やはりできるぞ温泉ののちー牧水『短歌作法』を倣って

2017-11-21
歌ができないとき
牧水『短歌作法』に曰く
「読書(音読)・温泉・そして酒」

学祭片付けのための休講日。朝から研究室に出向くか否かと迷ったが、外から機材撤収の音などが聞こえてくるのを懸念して、午前中は自宅で歌集など読みながら歌作に励んだ。ここのところ1階リビングの長机に座椅子という環境を、ほぼ「短歌用」に占有していて、其処に座れば歌集を読むことと歌作をするスイッチが入るように施した。これも自宅内のスペースを自由に活用できる特権である。こうした「場所」が、思考に与える影響は大きいように思われる。もちろん研究室も書籍や辞典類の揃えには長けているのだが、ここのところ事務的作業をすることが多く、短歌を作るにはズレた思考になっていることに先日気付いた。机いっぱいに歌集だけが積まれており座卓であるのも、身体性の「スイッチ」を入れるためには有効であると思う。

それにしても急にかなり寒くなった。部屋には石油ストーブの匂いが立ち込め、厚手の冬服を焦って衣装ケースから出した。肌は乾燥し始めるし、吹く風は痛く頬に刺し込む感じがする。午後になって研究室で少々仕事をしてからの夕刻、ジムに行くか迷ったが歌作の流れができていたので、再び座卓へ。だがなかなか飽和した頭では、納得した歌ができない。そこで冒頭に記した牧水『短歌作法』の一節を思い出した。「読書」でダメなら次は「風呂」、発想を変えるためにも車に乗って近所の公共温泉に向かった。いつもながら「常連」の顔馴染みとなった方々が、「源泉」(大きな浴槽より温度が低いが、含有物の濃度が高いのか疲労の回復具合が違うような気がする)で談笑している。まずは大浴槽に独りで浸かり歌のことなど、あれこれと考えていた。温もった身体はやはり新たな発想をもたらせてくれる。その後、「源泉」にも浸かって温度差を楽しみ馴染みの方々の四方山話に加わると、一気に思考が正常化したような気になった。今年は先月までの学会大会開催にあたり、運営上の苦しさの中で何度もこの温泉には助けられた。まったく違った仕事を持つ地元の方々と話すことを含めて、「温泉効果」は抜群のようだ。

風呂の中で歌ができたら「音読」して覚え込む
牧水は「慌てて風呂から上がって書き留める場合もある」と記す
風呂にぬくもり人にぬくもる、やはりこれでこそ「和(む)歌」なのであろう。


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和歌と短歌の文学史(Ⅲ)ー「空の会」講演

2017-11-15
今年で3回目シルバーケア短歌会にて
古典和歌について深く知りたいという希望から
「古今和歌集からなる修辞技法について」

心の花宮崎歌会で懇意にする方々が世話役をやってらっしゃる縁で、シルーバーケア短歌会「空の会」にて、3回目となる講演をさせていただいた。結社を超えて日常から短歌実作をされる方々が、県立図書館の図書振興室に集まった。実作はすれどなかなか古典和歌をきちんと学ぶ機会がないという声から、まずは「和歌と短歌はどう違うのか?」という素朴な疑問から始まった講演である。今年は『古今和歌集』からさらなる発展を遂げた「修辞技法」について、という要望により講演題を決めた。まずは前回までの講演の復習という意味で『万葉集』から『古今和歌集』のあいだが146年間あることに触れ、『古今和歌集』が長年の歌風の違う歌から選ばれた歌集であることを確認。この年数というのが、我々平成を生きる者にとって明治維新から今までの時間的距離に匹敵することを紹介。子規・鉄幹・信綱・空穂などと自らの歌との隔たり感が、万葉と古今の間にもある。その後「題詠」について、歌合や屏風歌、そして成熟した題詠歌たる『新古今和歌集』の歌なども紹介し、そのあり方について説明した。

「かきやりしその黒髪の筋ごとにうち臥すほどは面影ぞ立つ」(新古今・恋五1390・藤原定家)


後半はまず「枕詞」から。その語自らは一首の中で中核的な意味は成さないが、ある語を誘発する力には歌の原点があるようにも思われる。むしろ意味文脈を成す「被枕」を言わなくとも想起させる力は、現代短歌でも応用可能だと思われる。

