暗闇があまりにも暗いとき

2018-04-06
「暗闇が深い時こそ、星が輝いて見える」
(キング牧師の演説から)
「私には夢がある」だが今は何なのだろうか?

あまりにも暗澹たるニュースばかりで、思わず涙ぐんでしまった。政治家は隠蔽体質の責任を官僚に押し付け、知らぬ存ぜぬ確認します。尊い命への応急処置に際し、確固たる「伝統」とも思えぬ旧弊を振り翳し慈愛の心を踏み躙る。102歳で原発による避難を強いられ転居を断り自死したという男性に対する電力会社との訴訟で、男性側が勝訴したというが尊い命は戻らず。そして極めて低俗的にも、プロ野球の応援席で広島カープに対して相手方の球団を応援する側から「原爆落ちろ」の野次的なコールが。もうこの日本社会は、僕たちが気づかないうちにその腐敗度合を、深刻な危険水域まで深めてしまったようなことばかりである。

米国ではキング牧師没後50年、1968年4月4日牧師はやはり銃弾に倒れた。「私には夢がある」多くの英語教科書にも掲載された有名な演説。日本語に訳すのも憚られるほどの、訴える力を持った演説の映像・音声である。だがその「Dream」が今や横暴な為政者の出現で、時代を逆行してしまっており米国社会の分断はやはり深刻な影を落とし始めている。横暴さは限度を知らず「教師が銃を持て」と銃規制どころか、暗闇を招く発言を平然としてしまう。だが全米各地で高校生を始めとする若者が立ち上がってデモで訴える姿は、聊か救われた気持ちになる。キング牧師のお孫さんも切実なる演説で祖父の言葉を引用しながら訴えた。そう、やはり希望は捨ててはいけないのだ。横暴を許すのは、僕たち一人一人であるとあらためて自覚すべきかもしれない。

闇を見よ星は輝く
己がどこまで闇の中にいるかを日本人は特に自覚しない
天が崩れ落ちて来ることはたぶんないのである。


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6分20秒を体感せよ

2018-03-26
米国高校の銃乱射事件
全米で若者たちの銃規制を求めるデモや集会が
事件のあった高校の生徒のスピーチの訴え

そのスピーチはいきなり止まり、沈黙の時間が流れた。悲しみに声に詰まったわけではない、訴えていた高校生は静かに「6分20秒」が経つのを待ったのだ。その時間はフロリダ州での事件で、実際に銃乱射が続いた恐怖極まりない時間であると云う。僕たちは何もなければ、あっけなくただのうのうと過ごしてしまうほどの時間の長さである。だが当事者の恐怖と心痛と動揺を想像してみるがよい、耐え難く長く苦しい時間であったに違いない。いや、こんな端から空虚な想像を絶する時間であったに違いない。繰り返される米国の銃乱射事件、巷でも起こり得るべきことではないが、過去を振り返っても高校や大学という教育現場での悲劇が後を絶たない。

策なき愚かな為政者は「教師が銃を持て」と叫び、こうした事件の元凶たる構造を煽り立てる。元来が移民の国であるアメリカ合衆国では、開拓の時代に自らの身を護る意識が過剰に醸成され、正当防衛としての銃が一般化してしまっていると聞く。もちろんそれは、全米ライフル協会と政治関係者とのパイプという利権構造の上に立った物語作りに過ぎない。対処療法的な銃規制では効果は少なく、こうした元凶を改めなくてはならないだろう。今まさにトップに立つものがこの元凶な傾向の発言を繰り返す、ゆえに大きなチャンスが巡って来ているのかもしれない。そこで全米で高校生らの若者を中心にした反対運動が巻き起こっているのは、誠に頼もしい限りである。冒頭に記した高校生のスピーチ方法一つとっても、果たして日本人の高校生がこの発想に至るだろうかと思ってしまう。若者の表現力は、その緊迫した社会を写し出している。

自分だけ身を護ればいいのか?
為政者はまさにその立場だけで生きている
「私には夢がある」さらに全世界の若者よ声をあげよ!


