極端な気候が生存を脅かす
2023-01-30
地球温暖化がもたらす極端な寒さという矛盾偏西風の蛇行を北極の解氷が助長していると云う説
寒暖差による心の面の不調を訴える声も
宮崎は南国で北国よりも恵まれている、とはいえ今年の寒さはやはり身に沁みる。少なくとも宮崎に自宅を構えて10年目となるが、水道管の凍結を心配し対策を取ったのは初めてである。TV報道でもトップニースにて、豪雪や寒さによる自動車の立ち往生や交通機関の乱れなどを報じることが珍しくなくなった。思えば真夏においては最高気温の報道がくり返されているわけで、我々は確実に「地球温暖化」のニュースを毎年のように重ねて受け止めていることになる。暑さ寒さの問題は日本に四季の観念が浸透し、いつかは「春(暖)・秋(涼)が来る」と待望する心があるためにむしろ「一時凌ぎをすればよい」と考えがちなのかもしれない。だが極端な寒暖差によって、人は心の面の不調をきたすのだと心理学での指摘もあると云う。
矛盾のようだが現在の際立った寒さは、「地球温暖化」の一現象であるらしい。概ねそんな予想はして小欄にも匂わすことは書いていた。この日に朝の報道番組を観ると、明らかにそれを指摘していた。本来は北極上空に留まるはずの強い寒気が、偏西風の蛇行の影響で日本付近まで南下してくるのだと云う。しかも北極の氷が溶けてしまうことが、偏西風の蛇行を助長しているという専門家の指摘を番組は紹介していた。確かに日本のみならず、この冬の立ち上がりは米国東海岸での極端な寒さが報じられていた。特に北半球の国々が、地球温暖化によって変質し「北極の寒さを被っている」状況が現在なのである。この気候変動は人間の生存を脅かし、まさに人類の存亡を危機に曝す大問題である。地球規模であるゆえにあらゆる国の連携・協力が不可欠である。ところがむしろ現在は地球温暖化を加速するともいわれる戦争が勃発し、各国が武器供与をするのみで終結への道筋は見えない。地球の「滅亡への時間時計」はあと「1分30秒」に迫ったのだと発表された。もう時間はない、地球を終わらせないために人類の叡智が試されている。
気候も感染症も人類への警告があるにもかかわらず
愚かで野蛮な諍いをしている場合ではないのだ
金持ちや横暴な指導者だけが生き残れる地球に未来はない。
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「か・ち・も・な・い」を心に留めてー寒気襲来も情報をどう読むか
2023-01-25
「か」=「かいたのは誰?」「ち」=「ちがいは何か?」「も」=「もとネタは何か?」「な」=「なんのためか?」「い」=「いつの情報か?」
ネット記事を読むときに気をつける要点5つ
「10年に1度程度の低温」そんな言い方を気象庁が発表するのだろう、特にNHKの天気予報で盛んに喧伝されている。確かに昨日は朝の気温から風が吹くことで次第に気温が低下していく1日であった。「九州地方の平野部でも雪に見舞われ」と云うが、どうやら宮崎の平野部だけは例外なのだろう。ただチラチラと舞い散るものを、大学に向かう坂道で感じたのも確かだ。夕刻に帰宅する際は既に、スマートウォッチの温度計は「氷点下表示」になっていた。帰宅後は暖房をつけ主要な部屋の雨戸を閉めて家を寒さから守るようにした。就寝前は自宅水道管の配線を考えて、2系統の蛇口からチョロチョロと水を出しっ放しにしておいた。自宅の屋根には太陽光温水器があるのだが、夜に風呂に入れようとすると既に蛇口から水が少量しか出ず、しばらくすると氷のような固体が流れ出て、その後にぬるい温水が出るようになった。こちらも一晩、少しずつ水を出しっ放しにすることで保全できたようである。今のところ、自宅の水道管に問題はなく朝を迎えている。
