体験を経験にするために

2017-06-17
自分の内にもつ体験
他者と対話してことばにしてみる
それで初めて身についた経験となる

誰もが生活の中では様々な「体験」をするが、後になっても実のあるものとなって活かされるためには、それなりの過程が必要となる。「体験」は紛れもなく自らが五感で捉えた「事実」であるはずだが、同じ状況でも人によって捉え方が違うゆえに客観的な整理が求められるということだろう。「記憶」という曖昧な領域に保存されている「体験」を、「ことば」にして他者に伝えてみる。自らの中で「体験」の再構成が行われ、それに対して他者の受け止め方における質問や意見という反応を得る。何事も「ことば」で他者に説明できないことは、自らの内でも腑に落ちたものではない。こうした整理と再構成へ向けた言語化とともに、他者から返ってくる「ことば」を通すことで初めて、「体験」は「経験」になるといってよい。

学部4年生が総仕上げとなる応用実習を終えて、事後指導(報告会)のために附属校に集まった。公立校での現場を体験して、心なしか成長した学生たちの顔に逞しさが感じられる。現職の多くの先生方の経験からしても、4年次の教育実習での体験が、その後の教職へ向けて大きく背中を押してくれたという話はよく聞く。可能性ある「体験」を有効な「経験」にすべく、学生たちは班別に自らの実習体験の対話を進めていく。自らの「体験」も貴重であるが、他者の「体験」から学ぶ点も多い。その後、さらに大きな括りの中で「体験」を共有し、さらには全体発表へ。次第に価値ある「経験」たる「ことば」になって来る。「みんなが手を挙げるのではなく、思考が錯綜した(迷う)場面がある授業に意味がある。」などといった、現場の教員研修でも考えるべき視点も提示される。そして、「一人ひとりの子どもたちには、命が人生がある。」ということを「体験」し得たという発言に、学生たちは「経験」を通して既に「教師」になったのだと、僕なりの実習担当としての「経験」となった。

「ことば」にすることの重要性
「体験」から「経験」への道程
「短歌」とは、高次元な「ことば」による再構成でもある。
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県内挨拶廻りのはじまり

2017-05-11
今週の講義・ゼミは休講
県内の公立実習校へ挨拶へ
個々の学校へ個々の学生をお願いに

講義はほとんど休講することはないが、珍しく「休講掲示」をお願いした。今月下旬から始まる4年生の公立実習の協力校へと、挨拶廻りに伺うためである。個々の学生が特に県内出身者ならば自らの母校での実習を通して、4年間の総仕上げをする機会である。また来るべき教員採用試験に向けて、教職への情熱や現場での実践的な意識を高める経験を積む機会でもある。段階を追った教員養成カリキュラムを通して、自立した社会人・教員として学生自らが大学を離れて自己検証する好機でもある。

一概に「宮崎県の教育を・・・」などと小欄においてことばで語るのは簡単であるが、それは個々の学校の一人ひとりの先生方の手に委ねられているのだとあらためて痛感する。そこには地域に適した教育があり、個々の児童・生徒がいる。それぞれに展開する個の対応の一つ一つが、まさに「教育」を支えている。実践の理論化などを研究者は考えるのだが、その内実はあくまで人と人との関係なのであるということを、深く実感させられる。僕自身も長年中高の現場で、教員として個々の生徒たちに向き合ってきた。研究者となった今でもなお、現場主義を貫きたいと思うのは、このような個の「人」に接することの重要性を肌身に沁みて感じるからなのである。

一人ひとりの学生たちが
一人ひとりの子どもたちに向き合う
「教育」とはこうして、希望の未来へ語り継ぐということなのだろう。
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普通のことを一生懸命に積み重ねる

2017-04-29
「自分のキャパ以上のことは教えられない
 ゆえに、日々勉強するのが教師だ。」
 ある現職校長先生の言葉から

卒業論文とともに教員養成系学部の仕上げ段階ともいえる公立校実習を控えた四年生を対象に、現職の校長先生をお招きしての実地指導が行われた。やはり「現場」で長年教壇に立ち、また学校内の教員集団をまとめてきたご経験からの話は、説得力がある。どうも大学教員などになると、理屈っぽくなり「現場感覚」からかけ離れた空論を語ってやしないかと、常に自省を促すべきだと考えている。こうした意味では、小生にとっても学びの多い60分間であった。「現場」は「学校」のみならず、海外の日本人学校・教育行政職・大学の実務家教員等々、「教員」は方向性次第で様々な「職」を経験できることも、一つの希望として学生たちに提示された。それでもなお、「地域の子どもたちを育てる」ことや「多様な子どもたち、保護者に対応」することの重要性が、ひしひしと伝わってくるお話の展開であった。

