あらためて研究と創作
2021-09-20
和歌文学会第67回大会オンライン久保田淳先生講演「歌を読む」
注釈と編集とあらためて「うたをよむ」とは・・・
今秋も所属する研究学会はほとんどが「オンライン」に舵を切った。現状では減少傾向にあるものの開催の如何を決定する時期には、感染拡大が全国的に止まらず先が読めない状況であったゆえ止むを得ないことだろう。研究学会は大概は春・秋と2回開催されるので、既に4回は直接に多くの先生方と議論し交流する機会がない。講演・対談・研究発表はオンラインで行われるのだが、やはり肝心なのは懇親会なのだとつくづく思う。近況などを先生方と語り合うことで、次の研究課題のヒントを得たり、やる気が出てきたりするものだ。誠に雑談こそが、栄養素になるということである。反面、自宅のPC前で研究学会に出張できるのは、地方在住者にとってはありがたい面もある。年々減らされゆく研究費の現状では、複数の交通費・宿泊費の出費は痛い。体力的にも時間的にも日常生活との両立が可能で、都市部と地方の居住の差はほとんどなくなりつつある。
オンライン事情ばかり語ったが、この日は和歌文学会大会。昨秋の文化勲章受賞者である久保田淳先生のご講演「歌を読む」がオンライン開催された。御歳88歳と伺うのだが、誠に明瞭快活な弁舌で、研究・編集・執筆活動こそが長寿を生きる秘訣なのではないかというお顔の艶を画面越しに拝見した。以前にある出版社の教科書編集でご一緒したことがあり、編集会議等での実に謙虚な発言などには尊敬の念を深めていた。この日のご講演でも、研究者が「歌を読む」とはどういうことか?という原点を示してくれたように思う。研究者の基本は「うた」に注釈をつけることにあるだろう。「うた」を奥深く緻密な面まで掘り返し、その背景や語誌に始まり類歌などを的確に指摘してゆく。ご講演後の東大のお弟子さんに当たる渡部泰明先生との対談でも、久保田先生の卒論から生涯の研究史を遡る話題で、ご謙遜して「瑣末な」という形容も出たのだが戦後和歌研究の王道が語られる内容。あらためて「研究と創作」とは?という問題意識を僕自身は深める機会となった。
研究者の「よむ」創作者の「よむ」
「詠まなければわからない」と言えるのであろうか?
和歌研究が進むべき道は、と多くの人たちが考えたオンライン学会であっただろう。
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ようやく研究モードへ
2021-08-31
夏期休暇はいつからだろう?成績評価・入試相談会・講演・講習・トークショー
さあ!原稿を書こう!
大学の定期試験が終わったのが8月6日、一般の人々からは「夏休みでいいいですね」といった趣旨のお言葉をいただく。試験が終われば学生は「休み」に入るが、教員はそこからが成績評価のためにレポートを読んだり、試験の採点をすることになる。専攻科目の講義だと概ね30名以内であるが、全学部対象の基礎教育科目は概ね150名の受講者がいる。レポートを読むのも決して容易ではない。せめて自分で読んでいて興味深いテーマを出題し、受講者の創作短歌を味わいながらの時間として何とかお盆を挟んで評価を終えることになる。前期・後期の配分からすると前期に担当科目が偏っているため、僕の採点評価の山場はまさに8月なのである。その上、役職上ではオープンキャンパス・進学相談会などの担当もあった。今年は感染拡大で前者はやむなく中止、Webでの相談会では高校生らの進学相談を受けた1日もあった。後半は講演と免許状更新講習に先日のトークショー、それぞれに事前の準備を考えるとかなりの労力である。そうこうしているうちに8月も尽日を迎えた。
中高教員をやっている頃から「夏休みでいいいですね」という街の人の声に、やや反感を持っていた。部活動指導や全国大会部活動の応援、さらには進学講習などほとんど学校に行かない日はなかったからだ。それでも若い頃は、それで楽しいままに仕事をしていた。次第に二足の草鞋で大学院に在籍するようになってからは、前述した中高の仕事に加えて8月末〆切の論文執筆が仕事に加わった。これはかなりハードで、8月末になると宿題が終わらない小・中学生のように徹夜なみの日々が続いたと記憶する。それを街の人が「休みでいいですね」と揶揄するように言う口調には、耐え難いものがあった。(特に僕に向かって必ず皮肉のように言う商店街のある店主がいた)それでも僕自身も当時は「大学教員になれば夏休みに存分に研究ができるだろう」という夢を抱いていた。しかし、現実は前述したような状況で夏休みのほぼ半分が費えてしまう。かつてより煩雑な実務や業務が多くなっていると指摘される大学教員であるが、相対的にみて予算面も時間面でも日本の研究は大丈夫なのかと思うことがある。北欧などの教育先進国では、小中高をはじめとして教員に時間的精神的余裕があることは、よく指摘されることだ。授業・講義ひとつでも簡単にできるものではない。研究を深めてこそ、児童生徒学生に寄与する授業ができるのである。過去を省みれば、本当に「休みでいいですね」をそのままに享受した「教員」がいるのだろう。かつての勤務校にも、休み中海外旅行に行って9月はその土産話が「授業」という教員がいたことが思い出される。日本の研究・教育を世界で誇るものにする道は遠い。
さあ!自分の研究へ!
