活字になる嬉しさー『短歌往来』2023年7月号評論
2023-06-20
評論・21世紀への視座「牧水の鳥の歌」
特集「鳥類の歌」に寄せて
初めて公刊雑誌に自分の論文が活字化されてから、概ね25年ほど経つであろうか。あの時のことは今でも忘れられない。現職教員と大学院生の二足の草鞋を履き、専任教員の仕事をこなしながら必死な思いで論文を書いた。学部時代からの懇意にする先生方2名も背中を押してくれて、様々な形で助言をいただいた。印刷が仕上がって送られてきた雑誌の当該ページを、何度も何度も読み返したのを覚えている。現在のようにデジタル技術が日常性を帯び、身近にある印刷機で簡単に印刷できる前時代を生きてきたせいか、その感慨は一入であった。あれから既に公刊の論文は40本を超えた今でも、新たに活字になるのは誠に嬉しい気持ちになる。昨日も『短歌往来』7月号が手元に届いたが、冒頭に記したように評論「牧水の鳥の歌」を寄稿し、表紙に名前が明示され自らの原稿が活字化されている。
現在の朝の連続テレビ小説「らんまん」は、植物学者・牧野富太郎をモデルとしたものである。植物学雑誌の公刊のため明治初期には、石版印刷の技術を自ら習得し石版に絵を描き印刷に漕ぎ着けた様子が描かれていた。手書き原稿・活字を拾う技術の時代、現在以上の公刊の嬉しさは計り知れない。牧水も明治40年代の学生時代から、自らの歌集公刊及び雑誌発刊に出版社とのやりとりに奔走している様子が資料から窺い知れる。しかし、第1歌集出版の際などは出版社の経営が不安定で主人が急に田舎へ帰ってしまい暗礁に乗り上げ、恩師の尾上柴舟に費用を工面してもらい自費出版で何とか公刊したというエピソードがある。牧水は大学卒業を間近に控えての試験よりも、自らの歌集公刊に向けて校正の方に夢中になっていたと云う。それほど「活字になる」というのは喜ばしく光栄なことであることを、僕らも忘れてはならない。小欄もそうだが、Web上では簡単に文章が公にできる時代。だが印刷物として公刊するまでの時間と執心の度合いは桁違いなのであり、小欄などは書き流していることをあらかじめお断りせねばなるまいか。「活字になる」という成句のある時代に生きられてよかったと、つくづく思うのである。
書かせていただく場に感謝
自らがどんな状況でも原稿に向き合えること
牧水と同様に僕自身も鳥たちが友だちになったという成果がある。
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オンライン学会ー開催方式の葛藤
2022-11-20
自宅あるいは研究室他の所用をこなしながらも参加可能
終了後には語り合えない空虚感も
和漢比較文学会西部例会がオンラインにて開催され、例会前の理事会から参加した。感染状況を鑑みて例会開催方式をどうするかは、様々に議論されてきている。だが少なくとも半年前ぐらいから計画し発表者を募集し会場(開催方式)などを決めるゆえ、進む先の感染状況も十分には捕捉しづらい。どちらにするかとなれば「オンライン」がまずは安全なので、こちらが選択される場合が多くなる。会場校の負担はあるが、今年度はだいぶハイブリッド方式の開催も増えた。だが実際のところ準備をした対面会場へ足を運ぶ方は少なく、双方があると「オンライン」の選択に人気があるというのが実情である。僕自身も学会の大会開催校の経験があるが、会場を設定し運営するのはかなり大きな負担がある。会場校としては準備をしたからには、多くの方にご参加いただきたいと願う。そんな思いを考えるに、感染状況に左右されるこの2年半の期間はさらに複雑な思いと負担を強いられる学会運営である。