「子どもたちにとって、実習とはいえ、その時は一生に一度の授業なのだ」という言葉には説得力がある。「先生が喋り過ぎない」授業が理想で、「子どもたちに考えさせる」ことが肝要であるとも。また最近は「叱れない先生が多い」との指摘もあったが、やはり教員は時に「叱ること」も必要で、それこそが子どもたちへの愛情ということだろう。幸いにも特に小学校の教員募集は、今後の5年間ほどでかなり枠が広がる傾向にある。学校内の教員組織の年齢構成にも懸念があるが、これから教員になる者にとっては、就職に関してはかなり有利である。過去よりは減給されたとはいえ、やはり教員の給与は安定している。様々に激務であるのは確かであるが、「一生の仕事」として悔いなきのも事実であろう。それゆえに「弱音を吐ける人であるべき」との校長先生のお言葉もあり、人としてのコミュニケーションの大切さを再認識する機会となった。

「普通のことを一生懸命積み重ねる
 それが一流になる唯一の道である」
これは既に「実習」ではなく、「教員」そのものへの道なのである。

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成長が見える歓び

2017-04-21
大学での4年間
社会へ向けての成長のとき
4年生の落ち着きにその証が見える

「教員」にとって、教え子の成長ほど歓びを感じるものはない。現職教員時代は、中高一貫校に勤務していたので、中学校1年生から高校3年生まで関わると、誠に天と地の差があるほど子どもが大人になる。それは身体的にも大きな変化があるとともに、その顔つきに表現された心の成長も甚だしいからだろう。中高の場合は特に思春期を経過するゆえ、様々な悩み苦しみを共有することもある。それだけに高校3年を卒業する際の感慨は一入となる。ところで、大学の場合はどうだろう?4年間を通して関わる場合もなくはないが、ゼミは3年生からの2年間、授業もせいぜい年間前期後期とセットになっていたり、国語専攻の場合は複数学年に及び専門科目での付き合いという程度なので、通常は中高ほど成長が見える機会も少ないかもしれない。元来、学生たれば自主を尊重することもあり、個々の判断に委ねている点も中高と相違がある。

ところが昨年度から教育実習を担当するようになって以来、個々の学生の成長がより見えるようになってきた。この日も附属小学校で4年生の公立校実習前の説明会が行われたが、そこにやってきた学生たちが妙に大人に見えた。大半の学生たちは、昨年度は前期後期の30回の講義を通して、様々な活動をともにしてきたので馴染みが深い。2月の講義以来久しぶりであることが、そう思わせるのか、否、実際に彼らは何らかの内面的な成長があって、それが表面に顕在化しているのであろう。考えてみれば、この学生たちも1年後は現場の教壇に立っているのだ。スーツ姿も板につき、キリッとした表情に教員採用試験に邁進する彼らの信念を見たような気がした。ちょうど昨年のまだ暑い9月半ば、彼らは附属小学校での3週間に及ぶ辛く苦しい実習を終えた。その最終日に僕が贈った牧水の歌が「眼をあげよもの思うなかれ秋ぞ立ついざみづからを新しくせよ」であった。この日は挨拶でこの歌を覚えているかと反芻し、あれ以来、どれほど「眼をあげ」て、「みづからを新しく」してきたかを問うた。もちろん、彼らの多くがこの意が通じたような表情をしていた。

実習という体験が確実に学生を成長させる
それを信じて彼ら個々に託していく
大学専任教員としての本当の歓びに、また一歩近づけた気がした。

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実習はお熱く参りましょう

2017-04-06
「同僚になりたい」と乞われた実習生
新卒でも担任としてスタートしている
「実習」は練習にあらず「本番」そのものとして

「今日も熱かったですね!」と、昨年度の講義で親しくなった学生が声を掛けてきた。「今日」とは、在校生オリエンテーションの教育実習に関する説明会。朝から2年生・3年生・4年生と、90分を3コマ続きで説明役をこなした。「説明」というのは、往々にして無味乾燥なものである。重要な内容でありながらも、聴いている側の心の奥に届けるにはそれなりの工夫が必要である。多くの「知識」は、手引書なる印刷物を学生自らが読めばよい。その「理論」を「読み上げる」といった手合いの説明とは、一線を画したものを提供したいと常々思っている。「今」自らがどんな地点に立たされているか?そして何ができて何ができないのか?「生きる」上でどんな体験をしておくことで自らが豊かな人生を送れるか?そんな学生時代に必要な根本的な「問い」に訴えかけることを主眼に、「説明」を展開したつもりである。