せめて9月を邁進しよう
3年生の学生は教育実習も始まった、決して「休み」ではないのだ。
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中古文学会2020年秋季大会オンラインシンポジウム
2020-10-18
「これからの古典教育を考える」お二人の先生方とともに諸分野からの問題提起
枠組みの中だけで行うのではなく批判的解体へ向かうべく
標題の中古文学会シンポジウムでパネリストを務めた。本来は北海道大学での対面開催の計画であったが、春季大会に続くオンライン開催となった。自宅の書斎で学会のパネリストを務めるというのは、人生を通じて予想だにしなかったことだ。朝から脳裏では「北海道大学」に行っていたらどんな行動をしていただろう?ということが想像される。自宅のパソコン前にスーツに身を固めて座る、どこかに日常の褻(け)のモードがあるようで画面越しにそれが出ないようにと気を遣う。先週にリハーサルを行っていたので、戸惑いもなく本番へ。発表時間内に収まることを念頭に置きつつ、プレゼン効果が高いように「原稿読み」はしないで20分の発表を終える。その後は、司会者とパネリストで討議の確認を他のオンライン会議室で行い、討議や視聴フロアーからの質問に対して答える時間へ。3時間超のパソコン前の時間は、まさに人生初体験であった。
今回の報告で提示したのは、従来からの「読解現代語訳型古典学習」から「創作・メディア制作課題型古典学習」に転換するというもの。「メディア」とは「媒介」が原義であるが、ここでは「メディア文化」と包括的に文芸創作(短歌・俳句・物語・脚本等々)や「SNS表現」に「広告宣伝文」や「ラジオ音声表現」などを指す。学習の基本は学び手の興味・関心の換気が鍵となることから、古典本文に「我」を見出し享受したものを「二次創作」として現代的に表現しようとする学習活動の提案である。既に大学生を対象とした講義の中で「本歌取り」の試みや「ラジオドラマ」の制作などの実例を紹介した。また学部附属中学校での主に実習生の行なった授業指導案から、「和歌リーフレット」や「歌物語」の制作に関する指導例を具体的に提示した。他のパネリストのお二人からも、「アダプテーション(再解釈・再創造)や「(古典との)連続性」の方向性が示されて、相互に「参与・補完」する内容の報告となり、討議に及んでそれぞれの特長が活かされた内容とすることができたのではないかと振り返る。
「国語」そのものの解体を考えつつ
入試に囚われない「文学活動」の創造を
まずは自らが向き合う宮崎県の「古典教育」を充実させたい。
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中古文学会秋季大会オンラインシンポへ向けて
2020-10-12
オンラインシンポジウムのリハーサル実施本番前1週間にて様々な打ち合わせと予備録画としても
他のパネリストの先生方のご報告にも刺激を受けて
本年度、所属する研究学会はオンラインで開催されている場合がほとんどである。5月の春季大会の時期には、初めて実施されたオンラインを聴衆として視聴した。従来ならば週末を都市部の大学へ丸2日間は出向き、初日の講演やシンポジウム、2日目の研究発表を聴き、最後に総会が開催されるのが通例であった。早ければ日曜日の最終便で慌ただしく帰るか、余裕があれば月曜日の実地踏査などに参加してから帰ることもあった。要するに少なくとも2日や3日間は出張することになり、地方大学所属の研究者としてはそれなりの負担があったと言わざるを得ない。もちろん対面性ある機会の意義を十分に認めた上で、オンライン学会は新しい時代の学会のあり方として半ば継続的に検討してもらいたい方式でもある。今回も当初は北海道大学での対面開催が予定されていたが、オンライン開催となった次第である。
今回のシンポジウムは「新しい時代の古典教育を考える」といったテーマで、昨年来、中古文学会が前向きに取り組んできた、現代における研究と教育における大きな課題についてである。教育現場で新学習指導要領が施行されつつあるこの数年において、「国語」教育の方向性を具体的に見定める営為がぜひとも必要である。そのような実情の中で「中古文学研究」はどのように貢献できるのか?「古典離れ」が喧しく叫ばれる中、研究そのものの継承とともに、我々の研究はいかに活かされるべきか?まさに研究学会の未来を考える意味でも重要な課題なのである。所属大学の学生へ高校時代の「国語(古典)」に対する意識についての感想や意見を聞くと、多くが教材そのものよりも「授業方法」によって「(古典)授業嫌い」になっていることが分かる。「古典」の中に少しも「我(自分自身)」が見出せないゆえではないかと思う。「現代にも通ずる心」があることを、指導者の解釈・思考から押し付けても高校生の胸には何も響かない。しかし、和歌の中に「我」と等質の「ドラマ」が発見できたときに初めて「古典」は学習者のものになるのである。本日のところはここまで記しておき、来週の本番に備えようと思う。
我々がなぜ研究をしているかということ
古典に楽しく向き合い学習意欲を持つことの重要性
未来はそんなに遠くない、という危機感・緊張感のもとに。
