「読み語り」を楽しもう!ー家庭学級覚書
2018-07-13
大学近隣の小学校にて家庭学級の「読み語り」講座
心に効く本を選ぶ・なぜ絵本は必要なのか?
一般的な用語として通行している「読み聞かせ」という用語でいいのでしょうか?私は講座として本日は仮に「読み語り」という用語とすべき意味をご紹介していきます。次期学習指導要領が2年後から小学校で完全実施となりますが、その改革の目玉は「主体的・対話的な深い学び」という文言です。「学習者」「指導者」「教材」がそれぞれに「主体的」な三角形となり、相互に「他者」として出逢い・協働する「対話」としての交流を循環的に行い、新たな価値観を発見・創作する学習を言います。そこに「他者」と違う「自己」の傾向を捉えるという意味で、自らを立ち上げて考えることを加えて「深い」学びということになります。本日もこの概念に則り、「講話」という形式は直ちにやめましょう。人は、「説明」では説得されません。受け止めた情報を自らの言葉に換えることを「体験」と呼び、子どもたちが絵本を「もう1回読んで」というのは、「説明」ではなく「体験」を求めているからです。
「絵本は何歳ぐらいから、何歳ぐらいまで読めばよいか?」という質問を受けますが、可能性は無限大です。乳幼児が「わからないから」と絵本を読まないのは、「大人」の独りよがりにすぎません。また高齢の方々こそ、絵本から人生の大切な忘れ物を思い出すかもしれません。絵本選びは「自らが助けられた」本、いわば「辛い現実から癒して解放してくれる」セラピー効果のあるものを選べばよいでしょう。読み手自らが、その絵本を大変貴重な宝だと思っていることが大切です。親御さんが、先生が自ら「主体的・対話的で深い」関わりを絵本と結ぶことです。そうすればお仕着せがましい「読み聞かせ」という語は自然と使用しなくなるでしょう。絵本はフィクションですが、そこには「葛藤」があります。「葛藤」は人生の中心であり、それが我々を日常の退屈から目覚めさせ、涙・笑い・愛・憎しみなどで発散をしてくれます。絵本の中に自分自身の人生の手がかりを見つけ、絵本という「他者」の生活に逃げ込むことで、現実生活の重圧から解放されることになるのです。
以上の内容を一方的には伝えない
参加した方々との笑顔の対話がそこにあること
2本の大型絵本を実演してくれた3名のゼミ生たちにも感謝。
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「もう1回よんで」知るにあらず体験にして
2018-07-05
絵本を読み語りした後の子ども既に知ったのに「もう1回」とはこれいかに?
「理解」したのではなく「体験」をしたゆえに
来週、大学近隣の小学校から「絵本読み語り講座」の講師として、お母様方からお招きをいただいた。「家庭教育講座」というPTA活動の一環であるらしく、夜の時間帯に実施される。どんな内容が求められるかと考え、いくつか参考文献を繰り始めた。中でも興味深かったのは「絵本セラピー」の実践である。絵本は子どものみならず、大人にも有効で社会で荒んだ心を癒してくれる効果があるという立場の考え方である。よくこうした「読み語り講座」に赴くと質問に、「絵本は何才ぐらいまで読めばよいのでしょう?」と問い掛けられることが多い。一般に「絵本」とは幼少の子どもが対象と思われているが、むしろ大人に読んだり読み合ったりすることも大変意味があるのだ。
「絵本の読み語り」に接することは、「知る(理解)」のではなく「体験」することだという考え方には共感した。学校の国語授業の多くが「知る(理解)」を一様に強制的に求めるがゆえに、学習者の意欲が失せる。僕自身が実践し研究してきた「朗読」「群読」の活動は、まさに「体験」するがゆえに大学生でも深く興じるのであろう。「国語」学習は「論理的思考」などという一見気の利いていそうな文言を標榜し、「もう2度と(読みたくない)」不毛な読書への意欲を喚起してしまっている。「絵本読み語り」の際に、子どもが「もう1回」と言うと、大人は「いま読んだでしょ」とご都合主義の返答しかしない。場合によると「昨日読んだ」「この前読んだ」とさらに童心の真意から遠ざかっていく。「絵本」は「説明」にあらず「体験」であるゆえ、夢のある素敵な音楽を何度も人が聴くのと同じなのである。
短歌も「説明」ではダメな理由がまた分かった
「読み聞かせ」の語感が持つ「理解させる」という強制
せめてまず「読み語り」講座と銘打ってここから講演を始めようと思う。
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地域読み語り会との交流
2018-03-30