冒頭に示したのは、説明会で学生たちに紹介した「先輩」たちの「過去」「現在」である。ある学生は附属学校の実習で担当教員から、「同僚になりたい」と言わしめた。卒業後すぐに県内の学校に赴任し既に1年が経過した。現場の教諭がこうした言葉を発するのは、これ以上ない賛辞である。彼は予想どおり採用試験にも合格し、現場で奮闘していると風の便りに聞く。やはり「実習」は、「採用」から「現場」への感覚に通じているということだ。「この人物を教壇に立たせたい」と思わせる「人」に成長するや否やである。また、先月卒業したばかりのゼミ生に新年度赴任を祝うメールをすると、「担任をもたせていただくことになりました。」という返信をもらった。そこで4年生を前に、「来年の今頃は現場で担任をしているんだ」と語り掛けた。それゆえに4年次の実習は、一人の「教員」として行動すべきだということを訴えた。それは既に「実習」ではない、まさしく「現場実践」の貴重な経験を積む場である。

説明を終えて喉の奥が熱い
そして学生の言葉に自らの熱意が伝わった思い
「説明」のあり方そのものに、さらなる問題意識が芽生えた。
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困難から希望への道を

2017-01-19
教師への階梯を登るとき
必ず困難を越えていかねばならない
そこに初めて本当の希望が見える

新年になって早速、次年度の教育実習に関する実地指導の時間が設定された。附属小学校の担当教諭に大学にお出でいただき、実習の心構えを現2年生対象に講義していただいた。教育の諸問題に対応するために、世間では教員養成のあり方が問われている。また実際に就職したとしても、仕事に追われて休職を余儀なくされる人も多いという報道をよく目にする。「なぜ教師になりたいのか?」「なぜ教壇に立ちたいのか?」そして「教師冥利に尽きる」とはどういうことなのか?、学生時代から体験し心得ておく機会が必要であろう。それはどんなに困難に遭遇したとしても、ひとりのこどもの笑顔で救われるという「教師の希望」を知るということではないだろうか。

Web上で「初詣ベビーカー論争」に対する東浩紀氏の記事(AERA)を読んだ。日本人は「迷惑論」と「権利論」を混同して議論しているという指摘に目が止まった。欧米では他人が迷惑と感じようとも自らの権利を主張し実行するが、日本社会ではそこに「迷惑」を考慮すべきと考えるゆえに議論が空転するのだと云う。「ベビーカーの使用は当然の権利」、「権利かもしれないが迷惑」、「迷惑だと云う指摘こそ権利の抑圧」という構図があり、この論争以外でもよく見られると東氏は指摘している。もちろん教育実習をこの論争と混同するつもりは毛頭ないが、それが「権利」の主張になった時、むしろ自らの学びを阻害し自らの耐性を鍛える機会を失うことになりはしないか。一方で「迷惑」であるという観点で指導すれば、学ぶ者の主体性を奪いかねない。この日の実地指導担当の先生から僕自身が学んだことだが、児童生徒も当該校教員も、実習生も大学教員も、皆が協働で学びを創るのが、何より活動的な教育実習という実践なのではないだろうか。

困難を乗り越える力
机上の講義では成し得ないこと
そしてすべての人が教育とは何かを問い続けること。
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批評性を持つために

2016-09-22
新聞記事の文章は「正しい」か?
文字・表現次元の校正から推敲に至るまで
学校の説明文・論説文教材のあり方や批評性のことなど

小学校よりやや遅く始まった附属中学校における学部3年生の実習も、大詰めを迎えた。台風で順延となったが、この日は一斉視察二日目。ゼミ生をはじめ国語講座の学生たちの奮闘ぶりを、参観に赴いた。「短歌」を教材とする授業では、無記名の生徒各々の自作短歌に対して他者が「鑑賞文」を施し、特に「良いところ」を評する文章を書く。「良い」とするあたりがいかにも「学習」上の配慮ということであるが、敷衍して考えれば他者の表現を的確に「読む」ということである。その上で「伝わるか、伝わらないか」(分かるか、分からないか)を吟味する「批評性」が出てくると、さらに学習段階は上がるということになろう。他者の書いた文章をもとにその後、自作短歌を再び推敲する。修正する場合もあれば、そうでない場合もある。最終的に隣の者同士で短歌を音読で伝え合うという活動もあった。6月に宮崎で開催されたトークで俵万智さん曰く「短歌は日記ではなく、手紙である。」とあったが、他者に「伝わるか」を焦点に批評し合う学習活動は、大変有意義であるだろう。自分の表現を他者の視点から評価してもらう機会を設定するのも適切な学習過程である。その上で尚、「批評性」が芽生えればという次元を目指したいとも僕などは考える。

