「呼吸する土」ー今日大地を踏みしめたか?
2023-09-07
「世の道のすべてが舗装されゆかむ わが家の前の呼吸する土」(伊藤一彦『新月の蜜』より)
窒息しそうな大地を思う
歌人・伊藤一彦さんの歌を読むといつも発見があり、自然の中でこそ生きられる人間の姿を考えさせられる。「自然」とは必然的に宮崎のそれに繋がり、僕の日々の生活を振り返る視点を提供してくれる。冒頭に掲げた一首は、第九歌集『新月の蜜』(2004年)に収められた一首。当該歌集は2005年に「寺山修司短歌賞」を受賞している。2007年には『呼吸する土 伊藤一彦歌集』が短歌新聞社から「新現代歌人叢書・60」として出版され、9冊の歌集からの自選歌集として掲出歌を書名としているのも特筆すべきだろう。学生時代を東京に過ごし、その後は帰郷して歌作を続けて来られた伊藤さんの「宮崎」を観る目を象徴するような一首である。
今日、あなたはどれほど「呼吸する土」を踏みしめるだろう?「宮崎」を語るとき「豊かな自然」と簡単に言うが、果たして何がどう豊かなのか?昨今は一夏を通じ、秋になるはずの今も豪雨のニュースが絶えないが、道路冠水の映像を見るたびに「人間が道路を舗装したから」だと考えたくなる。「呼吸しない道」は、雨を吸い込む力はない。宮崎とて僕の生活圏内では、未舗装道路は簡単には見出せない。決してないことはないのだろうが、敢えて未舗装に踏み込まずに生活できる。朝のウォーキングでは整備された公園ながら、意図的に草地を歩むことがある。舗装路と違って僕の足首・膝・股関節を優しく柔らかに受け止めてくれる。猛暑に豪雨、もしかしたら「呼吸しない道」を無尽に増やしてしまった人間の仕業かもしれない。
東京はさらに神宮の杜の再開発で
大地の息継ぎ場所を奪おうとしている
僕たちはいつから靴に泥が着くことを嫌うようになってしまったのか。
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「うた」は心に引っ掛かるもの
2023-09-02
宮大短歌会が選ぶ「若き牧水」の短歌第1歌集『海の聲』から第4歌集『路上』まで
まずは選歌のベースとなる32首を選んでみて
1週間後となった特別公開講座「若き牧水から現代へのメッセージ」、今回は牧水がまだ大学在学中の22歳頃から27歳ごろまでの若き日の短歌を読んでみようという企画である。ゲスト若手歌人に牧水短歌甲子園優勝経験のある狩峰朗希さんをお迎えし、当時の牧水と同年齢の歌人が牧水をどう読むか?ということが聞けるという興味深い趣向にしている。また宮崎大学短歌会の学生たちは、どんな牧水の歌を好むのか?ということも知りたくアンケートを実施し当日にその結果とともに参加できる学生からコメントをもらう予定である。
あらためて「うた」に大切なのは、「心に引っ掛かる」ことだと再認識する。牧水もその歌論の中で語るのだが、「そうですか歌」ではいけない。一読して「そうですか」としか思えない「言葉の羅列」では、他者の心に停留はせず泡のごとく消えてしまう。馬場あき子さんのドキュメンタリー映画でハガキを瞬時に選歌していく場面は衝撃的であったが、特に忙しい時は「下の句」だけで判断するのは歌の生命としての「訴え」があるということだろう。果たして牧水の歌の「下の句」はどうなのだろう?などと考えながら、学生たちに選んでもらうベースとなる32首を選んでみた。下の句の「パワーフレーズ」について学ぶ機会もあり、あらためて自らの「うた」への姿勢が問われる気がしている。
共感・驚愕・意外などなど
講義でもそうだ!説明では学生の心を掴めない
「やまとうたは人の心を種として」あらためて肝に命じている。
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「生活・文化を志向する」ー短詩系学習の充実
2023-08-12
国語教育全国大会(日本国語教育学会主催)豊かな言語生活を拓く国語教育の創造
ー「言葉の学び」への自覚が育つ単元学習の開発ー
2日間開催される国語教育全国大会、昨日記したように台風による9日の全便欠航(宮崎空港)で2日目からの参加となった。午前中「校種別分科会(小学校6)」の指定討論者を引き受けていたので、台風に巻き込まれながらも前泊できたのは幸いだった。分科会では短歌・俳句の実践研究発表が一本ずつ、十分な時間の中で発表・討議された。短歌学習では、宮崎県日向市立坪谷小学校の「牧水顕彰活動」を軸に据えた活動を、フィールドワーク調査から修士論文としてまとめた内容であった。さらには現在の勤務先である中学校での実践を加えたもので、いかに日常的に「短歌に親しむ」かが様々な工夫として紹介された。あらためて一般的な小中学校の学習においては「短歌の意味」ばかりに偏り「短歌の音楽」を疎かにしていることが浮き彫りになった。指導者自身が短歌そのものにどう向き合うか?感性と指導との関係は?また新聞コラムのような小さな活動を続けることの大切さなどが、討議を通しての学びであった。
