「100万年の幸せ」ー夢は小さな友情から

2017-10-02
「ちびまる子ちゃんSP」桑田さん登場
文化祭ステージで歌う勇気のない高校生が・・・
「100万年の幸せ」のエンヂングは聞き納めに

宮崎は民放2局であるが、日曜日の6時から7時までは全国ネット通りの番組放映。この日の「ちびまる子ちゃん」はスペシャル1時間版で、話の内に高校生の桑田佳祐さんが登場した。まる子が級友で大金持ちの「花輪くん」の鎌倉の別荘の行く際に、烏帽子岩が見える茅ヶ崎の海岸でギターの練習をする桑田青年に出逢う。まる子たちは会話をするうちに、明日が高校の文化祭でバンド出演するのでギター練習をしているのだと知る。だがそこへ桑田青年の友人が慌ててやって来て、メンバーのボーカルが盲腸で緊急手術をしていると知らせる。慌ててまる子たちともども病院に行くと、ボーカルの友人は「(明日のステージでは)お前が作った歌なんだからお前が歌って欲しい」と桑田青年に告げる。だが、桑田青年は文化祭ステージで歌う勇気がどうしても湧かないでいる。

翌日、鎌倉でランチを済ませたまる子たちは、帰り道に茅ヶ崎の高校文化祭でステージを観ようということになる。湘南の道路は渋滞し間際になったが桑田青年のステージに間に合う。結局はボーカルなしの演奏をしているバンドに、観客はシラケ気味。そこへまる子たち一行が到着すると、俄然桑田青年に勇気が湧いて「勝手にシンドバッド」を熱唱し始める。会場は大盛り上がりとなり、ボーカルメンバーを欠きながらもバンド出演は大成功に終わる。筋書きに原作があるか、桑田さんの原体験があるかは確かめていないが、40年にわたって日本の音楽界を席巻して来た桑田さんであっても、小さな高校文化祭のステージの夢から始まっている、というモチーフに心を打たれるものがあった。ましてや最初は誰しも、勇気も自信もない存在なのである。だがまる子は、そんな小さな夢を励ますために、桑田青年との交流にひとかたならぬこだわりを見せる。茅ヶ崎海岸の友情は、あまりにも美しい。

早速、声優さんらに感激の報告メールを
すると「(感激してくれたことに)こちらこそ感激です」の返信
僕自身も友情が深いことを確認する秋の夜であった。


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凄いぞ!「若い広場」

2017-07-25
朝ドラ用アレンジ
ちょうど今の筋書きに重なり
最初に聞いて涙にくれる・・・

朝ドラ「ひよっこ」が。月曜から深い涙を誘う内容であった。恵まれた家庭に育った恋人・島谷は、親が用意する縁談を断るために「家族と縁を切る」と言い出し、貧乏になっても大丈夫だと主人公・みね子に打ち明ける。困難を超えて自分への愛の道を選択したことに嬉しさを覚えながらも、「貧乏で大丈夫などと簡単に言えるものではない」と、自らが経験した農村で生き抜くことの苦労を胸にみね子は次のように島谷に告げる、「親不孝な人は嫌いです」と。この台詞を聞いた時、4月からの様々な場面が甦り、この朝ドラにも大きな山場が訪れていることを実感した。昭和39年前後の東京五輪へ向かう社会状況下、地方と東京の格差は拡大し、地方は地方で貧富の差が拡大するという、ある意味の「分断」が列島を支配し始めた頃である。だがしかし、この場面のみね子の台詞に表現されていたように、片寄せあう家族とか仲間たちという人の温かさが健在であることで、自らの信条を貫く生き方も可能だったのであろう。

奇しくも、主題歌である桑田佳祐さんの「若い広場」が、収録される新アルバム発売(8月23日)前ながらWeb上で1曲のみ「先行配信」されていた。先日、ダウンロードして早速に聞いてみたところ、最初でその歌詞の奥深さに涙に暮れてしまった。まずは朝ドラの冒頭にかかるのは、それ用のアレンジで、1番・2番・3番の歌詞がダイジェスト的に組み合わされている。曲は全体が青春の恋の物語という筋があり、誰もが体験するような淡く切なくも熱い恋を連想させる。多くの方が朝ドラで曲を聞いていて冒頭の「愛の言葉を・・」に続く部分の歌詞がわからないというが、そこは女性の名前。先日の公開講座でその話をすると、ある受講者の方からそれは津村謙の「上海帰りのリル」ではないかと教わった。確かに戦後まもない昭和26年当時に、このような曲が流行している。桑田さんの曲にはよく女性の名前が歌詞となるが、これもその一つなのである。小欄で、これ以上歌詞の「ネタバレ」は避けるが、昭和30年代を思い出すような曲調と歌詞とともに蘇る恋物語は、深い感激なくして聞けないのである。

