詩歌学習の授業ー体験し実感を表現するために
2021-09-16
詩・短歌・俳句中学校3年間で段階的に
教科書教材→創作→推敲→交流→発表
学部3年生の基礎実習が3週間目となり、一斉視察日が続いている。この日は附属中学校で教科代表授業、放課後に教科別授業研究会が開催された。中学校での実習はいずれの学年も詩歌単元で、1年生「詩」2年生「短歌」3年生「俳句」という教科書構成である。このうち代表授業では2年生の「短歌」教材の担当者のもので、授業研究会で反省や質疑が展開した。授業内容としては、既に創作された短歌を無記名で班別に配布し、5首について与えられた観点別に対話し「推しの一首」を選び全体へ発表、最後に作者を開示してその歌の創作の真意について公表するというもの。所謂「歌会」そのものの形式を観点を与えて批評しやすくしたり、投票を対話形式にして歌の表現のみを対象に批評し、最後に作者を開示していくという「歌会」方法の授業化ということだ。肝心なのは「推しの一首」が選ばれた「結果」ではなく、選ばれる「過程」にある。短歌に対して意義ある観点、例えば「リズム」「表記」「形式」など「韻律」を左右する面、「情景」「人物」などの「イメージ」を描く面、「(表現したい)心」「抒情」における「意味」などを視点にした対話ができるかどうかが焦点であろう。授業における学習者評価も、対話の談話内容を素材として掬えるようにしていくべきである。
今回の実習で中学校全ての実習生の授業を参観したが、いずれの教材でも冒頭に記した「教科書教材→創作→推敲→交流→発表」という流れは共通していた。それでは一括りに「詩歌」と言っても、なぜ中学校教科書は段階的に「詩→短歌→俳句」の順番で編集されているのであろう。発達段階に応じた学習内容の精査、さらに肝心なのは詩歌教材それぞれの特徴・差異をいかに活かした授業づくりをするかという点である。奇しくも実習生の授業時間構成の内容が共通になったということは「詩歌学習」の方向性が概ね示されているといってよい。その上で授業をつくる指導者は、文学教材として「詩・短歌・俳句」の文学史的背景の違いとか、形式上の特長とか、学習者の表現交流などに留意する「観点」をより繊細に精査する必要があるのではないだろうか。端的に言えば「自由」か「三十一文字」か「十七文字」かの違いだけ、と学習者が感じてしまわないような学習の深さが求められるのではないだろうか。研究会を対象にした授業で出された短歌は、いずれもやや観念的で具体的な実感に乏しかった。「描写」は「説明」にもまさり読む者の腑に落ちる、という歌論などを知るだけで大きく授業づくりは豊かになるはずだ。
授業者みずからが創作した歌に対しての批評意見
創作が他者にどう読まれ、自らの実感とどのような「違い」があるかを把握する
「ことば」という命の表現をどれほど信じられるか、という構えの問題でもある。
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学校にもの読める声の
2021-06-03
公立学校応用実習子どもらの素朴な心に救われて
地域の教育を創るということ
昨年度は新型コロナ感染拡大で春先からの全国一斉休校ということもあり、この時期に行われる学部4年生の教育実習が中止になった。文科省も特例として、大学講義単位で「実習」の単位を置き換えることができる措置を取った。この時期の4年生の実習は公立学校での応用と位置付けられ、教員養成4年間の学びの集大成である。採用試験前に志望意識を高め、二次試験に向けて現場での授業実践そのものが大きな対策となる。その「仕上げ」ができなかった昨年度卒業生にとっては心残りが多かったことだろう。現在も昨年の今頃に比べて、決して感染状況がよくなったわけではない。むしろ変異や若年層の感染は現在の方がリスクは高い。もちろん十分な感染対策をした上で、ゼミ生の応用実習の当該校を訪問した。