後半の俳句指導の実践発表は、年間を通して季節観に併せて学校行事をテーマとしながら「俳句を小まめに継続して作る」実践であった。「2年間の実践による児童の変容」の中で「使いたい言葉をかっこよく表現できる」という感想も聞かれ、まさに「言葉のインスタ映え」なのだと指導助言で話した。TV番組や若者の短歌ブームなど社会は短詩系を求めている。この流れを「国語学習」に活かさない手はない。もとより「学習」というよりは、日常において「かっこよく言葉を使うという感覚」をもたらすことが大切なのではないか。また学部に入学してくる学生に「短歌づくり」の課題を出すと全体の5%ぐらいの人数が「俳句」を提出してくるエピソードも紹介した。小中学校教員そのものが、いかに短詩系2種類を差別化しているか?という疑問は一般の方々の社会的理解を見渡してもあやしい。「短歌は一首、俳句は一句」という数詞が違うことを含めて、「(歴史的・表現特性において)なぜ短歌と俳句は違うのか?」を教員研修次元で充実させてゆくことが大切だと考えた。短詩系を指導者が「添削」してしまう罪、「歌人はおしゃべり、俳人は寡黙、教師は文句言い」という名言も紹介された。日本の言語文化を社会と一体となり短詩系で創り上げていくような矜持と意欲が必要だろう。
児童の「五・七・五」に心(表現)の「七・七」を教師が付けるなども
「説明のわかりやすい言葉」と「心を揺らす言葉」を多層的に育てる必要がある
お二人の実践発表に日本の教育の未来が見えた。
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「寺山修司の作歌法(1)ーコラージュと本歌取りの技法」
2023-08-05
寺山修司没後40年特別企画「笹公人と学ぶ寺山修司の作歌法」
寺山の物真似による短歌朗読も・・・
寺山修司は昭和10年生まれだから、長嶋茂雄さんと同年齢だった。現在87歳だから生きていてもおかしくないが、47歳というあまりの早逝が惜しまれる。今年は没後40年であり、短歌に限らず映画などを含めて再び寺山作品へ注目が集まっている。僕自身も寺山の短歌を読み直し、また講義などではその名言を学生に紹介したりしている。「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」では、特に歌謡曲の歌詞を比較する根拠を寺山の言葉に求めている。そんな折、牧水短歌甲子園を通じて懇意にする笹公人さんが、標記のようなオンライン講座を3回シリーズで開講するというので参加することにした。講座の「概要」には「寺山修司にもっとも資質が近いといわれる歌人」とあって、エンタメと短歌との関連を考える上でも笹さんご自身の作歌にもこれまで注目してきた。また第1回目のタイトル「コラージュと本歌取り」に関しては、今後の中高国語学習への応用を開発してゆきたい内容である。
あらためて、講座冒頭に示された寺山の「スタートは俳句」という言語表現のあり方を考えさせられた。まさに「国語教員」にこの「違い」を深く理解してもらうためには、格好の教材だと思った。笹さんご自身も俳句に学んだ時代があって、その分析はユニークかつ的確だ。寺山の短歌の背景には「俳句の模倣作品」も散見され、あらためて創作とは何か?という命題を突きつけられる。また「三句切れ二部構成」を基本とする寺山の文体は、古典和歌に見られる典型的な「歌の文体」という指摘。寺山の短歌に愛誦性があるのはやはり基本に忠実であったからだ、ということを再考させられる。また「直喩が極端に少ない」という指摘と「言い切りの文体」、そこにシュールで格好よい寺山の秘密があるようにも思った。笹さんは寺山の短歌を朗詠する際に、記念館で販売されているお面をつけて、物真似口調で歌を読み上げた。あらためて短歌の言葉と作者の方言・イントネーションの問題などに興味が湧いた。個人的には「北国の歌謡曲(演歌)」などの映像的1シーンなどとの関連も考えたくなった。
宿題の歌を早速3首作る
牧水短歌甲子園の際にまた笹さんと語ろう
短歌そのものを深く考える金曜の宵のうちであった。
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七月六日は肯定記念日ー36年目の誓い
2023-07-07
36年目の『サラダ記念日』今も生き生きとした歌集として輝くのはなぜか?