10月からライブツアーも予定されている
もしチケットが入手できて生で聴くことができたなら
東京五輪を跨って様々な意味で時代が交錯しているのである。

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優しさに泣けるのはふとした未来さ

2017-03-03
「寂しくて口ずさむ歌がある
 名も知らぬ歌だけど
 希望に胸がなる」(桑田佳祐「JOURNEY」より)

いつしか弥生三月を迎えている。今年は日々を噛み締めているせいか、睦月・如月の二ヶ月間も長く感じられた。日の出は早く日の入りは遅くなり、思わず時計を見直してしまう時もある。そんな三月は出逢いと別れの季節、地元のニュースが県立高校の卒業式を報じて涙する高校生の姿にまた心を打たれたりもする。〈学校〉で〈教員〉をしていて、どんな時よりも胸に沁みるのはこの三月である。今まで当たり前のように〈教室〉にいた生徒たちが、そこから旅立つ。卒業式を終えた翌日に空虚な教室に行くと、聊かの後悔と達成感の入り混じった体験しなければ決してわからない感慨に浸ることができる。そんな時節のせいか、冒頭に引いた桑田さんの曲を無性に聴きたくなり、車の中で流しているとまた自ずと涙が流れ、停車してしばらく運転を中断することになった。

この曲は、1994年「孤独の太陽」というソロアルバムの最後を飾る名曲。具体的な「場面」や「男女関係」を語る歌詞ではなく、題名が示すように「人生は旅」だという思いが綴られており、如何様にもその時の自分に合わせて解釈できるところが、名曲たる所以である。年末年始に行った年越しライブにおいても中盤の聴かせどころでセットリストに入っていて、新曲や著名な曲ではなく「孤独の太陽」から採られた、俄かファンなら「名も知らぬ歌」が連なるあたりで、実に脳裏に焼きついた1曲である。なぜって、1994年から自分の20年間がどうしても蘇ってきて、桑田さんの歌声と重なり合ったからである。それ以来二ヶ月間、運転しながらかなりの頻度でこの曲を聴いているわけである。その歌詞の一部をここに掲げておく。

「我れ行く処(え)に あてはなく
 人も岐れゆく 遥かな道
 旅立つ身を送る時
 帰りくる駅はなぜに見えない」

「雲行く間に 季節(とき)は過ぎ
 いつしか芽生えしは 生命(いのち)の影
 母なる陽が沈む時
 花を染めたのは雨の色かな」

「遠い過去だと涙の跡がそう言っている
 またひとつ夜が明けて
 嗚呼 何処へと”Good-bye Journey”」
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同じ空の青さに

2017-01-15
「魅せられながら 生きている」
(桑田佳祐さん「君への手紙」の一節から)
共通した感性を見つけるためには・・・

感性が合うとは何だろうか?同じ「青い」ものでもどのような「青さ」に感じて、それを魅力的に感じるや否や。それは理屈では説明できない調律や擦り合わせ(セッション)を繰り返してこそ、ようやく合致しているとわかることが多い。いま「合致」と書いたが、むしろその途中経過における対話的な交流によって創造的に生み出される、といった方が適切なのかもしれない。

個の感性を人に伝えるのは難しい。「短歌」というジャンルは、ことばを紡いで紡いで、個の「発見」を三十一文字(みそひともじ)に込めて他者に伝えようとすることに根源的な力を注ぐ千三百年間にわたる営為である。それは楽曲としての「歌」における歌詞に魅了されることと、どのような点で違いが見出せるかなどと考えることもある。冒頭に引用した桑田佳祐さんの曲は、紛れもなく彼のレパートリーの中でも「名曲」に位置づけられるだろう。ライブで聴いた時、自然と涙が流れ胸に深く刻まれた曲となった。その時の「感性」で僕は、「今」を生きている。