さて「オンライン選択」が多いというのも、ある意味で必然なのかもしれない。多くの大学の先生方は明らかに過去より忙しくなっている。休日にも説明会とかオンプンキャンパス、はてまた推薦入試と抜けられない校務があらゆる大学で増えている印象だ。もちろん行事にあらずしても、書類作成の負担が過去よりもかなり増量・煩雑であるという声も多く聞く。はてまた研究費の減額によって、必要な学会全てに出張することが難しい実情もある。このような学会に参加しづらい状況を、幾分かは改善してくれるのが「オンライン」である。自宅か研究室かの選択はあるが、とりあえず「オンライン」に繋げば部分的にでも参加はできる。何らかの校務があれば、全てを諦めなければならなかったのとは大きな違いがあり、特に「例会」などは断然に参加しやすくなった。よって今後も「オンライン」を併用する開催方法は維持されるであろうと思われる。休憩時間や発表終了後に「ブレイクアウトルーム」を設け、発表者や司会者が語り合う工夫も為されるようになった。それでもなお「終了後は一杯飲みながら語り合いたい」と思う向きも捨てきれない。オンライン参加の微妙な思いは、今後も続くのだろう。
自宅で宅配を受け取ることも可能だったり
時間と労力の上では大いに効は多いのだが
終了後は近所の親友と一杯と相成った
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コロナに萎えない文学研究であるために
2022-10-10
オンラインの向こう側で会っていた2年半リアルに会うことで気づくお互いの過ぎし日
あらためて研究の足場を見つめるために
和歌文学会大会2日目、大崎と五反田の間にある立正大学品川キャンパスへ向かう。山手線の北東部で生まれ育ったがためこの地域には馴染みがなく、新駅である「高輪ゲートウェイ」を初めて通過する。この「コロナ感染拡大トンネル」の間に新しく生まれたものもあり、また衰弱したものもあると知る。僕が学部時代に助手をしていた時からの付き合いである先輩が、SNS投稿で「自らも含めて病いや老いを感じられる方々が多くいてショック」という趣旨の投稿をしていた。たぶんオンラインで会ってはいるが、それは身体的変化を他者に知らせず「会った」という表現が憚られる行為なのだと悟った。今回も「オンライン」を選択することもでき、そのためか申込数は海外を含めて300名以上という会場校からの報告もあった。コロナ以前の大会では考えられない人数が関心を寄せているのがわかる。だがしかし、僕は遠方であるにもかかわらず「対面」を選択した。交通費・宿泊費をつぎ込んだだけの成果は何か?さながら「2年半」のトンネル内で煤けた闇から、リアルに人々と逢える世界を体験したいからだ。
「生の現場に立たされる」研究発表から多くの刺激を受けて、そんな思いに至った。この日の研究発表は4本、午前中は文化史・和歌史の上で「巨視的」な内容、午後は書誌学・文献学的に「微視的」な発表で好対照であった。僕自身の興味は午前中の内容に傾くのだが、「奈良・平安・鎌倉」の和歌史を通底して何が言えるか?という自らの問い掛けが新たに発動した。自身のテーマで「この部分」をさらに明らかにしておけば、この発表の「此処」を埋める説明がつく。研究発表をひと通り終えて、そのまま羽田空港に向かったが搭乗便までの時間で「此処」を思いつくままに書き出してみた。こうした意味で、これまでにやってきた古典和歌の研究をより体系的にまとめる時期になったのだと自覚した。宮崎にいることで得られた「作歌」をする立場の視点を加え、「古典和歌の作歌活動」の和歌史上の意味を明らかにしたい。ある意味で「研究学会」には、参加する者の「人生」が載せられている。「病いや老い」の問題を含め、感染拡大の闇に萎えない文学研究のために「対面」でこそ悟る現実があった。
宮崎・尾道・大阪と遠方の方々とのひと時
「あなたはどうしていますか?」を問うための対面学会
来週末は山口大学まで同じ志の発動を求めて向かう!