「あしびきの山の夕映えわれにただ一つ群肝一対の足(佐佐木幸綱『直立せよ一行の詩』から)


「序詞」は複線的文脈を「同音反復」「掛詞」「比喩」という連結機で前後を繋ぐ歌となり、その複線文脈が微妙に響き合うのが特徴である。言いたい「思い」は限定的となるが、その景との交響を「遊び心」で多様に読めるような歌であれば、現代短歌でも応用可能である。

「風吹けば沖つ白波たつた山夜半には君がひとり越ゆらむ」(古今・雑上994・よみ人しらず)


「掛詞」は周知の通り、一語に二つの意味を含ませるものだが、あらためて「自然」と「人事」が掛け合わされていることに注目。「人目も草も」(人事・自然)「かれぬと思へば」(離れぬ=人事、枯れる=自然)ということである。

最後に「縁語」であるが、「一首全体の趣旨とは無関係」であるのを特徴とする。

「袖ひちてむすびし水のこほれるを春立つけふの風やとくらむ」(古今・春歌上2・紀貫之)

「袖」→「結ぶ」「張る」「断つ」「解く」(縁語関係の語)
    「掬う」「春」 「立つ」「溶く」(一首の文脈と掛詞関係にある)


以上、講演レジュメから一部を紹介した。
「短歌県」を目指すには、こうした地道な交流を大切にすることから
荒む社会の中で、年齢を超えた学びは実に尊いものである。


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あらためて和歌と短歌の文学史

2017-11-12
「和歌と短歌はどう違うのか?」
それなりの回答はあるのだが
いつも釈然としないこの問いの在り処は何か・・・

「心の花」宮崎歌会でも当初から冒頭に記したような問いを、ある方から積極的に質問いただいている。その問いに応えるべく、高齢者支援短歌会「空の会」が主催する講演会において、諸々の資料を引きながら、ここ2年ほど話をさせていただいている。今年も今週14日(火)に第3回目の講演が予定されている。先月の和歌文学会大会シンポジウムでもやはり、会場からの質問としてこの話題が持ち上がった。確か俵万智さんにその質問が為され「以前に高校で教えていた身からすると・・・」と前置きしつつ、「短歌とは元来、長歌・旋頭歌・仏足石歌など多くの歌体があるうちの一種類であったが、平安時代以降は短歌形式が一般化し定着し、近代になって正岡子規が旧来の『和歌』に対して革新的な『短歌』を提唱し、より私性を旨とする『近現代短歌』となった。」(僕の聴き取った主観を交えた内容を記したもので、ご発言そのものではないことをここにお断りしておく)といった趣旨の説明が為された。

当該シンポジウムでは、パネリストの内藤明さんの資料に「(古典)和歌と「(近現代)短歌を通底したものとして捉えられるか否か?」といった趣旨の疑義が示されており、深く考えさせられた。要するに「やまとうた1300年」と言うのは簡単であるが、それほど単純なことなのであろうかと問い返してみる必要があるのではないかということ。『万葉集』から150年の時を経て、平安朝になって「勅撰集」として登場してくる『古今和歌集』はその後、近代に及ぶまで規範と仰がれ続けたわけだが、その「規範」の内実は何なのであろう?「人の心を種として・・・」と仮名序で貫之は宣言しながらも、「私性」を観念的な修辞で蔽い隠し公の「晴の歌」とする作用に、「和歌」制作の絶え間ない追求が為されたのが平安朝和歌史ということにもなろう。代作的・題詠的な歌のあり方をよしとする、となれば「抒情」はいかによんだらよいのか。特に「恋歌」を考えたとき、『万葉集』相聞歌からの系譜も鑑みて様々に考えるべきことは尽きない。現代短歌においても「虚構」と「創作主体」の関係性の問題は時折噴出するわけだが、その議論を整理するためにも、「和歌と短歌の文学史」を今一度明確に整理する必要性を感じるのである。

今回の講演テーマは「古今和歌集の修辞」
その必然性・必要性を考えつつ
現代短歌への応用の問題にも言及してみようと構想している。


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対象の立場になって詠む歌よー第317回「心の花」宮崎歌会