「夢の欠片集めて」
「手紙」という感性の大切さ
「短歌」もまた同じだと強く意識し、またことばを紡ぐ
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桑田さんとあめましておめでとう2017

2017-01-01

ヨシ子さんへの手紙
ー悪戯な年の瀬ー
桑田佳祐年越ライブ2016

年越しには、誰しもが特別な感情を持つであろう。幼少の頃からそのように育てられたせいか、はてまた『古今和歌集』などを研究対象にしたせいか、僕の場合は特に「年越し」へ深い思い入れがある。次年度へ向けて明るい光を求めたいと思っていた頃に、標題の桑田さんのライブチケットの当選が報された。抽選へのエントリーは30日と31日、まあ30日が当選すればいいかと思いきや、30日はハズレで競争率の高いであろう「年越し」が当選してしまった。誠に人生というのは思い込みでは判断できない機微が潜んでいるものだ。きっと2017年は開運の年になりそうな予感となった。

大晦日の宵の口、通常であれば紅白にでも興じる時間帯である。横浜アリーナへと早々に出向き8時の開場を待った。開演は当初9時半と告知されていたが、「演出の都合上」という理由で9時45分が場内アナウンスで告げられた。元日午前0時の直前にある曲を歌い終わり、45秒からのカウントダウンを開始しなければならない、緻密な計算の上に「年越しライブ」は成り立っている。僕らの職業でも講義や研究発表などにおいて時間的な「演出」が必要な場合も多いが、殊に大学教員はそれに対してルーズな感覚を持つ向きが目立つように思われる。桑田さんもMCトークの展開も巧妙であるが、こうした秒単位の「演出」ができてこそプロと言えるのであろう。

チケットの転売・高騰を避けるために座席指定は入場時に「本人確認」を済ませるまで分からない。広い横浜アリーナのどの席であろうかと期待と不安で座席指定券を受け取ると「アリーナ席」であった。他の会場のアリーナならば中心の席であるが、此処では「センター」と呼ばれる場所が本当の正面の中心である。だがしかし指定された座席に行ってみると驚いたことに、「バックステージ」であった。ステージのすぐ後ろでダンサーたちが踊る通路のすぐ後ろ、歌う桑田さんを後ろから観る位置である。聊か複雑な心境であったが、それにしても桑田さんやバックバンドやらにこれほど近い位置は他にない。ライブ中の「白い恋人たち」を歌う際には、ほぼ5mの位置に桑田さんが駆け上がってきて、手を振り返せば眼が合うような感覚を持ったほどであった。僕の人生で「最接近」を経験し、新年を寿ぐ時間を過ごすことができた。

人はなぜ感涙するのだろうか?2016年もあと30分ほどになった23時30分頃から演奏された「君への手紙」を生で聴いていると、自然と涙が溢れつつ僕は歌詞を口ずさみ続けた。「愛しBrother, sister, mother, and father 時計の針を止めて」のサビの部分に来ると、自らの親兄弟の顔が脳裏に浮かび、そして人生を深く考えさせるような回路になってしまったのであろう。文学でもそうであるが、「読みを深める」ということは「自己を起ち上げる」ということである。「己のいま」と「君への手紙」がリンクしたとき、人の感情は豊かな「涙」を催すことができる。昨年はボブ・デュラン氏がノーベル文学賞を受賞したが、「歌詞」の文学性を考えるとこの曲は桑田さんの新たなる名曲の一つになるだろう。このライブ感、この表現力、そしてことばの巧みな選択、伝える力、どれをとっても文学や国語教育研究にも参考になる桑田さんのパフォーマンスに酔い痴れる「あけましておめでとう」となった。

人生でも価値ある「年越し」を経験した。
今年はどんな歌が詠めるだろうか。

10月に開催を担当する和歌文学会も含めて、
「歌」を深く追究する1年を年頭の抱負とする。
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「君への手紙」届きました

2016-11-25
「空を眺め佇む
 羽のない鳥がいる
 水のない川を行く
 櫓のない船を漕ぐ」(桑田佳祐「君への手紙」歌詞より)

