎に来訪する両親とともに青島を頻繁に訪れ、亜熱帯植物園の売店で販売する1杯1000円もするマンゴージュースを、母はお気に入りであった。その植物園が「宮交ボタニックガーデン青島」と称して、この春リニューアルオープンした。奇しくも今回は、この植物園を舞台に群読劇を公演することになった。大学×県立芸術劇場×公園協会の連携協力事業として、地域の人々とともに豊かな物語が共有できたらという願いをもって、3月から計画を進めてきて、ようやく本番前日に漕ぎ着けた。

打ち合わせ段階から何度も”ボタニックガーデン青島”に足を運び、あらためて元来の自然を存分に活かした公園であるという発見の連続であった。そしてまた今回初めて現地で群読劇通し稽古を行い、”自然と和む”という「思想」を発見したような気がしている。東から来る爽やかな海風、陽は西の山際に傾き、円形ドームのような空には雲のグラデーションが何かを訴える。その下に配された植物たちの生命力、そして虫たちとの共生。人造的なテーマパークが全盛の時代にあって、この植物園の環境は、誠に自然にも人間にも優しい。いわば「自然の自然たる営み」が肌で感じられる場である。もしかすると物見遊山の人の眼には、きっと物足りなく映るのであろう。だがしかし、蔓から生じる一つの実にこそ、生命の営みと力が発見できる。そんな些細な「生きる」を見逃さない感性こそ、今の時代に必要な「愛と平和」の入口なのではないだろうか。その場で、僕たちが創ってきた精一杯の声を、地域の人々ひとり一人に届けようとする。それは決して作為的で自然に抗う行為ではなく、己もまた自然の一部なのだと気づくための行為なのではないか。蝉の声、波の音、そして神鳴る音。リハーサル前に急な降雨だが、すぐに止み決行。そしてリハーサル5分後に雷鳴とともに豪雨。自然の粋な計らいに、僕たちは感謝しなければなるまい。

どんな環境へも適応する
それが”自然に和む”ということ
ちっぽけな人間ゆえに傲慢な大声ではなく、届く声こそが生きる糧になるのだ。
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いまここにしかない声を紡ぎ出す(群読劇稽古6日目)

2016-08-05
初通し稽古のワクワク感
出演者全員の声が繋がり物語となる
いつも変わらぬは幻想にして、いまそこにしかない声を紡ぐ

大学構内における稽古も最終日、いよいよ全編の通しが実行された。初日に出逢った出演者たちが互いに切磋琢磨し部分的に質を上げてきた各場面が、ようやく「群読劇」として全編が織り成される。以前から芸術家派遣事業でお世話になっている、役者の下舘あいさんも本番衣装に身を包み、当然ながら通し稽古では一際存在感が大きく感じられた。今回あいさんには「聞き手に声を届ける」ことを目指し、出演者たちの「身体的ワーク」を連日の稽古における最初に実施していただき、次第に出演者の表現が「届く声」になっていくという変容が見られた。相互に名前をすぐに覚える「名前鬼」という「鬼ごっこ」、二人一組で呼吸の構造を意識化する「脱力背骨起こし声投げ」、”みぞおち”は呼気を出す際にいかに動くかを把握するために「体感拳みぞおち」、そしてコアを鍛える「腹筋足文字書き」等々、僕も出演者とともに参加して、あらためて教師としてプレゼンターとしての身体感覚を確かめた。こうした身体ワークは竹内敏晴によりそのワークショップや著書により「教師」と関連づけられて展開してきたが、やはり今の時代であるからこそ教員養成に対人コミニケーションを重視した身体の意識化が必要であると、あらためて痛感する。

