FC2ブログ

Zoom学会会議のち図書館カフェ

2020-08-20
秋季大会の打ち合わせ
Zoom(同時双方向Web会議システム)を有効に
そして気分転換に図書館カフェで読書へ

研究学会関係で宮崎を離れ東京などへ行くことが、もう半年も叶っていない。大抵は5月から6月ごろの「春季大会」時季に、最低1度は参加するのであるが。それに例会や理事会を加えるならば、1、2ヶ月に1度は上京するのがこれまでの常であった。これほど航空機を利用しない年も珍しく、東京で馴染みにしている方々とも久しゅう会っていない。こんな状況だが、ある学会の「秋季大会」に関する打ち合わせがZoomを利用して行われた。東京や関西方面の先生方との対話であったが、手軽に個々の研究室で開催できるのは便利でもある。大学の遠隔講義がまさにそうであるが、可能なものはオンラインで実施し、「対面」でなければならないものは何か?と問い返す時代となった。

約1時間半のオンライン会議は、実に充実した内容であった。「秋季大会」の展望も見え、僕自身が当該学会に貢献できる方向性が見出せた。先輩たる先生には安定した研究への姿勢を学べ、若手の先生の意欲的な姿勢に刺激を受けた。僕が歩んで来た職歴だからこそできる研究、いま現在の教育学部であるから提供できる分野については積極的な提言を進めるべきと思っている。オンライン会議を終えると、即座に研究室での日常に戻る。「雑談・余談」が十分にできないのがオンライン会議のつまらないところ、と考えるのは僕だけだろうか。「それでは失礼します」と画面から先生方が消える瞬間が、誠に寂しい。宴席を含めたこうした「雑談」の消失は、今後も何かの影響をもたらせないかと心配でもある。その後の時間を研究室でどう過ごそうかと考えて、附属図書館のカフェへと出向いた。どうも講義で教室にも行かず1日中研究室に居るのは、気がめげることが多い。「人がいる」空間に居ることが人間にとって大切な社会的時間なのかもしれない、などと勝手な仮説を思い描いたりもする。

各先生とは遠隔講義の苦労を情報共有も
図書館カフェの冷たいアイスカフェオレに目を見開いて歌を読む
研究そしてキャンパスライフ、どんな時代を迎えているのであろうか。


スポンサーサイト



tag :

オンライン中古文学会シンポジウム開催

2020-05-25
中古文学会「文学研究と国語教育の未来を拓く」
オンライン会議システムを使用し4人のパネリストが
「家にいよう」学会初参加

研究学会の季節であるが、ほとんどの「リアル学会」は中止。本来は京都で開催されるはずであった中古文学会であるが、この日は冒頭に記した内容でオンライン上で開催された。同学会では昨年来、関連したテーマでのシンポジウムが続いており、「文学」と「国語教育」の双方の業績がある僕としても、大変に気になる内容であった。しかし、パネリストからも因果なものとして発言があったが、昨秋は台風によってシンポジウムを開催するはずの初日は中止、またこの企画を中心的に進めていたご担当の先生が急逝、さらには今回の新型コロナ禍ということで、憂えるべき情勢が続いていた。今回は「オンライン」という方法を採用し開催されたのは、大変に意義深いものがあった。コロナ禍で大学の授業がオンライン化したことで、さらに「文学研究」と「国語教育」の「未来」を考えることが、喫緊の課題として我々に突きつけられた形であるからだ。

パネリストのうちの野中潤先生(都留文科大学)は当該学会の会員ではないが、むしろそれだけに興味深い発言も多かった。ご経歴からしても僕に類似していて、「文学」と「国語教育」の双方の多角的な視点からの発言は当該学会においては刺激的である。特に「古典文学」研究者というのは、なかなか広く外側からの多角的な視点を持ちづらいと自戒を込めて思う。「代替・添加・変容・再定義(SAMR)」モデルが不可避的・不可逆的に起こると云う、ICTによる授業や学習者への影響度については興味深いものがあった。またYouTubeなどを「現代の動画版図書館」のように活用する中で、「声」で身体的に伝わる「文学」の存在を問い直すことなどが啓発されると云う。四技能(話す・聞く・書く・読む)のみならず、「訳す力・動く力」つまり「つくる力」を含み込み、「楽しむ力」へと変革する教育の流れがあってもよいと云う提言である。「大人の都合と子どもの未来」という提言には、「既存」の研究・教育を問い直す刺激があった。他のパネリストの先生方の提起ももちろん刺激的であったが、今朝は紙幅の関係で主旨のみ記すことでお赦し願いたい。

