教育実習どうでしょう?

2017-11-23
教員養成の中心的学び
教育実習どうでしょう?
九州地区の情報交換会にて

九州地区の教育実習に関する情報交換会に出席するため、鹿児島まで赴いた。隣県の中でも一番行きやすい感覚がある鹿児島までの道のり、この日は生憎の雨に見舞われた。筆者はいま「一番行きやすい」とは書いたが、鹿児島まで行っていつも痛感させられるのは新幹線が通っていること。北上し熊本・福岡・佐賀あたりからは時間的にも大変近いことが、参加者である先生方の口調から伝わってくる。情報交換会の終了時刻20:00を鑑みても、この三県いや山陽や関西圏あたりまでなら日帰り圏内である。「行きやすい」ながらも当初から一泊を決め込んでの参加となった。なぜこうした交通事情のことを記したかといえば、そこに各県の大学の特徴も出ていると感じられるからだ。本県みやざきであれば、この背骨たる交通幹線の埒外にあることを、どれだけ有効に活かせるかが重要ではないかと常々思うのである。

さて、情報交換の内容を小欄に記すのは控えるが、自明のことながら「教育実習」こそが「教員養成」の中心的な学びであることは動かし難い事実である。いつの時代も「教育改革」の重要性が説かれながら、政治のでも数々の提言・施策がなされながら、「教育実習」そのものが伸び伸びとした有効な学びの場になっているかといえば、全肯定はできない事情が数多く見られる。それを教員養成学部の現場にいる大学教員や附属学校教員があれこれと努力を重ねて、自分たちの「後輩」を育てるために尽力しているのが現状である。特に「附属」の先生方というのは、向き合う生徒・児童とその保護者のみならず、附属たる大学の実習生の対応もあるのだ。想像するにそれは「忙しさ」の上に「忙しさ」を重ねたような仕事環境にあると言えよう。昨今の現職教員の労働時間の問題視などを考えても、根本的に本気でこの国の教育をよくしたいなら、「改革」の基本理念こそを変革すべきだと痛感するのである。さてそこで、みやざきでできることは何であろうか?穏やかに時間が流れる、みやざきでできることとは・・・

鹿児島中央駅をあとにして
静かなカフェへ
桜島もこの2日は穏やかでありがとう。


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学校には人生があるー「先生」として生きること

2017-09-15
学生時代の教育実習
初めて「先生」と呼ばれ続ける日々
教育実習一斉指導事後研究会の挨拶から

「先生方」お疲れさまでした!もうこの「先生」と呼ばれることにも十分に慣れたことでしょう。この教育実習の初日に私は「みなさんの身体の中で唯一〈声〉だけが、子どもたちの身体に入り込みこころまで届くものです。」という話をしました。ということは子どもたちの〈声〉もみなさんの身体と心にたくさん届いたことでしょう。昨日の朝、一斉指導に来てみなさんの顔つきが非常に引き締まっていることに驚きました。それは子どもたちの〈声〉が〈ことば〉が、みなさんを「先生」にしたとも言えます。今此処にいる全員が「先生」、ゆえに全員が対等で希望の未来を考え合う仲間です。それが「教師」の魅力ということでしょう。

「学校」には、「人生」があり個々の「物語」があります。私自身も自らが通学している頃から「教師」になってからも「学校」に行くのが大好きでした。その理由は、この「人生=物語」があるからです。みなさんにも新しい「物語」がこの3週間でできました。「人生」とは葛藤と後悔の連続でもあります。昨日と今日の一斉指導授業を創るまでには悩み苦しみ、そして悔しさを滲ませて授業後に涙を見せる方を何人も教室で見ました。そんな際にも一度は「自分は駄目なんだ」と思える勇気も必要です。同時にその「駄目」をことばで分析してこそ、初めて明日へと伸びる力になるはずです。「教育」とは、先人が命がけで積み上げて来た「文化」を「ことば」で伝承し次の世代へと手渡すことです。向き合う人々の幸せを願って取り組む、かけがえのない人間的な営みです。