「全肯定」の歌メッセージとして僕らを支えてくれるから
たとえば先ほど、小欄を書くためのデスクに持ち込む生乳入りカフェオレを作ろうとしていた時のこと、牛乳を電子レンジにかけたら量と温度設定のバランスが悪く沸騰してカップから溢れてしまった。しかし「朝のルーティン」の時間割り振りを崩すアクシデントと考えるのではなく、久しぶりに電子レンジ内の台座プレートが「洗えてよかった」と考えた。物事に全て意味があるとしたら、このように「全肯定」の姿勢で前向きに捉えるとよい。この姿勢こそ、この日に36年目を迎えた(代表歌の「七月六日はサラダ記念日」にちなんで、出版された年からこの「記念日」の年数をカウントした数字)俵万智さんの第一歌集『サラダ記念日』から学べることである。口語を三十一文字に上手く調和させたというような評価が指摘されるが、何より280万部驚異のベストセラー歌集の秘密は「全肯定」にあるとかねがねから思っていた。その明るく前向きな生き方は、宮崎在住の6年半で俵さんご自身からも多くを学ばせていただいた。
「今我を待たせてしまっている君の胸の痛みを思って待とう」(『サラダ記念日』)「待つこと」をテーマにした拙著にも引用したこの歌。「彼氏に待たされた」と相手を否定する思いが増幅すればやがて「怒り」になってしまうが、「君の胸の痛み」を思いやることができて心の距離が縮まったと当該歌は「全肯定」な姿勢を具体的に僕らに示してくれる。ちょうど6年前の2017年7月6日、俵さんが宮崎に移住されて1年後の「サラダ記念日」が出版から30年目の節目であった。この折は「宮崎野菜でサラダ記念日」と題したディナーパーティーが県立劇場併設のレストランで開催された。僕が学部卒業直後に出版され、「学部の先輩だ!」と思って折々に影響を受けてきた歌集の「記念日」に宮崎で立ち会えたことは、誠に光栄な一夜であった。ゆえに、俵さんが昨年に宮崎から仙台へ引っ越されたことも含め、36年目の今年はさらなる「全肯定」を誓った。俵さんも仙台の御両親とともに、大切な時間を過ごされていると思うことを忘れてはなるまい。僕が宮崎に両親を呼んだことを、俵さんに「羨ましい」と言っていただいていたのであるから。
人生で向き合うことを全て肯定的に!