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うたのジェンダー「男歌」「女歌」と古典和歌
2022-10-09
和歌文学会大会「うた/絵/物語」シンポジウム詠歌主体(作中主体・詠作主体)
作者としての歌人と実像としての絵のことなど
3年ぶりに対面+オンライン併用で開催された和歌文学会大会。「3年ぶり」というさらに2年前、2017年10月21日22日には宮崎で大会を主催したことは忘れられない思い出である。台風を懸念して、なるべく10月下旬まで日程を下げたにもかかわらずの台風直撃。それでも会場には関東・関西から70名ほどの会員の方々が宮崎を訪れてくれた。今回の大会の会場参加が「70名ほど」と聞いたので、よくあの悪条件の中でも通常並の人数が集まったものとあらためて思う。いや、「対面」+「オンライン」という形式は学生の講義同様に「オンライン選択」が増えるということであろうか?会場である立正大学品川キャンパス石橋湛山講堂の広く立派な容量からすると、いささか寂しい感じを受けたのは僕だけであろうか。感染拡大のトンネルを抜け出そうとする今、「文学研究」に関わる研究学会組織の「基礎体力」が誠に心配になってくる。会場に行けば、リアルに多くの方々に声を掛けられる。オンラインではできない効果として大きいと実感するが、こうした上京・滞在の負担なく同等の内容を聞くことができる「オンライン」の有効性も会場から思い計りながらシンポジウムの時間が流れた。
この日のシンポジウムで何より勉強になったのは、田渕句美子氏の基調報告「和歌のアンソロジー 『男歌』『女歌』、そして歌仙絵の観点から」であった。詠歌主体(作中主体・詠作主体)の問題は、古典和歌から現代短歌までを通底する問題として考えねばなならいとかねてから思っていた。特に「『古今集』の『ことば』のジェンダーとそこからの逸脱」という指摘は、先行研究を引きながら前提として据えられた点は考えさせられた。「うたの私性」とは何か?「うた」は、作品化してひとり歩きをする。詠歌の場や素材そのものが、「舞台」のような装置として演出されることも少なくない。一見「個」が重んじられるように見える「現代短歌」においても、「役柄」とか「脚本」の設定がなされ「リアル」ではない演出された表現が為されていることを自覚すべきだろう。これは古典和歌においては尚のこと、「勅撰集入集歌人」や「作歌の場の公共性」などを十分に考えた上で読み解くべきと思う。特に「恋歌」の「私性」の問題については、自己の課題として探究を進めていきたいと貴重な契機をいただいたと思う。
オンラインは会場を一瞬にして去るが
気の知れた仲間たちとさらにシンポジウム内容を語る時間が必要だ
対面を選択した意義は閉会後にあるのだ。
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研究発表司会として
2022-09-26
自分が発表をした際のことを思い出し質問を予想して事前に要点をまとめるべく資料を読む
時間内での進行を心がける陰の存在として
第41回和漢比較文学会大会オンライン2日目。研究発表が5本行われるにあたり、午前中最初の司会を担当することになっていた。司会担当は準備理事会で決定されるが、発表される研究分野に近い領域の研究者がするのが慣例である。所用で準備理事会に出席できなかったゆえ、学会事務局の先生からメールをいただき発表内容からして快諾をした。2日前からダウンロードできる発表資料を事前に読み込むと、参考文献に僕自身の論考もあり当該の素材の和歌が引用されている。あらためて自らの過去のの論文も読み直し、今回の発表の論点と絡む点を確認しておく。若い方の研究発表に関わるに、やはり自らが若い頃に発表した際のことを思い出す。その時の気持ちになって、発表者が十分に質疑応答で成果があるように司会者は努めるべきと思う。
今回のご発表者の研究内容は、今後においての論文化などもあろうから小欄での言及は控える。発表時間の35分間は実に適切に遵守され、提示された資料も的確な内容であった。司会を担当した際に質問者がいるかどうか?は実に大きな焦点である。もし質問が出ない場合は、司会者自らが質問を準備し議論を活性化せねばならない。前述したように自らの研究領域に関連した内容であるゆえ、特にこの日は僕自身が自信のある論考に関する内容なので発表を聞いた段階で3点ほどは質問が用意できた。同時にこうした質問を用意することが、参加者からの質問の予想ともなり議論を整理していくのには役立つ。極論をすれば研究学会に参加するのは、「質問をするため」であると言っても過言ではない。短歌実作も同様であるが、発表を聞いて「ああそうですか」という思いを抱くのではなく、「謎に突っ込みたくなる」のが魅力ある表現であり研究ということが言えそうだ。
様々な分野の発表からの刺激
自らの今後の研究へ扉を開く意識が発動する
2日間、自宅書斎でのオンライン学会が終了した。
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ただ元に戻ったと喜ばないためにー研究学会の方法
2022-05-23