2017-11-05
ワインに植物から地名まで
擬人化そして「擬物化」のことなど
相手の立場になって表現すること

第317回「心の花」宮崎歌会が開催された。前日に西日本文化賞を受賞された伊藤一彦先生はもちろん、そして俵万智さんも加わり活発な批評が展開した。個々の歌の批評に関しては、作者の「発表未発表」の問題もあるのでWeb上では控えるとして、特に気になった話題について覚書としておきたい。それは標題・冒頭にも示したように「対象の立場」になって詠むということ。「ワイン」であれば「ワインの気持ち」になって、「そのような場面で飲まれている視点」から歌を詠むということである。ある意味で「擬人化」の問題であるが、技巧的というよりも歌を詠む上での「心の温かさ」のようなものとして、作歌にも批評の上でも持っておきたい姿勢である。

眼にする植物に愛情を持ちその成長の行くへに思いを馳せ、置かれている状況を心あるように動作化する。天象自然がもたらす所業は人為ではどうにもできないが、その荒れたる状況にも自らへ寄り添う心を見出そうとする。また先日の和歌文学会公開講演シンポジウムでも話題となったが、反転した「擬物化」という視線も興味深い。人為的な行為を自然の光景のようだと喩えることは、まさに自然との親和性を重んじた牧水の歌にも通ずるものである。また人同士であっても世代間の語彙使用の違いに着目し、その行動の行くへに温かい視線を送る歌なども。こう考えてくるとまさに「擬人法」などという”技巧”としての小手先な発想なのではなく、「豊かな心」の問題なのであると考えられる。互選上位歌や伊藤先生の5選歌にしても、上記のような着想の歌であるのは、「温かい心」「自然への眼差し」といった点で宮崎歌会の大きな特徴ではないかとも思うのである。

かくして歌を学ぶ充実した宵の口
「としより」などという語彙の使用奈何に関する議論も
すべては温かくありがたき宮崎歌会ならではであろう。


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公開講演シンポジウム「古典和歌と近現代短歌ー研究と実作」

2017-10-22
「うたをよむとは?」
「よむ」は「読む」であり「詠む」でもある
やまとうた1300年の歴史という時に・・・

構想2年、パネリストを個々に依頼しテーマをどのように設定するか?宮崎でしかできない学会シンポジウムにするにはどうしたらよいか?様々なことを考えに考えて来た。これはパネリストを決めてからテーマを決めるというような段階的なことではなく、その顔ぶれから生まれる対話的な創造をいかに意識して組んでいくかといった作業でもあった。いわば一定の線の「見えている」「想定できる」結論を導き出すのではなく、まさにこの対話性そのものが創作的な意味合いを持つものかもしれない、などと考え始めていた。実に大きく捉えどころのないテーマ、司会を依頼した先輩たる先生にも、その焦点化しづらい内容において何度も何度も問い返されることもあった。だがしかし、シンポジウムを実際に展開してみて、この設定は間違いでなかったと、舞台袖で総合司会をしながら頷くことの連続であった。

「我々が万葉集の歌を読む時、新古今集も読んでいる頭で読んでいる」といった趣旨の内藤明さんのご発言には、あらためて誠に深い問題意識が芽生えた。それは伊藤一彦さんの基調講演でのご指摘「牧水の歌には万葉集の影響があると簡単に指摘されてきたが、実は香川景樹から学んだ平明な表現と韻律の影響が大きいと考えるべきではないか」という点に通ずるものである。シンポジウムでは牧水の「白鳥は哀しからずや・・・」の歌に関して、その読み方が様々な角度から捉えられた。歌が詠まれる上での「事実と真実」について、『文學界』連載の「牧水の恋」でその深さを精緻に読み解いている俵万智さんの指摘にも、歌の創作主体がどのような作用によって作品を生み出していくかを具体的に示してもらうような展開であった。小島なおさんは幼少の時、お祖母様から「銀も金も玉も何せむに・・・」の山上憶良の歌を刷り込まれるように聞かされたことで、その「銀(しろがね)」という語彙を活かした歌を創作したと云う。そして永吉寛行さんからは、小中高を通して歌を創作的に扱う実践や試みが紹介され、学校の授業が歌を解体して扱っている過誤から、むしろ歌の本質が見えてくるようにも思えた。総じて歌はまさに日本語における欠くべからざるコミュニケーションツールであって、それゆえに関わる人々を繋ぐという見解に、和歌研究者として実作者として、身の引き締まる思いがした。