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なげけとて野分やものを

2017-10-18
「なげけとて野分やものを思はするかこつ間もなき我が涙かな」
台風21号の憂鬱
なぜ?と問うても仕方ののない自問自答

まったくどうなっているのかと思えてくる。新燃岳が噴火や小康状態を繰り返しているのに加えて、台風21号が南海上からこちらを睨んでいる。自然の所業ゆえ考えても仕方のないことだが、それにしてもこの重なりは何なのであろうか?2年前からの和歌文学会大会計画の中では、他の学会との日程重複も考慮しつつ、宮崎市内で大きなイベントなどが開催されることもなく、そして10月下旬にもなれば、たぶん台風の心配などはしなくてもよいだろうと思案に思案を重ねて決定したものであった。それが開催期日が近づくにつれて、自然の悪条件が湧き出るように噴出して来た。今月の初め頃までは、秋晴れの下での開催を想像していたものである。だがしかし、気象予報では「21日以降列島接近」などという「予測」を受けて、Web上では「直撃か?」などの憶測が飛び交い、自らの憂いは甚だしく増す。

何よりこの「予測」というのが、誠に胡散臭いとも思えてくる。諸々と調べると「予測」にも世界を視野に考えれば、多くのそれがあって「気象庁発表」はそのうちの一つに過ぎない。特に最近は、「責任論」を回避するためか異常なまでに「危機を煽る」かのような予測が為されるものだと、この5年ぐらい違和感を覚えていた。懇意にする東京のワインバーの店主は、「大雨(大雪)などで早く帰宅した方がよい」などと天気予報で語るのは「営業妨害」だと憂いていたのが思い出される。「危険回避」は前提であると思いながらも、個々の人にとっては大切な日々を生きているのである。「予報」「予測」はあくまで”作られた情報”であることを忘れてはなるまい。自然は人が捕捉できるものではあるまい。となれば巷間を飛び交う「選挙予測」などというのも、誠に注意深く見聞する必要がある。憂えるのはその「予測」でもって既に”決まった”かのような「空気」が醸成されてしまうことだ。開票速報での午後8時直後の「当確」や勢力図の表示などとともに、有権者を愚弄するのもいい加減にして欲しいものである。(いま「当確」を変換時、第一次候補に同音異義語が出たのをここに書き添えておく。)

何もなきように大会開催に進む
今考えるのはただそれだけである
「予測」が大きく外れるのを願う社会とは何なのだろうか。


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再読「藤田省三」今こそー「花粉症ゼロ」に考える

2017-10-07
公約など比較してみれば
「12のゼロ」などが気がかり
思わず「藤田省三」の著書を再読する

急な解散総選挙となり、関連した報道が喧しい。個人的には2年前から計画してきた自らが開催校の和歌文学会当日が、投票日とされて迷惑千万この上なきである。それにしても、あれだけ危機を煽るように報道されていた北朝鮮のミサイル問題や政治家・芸能人の不倫報道、ましてや森友・加計問題などはどこへ行ってしまったのだろう。選挙という喧騒で国中に煙幕を張り、すっかり全体を覆い隠し、本質的に何が問題かなどという精緻な思考を麻痺させてしまうような作用が列島を席巻してしまっている。そんな中で急ごしらえの新党が、それらしい公約を掲げて「国民のため」を訴えようとしている。我々はそれらを冷静に公平な視点で思考を働かせて鵜呑みにせず、注意深く拒む姿勢を忘れてはならないように思う。調子のよい話ほど、危いのは世の常である。

ある党が公約に掲げた「花粉症ゼロ」が大変気になった。今や「国民病」とも言える罹患率の高さゆえ、ここに目をつけたのであろうが、「アレルギー」を「ゼロ」にするという発想そのものが大変危ういのではないかと思ったゆえである。対象の本質を十分に検討もせず、政治的な判断で「殲滅(ゼロ)」にしてしまう発想は、今に始まったことではあるまい。思わず、藤田省三「全体主義の時代経験」(1995 みすず書房)を再読してみた。そこには「二十世紀は全体主義を生んだ時代である。」として「戦争の在り方」「政治支配の在り方」に加えて「生活様式」の「お互いに異なった三つの形態をとって相継いで現れ続けている。」と指摘している。どうやらそれは今も「現れ続けて」いるようだ。特に三点目の「生活様式」については、「通常の社会意識の中では、『経済中心主義』の一環であって、従って平和主義的なものであり、前二つの暴力的『全体主義』とは反対のものと思われがちである。」と藤田は云う。それだけに「花粉症に生活様式上で悩む国民のため」という「平和主義的」に”見える”ことは、その反転を考えておかねばなるまい。「政治支配の全体主義」を考えた時、それは「難民の生産と拡大再生産を根本方針とするものであった。」という藤田の指摘が、今や「生活様式」の中で反転され「平和」という顔をしながら我々の「思考」を奪いつつあるのではないか。元来、十分に原因も究明されていない花粉症は、恐らくは「経済中心主義」による環境破壊と豊かさの錯誤から生じた「20世紀型疾病」であり、「政治支配」とも無縁ではあるまい。まさか国中の「スギ」を「殲滅(ゼロに)」しようと思っているわけではないだろうが、反転すれば誠に恐ろしい「思考」であり背筋が凍る思いである。

最後にこんな藤田の指摘も再読しておこう
「経験を欠いた欲望は無闇に昂進する。戦闘経験を持たない者の戦闘意欲は、実態の苛酷さという抑制の根拠を内部に持たないために、徒にひたすら燃え上がるばかりである。」(前掲書P26)


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上に立つものの信頼とは?