前述のような対処法は一部のTVでも報じられていたが、最後は自らの頭で考えて実行した。特に溢れかえるネット情報は、どれを選別しどれが適切か?を判断することに気を留める時代だ。この日の昼休み、ネットでNHKEテレ「今日の健康」を観た。すると病気(癌)の治療情報などについての見極め方を特集していた。「癌治療」の場合は命に直接に関わる問題であり、情報の精査をしないと大変な目に遭うかもしれない。だがこうした命に関わる情報であっても、ネット上には信頼できないものが8割9割なのだと云われていた。冒頭に記したのは、ネット情報を読む際の心得だそうだ。「癌治療情報」に限らず、勝手にスマホに表示される芸能記事などを読む際にも心得ておきたいものだ。検索をして上位に表示される情報は、多くが病院・クリニックが対価を支払って掲載する有料広告なのだと云う。こうした情報に惑わされぬように、「かちもない」を心得るとよいと云うこと。ネット記事は常に誰かの立場で、他に特化して、何らかの元ネタに発し、何らかの目的で書かれている。書き手に騙そうとする思惑があれば、巧みな表現を多用する。誰もがスマホの情報を見られる時代、ゆえに心得を持って情報に接することを忘れてはならないだろう。
果たして「10年に1度」に我々はどう対応したらよいのだろう?
自らの命は自らで護る、生き物としての本能も衰えていまいか?
何事も自らの頭で考えることを忘れてはなるまい。
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既に「異次元」だったのではないか?
2023-01-20
「異次元の少子化対策」という言い方「教育」にかける国家予算はOECDの中でも
保育士の待遇や環境に顕著だが「学校」においても「異次元」な人数を
かつて東京で日本酒蔵の逸品を味わう会という催しに参加した際に、日米をまたにかけて活躍するソムリエの方と出会ったことがある。彼女のプロ意識は高く、まさに自由競争の中で富裕化した層を対象に日本酒を吟味し提供するような場で活躍していた。米国などでも日本酒や日本食への嗜好は高まり、「すし」などと同様に「うまみ」などの日本語が汎用化し高級和食レストランなどが活況であった。ある意味で「自由競争」を旨とする新自由主義の権化のような考え方で、料理や日本酒には値段の糸目はつけない発想が目立った。偶々「教育」に関する話題になった時、今日本で何が問題かと問われ、僕は「教員一人当たりの子どもの数」と答えた。周知のようにOECDなどの先進国における「教育」にかける予算で日本は低い部類にあり、特に「学級の人数」が長年にわたり改善されないで来た。だが彼女からは「教員のプロ意識が足りない」という趣旨の反論があり、「プロなら何人でも担当すべきだ」と強く主張された。「自由競争」とはまさにこういうことで、その発想において「教育」については考えるべきではないことを思い知らされた出来事であった。
「新自由主義」とは2000年代になってから世界を席巻している考え方である。『デジタル大辞泉』に拠れば、「政府などによる規制の最小化と自由競争を重んじる考え方。規制や過度な社会保障・福祉・富の配分は政府の肥大化をまねき、企業や個人の自由な経済活動を妨げると批判。市場での競争原理により、富が増大し、社会全体に行き渡るとする。」とある。そして「補説」には、「しかし、再配分よりも富の集中や蓄積・世襲化が進み、貧富の差を広げるという見方もある。」と加えられている。この考え方を押さえておくと、現在、日銀が「金融緩和」を「引き締め」に転じそうになりつつ、再び「維持」の方針を打ち出したのもよく理解できる。緩和を是正すればこの10年ほど行われてきた「緩和政策」を否定することになるからだろう。さてすっかり「経済」の話題になってしまったが、国家の経済観念はやはり「教育政策」に大きな影響を与える。「学級人数」を減らして密度の濃い教育をしたくとも、財務省が首を縦に振らざればできない。自由競争に放たれた学校環境は、私立学校の競争を激化させ公立離れを助長し受験実績を唯一の指標のごとくして社会が学校を評価するようになる。甲子園を始めスポーツの世界でも、事情は同様だろう。最近になって保育士の幼児虐待が大きな社会問題になった。多分これも「最近」ではないのであろう。「保育士一人当たりの担当人数」がやはり先進国の中でも多く、保育士個々に多大なストレスがかかる。だからといって虐待が容認される訳ではないが、酒や料理を捌くように子どもを育てることはできない。「異次元の少子化対策」という言い方にも大きな違和感を覚えるが、それは既に「異次元」に予算配分をしてこなかったことを暴露したに過ぎない。「新自由主義」の影響ばかりではないが、あまりにも世界は苛立ち過ぎているではないか。