最後に牧水の歌を
「眼を上げよもの思ふなかれ秋ぞ立ついざみづからを新しくせよ」
この貴重な体験を持って「新しい自分」として大学へと帰って来てください。

この3週間、熱心に指導いただいた附属小学校の先生方に、
大学一同になり代って心より御礼申し上げます、ありがとうございました。


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対話性の原点ー相手の話を最後までよく聞くこと

2017-09-14
「授業」での受け答え
子どもたちが一生懸命に答える姿
「相手の目を見てしっかり聞きます」

附属小学校での学部3年生基本実習も3週間の大詰めで、大学教員が研究授業を参観する「一斉指導」の2日間が始まった。実習前から1ヶ月以上に渡り練り上げて来た学習指導案を、実際に「授業」として実践する。想定していた通りにある程度はできる場合もあれば、机上での予想に反した反応などが出て来て、「計画」が大きく変化してしまう場合もある。学部生たちには日頃の講義でもよく語っているのだが、決して「上手い授業」をしようとするより、一人ひとりの子どもたちとの対話性を重視した「授業づくり」を心掛けるように言っている。

学級全体で「音読」をしようと、個別の子どもが発表するにしても肝心なのは「相手の話を最後までしっかり聞くこと」だ。社会においても「常識」ではあろうが、なかなかこれが簡単ではない。一人ひとりに向けてではなく、「教室」という広い空間に「言葉」を投げ出していたり、発表している児童の言葉を目を見て受け止めていなかったり。「授業」は「全体」で進行するように見えるが、もちろん個々の子どもが学んでいるのである。授業の早い段階で必ず一度は目を合わせて、お互いの存在を響かせ合う一瞬が必要であるように思う。この「教育」の原点こそが、「国民のため」の基本なのであるが。

「人の話を聞くときは、
 相手の目を見てしっかり聞きます」
 幼稚園時代の園長の標語こそが、小生の「教育」の原点でもある。


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ここに生きゐて汝が声を聴く

2017-08-29
「夜半の海汝はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が声を聴く」
(若山牧水『海の声』より)
声は心に届きその心の声を聴くということ

附属小学校において学部3年生の教育実習が始まった。8月末とはいえ未だ暑い実習生講義室なる大教室に、教職大学院生を含めて100名近くが早朝から集合している。まずは全員が揃って実習が始められること、それが学部担当としての切なる願いである。学校、特に小学校教師の朝は早い。そんな生活習慣を生業にと志し、他に代え難い子どもたちとの「教育」という心の交流ある極めて人間臭い生活に向けて、まずは学生たちが「実習」という経験で学ぶ。教員養成学部にとって、これ以上の体験的学びはないといえるだろう。特にこの2年間、担当となって実習の大切さと困難さを、個々の学生の姿の中に顕に見るようになった。

紹介式(実習開始にあたり附属小教員と実習生が挨拶を交わす式)では、校長先生や実習生代表に続けて恒例の「学部引率教員挨拶」がある。昨年から少しでも個性的にと、必ず牧水の歌一首を紹介して学生たちにその心得や激励を送ることにしている。今回は冒頭の一首を披露した。先週の伊藤一彦先生の御講演で、「人の身体の中で唯一相手の身体の中に入り込むことができるものがある。それは声である。」というお話を聴いていたく共感した。「身体」を「子どもたちの心」に置き換えて、この場で学生たちに問い掛けた。実習中に「放つ声」というのは、よくもわるくも「子どもたちの心に入り込む」のである。自らの「放つ声」に自覚的であり、なおかつ子どもたち個々のどんな小さな「伝える声」も真摯に聴く姿勢が必要だ。まさに声は「魂一つ」から発せられ「魂一つ」に届き、またその反響が自らの「魂一つ」に帰るのである。

牧水は「海の声」をよく聴いた
それが自然との対話・親和の原点であろう
実習生たちよ!「魂」の声を聴け!
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体験を経験にするために