2017-09-26
こちら側に都合がよく聞こえて
建前を建前で上塗りするようなことば
上に立つものの理性とは・・・

小学校低中学年ぐらいまでは、いつも〈教室〉で気後れしていた。早生まれということもあろう、幼稚園などでは集団行動ができずに、確か「ひよこクラス」などと呼ばれる中で馴染むための時間に参加した。「右向け右、前へ進め」と言われても、一人だけ「左」を向いていた、などと未だに母によく言われる。そうした〈学級〉という「小社会」の中では、必ず理不尽なことを言う輩がいるものだ。「ドラえもん」の「ジャイアン」に典型的なように身体が大きいとか、あるいは声が大きいとか、家が金持ちとか・・・。子どもなりの何らかの権勢を傘に着て、自分の意のままに振る舞うのを、所謂一つの「ガキ大将」と呼んだ。こうした輩に必ず僕は圧倒されていたのだが、心の中では必ず「こいつの言っていることは矛盾している」と、子どもながら常に思っていた記憶がある。

その「矛盾」は「子どものみ」だと思っていたが、「大人」になってからもあることを次第に知った。中高現職教員という社会人として「組織」の中で働き始めると、やはりまた子どもの時には考えられないような正論を翳した「矛盾」に出会うことになった。「子ども」ならば「理不尽」は「理不尽」で「可愛い」ものである。「ジャイアン」は、決して真に嫌な奴ではない。問題なのは立派だと思われる「大人」社会の「理不尽」である。上に立つものとは、子ども向けヒーロー物の「隊長」のように、求心力があって信頼が置ける訳ではないことを知った。社会人は(特に日本社会の)社会人なりの「上に立つもの」の条件があるようにも思えて来た。才覚や人間性ではなく、社会を上手く泳ぐものが、必ず上に立っている。だがこの「上手く」という語感に限りない「理不尽」を「大人」になっても、いや「大人」であるからこそ強くこの上なく嗅ぎ取るのは、果たして僕だけなのだろうか。

上に立つものが際限なく幼稚になった
だがしかし「ジャイアン」にも及ばない
隠された「理不尽」を注意深く拒むのは僕たちなのだ。


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「なぜ戦争はなくならないのか」ー金子兜太の一言

2017-08-11
「ここ青島鯨吹く潮われに及ぶ」
(青島海岸・金子兜太の句碑から)
ただ一言「『物欲』の逞しさです。」と

角川『短歌』8月号の別冊付録に「緊急寄稿 歌人・著名人に問う なぜ戦争はなくならないのか」がある。小冊子ゆえ最大12行ほどの語数で、何人もの歌人・著名人がこの「問い」に答えている。そんな中で御歳98歳になる俳人・金子兜太さんは「一言で答えさせてください。『物欲』の逞しさです。」で始まるわずか3行の文を記している。さすがは俳人、この素朴な答えにはむしろ大きな説得力がある。「物欲」は自ずと「金欲」をに連なり、豪奢が豪奢だと自覚できなくなる負の連鎖が生じ、他人を傷つけても自らが物理的に「得」をする方法を選択してしまう人間の弱さが垣間見えてくる。

金子兜太さんは、「あらゆる欲のうちで最低最強」と続け、「制御不能」で「付和雷同」を生みやすいゆえに、「人間の暮らし」が「武力依存を募らせる因」であるといった趣旨を記す。考えてみれば、現代社会で「不安」を覚えるすべての事例が、こうした点に根本があるようにも思われる。少なくとも文学に向き合えば、「物欲」が「最低」であるということに気づくことができ、「制御」しつつ他者に左右されることなく確固たる「自分」を持つことができる。そして「自分」を持ちつつも、それが傲慢ではないか?と常に「自己」を鏡に映して省みる必要もあろう。歌人・俳人らが標題の問いに敏感に反応するのは、こうした豊かな心をことばにして社会という「鏡」に問いかけているからである。