ゼミの人数など国立大学はまだ恵まれている
だが削減される予算の中で個人の努力で成り立っていることも少なくない
「異次元」を実行してようやく「普通」である教育の現状はこの国の将来を危うくする。
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抑止と挑発という相互の独善
2022-11-19
10時16分ミサイル発射69分飛行北海道渡島大島の西約200Km日本のEEZ内に落下
「挑発行動は断じて容認できない」という表現はするが
自分に実害が生じる場合、その対象となる行為を必然的に憎む感情が湧き起こる。今月3日に宮崎から仙台まで移動する最中、北朝鮮のミサイル発射に伴い交通機関に安全確認のための遅れが生じた。夕刻からの「桑田佳祐ライブ開幕(仙台セキスイハイムスーパーアリーナ)」に計画通り時間に余裕を持って交通手段を利用しようとしていた僕たち夫婦は、その影響による遅延を甚だ心配した。宮崎空港でその報に接した僕は、まず羽田空港までの空の便に影響が出たら致命的だと気を揉んだ。幸い予約便は予定通り飛び立ち、乗客の乗り込みがスムーズだったお陰で予定より5分以上前に羽田空港に到着した。次は東京駅までの交通機関、モノレールも山手線もスムーズに僕らを運んでくれた。新幹線チケットは既にネット予約でスマホやICカードへ紐付け、みどりの窓口にも並ぶ必要もなく、東京駅で焼売弁当を並んで買う余裕まであった。しかし新幹線乗り場に行くと、「安全確認のために東北新幹線は10分程度の遅れ」という表示とアナウンス。ホームの混雑が影響し他のトラブルも生じ、結局は20分以上発車が遅れた。まあ問題ない範囲、と余裕はあったが、新幹線利用でさらに急いでいる人々には影響のある出来事だったであろう。
日本ほど「交通機関の定時運行」が遵守される国もない。その律儀な企業努力が、「ミサイル発射」という暴挙で不意にされる。北朝鮮がミサイルを発射するコースが、上越・東北・北海道という方面にかかるわけで必然的に「Jアラート」が警告が鳴る率も高い。(宮崎では今のところ経験がない)自ずと当該方面に住む方々と、意識も異なるように思う。先日のポーランド領内への着弾を見ても、ミサイルの命中精度がどれだけ高いのかと思う事例もある。「渡島大島から約200Km」という今回の着弾位置は、周辺を含めて住人たちの生活を脅かす。僕の親友も北海道西岸・岩内というところに住んでいるのでまずは彼の顔を思い浮かべた。果たしてどのくらいの精度でその位置を狙う意図がありミサイルを発射しているのだろう?何とか抑え込めないものか、と考えるのが人情である。この一連のミサイル発射行為を、「挑発行動」というように呼ぶ。北朝鮮の立場からすると、「米韓軍事演習」の日本海での実施を同様に認識するのだろう。「核保有」の問題を含めて大国が「抑止」だと正当化すれば、大国との関係を対等にしたい国は自らも同様の理屈で「挑発行動」に出るわけである。出口の見えないウクライナ侵攻を見ても明らかだが、武器使用をする以上、「抑止/挑発」の表裏一体の大義合戦が続くだけだ。「味方側は正しく敵方が悪い」という幼い諍いの理屈と何ら変わらない。この国の過去では「鬼畜米英」と言って国民に信じさせた。だが敗戦を機に「神様米英」の国になった。表と裏はすぐに反転するのだ。そんな歴史的経験がある我が国だからこそ、「表裏」に囚われない成熟した「外交理性」を発揮すべきなのであるが。
「抑止」のためだと「反撃」の力を持つという愚策
「挑発行動」の意図にまんまと乗っかってしまう愚弄
相互が「独善」を自覚し理性で対話する「大人の外交」がなぜできないのか?
