半覚醒に言葉を捕まえるー俵万智さん #プロフェッショナル
2023-02-28
半覚醒でポコリポコリと浮かんでいる言葉になっていないものを言葉で捉える
「むっちゃ夢中とことん得意どこまでも努力できればプロフェッショナル」
NHK「プロフェッショナル仕事の流儀」が、俵万智さんを密着取材した。宮崎在住の6年半は諸々な機会に交流させていただいたが、親しいながらもその私生活は月並みな言い方だがベールに覆われていた。一般の方々が観てももちろん短歌への興味が半端なく高まる内容であったが、歌を嗜みご本人をよく知っている者としてたぶん何百倍も楽しめる番組であった。短歌が生まれる端緒は机に向かうとかではなく、移動中とか蒲団の中で浮遊する言葉を捕まえるという感じ。よく小学校などでは静かな教室でノートに無言で向かわせて短歌(または他の詩歌や作文)を作らせているのが、いかに「創作」の態度と乖離しているかを痛感させられる。「素材は日常にある」が近現代短歌が成してきた「流儀」であるが、それをさらに具体的でより容易に身近な日常に近づたのが俵万智の1300年の短歌史上で他者にできなかった功績ということになるだろう。
以前から密かに思っていたが、俵さんと同じタイプの手帳を僕も使用し既に14年目となる。宮崎歌会などお会いする場でそれを確かめる度に、僕はニヤリと心の中でほくそ笑んでいた。その手帳は「何気ない一日が特別になる」というような制作意図を標榜しており、それが俵さんの歌作りの「流儀」に一致しているとも思っていた。今回はあらためて映像を見て、宝の持ち腐れにならぬように自らの使い方も変革すべきと考えた。などと思い昨晩の就寝時には寝床に持ち込み、今朝までに一首の歌ができた。俵さんは手帳に手書きされた「素の歌」を、次はPCに文字として打ち込んでいく。最終的に「活字」になるのが「短歌」であるとすると、この作業で歌を他者がどう読むかが次第に見えてくるかのようだ。その過程でも文字のみならず、声に出したり瞑想的になったり錯綜したりをくり返しているように見えた。短歌を投稿するまでの仕上げとして、打ち込んだ短歌を短冊にし、「最後のご馳走に涎が出てしまう」と冗談交じりに連作の並べ方と多めに作った歌の採否を決めていく。俵万智さんの学部卒業論文が「連作論」であるのは有名であるが、その秘訣にこうして「美味しく並べ方を楽しむ」という秘密があったのは、多くの短歌人にとっても目から鱗であったのではないか。とりあえず40分間を1回観たが、録画を何度も見返すとさらなる小さな発見として、自らが活かせそうな「流儀」が山積しているように思っている。
仙台への引越し直後からの取材
宮崎の大切な場所に立ち寄った場面も
しばらくして落ち着いたらぜひご本人に感想をお送りしようと思っている。
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NHK短歌3月号「覚えておきたい古典和歌」執筆 #NHK短歌
2023-02-25
平安朝の歌人「伊勢」2月号3月号と連載にて
宮中の恋愛生活と長恨歌屏風代作歌について
NHKテキスト「短歌」2月号3月号の二連載にて、「覚えておきたい古典和歌・伊勢」を執筆させていただいた。現在、3月号も発売になっているので、よろしければお読みいただきたい。もとより平安前期の宇多朝時代の和歌については専門とするところであるが、あらためて「伊勢」という宮中女流歌人の先駆けのような存在について、深く考える良い機会をいただいた。「伊勢」の和歌については『全注釈』もまとめられているが、読み直すと様々な問題意識が芽生えて来る。『百人一首』19番歌「難波潟短かき葦の」の歌によって「伊勢」を女流歌人と認識知る方は多いだろうが、私家集である『伊勢集』を紐解くと、当該歌は作者未詳歌で「伊勢」の歌とは断定し難い。また女性が宮中という場において歌を詠む行為そのものを、特に宇多帝の後宮における擁護によって進められたことも和歌史の上で重要である。
