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短時間豪雨の脅威ー温暖化対策は急務

2021-09-14
早めに夕食を終えて
大丈夫だろう?が油断大敵
道路の冠水が車庫に流れ込み・・・

今年も一夏、水害の報道が絶えなかったが、被害に遭われた方々の弁を聞くと共通することがある。「まさかこんな急に水が来るとは思わなかった」といった類の体験談である。誰もが「自分の家は大丈夫」と思っており、油断している果てに被害に遭ってしまうということだ。かなり長年にわたりその土地に住む人でも、今までの人生で遭遇したことのない経験であることを間接的に知るのである。だがそれは決して「対岸の火事」ではないことを、昨夜は体験した。早めに夕食を終えて、充実した宵の時間を過ごすつもりが次第に外の雨音が激しくなって来た。駐車場を接するお隣の方は用心深く、既に自家用車を近所のかなりかさ上げした施設の駐車場に移動したようだ。その施設を近隣の住民が利用してよいことは、このお隣さんから教えてはいただいてはいた。だがこの日は特に大丈夫だろうと思い込み、僕は自動車をそのままにして過ごしていた。我が家の駐車場は下げれば下げる程に家屋の床下と同様の高さまで斜度がつき、自家用車を高い位置で確保できること。車種がSUVのため最低地上高が高く、多少の水は大丈夫だろうという思い込みがあった。しかし、それはあくまで過信であった。

不安は持ちながら風呂から上がると、妻が「かなり厳しい」といった趣旨のことを言う。「まさか」と思いつつ車庫を見て見ると、自宅前の道路は縁石まで冠水し車庫のかなりの位置まで水位が迫っている。瞬時の判断で自家用車の運転席に靴の中に水が溜まるほどの中で乗り込み、5m以上高い位置まで暗い中を必死で運転操作をした。なんとか水が自家用車に触れない位置まで下げることに成功したが、未だ雨は小止みにもならない。市内には「大雨・洪水警報」から次第に「避難指示」までが出されている。Web上の地域別の現況がわかるサイトを見ると、居住地域は「真っ赤」を通り越して「真紫」な表示が為されている。所々に住民の方々の投稿書き込みも読めるのだが、「こんな雨は今まで見たことがない」という類のものが多かった。妻の友人からも近所で立ち往生している車がいる、などと情報が寄せられる。さすがに家の床下の高さまでは水が来ることはなかったので、僕の自家用車は事なきを得たが近隣の方々の自家用車が心配になる。それにしてもいずれは、もっと冠水の度合いが高くなる事態になるのだろうか?高台でありながら区画ごとに整備した造成地のため袋小路が巡らされており、T字路に近い部分では特に水が溜まりやすいという問題もある。それにしても、地球温暖化はまったく他人事ではない経験であった。

「国民の命を守る」という方々へ
地球温暖化対策が急務であることを肝に銘ぜよ
「経験したことのない」は気象庁の使用する空虚な官僚言葉でなく現実である。


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報道を観るための脳を考える

2021-09-09
ニュースの優先順位や速報の緊急性
では報道を観るための脳はどうあるべきか?
そこに隠された意図があることに注意深くなること

映像を一つ見ていても、報道と虚構のドラマは受け止める脳の領域が明らかに違う。だがここ20年ほどで注意深くならねばならなくなったのは、報道を鵜呑みにしないことだ。以前からそうした姿勢が必要なことは高校・大学から意識はしていたが、昨今は特にTV報道による「誘導」とも思える「世論づくり」が甚だしいように思う。未だに「専任」すべきと云うほど新型コロナによる医療逼迫や自宅療養、さらには子どもへの拡大など問題は山積であるはずだ。しかし、多くの報道がこれをトップニュースで報じなくなった。どのTV局がどんな順番で報道するか?ということに「劇場」的ともいえる意図的な「脚本・演出」を読むべきと考えている。ましてや「ニュース速報」の「あの音」にほとんど緊急性を感じない国民が作られてしまった。「宣言」「メダル」の「速報」を乱発した結果である。人間は「慣性の法則」を持った生き物であろう。