研究発表25分・質疑応答15分午前3本・午後4本の発表後に総会
無事に対面学会を終えて考えたこと
この2年間の感染拡大期に一般化したのが、テレーワークなども含めたオンライン化だろう。我々が関わる研究学会もオンライン化して、最近でも「ハイブリッド方式(対面会場もオンライン視聴も双方を選択できる方式)」などがほぼ一般化している。地方在住の僕などにとっては時間的・地理的・経済的に誠にありがたい発展であるとも感じている。今回の中古文学会も同時双方向ハイブリッドではないが、2日間の様子を録画撮影してありしばらくの間に視聴が可能となる。参加者名簿には300人以上のお名前があったが「録画視聴」のみという方もいる。当日の受付での接触を減らす配慮ということだが、資料の事前配布などはシンポジウムや研究発表の予習ができるという利点もあった。開催校や事務局としては、こうした開催方法の選択だけでも大変なご苦労だと察するに余りある。それだけにコロナ以前よりも有効な議論ができて、研究のさらなる発展を期する方法はないものかと欲も出て来るものだ。
大学講義のオンライン化にあたり、必須な条件は「双方向の対話があること」であろう。一方的に動画を提供するだけでは、オンライン講義としては不十分だ。対面学会の良い点は、休憩時間や懇親会の時間に、質疑の延長が語り合えることのようにも思う。今回は先月の他の学会ハイブリッドに参加した際に、僕が質問をした院生の指導の先生としばらく立ち話で議論を深めることができた。同様の意味では、この2年間に開催されたオンライン学会の振り返りなども懇親会の席上で対話したかった思いがあった。研究発表は大切であるが、果たして対面でオーラルで語る意味を十分に成したものであるかは、今一度考えてみてもよいかもしれない。ラウンドテーブルとかワールドカフェなど、同分野の研究者がお互い刺激し合う方式などを既に取り込んだ学会もある。「話す聞く」ことで自らの考えが刺激を受けて更新するような方式を、文学系の学会でも模索しても良いのではないだろうか。ただただ「元に戻った」と喜ぶだけではない、いわばこの2年間が暗闇ではなく次へのバネになる期間であったことにするために、これを期しての革新が求められるのではないだろうか。
総会の議長を務め次期大会や事務局も決定
挨拶を交わして地方へ帰る事情などを話す風景
「この学会が本来やるべきこと」を乗り越えたところに未来があるはずだ。
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中古文学会春季大会ー3年ぶりの対面開催
2022-05-22
受付は置いてある名札を取るのみ資料は事前配布にて会場要員を減らすなど
懇親会はシンポジウム会場にて黙食弁当から
東京地方は午前中からやや激しい雨、スーツの革靴を濡らしつつ会場となる専修大学神田キャンパスに向かう。靖国通り沿いにお洒落な商業施設かと見紛うほど、全面ガラス張りの校舎のエレベーターホールに入った。3階の学会会場に行くと受付に名札があり各自で探してそれを身につける、会場校の学生さんの手伝い人員を減らす配慮と聞いた。横広の真新しい教室に横を一席ずつ空けて座る。3年ぶりの開催とあって、久しぶりに会う研究仲間との再会が嬉しい。思わずその場で話し込み、マスクながら「密」などという概念を忘れている自分がいる。シンポジウムは「源氏物語を〈読む〉ー現在の研究」で中古文学会の原点のような内容であった。仔細に掘り下げられた「源氏研究」では、もう「落穂拾いしかできない」のではないかという危機感、あらためて「主題」「読者」「准拠の重層性」などへの問い直し、上中古の「無常」というキーワードを概観し『源氏』の「世」について時代の「気運」を読もうとする試みなどが基調発表された。その後、熟練した御三方同世代の発表に対して若手世代の司会者から鋭い突っ込みのある討議。これぞ「中古文学会」だったなあとやや懐かしさまで感じる雰囲気が漂った。それにしても会場校の方々は、マイクカバーを一人ずつ替えるなど感染対策に余念なくご苦労されていた姿には感心した。
懇親会も感染に深く配慮した方法が考案されていた。シンポジウム会場で事前申し込みをした高級弁当が配られ、そのままの席で各自が「黙食」。食べ終わる頃にシンポジウムのパネリストと翌日の発表者が挨拶をする。その後、最上階で都心の眺めよろしきホールへ移動、本来なら立食ビュッフェがある空間はただただ広く空いている。3年ぶりでマスクをして顔もよくわからないという配慮から、全員が15秒程度で名前と研究分野を自己紹介。しばし時間を要したが初の試みであった。その後は諸々の先生方とあれこれの情報交換の時間となる。僕は個人的に2020年秋季大会オンラインシンポジウムで「古典教育」に関するパネリストを勤めたので、その後に開催される初めての懇親会であるゆえ、諸々とご意見も伺いたかった。しかしやはり、こうしたことは討議の直後の熱いうちにしないとならないことも実感した。オンラインシンポジウムを終えた自宅書斎で、執拗にパネリストや他の先生方と酒を飲みたい気分であったことを思い出す。対面開催とはいえ未だ酒は難しいか、一歩一歩さらなる日常化を模索していくべきだろう。
「古典文学」の学会としていかなる将来へ向かうのか?