また当時にして「代作歌」が公の場で求められていたことは、3月号に書いた「長恨歌屏風」の歌の存在で知ることができる。中唐の詩人・白居易の詩文は平安朝に輸入され、貴族の間では大ブームとなった漢籍である。唐の玄宗皇帝と楊貴妃の悲恋物語を題材に、白居易が長編詩でその具体的な折々を物語的に語る漢詩文である。高等学校教科書にも現行までの「古典B」などでは必ず採録される教材だが、学部生に聞くと学んだ経験がある者は三分の一以下であり高校教員の意識を問い返したくなる。つまり『源氏物語』桐壺(特に冒頭)を学ぶには、『長恨歌』の由来を知ることが必須であるにも関わらずである。詳しくは今回、NHKテキスト連載に書いているので、ここではこのぐらいにしておこう。最近、興味深いのはNHK朝の連続テレビ小説「舞いあがれ」の貴司くんや秋月史子の「代作歌」を俵万智さんが、Twitterにて「止まらない」などと衝動を持って投稿していることだ。ドラマを観るには感情移入が必須と思うが、まさに作中人物に成り代わって短歌で心の丈を述べるという高級な味わい方が素晴らしい。まさに「伊勢」が「玄宗皇帝・楊貴妃」の立場でその心を詠んでいるのと同様の楽しみ方が、短歌という1300年の歴史の上で行われていることに注目したい。
短歌の演劇的要素としての代作
人物のキャラをどう捉えて詠むか
和歌と短歌が通底する要素をさらに深く追究してゆきたい。
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ど真ん中ストレートー貴司くんの苦悩 #舞いあがれ
2023-02-21
編集者リュー北條「ど真ん中、ストレート、投げるつもりで書けよ!」
彼自身も酔ってこそ言えたストレート助言
朝の連続テレビ小説「舞いあがれ」は、先週の最後に結ばれた舞ちゃんと貴司くんが、めでたく結婚式を挙げた。舞ちゃんが亡き父・浩太さんに花嫁姿を報告するシーンには、これまでの苦労とともに掴んだ幸せが凝縮されているようだった。こうして幸せに至るまでに、先週の小欄に記してきたような貴司くんの短歌に向き合う苦悩があったドラマストーリーは誠に秀逸であった。「短歌ができない」ということそのものが、「伝えたい思いを伝えられない」ことと同質のように描かれたことは、「和歌短歌1300年」の歴史の上で穏当な位置づけであったといえる。「人の心」は言いたいことで溢れていて、その「種」が発芽して「さまざまな言の葉」になるのだと「古今集仮名序」に紀貫之は宣言した。「言いたいこと」を「訴え」気持ちを誰かに伝える、俵万智さんが「短歌は日記ではなく手紙です。」というのも誠に至言である。だが、人はなかなか心の底にある「種=思い」をストレートに表現して伝えることができない。それは恋心のみならず、貴司くんが「怖いんです」と言っていたことには、どこかで共感できるのだ。
休日の過ごし方を含めて、様々な場面に向き合い多様な「脳の使い方」をしているように我ながら思う。事務処理脳・研究脳・学生教育脳・協調脳・社会適応脳・夫婦脳・親子脳・友人脳・野球脳・音楽脳、そして短歌脳である。どれも使う脳の部分が違うのではないか?と思うこともしばしばで、ある脳を使っている際に他の分野の脳が気になると無性にムシャクシャしてしまうことがある。まさにドラマで貴司くんが短歌ができず、ノートに書いた一行をグシャグシャに鉛筆でかき消してしまうような気分である。限られた時間の中で、こうした多様な脳の力を常に適切に発揮するのは難しい。だからこそ仕事も私生活も、適切なメリハリをつけることが望まれるのだろう。そんな錯綜した己さえも、天からの視点をもって客観視できたらよい。ムシャクシャが思わぬLINEの連絡によってリフレッシュすることもある。要は「生きる」とは、混沌とした山登りなのかもしれない。歩みを止めて景色を眺めてもよい、多視点になることで救われることもあるのだから。