河添房江先生の「動画作成(学生)実践」はコンテクストを生み出し
吉野誠先生の丹念な授業実践から「親しむ」には「批判」も必要と
萩野敦子先生の現代社会の課題も読める定番外教材の提案も


tag :

研究者教員としての基本姿勢

2020-03-29
この非常時にこそ露見するもの
権力は如何に使用するか?
良き教育は良き研究への自覚から

このような日常性を失った世情の中で、様々な社会的な物事の「正体」が露見して来ているように思う。政治は国民に対して「しっかりやる」という抽象的な立場において物事を「要請」し、最終的に各自の判断に委ねる。発せられる様々な政治側からのメッセージは一方的で、「国民の声」からは乖離した政策や感覚が示されることも少なくない。ましてや3.11以降の社会的な情報の信頼性の揺らぎが、ここに来てさらに拍車をかけて瓦解しているように思うのは「穿った見方」なのだろうか。権力を持った側が自らの立場を利用して、義務がある受容者側に物事を押し付ける構造。政治のみならず社会構造の中において、小中高大を問わない学校種の中で「教員」たる者が決して陥ってはならない基本的な意識であろう。

研究者として教育者として、如何にあるべきか?といった立場が二項対立で語られることがよくある。だがこの二者は、異なる立場のものなのであろうか?研究者として「仮説」を立て「持論」を持つのは原点でもあろう。だがその検証において絶対はなく、常に自らなるべく大きな規模の学会に身を置き、批評・批判の対象にあることを忘れてはならないはずだ。この検証と批評批判を受ける過程を避けてしまうと、それは単なる「思い込み」以外の何物でもない。あくまで研究者としての自らの考え方は、相対的な研究全般の中に置かれていることを強く自覚すべきである。この自覚があれば学生に対する際の中立公平や「持論」の押し付けが、如何に卑劣なことかが自明であるはずだ。「教育」は実は「良き研究」に支えられている。それは「自らが学ぶ」姿勢に妥協しない「研究」に向き合っていることを前提に成り立つのである。

究極の選択で何を「露見」するか?
政治家や研究者が陥りやすき過ちのある
面と向き合ったものを敬愛せよ


tag :

専門家はいかに社会で生きるか

2020-02-19
「専門家に聞きました」
報道でそのように呼ばれたことが
社会で生きて働く「専門」であるべきだが

一昨年のことであったか、「読書の秋特集」で地元TV局の取材を研究室で受けたことがある。夕方のニュースで放映になって観ると、「読書はなぜ大事か?専門家に聞きました」と紹介されCMを挟み、特集の内容が映し出された。普段からなんとはなしに他者が紹介される際に聞いていたが、己に対して使用されると我が身が「専門家」なのだと改めて自覚した。だが厳密に云うと「読書」のみの専門ではなく、「和歌短歌」を中心として「国語教育」の専門家というのが正確な紹介ではある。それにしても大切なのは、自らのコメントがニュースに流れて、社会で(少なくとも放映される宮崎県内で)生きたものとして働くものであるべきだと襟を正したことだ。研究は「蛸壺」の中にあっても針の先ほどの成果があれば認められる時代とは、大きく異なって来たことを考えさせられた。研究者であり教育者である僕らの仕事においても、社会性が求められるのは紛れもない社会の要請であろう。