初めての店の味を知ることも大切な機会
ゼミ生たちにも「本気で自分がやりたいこと」を卒論で全肯定で取り組んでほしい。
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子供心ー中原中也の初期短歌から
2023-06-02
「菓子くれと母のたもとにせがみつくその子供心にもなりてみたけれ」詩が有名な中原中也だが
初期は短歌からスタートしている
今週は毎日、ゼミ4年生の教育実習視察が午前中。トンボ帰りで会議や講義に臨み、合間の時間にメールなどの実務と隙間のない日々を送っている。それでもゼミ生たちが教壇で生き生きと授業をする姿を観て、さらには自分が求めたいテーマを含み込んだ指導に挑戦していることは僕自身をたいそう励ましてくれる。もちろん実習校の校長をはじめ先生方が、温かく受け入れていただいていると実感できることも忙しさを癒してくれる大きな要素である。抱く思いとして、宮崎県の将来を支える教員を現場の学校と大学とが手を携えて育てていることが感じられるよう、僕ら大学教員も向き合うことが肝要だと思う。という状況の中、この日も慌ただしい時間が過ぎ去り、最終コマ17:00から設定されているゼミのために附属図書館へ向かった。
前述のように4年生が実習中のため、3年生のみで自らが面白いと感じるテーマを掘り起こす対話の時間としている。この日は特に具体的な作品を取り上げて、自分が何を探究したいかを述べることとした。提示された作品は、和歌と『源氏』の女君のイメージの比較、中原中也の初期短歌、さらに中原中也の「月夜の浜辺」などをゼミ生が提供してくれた。いずれも僕自身が文学として興味深いもので、あらためて教員養成系学部でありつつ「内容学(文学)研究」こそが重要であることを思い出させてくれた。明治40年4月29日生まれ、昭和12年10月22日没、30歳の若さでこの世を去った中也の言葉には、現代の我々にも深く響くものがある。宮崎出身の詩人・高森文夫とも交流があり宮崎を訪れている。その詩は広く知られているが、中也の文芸表現の出発が12歳頃から「短歌」であることはあまり語られる機会が少ない。当時の人気歌人であった牧水・啄木の影響もあり、「さびし」「かなし」の語も多く見出すことができる。冒頭に記した「子供心」とする一首、母への思い、弟たちの夭逝、様々な思いをゼミ生たちと掘り起こすことができた。
「命なき石の悲しさよければころがりまた止まるのみ」
文学こそ深く人を愛し他者の気持ちを考える、教育としての要素が
いつもゼミ生たちの「生きる」に支えられている。
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苦悩は短歌にし包み隠さず
2023-05-29
牧水が歌人として成長に至るための深い苦悩恋愛・故郷の両親・稼ぎ・雑誌編集のことなど
個別の苦悩が多くの人たちの共感を呼ぶことに
若山牧水の物事への心酔の徹底ぶりというのは、見事なばかりである。牧水を研究し知れば知るほど、そのような思いを強くしている。なぜ複雑な事情のある恋人を5年間も追い続けたのか?明らかに恋に身が救われることより、苦悩極まりない時期の方が長い。恋人が東京を去ってから、いつまでも未練がましく彼女のことを思い続けている。そのやり場のない辛さが、今度は自らを陶酔へと導く酒に心酔するようになる。昨日の小欄に記したことだが、「酒樽をかかえて耳のほとりにて音をさせつつをどるあはれさ」「徳利取り振ればかすかに酒が鳴る我が酔ひざめのつらのみにくさ」など酒にまつわり自虐的な歌が第4歌集『路上』には多く見られる。その一因として「君住まずなりしみやこの晩夏の市街(まち)の電車にけふも我が乗る」など恋人への未練が見え隠れする歌も見られる。
だが牧水が歌人として名を遺したのは、苦悩をそのまま放置はしなかったからだろう。あまりに心が追い込まれることから、牧水の身体は自ずから旅に出たのだ。前述した「自虐」の歌がある一方で、旅先で名歌と言われる歌が生まれたのは昨日の小欄に記した。苦悩は苦悩のままに包み隠さず歌に詠む、自らの「あはれさ」を臆さず短歌に表現し公刊される歌集にも入れているからこそ、自己内の摩擦が熱量になって名歌が生み出されるということかもしれない。同様のことを、俵万智さんから感じることもある。6年半の宮崎での交流があったゆえに、僕などはより実感したことなのかもしれない。『サラダ記念日』の頃から素材は様々に展開したが、物事への全肯定とも言える「受け入れ方」は生き方の見本とも思えてくる。きっと、あれほど著名歌人であるゆえの苦悩も少なくないはずだ。先日の「あさイチ」へのTV出演でも語っていた短歌に対して「肩肘張らない」こと、臆さず短歌に表現をすることが俵さんの生きる大きな力なのだと思う。固まって硬直すれば、物はひび割れ壊れやすくなる。苦悩を多く抱え込みながら、どこか純粋さを失わず短歌に表現し続けた牧水を愛す。
果たして苦悩を短歌にしているだろうか?