ど真ん中ストレートを投げる怖さ
それを超えるための言の葉を紡げ
「一瞬を永遠にするのが短歌やで」(舞ちゃん)
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みんな相聞歌を詠もう!ー伝えたい思い #舞いあがれ
2023-02-19
恋の気持ちを相手に訴える短歌お互いに消息を伝え合う歌で肉親・友人などの間の贈答の場合も
『万葉集』における和歌類別の一首
朝の連続テレビ小説では、主人公の舞ちゃんが歌人で幼馴染の貴司くんと思いを伝え合うことで結ばれるという幸福な場面までが前週に放映された。その過程で貴司くんの短歌に焦点が当てられ、また秋月史子というすこぶる短歌に詳しい恋のライバルが出現するという「物語」として目が離せない展開であった。また放映直後の「あさイチ」に貴司くん役の赤楚衛二さんが出演し、司会の華丸大吉さんが「俵万智さんがTwitterで貴司くん(とリュー北條に捧ぐ・tweetにはこうあり)へ事前に歌を詠んでくれて」と振ると、赤楚さんが「貴司の心ですね」と反応する場面もあった。まさにドラマ(物語)の中に短歌の奥深さが「本歌取り」という手法をまじえて埋め込まれ、その秋月史子と歌集編集者・リュー北條のやり取りから視聴者が理解していくという短歌関係者にとってありがたい展開であった。僕らも「(ドラマで史子が指摘する歌は)本歌取りかどうか?」と先輩の研究者と議論したり、現代短歌における「本歌取り」をどのような精度で評したらよいか?など考えさせられる内容であった。
驚いたのは、僕自身がこの「本歌取り」の件について「史子が本歌取りを指摘した回」である2月16日10時台に「#舞いあがれ」を付けてTweetしたものが、33件リツイート1件の引用、132いいね、エンゲージメント(ユーザーがツイートに反応した回数)666、インプレッション数(ツイートが表示された回数)は何と「15710」にも達したことだ。中には「専門家が議論するほど微妙な線を突いているなら『史子の1ミリ』としてVAR判定でセーフとしましょう」などリプライ(返信)でサッカーになぞらえたものまであった。何より「本歌取り」について、多くの一般の方々が考えてくれたことは和歌短歌研究者としてありがたい限りであった。(「本歌取り」の詳細については2/17付小欄に記載した)視聴者の多くは「何とか舞ちゃんと貴司くんとの恋が実って欲しい」と願って視ていたはずだ。結局は秋月史子が「君が行く」の短歌を「情熱的な恋心を詠んだ歌の本歌取りなんです」と舞ちゃんに伝えることで初めて、「短歌の読者が本歌を知っていて、その情趣を含めて思いを受け取る」ことができ相聞歌として成立したことになる。史子は表面には出ないが歌に詠まれた「貴司の舞に対する恋の情熱的な思い」に圧倒され、「本歌取り」に気づいた者として「恋のオウンゴール」を決める結果となる。たぶん多くの視聴者が、この週のドラマテーマ「伝えたい思い」を持って生きている。
「目を凝らす見えない星を見るように一生かけて君を知りたい」(梅津貴司)
相聞歌は恋人同士に限らない、親子・兄弟・友人など思いを伝えたい人へ
そう!ならばみなさん!ぜひあなたも相聞歌を詠んでみよう!
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果たして「本歌取り」なのか?詳説 #舞いあがれ
2023-02-17
貴司くんの歌を「本歌取り」と主張する秋月史子編集者・リュー北條も気づかなかった一解釈として
巧妙に短歌が仕込まれ果たしてドラマの恋の展開はいかに?