新型コロナの国内感染が拡大する中、報道に様々な「専門家」たる医師や研究者たちが出演しコメントしている。その分野に素人である僕らでも、考え方が妥当かどうかあれこれとコメント内容によっては考えさせられる。中には「この専門家の意見を採用すれば現状のような感染拡大にはならかなったのでは」と思わせるものもある。政府の方針や行政において、十分に「専門家」の意見が反映されているのかと甚だ疑問である。翻ってテレビでなら「理屈」として、「言うが易し」なのではないかと思うこともある。それは研究者が往々にして実践を伴わない「空論」を述べやすい傾向にあることを、痛いほど知っている感覚に拠るものだ。大学院修士に在学時に、「発達障害論」の先生が「僕らは教育学に携わりながら、社会の問題にどれほど対応しているのか?」と問題提起したことが忘れられない。その先生は立派な研究者であり現場での実践家でもあり、「専門家」として社会的に生きる存在であることを体現して教えてくれた。行政などといかに対話して社会に貢献していくか?教師を養成している僕らにとっても、「専門家」として待った無しの現実があることを忘れてはなるまい。

「社会性」を持ち「空論」を吐かず
研究者であり実践家であるためには
文学も大学も社会的価値が問われている時代である。


tag :

締切日のさまざまな憂鬱

2019-11-24
「11月31日」ないはずの日付
「末日」と解釈していたが
それが誤植とわかる葉書が手元に

原稿締切については、手帳の月別の欄外に赤字で表示し月間計画の上で厚く意識するようにしている。構想から執筆・推敲を経て脱稿するまで、早ければ2週間、長いもので数ヶ月や半年を要するものもある。この逆算や段取りをいかに計画的に実行するかが肝要、と学生などには指導する。だが締切日に対する感覚は、どうしても人ぞれぞれのものがあるのは否めない。食事の折に好きな惣菜を最初に食べるか、最後に食べるか?嫌いな惣菜ならどうか?などと早く片付ける派と最後まで温存派は、「好きだから早く」というのと「嫌いだから早く」、「じっくりやりたいから遅く」と「なかなか手がつかずに遅く」など、複雑な心境が渦巻くものである。

週末に一葉のハガキをいただき、衝撃の内容が記されていた。今月末と認識していた締切日が、「11月3日」だと記されて「原稿を大至急」と言うのである。原稿依頼の書面には「11月31日」となっていておかしいとは思っていたが、そのまま「末日締切」と解釈していた。それが「31」の「1」の方が「0」でなく、不必要な誤植であったのだ。しかも曜日も「(月)」となっていたので、「3日」を匂わすヒントにもならなかった。偶々この連休は何の予定もなく時間があったので、慌てて原稿を仕上げに追われることになった。既に「真実の締切日」が過ぎてしまっていることへの呵責の念とともに、大変重要な「締切日」を依頼書において誤植があることへのあり得ないだろうという思いが心の中で渦巻いている。

憂鬱ではあるが締切日があればこそ
逆算のスケールをさらに伸ばしておくべき
人生はあらゆることが学びであると思いたい。


tag :

九州で文学に生きること

2019-01-15
古典研究をもってして
現代に何を語りかけるか?
あらためて自らの立ち位置をさぐる宵の口

若山牧水を始め明治時代に文学を志した者は、地方から東京を目指した。牧水が大学で知り合った北原白秋も九州は柳川の出身。九州に限らなければ、牧水と懇意であった石川啄木などは盛岡から東京へと向かった。新たな時代に西洋化近代化を目指した日本において、やはり文化の達成を高次元で叶えるには東京での活動が必須であったろう。だが果たして現在はどうであろうか?この6年間に宮崎で研究活動をしてきて、様々な通信網と配送システムの発達などによってほとんど困ることはない。研究学会などの用件で月に1度ほどは東京を目指しているからといえばそれまでだが、明治とは明らかに違い九州で活動することがむしろ貴重にさえ思うことがある。なぜいま九州なのか?そんなことを今一度、深く考える必要がありそうだ。

今回の上京でいくつかの貴重な機会が得られ、あらためて自らの研究の立ち位置を考え直している。国文学分野で築き上げてきた業績、加えて近現代短歌への評論、さらには国語教育の実績、これらをいかに配合し自分しかできない研究をこれからの5年間ほどで築き上げたいと思う。その配合具合において助言をいただける貴重な関係は、まさに九州においてこそ得られたものである。無条件に文学者が東京を目指した明治とは反対に、「東京に住まない」という選択肢に大きな意義があるように思う。もちろんそれは、簡単にはわかるものではない。「九州に住んでこそわかる」という境地まで、まだまだ達していない。だからこそ、九州の地にこだわり九州の地を愛して、自らの出身地である東京を逆照射する視点も必要ではないか。実に深い酔い語りの中に、多くのヒントが隠されていたのだ。

なぜこの宮崎の地から
牧水のような歌人が生まれたのか?
古典和歌まで通底する大きな問題が潜んでいる。


tag :

適切な質問とは?