「役者は通し稽古をする時が、何よりもワクワクする。」演出の立山さんのことばで、この日の通しが始まった。どんなジャンルでも「ライブ」に参加したことがある者なら、誰しも質の程度の差こそあれ、こうした興奮を理解することができるだろう。「デジタル化」に慣れてきてしまった最近の人々の身体感覚では、パフォーマンスはいつでも同質のものだろうと受け止められがちだ。さながらファーストフードの食べ物が、いつでもどこでも同じ値段で同じ味を廉価で保証するかのように。だが、魚でも野菜でもその季節の天候条件でその日にしかない質と味があるもので、決して同質な料理に常に向き合えるわけではない。映像ならばともかく「ライブ」では、まさにその「一回性」にこそ真髄があるように思われる。見逃したら「巻き戻し」をすれば済むというのではなく、いまそこにしかない声が紡ぎ出す、世界でここにしかない「現実」が展開すわけで、これこそが「生きた演技」ということであろう。この稀少性に観客が気づいた時、更に演者は「観客からも力を貰って表現を高めることができる」とも立山さんは云う。実は〈教室〉で展開される授業も同様に「生きている」のであり、学習者と指導者との共感性が成立した時に、真の学びが成立するのであると信じている。どうやら「20〜30年になくなる職業」に「教員」も入っているという衝撃的な事実。一度実施した授業を「再放送」し続けているならば、この予想に妥当性を与えてしまいかねない。ここで述べた「身体性」と「ライブ性」に、人が生きる上での「目に見えない真実」があるとしたら、文学・教育を考究する者として真摯にその現実に向き合うべきではあるまいか。

日常ではないまさに劇的な53分間
大学のホール内にいながらにして星空が見えたような感覚
いよいよ明日は、現地での事前リハーサル(ゲネプロ)である。
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短歌と演劇・・・言語芸術としての共通点(群読劇稽古5日目)

2016-08-04
ことばを伝えること
悲しいことを「悲しい」と言っては伝わらない
文字面に引かれない言語芸術の境地とは・・・

「定型」という与えられた「舞台」で、如何に読者にことばを届けるか。今回の群読劇制作にあたり立山ひろみさんの演出の随所に触れて、「短歌」と「演劇」の共通点を見出している。とりわけ「群読劇」という「ことば」重視の舞台を創るという上で、その共通点は際立っているように思われる。冒頭に記した趣旨の演出指導が、稽古中に立山さんから発せられた。「悲しい」ことは「悲しい」と言っては、読者(聞き手)に伝わらない。歌会に参加しているとよく「結論を自分で言ってしまった」といった趣旨の批評に接することがある。読者を信じてその想像力に託すという、実に微妙な境地に表現を着地させるということ。また「・・で・・・で・・・で・・・でした」式の、「説明」になってしまえばまた、実につまらない短歌になってしまう。まさに「文学」というのは「説明文」にあらず、読者を信頼して投げ出せる勇気が求められる。

稽古の進捗状況を観察していて、いよいよ終盤のシーンが創られるようになった。冷静に視ていたはずであるが、ついついその表現に聊か涙腺が緩み始める。元来が「泣き上戸」な僕であるが、この心のうちに落ちてくる「ジーン」は何なのだろうかと内観して我に帰ったりする。短歌でもまた「心の揺れ」(俵万智さんの著書などでよく語られる)が生じることを逃さず、ことばを選んで表現に仕立てていく。この日の稽古の中で、立山さんが「ヒリヒリを渡す」といった表現で指導に及んだ。「強く伝える」のであるが「突き放してはいけない」という立ち位置。「演者が物語の先を分かっているような表現をすると、その芝居は曇ってしまう」とも云う。どんな著名な作品でも「観客は知らない」ことを前提に、演者たちも「知らない」立ち位置で劇を進めなければならない。芸術の崇高な価値を見失っている世知辛い社会では、この「演じる」ことの本質を虚偽による欺きだと断ずるかもしれないが、これは決して「観客を騙す」ということではあるまい。「サラダ記念日」の著名な短歌は、実は「サラダではなく唐揚げであった」ということは俵万智さんも述懐しているが、その「虚構」にこそ、現実以上の「真実」があるのだ。文学理論では「読者と共犯関係を結ぶ」という批評もあるが、まさにそれが「共感」ゆえにほかならない。

明確な説明と社会的定式
何もかにも「分かりやすい」ことを求める、安易で事務的な社会風潮
僕たちは「豊かに生きる」ことを、決して諦めてはならないのである。
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先に神経を!次の人に動機を渡す(群読劇稽古4日目)

2016-08-03
相手役の台詞を聞く
舞台上のあらゆることに神経を研ぎ澄ます
一行の「文字列」を読むにあらず、生きたことばを語るということ

群読劇稽古4日目。大学キャンパスは試験期間となり、周囲は採点などに勤しむ先生方も多いだろう。だが、僕はいま此処でしか聴けない人たちの声に耳を傾け続けている。群読劇「星の王子さま」は、これからも毎年恒例で企画しようと意図している。だがしかし、今年今月今日の此処に集える人々の声は、「いま」を生きる声でありその交響というのは、この世に二度と立ち現われることはない。表現とはそれほど崇高で稀少な一回性の中での行為ではないかと、毎日の稽古に接し痛感している。人は「いま」しか生きられない、という次元で「いま」しか創れない声の形象世界に僕たちは挑んでいる。脚本・演出の立山ひろみさん・女優の下舘あいさん、ギタリストの下舘直樹さんが手掛けて創造する高度な表現への取り組みに、参加者が応えて大きく変化し成長する姿を見るに、企画・運営の立場としてこのような驚きと発見の連続が、稽古の随所から見て取れる。