まだまだほんの一部しか書き記し得ないが
この内容はいずれ学会誌『和歌文学研究』に掲載される。
やまたうた1300年の対話「一本の史の(不)可能性」の上で・・・・・


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雨ニモマケヌ歌ノチカラヨ

2017-10-20
いよいよ明日開催!公開講演シンポジウム
「古典和歌と近現代短歌ー研究と実作ー」
どうぞ多くの方のご来場をお待ちしております!

和歌文学会公開講演ジンポジウム


「けふもまたこころの鉦を
 うち鳴らしうち鳴らしつつ
 あくがれて行く」(若山牧水)

牧水の「あくがれ」を起点に「古典和歌と近現代短歌」について、あらためて考えてみたいと思います。1300年の歴史の中で「うたとはなにか?」という根本的な問い。明治期の短歌革新・滅亡論、その後の前衛短歌、この150年間において歌はどのように変遷し今あるか?研究者と実作者が双方の立場で意見交換を展開します。

「やまとうた1300年の対話」 in みやざき
どうぞご期待ください!!!
当日申込入場(無料)可能です。


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開催まであと1週間!!!「和歌文学会第63回大会」

2017-10-14
俵万智さんの登壇は2005年以来12年ぶり
宮崎県では初開催ー様々な縁の果てにいま
「全国の和歌研究者 短歌県みやざきに集う!」


もう2年以上も前のことである。僕が学部時代に日本文学専修の助手であった先輩から、「和歌文学会」の大会を宮崎で開催できないか?というお話をいただいた。先輩は研究学会の中で開催校を決定していく委員の長を務めており、学部の頃から「万葉集研究会」「古今集研究会」で親しくお付き合いのあった縁で、この大役を僕に配していただいた。研究学会においては他の分野のそれを含めて「平(ひら)」の委員は務めていたものの、「大会開催」の任を果たして担えるかと不安もあったが、折しも「宮崎県には短歌がある」と自分の中でも新たな出逢いとして次第に野望が膨らみ始めた頃でもあり、ありがたくお受けすることにした。そして最初に何をしたかと言えば、俵万智さんを大会シンポジウムのパネリストに招聘しようと動き始めたことだ。2年前、2015年の「牧水短歌甲子園」の会場で、休憩時間に廊下を移動する万智さんにご挨拶し、歩きながらもそのお願いの趣旨を伝えたのが懐かしい。それはまだ万智さんが宮崎に移住される前のことであった。

前述した文章に2名の人物が登場したが、ここにも旧交を温めるご縁がある。俵万智さんは僕の学部専修の1年先輩で、その当時のご友人らとは僕自身も親しい方々が多い。当然ながら万智さんが学部生時代の専修助手は、前述の先輩である。お話に聞くところによると、学部所属でない佐佐木幸綱先生に卒論をご担当していただくために、先輩は助手として万智さんの卒論をコピーして複製本を作成した思い出があると云う。既に万智さんご自身が様々な場で語っているが、テーマは「短歌連作論」ということ。なんと今回の公開講演シンポジウムでは、この先輩に司会者をお願いしている。当の万智さんは、現在宮崎にお住まいである。この偶然と言おうか、縁と言えばよいのか、誠に人と人と「和歌・短歌」の関係が面白い。ちょうど干支で一回り12年前は「古今新古今の年」(古今集撰集から1100年・新古今撰集から800年)の記念大会であったが、その折はやはり俵万智さんがパネリストとして登壇されていた。折しも僕自身は現職教員ながらの大学院生(博士後期課程)であって、博士論文に向けての研究発表を当学会で行なったという思い出もある。その会場は東洋大学、その地は当大学の附属校出身である僕の思い出の土地でもあった。などという個人的に誠に奇遇・奇縁の重なった和歌文学会宮崎大会開催まで、あと1週間となった。

公開講演ジンポジウム
「古典和歌と近現代短歌ー研究と実作ー」

一般の方の来聴大歓迎!!!


