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『こゑは消えるのに』佐藤文香句集

2024-02-12
「こゑで逢ふ真夏やこゑは消えるのに」
活字にすると、俳句にすると、「記憶はもう消えない」
電話、メッセージ、そして俳句・短歌・・・・・

佐藤文香さんとの長年にわたるつながりは、昨日の小欄に記した。NHK短歌2月号「あの人と短歌」のコーナーで穂村弘さんと対談しており、彼女の俳句の才能や短歌へ越境する自在な文才についてが語られている。近刊『渡す手』という詩集もあり、また写真展へも踏み出していて、その越境超越具合は今後も益々楽しみだ。短歌に踏み出した書籍として小欄でも紹介した『おやすみ短歌』がある。当該書での彼女の睡眠へのこだわりは、大変に面白いと思っていた。「寝ることに苦労はしない」という自己のあり方を書籍あとがきで吐露していたが、それは「睡眠を規則正しく大切にしている」ことが今回あらたにわかった。「夜0時に寝て朝7時に起きる」のだと、今回の写真展でいただいた「写真解説・語句解説」のパンフの小エッセイに記されていた。入眠に苦労せず規則正しい、という意味で僕自身の睡眠のあり方と同質性があると親しみを覚えた。昨晩もメッセージのやり取りをしたが、23時を回る頃にはお互いに入眠モードでスマホを置いた。

冒頭に記したのは、新句集のタイトルになった一句。前述の睡眠の事情もあって、日本では深夜の「酔っ払い」からの電話など対応できなかったものが、米国生活の時差が有効活用された海を越えて「日本にいる泥酔者の帰宅を心配していた」という海外生活での「嬉しさ」がエッセイに綴られている。かつて「国際電話」と呼んだ時代には高額料金ゆえに控えたものだが、SNS経由の音声メッセージによって「泥酔者」と時差によって米国で会話することが容易になったのだ。このような日米架橋の「こゑ」を楽しみつつ、文香さんのアメリカ生活で紡ぎ出された「こゑ」ならぬ俳句が収められている。俳句というジャンルゆえに文語であり漢語も豊富、現地で見聞した「アメリカ的なるもの」がこうした表現手段によって「消えないこゑ」となりその紙面に散りばめられている。特に「加州(=カリフォルニア)」というワイン産地に赴いたのもまた、「酒」があるという必定な運命か。「ナパバレービレッジ」の「ライティングワークショップ」に参加した体験は何より興味深かった。

「君が詩に書く自画像も背の高さ」
今思ったのだが、小欄に打ち込む俳句を僕は一度「こゑ」で引き取っている
「口承」と「書記」の問題は古代文学のみならず、今も詩歌の大きな問題意識なのかも。


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誌上に生み出す喜び

2024-01-23
心をもって書いた原稿が
誌上に生み出されているのを読み返す喜び
そして拙著が読まれ書評に書かれることの愉悦

『短歌往来2月号』(ながらみ書房)開巻1頁目「視点」欄に、「シン心詞論ーみやざきのうた」を寄稿している。宮崎日日新聞が2023年12月3日付で「心豊かに歌う全国ふれあい短歌大会」の最優秀歌について一面記事に掲載したことを讃えつつ、「短歌にとって心とは何か?」を考える「視点」を提供させていただいた。さらに俵万智さんの『アボガドの種』にも言及し、「わたしたち」が俵さんの宮崎での詠歌を「心」という意味で共有できている特別感についても触れた。短歌は個々人の中で多様な効用を持つと同時に、読む人々にも一定の「心の作用」を提供することができる。やはりいつの時代も「やまとうたは心の心を種」としている。

同誌の書評欄には、小島なおさんが「『聲』の思考」と題して拙著『牧水の聲』について見事な筆致で評してくれている。なおさんは宮崎での和歌文学会大会(2017年)のパネリストを依頼した折から、さらに宮崎での短歌企画、みなかみ町での企画の際など懇意にする歌人の一人である。牧水に関する企画にも多数参加していることもあり、拙著で言いたかったことを見事にまとめつつ、「著者の魅力が印象深く感じられる箇所」として一部引用をいただいた。あらためて拙著をまとめるまでの努力の蓄積が思い返され、報われた気持ちになる。まさに物を書く「心」とその「言葉」が誌上に載り、それを読んだ際の喜びでわたしたちは生きていると言ってよい。