11月23日桑田さんのニューシングルがリリースされた。以前より予約注文しておいたので、早速この日にその代物は僕の手元に届いた。封書状のパッケージで表面に手書き文字で「君への手紙 桑田佳祐」とプリントされている。冷静に考えれば「宛名」欄に差出人の名前が書いてあるのはおかしなことだが、切手や消印まで施されたその現実感あるパッケージには、心の琴線が高鳴った。まさに桑田さんが詞に曲に込めてメッセージをくれたわけであり、「手紙」とは元来こうした期待感を持って開封するものなのだといった感慨である。電子メール全盛の世の中にあって、やはりこの「手書き書簡」(この場合は「手書き」プリントではあるが)の趣というのを見直させられる好機である。実際にこれもプリントながら桑田さん自筆の「手紙」が、横書き便箋にして3枚分、歌詞カードとともに封入されている。その内容もさることながら、文字の個性と温かさを鑑みるに、桑田さんがまさに歌詞としての「詩」を紡ぎ出す存在であることが感じられる。

その自筆の「手紙」に込められた「曲への思い」「近況」、そして来年への「公約」を読むに、文体の丁寧さとともに、時折「くすぐり」や「悪戯」の入る粋な内容に、またまた心の共鳴が激しくなるのである。その内容については、やはりこの「手紙」を貰った人でなければ「読めない」ということにして、ここでは詳らかにするのは控えよう。たとえそれが企画者の「商魂」であったとしても、少なくとも桑田さんがこうして1ファンを「読み手」「聞き手」として意識して曲作りをしている感性を、素直に信奉したいと思うゆえである。僕の人生そのものが、桑田さんの曲とともに歩んできたという思いがある。高校生の頃からそうであったが、その歌詞に読める「詩心」と曲に聞き取れる「郷愁」のような感覚は、多彩な曲となって僕の人生の随所で、その峠道を越える際に大きな励ましとなって来た。高校生頃にTV番組で桑田さんが例によって「馬鹿やって」歌っている姿が映し出されると、僕の父親などは「何なんだこいつ!何言ってっかわからねぇ」などと言って批判していたものだが、今回のシングルの2曲目に収められた「悪戯されて」に関してはぜひとも僕の親”世代”の人たちにも聞いて欲しい。「昭和歌謡」を原点とした桑田佳祐の音楽が、存分に発揮された作品に仕上がっている。

「悔やむことも人生さ
 立ち止まることもいい
 振り向けば道がある」

「いとし Brother,sisiter,mother,&father
時計の針を止めて
  サヨナラと出逢いの繰り返し」(桑田佳祐「君への手紙」歌詞より)
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ことばと調べの奥深い関係

2016-07-06
聞く人に伝わる声
あるフレーズが耳に残るのはなぜか?
歌詞・曲調・ことば・調べ・字余りのことなど・・・

先月29日に発売された、桑田佳祐のソロ(サザンではない)による新譜を聴いている。4曲の新曲が入っているが、各曲の趣も違いそれぞれに楽しめる仕上がりである。個々の曲への感想・批評なども記したいところであるが、まず本日は聴いて約1週間の僕なりの思いを記したいと思う。もしかするとあまり桑田のファンでない方が聞けば、「またか」といった印象をどの曲にも持つのかもしれない。だがファンからすると「これぞ桑田だ」という幾つかのバリエーションの基盤の上で、4曲それぞれの展開にたまらない興奮を覚えるのである。ファンになるとはこういうことで、反転して創作者側にすれば、一貫して変わらない「ことばと調べ」を持ちながら、時勢や年代に合わせた新しさと一般化した普遍性を持つ必要があるのだと思われる。特に僕の場合は、ある特定の節回しとともに、「しみじみと郷愁を覚える」ごとき曲調を、常に期待通りに桑田の楽曲は兼ね備えていると言えるのである。