2018-10-22
研究発表に対する質問
議論を活性化し対話的で創造性のある
場のあり方そのものが「文学の未来」を決めるのではないか

研究学会に参加するといつも思うのだが、「質疑応答」そのものの質こそが研究の未来を象徴的に表しているだろう。もちろん「問題意識」をもった発表そのもののあり方に応じて、質疑の状況も変化するのだが、その発表の意義や価値が「質疑」によって鮮明に描き出されることが望まれるのは言うまでもない。要は発表する側も質問する側も、問題意識の要点を明確にして対話をする必要がある。「質問」でも聞きたい要点が明確でなく、何を問い掛けているのかがわからないようなケースを目にすることがある。往々にしてそうした「質問」は長く、持論の主張が大半を占めて発表への理解が十分でないことが多い。少なくとも「文学を読む」ことを専門としているのであろうから、相手の意図を「解釈」しようとする姿勢が求められるであろう。

もちろん、研究には様々な視点や方法あってよいはずだ。その相違を明らかにしてこそ、個々の立ち位置がわかって来るというもの。だからこそ相互に「整理」をして対話する必要もあるように思う。例えば、研究室がどれほど整理されているかという「姿勢」は、研究への向き合い方の一つの表れのようにも思うことがある。必要な書籍がすぐに取り出せ、必要な資料や書類が「ここ」にあることが「わかっている」ことが大切ではないか。「晴」の「研究発表」やその「質疑」となれば尚一層の「整理」の中で行われる必要があると思うのである。などと考えて、まず心掛けるのは、「疑問の要点」を最初に示すこと。その上で「自分の解釈・立場」を明確に示すことではないだろうか。

著書の文体がわかりやすい方の「質問」
適切かつ的確であるということ
「聴く側」の立場を相互に意識した対話が求められよう。


tag :

塾より和歌だ!

2018-10-08
和歌文学会大会研究発表
言葉・文化の伝承を紐解く作業
僕らの言葉のDNA

第64回和歌文学会大会2日目研究発表会。7本の研究発表がなされたが、うち3本は7月の関西例会が豪雨の影響で中止になったゆえ、発表者が繰り越しでなされたという状況もあった。今年の天変地異のごとき様々な自然災害は、現在の社会の状況になんらかの啓示を与えているように思えてならない。昨年は10月も3週目に大会開催を設定したにも関わらず、台風に見舞われた宮崎大会。ご来場いただいた会員諸氏には、むしろ記憶に残る大会になったようだ。だが文学系の研究学会に対する風当たりは、昨今の豪雨や台風かそれ以上に激しさを増している。7本の研究発表からはそれぞれに学ぶものがあったが、それだけに社会的な意義と関連させて考えたくもなる。

文学系研究学会の今後のあり方・運営については、様々な懸念があるのは事実だ。まずは、事務局担当校や大会開催校を選定するだけでもままならない。この2年間に関しては、同窓の仲間が事務局を担当し、仲間の何人かの研究者がそれを支え、僕は地方大学の利を活かして大会開催を担当するチームワークであった。恩師や先輩を同じくする同窓の研究者たちの仲間意識で、運営が支えられた部分も相当にあるように思う。この日の総会でその任を終える事務局長は、感慨深げにこんなことを語った。「今日この会場に来る際に、塾の鞄を下げた子どもたちをたくさん見ましたが、あの子どもたちに和歌のよさは伝わっているのでしょうか?」概ねこんな趣旨であった。「説明文」の学習などでの技術的な「読み」ばかりを、「論理的思考」の名の下につまらなくとも押し付ける教育。そして不毛な入試による、学力の負の連鎖と階級化。純朴に「和歌を読む」、それは「人のこころをよむ」ことに他ならないのだが。