冒頭に記したことは、文字にすれば至極常識的なことなのであるが、簡単にできることではない。日常生活でも〈教室〉で行われる授業でも、発話者のことばに神経を向けて、丁寧に繊細に「聴く」という行為は、容易に行われている訳ではない。時に感覚的に、独りよがりに、「自己」というバイアスを掛けて、あくまで勝手に「聞いて」しまっていることが多いのではないだろうか。真に相手のことばに共鳴してこちらからもことばを投げ掛けることを、「愛」であるいっても過言ではない。脚本となった作品の台詞や語りに対して役者は「先に神経を向ける」といった表現によって出演者を指導する立山さんのことばによって、ふとそんな貴重な気づきがあった。同類に「(台詞など)次の人に動機を渡す」ともいう指導もあった。そして、舞台の立ち位置によって、表現の意味が大きく変化する。たぶん日常生活でも恋人・夫婦に限らず親兄弟や親友であっても、「愛してる」人同士なら所作や立ち位置という「表現」そのものに神経を研ぎ澄まし、共感しあって生きているということになるのではないか。それが決して作為的に行われて神経が疲弊するわけではなく、自然に柔軟に行われるということが「愛」なのではないだろうか。ふと稽古中にこんなことを考えた。

現実以上の「真実」
群読劇で描く作品世界への「愛」
文学研究でも教育研究でも、こうした視点なくして何を語らむ、である。
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「演劇」を閉塞した〈教室〉へ(群読劇稽古3日目)

2016-08-02
「キノコだ!」
物語文脈の中で読む「朗読」に冷ややかな目
〈教室〉が抱え込んだ暗躍たる闇の正体は・・・

群読劇「星の王子さま」稽古3日目。平日となり夕刻より3時間ほどの限られた時間内で最大限の効果を目指して稽古が進む。今回、宮崎県立芸術劇場演劇ディレクターの立山ひろみさんに脚本・演出を手掛けていただいている。事前の打ち合わせでお会いした時から、彼女の作品への情熱と広範な分野への造詣の深さには、敬服に価する学びの連続である。稽古に入っても、初日2日目で「奇跡的」ともいえるほどに出演者の個性と能力を引き出し、作品そのものも表現としての均衡とともに深い原作の把握とユーモアに満ち溢れたものとなり、シーンごとに見ていて大変面白い。その上で、「群読(朗読)」だからという視点を基礎に据えてブレることなく、誠に僕自身がこれまで考えていた音声表現という域を、どこまでも開拓し尽くしていくような野望に満ちた感慨を覚えている。このようなある意味で「異業種」の交流を通してこそ、初めて見えてくるものがあるものだ。

平田オリザ氏が従来から指摘しているように、日本の教育の中には「演劇的要素」の影が薄い。近代化の中での「演劇」そのものが置かれた立ち位置にも、その要因があると平田氏は指摘する。欧州での「演劇」が「芸術」の一領域として確固たる位置があるのに対して、「偏見」ともいえるような眼差しが日本ではあると云う。それは日本の〈教室〉という場で「朗読」をした場合に、まさに「演劇的」に読んだ者に対する周囲の反応が冷ややかであるという「空気」に端的に顕れている。そしてまた指導者たる教師も「演劇」への理解が浅い。そうした悪循環の中で〈教室〉での「音読・朗読」は、肩身の狭い思いをしながら棲息していた。学習者も指導者も、何らかの機会に「演劇」を理にあらず体験する必要が求められているはずだ。このような理由で、教員養成の学びを深める教育学部と芸術劇場が手を携えたこの企画の価値が見出せる。立山ひろみさんから学んだことを、教育現場の常識を覆す方法として還元していくことが、僕が担った大きな仕事なのであると志をあらたにするのである。