高齢の方々には「多様な刺激」が、認知症予防に効果的と聞いたことがある。TVを観る・新聞を読む・音楽を聞く・自然を観賞する・自ら文字を書く・声を発するなど、脳の多様な部分を多様に使うということだろう。僕たちでも意識してみると、多様な脳の使い方をしている。今こうして小欄を記している脳・短歌創作をする脳・評論を執筆する脳、かたやメールを始め事務文書を記す脳・会議に参加する脳等々、まさに多様であり一様ではない。最近感じるのは、身体の使い方も同様に多様であるということ。一定時間を歩く刺激・均衡や柔軟を保つ刺激・筋肉を鍛える刺激等々によって作用する脳も筋肉も心肺機能も違う働きをするはずだ。その均衡が実に大切であり、偏るとむしろ身体のどこかに支障をきたすことになるだろう。また食事を分散せず集中して摂ると急激に血糖値が上がってしまうように、均衡を保ち刺激を与えることも重要だ。もちろん日常の睡眠をはじめとして「休養」を取ることも脳や筋肉にとって不可欠なのはいうまでもない。

政治家も役者修行に勤しんだらしく
ここぞと「聖人」ぶった「脚本・演出」で真の顔を覆う
第1次小泉内閣から20年、少なくとも報道が「劇場型」である意識はもちたい。



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僕らがこの手で選べるものは

2021-09-06
コロナの状況も対策も何処へやら
「政局」の報道ばかりなり
僕らがこの手で選べるものは何か?

「コロナ対応に専念する」という理由で、党の次期「総裁選」に出馬しないと現首相が公表した。以来、TV・新聞などの報道はこぞって同党の次期「総裁候補」に関する政局報道に偏った。まず我々は、この報道のあり方そのものを疑わなければならない。党内の選挙と「両立できない」ほど困難な現況である新型コロナ対応であるはずだが、トップニュースはそれを伝えない。重症者数の増加は止まらず、窮している医療現場は少なくない。またまた「専念する」は、形骸化した言葉のみが使われただけだろう。国民の現実が置き去りにされ、永田町の党内政局だけが激しく動く。報道の流れからすると僕ら一人ひとりが「この手で選ぶ」ことよりも、政局の内幕の中で主導権を握った者がこの国という船の舵取りをする。長年にわたり見せられて来た図式、内幕で選ばれた舵取り役は、意のままの振る舞いが可能になる。首を挿げ替えれば、また支持率が上がるというように国民は単純だと思われている。

何せ「TOKYO2020オリ・パラ」で盛り上がれば、現政権への支持率が上がると考えられていたわけだから、僕ら一人ひとりが「手放しに乱痴気騒ぎをする」という過去の歴史から続く悪弊を省みねばなるまい。もちろんオリ・パラのアスリートたちの奮闘とは、まったく別次元で理性的であるべきだということだ。小学校で誰しもが習うことだが、この国は「政党政治」によって成り立っている。国民の支持が最もある政党が、国という船の舵を取る。いま「国民の」と書いたが、選挙の投票率を鑑みれば「国民の一部」というのが正しい表現だろう。投票率が上がらない中で、決して高い政党得票率でもないままに政権を委ねているのが現状だ。それでは僕らに「もう一艘の船」の選択肢はあるのだろうか。先日の横浜市長選挙では、実に多様な選択肢があり首相が推薦する人物が落選した。方法次第で僕ら一人ひとりが「もう一艘」を見出さねばならないのだろう。現況のTV報道などを観て「誰がいい」などと考える前に、もっと根本的にこの国の将来を考える時が来ているのではないか。

ある意味で支持する黒幕による傀儡(かいらい・操り人形)選びとの指摘も
その内幕ができなくなることを恐れて挿げ替えられる首
小学校で習ったように「僕らが主役」であることを忘れぬように。


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「無意味耐性」そうか!見覚えがあるぞ!