人文学の軽視が招く荒ぶ社会
僕らの世代がどう繋いで行くか
和歌の魅力を存分に社会にわからせて行きたい


tag :

第9回九州国語教育学会

2018-09-23
院生も小中高大学教員も
家庭的な中で研究発表
九州から国語教育を考える

第9回となる「九州国語教育学会」に参加した。3年前に鹿児島大学で開催された際に初参加してから、なかなか足を運ぶ機会に恵まれなかった。今回は昨年来指導担当となっている教職大学院生が研究発表にエントリーしたということもあり、当初から予定して参加することにしていた。3年前も指導の院生が研究発表の機会を得て、それを契機に自信をつけ今や出身地の教員として活躍しているという経緯もある。院生時代に内輪ではない研究学会で発表を経験することは、実に大切なことだと経験的に思う。ひとえに「研究発表」と言っても、様々な方法があることを自覚するためにも。

この学会の特長は、懇親会で多くの方々が語ったように「家庭的」であることだ。院生が自らの希望をもったテーマを忌憚なく発表することができる。たとえ未熟であっても20分間の中で、自分が取り組んだテーマを語り尽くす。その後の質疑応答も、参加者はみな前向きで建設的な意見を述べてくれる。院生の際にこうした温かさに触れることで、その後の現場での実践や研究に対しての姿勢が変わってしまうと僕は思う。こうした意味で僕自身が院生の課題研究を担当する際は、必ずこの学会で発表をしてもらうようにしている。また、勤務校の同僚として新たに迎えた先生にも、今回は学会に参加していただいた。先生の出身校の年代を前後する研究者も多くいらしており、新任の先生の新たな活躍のステージとしても期待したい。

殻に籠らず
自らを開く機会を
家庭的な地方学会こそ大切にせねばならない。


tag :

組織憎めど人を愛せよ

2018-05-28
中古文学会春季大会
併設の「源氏物語展」
大会開催校の労いを忘れず

先週金曜日の講義で「週末は研究学会で日本大学に行ってくる」と話すと、学生たちから微妙な反応があった。アメフト部の一連の騒動で、マスコミの過剰な報道にも曝されている日本大学。心なき世間が「坊主憎けりゃ袈裟まで憎い」のごとき風潮に流されているのを感じ、同業組織に生きる者として心を痛めていた。現にこの土日の中古文学会に日本大学文理学部に行くと、アメフト部の拠点学部ということもあってか正門前にはマスコミが貼り付いていて、意味もなくその光景を撮影などしている。知人のTwitterで知ったが、正門の光景がTV映像に流れそこに立て掛けてある「源氏物語展」の看板も、心なき電波に乗ったのだと云う。少なくとも「中古文学会」がTV報道される機会もなかろう、という皮肉めいた感興も抱かざるを得ないが、せめて心ある巷間のの諸氏には、日本大学は文化的に優れた活動を展開していると感じ取って欲しいものだ。

昨秋、和歌文学会大会の開催校を担当した経験から、学会大会に行ったら必ず会場校の先生には礼を尽くそうと心に誓った。今回も同じ和歌分野の研究者がおり、会場に行くや否や挨拶に伺い、帰り際にも労いの言葉を申し上げた。「源氏物語展」の準備も含めて、どれほどの御苦労があったかと想像をしつつ、同時並行した大学全体のマスコミでの扱いなどに、心を痛めていないかという気遣いもあった。その心の機微に関しては、なかなか上手い言葉にならず、むしろ誤解を与える逆な気遣いになってしまったかもしれない。それだけにである、このような大規模の研究学会の開催とともに、貴重な「源氏物語」の古典籍を日本大学が所有している事実を、より多くの人に知ってもらうべきではないかと思った。大仰な物言いをするならば、最終的な「危機管理」が可能なのは、「人文学」なのではないかとさえ思う。今回の学会であらためて芽吹いた「中古文学研究」への危機感、それを現代の人間が、至って「正常に生きる」ための糧とすべきでは、などということも考えた。

研究者仲間を僕たちは愛する
そして研究対象とする古典文学を今に蘇らせる
組織にあらず、人を愛する原点は文学にあり


tag :
<< topページへこのページの先頭へ >> 次のページへ >>