他学年では説明文の授業。「情報を他者にわかりやすい文章で伝える」というテーマが掲げられている。ここで大変難しいのは、「わかりやすい」を具体的に指標化することである。文字次元での「校正」の要素を施すことと、文体・表現次元で「わかりやすい」かどうかと「推敲」することを峻別して認識しておく必要がある。例えば新聞コラムなどは「規範」となる文章であるのか?もちろん文字次元では、概ね「誤りはない」というのが一般的な認識であろう。それでも尚、新聞記事が「絶対」であるはずもなく、ましてや小欄を含めてWeb上の記事などは、何ら校閲も受けず自由奔放に記しているわけであるから、「誤り」もないわけではない。現に自ら書き記した小欄記事を読み返すと、文字表記次元での「誤り」に気づくこともある。新聞を含めて「記事」は必ずある「バイアス(概ね先入観・偏見のこと)」が掛かって記されている。それを逃れた完全中庸たるものなど、この世にはあり得ない。よって中学校で学ぶべきこととして、特に中2から中3では「批評」という点が学習指導要領にも唱われている。こうして考えると「正しい文章」という言い方そのものが、大変危ういということがわかる。入試に典型的な「国語」の「正解主義」は、こんな「批評性」を育む方向性と逆行する。同時に「言語技術」と「理解・表現・吟味・鑑賞・批評」次元の内容を、「国語」という教科は混在させながら、現場で混沌とした状況で学習が進められているということも分かる。ある意味で実習生の授業は、国語教育上の問題点を大きく炙り出すものとなる。(*個別な実習生の批判にならぬよう配慮して記した”つもり”である。ぜひ「ご批評」があれば賜りたい。)

実習とは、実習生・実習校教諭・大学教員がともに学ぶ場であろう。
僕自身も学生たちの指導で何が足りないかを存分に認識できた。
「教育」とは、こうした地道な場を重ね重ねて「手作り」をしていくしかないのである。
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「本気」で伝える声の力ー実習最終日の感激

2016-09-17
教科書を読む声とは大違い
それは伝えたい具体的な相手がいるから
教育実習「お別れの会」での涙に思う・・・

担当している附属小学校での教育実習が最終日を迎えた。朝一番から教職員との「お別れ式」に出席し、「学部引率教員」として挨拶。3週間の学部3年生の奮闘を讃えるとともに、今後への激励と展望を伝え、全教職員の先生方の厳しくも温かい指導に対して謝辞を述べた。先日、小欄でも紹介した牧水の歌「眼をあげよもの思ふなかれ秋ぞ立ついざみづからを新しくせよ」を紹介すると、学生たちの「眼」が「あがった」。式終了後に国語専攻の学生の一人が、「今の私たちにぴったりの歌ですね」と感想を寄せてくれた。最近は、折あるごとのスピーチには必ず短歌一首を紹介している。やはり短歌は集約的に人の心情を表現したものなので、他の言葉よりも共感性が高いように思う。それでも尚、プリントに文字で書かれた歌では、十分に相手に伝わらないこともある。やはり生声で歌のよさを噛み締めながら、「本気」でその歌を伝えたいと思って「声」に出すべきであろう。牧水の歌は元来「声」の要素が強く、朗誦性に富んでいるので尚更効果的である。

1校時目は体育館に全校児童が集まって「実習生とのお別れの会」が催された。代表の児童が司会進行をして、和やかな雰囲気の中で会が始まった。児童と実習生がともに参加する寸劇やクイズなど、思わず笑いが出るような出し物が披露されて、体育館内は熱気で溢れた。その最後に各学年の児童が全員で立ち上がり、学年担当の実習生の名前を一人一人呼びながら、その特徴や思い出を語る「群読」のような場面があった。3週間という期間の中で、実習生が結んだ児童との信頼関係、それが一つ一つの「ことば」となって表現された。聞いていると思わず僕などでも涙を誘うような内容もある。名前を呼ばれた実習生が一人ずつ立ち上がって応えていくのだが、僕は遠目ながら、たぶん多くの者が感涙に耽っていたことだろう。内容はもとより、その児童たちが「本気」で「伝える声」が、誠に訴えかけるものすごい力を持っていることに感心した。やはり「ことば」は、伝えたい具体的な相手に対して生声で「本気」で伝えることで、初めて「生きた」ものとなるのであろう。教科書の「音読」が無味乾燥な理由を、裏面から覗き見た思いがした。