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Zoom学会会議のち図書館カフェ
2020-08-20
秋季大会の打ち合わせZoom(同時双方向Web会議システム)を有効に
そして気分転換に図書館カフェで読書へ
研究学会関係で宮崎を離れ東京などへ行くことが、もう半年も叶っていない。大抵は5月から6月ごろの「春季大会」時季に、最低1度は参加するのであるが。それに例会や理事会を加えるならば、1、2ヶ月に1度は上京するのがこれまでの常であった。これほど航空機を利用しない年も珍しく、東京で馴染みにしている方々とも久しゅう会っていない。こんな状況だが、ある学会の「秋季大会」に関する打ち合わせがZoomを利用して行われた。東京や関西方面の先生方との対話であったが、手軽に個々の研究室で開催できるのは便利でもある。大学の遠隔講義がまさにそうであるが、可能なものはオンラインで実施し、「対面」でなければならないものは何か?と問い返す時代となった。
約1時間半のオンライン会議は、実に充実した内容であった。「秋季大会」の展望も見え、僕自身が当該学会に貢献できる方向性が見出せた。先輩たる先生には安定した研究への姿勢を学べ、若手の先生の意欲的な姿勢に刺激を受けた。僕が歩んで来た職歴だからこそできる研究、いま現在の教育学部であるから提供できる分野については積極的な提言を進めるべきと思っている。オンライン会議を終えると、即座に研究室での日常に戻る。「雑談・余談」が十分にできないのがオンライン会議のつまらないところ、と考えるのは僕だけだろうか。「それでは失礼します」と画面から先生方が消える瞬間が、誠に寂しい。宴席を含めたこうした「雑談」の消失は、今後も何かの影響をもたらせないかと心配でもある。その後の時間を研究室でどう過ごそうかと考えて、附属図書館のカフェへと出向いた。どうも講義で教室にも行かず1日中研究室に居るのは、気がめげることが多い。「人がいる」空間に居ることが人間にとって大切な社会的時間なのかもしれない、などと勝手な仮説を思い描いたりもする。
各先生とは遠隔講義の苦労を情報共有も
図書館カフェの冷たいアイスカフェオレに目を見開いて歌を読む
研究そしてキャンパスライフ、どんな時代を迎えているのであろうか。
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オンライン中古文学会シンポジウム開催
2020-05-25
中古文学会「文学研究と国語教育の未来を拓く」オンライン会議システムを使用し4人のパネリストが
「家にいよう」学会初参加
研究学会の季節であるが、ほとんどの「リアル学会」は中止。本来は京都で開催されるはずであった中古文学会であるが、この日は冒頭に記した内容でオンライン上で開催された。同学会では昨年来、関連したテーマでのシンポジウムが続いており、「文学」と「国語教育」の双方の業績がある僕としても、大変に気になる内容であった。しかし、パネリストからも因果なものとして発言があったが、昨秋は台風によってシンポジウムを開催するはずの初日は中止、またこの企画を中心的に進めていたご担当の先生が急逝、さらには今回の新型コロナ禍ということで、憂えるべき情勢が続いていた。今回は「オンライン」という方法を採用し開催されたのは、大変に意義深いものがあった。コロナ禍で大学の授業がオンライン化したことで、さらに「文学研究」と「国語教育」の「未来」を考えることが、喫緊の課題として我々に突きつけられた形であるからだ。
パネリストのうちの野中潤先生(都留文科大学)は当該学会の会員ではないが、むしろそれだけに興味深い発言も多かった。ご経歴からしても僕に類似していて、「文学」と「国語教育」の双方の多角的な視点からの発言は当該学会においては刺激的である。特に「古典文学」研究者というのは、なかなか広く外側からの多角的な視点を持ちづらいと自戒を込めて思う。「代替・添加・変容・再定義(SAMR)」モデルが不可避的・不可逆的に起こると云う、ICTによる授業や学習者への影響度については興味深いものがあった。またYouTubeなどを「現代の動画版図書館」のように活用する中で、「声」で身体的に伝わる「文学」の存在を問い直すことなどが啓発されると云う。四技能(話す・聞く・書く・読む)のみならず、「訳す力・動く力」つまり「つくる力」を含み込み、「楽しむ力」へと変革する教育の流れがあってもよいと云う提言である。「大人の都合と子どもの未来」という提言には、「既存」の研究・教育を問い直す刺激があった。他のパネリストの先生方の提起ももちろん刺激的であったが、今朝は紙幅の関係で主旨のみ記すことでお赦し願いたい。
河添房江先生の「動画作成(学生)実践」はコンテクストを生み出し
吉野誠先生の丹念な授業実践から「親しむ」には「批判」も必要と
萩野敦子先生の現代社会の課題も読める定番外教材の提案も
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研究者教員としての基本姿勢
2020-03-29
この非常時にこそ露見するもの権力は如何に使用するか?