朝の連続テレビ小説「舞いあがれ」から目が離せない。ヒロイン「舞ちゃん」の隣家に住む
幼馴染で気になる相手の「貴司くん」が歌人として「長山短歌賞」を受賞し、編集者から歌集出版について諸々の注文を受けているという展開が続いている週を迎えている。ところが貴司くんが店主の古本屋「デラシネ」に「秋月史子」という短歌にすこぶる詳しい「貴司ファン」が押しかけ、貴司くんを「先生」と呼びつつ諸々のお節介をし、舞ちゃんにとっては恋の横槍が入る状況となってしまった。概ね、こんな粗筋の中で昨日はドラマ後に「本歌取り論争」が起こった。僕の母校の先輩でもある親しい和歌研究者が、SNS投稿で秋月史子が指摘した歌は「本歌取りではない!」と主張して怒っていた。僕自身も史子の指摘にはやや驚かされつつ、違和感を覚えざるを得ずSNSコメント欄で意見交換を進めた。
君が行く道の長手を繰り畳ね焼き滅ぼさむ天の火もがも(狭野茅上娘子)
君が行く新たな道を照らすよう千億の星に頼んでおいた(梅津貴司)
仮に「本歌取り」と認めるとすれば、初句「君が行く」と二句目「道」が同一の言葉で置く位置も同じ、「天の火」と「星」が「空に光るもの」として通じ合うという類似性を指摘できる。また本歌とする歌は「(君が行く道を)焼き滅ぼさむ」として慕う人が離れるのをどうしても避けたい思いを述べるが、貴司くんの歌は「(君が行く道を)星に照らして欲しい」と慕う人の前途への希望を述べる歌であり、本歌との間に「ズラし」があるのも「本歌取り」の条件として指摘できるかもしれない。やはり存外、秋月史子は相当な和歌短歌の知識がある存在であるのは確かである。
君が行く越の白山知らねどもゆきのまにまに跡はたづねむ(藤原兼輔)
しかし、ここに記すように初句を「君が行く」とする歌は『古今集(離別・391)』にもある。ここで肝心なのは、「本歌取り」が盛んに意識して行われるようになった中世においては特に、「本歌取り」をした歌を聞くと、同時代の人々の多くが「本歌」を自然と思い起こすということである。つまりは、「本歌の情趣を重ね合わせて解釈されることを前提としての詠歌」であることが肝心なのだ。貴司くんの歌ならば、最初の読者である「舞ちゃん」も本歌を知っているという条件が必要であり、短歌出版社の編集者・リュー北條ならなおさら本歌が特定できていなければならない。もちろん我々・視聴者も含めて歌に詳しい人であってもなかなか「狭野茅上娘子」の歌を想起するのは難しかった。ドラマとしては「秋月史子」だけが、特異に「本歌取り」だと主張したわけである。SNS議論で先輩は、「貴司の剽窃(盗作的行為)、独りよがりなのか?」と言うので、僕は「史子の独りよがりで、それが恋との相関であるなら、むしろ本歌取りの定義から外れていた方が秀逸なストーリーなのかも」と返信した。さらに先輩が「貴司は以前の指摘を含めて本歌を否定しなかったけど」と言うので、「それは貴司くんの言えない優しさなのでは」と返信したやりとりとなった。
果たして「本歌取り」が絡んだ恋はどこに着地するのだろう?
貴司くんはどんな相聞歌を詠むのか?
Twitterを中心に「本歌取り」への理解が進んだようで短歌関係者として嬉しい展開である。
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「エンタメ×純文学」=相乗効果ー「短歌ブーム」に考える国語学習
2023-02-03
「『短歌ブーム』ブーム」(笹公人)SNSとの相性×伝統的歌人
「分断を繋ぎとめる」その希望を短歌に!
世は「短歌ブーム」だと云われている。例えば、現在放映中のNHK朝の連続テレビ小説「舞い上がれ」でも、主人公の気になる相手は短歌作りを地道に続け「長山短歌賞」なる架空の賞を受賞し「歌集デビュー」するというストーリーが進行中だ。もちろん昨年1年を総括しても、歌集の売り上げやメディアの取り上げ方において、「ブーム」と考えたくなる流れがある。だが「本当にブームなのだろうか?」という疑問に正面から向き合っている議論が、小欄でも取り上げた「笹公人×渡辺祐真」のオンライントークでなされた。『短歌研究2月号』では渡辺による「短歌と考える現代」で昨年の総括が実に明快に批評されている。渡辺に拠れば、新しい出版社やSNSの存在が目立つのと同時に、「伝統的歌人」と呼ぶ良質な純文学的短歌をつくる存在があってこそのブームであると述べている。まさに本日の標題のように「エンタメ(的短歌)×純文学(的短歌)」の図式を提起している。それはまさに「西行×定家」であると、古典和歌の上でも同様の図式で和歌全盛期の時代が築かれたことにも言及していて興味深い。