具体的な「演劇的」学びはまた後日紹介しよう
閉塞を打ち破るには感性豊かな表現を求め続け、
思案するばかりでなく行動することしか突破口ない。
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学校では見えないこと(群読劇稽古2日目)

2016-08-01
教科書の文章を正しく大きな声で
学校の授業で行われる音読は人に伝わるものなのか?
演劇的な発想から見えてくるもの

地域連携群読劇「星の王子さま」稽古2日目。限られた稽古時間で、出演者の力を最大限に引き出しよりよい作品を創り出すべく、演出家と女優の二人三脚による奮闘が続く。〈教室〉での音読・朗読を改善し個々の読み方の癖をほどいていく、といった趣旨があるものの、やはり「群読劇」として如何なる作品になるかという点にこだわるのが、お二人の演劇に対する深い愛情と情熱のなせる技であろう。その女優さんの展開する演劇的身体ワークには、教員志望の学生全員に取り組ませたい要素がある。呼吸を中心として自己の身体性の把握、「他者に届く声」とは如何なる身体作用によって発せられるのか?といったことを、頭ではなく身体全体で体感するワークショップである。「声」の根源は「呼気」であり、その呼吸を背中から届けたい方面へ向けて投げる、といった感覚を発声する者が持つことは、日常的にはなかなかないことだ。以前から考えていたことだが、大学での教員養成は、実に頭でっかちになっている。さらにいえば「技術的」に成り下がっているともいえるだろうか。一番の問題は、この身体性コミュニケーションの欠如などだといってよい。

脚本・演出家の方から学ぶことにも、計り知れない貴重な気づきの連続だ。当然のことながら、聴衆がその作品を知っていると思っても、表現者は「お客さまは全く知らない」ということを前提に「伝えよう」としなければならないと云う。〈教室〉というのは、物事を「知るべき」という意識が先行し、「知っていないと恥」という感覚が強迫観念になって、なかなか「知らない」ということを言える環境にはない。あるいは指導者が「読み語り」などをする際にも、「既に1度読んだ」ことがある絵本であると子どもたちが「知っている」ことに甘えて、「本気で伝えよう」という意欲に欠けてしまうことが多い。これと同じことが、教科書の「定番教材」における教師の授業にもいえるのではないかと考えたりもする。己が授業の指導を通して「知っている」ことに溺れた授業実践を、無意識に続けていやしないだろうか。これは校種を問わず、何十年も変わらぬ大学の「講義ノート」などというケースも同様であろう。「学び手は初めて」という基礎基本に、表現者の原点があるようにも思われる。

さて2日間の稽古は急ピッチながら
「奇跡的」とも思える化学反応を生み出しつつある
志を持って集い合える若い力の逞しさを思うとき、表現の素晴らしさに心打たれる。
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群読劇「星の王子さま」稽古初日挨拶

2016-07-31
今ここに参加している不思議
学校の「音読」への問題意識から始まる
参加者とそして己と向き合う9日間が始まる

いよいよ地域連携型群読劇公演に向けて、稽古が始まった。出演していただく女優さんが早朝1番の便で東京から宮崎へ。その後、公演場所である宮交ボタニックガーデン青島を下見。夏の太陽が容赦なく照りつけるが、やはり海浜リゾートたる青島には夏が似合う。名物の店で海鮮丼を賞味し栄養をつけて、いざ大学へ。スタッフ学生たちが稽古の準備を着々と進めていてくれていた。一般1名・大学生6名・中学生2名の合計9名の出演者が初顔合わせ。開口一番、僕がまずはこの公演の趣旨を含めた挨拶を行った。以下、その趣旨を記しておくことにする。



「いまこの場になぜいるのでしょうか?」この場所にみなさんがいるために欠かせない人たちの顔を、数名でも思い浮かべてみてください。各自がそのような人と人との繋がりがあって、今日この場に集合できたのです。その人たちへの感謝を噛み締めて、この公演に向けて動き出しましょう。さて、みなさんは「教室での音読」は好きでしたか?好きだった人も嫌いだった人もいるでしょう。問題は「教室での」という点にあります。たぶんこのような企画に参加しようとするみなさんですから、「音読」「朗読」「表現活動」が嫌いではないはずです。だがしかし「教室で」行われると、どうも思ったように表現できなかった現実があったのではないでしょうか。同時に端的に申し上げますと、「教室で行われる音読は表現として適切ではない」ことが多いのです。そのことに気づくためには、「学校」の中に「表現活動」を閉じ込めておいては、いつまで経っても埒が開きません。