2021-08-13
「無意味なタスクを黙々とこなす人が出世する」
「上意下逹的組織では『イエスマンであること』が最高の美質だからです。」
(内田樹氏のTwitterより引用)

「現代日本人は『無意味な言葉』にも『無意味な仕事』にも生理的に拒否反応を示すことができなくなってしまったのでした。」(再び内田氏Twitterより)以上のような書き込みに、思わず「そうか!」と納得をした。現況の日本における感染爆発、世界にこの国の社会的体質を露わにしたTOKYO2020、そして広島平和記念式典での「読み飛ばし」という考え難き醜態、内田氏のタイムラインには、他の識者のTweetも引用されつつ、明晰なことばで現況の日本社会が映し出されている。「内容を伝える」ことが目的ではなく、「与えられた原稿を読む」ことが上に立つ者の職責、「読み飛ばし」をしたことにも気づかず「読み」続けた人物のあり方は、ある意味でこの国の組織的体質を象徴的に物語ったということだろう。文章の前後の脈絡が続かないことは「原稿」を知らない私たちでもすぐに「わかった」のだが、「読んでいる」本人は気づかないのである。自らの心そこにあらず、「無意味」な言動をもっともらしく無機質に機械的に「続ける」のが「美質」というわけである。

肝心な問題の本質に蓋をして、その場その場で「誤りを正しいと思い込ませる」ことを「詭弁」と呼ぶ。「ごんべん」に「危うい」まさに漢字の語義からも「いつわる。あざむく。たぶらかす。」と漢和辞典にある。眼前にある事態に対してどのように対処したら、どういうことが起こるか?その多様な分析力・想像力を排除して、短絡的・妥協的に物事をあらぬ方向に進めてしまう。いつまでも問題の本質は放置されながら「仕方ない」がくり返されるので、まったく困らない当事者と困窮を重ね続ける「意味を理解できる人」の並行線の図式が続くのである。最近は感染拡大の様態が「災害級」であると、危機感を露わにする専門家がいる。各地で大雨も続くのだが「自らが身を護る行動を」という状況と等値な事態とも言えるであろう。裏を返せば、「人流を減らさないと拡大は止まらない。」という裏には、「あなた方国民一人ひとりが行動しないからですよ」という感染対策の放棄と責任転嫁のようにも聞こえてくる。東京都の首長などは、特にこの傾向が顕著だ。ならば我々国民一人ひとりが、「無意味」に慣らされない日常を取り戻さないとこの国の未来はないのではないだろうか。

問題の本質を突く発言を忌憚なく
選挙の投票率にも「無意味耐性」が露わに
言いたいことを言え!!!さもなくば問題は解決するはずがない。


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僕らが背負ったものと新しい芽

2021-08-10
TOKYO2020開催費用約3兆円
国・東京都・組織委が分担して支出
ただでさえ世界の借金大国が大丈夫なのか?

2週間後の8月24日からパラリンピックの開催があるので、未だ道半ばである。あくまで偏らずトータルに考えねばならないのだが、気にせずにはいられない数字がある。冒頭に記したようにTOKYO2020の想定費用が1年間の延期も相まって、膨大な額になっているのだと云う。支出するとされている組織同士の擦り合いも顕在化しているが、東京都民は1人あたり10万円を負担する計算になると云う。試算上の話題としてある報道番組が紹介していたが、新型コロナ専用病院施設を約300ほどは建設できるのと云うのだ。都市部を中心に「自宅療養者」が問題視される中、短絡的に結びつけるべき問題ではないにしても深く考えさせられてしまう。確かに僕らはこの17日間、「希望と勇気」を多くのアスリートから受け取った。他者には決してわからぬ苦闘を重ねて競技する姿から、この1年半においてこの国で誰もが見せられなかった「光」を感じさせてくれた。だが幼い子が費用を気にせずに物見遊山に興じるようにもしていられない、深刻な国の台所事情があることも肝に命じておかねばなるまい。

五輪しか扱っていなかったワイドショーが一転して、新型コロナ感染拡大が深刻だと寝返る。メダルを獲得した選手たちがワイドショーを足場にして、バラエティー番組に出演し次第に「アスリート」ではなくなってしまう。メダル獲得選手の地方自治体への表敬訪問なども、下賤な行為が悪気もなく行われたことでその意義が問われている。閉会式で古関裕而作曲の「オリンピックマーチ」が聞けたことは、東京1964の遺産的な回顧として喜ばしいものかどうか?複雑な思いを抱く。ましてや会期中に広島原爆投下から76年目の8月6日があるにも関わらず、「平和の祭典」はまったく見向きもしない冷徹さを露わにした。社会を揺るがす大事件があるごとに、「この国は変わらなければならない」と呪文のように唱えられるが、ここ毎年頻発する水害や東日本大震災があっても、決して「変わることのない」縛りがこの社会を覆っている。(いつのまにか「復興五輪」ということも誰も言わない)それは、76年前の大禍があっても同じなのは、この年月を費やしてようやく「黒い雨訴訟」に光が見えたことで明らかである。明治以降の西洋文化の急激な吸収の後遺症、いや、中世以降の武家社会による忠義的な集団一斉の呪縛と言ったらよいだろうか。メダルが「御恩奉公」の証であるかのような、指導者の「選手がよくやってくれた」という無意識の支配から、もういい加減に解き放たれる必要はないのだろうか。