かくして学部3年生の小学校での実習が終わった。
僕は感涙の裏に、ある種の羨ましさを覚えた。
「こんな実習がしたかった」、そして「学校って本当に素晴らしい」を確信したゆえに・・・
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各教科とは人類の叡智を学ぶこと

2016-09-16
疑問・好奇心・問い掛け
愛情・豊かな情操・多様な価値観
小学校各教科・活動の根本を見つめ直して

附属小学校教育実習一斉視察2日目。午前中には引き続き研究授業、午後からは授業研究会の教科ごとの分科会・全体会と、実習生にとって総まとめの時間が続いた。課題を発見し、自己の能力では対処できないことを自覚し、知識を習得し表現出来る術を知り、実践してみて再びそれを振り返り自己の拙さを自覚する。「授業」を創るとは、そのようなまさに課題発見学習の典型的なものであり、学生たちはこれまでの大学での学びと習得している自己を試すかのように、万全を目指して授業を「現場」で展開した。机上の空論にあらず、児童たちにとって一生に一度の「授業」との出逢いとして、その責任も大きい。だが授業を終えた多くの実習生の表情を見るに、実に晴れやかな印象を受けた。

午後の全体会では、各教科や活動から講評が発表された。小学校とは全教科を教えるということもあり、こうした全体共有の時間も大切だ。僕自身も改めてその内容を聞いていて、大変勉強になった。「教材分析」「疑問」「好奇心」「自ら働き掛ける」「問い掛け」「コミュニケーションの喜び」「愛情」「実際に教師が作る(創る)」「環境」「身体」「考える楽しさ」「考えられるべき配慮」等々といった要点で、附属小学校の先生方は工夫を凝らして、実習生の「関心・意欲・態度」に働き掛ける講評を展開してくださった。聞いていて、これぞ小学校教員の底力だと僕は認識を新たにした。そして実習生への言葉へ。この素晴らしい「教師」という職業を、「万全」の先の先を見据えて、みなさんの「生活を変える」ことで求め続けて欲しい。

一生の記念碑となる教育実習
学部教員として其処に関わることで、僕自身の変革
「学校」って本当に素晴らしいですね!
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「万全」であるということ

2016-09-15
時間を多くかけること?
どこまでやっておいたらよいのか?
「万全」について考える・・・

学部3年生の附属学校での3週間に及ぶ教育実習も、大詰めを迎えている。昨日は「一斉指導」ということで、学部指導教員が当該学生の授業を視察する日であった。実習全体の担当者ということもあり、朝一番で附属小学校への出向き、午前中はゼミの学生の授業、または国語講座の学生の授業を視察して廻った。授業の細部な内容の紹介を記すのは、ここでは控えるが、総合的に視察していて、「万全」とはどうしたらよいのか?ということを考えさせられた。学生たちは、いずれも十分な準備を進めて授業に臨んでいる筈だ。もちろん、「万全を期して」という成句で表現できる状態になっているとは思う。だがしかし、「授業」というのはやはり「ライブ性」を伴うものであると僕は思っている。学び手との対話関係がそれまでの期間で、どの程度に醸成されているかという点は、とても大きな影響を及ぼすものだ。

学習指導案が「机上」でどの程度に練られているか?その緻密さや起こる得る事態への予測を施しておくことも、誠に大切である。そして授業中に使用する「教具」の準備をする。特に小学校の場合は、黒板に貼りつけるカードや模造紙に記した本文など、「教具」の工夫がとても重要である。また、これまでの実習期間で学級の児童たちと、どれほどの親和関係を結んでいるかということも肝要である。「机上」の指導案が「授業」なのではなく、学習者とともに学びを創ってこそ「万全」な備えということになろう。そのためには、「付け焼刃」ではなく日常からの教材研究を起点としつつ、対話を醸成できる「人間性」を養っておくことが大切だと改めて感じるのである。あくまで指導者である「教師」視点の「準備」のみに加えて、日常生活そのものが「ライブ」たる授業には表出するのである。

「万全」に「万全」はない
常に人と人とが学び合い・響き合う〈教室〉を求めて
総合的な「人間性」を追い求め続ける姿勢こそ尊いということだろう。
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