「肩肘張る」ことで格好をつければ他者には伝わらない
その恋愛生活の深淵が明らかにされてこそ牧水の短歌はさらに愛されるのだ。
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母の日に短歌を贈ろう!
2023-05-15
「大寒のあかとき産院へのみちを母のしきゆうに揺られし記憶」(『心の花』2023年2月号掲載・5月号「作品評」欄に評)
母に思いを致すためになにができるか・・・
冒頭に記したのは僕の歌であるが、自らの今年1月の誕生日を機に発想し作歌した一首である。暦によって違うがほぼ「大寒」が誕生日である僕が、母への思いを込めたものである。それが『心の花』今月5月号の「作品評」欄に光栄にも取り上げていただいた。評に曰く「胎内の記憶を詠んだ。もっとも実際には後から聴いたことだろうが、身体の奥に残る記憶もあるのかもしれない。子宮をあえてひらがなにし、ゆっくり読ませて成功。」とあった。僕自身の作歌時の思いを、存分に読み取っていただき評者には感謝ばかりだ。幼少時からの「記憶」が妙に多く残る傾向のある僕は、果たしてどこまで遡れるだろう?といつも疑問に思っている。それが極限まで遡れるのではという思いを、短歌という「コトバ」で叶えた作品である。「実際には後から聴いた」というのは「事実」であるが、「真実」としては「身体の奥に残る記憶」があると思っている。
この命を「一年で一番寒い日」に産んでくれた母への感謝。「母の日」になにができるか?などと思いつつ、前述の歌が「5月号」に評された宿縁にこれ以上のありがたさはない。併せてこの日に届くように、俵万智さんの新刊『青の国 うたの国』(ハモニカブックス2023)を母に贈った。俵さんが宮崎にいらした6年半のうち後半の3年間ほどは、僕の母も宮崎に移住し宮崎日日新聞連載「海のあお通信」を毎月たのしみにしていた。俵さんが仙台に引っ越されたのは「ご両親の生活のサポート」が理由だが、以前に俵さんご本人とメッセージを交換した際に「ご両親が宮崎に移住され近くにいるのは羨ましく思っていました。」と言っていただいたことがある。そうだ!「母の日」のみならず、高齢になった母がそばで生活している日常そのものが毎日「母の日」のようなものだろう。当該書のうちには僕が実名で登場するのが一箇所、間接的な表現で登場するのが二箇所ある。今日から母にとって僕がどこに記されているか?という読書が始まることだろう。
「大寒のあさ産みくれし母のためカシミアセーター買ふ初任給」(同『心の花』2月号掲載歌)
「事実」として「カシミアセーター」を買ったことはないのだが
宮崎の日々においては「あたたかさ」をいつも母に届け続けたいと思っている。
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半覚醒に言葉を捕まえるー俵万智さん #プロフェッショナル
2023-02-28
半覚醒でポコリポコリと浮かんでいる言葉になっていないものを言葉で捉える
「むっちゃ夢中とことん得意どこまでも努力できればプロフェッショナル」
NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」が、俵万智さんを密着取材した。宮崎在住の6年半は諸々な機会に交流させていただいたが、親しいながらもその私生活は月並みな言い方だがベールに覆われていた。一般の方々が観てももちろん短歌への興味が半端なく高まる内容であったが、歌を嗜みご本人をよく知っている者としてたぶん何百倍も楽しめる番組であった。短歌が生まれる端緒は机に向かうとかではなく、移動中とか蒲団の中で浮遊する言葉を捕まえるという感じ。よく小学校などでは静かな教室でノートに無言で向かわせて短歌(または他の詩歌や作文)を作らせているのが、いかに「創作」の態度と乖離しているかを痛感させられる。「素材は日常にある」が近現代短歌が成してきた「流儀」であるが、それをさらに具体的でより容易に身近な日常に近づたのが俵万智の1300年の短歌史上で他者にできなかった功績ということになるだろう。