この2年間の対面なき空白期がどんな変化をもたらすだろう。
本日22日は7本の研究発表と総会が開催される。
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ハイブリッド学会の新しい参加方式
2022-04-24
京都に対面会場を設置しオンライン参加も可能休憩時間には発表者や関係の方々でブレイクアウトルームを
そして自宅書斎からは複数の「学会梯子」も
西部例会委員を務める和漢比較文学会の例会が、ハイブリッド方式で開催された。会に先立って行われた理事会ももちろん「ハイブリッド」、用語に馴染みのない方のために注釈をしておくと、対面会場を設けつつその会場の映像を配信しながらオンライン上でも参加できる方式のことを指す。僕のような地方在住者にとっては今回も京都まで出向かなくとも自宅書斎で参加することができるもので、コロナ禍による怪我の功名ともいえる方式である。例会委員を務めているため、この方式に到るまでにメール会議を幾度も積み重ねてきた経緯もある。まずは会場予約から機材設置までの煩雑な仕事をこなしていただいた京都の先生方には深く御礼を申し上げたい。予想外に対面会場での参加者が少ない状況が報告されたが、学生たちの講義同様に選択できるとなると自宅でのオンラインを採る方が少なくないということか。僕は委員としての責務もあり、オンライン参加ながら通信や音声に支障がないか、画面共有資料は問題ないか、という点をホストPCがある京都会場へチャット書き込み機能を使用して伝えるという役目を担っていた。
理事会・例会いずれも順調に会は進行した。2本目のご発表は和歌関係であったので、質問もさせていただいたが、こうした機会に臨むことで自らの研究への意欲がまた高まるものである。今回のハイブリッド開催で工夫されたのは、休憩時間に「ブレイクアウトルーム」を設置したことだ。再び用語の注釈をするならば、オンラインで話せる画面を分割して個室を設定しそこに入ってきた人だけによる会話ができる機能のことである。講義でも学生たちを分割して班別で対話活動をする方式として僕もよく利用していた。前半2本の研究発表の後に発表者・司会者ごとにこのブレイクアウトルームが設けられたので、質問をした方の部屋に入室した。すると発表者の指導教授も入室しており、質問したことに御礼を仰っていただいた。対面のみだった頃の学会ではこの休憩時間に質問の先を語り合うことが大切だと思っていたが、この意味で今回の試みは長けたものであった。休憩時間以降に3本目のご発表、僕個人としては早稲田大学国語教育学会で「和歌創作」に関する実践発表があるのが気になり、2台目としてノートPCを研究室から持つ帰っていたのでそちらも起動してもう一つのオンラインにも参加した。オンラインであれば、このように「学会の梯子」もできるものかと、我ながらその利点を存分に享受した気持ちになった。もちろん2台目の参加においても質問をさせてもらい、若手の院卒現職教員の先生方との交流ができたことに喜びを覚えた。
今後は学会の全面対面がどのようになって行くものか?