そこで今回は、宮崎県立芸術劇場との連携協力事業として、脚本・演出家の方や女優・音楽家の方々をお招きして、演劇表現の持つ豊かな芸術性に生身で接することで、この「教室」という籠に閉じ込められた「音読」を解放し、より豊かな「群読劇」に仕立てていくことで、能動的な朗読学習活動方法が発見できるのではないかと考え、この企画に取り組んでいます。出演者・スタッフの学生のみなさんがこの企画に取り組むことで、教員や社会人になった時に、自らのそして周囲の他者の「表現」に対して敏感となり、豊かな感性で「朗読」活動に向き合う生き方ができるようになる契機として重要な機会となることでしょう。もちろん今回公募に応じてくれた一般の方にとっても、「芸術」「文字表現」「音声表現」への意識が高まり、自らの歩みにおける新たな道標が起ち上るのではないかと期待しています。また地域の中学生のみなさんは、決して「学校」の中では体験できない「表現活動」に参加し、自らの強さも弱さも見つめることになるでしょう。

最後に桑田佳祐さんの新曲「百万本の赤い薔薇」の一節。
「広い世界の果てに、愛と憎しみの雨
 ずぶ濡れはいつの日も、弱くはかない命。
 『愛と平和』なんてのは、遠い昔の夢と
 強くあれと言う前に、己の弱さを知れ」
という歌詞の一節をみなさんにお知らせしておきたいと思います。

社会を見渡せば、理解に苦しむ事態ばかりが起きています。
それだけに、僕たちは『愛と平和』を諦めることなく、
そのためにも「星の王子さま」の珠玉のことばたちに触れることで、
「己の弱さ」を知り、この時代を生きる意味をこの宮崎・青島の地から
全世界に発信したいと願っています。

(*以上、冒頭挨拶の趣旨に加筆修正を加えてここに覚書とした)
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学園都市に生きて

2016-07-30
大学を中心にできた街
学校・住宅街・企業が自然の中に溶け合い
そして至近に青島リゾートが控えている・・・

「学園都市」といえば「つくば」が全国的に有名であるが、この地「みやざき」も学園都市として造成された街がある。空港からバイパスを約10分弱車で走ると、「宮崎学園都市」の表示が現れる。巨人軍のキャンプ使用球場を左手に見てバイパスを降り、田園地帯を走り抜ける。すると街路樹が整備された坂道があり、それを登ると雰囲気が一変する。小高い丘の上の平坦な地には、区画整理された住宅地が目を引き、その街の中に中学校や小学校も配置されている。街の中心部には、郵便局とスーパーがあるのと聊かの娯楽施設にファミリーレストランとコンビニと学生向けの居酒屋が数軒。至って素朴な街であるが、最終的に坂を登り詰めると大学キャンパスの敷地が、広大な丘陵たる自然の中に広がっている。(車使用の視点ゆえ、このような記述になるが、公共交通機関は至って不便であるのも事実である。これはいずれの県でも地方国立大学法人の特徴でもある。)

この街に住んで丸3年が過ぎ4年目となった。「学園都市」とはいえ、「大学」のコミュニティのみで生きてきたのではないとつくづく思う。馴染みのお店に気の合う人々、この街で暮らす人々との出逢いが今日までの僕を支えてくれて来た。一昨日も「疲れているでしょ」と笑顔で迎えてくれたお店では、一足早く「土用の丑」と同時に「疲労回復ポーク」を賞味させてくれて、誠に心身が元気に復活をした。この店でも、また街のパン屋さんにも、昨日の小欄に記した企画のチラシをお知り合いに宣伝してくれるという。まさに街に支えられているような感慨を覚えるのだ。またこの日はあらためてこの「学園都市」地域にある小学校へ、チラシを持参して企画参加のご協力に対する御礼を述べた。僕が所属の教育学部にとって、この地域の学校との連携を今まで以上に大切にすべきだと痛感した。その意識によって、学生たちがさらに地域の児童生徒や住民と繋がり、自らの教員志望たる意味を主体的に見出していく環境こそを創成すべきであろう。今回の企画は、僕がこの街に住んできた3年間の節目と成果を形にしたものでもある。

車でさらに10分、青島リゾートが今回の公演場所
その地域の人々とも、ある人を介して広がり始めた
僕が公募採用面接の際に宿泊したもう一つの街が、今あらたな注目を集めている。
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