対話的読み語り小学校の朝の時間ボランティア
お母様方と学生の交流
ゼミ生を中心に地域の小学校にて、「読み語り」ボランティアを実践している。この3月に卒業する学生が通い始め、その実践に基づいて卒論の題材とした学生もいた。その活動は小学校PTAを中心に以前から行われていたもので、その輪に学生を入れていただいた形である。お母様方も当初は、「果たして学生で大丈夫なのか?」と不安が大きかったというが、実践を繰り返すうちに豊かな交流機会になって来たと云う。この日は僕とゼミ生数名が参加して、「読み語り」を考える懇談会&年度慰労会が開催された。講演のように話してくれと依頼されたが、僕の主義として「対話的懇談」がよいと進言し、自由に日頃の疑問などを語り合う会となった。
話の切り口は「オノマトペ」のこと。「絵のない絵本」のような言葉遊び的な内容に、果たして意味があるか?とりわけ教育現場で実践する場合、何か教訓・道徳めいた内容がなければならないか?読み語り実践後に、子どもたちが盛り上がってうるさい状態になり先生に怒られてしまうのをどう考えればよいか?平板に読むか、感情を入れ込んで伝えようとする読みをするか?など個別の質問に対してお母様方の意見も交えて、豊かな懇談が続いた。むしろ句読点を厳密に守って読むことで、日常言語から乖離した違和感が生じてしまうこと。抑も「読み聞かせ」という用語を使用しているが、上から押し付けがましい印象が拭えないゆえ、新たな用語を開発すべき等々、2時間はあっという間に過ぎていった。
聞き手の反応を受け取り読み手が変化する
「対話的読み語り」の効用を考えよう
AIの「読み上げ機能」にない人間の声の意味を、将来にわたって考えるべきではないか。
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「読み聞かせ」でよいのでしょうか?
2017-11-29
絵本を介して読み手と聞き手双方向性な応対によって作品世界が拡がってくる
そんな新しい用語の提案をみやざきから!!!
先日ある絵本を翻訳した作家の方とメッセージ交換していて、「(聞き手である)子どもたちがいてこその絵本である」という趣旨のやり取りをした。そうなると現在世間に通行している「読み聞かせ」という語は適切ではなく、何らかの代替語を考案せねばならないということになった。「読書県日本一」を目指している宮崎としては、ぜひ何らかの提案を県全体で考えたいと思うところである。十分な代替案がないままに、仕方なく旧態依然の概念で使用され続けている用語は少なくない。作家さんとのやり取りの中では「主人」「旦那」などもそうで、本来は家庭の中で平等であるはずの夫婦関係において「男性優位」を未だに助長している「悪役」であろう。もちろん学校では「父兄」などという語は現在使用してはならず、謙遜を旨とするのであろうが、「愚妻」「愚息」「愚妹」などはもっての他という気がする。言葉は無意識に使用されると、行動を規制する怖さがあるからだ。
現在僕は暫定的に「読み語り」という語を使用するようにしているのだが、講演や講義においても話す内容の理解のためには、ついつい嫌々ながら「読み聞かせ」を使用してしまう現状だ。この件をやり取りした作家さんのような存在が、メディアを通じて大々的に代替語を喧伝する機会が望まれる。ちょうどこの日もゼミで「絵本の対話性」に関する卒論中間発表があって、「絵本と聞き手」の対話性を考える趣旨が提案されたが、ゼミ内で議論を進めるうちに、「絵本を介して聞き手と読み手の三者の対話」から生じる作用を検討すべきだと軌道修正された。具体的に少々述べるならば、「読み手」が絵本を声で読んでいると、「聞き手」である子どもたちが絵本の言葉に対して「合いの手」や「返しの言葉」を投げかけてくる場合がある。「読み手」はその反応に間を置いたり、韻律を合わせたりと対応しながら「読み方」を変化させていく必要がある。いわば「読み手」もその場で「成長」することになり、「聞き手」との間にコミィニケーションが成立するのである。さらにいえば、状況によっては「読み手」と「聞き手」が反転し、「聞き手」自らが声に出して読みたいという願望が生じれば、それが読書推進の芽となるわけである。
「お仕着せがましい」使役の「せ」
「させる」という学校の活動が、子どもたちの主体性を刈り取ってしまう
さて果たして適切な用語は提案できるであろうか?短歌県・読書県みやざきの大きな仕事かも。
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谷川俊太郎×俵万智「音と言葉と絵本と」トーク
2017-11-13