「心」をさらに大切に生きるために
そして他者の「心」がわかるために
今日もまた「心」を大切に生きたいものだ。


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あらたな気でいまこの時の充実

2024-01-06
元日からあらたな気に包まれているような
それは「いまこの時」を充実させること
1年の計の週末になって

元日が月曜日だったので、本日土曜日で1週間6日が過ぎた。その元日の午後4時10分に起きた能登半島地震(震度7M7.6)については、次第に被害状況も明らかになり未だ救出を待つ方、また食料や物資が届かずに苦しい生活を強いられている方々をTV報道で見るにつけ心が痛む。同時にこの宮崎にいつか南海トラフなどの大地震が襲うことは確実で、その「いつか」が今日か明日かもしれないという意識を僕たちは持つべきだとも考えさせられている。だが何事も恐れをなしていては、「いま」を充実して生きることはできない。準備や心構えをした上で、「いまこの時」の充実を期さねばなるまい。

元日の朝、妻と朝陽を見上げて何やら新しい気に包まれているような思いがした。太陽の力の偉大さとともに、この地球という自然総体のありがたさ。その中でちっぽけな自分が、小さな「いまこの時」をいかに生きるか?ここでいう「気」という眼に見えないものを、「言葉」という人間の営為に載せてどう表現するか。短歌とはあらためて自然とともにあり、我の心を築いていくものだとあらためて思う。そのような思いで本日行われる、心の花新年歌会&懇親会の幹事として準備を進めて来ている。短歌に関われて生きている、そこに僕自身があらためて感じ取る気があるのだ。

詠草集を司会者として読み込むこと
そして懇親会の進行表などを整えて
短歌と司会という僕のライフワーク的な充実の今日がある。


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あなたはわたしわたしはあなた

2024-01-05
あなたの表現をどう読むか
わたしの表現をどう読まれるか
「眼に見えぬ鬼神(神霊)をあはれと思はせ』(『古今和歌集』仮名序)

「あなたの立場になる」生きる上でどんな場面でも、必要で大切でこうありたいと思う。例えば、果たして元日から大地震に見舞われた能登半島や北陸地方の「あなた」の立場になっているか?その報道をTVで眼にして、どのように捉えているか?自らが当事者のつもりで想像をしても、どうしようもなくまったく同じ苦しみに身を置くことはできない。こう考えると「あなたの立場」というのは偽善的で建前のようにも思えてしまう。心のあり様というのは、そう簡単なことではない。だが「心を言葉」にして「あなたの立場」に寄り添いたい、いや何とかして「あなた」自身の「心」になりたい、そんな願望を抱き続けることが大切なのだろう。

「短歌をよむ」という行為も、前述したような思いが逡巡するようなものと思うことがある。あなた(他者)の歌を読むことは、すなわちわたし(自己)の歌を詠むこととに深い関係というか同義に値する。「あなたはわたし」だと思えるように、他者の歌は深く丁寧に大切に読みたい。裏腹に「わたしはあなた」であり、自己省察をくり返し「わたしはこれでいいのか?」と自問自答をする批評的な厳しさも持ち合せたい。自他に寄り添い、自他に厳しく。長年にわたり「教師」という職に就いているが、このような反転した見方を自他に向けることが常に求められる。温かい心と厳しい批評の眼、相反する見方ができる、そういう人にわたしはなりたい。

あなたが読めたときの感激
わたしがあなたに読まれたときの嬉しさ
あらためて短歌は「人の心」を動かす深い効用があることを考えている。


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和歌短歌の認識主体のこと

2023-12-12
「いま来むといひしばかりに長月の有明の月を待ち出でつるかな」(素性法師)
「作中行為者」=「女」として「視点主体」は「(男を)待つ」立場
「認識主体」を「女」とすることで「作者実体」にどんな効用をもたらすか?

既に10月号のことであるが、『角川俳句』が「俳句と短歌」の特集を組んでいたので珍しく購入した。「似て非なる文学の究極」と特集の副題にあるように、「俳句」側から逆照射された「短歌」への多様な言及として実に学びが多かった。特に堀田季何(楽園)の「俳句の〈私〉、短歌の〈私〉」は「私性」の問題が上手く整理されており参考になった。引用して覚書としておきたいのは「一首一首に複数の〈私〉が存在し、それらの〈私〉が作者本人ないし作者に似た存在でありながら、それらの〈私〉を読者が読み取って作者的な人物像を想像する、という仕組みが、近代以降の短歌に発生した「私性」である。」とありさらに「作者は一首一首の複数の〈私〉に自己投影し、読者はそれらの〈私〉から作者の分身的な人物像を想像するのだ。」としている。これを「近代以降の短歌」が「一個人の自我の詩に変貌した」と位置付けている。