まずは校長室で会話をしていると、意外な出逢いに気づいた。2年前の9月「牧水祭」で僕が対談をした際に、どうやら当校の校長先生が列席していたという。これこそが「日向市」の学校の大きな意義でもあろう。しばらくすると実習生の担当クラスの児童2名が、校長室まで迎えに来てくれた。「牧水の歌を知っている?」などと会話しながら、教室まで楽しく3人で歩んだ。当校はゼミ生の母校、日向市の学校では朝の時間に「牧水短歌」の朗詠(現在は飛沫対策で音声を聞くだけらしい)を実践している。ゼミ生もその頃からの馴染みもあって、現在は卒論テーマに「牧水短歌」を選んでいる。こうした教育の縦の繋がりというものは、誠に大切なことだろう。授業が始まるとマスクをしつつも、子どもらの「もの読める声」が聞けた。あくまで素朴に、ことばを楽しむように声を出す。塾による学力観のみが偏向する都会にない豊かな心が育っている。ゼミ生の素直でひたむきな姿勢は、こうして創られて来たのだと納得した。あらためて「学校には何が必要か?」を研究授業によって深く考えさせられた。
授業後も他の児童2名が校長室まで
大学から高速道路を使い片道1時間
牧水の心が漂ふ日向市が好きだ。
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「人の変」和するとは何か
2019-06-07
「天の変地の変よりも人の変思ふこと多し吾も人なれど」(伊藤一彦『微笑の空』より)
宮崎大学短歌会例会題詠「和」
今週はゼミ4年生の教育実習における研究授業が、毎日のように実施されている。ほぼ午前中は公立学校へと赴き、午後は大学へ帰って講義という日々が続く。4年生の実習は「応用」と位置付けられ、附属学校実習で学んだことを多様な現場で発揮する力が求めらる。昨今は特に小学校教員採用数が増え、「即戦力」として現場教員として就職できるような人材が要請されている。また教員採用試験二次試験対策としての現場経験を積む機会として貴重である。そんな実習でのゼミ生の対応で一番注意して観察するのは、児童生徒らへの「対話力」である。「教室」にいる子どもたちを「集団」ではなく、「個々」の存在として対応できているかどうか。そんな際に思うのが、「和の心」である。「和」とは決して迎合すればいいわけではないことを、あらためて考えさせられる。
午後には学部・大学院と2コマの講義を終えて、夕刻よりは宮崎大学短歌会例会。どの曜日が一番人が集まるかを試験的に実施して、ほぼ曜日が措定できるようになってきた。今回の題詠は前回の「令」に引き続き「和」である。出詠歌には、「中和」「飽和」などの漢語が多く並んだ印象があった。理系学部の学生も多く、実験などで日常的に使用する用語であるらしい。僕自身は、高校の化学で学んだはずであるが、なかなか「理系用語」が比喩になっている歌を読み解くのが容易ではない。むしろ比喩された人的な描写の内容から、専門用語の内容を遡って読むことができるという発見があった。理系用語であっても比喩された描写内容は、もちろん「人」に関するものがほとんどであった。冒頭の伊藤一彦先生の歌は、やはり天地自然の「変」よりも「人の変思ふこと多し」と詠う。結句には「吾も人なれど」とあり、人が人と「和」することを求めて生きていることを考えさせられる。「人の変」に驚くのは、「和」こそ人の求めるべき心と思うからではないだろうか。
「親和」「唱和」「調和」
「人の変」に気づき「和」することができる心
「令」と「和」とそれぞれも文字の奥行きを歌で抉り出す。
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教育実習どうでしょう?
2017-11-23
教員養成の中心的学び教育実習どうでしょう?