ハイブリッドによって出張費も時間利用も効率的に
されどやはり懇親会のない学会はあくまで物足りないと思う向きも多いであろう。
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丹念に積み上げてこその著作物
2021-10-16
「ネットにありました」がなぜ危うい情報なのか
2021年をかけて積み上げた著作物
新刊自著の初校が大詰めを迎えており、自宅書斎に積み上げられた参考文献から引用した箇所の照合、文章内容や展開の妥当性、もとよりわかりやすさなど、ペンの赤インクがなくなるほど力を尽くしている。思い返せば今年の松の内が明けて企画書を出版社に送り、内容が認められて「GOサイン」が出たのち、寒さの中で冴える頭をひねり完全元原稿を春先に仕上げた。4月以降、編集者とのやり取りでいくつかの改稿が提示され、粗粗しい部分が次第に整えられて行った。前期講義と並行しての作業は思いの外時間を要し、夏休みになっていつでも校正ゲラが出て来てもよいように体制が整った。もはや僕自身のペースのみならず、出版社の仕事の配分・進捗ももちろん作用し今に至る。こうして小欄を記す机の脇には、今も使用した参考文献が山積みされている。1冊の著書を刊行するまでには、誠に多くの時間を費やし参考文献からの情報収集、質的な検証と執筆・校正・確認に伴い、企画・編集・デザインなどの仕事が丹念に積み上げられて、ようやく1冊が仕上がる訳である。
予価¥1600円、内容タイトルにちなんで今年のクリスマス時期までには発刊予定である。この値段が市販される自著の価値なのかなどと、好きな感覚ではないが世相なりの金換算を考えてみる。例えば、小欄をみなさんがネットでお読みになるのは「無料」である。それは僕が朝起きて、その時点で脳裏に残る前日のテーマを勝手に考えて、独善的に文章にして発表しているに過ぎない。書き始めから30分から最大1時間以内の作業である。よって丹念な蓄積に基づいた情報ではなく、「思いつき」感が満載である。もちろん内容はそれなりに的確さを意識はするが、時に勘違いした内容をそのまま記しているかもしれない。されどこうしたブログなどを毎日更新していれば、いっぱしのエッセイストかのような真似事が可能だ。この点が「ネット」の融通性のあるところでもあり、また情報として危ういところでもある。最近、よく学生が講義内容やレポートなどの参考に「ネットで調べました」と平然と言うようになった。少し以前まではネットで調べたとしてもそうは公言しなかったが、さらにその情報の危うさへの意識が薄くなってしまったようだ。古典本文も現代語訳も彼らの「辞書」はスマホ内にあるのだ。教員を育てる立場として厳に意識を改善すべきと教室で目くじらを立ててしまう日々だ。少なくとも「演習」などを通じて、自らが著作を執筆し発刊するようなことの疑似体験をさせたいと思っている。
多くの資料のそれぞれがまた
多くの時間を費やして執筆・編集・出版されている
などと1時間以内で書いている今日のこの記事を、あなたはどう読むのだろう?
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世界的研究と宮崎ならではの切り口
2021-10-02
新しい10月がやって来る大学はやはり研究を発信せねば
思いを新たに秋晴れの空
所属大学では新学長が就任し、新たな体制での6年間が始まった。これまでの6年、これからの6年においても、自己の研究がどのように進んで来て、どのようにさらなる展開をするかを俯瞰する機会ともなった。教育の質・地域貢献・組織改革整備など、大学が要求される課題は多いが、やはり大学である以上、「研究」を充実させ発信し続けるという使命こそが第一義的であろう。様々な忙しさや悪条件を理由にして、いつしかそんな「基礎基本」から我々は目を背けていないか。この日にいただいた通知書を手にしてその重さを実感しつつ、あらためて「研究」の大切さを心に刻んだ一日となった。一昨日も記したが「地域貢献度」では全国でも首位の評価であり、ある雑誌が毎年のように行う「本当に就職に強い大学ランキングトップ150校」では、1桁台ランキングに「工業大学」が多い中で「8位」と上位にランキングされている。たぶんこうした数字は、「これまでの6年」の積み重ねで成し得たものだろう。明らかに「地域に根ざした大学」として前進を遂げて来たのが社会的にも明らかになっている。
真の「プロとは?」を喩えて考えてみたい。なぜ大谷翔平は、野球の本場MLBでも格段に評価されているのであろう?先発投手・長打者(スラッガー)をMLB全球団の中でも高次元の数字を残しつつ、試合に臨む姿勢やメディアに対する態度は他に類を見ないほど好感が持たれている。所謂、日本で「二刀流」と言って讃えるのだけではない、「武士道」にも通ずる真摯さと品位の高さがある。今までの「日本人選手」が、MLBに渡ると髭を伸ばしたりして現地の多くの選手の「真似事」をするのに腐心していたように見えたが翔平は違う。あくまで外見も自分らしく、爽やかで世界の誰しもから好感が持たれる。相手チームの選手を尊重する態度や、四球の連発や死球を受けた後の態度なども批判される要素は見当たらない。これこそが日本の生んだ真の「野球のプロ」であろう。翔平を見本とするならば、我々も「世界が認める研究」をせねばならない。自らの姿勢を見失わず、宮崎ならではの切り口が求められる。僕には「宮崎の短歌」に生身で向き合う、その上で研究の原点である比較文学の視点を持った研究を再考すべきであろう。世界的な視点から「詩歌としての短歌」をどう考えるか?若山牧水を世界でも評価される詩歌人に高めなければなるまい。
まず「研究」を語り合い高めよう
その姿勢を学生や県民たちに見せることで
自ずと「教育」も「地域貢献」も進むことだろう。
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