以前から密かに思っていたが、俵さんと同じタイプの手帳を僕も使用し既に14年目となる。宮崎歌会などお会いする場でそれを確かめる度に、僕はニヤリと心の中でほくそ笑んでいた。その手帳は「何気ない一日が特別になる」というような制作意図を標榜しており、それが俵さんの歌作りの「流儀」に一致しているとも思っていた。今回はあらためて映像を見て、宝の持ち腐れにならぬように自らの使い方も変革すべきと考えた。などと思い昨晩の就寝時には寝床に持ち込み、今朝までに一首の歌ができた。俵さんは手帳に手書きされた「素の歌」を、次はPCに文字として打ち込んでいく。最終的に「活字」になるのが「短歌」であるとすると、この作業で歌を他者がどう読むかが次第に見えてくるかのようだ。その過程でも文字のみならず、声に出したり瞑想的になったり錯綜したりをくり返しているように見えた。短歌を投稿するまでの仕上げとして、打ち込んだ短歌を短冊にし、「最後のご馳走に涎が出てしまう」と冗談交じりに連作の並べ方と多めに作った歌の採否を決めていく。俵万智さんの学部卒業論文が「連作論」であるのは有名であるが、その秘訣にこうして「美味しく並べ方を楽しむ」という秘密があったのは、多くの短歌人にとっても目から鱗であったのではないか。とりあえず40分間を1回観たが、録画を何度も見返すとさらなる小さな発見として、自らが活かせそうな「流儀」が山積しているように思っている。
仙台への引越し直後からの取材
宮崎の大切な場所に立ち寄った場面も
しばらくして落ち着いたらぜひご本人に感想をお送りしようと思っている。
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NHK短歌3月号「覚えておきたい古典和歌」執筆 #NHK短歌
2023-02-25
平安朝の歌人「伊勢」2月号3月号と連載にて
宮中の恋愛生活と長恨歌屏風代作歌について
NHKテキスト「短歌」2月号3月号の二連載にて、「覚えておきたい古典和歌・伊勢」を執筆させていただいた。現在、3月号も発売になっているので、よろしければお読みいただきたい。もとより平安前期の宇多朝時代の和歌については専門とするところであるが、あらためて「伊勢」という宮中女流歌人の先駆けのような存在について、深く考える良い機会をいただいた。「伊勢」の和歌については『全注釈』もまとめられているが、読み直すと様々な問題意識が芽生えて来る。『百人一首』19番歌「難波潟短かき葦の」の歌によって「伊勢」を女流歌人と認識知る方は多いだろうが、私家集である『伊勢集』を紐解くと、当該歌は作者未詳歌で「伊勢」の歌とは断定し難い。また女性が宮中という場において歌を詠む行為そのものを、特に宇多帝の後宮における擁護によって進められたことも和歌史の上で重要である。
また当時にして「代作歌」が公の場で求められていたことは、3月号に書いた「長恨歌屏風」の歌の存在で知ることができる。中唐の詩人・白居易の詩文は平安朝に輸入され、貴族の間では大ブームとなった漢籍である。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋物語を題材に、白居易が長編詩でその具体的な折々を物語的に語る漢詩文である。高等学校教科書にも現行までの「古典B」などでは必ず採録される教材だが、学部生に聞くと学んだ経験がある者は三分の一以下であり高校教員の意識を問い返したくなる。つまり『源氏物語』桐壺(特に冒頭)を学ぶには、『長恨歌』の由来を知ることが必須であるにも関わらずである。詳しくは今回、NHKテキスト連載に書いているので、ここではこのぐらいにしておこう。最近、興味深いのはNHK朝の連続テレビ小説「舞いあがれ」の貴司くんや秋月史子の「代作歌」を俵万智さんが、Twitterにて「止まらない」などと衝動を持って投稿していることだ。ドラマを観るには感情移入が必須と思うが、まさに作中人物に成り代わって短歌で心の丈を述べるという高級な味わい方が素晴らしい。まさに「伊勢」が「玄宗皇帝・楊貴妃」の立場でその心を詠んでいるのと同様の楽しみ方が、短歌という1300年の歴史の上で行われていることに注目したい。
短歌の演劇的要素としての代作
人物のキャラをどう捉えて詠むか
和歌と短歌が通底する要素をさらに深く追究してゆきたい。
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