九州地区の情報交換会にて
九州地区の教育実習に関する情報交換会に出席するため、鹿児島まで赴いた。隣県の中でも一番行きやすい感覚がある鹿児島までの道のり、この日は生憎の雨に見舞われた。筆者はいま「一番行きやすい」とは書いたが、鹿児島まで行っていつも痛感させられるのは新幹線が通っていること。北上し熊本・福岡・佐賀あたりからは時間的にも大変近いことが、参加者である先生方の口調から伝わってくる。情報交換会の終了時刻20:00を鑑みても、この三県いや山陽や関西圏あたりまでなら日帰り圏内である。「行きやすい」ながらも当初から一泊を決め込んでの参加となった。なぜこうした交通事情のことを記したかといえば、そこに各県の大学の特徴も出ていると感じられるからだ。本県みやざきであれば、この背骨たる交通幹線の埒外にあることを、どれだけ有効に活かせるかが重要ではないかと常々思うのである。
さて、情報交換の内容を小欄に記すのは控えるが、自明のことながら「教育実習」こそが「教員養成」の中心的な学びであることは動かし難い事実である。いつの時代も「教育改革」の重要性が説かれながら、政治のでも数々の提言・施策がなされながら、「教育実習」そのものが伸び伸びとした有効な学びの場になっているかといえば、全肯定はできない事情が数多く見られる。それを教員養成学部の現場にいる大学教員や附属学校教員があれこれと努力を重ねて、自分たちの「後輩」を育てるために尽力しているのが現状である。特に「附属」の先生方というのは、向き合う生徒・児童とその保護者のみならず、附属たる大学の実習生の対応もあるのだ。想像するにそれは「忙しさ」の上に「忙しさ」を重ねたような仕事環境にあると言えよう。昨今の現職教員の労働時間の問題視などを考えても、根本的に本気でこの国の教育をよくしたいなら、「改革」の基本理念こそを変革すべきだと痛感するのである。さてそこで、みやざきでできることは何であろうか?穏やかに時間が流れる、みやざきでできることとは・・・
鹿児島中央駅をあとにして
静かなカフェへ
桜島もこの2日は穏やかでありがとう。
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学校には人生があるー「先生」として生きること
2017-09-15
学生時代の教育実習初めて「先生」と呼ばれ続ける日々
教育実習一斉指導事後研究会の挨拶から
「先生方」お疲れさまでした!もうこの「先生」と呼ばれることにも十分に慣れたことでしょう。この教育実習の初日に私は「みなさんの身体の中で唯一〈声〉だけが、子どもたちの身体に入り込みこころまで届くものです。」という話をしました。ということは子どもたちの〈声〉もみなさんの身体と心にたくさん届いたことでしょう。昨日の朝、一斉指導に来てみなさんの顔つきが非常に引き締まっていることに驚きました。それは子どもたちの〈声〉が〈ことば〉が、みなさんを「先生」にしたとも言えます。今此処にいる全員が「先生」、ゆえに全員が対等で希望の未来を考え合う仲間です。それが「教師」の魅力ということでしょう。
「学校」には、「人生」があり個々の「物語」があります。私自身も自らが通学している頃から「教師」になってからも「学校」に行くのが大好きでした。その理由は、この「人生=物語」があるからです。みなさんにも新しい「物語」がこの3週間でできました。「人生」とは葛藤と後悔の連続でもあります。昨日と今日の一斉指導授業を創るまでには悩み苦しみ、そして悔しさを滲ませて授業後に涙を見せる方を何人も教室で見ました。そんな際にも一度は「自分は駄目なんだ」と思える勇気も必要です。同時にその「駄目」をことばで分析してこそ、初めて明日へと伸びる力になるはずです。「教育」とは、先人が命がけで積み上げて来た「文化」を「ことば」で伝承し次の世代へと手渡すことです。向き合う人々の幸せを願って取り組む、かけがえのない人間的な営みです。
最後に牧水の歌を
「眼を上げよもの思ふなかれ秋ぞ立ついざみづからを新しくせよ」
この貴重な体験を持って「新しい自分」として大学へと帰って来てください。
この3週間、熱心に指導いただいた附属小学校の先生方に、
大学一同になり代って心より御礼申し上げます、ありがとうございました。
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対話性の原点ー相手の話を最後までよく聞くこと
2017-09-14
「授業」での受け答え子どもたちが一生懸命に答える姿
「相手の目を見てしっかり聞きます」