トークWebライブ配信(朝日作家LIVE)「音と言葉」という興味深い題材
翻訳における言葉へのこだわりなども・・・
Web告知で標題のトークショー開催を知り、何とか行きたいと思っていたが、先月までは応募する余裕もなく、この期に東京へ行く時間的余裕もなく、残念ながら諦めていた。(どうやらかなりの高倍率抽選であったようだ)だがTwitterを何となく眺めていると、Web上でライブ配信されることを知り、そのままスマホ画面でトークに見入ってしまった。谷川さんのライブは何度か生で拝見したこともあるが、その作品朗読の穏やかな声が好きだ。意図せず強張らず演出せずといった感覚で、御自身の内なる自然な言葉を声に音にする素朴さに心を打たれる。また、トークが始まれば聞き手の質問の趣旨に対して谷川さんは、必ず優しく皮肉的反逆的な答え方をするのも楽しみの一つ。この日のライブでも「絵本の翻訳を始めたきっかけは何ですか?」と問われて「生活費ですね」と答えて会場の笑いを誘っていた。
宮崎歌会で身近になった俵万智さんの絵本の朗読を聴くのは、初めてかもしれない。だいたいにして短歌の話題しか話さないので、「朗読」について問い掛けたこともない。Web配信ながらその読みの語り口を聴いていて、短歌作品が我々読者の心に飛び込んでくるのと同様の魅力が感じられた。谷川さんも「俵さん朗読が上手いですね」と言うと、「(高校の教師だったので)教科書の読み方しかできなくて」と謙遜していたが、御自身の息子さんに絵本を通したコミニケーションを重視して来ただけに、聴き手の心に届く語り口を心得ているように感じられた。それはアナウンサーの技術的な語りではない、翻訳した「言葉」へのこだわりを持った語りだと受け止められた。トークでは「翻訳」に対する姿勢の話題にもなり、谷川さんが「外国語が持つ本来の音の響きは翻訳では消えてしまう」と発言すると、俵さんが「途中から原文(外国語)を見ずに日本語としてどう響くかを考える」といった趣旨の発言をされた。短歌の上での「言葉の選択」という意味でも「音」を重視する共通点が垣間見えて、翻訳とは「新たなる創作」なのであるとあらためて確認できた。
僕の著書にも引用した谷川さんの詩
著作権に関するお手紙とお電話のやりとりが懐かしい
こんな関係のお二人が、「絵本」トークを実現したのも何かの縁ではないかと結びつけて・・・
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サンタさんへの手紙
2014-12-23
「そうだ!私は子どもですって、手紙を貼って寝ればいいんだよ!」
子どもの豊かな想像力に敬服。
今年もXmasが近づいた。サンタクロースを信じるや否や、という子どもたちへの調査結果などをWeb上で見た。ここでは、その結果を問題にするのではない。肝心なのは年齢を問わず、「夢」をどう考えるかということである。昨年も小欄で紹介したXmasのベストセラー『サンタクロースって、いるんでしょうか?』(1977偕成社・2013改訂114刷)には、こんな記述がある。「ただ、信頼と想像力と詩と愛とロマンスだけが、そのカーテンをいっときひきのけて、まくのむこうの、たとえようもなくうつくしくて、かがやかしいものを、みせてくれるのです。」と。
冒頭の子どもの発言は、ある保育園での出来事の記事。子どもが「先生は大人だから、サンタさんからプレゼントもらえないの?かわいそう〜。」先生は答えて「じゃあ、子どもみたいなパジャマで寝れば、もらえるかな?」子ども「でもからだが大きいからわかっちゃうよ」先生「じゃあシャツに足まで入れて小さくなれば大丈夫かな」子ども「シャツがのびちゃうからダメだよ。」などというやり取りの後、冒頭のように「手紙」という手段を子どもが発案したという内容であった。まさに「信頼と想像力と詩と愛とロマンス」に満ちた話である。
どうも最近、ファンタジーの世界を甘く見ていた自分に気づいた。何事も現実的発想で処理し、世相に対して憤り、効率化に躍起になりノルマを課して自分を責め立てていた。「たとえようもなくうつくしくて、かがやかしいもの」など、見ようとはしていなかったのではないかと気づかされた。それを前段に記した子どもの豊かな想いの話が一掃し、心を洗い清めてくれたようであった。先日もゼミの忘年会で、「ディズニーランドは好きかどうか?」という話題になったとき、「教員として遠足の引率で行った際には、あまり楽しめなかった。」と答え、その上で「所詮は、人造物だから。」と付け加えて、ゼミ生に驚かれた。そう、これは僕がまったく「心が荒んだ大人」になってしまっていた証左であろう。「カーテンをいっときひきのけて、まくのむこう」に存在する「夢」を忘れてしまっていたような気がする。