良き教育は良き研究への自覚から
このような日常性を失った世情の中で、様々な社会的な物事の「正体」が露見して来ているように思う。政治は国民に対して「しっかりやる」という抽象的な立場において物事を「要請」し、最終的に各自の判断に委ねる。発せられる様々な政治側からのメッセージは一方的で、「国民の声」からは乖離した政策や感覚が示されることも少なくない。ましてや3.11以降の社会的な情報の信頼性の揺らぎが、ここに来てさらに拍車をかけて瓦解しているように思うのは「穿った見方」なのだろうか。権力を持った側が自らの立場を利用して、義務がある受容者側に物事を押し付ける構造。政治のみならず社会構造の中において、小中高大を問わない学校種の中で「教員」たる者が決して陥ってはならない基本的な意識であろう。
研究者として教育者として、如何にあるべきか?といった立場が二項対立で語られることがよくある。だがこの二者は、異なる立場のものなのであろうか?研究者として「仮説」を立て「持論」を持つのは原点でもあろう。だがその検証において絶対はなく、常に自らなるべく大きな規模の学会に身を置き、批評・批判の対象にあることを忘れてはならないはずだ。この検証と批評批判を受ける過程を避けてしまうと、それは単なる「思い込み」以外の何物でもない。あくまで研究者としての自らの考え方は、相対的な研究全般の中に置かれていることを強く自覚すべきである。この自覚があれば学生に対する際の中立公平や「持論」の押し付けが、如何に卑劣なことかが自明であるはずだ。「教育」は実は「良き研究」に支えられている。それは「自らが学ぶ」姿勢に妥協しない「研究」に向き合っていることを前提に成り立つのである。
究極の選択で何を「露見」するか?
政治家や研究者が陥りやすき過ちのある
面と向き合ったものを敬愛せよ
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専門家はいかに社会で生きるか
2020-02-19
「専門家に聞きました」報道でそのように呼ばれたことが
社会で生きて働く「専門」であるべきだが
一昨年のことであったか、「読書の秋特集」で地元TV局の取材を研究室で受けたことがある。夕方のニュースで放映になって観ると、「読書はなぜ大事か?専門家に聞きました」と紹介されCMを挟み、特集の内容が映し出された。普段からなんとはなしに他者が紹介される際に聞いていたが、己に対して使用されると我が身が「専門家」なのだと改めて自覚した。だが厳密に云うと「読書」のみの専門ではなく、「和歌短歌」を中心として「国語教育」の専門家というのが正確な紹介ではある。それにしても大切なのは、自らのコメントがニュースに流れて、社会で(少なくとも放映される宮崎県内で)生きたものとして働くものであるべきだと襟を正したことだ。研究は「蛸壺」の中にあっても針の先ほどの成果があれば認められる時代とは、大きく異なって来たことを考えさせられた。研究者であり教育者である僕らの仕事においても、社会性が求められるのは紛れもない社会の要請であろう。
新型コロナの国内感染が拡大する中、報道に様々な「専門家」たる医師や研究者たちが出演しコメントしている。その分野に素人である僕らでも、考え方が妥当かどうかあれこれとコメント内容によっては考えさせられる。中には「この専門家の意見を採用すれば現状のような感染拡大にはならかなったのでは」と思わせるものもある。政府の方針や行政において、十分に「専門家」の意見が反映されているのかと甚だ疑問である。翻ってテレビでなら「理屈」として、「言うが易し」なのではないかと思うこともある。それは研究者が往々にして実践を伴わない「空論」を述べやすい傾向にあることを、痛いほど知っている感覚に拠るものだ。大学院修士に在学時に、「発達障害論」の先生が「僕らは教育学に携わりながら、社会の問題にどれほど対応しているのか?」と問題提起したことが忘れられない。その先生は立派な研究者であり現場での実践家でもあり、「専門家」として社会的に生きる存在であることを体現して教えてくれた。行政などといかに対話して社会に貢献していくか?教師を養成している僕らにとっても、「専門家」として待った無しの現実があることを忘れてはなるまい。