メダルではなく「挑戦の尊さ」を讃える選手同士の姿など
規制の「この国」のやり方が破綻していることを自覚すべき
新しい芽を伸ばしていくのは、この五輪を経験した僕ら一人ひとりなのである。


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あくまで平和の祭典として

2021-07-21
「クリスマス」「ハロウィン」「バレンタイン」
本質的な意味を忘れた乱痴気騒ぎになってきた社会
あらためて「平和」を誓うための機会として

いま僕の命があるのは、誠に奇跡的なことだと思うことがある。76年前のかの大戦で多くの人々が犠牲になり命を落とした。その際に何とかして「つないだ命」によって、僕らには「生命」が与えられた。僕の父などは子どもながらに「機銃掃射」を受けて、かろうじて近くの家に飛び込んで命を「つないだ」のだと聞かされたことがある。「その時もし」を想像すると、かの大戦は他人事ではなく僕自身も「戦争体験者」であるように思っている。子どもを上空の圧倒的に優位な位置から鉛の弾丸で撃ち殺そうとする狂気、そんなことがこの地球上にあってはならないといつも思ってきた。恋し合い愛し合う人々が戦争の狂気によって引き裂かれる、その悲惨さを当事者意識を持って語り継ぐ必要がある。「日本の恋歌ー和歌短歌と歌謡曲」では、講義終盤のこの時期に毎年、このようなテーマを考えてもらっている。「生まれ変われたなら また恋もするでしょ」(サザンオールスターズ『蛍』)を課題曲として聴きながら。

かの大戦の反省を噛み締め平和を誓い、戦後復興が為されたことを世界に表明したのが1964年(昭和39年)の東京五輪であった。世界的な祭典ができる人々の力、そしてアスリートたちの活躍に多くの人々が勇気をもらったことだろう。57年前の「TOKYO1964」には内外に大きな意味があったのは確かだ。その記憶はない僕は、その後幼少の頃から五輪を観るたびに「平和」のことを考えていたように思う。だが五輪でのテロ行為やボイコットなどを知るたびに心を痛めてきた、果たして「平和の祭典」は名目だけなのかと。そして特に1990年代頃からの際立った商業主義的な雰囲気の漂う大会に少しずつ疑問を抱いてきた。その内幕が今回の「TOKYO2020」で暴露されつつある。あらゆる意味であくまで「平和の祭典」であるべき大会。この大会を敢行することが「新型コロナ感染」を克服したことに直結するのだろうか?片や人々は東京で「緊急事態」の生活を強いられながら、世界にだけ良い顔をする体裁と建前の大会になることを懸念する。「平和」は決して建前や体裁では創れないからである。冒頭に記したように、明治以降に西洋の行事を本質を無視して取り込み、乱痴気騒ぎをしてきたこの国のかたち。僕たちは何を祈り、この祭典を見守ればよいのだろうか?