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地球の余命を奪う国境という諍いの元
2022-11-17
「ポーランド領内にミサイル着弾」の緊張NATO側の緊急協議もあるが冷静な対応へ
「国」という人間の利欲は永久になくならないものか?
朝から緊張の走るニュース、NATO加盟国であるポーランドの領内にミサイルが着弾し「2人死亡」が報じられた。これによってもしNATO側が「集団的自衛権」を発動し、ミサイルの出所を確かめた上で報復措置にでも出たら「欧州全面戦争」の可能性も否めない。いやNATO側となれば米国が主導することになり、「第三次世界大戦」というあってはならない事態が生じかねない緊張であったわけである。日本では正午のNHKニュースは拡大版とはなっていたものの、どこか「対岸の火事」扱いな印象が拭えなかった。日本はNATO加盟国ではないものの米国への迎合的な擦り寄りのため、NATO関連の首脳会議にも参加している同盟国であることは間違いない。今年の情勢を見てもロシアが日本にも対抗措置に動く現実があるわけで、世界的な紛争を指をくわえて見ているわけにはいかないだろう。当事者意識は十分にあるわけでもないのに、米国隷属的な情けなさが先立ち紛争の危機に何ら解決にひと役が買えない精神的貧困な存在。世界の中におけるこの国の情けなさと閉鎖的な島国根性と「平和ボケ」な感覚は、こうした際に露わになるものだ。
それにしても今年のウクライナ侵攻の起因もそうだが、「国境」というものが人間の醜い諍いを誘発する。もちろん「国境」そのものが人為的に引かれたものであるのだが。広い視点で見たときに、なぜこの地球の豊かな自然の上で共存ができないのか?と思う。人類の欲望の象徴たる「国境」という概念が、このままだと地球そのものを破壊してしまう。ただでさえ懸念されている地球温暖化は、このウクライナ紛争でさらなる悪化への向かうのは確実である。ミサイル・爆弾・地雷などが燃え上がり人を殺傷しさらに「地球の余命」を奪っていく。気候変動のみならずエネルギー問題や物価高の経済的状況、さらには地球全体の格差の問題など、資源と労力を投じて解決すべき問題は山積している。領土拡大を意図するロシアそのものの国力しかり、武器供与に明け暮れるNATO諸国も「投入する資材」そのものが「人類の無駄」ではないのか?折しも日本の「防衛力の抜本的見直し政策」の中に「国債発行」ではなく「税金で賄う」という点が明記されると云う。前述した「地球の余命」を奪う紛争の負のスパイラルに日本は、国民の税負担を増やし加担しようとしている。これが過ちを反省し平和を誓ったはずの国の政策であることに、大いなる矛盾がある。せめてアジアの島国であるだけに、過去に学び世界的な紛争への気運を鎮める役目は果たせないものか?明治以降の「欧米列強」への劣等感による追従は、未だ拭えないままである。
明らかに暗澹たる地球の将来が見えてくる
若者たちに当事者として平和に声を上げることを求めたい
「地球」を壊してしまっては人類の先祖に申し訳が立たない。
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真似事ハロウィンの危うさ
2022-11-01
渋谷駅前スクランブル交差点の狂騒韓国の人出集中の悲劇
公的な「祭典」なき国の無秩序な受容の危うさ