附属小学校での学部3年生基本実習も3週間の大詰めで、大学教員が研究授業を参観する「一斉指導」の2日間が始まった。実習前から1ヶ月以上に渡り練り上げて来た学習指導案を、実際に「授業」として実践する。想定していた通りにある程度はできる場合もあれば、机上での予想に反した反応などが出て来て、「計画」が大きく変化してしまう場合もある。学部生たちには日頃の講義でもよく語っているのだが、決して「上手い授業」をしようとするより、一人ひとりの子どもたちとの対話性を重視した「授業づくり」を心掛けるように言っている。
学級全体で「音読」をしようと、個別の子どもが発表するにしても肝心なのは「相手の話を最後までしっかり聞くこと」だ。社会においても「常識」ではあろうが、なかなかこれが簡単ではない。一人ひとりに向けてではなく、「教室」という広い空間に「言葉」を投げ出していたり、発表している児童の言葉を目を見て受け止めていなかったり。「授業」は「全体」で進行するように見えるが、もちろん個々の子どもが学んでいるのである。授業の早い段階で必ず一度は目を合わせて、お互いの存在を響かせ合う一瞬が必要であるように思う。この「教育」の原点こそが、「国民のため」の基本なのであるが。
「人の話を聞くときは、
相手の目を見てしっかり聞きます」
幼稚園時代の園長の標語こそが、小生の「教育」の原点でもある。
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ここに生きゐて汝が声を聴く
2017-08-29
「夜半の海汝はよく知るや魂一つここに生きゐて汝が声を聴く」(若山牧水『海の声』より)
声は心に届きその心の声を聴くということ
附属小学校において学部3年生の教育実習が始まった。8月末とはいえ未だ暑い実習生講義室なる大教室に、教職大学院生を含めて100名近くが早朝から集合している。まずは全員が揃って実習が始められること、それが学部担当としての切なる願いである。学校、特に小学校教師の朝は早い。そんな生活習慣を生業にと志し、他に代え難い子どもたちとの「教育」という心の交流ある極めて人間臭い生活に向けて、まずは学生たちが「実習」という経験で学ぶ。教員養成学部にとって、これ以上の体験的学びはないといえるだろう。特にこの2年間、担当となって実習の大切さと困難さを、個々の学生の姿の中に顕に見るようになった。
紹介式(実習開始にあたり附属小教員と実習生が挨拶を交わす式)では、校長先生や実習生代表に続けて恒例の「学部引率教員挨拶」がある。昨年から少しでも個性的にと、必ず牧水の歌一首を紹介して学生たちにその心得や激励を送ることにしている。今回は冒頭の一首を披露した。先週の伊藤一彦先生の御講演で、「人の身体の中で唯一相手の身体の中に入り込むことができるものがある。それは声である。」というお話を聴いていたく共感した。「身体」を「子どもたちの心」に置き換えて、この場で学生たちに問い掛けた。実習中に「放つ声」というのは、よくもわるくも「子どもたちの心に入り込む」のである。自らの「放つ声」に自覚的であり、なおかつ子どもたち個々のどんな小さな「伝える声」も真摯に聴く姿勢が必要だ。まさに声は「魂一つ」から発せられ「魂一つ」に届き、またその反響が自らの「魂一つ」に帰るのである。
牧水は「海の声」をよく聴いた
それが自然との対話・親和の原点であろう
実習生たちよ!「魂」の声を聴け!
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体験を経験にするために
2017-06-17
自分の内にもつ体験他者と対話してことばにしてみる
それで初めて身についた経験となる
誰もが生活の中では様々な「体験」をするが、後になっても実のあるものとなって活かされるためには、それなりの過程が必要となる。「体験」は紛れもなく自らが五感で捉えた「事実」であるはずだが、同じ状況でも人によって捉え方が違うゆえに客観的な整理が求められるということだろう。「記憶」という曖昧な領域に保存されている「体験」を、「ことば」にして他者に伝えてみる。自らの中で「体験」の再構成が行われ、それに対して他者の受け止め方における質問や意見という反応を得る。何事も「ことば」で他者に説明できないことは、自らの内でも腑に落ちたものではない。こうした整理と再構成へ向けた言語化とともに、他者から返ってくる「ことば」を通すことで初めて、「体験」は「経験」になるといってよい。