2017-06-17
自分の内にもつ体験
他者と対話してことばにしてみる
それで初めて身についた経験となる

誰もが生活の中では様々な「体験」をするが、後になっても実のあるものとなって活かされるためには、それなりの過程が必要となる。「体験」は紛れもなく自らが五感で捉えた「事実」であるはずだが、同じ状況でも人によって捉え方が違うゆえに客観的な整理が求められるということだろう。「記憶」という曖昧な領域に保存されている「体験」を、「ことば」にして他者に伝えてみる。自らの中で「体験」の再構成が行われ、それに対して他者の受け止め方における質問や意見という反応を得る。何事も「ことば」で他者に説明できないことは、自らの内でも腑に落ちたものではない。こうした整理と再構成へ向けた言語化とともに、他者から返ってくる「ことば」を通すことで初めて、「体験」は「経験」になるといってよい。

学部4年生が総仕上げとなる応用実習を終えて、事後指導(報告会)のために附属校に集まった。公立校での現場を体験して、心なしか成長した学生たちの顔に逞しさが感じられる。現職の多くの先生方の経験からしても、4年次の教育実習での体験が、その後の教職へ向けて大きく背中を押してくれたという話はよく聞く。可能性ある「体験」を有効な「経験」にすべく、学生たちは班別に自らの実習体験の対話を進めていく。自らの「体験」も貴重であるが、他者の「体験」から学ぶ点も多い。その後、さらに大きな括りの中で「体験」を共有し、さらには全体発表へ。次第に価値ある「経験」たる「ことば」になって来る。「みんなが手を挙げるのではなく、思考が錯綜した(迷う)場面がある授業に意味がある。」などといった、現場の教員研修でも考えるべき視点も提示される。そして、「一人ひとりの子どもたちには、命が人生がある。」ということを「体験」し得たという発言に、学生たちは「経験」を通して既に「教師」になったのだと、僕なりの実習担当としての「経験」となった。

「ことば」にすることの重要性
「体験」から「経験」への道程
「短歌」とは、高次元な「ことば」による再構成でもある。
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県内挨拶廻りのはじまり

2017-05-11
今週の講義・ゼミは休講
県内の公立実習校へ挨拶へ
個々の学校へ個々の学生をお願いに

講義はほとんど休講することはないが、珍しく「休講掲示」をお願いした。今月下旬から始まる4年生の公立実習の協力校へと、挨拶廻りに伺うためである。個々の学生が特に県内出身者ならば自らの母校での実習を通して、4年間の総仕上げをする機会である。また来るべき教員採用試験に向けて、教職への情熱や現場での実践的な意識を高める経験を積む機会でもある。段階を追った教員養成カリキュラムを通して、自立した社会人・教員として学生自らが大学を離れて自己検証する好機でもある。

一概に「宮崎県の教育を・・・」などと小欄においてことばで語るのは簡単であるが、それは個々の学校の一人ひとりの先生方の手に委ねられているのだとあらためて痛感する。そこには地域に適した教育があり、個々の児童・生徒がいる。それぞれに展開する個の対応の一つ一つが、まさに「教育」を支えている。実践の理論化などを研究者は考えるのだが、その内実はあくまで人と人との関係なのであるということを、深く実感させられる。僕自身も長年中高の現場で、教員として個々の生徒たちに向き合ってきた。研究者となった今でもなお、現場主義を貫きたいと思うのは、このような個の「人」に接することの重要性を肌身に沁みて感じるからなのである。

一人ひとりの学生たちが
一人ひとりの子どもたちに向き合う
「教育」とはこうして、希望の未来へ語り継ぐということなのだろう。
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普通のことを一生懸命に積み重ねる

2017-04-29
「自分のキャパ以上のことは教えられない
 ゆえに、日々勉強するのが教師だ。」
 ある現職校長先生の言葉から

卒業論文とともに教員養成系学部の仕上げ段階ともいえる公立校実習を控えた四年生を対象に、現職の校長先生をお招きしての実地指導が行われた。やはり「現場」で長年教壇に立ち、また学校内の教員集団をまとめてきたご経験からの話は、説得力がある。どうも大学教員などになると、理屈っぽくなり「現場感覚」からかけ離れた空論を語ってやしないかと、常に自省を促すべきだと考えている。こうした意味では、小生にとっても学びの多い60分間であった。「現場」は「学校」のみならず、海外の日本人学校・教育行政職・大学の実務家教員等々、「教員」は方向性次第で様々な「職」を経験できることも、一つの希望として学生たちに提示された。それでもなお、「地域の子どもたちを育てる」ことや「多様な子どもたち、保護者に対応」することの重要性が、ひしひしと伝わってくるお話の展開であった。