詳細は渡辺の文章をお読みいただきたいが、この「ブーム」の図式は「国語学習」に応用できないものかとふと考えた。そこで早速、学部2年生の「国文学史Ⅲ」の総括となる最後の講義で学生たちに意見を求めてみた。こうした際の学生の発言で気になるのは、二項対立的図式を示すと「どちらかに決めなければならない」ような思考になることだ。少なくとも2年ほど前まで「受験生」であった彼らは、今も「共通テスト」の選択式思考にあるのかとその弊害を考えざるを得ない。「国語学習」が「純文学的」だからつまらないとして、「エンタメ」に移行すれば効果的な改革になるという発想だ。否、前述した渡辺の「短歌ブーム」の批評は、こうした単純な偏りに陥ることなく双方の利点が功を為した結果であると「脱構築」な発想で批評されていることが重要なのだ。僕などからすると36年前の「ブーム先取り」とも言える『サラダ記念日』こそが、相乗効果を一人の歌人・歌集の中で実に豪快に明快に巧みに結実させた歌集のようにも思えてくる。「国語学習」の「サブカル」分野の活用は従来から提唱されてきているが、その反面で「純文学的」と装いながら、その正体は「指導者が的確に捉えていない文法・文学史の押し付け」であったことを省みる必要があるのかもしれない。当該講義ではまさに「西行×定家」が成し得た『新古今和歌集』の日本文学史上の価値を考えることに、多くの時間を費やした。やはり指導者が「純文学とは何か?」という正統なる問題意識を持っていてこそ、「エンタメ」に踏み出し融合した学習を叶えることを忘れてはなるまい。渡辺の批評は、「国語教育」を考える上でも示唆的なのである。
講義の導入は「The LEGEND & BUTTERFLY」の予告動画
「エンタメ映画×歴史の学び」にどのように我々は折り合いをつけているか?
「短歌」を自ら創作する上での方向性も明らかにされたような気がしている。
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新年歌会始ーお題「友」
2023-01-19
「コロナ禍に友と楽器を奏でうる喜び語る生徒らの笑み」天皇陛下「皇室に君と歩みし半生を見守りくれし親しき友ら」皇后陛下
「旧友のごとくなつかしあかねさす夕陽の丘に犬とゐる人」召人・小島ゆかり
新年15日を「小正月」とは、ほとんど言わなくなってしまった。かつて15日が祝日「成人の日」であったゆえ、まだ言い易い環境であったが「祝日法」の改訂でそれも失われた。「1年の計は元旦にあり」とは云うものの、この「半月」を大切に重んじることもしなくなった。だが皇居宮中では元日から新年の諸行事が行われ続け、この日の「歌会始」でそれも一段落となる。午前中にNHKTVの中継があったが、非常勤先の講義が2コマあるため観ることができなかった。だが最近は「見逃し配信」を、容易にWeb上で観ることができる。弁当をいただいたのち、しかも要所を絞って早送りなどもWeb画面では至って容易なのでようやく観ることができた。お題は「友」、奇しくも世界の国々が「友愛」を求めるべき方向から反対に進む悪辣な情勢下で、このお題は大変に貴重な歌を生み出す契機となったことだろう。
陛下御製は、一昨年に和歌山で開催された国文祭・芸文祭でのご体験が素材であったと云う。ご自身も楽器演奏を嗜まれる陛下のこと、オーケストラで友とともに演奏する喜びに深く共感されたお歌である。また皇后陛下のお歌は、皇室に「半生」を捧げて来られた思いと、それを常に見守ってくれた親友への思いを詠まれている。世間はあれこれと言うものだが、親友こそはどんな時も自らの味方をしてくれたという感慨もあるはずだ。両陛下の歌が双方とも一般の方を思い描かれ、その温かい思いを素材にしているところが貴重である。また今年の召人は、小島ゆかりさん。宮崎にもよくお出でになり、今年の3月は牧水顕彰全国大会でお会いできる。小島さんの歌もまた、「夕陽の丘に犬とゐる人」と大好きな犬を登場させ、第三者のことを「旧友のごとくなつかし」と詠う。こうして詠歌により「他者」に思いを馳せることで、社会は相互の優しさを回復するように思う。見知らぬ歩く人に対する親族や旧友のような思いやり、これこそがまさに「友愛」ということなのだろう。