幼き「物欲」の卑劣
いまあらためて一人ひとりが考えるとき
金子兜太さんの逞しい筆の文字に学ぶ
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「いとし子」を偲ぶ対話

2017-08-09
本学部附属小学校の門を入れば
必ずこうべを垂れる碑がそこにある
「いとし子」を偲びていま・・・

長崎原爆の日、また”かの夏”が来た。先月も紹介したが竹山広の「水のへに至り得し手をうち重ねいづれが先に死にし母と子」の歌があらためて今朝から脳裏に反芻されている。竹山の歌は「生の怒りは、定型に収まらない」として、「字余り」「語割れ・句またがり」において「必然性があった。」とする島内景二氏の画期的な指摘を紹介しつつ、伊藤一彦先生が本日付「ふらんす堂」の短歌日記に歌を詠んでいる。昨日の小欄に記した「記憶」という点でいえば、既にかの大戦を忠実な「記憶」として留めている方々は、少なくなってきている。いやむしろ、それだけに未来に向けて「平和」を願う立場として、こうした竹山の「生の怒り」「生の描写」のことばを、我々が一人ひとりが反芻し続けることが求められる。ここに引用した竹山の歌の状況が、「あなた」と「母」であるとしたら、という想像をするだけで耐え難い「怒り」に心が揺れるのは、私だけではあるまい。

本学部附属小学校には、冒頭に記したような碑が建立されている。教育実習生についても出勤すると必ず碑の前で祈るようにと話がある。正直なところ私も教育実習担当になるまでは、碑の存在は知っていたものの、そこに手を合わせることはなかった。頻繁に附属小に足を運ぶようになった昨年今年に至っては、私も訪れた際には必ずこうべを垂れ手を合わせ「いとし子」を偲ぶようにしている。先日宮崎日日新聞に、この「いとし子」を偲び平和を願う主旨を書いた附属小の児童の文章が掲載された。するとその犠牲になった「いとし子」の先輩にあたる市民の方から、学校に葉書が届いたと校長先生が実習事前指導で紹介していた。1945年5月11日、宮崎への大空襲によって、集団下校中であった附属小の児童12名が犠牲になった。葉書は、その3月まで同班の班長を務めていた方からの重い言葉であった。「いとし子」の碑があることによって、12名の「後輩」そして今の児童にとっての「先輩」(新聞掲載文章には、そう書かれている)として、向き合う対話がここに成立したのだ。「平和を願う」などと簡単に言うのみならず、自らが集団下校中に空襲を受けたらという、あってはならぬ「過去の事実」に自分を起ちあげて想像することが何より必要だということだろう。

あらためて竹山の短歌を読みたい
ことばはリアルにかの夏を再現する
今日も長崎で平和の鐘が鳴る

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囲う言葉・分断する言葉

2017-07-14
「ほんとうか?うそか?」
「思うか?思わないか?」
囲う言葉・分断する言葉・・・

TVで「バラエティ番組」と呼ばれるものを見ると、これは「事実か?事実でないか?」「ほんとうか?うそか?」といった二者択一の問いに対して、出演者が「まる」か「ばつ」かと札を挙げる場面などが目につく。元来、「バラエティ」という分野そのものの意味にも疑問を呈したくなるが、昨今は特に、見せ掛けの「教養」を売り物とした番組も多いように思われる。出演者はもちろん番組の演出上において様々な札を挙げて、その場を盛り上げる役割を担っているのだろう。意図的に外した札を挙げたり、「教養」も覚束ない”役柄”の出演者が唯一の「正解者」となって、番組上の効果としては「面白い」ということになる。だがふと目線を引いて考えてみると、多様性の時代といわれながら、ある意見に対して「賛成か?反対か?」という二者択一の思考に視聴者が陥り、囲う側と排斥される側という分断的思考を助長している気がしてならない。

こうした思考がはびこり始めたのは、忘れもしない「郵政民営化に賛成か?反対か?」を掲げた劇場型選挙からである。その後も「敵」を意図的に作り上げて、自らの囲う側を「正当化」して多くの得票をするという方式の選挙がつい最近でも行われている。政策の詳細や自らの「生活」そのものへの影響よりも、その「敵」がどうしようもないことを印象付けて、往々にして囲った側が「圧勝」するのがオチである。何がそうさせるのかは様々な要素があろうが、水戸黄門型勧善懲悪を、むしろ悪用したやり口ではないかと思うことがある。世知辛い世相に待望の権威的なリーダーとして脚光を浴びて出現し、「悪徳代官」役の物語を醸成し自らの「正義」を主張して選挙で「印籠」を民に翳すのである。どうも世間は、こうした風潮に慣らされてしまってはいないのだろうか?学生たちが実施する「模擬授業」でも、「筆者の意見に賛成か反対か」と問う内容があると、こうした世相の浸透度が「教育」以上に高いことに危うさを覚えるのである。