一例を挙げるならば、普通ならどう考えてもその調べの長さに入り切らないと思われることばを、桑田は見事な均衡を保って曲の中に「流し込んで」いる。いわゆる短歌でいうところの、「字余り」が炸裂する部分があるということだ。それは一般の方からすれば、単なる「早口言葉」のように聞こえ、また「何を言っているかわからない」と蔑む可能性さえ高いと思われる。だがその一般的には「不安定」と思われるような部分にこそ、桑田の真骨頂が見出せると僕は思うのである。短歌でも「定型」が意識されるから「字余り」が浮き立ち、それを作為的にできたらどれだけよろしかろうと感じることがある。むしろ仕方ない「字余り」「字足らず」には、足を引っ張られてしまうのが一般的であるように思う。このように発想することそのものが歌を「文字」中心主義で考えているのではないかと、気付かさせられる。話を桑田佳祐に戻すと、彼の五感においては「日本語」が、多様な「外国語」の一種のように聴こえることがあり、曲を繰り返し聴くことでようやく気付くことのできる歌詞の多様性を味わうまでには、ファンとしてもそれなりの熟練が必要ではないかと考えている。それでいてふと挿入された文語調の歌詞に、思わず日本語そのものの奥行きさえも見出せる。さらには、「心に響く歌」が多かったと評される「昭和歌謡」の王道を感じさせる厚みが、ことばにならない「郷愁」を帯びて僕らの五感を刺激するのである。

ある敬愛する歌人の歌集を夢中に読んでいるが
どうやら桑田佳佑を聴くときと重なる感興に至る
ことばと調べとの無限な奥深い関係を旅しているような思いである。
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グルーヴとことばの多様性

2016-06-24
「チキどん(チキどん)♫〜」
「ノリがいい」などと人は云う
桑田佳祐ニューシングル発売直前にして

発売を約1週間後に控えて、桑田佳祐が新たな音楽を披露している。この日はNHK「SONGS」が桑田を取り上げ、ニューシングルに入っている楽曲がスタジオ演奏で展開された。今回の中心的な曲は「よし子さん」。嘗て「昭和の爆笑王」と呼ばれた故・林家三平師匠のネタをモチーフにして、独特の「グルーヴ」を展開する楽曲となっている。番組内でも音楽評論家が語っていたが、この「グルーヴ」という語が気になった。『イミダス2016』によれば、「演奏の奥にあるリズムやサウンドの色合い」とあり、所謂「ノリ(乗り)という言葉と重なる部分が多い。」と解説されている。冒頭に記した「チキどん」の繰り返しの「ノリ」は、まさにこの曲が昭和歌謡と通底しているような奥行きと色合いを感じさせる。

三平師匠のネタは概ね、「好きです、好きです、よし子さん!こっち向いて・・・キスさせていいじゃないのさ、なぜ逃げるのさ〜うっ!よし子さん〜!」といったフレーズで、寄席などでは「好きです」を連呼しているうちに、座席のおばさまなどが「よし子さん」を先走って言ってしまい、「まだ、言わないでよね」などと客にくすぐりを入れながら展開し、爆笑の渦に呑まれるといったものである。そこにはまさに「昭和的」な対話と笑いの機微が看て取れるような気がする。僕が中高生の折にテレビで桑田佳祐が唄っていると、父などが「何を言っているのかわからない?」と疑問を投げ掛けることがよくあった。あれから長い月日が経過したが、未だ桑田佳祐の音楽は進化し、新たなことばの多様性を展開し僕らに衝撃を与えてくれる。「ハキハキ(明確に)喋る」だけをよしとしてきた日本の(教育的)言語環境に革新をもたらし、むしろ日本語の音韻と意味の微妙な関係性の境地を、桑田佳祐は常に僕らに体感させてくれる。そんな期待を持って、来週のシングル発売を待ちたい。

還暦になりなむとする桑田佳祐の「グルーヴ」
邁進する時代であった昭和の歌謡的「ノリ」
歌詞と曲との適合性、得意の「字余り」、日本語の多様性と可能性の示唆でもある。
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この世に生かされてーサザンLIVEの共感性

2015-07-05
「ここにいるのは
私一人じゃない
過去と未来が繋いだこの命」(サザンオールスターズ「平和の鐘が鳴る」より)

待望のサザンオールスターズLIVEを満喫した。3ヶ月ほど前にチケットが当選し、この日を今か今かと待ちわびていた。その間に、新譜「葡萄」の曲を繰り返し聴きながら、様々な己の思いをその曲や歌詞に沿って起動させてきた。「文学」を読むことがそのようであるように、楽曲というものも曲調に込められた郷愁や躍動、そして歌詞に込められた人としての思いを、一人の自己として「今此処」にしかない感情の受け皿に享受するかが大切なのだと思う。その個々の思いというものは、みんなそれぞれが違ってよいのであり、一様な解釈が強制されるわけではない。これは極当たり前のことであるのだが、あらためてそれを再認識する機会となった。今回のLIVEで僕は、桑田佳祐という人間の心の豊かさ、常に希望をもって前進しようとする生き方から、絶大なる勇気をもらった。