主体「われ」が基本の詠歌でどんな視線を詠うか
歌のことばに「友愛」を載せて、「平和」を堅持する思いを強くする
何よりも「うたことば」を大切にする国であることを再考すべきであろう。
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「刻々と『今』は『過去』に」なるから新しい
2023-01-05
「葉の間(あひ)にいちやうの緑(あお)き実の見えて新しき過去かがやくごとし」栗木京子・第十一歌集『新しき過去』(短歌研究社2022・9)より
新しく生きるために「今」を逃さぬように
昨年は既に「過去」であるが、昨年の短歌や歌集を読むと更新され「新しき過去」になる。年末から読む『短歌年鑑』とか短歌雑誌新年号にある歌や歌集評に触発され、栗木京子『新しき過去』を読み始めた。栗木さんは牧水賞選考委員でもあり毎年の授賞式でお会いする機会も多く、懇意にする歌人のお一人である。お話しすれば気さくであり、この歌集に歌があるように「都内足立区」にお住まいで僕の親戚などが住むので親しみが深く話題も尽きない。昨年9月に出版された歌集であるが「逃していた」という気にさせられ、新年早々に購入した。「逃していた」思いをそのままにすれば「悔恨」のみのままだが、「今からその過去を新しくする」感覚を持つべきことを歌集は教えてくれている。冒頭に記したのが歌集名となった一首であるが、植物の成長していく姿を我々が見るのは、常に「新しき過去」なのだと気付かされる。
歌集あとがきによれば「過去は古びたもの、と捉えがちです。けれども、『今』という瞬間は向こうからやってきて目の前を刻刻と通り過ぎてゆく。そう考えると、過去はつねに更新されてゆくような気持ちになります。」とその思いが記されている。既に元日の初日出も三が日の家族での楽しい食事も「過去」とはなったが、僕らにとって一番の「新しき過去」である。初日に願い、榎原神社(日南市)に祈り、思い描いた希望を持って「今年」の5日目をいま生きている。誰しもが「変えたい過去」があるかもしれないが、それは「今」を大切にして「刻刻と通り過ぎる」一瞬一瞬を更新することで来たりくる時間を更新できるのだ。その「今」に錨を下ろし、ことばに刻むのが「短歌」というパッケージということになるだろう。作品となった短歌は現実以上の真実として「新しき過去」となり文字としての輝きを放つ。そこに多くの他者が解釈という「聲」を与えることで、さらに更新され「過去」は「過去」でなくなるのだ。
僕らは「過去」を変えられる
できることはただひとつ「今」を無駄にしないこと
生きること 人間の時間 「今年」をどんどん「新しき過去」にして行こう。
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本当に短歌ブーム?ー笹公人さん×スケザネさんトークより
2022-11-24
短く上手く言う時代ーTwitterの影響異ジャンルの人々が多く参入し始め
耐久年数の長い短歌・・・
世はすっかりTVよりWebで視聴する時代、標記のトークを有料券を購入して視聴した。有料でしばらく「見逃し配信」もあるので、内容の詳細や多岐にわたる点への言及は控えておく。だが短歌に興味があるのであれば、ぜひご覧いただきたいトークで「有料」であるがかなりのお得感があった。僕にとっては、両者ともに親しくさせていただいている間柄というのも視聴の大きな理由である。笹公人さんとは「牧水短歌甲子園」の折ごとに日向市でお会いし、コロナ前まではよく遅くまで酒席をともにさせていただいていた。審査員としての洒落のあるコメントも大好きで、昭和感を上手く素材とした短歌も大いに参考にさせていただいていた。今年に刊行された『終楽章』も大変に好きな歌集で、ある意味で僕の創作のツボを刺激してくれる相性のよい歌が多い。ちょうど1ヶ月ぐらい前に、そんな歌集への思いを書簡でお送りしていたところだった。