「社会性」を持ち「空論」を吐かず
研究者であり実践家であるためには
文学も大学も社会的価値が問われている時代である。
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締切日のさまざまな憂鬱
2019-11-24
「11月31日」ないはずの日付「末日」と解釈していたが
それが誤植とわかる葉書が手元に
原稿締切については、手帳の月別の欄外に赤字で表示し月間計画の上で厚く意識するようにしている。構想から執筆・推敲を経て脱稿するまで、早ければ2週間、長いもので数ヶ月や半年を要するものもある。この逆算や段取りをいかに計画的に実行するかが肝要、と学生などには指導する。だが締切日に対する感覚は、どうしても人ぞれぞれのものがあるのは否めない。食事の折に好きな惣菜を最初に食べるか、最後に食べるか?嫌いな惣菜ならどうか?などと早く片付ける派と最後まで温存派は、「好きだから早く」というのと「嫌いだから早く」、「じっくりやりたいから遅く」と「なかなか手がつかずに遅く」など、複雑な心境が渦巻くものである。
週末に一葉のハガキをいただき、衝撃の内容が記されていた。今月末と認識していた締切日が、「11月3日」だと記されて「原稿を大至急」と言うのである。原稿依頼の書面には「11月31日」となっていておかしいとは思っていたが、そのまま「末日締切」と解釈していた。それが「31」の「1」の方が「0」でなく、不必要な誤植であったのだ。しかも曜日も「(月)」となっていたので、「3日」を匂わすヒントにもならなかった。偶々この連休は何の予定もなく時間があったので、慌てて原稿を仕上げに追われることになった。既に「真実の締切日」が過ぎてしまっていることへの呵責の念とともに、大変重要な「締切日」を依頼書において誤植があることへのあり得ないだろうという思いが心の中で渦巻いている。
憂鬱ではあるが締切日があればこそ
逆算のスケールをさらに伸ばしておくべき
人生はあらゆることが学びであると思いたい。
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九州で文学に生きること
2019-01-15
古典研究をもってして現代に何を語りかけるか?
あらためて自らの立ち位置をさぐる宵の口
若山牧水を始め明治時代に文学を志した者は、地方から東京を目指した。牧水が大学で知り合った北原白秋も九州は柳川の出身。九州に限らなければ、牧水と懇意であった石川啄木などは盛岡から東京へと向かった。新たな時代に西洋化近代化を目指した日本において、やはり文化の達成を高次元で叶えるには東京での活動が必須であったろう。だが果たして現在はどうであろうか?この6年間に宮崎で研究活動をしてきて、様々な通信網と配送システムの発達などによってほとんど困ることはない。研究学会などの用件で月に1度ほどは東京を目指しているからといえばそれまでだが、明治とは明らかに違い九州で活動することがむしろ貴重にさえ思うことがある。なぜいま九州なのか?そんなことを今一度、深く考える必要がありそうだ。
今回の上京でいくつかの貴重な機会が得られ、あらためて自らの研究の立ち位置を考え直している。国文学分野で築き上げてきた業績、加えて近現代短歌への評論、さらには国語教育の実績、これらをいかに配合し自分しかできない研究をこれからの5年間ほどで築き上げたいと思う。その配合具合において助言をいただける貴重な関係は、まさに九州においてこそ得られたものである。無条件に文学者が東京を目指した明治とは反対に、「東京に住まない」という選択肢に大きな意義があるように思う。もちろんそれは、簡単にはわかるものではない。「九州に住んでこそわかる」という境地まで、まだまだ達していない。だからこそ、九州の地にこだわり九州の地を愛して、自らの出身地である東京を逆照射する視点も必要ではないか。実に深い酔い語りの中に、多くのヒントが隠されていたのだ。
なぜこの宮崎の地から
牧水のような歌人が生まれたのか?
古典和歌まで通底する大きな問題が潜んでいる。
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