2017年10月21日(土)13:30〜17:00
           (開場12:30)

会場:宮崎市民プラザ・オルブライトホール(入場無料)


基調講演「若山牧水のあくがれーその歌言葉と韻律の特色」
伊藤一彦氏(歌人・若山牧水記念文学館艦長)
パネリスト:伊藤一彦氏・俵万智氏(歌人)小島なお氏(歌人)
内藤明氏(歌人・早稲田大学)永吉寛行氏(神奈川県立上溝南高校教頭)
司会:兼築信行氏(早稲田大学)
      

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その謙虚さぞやがてかがやく

2017-10-11
毎月の結社誌に掲載される歌
「これぞ」と思ったものが選ばれていないことしばしば
自分の姑息な作意や技巧に溺れてはいないか・・・

月初めになると所属する短歌結社から『心の花』誌が届く。前々月末に締切の歌稿で8首の歌を出している中から、ほぼ半分の4首ほどが掲載される。もちろんよい歌が並んでいれば5首採られることもあり、各選者が「特選」とすれば8首に近い数が掲載されることもある。毎月届いた際に封筒を開けて雑誌を取り出し、自らの歌がどのように採られているかを見る折は、一種独特の気持ちになるものだ。自分なりには「自信作」と思っていたものが採られていなかったり、予想外にさっとできた歌が採られていたり。先月号で佐佐木幸綱先生の「今月の15首」に採っていただいた歌は、まさに自分では「大穴」な感じであったが、同じ歌を見る人が見ればやはり、それなりに高い評価をしていたという伏線がある。などと考えるならば、まずはやはり「歌が読める」(よい歌と評価できる)ことが重要であり、幸綱先生のことばをお借りするならば、「自分の歌が読める」ことが誠に重要であると云うことになる。

「教育」とは本来は謙虚に一人ひとりの子どもたちに向き合う仕事である筈だが、往々にして教師というのは「自惚れ」やすいものだと思うことも多い。授業でも自分の思いを子どもたちに押し付けるだけの権力を持ち得るだけに、その傲慢に気付かず生活上においても権威主義的な態度になっている例も少なくない。それだけに自らの言動において、常に謙虚で客観的な視点が求められるものだと自戒を込めて痛感する。教師であればこそ「自らの言動を自ら読め」なくてはなるまい。さもないと自惚れた姑息さを、優れたものと勘違いしかねない。これは誠に危うく、慎むべきことであろう。短歌に向き合うと、こうした意味でも自らの傲慢さや表現力のなさを痛切に感じとることが日常的になる。「伝わるだろう」という思い込みでは、多くの人の共感は得られない。毎月の歌会や結社誌は、痛切にこうした謙虚さへ眼を向けることを教えてくれる。そう簡単には「自らの歌は読めない」ものである。「教師」は特に・・・・・

短歌表現をしない人生なんて
傲慢さは何で検証し改善したらよいのだろう
掲載された歌とされない歌を今日も「自ら読む」謙虚さがやがて輝きとなる。

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光る歌・自立する歌ー歌会に出詠するということ

2017-10-08
連作中の個々の歌の役割
説明的いわば詞書的な要素もあるうちで
歌会に出詠する際に選ぶべきものとは・・・

第316回「心の花宮崎歌会」が昨晩開催された。毎回40人以上の方々が歌を出し、参加者は東京歌会に次いで全国でも有数の規模である。これほどの出詠があると多様な歌があって、毎回諸々とその”読み”に考えさせられる。わかりやすい歌もあれば、どうしてもわからない歌もある。そんな混沌とした中からも様々な”読み”に対する意見が交わされ、その対話に参加して学ぶことは計り知れない。だが、どうしても気になるのは自らの歌の行方である。互選票が入るや否や、そしてどのように読まれるのか?どうもそのことに神経を遣い過ぎてしまい、他の方の歌において積極的な意見を出し切れていないのではないか。またこうした姿勢から、どうしても”構えた歌”を出してしまうことが多く、その結果「わからない」対象になってはいないか。昨日の出詠も、過剰な推敲の果てに状況の捉え所なき点ばかりが目立ってしまった、と反省しきりである。