同評論には「短歌における作者の構造」を「古代から現代まで変わらず」として冒頭に挙げたように説明している。ここでは、『百人一首』にもある素性法師の一首を例歌として考えてみる。冒頭に記した四層(作品内〈作中主体〉の「作中行為者」「視点主体」・作品外〈狭義の作者〉の「認識主体」「作者実体」)の上に「作者名義」が加わると「広義の作者である作者総体」になると説かれる。掲載歌の場合、〈作中主体〉と「認識主体」はともに虚構の「女」であり「(あなたが)いま行くね!」と言ったばかりに、夜な夜な待ち続けて「長月の有明の月を待っていたら出てきてしまったじゃないの」と「あなた(男)」が訪れなかったことを嘆く心が読める。この「作中主体」と「認識主体」を接近させ「一人称の女」とすることで、「作者実体(生身の作者)」さらには「作者総体」の上でズレ「虚構性」を生じさせる効用をどう考えたらよいだろうか。ここでは和文・漢文の問題は置いておくとして、「認識主体」を「作者実体」と違えて設定することで、その人物の「立場(心)」を理解することができると考えたい。掲載歌ならば「待つ女」の立場になっての詠歌が「作者実体(あるいは総体としての男)」において、「相手の胸の痛みをわかる」という効用をもたらす。法師ゆえかあまねく世の人の心を理解しようという意図があるとしたら、「一人称文学」としての和歌の「私性」の構造上の虚構によってそれを叶えようとしていたと言えるのではないだろうか。

「男女の仲をも和らげ」(『古今和歌集』仮名序)
相手の立場になって物事を考え人々の仲を和らげるのが歌
様々な役柄を演じてそれぞれの人の心を理解しよう。


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紙の本どこで終わってもいい本ー『おやすみ短歌』(実生社刊)

2023-12-06
良質な睡眠をとるために心掛けること
就寝が苦手な人も多いという中で
『おやすみ短歌ー三人がえらんで書いた安眠へさそってくれる百人一首』(実生社)

毎晩の就寝時には、寝床で必ず短歌を読む習慣がある。その際にどんな歌集をどれほど読むか?は大変に重要な決め事だと思っている。あまりに歌集の世界観に引き込まれて読むのをやめられなくなったり、創作意欲がメラメラと湧いてきて興奮してスマホに短歌の端くれを書き留めるなどむしろ眠気を覚醒させる効果が生じることがあるからだ。かと思えば寝たまま胸元に歌集を開いたまま寝入ってしまい、僕の後に入浴を終えて来た妻に「回収作業」をしてもらうこともある。そんな時に乞い願わくば、就寝さえ留まらせるように心を繫ぎ止める短歌が作れたらと願う。最近では『アボガドの種』(俵万智)や『いま二センチ』(永田紅)などは、瞼を瞑じても安心して響く言葉があり、実に良質な発見がありながら睡眠に誘ってくれるように思っている歌集だ。同時にこのような歌作りを目指したいと思い、明日へ向けて自分を変える睡眠という名の変身に向かうのである。

冒頭に記した『おやすみ短歌』(2023年11月20日刊)を購入した。編著者である「枡野浩一・pha・佐藤文香」のうち佐藤文香さんは大学時代の「万葉集研究会」の先輩の娘で、幼少の頃から「研究会旅行」などで会う機会も多く長い付き合いの人だ。彼女は「あとがき」の冒頭に、小学生の頃に家族で「神戸ルミナリエ」を見に行こうという際に「夜は眠いから行かない」と言ったエピソードが書かれており、実にリアルにそのように発言した彼女の顔が思い浮かんだ。さらに読み進めると自らは「早寝早起き」であるが、「就寝が苦手な人と付き合う」ということが書かれている。その際に「恋人が少しでもよく眠れるように、と試行錯誤した。」とある。「テレビやスマホの光はよくない」ゆえに「紙の本」がよく、続きが気にならず「どこで終わってもいい本」ということで「歌集を選んだ」と記されている。これはまさに、前述した僕の入眠の流儀とまったく同じだと舌を巻いた。(僕自身はすぐに眠れる派であるが)同書はまさにこのような入眠を叶える短歌を集めた企画歌集である。ちなみに佐藤文香さんは俳人であるが、彼女が短歌を選び歌評を書いているのも興味深い。

「最後に見た短歌を苔玉のように顔の上に思い浮かべ、
 目の奥に残った光でいろいろな角度から照らしてみる。
 その光が薄まってゆくのにあわせて、ゆっくりと息を吸い、息を吐く。」(あとがきより)
これぞ短歌の読み方として実に上質なのだと思う。