学部4年生が総仕上げとなる応用実習を終えて、事後指導(報告会)のために附属校に集まった。公立校での現場を体験して、心なしか成長した学生たちの顔に逞しさが感じられる。現職の多くの先生方の経験からしても、4年次の教育実習での体験が、その後の教職へ向けて大きく背中を押してくれたという話はよく聞く。可能性ある「体験」を有効な「経験」にすべく、学生たちは班別に自らの実習体験の対話を進めていく。自らの「体験」も貴重であるが、他者の「体験」から学ぶ点も多い。その後、さらに大きな括りの中で「体験」を共有し、さらには全体発表へ。次第に価値ある「経験」たる「ことば」になって来る。「みんなが手を挙げるのではなく、思考が錯綜した(迷う)場面がある授業に意味がある。」などといった、現場の教員研修でも考えるべき視点も提示される。そして、「一人ひとりの子どもたちには、命が人生がある。」ということを「体験」し得たという発言に、学生たちは「経験」を通して既に「教師」になったのだと、僕なりの実習担当としての「経験」となった。
「ことば」にすることの重要性
「体験」から「経験」への道程
「短歌」とは、高次元な「ことば」による再構成でもある。
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県内挨拶廻りのはじまり
2017-05-11
今週の講義・ゼミは休講県内の公立実習校へ挨拶へ
個々の学校へ個々の学生をお願いに
講義はほとんど休講することはないが、珍しく「休講掲示」をお願いした。今月下旬から始まる4年生の公立実習の協力校へと、挨拶廻りに伺うためである。個々の学生が特に県内出身者ならば自らの母校での実習を通して、4年間の総仕上げをする機会である。また来るべき教員採用試験に向けて、教職への情熱や現場での実践的な意識を高める経験を積む機会でもある。段階を追った教員養成カリキュラムを通して、自立した社会人・教員として学生自らが大学を離れて自己検証する好機でもある。
一概に「宮崎県の教育を・・・」などと小欄においてことばで語るのは簡単であるが、それは個々の学校の一人ひとりの先生方の手に委ねられているのだとあらためて痛感する。そこには地域に適した教育があり、個々の児童・生徒がいる。それぞれに展開する個の対応の一つ一つが、まさに「教育」を支えている。実践の理論化などを研究者は考えるのだが、その内実はあくまで人と人との関係なのであるということを、深く実感させられる。僕自身も長年中高の現場で、教員として個々の生徒たちに向き合ってきた。研究者となった今でもなお、現場主義を貫きたいと思うのは、このような個の「人」に接することの重要性を肌身に沁みて感じるからなのである。
一人ひとりの学生たちが
一人ひとりの子どもたちに向き合う
「教育」とはこうして、希望の未来へ語り継ぐということなのだろう。
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普通のことを一生懸命に積み重ねる
2017-04-29
「自分のキャパ以上のことは教えられないゆえに、日々勉強するのが教師だ。」
ある現職校長先生の言葉から
卒業論文とともに教員養成系学部の仕上げ段階ともいえる公立校実習を控えた四年生を対象に、現職の校長先生をお招きしての実地指導が行われた。やはり「現場」で長年教壇に立ち、また学校内の教員集団をまとめてきたご経験からの話は、説得力がある。どうも大学教員などになると、理屈っぽくなり「現場感覚」からかけ離れた空論を語ってやしないかと、常に自省を促すべきだと考えている。こうした意味では、小生にとっても学びの多い60分間であった。「現場」は「学校」のみならず、海外の日本人学校・教育行政職・大学の実務家教員等々、「教員」は方向性次第で様々な「職」を経験できることも、一つの希望として学生たちに提示された。それでもなお、「地域の子どもたちを育てる」ことや「多様な子どもたち、保護者に対応」することの重要性が、ひしひしと伝わってくるお話の展開であった。
「子どもたちにとって、実習とはいえ、その時は一生に一度の授業なのだ」という言葉には説得力がある。「先生が喋り過ぎない」授業が理想で、「子どもたちに考えさせる」ことが肝要であるとも。また最近は「叱れない先生が多い」との指摘もあったが、やはり教員は時に「叱ること」も必要で、それこそが子どもたちへの愛情ということだろう。幸いにも特に小学校の教員募集は、今後の5年間ほどでかなり枠が広がる傾向にある。学校内の教員組織の年齢構成にも懸念があるが、これから教員になる者にとっては、就職に関してはかなり有利である。過去よりは減給されたとはいえ、やはり教員の給与は安定している。様々に激務であるのは確かであるが、「一生の仕事」として悔いなきのも事実であろう。それゆえに「弱音を吐ける人であるべき」との校長先生のお言葉もあり、人としてのコミュニケーションの大切さを再認識する機会となった。
「普通のことを一生懸命積み重ねる
それが一流になる唯一の道である」
これは既に「実習」ではなく、「教員」そのものへの道なのである。
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