「虚構にある真実」をどう考えるか?
「思うけど思わない」は矛盾と切り捨てていいのか?
むやみに浸透する「分断する言葉」を僕たちは注意深く拒んでいかなければならない。
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新たな価値を生み出そうー政治についても対話で

2017-07-03
都議選投票日の東京
何も変わらぬ晴れた宮崎
母との対話で生み出されたものは

元東京都民として、都議選のゆくえが大変気になっていた。生まれ故郷であり長きにわたり住んできた街、そのあり方には多くの疑問も抱かざるを得なかったが、やはり故郷は代え難い思いを抱かせるものだ。東京五輪を3年後に控え、さらに情勢が変化してきた巨大都市において、今後はどのような政策が展開するのか?このことが自らのあり方にも、大なり小なり関係してくるという当事者意識が必要ではないかと思ったのである。それはもちろん、今も東京の実家には両親が住んでいるからであり、その「生活」そのものが自分の「生活」とも密接に関係しているからに他ならない。

「政治について語る」ことには、様々な考えを抱く人がいる。「語っても仕方ない」と思うのか、「自らの生活には関係ない」と思うのか、それを避ける人々も少なくない。様々な選挙の投票率を見るたびに、人々に当事者意識がないことを非常に残念に思うことが多い。だがよく考えれば、確実に自らの一票が「生活」に反映しており、その代価として人々は税金を支払っている。自ら政治を選べる権利であること、そしてまた本来は議員さんに意見が述べられること、そこに民主主義があることを今一度考えるべきではないのだろうか。そんな訳で、従前から都議選に関しては母との電話で様々に対話してきた。それを繰り返していると、何がどのように自らの「生活」に跳ね返ってきているかが、わかってくるのである。新たな価値を生み出すことを目的とするのが「対話」であり、それを「生活」の中で実行することを、もっと教育の段階から習慣づける必要があるように思う。

「答えが一つ」を学び手が待っている旧態依然の授業
「新たな価値」を自らが他者と対話して創り出すこと
「生活」の様々な場面で「対話」を持つ重要性が問われている。

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「スピード感」より冷静沈着

2017-01-05
強引に左側から抜き去る車
先へ行けば到着時間はそう変わらず
空吹かしによる「スピード感」は危ういだけでは・・・

一般道50 Km制限で「登坂車線」が用意されている箇所でのこと、後ろに付けていたワゴン車がその車線を利用して僕の車を強引に抜き去った。通例では僕が左によけるべきなのかもしれないが、特段遅過ぎもせず走行していただけに、そのワゴン車の行為が妙に愚かに見えた。さらにはスポーツタイプの外国車も追随して来たので、2車線区間は残りわずかであったが左側によけて1車線に絞られる間際で、奴さんを見送った。しばらく走ると1車線区間でマイペースな農家の方らしき軽自動車が走行していて、すぐさま僕の車は奴らに追いついた。強引な危険さ、加速時に使用する過剰な量の燃料、果たして奴らの「スピード感」は必要なものなのだろうか?などと考えながらハイブリッド車の計器に目をやり、燃料消費を控えて排出ガスを抑制して走ることを旨としている自己の「冷静沈着」を自覚するのであった。

カーラジオからは仕事始めで東証大発会の音声が流れ、ダミ声の政治家が聞き心地の悪いコメントをしている。そして他のニュースでも政治家の声が流れる。そこで口にされる語彙として目立つのが「スピード感をもって」である。彼らの中で一つの流行になっているとも思えるほど、様々な分野で最近耳にすることが多い。もちろん類義語として「迅速な対応」があるのは周知のことである。もちろん緊急事態であれば「スピード感」ある「迅速な対応」が求められるのは自明であるが、殊に「経済」に関して強引な追い越しに類する「スピード感」など必要なのかという疑問を抱いてしまう。むしろ冷静沈着に無駄な燃料消費を抑えて、地道に足元を見て国民一人ひとりが真の「幸福」を感じられる社会であるべきではないのか。待てない・余裕のない・穏健でないことの先には、疲弊した結末しか見えないのは、僕のような運転者だけなのであろうか。

「急いては事を仕損ずる」
思考が「沈着」する時間を待てるということ
冷静さを欠く強引な「飛翔」を唱えても「酉」は喜ぶまい。
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