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霧の晴れない道を短歌で照らしたい

2023-11-15
現実に帰って心に晴れぬ霧がもやもやと
先週末は短歌のことばかり考えられる爽快な晴れの心
「愚痴」にならぬように短歌で道を照らす

「愚痴」を『日本国語大辞典第二版』で引くと、「(1)仏語。愚かで思い迷い、ものの理非のわからないこと。また、そのさま。三毒煩悩の一つ。無明。愚痴心。(2)言っても仕方ないことをくどくどと嘆くこと。言ってもかえらぬこと。益のないことを言うこと。泣き言。」とある。用例を見ると(1)は奈良・平安から使用され、近世になって(2)の用例が出現し一般用語として定着したようである。あらためて(1)の意味を噛み締めると、「愚かで思い迷い」することであり「理非(道理に合っていることとそむいていること)のわからない」ことで、「煩悩(心を煩わし、身を悩ます心の働き」の根元的なものと理解できる。現代語としての語義(2)に沿うならば、「仕方ない」「かえらぬ」「益のない」ことなのだ。

先週末は『心の花』創刊125年記念会にて、東京で多くの歌友に会うこともでき脳内の全てを短歌に向けられる誠にありがたくも爽快な時間だった。「おもしろうてやがて哀しき鵜舟かな」の芭蕉句を引くまでもないが、月曜から現実に戻った段差はあまりにも大きい。心のうちにいくつもの道があるが、いずれも霧で先行きの見通しが立たないような感覚に襲われている。その複数の道がそれぞれに混じり合い、錯綜をさらに強めてくるような状態である。だがどの道について語っても、それは「愚痴」にしかならないのではないかと自省するのである。だが僕には強い味方がいる、それは昨日にも記した俵万智さんの『アボガドの種』の歌たちだ。歌を読めば俵さんの日常にも、様々な苦労や悩みがあるのはわかる。だがその都度、歌にすることでそれは「愚痴」ではなくなる。125年記念会歌会の歌評で述べられた「人生を変える歌」とは、まさにこうして日常の愚痴を短歌で照らすことで昇華させることで生まれるのだろう。煩悩を溶かすための歌、それはまさに己の弱さを知ることでもある。

「くどくどと嘆くこと。泣き言。」
いやいや僕たちには「歌がある」のだ
「陽はまた昇る」ゆえに「歌を詠む」一日を人生として。


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「呼吸する土」ー今日大地を踏みしめたか?

2023-09-07
「世の道のすべてが舗装されゆかむ わが家の前の呼吸する土」
(伊藤一彦『新月の蜜』より)
窒息しそうな大地を思う

歌人・伊藤一彦さんの歌を読むといつも発見があり、自然の中でこそ生きられる人間の姿を考えさせられる。「自然」とは必然的に宮崎のそれに繋がり、僕の日々の生活を振り返る視点を提供してくれる。冒頭に掲げた一首は、第九歌集『新月の蜜』(2004年)に収められた一首。当該歌集は2005年に「寺山修司短歌賞」を受賞している。2007年には『呼吸する土 伊藤一彦歌集』が短歌新聞社から「新現代歌人叢書・60」として出版され、9冊の歌集からの自選歌集として掲出歌を書名としているのも特筆すべきだろう。学生時代を東京に過ごし、その後は帰郷して歌作を続けて来られた伊藤さんの「宮崎」を観る目を象徴するような一首である。

今日、あなたはどれほど「呼吸する土」を踏みしめるだろう?「宮崎」を語るとき「豊かな自然」と簡単に言うが、果たして何がどう豊かなのか?昨今は一夏を通じ、秋になるはずの今も豪雨のニュースが絶えないが、道路冠水の映像を見るたびに「人間が道路を舗装したから」だと考えたくなる。「呼吸しない道」は、雨を吸い込む力はない。宮崎とて僕の生活圏内では、未舗装道路は簡単には見出せない。決してないことはないのだろうが、敢えて未舗装に踏み込まずに生活できる。朝のウォーキングでは整備された公園ながら、意図的に草地を歩むことがある。舗装路と違って僕の足首・膝・股関節を優しく柔らかに受け止めてくれる。猛暑に豪雨、もしかしたら「呼吸しない道」を無尽に増やしてしまった人間の仕業かもしれない。