お互いに早目に帰宅できたので妻とともに、クリームシチューと鮭の味噌焼きなどを作り思いのほか華やかな夕餉になった。やや肌寒さを感じるようになった時季、シチューの温かさとトロみが身体を柔らかくする。調理の段階から協働作業であったので、洗い物も順次済ませておき早々に自由な時間ができた。食休みを経て妻と恒例の夜のウォーキングに出かけた。いつもながら静かな住宅地にはほとんど「ハロウィン」の喧騒な無く、かろうじて子どもがいそうな家から笑い声がした程度だった。「10月31日」Web情報に拠れば「古代アイルランドのケルト人を起源とする祝祭で、現代はアメリカ合衆国で民間行事として定着したもの」のようだ。重要なのは「キリスト教」の祭典ではなく、「クリスマス」とも性質を異にするはずの祭典であること。ここからは僕の見解だが、本来の「祭典」としての意味を失い、雑種的に他国で民間定着した行事は「乱痴気騒ぎ」になりがちだということだろう。ある意味で「米国的」ともいえる「騒ぎ方」を、西洋文化に憧れを持つ他国がその「容れ物」だけを受容し、より「乱痴気騒ぎ」になる傾向はないだろうか。明治以降の「クリスマス受容史」を短歌によって追った自著では、こんな「文化論」のあり方を指摘した。
僕たちが幼少の頃は、微塵も行われもしなかった「ハロウィン」だが、その名が日本に知られたのはやはり「悲劇」からだったと記憶する。米国留学中の若者が当夜に仮装して隣家に侵入したところ、当家の主人が不審な者と勘違いし銃で射殺したという事件である。銃社会の危うさはもちろんだが、「祭典」の曖昧な受け容れ方にも大きな問題を感じる事件である。自著で参考文献にした書籍に拠れば、「ハロウィン」の浸透により「クリスマスの乱痴気騒ぎ」が分散したという指摘がある。80年代までの日本では、「西洋の祭典」の浸透は「クリスマス」が専らであった。「バレンタイン」がそうであるが、こうした「祭典」の定着には「商業主義」が必ず関わっている。洋菓子関係とTDL(東京ディズニーランド)の影響が大きいだろう。今や幼稚園・保育園での仮装の実施や、スポーツジムのレッスンでも仮装で参加する人が多くいるのを目の当たりにしたことがある。さらには「渋谷スクランブル交差点」での常軌を逸した「乱痴気騒ぎ」にまで発展した。そして今回、韓国繁華街での悲劇などを誘発する事態になった。考えなくてはいけないのは、民間の中には「祭典」が必要なのだ。家族の単位から地域の人々との交流、文化の継承の上で「祭典」の役割は重要である。元来その国にある「意味の解り得る祭典」が失われつつあり、その代行行事として混沌とした「米国の祭典」に群がる民衆。今こそ「文化論」として「祭典」のあり方を、整理して自らを省みる時なのかもしれない。
秋が終わり冬を迎えるという趣旨
日本文化の中にも多く埋め込まれた季節のうつろひ
コロナ禍で抑え込まれていた力が噴出したような世相にも用心しなければならない。
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武器商人の高笑いー利権で人が死ぬ戦争の構造
2022-10-29
「トマホーク購入検討」というニュース幕末を省みれば、新政府側に英国が幕府側に仏国が「武器供与」
矛盾だらけの利権レースは21世紀でも終わらない人類の愚劣
小学生の時、算盤塾に通っていた。塾生には隣の区の小学生もいて、助手の若い先生が授業をするので次第に悪戯の度合いが過剰になってきた。しばらくすると2校の小学生は対立するようになり、相互を「生意気だ」と牽制するようになった。事はエスカレートし互いへの嫌がらせに発展してしまった。元より喧嘩嫌いの僕は、なんとかこの諍いが鎮まらないかと心の中で祈っていた。しかし、僕の小学校側の先輩もいて「対立」の図式に与しないと、それはそれで叱責されるのでやむを得ず「戦う」ふりをしていた。そしてとうとう双方は、「決戦」をすることになった。両校のちょうど中間に位置するのが天下の「開成中学高校」である。当時は何ら怒られることもなく、その校庭で遊ぶことができた。「みんな勉強して校庭を使用しないのか?」などと不思議に思っていた。「決戦」には双方が「銀玉鉄砲」「パチンコ」「盾(ベニヤ板)」などの武器を持参した。僕も駄菓子屋で買った代物を持参したが、どうしても相手を撃つことはできなかった。相手方は飛び道具として「イボガエル」を準備して、こちら側の「捕虜」になってしまった子の顔に近づけ嫌がらせを見せつけた。僕はそれには絶対になりたくないと思い、ほぼ「逃げる」防戦一方で凌いだと記憶する。最終的にどのように決着がついたかもわからず、「決戦」は特に怪我人もなく一人の子が「イボガエル」で泣いただけで終わった。