「子どもたちにとって、実習とはいえ、その時は一生に一度の授業なのだ」という言葉には説得力がある。「先生が喋り過ぎない」授業が理想で、「子どもたちに考えさせる」ことが肝要であるとも。また最近は「叱れない先生が多い」との指摘もあったが、やはり教員は時に「叱ること」も必要で、それこそが子どもたちへの愛情ということだろう。幸いにも特に小学校の教員募集は、今後の5年間ほどでかなり枠が広がる傾向にある。学校内の教員組織の年齢構成にも懸念があるが、これから教員になる者にとっては、就職に関してはかなり有利である。過去よりは減給されたとはいえ、やはり教員の給与は安定している。様々に激務であるのは確かであるが、「一生の仕事」として悔いなきのも事実であろう。それゆえに「弱音を吐ける人であるべき」との校長先生のお言葉もあり、人としてのコミュニケーションの大切さを再認識する機会となった。

「普通のことを一生懸命積み重ねる
 それが一流になる唯一の道である」
これは既に「実習」ではなく、「教員」そのものへの道なのである。

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成長が見える歓び

2017-04-21
大学での4年間
社会へ向けての成長のとき
4年生の落ち着きにその証が見える

「教員」にとって、教え子の成長ほど歓びを感じるものはない。現職教員時代は、中高一貫校に勤務していたので、中学校1年生から高校3年生まで関わると、誠に天と地の差があるほど子どもが大人になる。それは身体的にも大きな変化があるとともに、その顔つきに表現された心の成長も甚だしいからだろう。中高の場合は特に思春期を経過するゆえ、様々な悩み苦しみを共有することもある。それだけに高校3年を卒業する際の感慨は一入となる。ところで、大学の場合はどうだろう?4年間を通して関わる場合もなくはないが、ゼミは3年生からの2年間、授業もせいぜい年間前期後期とセットになっていたり、国語専攻の場合は複数学年に及び専門科目での付き合いという程度なので、通常は中高ほど成長が見える機会も少ないかもしれない。元来、学生たれば自主を尊重することもあり、個々の判断に委ねている点も中高と相違がある。

ところが昨年度から教育実習を担当するようになって以来、個々の学生の成長がより見えるようになってきた。この日も附属小学校で4年生の公立校実習前の説明会が行われたが、そこにやってきた学生たちが妙に大人に見えた。大半の学生たちは、昨年度は前期後期の30回の講義を通して、様々な活動をともにしてきたので馴染みが深い。2月の講義以来久しぶりであることが、そう思わせるのか、否、実際に彼らは何らかの内面的な成長があって、それが表面に顕在化しているのであろう。考えてみれば、この学生たちも1年後は現場の教壇に立っているのだ。スーツ姿も板につき、キリッとした表情に教員採用試験に邁進する彼らの信念を見たような気がした。ちょうど昨年のまだ暑い9月半ば、彼らは附属小学校での3週間に及ぶ辛く苦しい実習を終えた。その最終日に僕が贈った牧水の歌が「眼をあげよもの思うなかれ秋ぞ立ついざみづからを新しくせよ」であった。この日は挨拶でこの歌を覚えているかと反芻し、あれ以来、どれほど「眼をあげ」て、「みづからを新しく」してきたかを問うた。もちろん、彼らの多くがこの意が通じたような表情をしていた。