一方のスケザネ(渡辺祐真)さんは、親友の真山知幸さんを介してメッセージ交換などをさせていただいていた。人気のYouTube書評家であり、これまでにも俵万智さんとのトークなど短歌にも深い批評を展開している方である。ご自身も若い頃に投稿短歌に応募して入賞した経験があるようだが現在は「詠み手ならざる者」として、むしろその批評から学ぶことは多い。トークの中で「本当に短歌ブームなのか?」という疑問に双方から聞くべき意見が多々出てきた点は、短歌に関わるものとして心しておくべき内容であった。「一億総歌人」となるためには?耐久年数の長い歌と消費される歌(「いいね歌」)とは?真に「ブーム」と言えるには、まだまだ僕たちの努力が必要なようである。まさに詠み手として多様な人々の参入、従来の歌壇を超えた活動とは?こうしたトークにこそ短歌の未来への切符があるような気がした。
終了後、お二人それぞれにメッセージ
12月初旬には笹さんが宮崎を来訪される
トーク視聴終了後は、サッカー日本代表のドイツ戦をTV観戦となったが。
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あふれ散る反日常の言葉の〈ひびき〉
2022-05-05
「短歌定型を歌人の内なる時間の自然な流出を防ぎ止めようとする、たとえばダムのごときものとして把握すべきである。」
(佐佐木幸綱「短歌ひびきの説」『極北の声』所収より)
日本では「3年ぶりに行動制限のない連休」などと浮かれた報道も目立ち、かくいう僕自身も未だ確定的に訪れていないはずの「日常」の「平和」を享受しようと、「反日常」な「連休らしい過ごし方」へ舵を切っている安易な当事者の一人であるようにも思う。一方でウクライナにおける戦禍の中での悲惨な状況の報道にも目を向け、やるせなくもどこか他人事では済まされない恐怖を心のどこかに宿している。現地インタビューの映像は、他国へ避難していた妻と子がウクライナへ帰国すると、自宅集合住宅がミサイルに被弾していて夫は命を失ったという妻の言葉を伝えていた。「これまで積み上げてきた人生をすべて失った。」というその言葉には、罪のない市民が犠牲になる戦争の理不尽とともに、「命とは日常を積み上げることだ」と強烈に僕らに悟らせる言葉でもあった。たとえばいまこうして小欄を書いている僕の書斎にミサイルが打ち込まれる、または小欄をお読みいただいているあなたの部屋にミサイルが被弾する、そんな考えたくもない理不尽な現実がウクライナでは「日常」となってしまっている。未だブログに投稿していないこの原稿は失われるが、これまで積み上げてきたブログの「ことば」は世界に遺る。そしてまた僕の著書や論文や評論なども、デジタルか紙かの区別はともかくこの世に遺る。こんな想定から「日常を積み上げるとは書き遺すこと」だとあらためて「ことばの力」を僕たちは信じて生きようと確信するのだ。
冒頭に記した佐佐木幸綱の「短歌ひびきの説」をあらためて読んで、その都度ながらまた強烈な衝動のような心の変革を覚えた。時に「なぜ短歌を詠むのか?」という疑問に向き合うと、「日常を積み上げることだ」と確信を持って答えることができるようになる。特に「積み上げ」ということが重要で、日々に積み上げた礎石を崩さないようにするために「今日も短歌を詠む」のである。「1日でも短歌を詠まないと下手になる」という幸綱の言葉も運動などにも通ずるような感覚だが、まさに「短歌がことばの積み上げ」であることを考えさせられる。短歌に限らず、小欄でも毎朝にこのような「ことば」を積み上げることで、記録性・回帰性・自己承認・未来への道しるべといった効用と同時に、ことばを紡ぎ出す積み上げとしての力を僕に与えてくれている。昨年の9年ぶりの単著執筆においては、あらためて自己の書く力を自覚することができた。いついかなる日常でも、限られた時間内で一定の公開可能な文章を綴ることができる。今まで短歌創作に向き合ってきて、まずはこの次元まで短歌も日常にすべきだと考えてきた。昨日はあらためて幸綱の力動的なことばに触れて、そのような日常を送るべきとの確信を得た。1日辞めたら「今まで積み上げてきたものをすべて崩す。」という緊張感こそ、僕らが「ペンで世界を変える」ことができるという意志の体現なのだ。
「短歌の韻律はそのダムに激突してあふれ散る反日常の言葉の〈ひびき〉である。反日常へ行くことで言葉本来の実質をかろうじてめざす歌の言葉は、独詠ではない呼びかけの志によって日常への回帰を果たそうとするのである。」(冒頭の続き。佐佐木幸綱「短歌ひびきの説」より)
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