算盤塾での口喧嘩が、なぜ「武器」や「イボガエル」まで使用する喧嘩になったのか?他の区の小学校同士、隣人の多くは対立的になるものだ。そこに駄菓子屋で販売されていた「武器」の「実戦使用」という欲望が加わった。近隣の駄菓子屋では一時的に「銀玉鉄砲」や「パチンコ」の売り上げが伸びただろう。ウクライナ侵攻でよく耳にする「NATO側の武器供与」という方法、「侵攻されたウクライナを支援する」という大義はあるが、NATO諸国に関連する武器商人たちの高笑いが裏で聞こえやしないか?昨日のニュースで報じられた「政府がトマホーク(巡航ミサイル)購入検討」は、決して「国民の理解を得る」という次元の話ではないだろう。図式的に見れば、アジア支援の「武器供与」に自ら金を払って参加する名乗りを上げ「紛争」の一員として与することになる。周知のように湾岸戦争などでは、「トマホークの撃ち合い」のような様相であったことは記憶に鮮明だ。先週日曜日の「NHKスペシャル・幕末史」では、幕末「戊辰戦争」においてやはり冒頭に記したような英国・仏国からの「武器供与」が内戦の行くへを左右したと知った。その背景には、西洋列強の植民地化政策があったことは明らかだ。欲望が欲望を膨らませ、自らが主導権を取りたいがため、「武器供与」によって内戦で多くの血が流れる。連射できる最新兵器で新政府側も幕府側にも多くの犠牲者が出た。「武器供与」とは「戦争」を利用した利権獲得に他ならない。あの算盤塾で、僕らは「算盤の実力」を競えばよかったはずだ。銃刀法があるゆえに、僕らの国では治安が保たれている。銃規制さえできず巷間で乱射事件が絶えない国の武器商人の高笑いに加担するほど、この国は未だに愚かで西洋列強に隷属的であることに自覚を持たねばならない。
「攻撃できる」から「攻撃を受ける」可能性が増す
小学生の紛争は明らかに双方に独裁的な主導者がいたから起きた
開成中学高校の校庭が使用できたのは「ペンは剣よりも強し」の校章のおかげだろう。
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プラスチック海洋汚染の罪
2022-10-26
宮崎は北太平洋2番目のウミガメ産卵地(1番目は屋久島)打ち上げられたカメ・イルカ・クジラの胃袋から汚染プラスチックが
僕たちが日常で目にするお菓子の袋から釣り餌の袋まで
宮崎の海は綺麗だ、と我々は平然と言う。宮崎の海の綺麗さを、私たちは短歌によって表現し伝えようとする。だが昨今はよく、「科学的エビデンス(根拠)」が諸方面で求められる世の中になった。「綺麗だ」とは「日常語」であり、現代短歌ではこの言い方は通用しない。言い方を換えるならば、我々は日常語としての「綺麗だ」という言葉にあまりにも無責任である。世間では「インスタ映え」の用語に象徴的なように、表面的な写真の美しさを競うような時代に入った。問題は「表面的」の奥で我々は、自身の手で汚染を進行させてしまっている「罪」を背負うということだ。宮崎の海を美しいと写真を撮る前に、私たちがすべきことがあるのではないか?今日は「プラスチック資源」のゴミ回収日であるが、たかが1週間で大きな袋にいっぱいの「廃プラ」を僕の家からも排出する。減らしたいとは意識していても、日常生活をするだけで必然的に溜まってしまうのが消費社会の現実だ。収集されるならば適切に処理されるのであろうが、ストロー・ポリ袋・人工芝の破片、それに洗顔「スクラブ」までが「プラスチック」なのだと知り、意識できないうちに汚染を広げているのかもしれない。