東京はさらに神宮の杜の再開発で
大地の息継ぎ場所を奪おうとしている
僕たちはいつから靴に泥が着くことを嫌うようになってしまったのか。


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「うた」は心に引っ掛かるもの

2023-09-02
宮大短歌会が選ぶ「若き牧水」の短歌
第1歌集『海の聲』から第4歌集『路上』まで
まずは選歌のベースとなる32首を選んでみて

1週間後となった特別公開講座「若き牧水から現代へのメッセージ」、今回は牧水がまだ大学在学中の22歳頃から27歳ごろまでの若き日の短歌を読んでみようという企画である。ゲスト若手歌人に牧水短歌甲子園優勝経験のある狩峰朗希さんをお迎えし、当時の牧水と同年齢の歌人が牧水をどう読むか?ということが聞けるという興味深い趣向にしている。また宮崎大学短歌会の学生たちは、どんな牧水の歌を好むのか?ということも知りたくアンケートを実施し当日にその結果とともに参加できる学生からコメントをもらう予定である。

あらためて「うた」に大切なのは、「心に引っ掛かる」ことだと再認識する。牧水もその歌論の中で語るのだが、「そうですか歌」ではいけない。一読して「そうですか」としか思えない「言葉の羅列」では、他者の心に停留はせず泡のごとく消えてしまう。馬場あき子さんのドキュメンタリー映画でハガキを瞬時に選歌していく場面は衝撃的であったが、特に忙しい時は「下の句」だけで判断するのは歌の生命としての「訴え」があるということだろう。果たして牧水の歌の「下の句」はどうなのだろう?などと考えながら、学生たちに選んでもらうベースとなる32首を選んでみた。下の句の「パワーフレーズ」について学ぶ機会もあり、あらためて自らの「うた」への姿勢が問われる気がしている。

共感・驚愕・意外などなど
講義でもそうだ!説明では学生の心を掴めない
「やまとうたは人の心を種として」あらためて肝に命じている。


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「生活・文化を志向する」ー短詩系学習の充実

2023-08-12
国語教育全国大会(日本国語教育学会主催)
豊かな言語生活を拓く国語教育の創造
ー「言葉の学び」への自覚が育つ単元学習の開発ー

2日間開催される国語教育全国大会、昨日記したように台風による9日の全便欠航(宮崎空港)で2日目からの参加となった。午前中「校種別分科会(小学校6)」の指定討論者を引き受けていたので、台風に巻き込まれながらも前泊できたのは幸いだった。分科会では短歌・俳句の実践研究発表が一本ずつ、十分な時間の中で発表・討議された。短歌学習では、宮崎県日向市立坪谷小学校の「牧水顕彰活動」を軸に据えた活動を、フィールドワーク調査から修士論文としてまとめた内容であった。さらには現在の勤務先である中学校での実践を加えたもので、いかに日常的に「短歌に親しむ」かが様々な工夫として紹介された。あらためて一般的な小中学校の学習においては「短歌の意味」ばかりに偏り「短歌の音楽」を疎かにしていることが浮き彫りになった。指導者自身が短歌そのものにどう向き合うか?感性と指導との関係は?また新聞コラムのような小さな活動を続けることの大切さなどが、討議を通しての学びであった。

後半の俳句指導の実践発表は、年間を通して季節観に併せて学校行事をテーマとしながら「俳句を小まめに継続して作る」実践であった。「2年間の実践による児童の変容」の中で「使いたい言葉をかっこよく表現できる」という感想も聞かれ、まさに「言葉のインスタ映え」なのだと指導助言で話した。TV番組や若者の短歌ブームなど社会は短詩系を求めている。この流れを「国語学習」に活かさない手はない。もとより「学習」というよりは、日常において「かっこよく言葉を使うという感覚」をもたらすことが大切なのではないか。また学部に入学してくる学生に「短歌づくり」の課題を出すと全体の5%ぐらいの人数が「俳句」を提出してくるエピソードも紹介した。小中学校教員そのものが、いかに短詩系2種類を差別化しているか?という疑問は一般の方々の社会的理解を見渡してもあやしい。「短歌は一首、俳句は一句」という数詞が違うことを含めて、「(歴史的・表現特性において)なぜ短歌と俳句は違うのか?」を教員研修次元で充実させてゆくことが大切だと考えた。短詩系を指導者が「添削」してしまう罪、「歌人はおしゃべり、俳人は寡黙、教師は文句言い」という名言も紹介された。日本の言語文化を社会と一体となり短詩系で創り上げていくような矜持と意欲が必要だろう。

児童の「五・七・五」に心(表現)の「七・七」を教師が付けるなども
「説明のわかりやすい言葉」と「心を揺らす言葉」を多層的に育てる必要がある
お二人の実践発表に日本の教育の未来が見えた。


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