「文学で想像力を」と標榜するのなら
「詩と愛とロマンス」もお忘れなくである。
こんな子どもの想像力を活かすためにも、豊かな未来社会を創らねばなるまい。
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里山と絵本と狂言鑑賞
2014-03-22
花も咲き始めた里山で、絵本の世界に心癒され、
古典芸能に笑い興じるひととき。
現在の赴任地に来て以来、季の節目ごとに訪れている里山がある。「木城えほんの郷」そこには巷間の喧騒をいつしか忘れさせてくれる、癒しのひとときが待っている。車で小1時間ほど走り、次第に山と渓谷の際にある「落石注意」の看板が目立つ道をひた走る。その道の風景そのものが、異世界への入口を十分に感じさせてくれる。いつしかファンタジー満載の空間へ僕らを誘う。
絵本はただ何となくページを繰っていてもいいのだが、著作者の原画を見ることで更に深い興味が湧き立つものである。この日は、『ますだくん』シリーズや『パパカレー』・『「けんぽう」のおはなし』などで著名な武田美穂さんの原画展が開催されていた。登場キャラクターの愛くるしさ、描画素材への関心、巧妙な立体的描写など、絵本のみではわからない「絵画」の魅力が存分に味わえた。
星が輝き始めたら「開演時間」という妙の中で、「お花見狂言会」を鑑賞。昔話に曰く「冬の間に山に籠っていた「サ(田のこと)の神」が、人々に田んぼの作業を始めるように知らせるために里に下りて来る。その「サの神の座る場所」という意味から、「さくら」という名をつけて人々はお花見を始めるようになった。」という。その他様々な花に囲まれ、人々は「まれ人」の芸能者を招き、神を讃え大地の恵みと人々の幸せを祈願するという世界を現実に再現したのが、この狂言会である。
茂山狂言会の方々によって、「鬼瓦」「水掛聟」「蝸牛」の三演目が水のステージの輝く星空の下で演じられた。里山に響く狂言の所作・台詞や笑い声を、神も照覧。天空と山々の自然と僕たち鑑賞者が一体となって、狂言の演じ手に視線を注ぐ。未だ寒さも堪えるのであるが、「たき火」の暖もよろしく、笑いを発することで心が温かく穏やかになるのが自覚できた。古典芸能の本来的な意味とは、実はこうした自然との共生を求めたものなのではないかという思いを、新たに発動させてくれるステージであった。
里山にあるファンタジーの現実。
この逆説に満ちた空間がとても好きだ。
自然の神に出逢うために、今後も節目ごとに訪れたい。
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ジオラマの魅力
2013-12-26
手に取れない世界を凝縮して、眼前に展開するジオラマの世界。
ときにその精巧さに驚くことがある。
現実をコンパクトに再構築する行為。
そこのある想像力と柔軟で豊かな心。
再び絵本の話である。あべはじめ作の『クリスマスのよるに』(BL出版2013年)では、母親と二人暮らしの少年が、一人でクリスマスイブを過ごし不思議な体験をする物語である。そこで焦点となるのが、机上にあった"スノードーム"である。硝子玉の中に降雪の光景を再現した、コンパクトなジオラマである。そこで少年が体験したこととは・・・?
僕も少年の時から、ジオラマが大好きであった。高級なものは身近にはなかったが、「サンダーバード秘密基地」の模型が、自分で作れもしない年齢ながら欲しくて、母親に組み立ててもらった記憶がある。その基地からは1号から4号までの救助機が出動動作をし、宇宙ステーションである5号は、針金に支えられ基地上空に浮いていた。サンダーバードは、「災害救助」がそのストーリーの要であるから、出動以後はテレビで見たものを再現するか、自分の中で「物語」を創作してミニカーを使用したりして、「救難」する物語を想像し再現していたものである。
僕が研究する平安朝和歌にも、ジオラマが登場する。洲浜や屏風絵といった類のものがそれで、その虚構の光景を基にして、作歌するという行為がなされる。自然を一旦はコンパクトな把握できる世界に凝縮して、それを如何にも自然そのものであるかのように言語で再構成するという芸術的作業である。書物の中の文字文化のみならず、人間は鳥瞰的な世界観を立体的に再現し言語と関わらせることで、豊かな心と想像力を練磨してきたといってよい。
いま読んでいる書物に、次のような一節を見つけた。「カチカチに固まった身体で精密な運動をすることはできない。」その書物でも指摘されているが、「思考」でもまったく同じことが言える。柔軟な心があってこそ、精密に物事を考え判断することができるのだ。精巧なジオラマを生み出す精緻な作業にも、たぶん手先のみならず想像の柔軟さが求められているはずである。そこに僕たちは、世界観を感得できるゆえに、そのコンパクトな"虚構的現実"に魅せられるのであろう。