所属大学で「イブニングセミナー」という、学内外へ学部融合テーマを発信する行事が開催された。オンラインでの開催であるが、それだけに学外の遠方の方でも参加できる利点がある。今回のテーマは「環境問題」、「リサイクルと地域環境」「森林とミツバチ」「ウミガメとイルカと海洋ゴミ」のそれぞれのテーマで各分野の先生方から発表があった。特に「ウミガメとイルカ」については学部で親しい理科教育講座の先生の発表でもあり、前述のような意識をあらためて深く持ったのである。宮崎に移住して、僕自身も東京ではあり得ない美しい空気の中で生きている。同時に東京では見たこともない巨大な蜘蛛とか百足などに、家で遭遇する経験もした。虫たちが生きられるということは、それだけ澄んだ環境があるということ。虫嫌いな僕であるが、最近はだいぶ寛容になることができた。そして宮崎の海の美しさには、明らかな根拠があることを知った。冒頭に記したように「北太平洋2番目のウミガメ産卵地」であるというのだ。それも僕が馴染みのある青島から日南方面にわたり、産卵地も少なくないと知った。だが残念なことに死んで打ち上げられたカメの胃袋からは、ポリ袋などが発見される。それが直接の死因かどうか?は特定できないという話であったが、イルカやクジラを含めて海洋生物が「廃プラ」を食べてしまう現実をなんとか僕たちの手で回避しなければなるまい。世界的に有名になった動画「鼻にストローの刺さったカメ」に啓発され、「紙製ストロー」などの活動が始まったことはよく知られている。家庭からの洗剤の排出なども含めて、僕たちはまずは身近な宮崎の海を護らねばならない。
SDGsと号令ばかりではなく
水の循環という自然の豊かさを見つめ直そう
ウミガメ・イルカ・クジラなど多くの海洋生物の生活する海という意識を深めよう。
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威嚇にどう向き合うか?
2022-10-05
「Jアラート」により朝の連続テレビ小説も休止そしてまた身近では、バイクで後方から接近したり待ち伏せされたり
威嚇に大人はどう対応するか?
朝の散歩(ウォーキング)を終え、食事と連続テレビ小説が楽しみな時間。急に画面が「Jアラート」の表示になり、「北朝鮮によるミサイル発射」が緊急で告知された。対象地域として「北海道」をはじめ「伊豆諸島の島々の町名」が連なり列記されている。形式は違うものの、どのTV局も同様でBS衛星放送も同じ。後に報道で知ったが、対象地域の方々のスマホ(携帯)は「緊急地震速報」のごとく鳴ったのだと云う。平和な日常の僕たちの朝をすべて奪い、さながら「空襲警報」の出た戦時中のような嫌な肌感覚が充満する。伊豆諸島の「大島町」が対象地域になっていたが、そこには姪っ子夫婦が住んでいる。時間の経過とともに対象地域は「北海道・青森」と限定されたが、それでも北海道在住の複数の友人の顔が浮かぶ。そう考えると、この宮崎の空にも突如として「ミサイル」が飛来するなど、想像の範疇で脳裏をよぎる。僕らは「安全保障外交」が十分ではない東アジアの住民であることを、あらためて突きつけられた朝だ。