連作を創ることは、短歌を詠む上で重要なのは言うまでもない。その連作の中でも、スター的存在というか「光る歌」が求められるということが、懇親会の席上で伊藤一彦先生からご指摘があった。「光る」ということは、「自立」していることでもある。そして連作の「モチーフ」たる横軸に貫かれており、目玉の「素材」を狩り取り、その「私(創作者)」としての「心」に発し「場面状況」に適した「韻律」に載せる、と理論上ではこういうことになろう。ここ最近、僕の場合は月に3回の出詠機会がある。「心の花宮崎歌会」の1回に加えて、「宮崎大学短歌会」の例会2回である。どうやらこの学生たちとの歌会の方には、あまり構えずに学生たちの年代に触発された歌を出すせいか、思いの外うまくいくことが多いように思っている。『心の花9月号』で「今月の15首」に選んでいただいた歌はまさしくそれで、「宮崎歌会」参加の方々からすれば意外な歌であったかもしれない。

構えず素直に1首を磨く(小欄での即詠を褒めていただいたりも)
再びこの混沌たる模索から立ち上がり
歌の果てしない道を旅してゆく


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はがき歌と多作の効用ー正岡子規の所業から考える

2017-10-05
「十四日、オ昼スギヨリ、歌ヲヨミニ、ワタクシ内ヘ、オイデクダサレ」
(正岡子規の「はがき歌」より)
日常語の中にある五・七・五・七・七などなど・・・

角川『短歌』10月号は「正岡子規生誕150年 和歌革新運動」の特集が組まれている。その中で坪内稔典氏が子規の「線香会とはがき歌」について寄稿している。子規が俳句と短歌を比較して「空間(俳句)と時間(短歌)」を詠むのに適しているとしたことや、短歌は「調子の美」(『歌話』)を感じさせるもので、俵万智の歌の用語使用に通底するものがあるとして、「竹の里人(子規のこと。稔典氏は子規ではなくこの呼称で呼ばれるのが本人にとって本望であったとして文中ではこれを通している。中村注)は明治にいちはやく現れた俵万智だった。」と文学史を反転させてこれを評していて面白い。さらに興味が惹かれたのは、後代がほとんど無視したものとしての「線香会」という歌会のこと。線香を一本立てて、その間にできるだけたくさんの歌を作るというもの。「線香が消えるという脅迫が緊張感を高め、火事場の馬鹿力のような何かが出る」のだと云う。多作をするということが意外な力を引き出し、無意識下に自分なりの歌ができる可能性ある歌会の方法である。確かに歌作をしていると瞬発性をもって作ったものが、キラリと光る作品となることもある。

もう一つ、「竹の里人」の所業で「後代が無視」しているものとして「はがき歌」を挙げる。これは冒頭に掲げたのが稔典氏引用の一例であるが、はがきの通信的文面が自ずと「五・七・五・七・七」になっているわけである。先日の宮崎大学短歌会で、丸ごと挨拶文のような歌が出詠され、歌全体をカギカッコで括るべきでは、などという点が議論になって大変面白かった。その歌作りの方法は、まさに竹の里人の「はがき歌」に原型があったのだ。いやいや稔典氏曰く「平安朝の消息としての歌がごく自然に蘇っていた気がする。」と感想を漏らす。となればこうしたまさにメッセージそのものが歌となっているものは、古典和歌のあり方にも通底することになる。竹の里人、いや正岡子規は、『歌よみにあたふる書』にて『古今集』や「貫之」を徹底的に攻撃したが、なにそれ平安朝の歌のあり方を明治期に掬おうとしていた(本人の意図はともかく)かと思うと、古典和歌研究者としては安堵した気持ちにもなる。今月21日の和歌文学会公開講演シンポジウムでも、こうした「歌のメッセージ性」は大きな議論の要点となるであろう。

歌作とは、構えずに日常生活の中にあるものだ
そして多作すれば自ずといい歌が生まれてくる
「うたとはなにか?」公開講演シンポジウムでの議論を心待ちにしたい。


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