絵本の中の豊かで温かい心のあり様。
いま国語教育で必要なのは、こんな部分かもしれない。
Xmasを過ごして得られた感情の機微。
絵本によって、また新たな自分の心の方向性に気付く。
いつも童心を忘れぬ無邪気さの中に身を置いていたい。
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『サンタさんありがとう』のあたたかさ
2013-12-25
「クリスマス・イブのひになりました。プレゼントをつつみおわったサンタさんがいいました。
「さあ、これでじゅんびがすっかりできた。
くまさんもきれいにリボンをむすんで、
でかけるしたくをしなくちゃね」
くまさんはそーっと、サンタさんにちかづくと
サンタさんにいいました。
「ぼく・・・ずーっと、サンタさんといっしょにいたい。
なんでもおてつだいするし、
いいこにするから、
ここにいてもいいでしょ?」
『サンタさんありがとう』(長尾玲子さく・福音館書店1998年)より
クリスマスイブの夜には、悲喜交々の物語がある。
最近出逢ったクリスマス絵本の中で、最も心の温かくなる一品から。
ロマンスやファンタジーの世界を、冷めずに享受する素直な心。
子どものみならず、大人が失ったものを取り戻せる時間。
就寝前にいまいちど読んでみた。
豊かな夢が見られた。
朝になって嬉しいこともあった。
絵本が教えてくれる世界観を大切にしたい。
冒頭に引用した「くまさん」はどうなるのか?
ぜひご一読いただきたい。
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紅葉とえほん
2013-12-02
意図せず秋の風情に出逢う。道すがら紅葉が美しさを増して行く。
もしや目的地は最高に見頃ではないかと期待を抱く。
絵本の世界を純粋に求めたら紅葉のご褒美までも。
俗界を忘れさせてくれるえほんのある”桃源郷”に再び。
5月にはアーサー・ビナード氏、9月には俵万智氏の講演があって訪れた「木城えほんの郷」を再訪した。「三度目の・・・」の成句のごとく、”まさにこの時”というほど紅葉が見頃であった。春・夏に続き「秋」の里山を満喫。駐車場前にある村の小学校の傍からして素朴な樹々の紅葉が美し過ぎる。ついついそれらを観賞しつつ歩みは緩やかとなり、「えほん館」に行くまでにかなりの時間を費やした。
だがそれは、「えほん世界」に没頭する自覚なき伏線なのであった。何事も効率第一で直線的に進むだけがよいわけではない。予定の枠組に囚われず緩やかに歩む心こそ、”豊かさ”を生み出すのであろう。一度も腕時計や携帯(通信・時計機能と言った方が正しい。カメラとしてのみ使用していたということ。)を見ずに存在し続けられる”とき”を得られるというのが、この里山における”正の呪縛”なのであった。それは”桃源郷”の入口たる洞窟のごとき空間であった。
ランチをとりながらも、販売しているえほんが気になる。心が次第にファンタジーへ向かって揺さぶられる。いくつかのえほんキャラクターが、僕に話し掛けて来る。その声は、世界で此処にしか存在しない天使のごとき声である。ときに師走1日でもあり、クリスマスの雰囲気漂う作品たちが、尚一層情緒的な心へと誘導する。
開催期間となったばかりの企画展は、「長尾玲子の刺繍絵本の世界展」。糸により刻まれた繊細なデザインと色彩感覚が見事だ。展示された作品も『サンタさんとこいぬ』『サンタさんありがとうーちいさなクリスマスのものがたり』(福音館刊)などで、自ずと年の瀬に思いを致すことになる。刺繍の美しさに加えて、そのストーリーの温かさ。クリスマスは「ちいさな」ことであってもこのように夢を抱いて過ごしたい、と思わせるような心のストーブのような作品群であった。
その後、えほん図書館でも時を忘れて物語世界を旅した。既知のえほんの再読もまた愉し。そしてまた新たな邂逅を遂げたえほんもたくさん。えほんは、その時の自身の心を、ファンタジー世界上に鏡のように浮かび上がらせてくれる。何の不安や心配もなく、その物語は優しく僕に語り掛けてくれる。まさに時を忘れて閉館時間直前となっていた。
帰り際に「水のステージ」へ。
黄昏時の其処は、里山を囲んだ山の際に美しい雲がたなびいている。
目の前にはすすきが微弱な風に揺れていた。
心が大きく動いた一日。
あらためて絵本の収集を決意した日でもあった。
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