威嚇行為といえば、この8月ごろから朝のウォーキング中に自宅近所で不審な原付バイクに何度か遭遇している。住宅街の袋小路の同じところを何度も周回し、急に角から曲がって出現したりする。歩いている僕を追い越したかと思うと、急に反転し僕が左折した路地に引き返したり。ある時は追い越した先でしばらく原付バイクを停め、僕が無視してまた追い越すと後方から加速して接近してくる。ゴミ出しの際に遭遇したこともあるが、僕がサングラスをかけているのが気に入らないのか?ゴミ出し場から自宅へ引き返す際に後方から警笛を鳴らされた。このような状況だが、僕は一度たりとも「反撃的行為」をすることもなく、常に冷静に対応してきた。さすがにいささか身の危険も感じたので、警察に相談するとすべては「その場で110番をしてください」と言われた。既に原付ナンバーも記憶したので伝えたが、どうやら時によって色の違う原付に乗っていることもある。「地元交番には情報を入れておく」と言われたものの、現場からその場で電話をするのは難しい印象を持った。原付バイクの意味なき行為に至る「感情的な衝動」に対して、あくまで「大人」として冷静に身を護ることを考えるしかない。仮に一言でもこちらから「反撃的な感情の含まれた言動」をとったら、対象と同質の粗野な行為に自らが陥るものと心得ている。
子どもが威嚇して他者をねじ伏せるような感覚
あくまで「反撃」ではない、外交的な地道な努力しか道はなし
世界中が粗野な行為に向き合い防衛費増強に躍起になる子どもじみた社会ではなるまい。
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銃弾と分断のなき社会へ
2022-09-28
銃弾により人の命を殺める非道塀を作りたて「こちら側」「あちら側」と分断する野蛮
多様で熟慮ある社会を我々一人ひとりが作り上げるために
かつての職場にこんな人がいた。闇のあだ名は「横綱」、恰幅の良さはもとより見えない権力の持ち主で多くの人たちがなぜか服従してしまう存在であった。管理職であってもたやすく逆らえない存在で、多くの人たちの弱みでも握っているのか?と疑うほどであった。本来なら正されるべきことであっても、誰も諌めることもなく我が物顔で自らの思い通りの言動を通していた。周囲にはその見えない力の傘下で擁護をしてもらおうと露わに擦り寄る人たちがいて、反発を持ちながらもお世辞しか言えない人たちが大半であった。ひとたびその人に嫌われたならば、職場の枠内に留まるのは難しいと思えるほどの存在。「私に従うのか?従わないのか?」という詰問的な圧を日頃から発している。もちろん僕も疑問に思うことが山ほどあったが、相撲取りならぬ「裸の王様」に「王様は裸だ!」という子どもにはなれなかった。「ムラ社会」的な因習なのだろうか?この国の社会には、公平公正よりも「見えない力」こそが社会を動かすと信じて疑わない通念が身近にも蔓延ってはいないだろうか。
今年の7月8日(金)、あってはならぬ銃弾による元総理の暗殺。深い衝撃と弔意を持ったのを忘れない。2月のロシアによるウクライナ侵攻以来、「武力による現状変更」という言い方を聞くようになった。近現代史で2度の世界大戦という蛮行への反省の先に、今の時代は立つ。だが未だに「武力」から脱却はおろか、他者排斥のような状況で行使されている。「蛮行」という言い方もよく使われるようになった。「前近代的な粗野で乱暴なふるまい」という意味だが、あくまで僕らは「ペンは剣よりも強し」と信じて社会を構成しているはずだ。「話し合いで解決できる社会」ではありながら、前述した「見えない力」に支配される事例が後を絶たない。「ガキ大将」が「子分」たちを囲うように、「従うか?従わないか?」とされた分断社会。今年の大河ドラマ『鎌倉殿の13人』に見る抜きん出た功臣を殺めて力を維持するような方法が、現代においてあってはならないはずだ。だが「近現代」という概念自体が幻想であるのかもしれない。僕ら一人ひとりがどう考えるか?「近現代社会」を支えるのは、その「民」の力なのだと信じていたい。
考えよう語り合おう
「見えない力」には溺れないことだ
東京の何人かの親友が伝えた状況を静かな宮崎で聞いた1日となった。
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