実習という体験が確実に学生を成長させる
それを信じて彼ら個々に託していく
大学専任教員としての本当の歓びに、また一歩近づけた気がした。

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実習はお熱く参りましょう

2017-04-06
「同僚になりたい」と乞われた実習生
新卒でも担任としてスタートしている
「実習」は練習にあらず「本番」そのものとして

「今日も熱かったですね!」と、昨年度の講義で親しくなった学生が声を掛けてきた。「今日」とは、在校生オリエンテーションの教育実習に関する説明会。朝から2年生・3年生・4年生と、90分を3コマ続きで説明役をこなした。「説明」というのは、往々にして無味乾燥なものである。重要な内容でありながらも、聴いている側の心の奥に届けるにはそれなりの工夫が必要である。多くの「知識」は、手引書なる印刷物を学生自らが読めばよい。その「理論」を「読み上げる」といった手合いの説明とは、一線を画したものを提供したいと常々思っている。「今」自らがどんな地点に立たされているか?そして何ができて何ができないのか?「生きる」上でどんな体験をしておくことで自らが豊かな人生を送れるか?そんな学生時代に必要な根本的な「問い」に訴えかけることを主眼に、「説明」を展開したつもりである。

冒頭に示したのは、説明会で学生たちに紹介した「先輩」たちの「過去」「現在」である。ある学生は附属学校の実習で担当教員から、「同僚になりたい」と言わしめた。卒業後すぐに県内の学校に赴任し既に1年が経過した。現場の教諭がこうした言葉を発するのは、これ以上ない賛辞である。彼は予想どおり採用試験にも合格し、現場で奮闘していると風の便りに聞く。やはり「実習」は、「採用」から「現場」への感覚に通じているということだ。「この人物を教壇に立たせたい」と思わせる「人」に成長するや否やである。また、先月卒業したばかりのゼミ生に新年度赴任を祝うメールをすると、「担任をもたせていただくことになりました。」という返信をもらった。そこで4年生を前に、「来年の今頃は現場で担任をしているんだ」と語り掛けた。それゆえに4年次の実習は、一人の「教員」として行動すべきだということを訴えた。それは既に「実習」ではない、まさしく「現場実践」の貴重な経験を積む場である。

説明を終えて喉の奥が熱い
そして学生の言葉に自らの熱意が伝わった思い
「説明」のあり方そのものに、さらなる問題意識が芽生えた。
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困難から希望への道を

2017-01-19
教師への階梯を登るとき
必ず困難を越えていかねばならない
そこに初めて本当の希望が見える

新年になって早速、次年度の教育実習に関する実地指導の時間が設定された。附属小学校の担当教諭に大学にお出でいただき、実習の心構えを現2年生対象に講義していただいた。教育の諸問題に対応するために、世間では教員養成のあり方が問われている。また実際に就職したとしても、仕事に追われて休職を余儀なくされる人も多いという報道をよく目にする。「なぜ教師になりたいのか?」「なぜ教壇に立ちたいのか?」そして「教師冥利に尽きる」とはどういうことなのか?、学生時代から体験し心得ておく機会が必要であろう。それはどんなに困難に遭遇したとしても、ひとりのこどもの笑顔で救われるという「教師の希望」を知るということではないだろうか。

Web上で「初詣ベビーカー論争」に対する東浩紀氏の記事(AERA)を読んだ。日本人は「迷惑論」と「権利論」を混同して議論しているという指摘に目が止まった。欧米では他人が迷惑と感じようとも自らの権利を主張し実行するが、日本社会ではそこに「迷惑」を考慮すべきと考えるゆえに議論が空転するのだと云う。「ベビーカーの使用は当然の権利」、「権利かもしれないが迷惑」、「迷惑だと云う指摘こそ権利の抑圧」という構図があり、この論争以外でもよく見られると東氏は指摘している。もちろん教育実習をこの論争と混同するつもりは毛頭ないが、それが「権利」の主張になった時、むしろ自らの学びを阻害し自らの耐性を鍛える機会を失うことになりはしないか。一方で「迷惑」であるという観点で指導すれば、学ぶ者の主体性を奪いかねない。この日の実地指導担当の先生から僕自身が学んだことだが、児童生徒も当該校教員も、実習生も大学教員も、皆が協働で学びを創るのが、何より活動的な教育実習という実践なのではないだろうか。

困難を乗り越える力
机上の講義では成し得ないこと
そしてすべての人が教育とは何かを問い続けること。
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