厳しい状況には目を瞑り
突き進む先に何があるのだろうか?
「つないだ命」を思いつつ冷静な目を失わずにいようと思う。


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監視・管理は豊かな創発を生み出さない

2021-06-17
「授業」における監視・管理は仕方ないのか?
抑制された身体・思考での音読・感想文・文法
この国の「豊かさ」を取り戻すためには・・・

「国語」授業で嫌だったことを学生らに問うと、「音読・感想文・古典文法(暗記)」などが挙げ列ねられる。しかしよくよく考えてみると、やり方次第で豊かに実践できる内容ばかりである。創造的な「音読」、創発的な「感想文」、読解の欲求を得たのちの「(活用できる)文法学習」とすれば、学習者はかなり主体的に学びは豊かになるはずだ。それがわかっていながら、なぜ学校の「授業」は創発的にならないのだろう?考えるにそれは「監視・管理・一律・一斉」などを旨とする集団教授の幻想から、授業者が抜け出せないからではないか。「集団」を監視・管理することが重要であり、個々の思考や多様性が踏み躙られる。「自由」をひとたび与えてしまうと「収拾がつかなくなる」と考えて、授業者が「管理」できる範囲に押し込めておくので創発的な要素まで萎縮させてしまう。「先生」の考えに「反する」のを嫌い、「先生」の個の考え方を「正解」として押し付け、隷属的な支配をすることで「授業(あるいは学級)」をまとめた”ように”見せかけるために権威的になる。「音読・感想文・文法」はこうした構造で押し付けられる。

内田樹氏がTwitterに「人は管理されていない方があらゆる領域で創発的になる。」と記していた。そして現在の「日本の没落」こそが「監視と管理を最優先する政治」だからであると云うのだ。「1966年から70年の日本は大学は全共闘運動でカオス状態」であるとして、多様性のある社会こそが「平均10.9%という驚異的な成長率を記録」したのだと続ける。「昭和がよかった」という時にそれは単純な懐古的な発想ではなく、混沌とした多様性と自由を求める市民の主体性があってこそ、むしろ権力側を監視することができて均衡が取れた力のある創発社会であったということだろう。若者に活力があるのも主体性があり政治に関心が深いのも、混沌とした多様社会で自由に泳げる豊かさがあるからなのだ。標語の上では「多様性」を求めながら、むしろ監視・管理を強める社会こそが、若者の活力を去勢し本来は底知れぬ力を表面化させず内に籠らせてしまう。その結果、周囲が「思いもよらなかった」とする事件などとして暴発してしまう。創発への豊かなアプローチができない若者を批判する前に、こんな監視・管理社会を作っていることを恥ずべきだろう。

内田樹氏の「予言しますけど・・・
日本の没落は終わりませんよ。」
身近な講義をまずは創発的にするために力を尽くそう。


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あらためて自然

2021-05-28
川は流れる方向を定めていない
諸条件・諸要素の影響を受けて湾曲する
逆らわず自然に委ねるが、計り知れぬ力を持つ


近現代という時代は「自然」に逆らい、人間がその欲望のままにあらゆるものを可能にしようとして来た歴史でもある。大空を速く楽に飛びたいという欲望も、遠くにいる人と簡単に情報交換をしたいという欲望も、季節や諸条件に左右されない食事を簡単に手に入れる欲望もほとんど叶えて来たわけである。その結果、「速さ」を重んじ天候に左右されない「一定」を当然だと思い、社会的な時間を制御しているつもりが「拘束」されるという自己矛盾の中に身を置くことになった。あらゆることが「自然」に逆らう行為であるにもかかわらず、自覚なき倨傲の中で自然の逆襲にも気づかないのかもしれない。

人類の歴史は「感染症との闘い」であると、公衆衛生等の研究者は云う。この100年間、天然痘の撲滅など人類はその闘いに終止符が打てるはずという幻想に酔って来た。我々が身近に接していた麻疹やインフルエンザは医療で克服でき、時代とともに海外渡航の際にも諸々の予防注射をしないでもよい時代だと思い込んで来た。だが、それそのものが大きく「自然」に逆らうものであったことを誰しもが忘れていた。危機を唱え予防を訴える学問や表現を歪んだものと切り捨て、人権を軽視し差別が横行する。情報を制御することで強引な力を内輪として護り、周囲と敵対して自らの正当性のみに目を向けさせようとする。この「反自然」の態度に引き摺られ、己の脆弱さに目を背けている。新型コロナはそんな近現代の傲慢を国ごとに炙り出し、個々の向き合い方を露わにしたと言えそうである。