「歌うことしかない人生だけど、イカす仲間が奏でるは愛の歌」(サザンオールスターズ「はっぴいえんど」)より。まさに桑田佳祐は、そのものなのだ。「歌うことしかない人生」において、命を賭して「歌うたい」をやっているのだとLIVEから実感した。「アラ還」であると自ら称しながら、そのパワフルで繊細なステージ。ファンへの愛情が深い共感性となって、ドーム一杯に拡大して行く。いやドームを飛び出して地域全体に、更には海の向こうまで届かんとするような「思い」が其処にある。「アカン!」で歌い始める「Missing persons」に刻まれた「訴え」は、「絶望の海を越えた」先まで届いたであろうか。そんな切実な思いをもって共感した僕は、冒頭に記した歌詞の「平和の鐘が鳴る」とともに、心から感涙してしまう一幕となった。ことばは人に届く、そして音楽は世界を変える。そんな文化の力さえも感じさせる、桑田佳祐のステージに僕自身も、この荒んだ社会にあって、決して諦めずに希望の灯火を見つめて前進すべきではないかと、あらためて己の「気」を立て直した。

「色々とね、社会も変わって行きますけれども・・・」
されど桑田佳祐は常に「希望」を歌にし続けている
「またこうした逢瀬を!」「乗り越えなさい!」と「今此処」に僕らは誓う。
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「平和の鐘が鳴る」響くのは・・・

2015-04-23
「ここにいるのは
 私独りじゃない
 過去と未来が
 繋いだこの命」(サザンオールスターズ「平和の鐘が鳴る」より」

国語の教師として、「古典」をなぜ学ぶのかという生徒たちの疑問に対して、明確な答えを持つべきだと常々考えて来た。それは大学の学生たちに対しても同じで、年度始めの授業で「国語の嫌いな点」をアンケート調査すると、「古典が嫌いだった」という答えがかなり多くの学生たちの回答に見られる。「今は使用しない昔の言葉・文章なんかいらない(役に立たない)」という考えを如何に説得するかである。その際に僕はよく「君たちの命を考えてみよう」と問い掛ける。

「君には父と母がいて、その双方にもまた父(祖父)と母(祖母)がいて、そのまた・・・」と永遠に続いて行く。もちろん時代が変われば人も変わるのだが、過去の命があってこそ今現在「ここにいるのは」と自覚できる己が存在できる。そしてまた同じ図式で、未来へ命を繋ぐ。その個々の「ここにいる」人々が、言語を使用しその文化を継承して来たのだ。だから「古典」を学ぶのは、「今の自分」の存在する意味を学ぶことなのである。概ね、このような説明を試みるのである。

この「古典」は、そのまま「平和」に置き換えられるのではないだろうか。どんなに欲に眼が眩んだ人間でも、「平和」を願わない者はいないはずだ(と性善説を考えたい)。むしろこう言った方が適切だろうか、自分だけの「平和」を願うからこそ、戦乱に陥るという矛盾があるのかもしれない。自己の弱さを護るがために、武力を誇示するという保身な発想が「平和」の均衡を崩すのである。記憶ができるからこそ忘却もする人間という動物は、「平和」が「いまここ」にあると、その価値の重要性が過去からの蓄積により構築されていることを愚かにも忘れ去ってしまう。過去には「平和」を願いたくても願えない時代があり、訴えられない悲痛を味わいながら生きていた人々がいる。それは僕たちにとって決して他者なのではなく、僕たちのDNAの中に確実に引き継がれている筈なのだ。それゆえに過去の反省を、忘れることなく引き継ぐ必要があり、そのためにも「ことば」を絶やさずに語ることが求められるのである。

戦後70年
消えない過去に向き合うのは「繋いだこの命」を考えること
サザンの曲が柔らかくも声高に「平和」を希求してくれているのであるが・・・
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