川が一直線だと人は生きる土地を失う
多様な抵抗や摩擦もあって曲がりくねるのが自然
ああ、川の流れのように。


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「国民的」と云う欺瞞

2021-04-27
「国民的・・・」と語られた時
果たしてその本質は何なのだろうか?
新型コロナが暴いた「個人」や「我」

若山牧水やサザンオールスターズに、「国民的」と云う形容がつけられることがある。近現代短歌史に欠くべからざる歌人として、全出版社(高等学校)の教科書に短歌が掲載されれいる牧水。43年間にわたりヒットチャート上位の曲を創り続け、Jpopの先端を走り続けて来たサザン。国民の多くが知り得るという意味において、そのように語られるのだろう。過去には最大視聴率が50%を超えたことのある「8時だよ!全員集合」なども、「全員」の響きよろしく「国民的娯楽番組」と言われた時代があった。だが視聴率が「50%」で「怪物番組」なのであり、単純に考えて「半数」でしかない。「視聴しない」という個人も半数はいるわけで、「国民的」と呼ぶのは強引であると言わざるを得ない。現に僕の学校の級友や従姉妹なども、家庭で「全員集合」の視聴が禁止されていた。そんな「個人」の考えが背景にあっての「国民的」なのである。

「国民的」とすぐに言いたがる体質は、明治時代に由来する。幕末から明治の世の中を迎えて、各藩が「国」であった世の中が「日の本」の統一した国に大きく転換した。「尊王攘夷」の思想のもと、「夷狄」(外国人を野蛮と卑しめて呼ぶ語)と呼んだ外国船の渡来は「国」の観念を一変させた。(今年の大河ドラマを観るとよくわかる)幕末の志士は各藩の方言で喋るゆえ、なかなかコミュニケーションもままならなかった。そのために新学制が明治33年に制定され、「国語」という教科が誕生した。「令和」に改元される際に典拠として話題になった『万葉集』が「国書」であり「国民的歌集」だと喧伝されたのは、この明治の方針に由来するものだ。既に僕ら多くの研究者は、『万葉集』を「国民的」とは思っていない。明治政府が「国」を「形」にするために「国民的シンボル」を作り出し、半ば強引に民に押し付けたともいえよう。

明治から153年目の今日、新型コロナがこの社会をあらためて暴き出している。都市部での緊急事態宣言、地方でも感染が急拡大している折ながら、「(国民的)聖火リレー」が宮崎にもやって来た。感染対策は「各藩の大名」がやってくれと言うが如く、地方自治体の長に委ねられている。いくつかの県知事は感情を露わに、「中止」に言及する会見を開いたりしている。歪極まりない「この国のかたち」、世界もまた危うさを含有するゆえに「国」として過剰に権力を行使するところが目立つ。今日向き合う「ひとりの学生」を尊重するように、「個人」が何よりも大切にされるのは何世紀になったら成し遂げられるのだろう。

あらためて考えたい「国民的」
僕らは社会の何を信じたらよいのだろう?
明治以降の社会に生きるという視点で考えたい。


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安全第一のオリンピック

2021-02-19
透明性らしき茶番
「必ず開催する」の危うさ
もとより「東京」であることの不公平感

組織委員会会長の一連の発言・釈明・辞任・新会長選出を、僕たちは本番の5ヶ月前に見せられている。ただでさえ感染拡大という世界的問題がある中で、もし他国でこのような開催国事情を見せられたらどのように思うだろうか。男女平等は基本中の基本であるが、公平に評価されるべきスポーツが政治に関わり恣意的な臭いを放つことそのものが、いかがなものかと思う。遡れば開催地候補に「東京」が決まる経緯、招致に関する賄賂の疑念、国立競技場の建設問題、エンブレム騒動等々、この「東京2020」が抱え込む「呪い」のような構図は最後まで払拭されずに延期と直前の騒動に至っている。

片や島根県知事が「聖火リレーの県内中止案」を提言した。理由は大きく2点、自県は必死の感染対策を実行してるのに、開催地である「東京」の感染対策の杜撰さを改善して欲しいという点。また緊急事態宣言発出都道府県には飲食店をはじめとする補助金が国から支出されるが、宣言が出ない県で国からの補助がない実情も非常に苦しい。そんな中で「聖火リレー」に費やされる「・・・・千万円」を県から支出することは困難だとう点であると云う。島根県知事の会見では「聖火リレーをやらせてやる、やらされる」といった中央との関係も切実な現状として吐露された。考えるに元よりオリンピックの為に「東京」だけが優遇され特別視される状況そのものに、この国の歪みが見えるのではないか。

「どんな状況でも開催する」という無謀な思い込み
撤退する勇気を持たない閉鎖的な判断が悲劇を生んだ歴史がある
新会長の「安全第一宣言」が本質的なものであるかが世界に問われている。


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